私の周りのパパたちと話をしていてどの父親も言う事は、母親は、なぜ、「あれしろ、これしろ」と自分の考えを子供に押し付けがちなのだろうということです。
私の周りでは、母親が、がみがみ言って、父親がまあまあとなだめる家がほとんどのようです。
父親は、一日のほとんどを仕事場で過ごすので、多くの時間を子供と接していないのだから、短い時間だけ子供と接していても、ある程度客観的に見ることができたり、人生においても、仕事の経験からか、少しは長期的な視野で子供のことを考えられるのかもしれないなと思っています。
一方、毎日ほとんどの時間を子供と接している母親にすれば、一刻も早く子供に成長してもらわなければ、こんな状態のまま大きくなると、子供にとって将来的に取り返しのつかない事になってしまうのではないか、という強迫観念があるのかもしれません。
誰でも自分の子供だと思うから過干渉になりがちで、逆に他人の子供のことだと無関心になりがちです。
過干渉も無関心もどちらも、子供にとっていい結果を生み出さないように、神様は世の中の仕組みを作られているように感じます。
自分の子供だと過干渉になりがちなので、「もし、この子が他人の子供だったらここまでガミガミ言ったり、面倒を見すぎている自分の姿を客観的に見られたらどう思われるだろうか?」とか、逆に他人の子供だと思って、無関心になっている自分を「もし、この子が自分の子供だったらここまで無関心でいる自分の姿を客観的に見られたらどう思われるだろうか?」と俯瞰して考えることが大切なのではないかと感じます。
私の中で意識していることで、「自分の子供が他人の子供だっら……」「人の子供が自分の子供だったら……」と仮定した時に、自分は過保護すぎないか?あるいは無関心すぎないか?と言うことを俯瞰して自分に問いかけることが大切なのではないかと感じます。
これは社員と接するときも、「もしこのスタッフが自分の子どもだったら、こんな接し方をするだろうか?」と言うことを自問するようにしています。
私の好きな言葉に「自他同然」という言葉があります。
人間には、自分のことは深刻に考えすぎますし、他人のことはあまり真剣には考えない習性がありますが、逆に、自分のことは他人事のように、他人のことは自分事のように考えることで、自分の言動を過干渉と無関心のいいバランスに保ってくれるような気がします。
人は感情的になってしまうと冷静な判断ができなくなってしまいます。
逆に、一切の感情が入らないと、無関心になってしまいます。
どちらもいい結果を招きません。
マザーテレサは、「愛の反対は無関心だ」と言いましたが、「過干渉の反対は自立支援」なのかなと感じました。
私の人生の究極の目標は、自分が死を告知された時に、他人が死を告知されたような気持ちで、運命を受け入れられる人間になりたいと思っています。