新年あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。



皆様は初詣に参られましたでしょうか?


初詣に限りませんが、神社に行ってお祈りするときには、自分の中で決めているルールが2つあります。

それは、自分の未来に「あれして欲しい」「こうして欲しい」と行った自分の願望を言わないことで、神様にお祈りするのは、過去にあった感謝することで、もしも、神様にお願いする際には、自分以外の人のことをお祈りする、この2点を肝に銘じています。


そもそも、そういう考えになったのは、お賽銭をして神様にお願いごとを頼むということは、神様を買収しているように感じてしまいやましい気持ちになってしまうからです(笑)

それに、神様ともあろう方が、自分の望みを見抜けないわけがないと思うので、「あれしてください」「これしてください」という利己の欲望をわざわざ言う人間を、神様は卑しい人間と思ってしまうのではないかと感じるからです。

自分が神様だったら、「あれしてください」「これしてください」という要求をしてくる人間よりも、昨年1年間への感謝の気持ちを述べたり、他人のためにお祈りしている人の希望をかなえてあげたいのではないかというよこしまな考えをする自分もいます(笑)


神社というものは、願いをかなえてくれる場所というよりも、参拝者を清い気持ちにさせてくれるだけで、十分ありがたい場所のように思います。

「神様にお願いごとをしないのは、『どうせお祈りしてもかなうはずない』と心のどこかで神様のことを信用してないからじゃないか!?」と言われたことがありますが、自分の本心は自分でもよくわかりません。

神様がいるとすれば、神様が願いをかなえてあげたいと思えるような生き方や考え方をしなければ、神様だって無条件で願い事をかなえることは、子供に何でも買ってあげて子供を甘やかす親のようなもので、決して神様はそんなことをしないと思うからです。


神様の話はいろいろと難しいのでこれぐらいにしておきます。

今年もよろしくお願いいたします。

久しぶりにブログを見たら、「いいね!」の機能が入っていた。


いつの間にアメーバーブログが、フェースブックみたいになったのだろうか?


どうやって「いいね!」の中を見るのだろうと思ってクリックしたら、自分で自分に「いいね!」をつけてしまっていた。


これではバカみたいなので、「いいね!」を消す方法を探したが、「いいね!」を消すことは機能的にはできないみたいだった。



私は、使い方がわからないに違いないという先入観から、スマホも怖くて使っていない。


自分の子供たちを見ていると、新しい機械でも失敗を恐れず、というか失敗を楽しみながら機械を使って、すぐに覚えてしまう姿勢が羨ましい。


仕事に関しては、新しいことに挑戦することは全く苦にならないし、楽しみでもあるが、機械に関しては、とにかく苦手意識が強いのは困ったものだ。


長嶋元監督や島田紳助がDVDの録画ができない(しない?)というのを聞いて、「なんで??」と感じていたこともあるが、自分も同じような機械音痴になってしまっているのに気付く今日この頃だ。


今後、長く生きていけばいくほど、どんどん新しいメカから遠くなっていく自分が怖くなってくる。

多くの人間が成長したいと思っています。

でも自分なりの成長の定義を持っている人間はあまりに少ないような気がします。



学生時代には、勉強したり運動したり頑張ることが成長だ、と教えてこられた流れで、大人になっても「勉強することが成長だ」と思っている人間があまりにも多いのではないだろうか?



そのなかで『勉強=成長』という方程式を信じて、正しい方向に進む人間と間違った方向に進んでいる人間といるような気がしています。

学生時代に、勉強にしろ運動にしろ、「頑張ることが成長だ」ということに異論をはさむつもりはありません。

しかし、学生時代にも、勉強ができたり、運動ができるけど、人間的には尊敬できなかった人間も少なくなかったような気がします。


同じように勉強やスポーツを頑張っているのに、尊敬できる人間と尊敬できない人間は何が違うのかを考えたことがあります。

その答えは「何のために勉強しているか?」「何のために頑張っているのか?」の目的意識の違いのような気がします。



それでは、大人になってからの「勉強」に焦点を当てて考えてみましょう。

同じように勉強していても、勉強する向うに何を見ながら頑張っているかで、成長したり堕落したりするのだと思う。


分かりやすい説明のために、「掃除をする」ことの置き換えてみよう。

私の中では「掃除をする」ことは、成長していくために「勉強をする」ことに勝るとも劣らない行為だと思っています。

しかし、同じように掃除をしていても①「めんどくさいな~」と感じながら、無理やりやらされている人は、「掃除=嫌なこと」という先入観が潜在意識の中にインプットされてしまい、掃除すればするほど、その人の人生は堕落していくように思います。

一方②掃除をしながら、お客様が喜んでくれているイメージをしたり、家族や仲間の役に立ちたいを言う利他の気持ちをもって掃除をしている人は、掃除をすればするほど、利他の気持ちが育まれて、掃除はその人の成長に大きな役割を発揮します。


社会人における勉強も同じようなモノのような気がします。

勉強する向う側に何を見て勉強しているのかで、成長する人と堕落する人に分かれるような気がします。

歯科の場合、臨床にはいかせない「重箱の隅」をつつくようなことを勉強して1か月後には忘れていても、自分は成長している、周りの歯医者よりも優れているという優越感をプンプン匂わせて、患者様やスタッフから鼻持ちならない偉そうな人間だと敬遠されてしまう人間が多いような気がします。



東大出身で鼻持ちならない人間と、東大出身でも腰の低い人間の違いは、東大を出ていることしか自分を肯定できることがない人間は、「東大出身」ということを鼻にかけて、逆に周りからは敬遠されてしまうのだろうが、自分が社会のために役立つ人間になる過程でたまたま東大を出ている位の感覚で、東大出身以外で自分を肯定できるものを持っている人間は、東大出身であることを自分自身でもほとんど意識していないのではないかと思います。



