多くの人間が成長したいと思っています。
でも自分なりの成長の定義を持っている人間はあまりに少ないような気がします。
学生時代には、勉強したり運動したり頑張ることが成長だ、と教えてこられた流れで、大人になっても「勉強することが成長だ」と思っている人間があまりにも多いのではないだろうか?
そのなかで『勉強=成長』という方程式を信じて、正しい方向に進む人間と間違った方向に進んでいる人間といるような気がしています。
学生時代に、勉強にしろ運動にしろ、「頑張ることが成長だ」ということに異論をはさむつもりはありません。
しかし、学生時代にも、勉強ができたり、運動ができるけど、人間的には尊敬できなかった人間も少なくなかったような気がします。
同じように勉強やスポーツを頑張っているのに、尊敬できる人間と尊敬できない人間は何が違うのかを考えたことがあります。
その答えは「何のために勉強しているか?」「何のために頑張っているのか?」の目的意識の違いのような気がします。
それでは、大人になってからの「勉強」に焦点を当てて考えてみましょう。
同じように勉強していても、勉強する向うに何を見ながら頑張っているかで、成長したり堕落したりするのだと思う。
分かりやすい説明のために、「掃除をする」ことの置き換えてみよう。
私の中では「掃除をする」ことは、成長していくために「勉強をする」ことに勝るとも劣らない行為だと思っています。
しかし、同じように掃除をしていても①「めんどくさいな~」と感じながら、無理やりやらされている人は、「掃除=嫌なこと」という先入観が潜在意識の中にインプットされてしまい、掃除すればするほど、その人の人生は堕落していくように思います。
一方②掃除をしながら、お客様が喜んでくれているイメージをしたり、家族や仲間の役に立ちたいを言う利他の気持ちをもって掃除をしている人は、掃除をすればするほど、利他の気持ちが育まれて、掃除はその人の成長に大きな役割を発揮します。
社会人における勉強も同じようなモノのような気がします。
勉強する向う側に何を見て勉強しているのかで、成長する人と堕落する人に分かれるような気がします。
歯科の場合、臨床にはいかせない「重箱の隅」をつつくようなことを勉強して1か月後には忘れていても、自分は成長している、周りの歯医者よりも優れているという優越感をプンプン匂わせて、患者様やスタッフから鼻持ちならない偉そうな人間だと敬遠されてしまう人間が多いような気がします。
東大出身で鼻持ちならない人間と、東大出身でも腰の低い人間の違いは、東大を出ていることしか自分を肯定できることがない人間は、「東大出身」ということを鼻にかけて、逆に周りからは敬遠されてしまうのだろうが、自分が社会のために役立つ人間になる過程でたまたま東大を出ている位の感覚で、東大出身以外で自分を肯定できるものを持っている人間は、東大出身であることを自分自身でもほとんど意識していないのではないかと思います。
お金があるかないかも同じことでしょう。
「お金がある」ことを自慢したい人間は、車や装飾品など、自分がお金持ちであることを自慢したい気持ちが前面に出る言動になってしまい、周りからは嫌われてしまうのだろうが、お金は社会のために自分がやりたいことを実現していくための道具でしかない、と思っている人間は、周りがお金持ちであることを称賛したとしても、「誰のこと??」という感じで、自分がお金を持っていることすら忘れているのだと思う。
「勉強=成長」から話がだいぶ逸脱しましたが、「勉強=暗記=成長」の学生時代の流れは100%間違っていると思っています。
これは単なる自己満足の趣味の世界であって、成長しているとは言えません。
野球の知識やAKB48の知識が増えることを成長だという人はいないのと同じレベルです。
私の中では「勉強=考える→気づく→行動する=成長」が正しいと思っています。
本を読んだり、セミナーに出て、何かを暗記して成長したということは絶対にありません。
本を読んだり、セミナーに出て成長するというのは、その後に自分の頭で考えて、何かに気づいて、行動に移して、昨日までの自分にはできなかったことができるようになって初めて成長していると言えるのだと思っています。
成長とは「考える→気づく→行動する」ことであるのであれば、学生時代と違って、掃除することでも成長できますし、子育てをしながらでも成長できます。
1人1人にとって成長の定義が違ってくることもあるので、自分にとっての成長とは何かを真剣に考えることがスタートになるような気がします。