社員も30名近くになり、伝える難しさを日々感じています。


物事は、状況によって結論が違ってきます。

状況によっては、真逆のことを言わなければならなくなります。


うちには小学生の娘が2人いますが、勉強はした方がいいとは思っていますが、小学生時代には、できるだけ、頭で覚える勉強よりも、心で感じる体験をして欲しいとも思っています。

しかし、宿題をしていなければ、当然「宿題をしなさい」「勉強をしなさい」と言わなければなりません。テレビばかりを見ていれば、「本でも読みなさい」と言っていたのが、夜、本ばかり読んでいれば、「本ばかり読んでいないで、早く寝なさい」と言ってしまいます。


大人にとっては当たり前のことも、子供の視点から見ると、親が言っている内容が矛盾しているように感じているのではないかと思ってしまいます。


職場においても、夢を持つことの大切さを発言する一方、目の前のことを1つずつこなしていく大切さを言ったり、現状維持で満足するから成長が止まってしまうことを述べる一方、幸せとは「足るを知る」ことで、今自分が持っているものに感謝することが大切だ、と述べている。

社会に出たら、競争よりも協力が大切だと言いつつ、競争こそが人を成長させてくれるとも述べている(笑)


これらのことは、自分の中では矛盾していないのだが、限られた時間の中で、相手を納得させたり、理解してもらうことはかなり難しいものだと感じます。


世の中のことは、状況によっては真逆のことがどちらも正義になりえるので、大切なのはケースバイケースの調整力のような気がしている。


成長していくということは、一見矛盾しているようなことを、いろんな体験を通じて矛盾していないことに気づいていくことではないだろうか?


AかBかの二者択一ではなく、AもBも状況次第でどちらも正しいことを伝えていくためには、いろんな経験をして深く考えていくことだと思います。


世間の常識から本質の考え方に近づくためには、一歩深く突っ込んで考えていく必要があると思っているが、そのためには、自分自身と見つめ合って対話していくことが必要なんだと思います。


しかし、これが結構しんどくて、深く考えざるおえない状況に自分を追い込むためには、失敗や傷つくことを恐れないで一歩踏み出すことが、深く考える唯一のきっかけになると信じています。

私の尊敬する職業に「幼稚園の先生」と「保育園の先生」があります。


私には2人の娘がいますが、2人でトータル6年間幼稚園に通わせていただきましたが、幼稚園の先生の大変さを心から実感し、先生を尊敬した6年間でした。



私の知る限り、幼稚園の先生に比べればほとんどの職業は甘いものだと思えてきます。

私の歯科医師の職業なんかは、幼稚園の先生に比べれば足元にも及ばないぐらい楽な方だと思ってしまいます。


幼稚園の先生が大変な理由

①子供は、けがをしながらいろいろと学んでいくものだと思うが、幼稚園での子供の怪我まで、幼稚園の責任にする親がいる

②子供のケンカは、どっちもどっちの場合がほとんどだが、親としたら自分の子供が正しいと信じ込んでいる親もいて、幼稚園側に対して、相手への過度の注意を期待している親もいる

③幼稚園の先生は、一般的に若い人が多く、親からのクレームや非難に免疫ができていないので、対応に戸惑ってしまう。

④子供の教育に絶対に正しいというものがない以上、幼稚園の先生の教育方針に難癖をつけようと思えば、いくらでも文句は言える。


⑤子供の送り迎えには必ず親が付き添うので、毎日幼稚園に行っていれば、嫌でも親の目から見た幼稚園の不備が日々目につき、親の中には、その不備を幼稚園側に露骨に言う人間がいるものだ。

⑥親からすれば、幼い子供を守ってあげれるのは自分しかいないという、(間違った?)正義感から、わが子を守るためには周りを敵に回しても構わないぐらいの気持ちで、幼稚園や相手の親に喧嘩を吹っかけてくる親がいる。

⑦たいていの職業の場合、満足いかなければ商品を返品したり、返金しますので他のお店へ行ってください、ということで解決する方法がありますが、幼稚園の場合、どんなクレーマーの親に対しても、「ご不満があるようでしたら他の幼稚園に行かれてはいかがですか?」という解決方法は考えにくい。

⑧幼稚園の先生の方が、子供の親よりも若い場合が多く、親の気持ちのどこかに年齢的に上から目線で、幼稚園の先生のことを敬ったり感謝する気持ちが少ない親がいる。


数え上げればきりがないが、幼稚園の先生は園児のためには努力を惜しまないのではないかと思います。

しかし、自分より年上の女性から、日々、無理難題を吹っかけられれば、自分の仕事を好きになれなかったり、辞めたくなるのも仕方がないのではないかと日々感じてしまいます。


母親の子供を想う気持ちは、父親の私などは比べ物にならならないぐらい深いものかもしれません。

特に少子化の昨今、自分の子供は自分のこと以上に大切に思っていることでしょう。

しかし、自分の子供が可愛いのなら、その先生が気持ちよく仕事がしていけるように気遣ってあげることが子供のためにもなるのではないかと感じます。


自分のものだけを大切にしていては、周りの人は全て敵に思えてきて、その人の幸せは、遠のいていきます。


人間は、自尊心だけでなく、他尊心の気持ちを持てることで、心のバランスがキープできるのだと思います。


自分の子供が可愛いからこそ、他人の子供を尊重しなければなりません。

ましてや、親が先生に感謝いて、尊敬していく気持ちを持つことが、子供への愛情にもつながっていくのではないでしょうか?


