社員が増えてきて、社員教育への比重が高くなってきて、「教育とはなんだろうか?」と言うことを考える機会が多くなってきました。


そして、今の結論として、「教育とは、その人に気づかせること」ではないかと考えています。


学生時代の流れから、えてして、「教育とは教えること」になりがちです。

知識の共有は教えることで間に合いますが、社会に出て一番大切なことは教えることができないことの中に数多くあるような気がします。


50年近く生きてきて、自分の血となり肉となり、今、自分の頭の引き出しに入っているのは、教えられたことではなく、自ら気が付いたことだけのような気がします。

教えてもらうと楽ですが、「簡単に手に入れた知識は簡単に出ていく」ということを日々感じます。

人生において深い部分で自分のものになっているのは、自分で気づいたことだけのような気がします。


社員にも自分の子供にも、ついつい色々と教えようとしてしまいます。

相手も教えてもらった方が簡単なので、安易に答えを聞きたがるような気がします。

でも、相手のことを想うのなら、教えることよりも気づかせる工夫をしていくことが大切なのではないかと思います。


教えることは、自分の引き出しを一方的に披露すればいいのですから簡単です。

一方、気づかせるためには相手の実力、相手の気分、相手のバックグラウンドなどいろんなことを加味しながら、試行錯誤していかないといけません。


気づかせることで一番しんどいのは、相手がいつ気づくかはこちらでコントロールができないので、ひたすら待たなければなりません。

待つためには相手を信じなければなりません。


いつかは必ず気づいてくれるという信念のようなものがなければついつい結果を焦ってしまい、答えを教えて強要してしまいます。

気づかせる努力は、相手だけでなく自分も成長させてくれるのは、この忍耐なのかもしれません。


社員教育、子供の教育を通じて、教えるより気づかせる、ティーチィングよりもコーチィングを意識している今日この頃です。

子供と会話していると、何でもかんでも人のせいにする傾向を感じます。

子供が幼稚園の年少の時、自分で転んでおきながら「パパのせいで転んだ」と責任転嫁されて、あまりの理不尽さに笑ってしまったことがあります。

子供は本能だけで生きているので、子供の言動を見ていると人間の本質というものを垣間見れます。



大人も子供も、失敗したり思うように物事が進まない時は、誰か他人のせいにしたいものです。

自分自身を観察していても、物事がうまく進まない時に誰かのせい、環境のせいにしようとしている自分に気が付く事があります。


大人と子供の違いは、誰かのせいにしている自分に気が付くかどうかの違いだけだと思います。


大人だって、本当は「悪いのは他人や環境なんだ」と責任転嫁したいんです。

誰かのせいにすれば、自分の感情をぶつけてスッキリできるし、自分が頑張らなくても済むのです。


でも、責任転嫁して自分を被害者に仕立てても、その場は一瞬だけ気持ちよくなれますが、自分は何も成長できません。

次に同じことが起こった時に、同じように誰かの責任にするだけの繰り返しになります。


子供は成長しようという気持ちよりも、本能的に嫌な気持ちを解消しようとしますが、大人は今の自分の受け止め方や考え方が未来の自分につながっていることを心のどこかで気づいているので、できるだけ自分にも非があるのではないかと考えるものです。

「あいつが悪い」と矢印を他人に向けている時は、相手の欠点だけを探し出していけばいいのですから、自分自身は一切成長していないのです。

そういう被害者意識の習慣が染み込んでしまうと、むしろ後退している位だと思います。

「自分にも改善する点があったのではないか」と意識を自分に向けた時に、初めて前向きな考え方が始まるのだと思います。


世の中には、何でもかんでも他人のせいにして、子供がそのまま大人になったような人もいます。

自分を被害者に見立てて、今の一瞬の快楽を味わうのか、未来の自分のために、自分に矢印を向けて成長しようとするのかの積み重ねで、人生は大きく変わってくるように思います。


何でもかんでも他人のせいにして押し付ける人が周りにいる方は、その人に対して怒るのではなく、「昔は自分もこの人と同じだったけど、少しは成長したな」と自分を振り返るきっかけにすればいいと思います。


