「外づらはいい人なのに、家では別人のようだ」という話をよく聞きます。



外では他人の評価を気にして、すごく人当たりのいい評価の人も、家の中では素の自分が出て外での評価とは全く違う評価になることがあるのだろう。

しかし、これは考えてみれば当たり前の事であって、外づらと内づらが全く同じ人は世の中に存在しないのではないかと思います。



というのも、外の服装と家での服装が同じ人がいないのと同じ原理だと思います。

家から外に出る時には、他人に失礼のないようにとか、他人によく見てもらいたいという気持ちがあることは、全然批判されることではないように思います。

外で着る服を家の中まで着たり、家の服で外出する方が滑稽に感じます。


しかし、生活態度においては、外と家の中で大きな違いがある人は、裏表のある人間のように悪く受け取られがちです。

服装と生活態度の違いにおける外づらと内づらとの違いで、世間一般の受け止め方の違いはどこにあるのだろうと考えてしまいました。


服装においても、自分の優越感を満たすために自分はお金持ちだとか、自慢したいがための格好は、見る人に嫌悪感を抱かせることがありますが、相手に不快な思いをさせないために清潔感を保つ身だしなみは、他人にも好感を持ってもらえないまでも、決して不快感を与えることはないと思います。

服装にしても言動にしても、自分のためにしていることなのか、他人を思いやってしていることなのかで、相手の受け取る印象も違ってくるのではないでしょうか?


外づらと内づらに話を戻しますと、家の外に出れば、周りは全て他人なので、家族以上に気を使って当然だし、それがお客様なら自分の持てるすべての気遣いをして当然だと思います。

しかし、家庭に帰ってまで、家族にお客さんへの対応と同じような対応をしていくことは不可能だし、家では外でのエネルギーを蓄えるために、色んなスイッチがオフになる事も仕方のないことのように思います。



お客様に対して、社員に対して、お年寄りに対して、何か困っている人に対して、全然知らない人に対して、etc……それぞれの相手によって、こちらの思いやりやエネルギーに差があって当然だと思います。

しかし、それぞれの相手に対しての一般的な許容範囲を大きく下回ると、色んなひずみや批判の対象になってしまうのだと思います。


家庭においても、家族といえども甘える限界もあるでしょうし、相手を思いやる許容範囲というものがあるのだと思います。

外づらと内づらが全然違うと批判される人は、外では必要以上に他人の評価を気にして生きているが、家族に対してや甘えられる人間に対しては、評価を気にしないあまり、相手の気持ちの許容範囲を超えた自己中心的な言動が目立つから、外と家のギャップが激しい人は、周りから批判されやすいのではないだろうか?


私の好きな作家の曽野綾子さんが「いい人をやめると楽になる」という本を出していますが、これは決して、わがままに生きろという意味ではなく、他人の目を気にした生き方をして他人の評価に流されないで、自分の中での相手を思いやる気持ちに正直に生きなさいということだったと思います。


同じような行為なのに、自分のコンプレックスから「いい人」を演じているのか、相手への気遣い、思いやりから結果的に「いい人」に見えるのかは大きな違いのような気がします。


小さい子供の時代から長年、他人と比較され、多くのコンプレックスを抱いて大人になり、他人の目を気にして『「いい人」にならなければ、他人から認めてもらえない』という強迫観念で、無理をしながら生きている人は、外づらと内づらが大きく違ってくるのだと思います。

コンプレックスは誰にもあります。
しかし、コンプレックスの強過ぎる人は、他人に優しくできません。

自分のコンプレックスをコントロールしていくために、自分が他人よりよく見てもらうか、他人が自分より劣って見えるかのどちらかで自分の不安定な気持ちをコントロールしようとします。

いじめも同じ原理から発生しています。


他人に優しくできる人間になるためには、まずは自分のことを好きにならなければなりません。

自分のことを好きになるためには、他人の目を気にして「いい人」を演じるのではなく、自分のことを好きになるために思いやりのある言動をしていかなくてはなりません。

そのためには、家庭の外であろうと、家の中であろうと、自分の良心に従って、思いやりの気持ちに正直に生きていくことが大切なのではないかと思います。


コンプレックスの緩和の仕方は、長くなってしまうので、またいつかお話しさせていただきます。