日常においても、思い入れが強いからこそ、冷静な判断ができなくなることはよくあることで、自分の分身である子供に対して、「自分の子供が可愛い」という本能に流されて生きていけば、周りが見えなくなってきて、人としてあるべき言動が取れなくなってしまうのだと思います。

幼稚園の先生には、大変な環境だからこそ日々成長しているし、貴方たちの指導した園児は先生の教えを基礎にしてこれからの人生を生きていくと思うので、先生方のしている仕事は「日本の未来をよくしている」ぐらい価値のある仕事なのだと自信と誇りを持っていただきたいと思います。

私も、仕事で辛いこと、嫌なことがあったら、幼稚園の先生に負けないようにこれぐらいのことで不平不満を言ってはいけない、と自分に言い聞かせるようにしています。



本当に幼稚園の先生方には、頭が上がらない気持ちで、陰ながら応援していますのでこれからも頑張っていただきたいです。

子供の頃から、自分の価値は、周りよりどれだけ優れているかで判断されてきたように思う。



かけっこで順位が付けられたり、テストでいい点を取ったり、すべての基準は周りとの比較だったのではないだろうか?

かけっこの早いグループで4位のタイムよりも、かけっこの遅いグループでの1位のタイムの方が遅くても、誰がなんと言おうと1位は1位なのだ。タイムよりもそのグループの中での順位の方が大事なのだ。

平均点が80点のテストで80点を取っても目立たないが、平均点が50点のテストで70点を取る方が目立つのだ。


そんな学生生活を経て、社会人になってからも、自分の評価は周りとの比較だったように感じる。同期の中で自分は優れている方なのか、開業している地域の中で自分のクリニックは高く評価されているのか、等……


日本人に生まれただけで、全世界から見れば幸せなことは間違いないのだが、誰も世界の中の日本人としての評価はしなくて、周りの人間と比較して上流階級、中流階級などの意識を持っているのではないだろうか?


周りと比べて自分がどれだけ優れているかで、優越感を感じたり、劣等感を感じて年月が経っていった。


そういう生活を長く続けてきて、いつしか院長という立場で社員を雇うようになってきた。

今までは、「自分が周りよりも少しでも優秀な人間になる」ということを目標に頑張ってきたような気がするが、社員は院長が優秀かどうかには全く興味がないように感じてきた。

社員を雇ってから社員との衝突を繰り返していくうちに、社員にとっての興味は、院長が優秀かどうかというよりも、院長が人格者かどうかだ、ということに少しずつ気が付いてきた。

これまで、自分の性格や人格が大きく評価される環境にいなかっただけに、急に人格に焦点を当てられても何から手を付けていけばいいのかわからなかった。


多くの個人開業医が壁にぶち当たるのは、この点なのだ。

今まで、自分の知識や技術が、周りの歯科医師よりも、少しでも優れているかどうかにだけ焦点を当ててきた人間が、社員に反発されて院長だけが孤立して途方に暮れた時に、これまでの生き方考え方を反省して、自分を変えていける人間だけが、社員もついてきてくれることを悟ったのだ。

このことに気が付かなければ、社員は永遠に院長の敵のままなのだ。


自分の知識やスキルを伸ばすための勉強は、これまでのように、自分のために努力すればいいから簡単だ。

一方、自分を押し殺して、社員のため、世の為人の為に生きていく努力は、戦前と戦後の考え方の違いぐらいに、簡単に生き方や考え方を変えていくことはできないものだ。


しかし、自分のことばかり考えて利己的な生き方をしてきた人間が、他人のことを考えて利他的な人間に変わっていけることは、これまでに感じたことのない喜びがあるのも事実だ。

社員が増えていけばいくほど、自分を監視し評価してくる目が増えていくことはプレッシャーにはなってくるが、プレッシャーがあるからこそ、やせ我慢でも続けていけるような気がする。