「他人と過去」は変えることができないのですから、他人に腹を立てるよりも、変えることができる「自分と未来」のために、自分に矢印を向ける習慣を身に着けていきたいです。

50年近く生きてきて感じることは、人間は「足りないから不平不満を言う」のではなく、「満たされているから不平不満を言うようになってくる」のだということです。



日本は、戦後何もない状態から、奇跡の復興を遂げてきましたが、何もない状態で不平不満を言っていたら,それだけで一日が終わってしまいます(笑)

だから、不平不満に使うエネルギーを浪費しないで、不平不満を言わないで未来を見据えて頑張ってきたのだと思います。


一方、多くのことで満たされている現代では、少しのミスや過ちを大げさに取り上げて、攻撃して来たり、問題にしてきます。

十分満たされているのに、「もっとこうしろ、ああしろ」「あそこが足りない、ここがダメだ」とないところにフォーカスするのだと思います。



経営で言われることに、「苦労はともにできるが、利益を山分けすることは難しい」というのがあります。

お笑い芸人や歌手のグループで、売れるまでは協力し合って頑張ったのに、売れてから仲たがいして、グループを解散することをよく目にします。

売れるまでは、不平不満を言って足の引っ張り合いをするよりも、協力して、一日も早く今の現状から抜け出したいと考えますが、売れた後では、自分の貢献度の方が上だとか、他人の欠点ばかりが目につき始めるのが人間なんだと思います。

満たされていない時には分け合えることができたのに、満たされてくると奪い合うようになってくるのが人間の本質なのかもしれません。


不便な環境で育った人間は、不便が当たり前の基準になりますが、恵まれた環境で育った人間は、すべてにおいて整っていることが基準であって、30点の環境を普通と思うのか、80点の環境を普通と思うのかで、「普通」と言う意味合いが天と地ほどの違いが生じます。


私の親は商売をしていたので、忙しくてあまり構ってもらえませんでした。

子供の時には、もっと構ってもらえていたら、もっと色んな知識などが身についていたのに、と思った時期もありましたが、今では、過度に構ってもらえないから、自分なりにいろんなことを工夫するようになったり、自分のことは自分でできるようになり自立できたと思っています。

十分に満たされていなかったから、成長できたように思います。今では、もっと苦労しておきたかったと思うぐらいです(笑)


今の時代、子供に対しても手をかけることが当たり前のようになっています。

娘の学校の校長先生が「子供に手をかけるのは簡単で、子供の力を信じて手を出さないことがこれからは親として特に大事になってくる」ということを言われていました。

昔のように生きていくのに必死の時代ではなく、親の方にも余裕がある分、子供にも過度に手をかけることになり、子供の自立を妨げて弱い子供が増えていっているような気がします。

親のレベルであれば、子供の代わりにいろいろとしてあげることは簡単なことです。

親としても気持ちがいいし、その場では、子供もありがたがるので一見いいことをしてあげているような気がします。

しかし、子供の自立を考えた時に、手をかけることが逆効果になってしまうと思います。


教育にはティーチィングとコーチィングがありますが、教えることは簡単ですが、気づかせることは簡単ではありません。

教えることで、親や教師も自己満足してしまいますが、教育で一番大切なことは気づかせることだと思います。

「今後は子供の教育をする前に親の教育をしていかなければいけない」ということをよく耳にしますが、恵まれた時代だからこそ、親は一歩我慢して見守っていくことがより必要になってきているのだと思います。


他人に何かをしてあげる気持ちは大切です。

しかし、人間は慣れてしまう生き物です。

一度手を出して手伝ってあげると、1回目は感謝しても、2回目、3回目では、手伝ってくれるのが当たり前で、手伝わないと不満に思ってしまいます。

大人でもそういう気持ちがあるのが人間なので、子供ではなおさらでしょう。

ここまでは手助けするが、ここからは自分でしなさいという基準を決めておかなければ、どうしても甘やかしてしまったり、がみがみ言う親が量産されてくることを危惧しています。