お金があるかないかも同じことでしょう。

「お金がある」ことを自慢したい人間は、車や装飾品など、自分がお金持ちであることを自慢したい気持ちが前面に出る言動になってしまい、周りからは嫌われてしまうのだろうが、お金は社会のために自分がやりたいことを実現していくための道具でしかない、と思っている人間は、周りがお金持ちであることを称賛したとしても、「誰のこと??」という感じで、自分がお金を持っていることすら忘れているのだと思う。


「勉強=成長」から話がだいぶ逸脱しましたが、「勉強=暗記=成長」の学生時代の流れは100%間違っていると思っています。

これは単なる自己満足の趣味の世界であって、成長しているとは言えません。

野球の知識やAKB48の知識が増えることを成長だという人はいないのと同じレベルです。


私の中では「勉強=考える→気づく→行動する=成長」が正しいと思っています。

本を読んだり、セミナーに出て、何かを暗記して成長したということは絶対にありません。

本を読んだり、セミナーに出て成長するというのは、その後に自分の頭で考えて、何かに気づいて、行動に移して、昨日までの自分にはできなかったことができるようになって初めて成長していると言えるのだと思っています。


成長とは「考える→気づく→行動する」ことであるのであれば、学生時代と違って、掃除することでも成長できますし、子育てをしながらでも成長できます。


1人1人にとって成長の定義が違ってくることもあるので、自分にとっての成長とは何かを真剣に考えることがスタートになるような気がします。

TBSの「金スマ」で曽野綾子さんの特集をしていたのを観ました。



私は彼女の本が好きですし、彼女の考え方にすごく共感しています。

特に、「全てのことは自己責任」という考え方が大好きです。



人間は、何かあるとすぐに他人のせいにしたり、不平不満、グチ、泣き言を言ってしまう弱い生き物だからこそ、考え方の根柢の部分では「すべてのことは自己責任」と考えながら出来事を受け止めて、生きていくことが大切なのだと勧めていらっしゃるように感じます。



不平不満、グチ、泣き言を言っていれば、自分は変わらなくていいので、その瞬間は楽ですが、何も成長がありません。



「他人と過去は変えられない」と言われますが、「悪いのは他人、自分は悪くない」と考えた時点で、その人の思考はストップしてしまいます。

考え方の根柢に「すべてのことは自己責任」と考えて生きてい行けば、不平不満、グチ泣き言を言う頻度も減ってくるのが人間なんだと思います。



彼女の「人間なんて弱くて自分勝手で、卑怯なのが普通」であるけど、それを意識して生きていくことで、「自分は立派で、何も間違っていない」と自信満々に生きていく人よりも謙虚で、人として正しい生き方ができると考えられているのではないかと思います。



ソクラテスは「無知の知」と言って「自分が何も知らないことを自覚する」大切さを説かれましたが、人間は未完成で自分勝手だからこそ、人間の弱さ脆さ汚さを日々自覚することで、逆に強く、正しい生き方に近づけるのではないかと感じます。



「自分は正しい、間違っていない」と信じている人には、どんな助言やヒントも受け入れられないでしょう。

自分は「未熟だ、まだまだ知らないことだらけだ」と思えるからこそ、他人の考えに謙虚に耳を傾けられるのだと思います。




自己否定と自己肯定感、人間否定と人間を信じることは真逆のように感じますが、これらは突き詰めていけば、同じところにたどり着いている気がします。

最悪を受け入れる覚悟が、理想の自分に近づく努力を後押ししてくれる気がします。



すごく微妙なバランスですが、この微妙な違いは本を読んでも身につかないのではないかと思います。

必死に生きて、目いっぱい悩み、自分の頭で考えていくことでしか伝わらないのだと思います。



本で理解できることと経験でしか理解できない大きな溝があるように感じます。



私が理解できていることは、曽野綾子さんの言いたいことの何十分の一のわずかなもののような気がしています。

曽野綾子さんの伝えたいことが理解できるためには、彼女が苦労したり、悩んだり考えたりした苦悩の日々を自分でも同じレベルの体験をしていくことしかないような気がします。 



この歳になってようやく「若い時の苦労は買ってでもしろ」と言われた意味が分かってきました。

もう、決して若くはないですが、何歳になっても苦労は買ってでもする気持ちを持ち続けで生きていきたいです。

人生は選択の連続だろう。



この扉を開けたら、吉と出るか凶と出るか開けてみなければわからない。

しかし、決して、その扉が終わりではない。



例え、凶の扉を開いてしまっても、その後の扉を一つずつ丁寧にあけ続けていれば、吉を開いたのと同じか、それ以上の大吉の扉に当たることもあるような気がする。

扉を開けて、凶だと気づけば誰でも落ち込む。

反対側を開ければよかったと後悔してしまう。

それでも一度開けた扉はやり直せない。



それならば、凶を開けたことを受け入れて、早く気分を切り替えて、次の扉をあけ続けることの方が大切である。

いつまでもあけた扉を後悔し続けても何も始まらない。


もっと最悪なのは、どちらの扉が吉なのかを考えすぎてその場で悩み続けることだろう。

吉か凶かは一瞬の結果であって、永続的なものではない。


大切なことは、凶の扉を恐れないで進み続けることだろう。


もしかしたら、パンドラの箱のような禁断の箱もあるのかもしれないが、それをも恐れないで、扉を開けたら次、開けたら次に進むことだけ考えていきたいものだ。