習慣とは素晴らしいもので、初めはやせ我慢でしていたことが、いつの間にか本当の習慣になってくるから不思議なものだ。


子供の時に自分の能力を磨く努力をしていくことは決して無駄なことではないと思う。

しかし、年齢を重ねるごとに、能力よりも人格形成に比重を移していく必要があるのは、院長やトップに限らず、人間共通のことではないかと思う今日この頃です。


今自分は、心から人格者になりたいと思って修業に励んでいますが、ゴールがないからこそ、死ぬまでの目標には最適なのかもしれません。

ラグビーの平尾誠二さんの「理不尽に勝つ」という本を読み終えました。

読み終えてすごくしっくりきて、自分の生き方や考え方が大きく変わりそうです。



矛盾だらけの人間が形成している社会だから、当然、社会に理不尽はなくならない。

理不尽をなくそうと躍起になるのではなく、理不尽は当然あるものとして、その免疫力をつけていくことが大切だと述べられていました。


人間の考え方は「大変なことだ」と思うか「当たり前の事だ」と思うかで、その後の行動も違ってくるものだ。

理不尽なことは日常にあふれているが、それにいちいち目くじら立てて自分の負の感情が揺れ動くよりも、「そんなものだ!」と受け入れて、前向きな努力をしていくことの方が大切な気がする。

しかし、そんなことは、ずっと前から頭では理解できているのだが、いざ負の感情にスイッチが入ってしまうと、理性ではどうにもコントロールできなくなってしまうことを繰り返してきた。


今回、この本を読んで感じたのは、大切なのは心の準備ではないだろうか?


負の感情のスイッチが入る前に、十分心の準備体操をして、心の深い部分にまで「理不尽なことはあって当たり前」であって、そんなことに巻き込まれて時間とエネルギーを浪費することの愚かさを身に染みて感じたいものだ。


私の中での今一番のテーマは、「感情をコントロールする」ことだ。

嫌なことがあったから落ち込む。思い通りにいかないことがあったら、ネガティブになるのではなく、嫌なことがあっても人生はそんなものだと楽観視して、思い通りにならない時こそ、だから人生は楽しいんだと考えて生きていきたいものだ。


最近つくづく感じることは、周りが大変と思うようなことを、自分も一緒になって大変だと思っていたのでは、出てくる結果も平凡なものになってしまうし、周りが愚痴ったり不平不満を言っていることを、同じように愚痴って不満を言っていたのでは、自分の人生も周りと同じように不幸せなものになってしまうということだ。

周りよりもいい結果を出していきたいのであれば、自分の思うようにいかないことを前向きに考えていかなければいけないし、周りよりも幸せになりたいのであれば、周りの人が感謝しないようなことにまで感謝できる人間になっていかなければならない。

そのためには、周りと同じように不平不満を言っていたのでは、その先に幸せなんて見つけれるはずがないんだと自分に言い聞かせるようにしています。


周りに流されない、感情に流されない、というのは私の中での大きなテーマです。

自分の生き方の中に、「必死に生きる」「目標を持って生きる」などがあります。

これは、余裕をもって生きたり、目標もなくなんとなく生きていたのでは、自分のことが嫌いになりそうな理由があります。



自分の中で、今の自分ではできないことに挑戦したり、自分の限界に挑戦したりしている時には、自分のことでいっぱいいっぱいなので、他人のことを批判したり、不平不満を言って自分のモチベーションを下げている余裕はありません。

明確な目標があるときには、今の自分にできることに全力を注ぐことになります。



一方、適当に生きていたり、目標がない時には、自分のことより他人のことが気になってきます。

そんな時は、他人のことを批判したり、何かに不平不満を言っている自分に気が付きます。

他人のことを批判することで、自分の心の安定を図っていたり、何かに不平不満を言うことで、自分は悪くない、悪いのは他人や社会だと被害者意識で自分を正当化しています。

未来を見て生きている人は、頑張れますが、過去を見ながら生きている人は、他人の批判や不平不満の毎日になってきます。


皆様の周りの人を分析してみてください。

いつも他人のことを批判している人は、自分が前進することよりも、他人が前進するのを邪魔することにエネルギーを注いでいる人ではないですか?

いつも不平不満を言っている人は、頑張っていない人が多くないですか?

自分が頑張りたくないから、すべてを他人や環境のせいにしていたり、頑張っている人の足を引っ張っている人ではないですか?


人間は、できる理由よりもできない理由を見つける方が簡単なのです。

他人のことばかり気になる場合には、他人の人生におせっかいを焼く暇があったら、自分の人生を輝かせていくべきだ、と自分を顧みるいいチャンスなのだと思います。


他人を批判したり、不平不満を口にしているときは、その時の自分が幸せでないという、危険信号のバロメーターのような気がします。

他人に意識が生き始めたら、「あっ、やばい!このままでは不幸へまっしぐらだ!」と気を付けないといけないなと思っています。

この考えは、相当強く意識して生きなければ、簡単に流されてしまうものです。

私もいつも流されています(笑)

強く意識して生きたとしても、今までの悪しき習慣で、改善できるまでに長い歳月が必要な気がします。


しかし、この習慣が改善されなければ、永遠に幸せはやってこないような気がします。

他人との比較の人生ではなく、自分の過去との比較、自分自身の中での成長を感じながら生きていきたいものです。