感謝というのは、左脳で考えるものではなく、右脳で感じるものです。


人は満たされた環境では感謝のできない人間になってしまうのです。


お腹がいっぱいの時には、どんなおいしいものを食べても美味しいと感じることはできません。

逆にお腹がすいていれば、どんなものでも美味しく感じます。


満たされている人間に、もっと何かをしてあげても感謝の気持ちは芽生えません。


人が感謝できるのは、その人が自分の力で精いっぱいに頑張っている時に、ちょっとした気遣いや思いやりに感謝の気持ちが芽生えるものなんだと思います。


だからといって、便利で恵まれた時代に逆行した生き方をしていくわけにはいきません。

恵まれた時代に生きていきながら、感謝の気持ちを忘れないためには、自ら、高い目標を掲げたり、困難を歓迎する生き方をしていかなければならないと思います。


食べ物のない場所で痩せることは簡単ですが、食べ物があふれている環境でダイエットすることは大変なのと同じで、恵まれた時代で、人として正しく生きていくためには、自分で自分を追い込んでいかなくてはいけない時代なんだと感じます。


そのヒントが、利己から利他へ、世の為人の為、なのではないかとかと感じています。


人間は「足りないから不平不満を言う」のではなく、「満たされているから不平不満を言うようになってくる」のだということを意識して、子供や社員に対して、手をかけすぎるデメリットを意識して厳しく接していきたいものです。

「三つ子の魂百まで」「かわいい子には旅をさせろ」「若い時の苦労は買ってでもしろ」とも言いますが、若い時に「普通」「当たり前」のレベルを下げてあげることが、親や上司の仕事の1つでもあるような気がします。


そして自分自身、日本という恵まれた環境に生まれたことを感謝しながら、仕事や日常生活においては、意識的には満たされた環境で生きるのではなく、質素で謙虚な生き方を好み、常に高い目標を掲げて、必死に生きていくことで、小さなことに感謝、感激、感動できるのだと意識して生きたいものです。





















先日休みの日に1人でランチをしていると、隣の女性2人組がわがままな上司のことを、「○×さんのことを、いつかはギャフンと言わしてやりたいわね」と会話されていた。

どの世界にも、ギャフンと言わせてやりたい存在の人はいるんだろうな~と苦笑いしながら聞いていました。(笑)


でも、私の中で最近意識していることは、ギャフンと言わせる役目は神様の仕事だということです。


自分に嫌なことをされたら、同じぐらいの仕返しをしてやりたい、と考えるのは人間として自然のことのように思います。

でも仕返しをしてスッキリするのは一瞬だし、大人の世界ではなかなか仕返しできるチャンスと言うものも少ないように感じます。

へたすると、犯罪になってしまいます(笑)


「何がなんでも仕返ししてやる」と時間とエネルギーを無駄に浪費するよりも、その人の生き方が間違っていれば、神様はその人に「もしもし、貴方の生き方、考え方は間違っていますよ」と言うことを何かの出来事を通じて、その人に伝えていくものだと思います。


その出来事が、人間から見れば「ギャフンと言う痛い目」に映るのだと思います(笑)


世の中の仕組みとして、人は皆、自分の魂のレベルを上げていくためにこの世に生を受けているのだと思っています。


他人を不快にするようなことをしている人は、魂のレベルを上げるために、神様がその人に試練を与えてくれるのだと思います。


前向きに生きている人は、その試練をプラスに受け止め、その問題解決に当たりますが、自分勝手な生き方をしている人は、目の前の問題に不平不満を言いながら、いつまでも神様から提示された問題が解けないので、その後も同じ問題の試練を与え続けられるのだと思います。


前向きに生きている人は、1つ1つの問題を解決して、次のレベルの問題にも前向きに向き合えるのが、不平不満を言いながら神様から提示された問題から逃げ続けている人は、いつまでも自分だけ「ついていない!」「最悪!」と感じながら生きていくのだと思います。


誰かにギャフンと言わせたいと感じた時に、「それは神様の仕事だ!」と思えることで、自分は自分の目の前の問題を解決することに集中できるのではないかと思います。

「外づらはいい人なのに、家では別人のようだ」という話をよく聞きます。



外では他人の評価を気にして、すごく人当たりのいい評価の人も、家の中では素の自分が出て外での評価とは全く違う評価になることがあるのだろう。

しかし、これは考えてみれば当たり前の事であって、外づらと内づらが全く同じ人は世の中に存在しないのではないかと思います。



というのも、外の服装と家での服装が同じ人がいないのと同じ原理だと思います。

家から外に出る時には、他人に失礼のないようにとか、他人によく見てもらいたいという気持ちがあることは、全然批判されることではないように思います。

外で着る服を家の中まで着たり、家の服で外出する方が滑稽に感じます。


しかし、生活態度においては、外と家の中で大きな違いがある人は、裏表のある人間のように悪く受け取られがちです。

服装と生活態度の違いにおける外づらと内づらとの違いで、世間一般の受け止め方の違いはどこにあるのだろうと考えてしまいました。


服装においても、自分の優越感を満たすために自分はお金持ちだとか、自慢したいがための格好は、見る人に嫌悪感を抱かせることがありますが、相手に不快な思いをさせないために清潔感を保つ身だしなみは、他人にも好感を持ってもらえないまでも、決して不快感を与えることはないと思います。

服装にしても言動にしても、自分のためにしていることなのか、他人を思いやってしていることなのかで、相手の受け取る印象も違ってくるのではないでしょうか?


外づらと内づらに話を戻しますと、家の外に出れば、周りは全て他人なので、家族以上に気を使って当然だし、それがお客様なら自分の持てるすべての気遣いをして当然だと思います。

しかし、家庭に帰ってまで、家族にお客さんへの対応と同じような対応をしていくことは不可能だし、家では外でのエネルギーを蓄えるために、色んなスイッチがオフになる事も仕方のないことのように思います。



お客様に対して、社員に対して、お年寄りに対して、何か困っている人に対して、全然知らない人に対して、etc……それぞれの相手によって、こちらの思いやりやエネルギーに差があって当然だと思います。

しかし、それぞれの相手に対しての一般的な許容範囲を大きく下回ると、色んなひずみや批判の対象になってしまうのだと思います。


家庭においても、家族といえども甘える限界もあるでしょうし、相手を思いやる許容範囲というものがあるのだと思います。

外づらと内づらが全然違うと批判される人は、外では必要以上に他人の評価を気にして生きているが、家族に対してや甘えられる人間に対しては、評価を気にしないあまり、相手の気持ちの許容範囲を超えた自己中心的な言動が目立つから、外と家のギャップが激しい人は、周りから批判されやすいのではないだろうか?


私の好きな作家の曽野綾子さんが「いい人をやめると楽になる」という本を出していますが、これは決して、わがままに生きろという意味ではなく、他人の目を気にした生き方をして他人の評価に流されないで、自分の中での相手を思いやる気持ちに正直に生きなさいということだったと思います。


同じような行為なのに、自分のコンプレックスから「いい人」を演じているのか、相手への気遣い、思いやりから結果的に「いい人」に見えるのかは大きな違いのような気がします。


小さい子供の時代から長年、他人と比較され、多くのコンプレックスを抱いて大人になり、他人の目を気にして『「いい人」にならなければ、他人から認めてもらえない』という強迫観念で、無理をしながら生きている人は、外づらと内づらが大きく違ってくるのだと思います。

コンプレックスは誰にもあります。
しかし、コンプレックスの強過ぎる人は、他人に優しくできません。

自分のコンプレックスをコントロールしていくために、自分が他人よりよく見てもらうか、他人が自分より劣って見えるかのどちらかで自分の不安定な気持ちをコントロールしようとします。

いじめも同じ原理から発生しています。


他人に優しくできる人間になるためには、まずは自分のことを好きにならなければなりません。

自分のことを好きになるためには、他人の目を気にして「いい人」を演じるのではなく、自分のことを好きになるために思いやりのある言動をしていかなくてはなりません。

そのためには、家庭の外であろうと、家の中であろうと、自分の良心に従って、思いやりの気持ちに正直に生きていくことが大切なのではないかと思います。


コンプレックスの緩和の仕方は、長くなってしまうので、またいつかお話しさせていただきます。