人は「自分が正しい、相手が間違っている」という思いが強いほど、自分の正しさを主張して、相手を説得、降伏させようと試みようとする傾向にあるような気がします。



そしてその結果、多くの場合において、お互いの感情にスイッチが入って、感情的な行き違いに結び付いてしまうことがあります。

人間は、理性でコントロールできている自分と、感情にスイッチが入った自分では全くの別人になってしまう場合が多いです。



そう考えると、対人関係において大切なことは、自分の感情も相手の感情にもスイッチをONにさせない心遣いをしていくことが大切なのではないかと感じます。



特に、他人に対しては「自分が正しい、相手が間違っている」と感じても、自分の正しさを主張して、相手を説得、降伏させようと試みようとすることを抑えようとする自分がいますが、身近な人や家族においては、そういう防波堤が働かない場合が少なくないでしょう。

「親しき仲にも礼儀あり」という諺がありますが、親しいからこそ気を付けないことがあるような気もします。

対人関係というのは、「自分と相手の感情にスイッチを入れないように関係を保っていく配慮が大切」と言っても過言ではないような気がします。


いったん感情にスイッチが入ってしまえば、再び理性にスイッチを入れ替えるのは、不可能な場合も多いし、元のように理性的になるためには多大な労力を費やします。



感情のコントロールは、虫歯や歯周病などの歯科疾患と同様に、予防に勝るものはないのです。



人生は、他人と競い合うのではなく、俯瞰した存在である神様の目を気にして判断していくことで感情に流されないで済むことも多いような気がします。



自分の感情にスイッチを入れてしまったらマイナス1点、他人の感情にスイッチを入れてしまったらマイナス2点、他人が自分のスイッチをONにしようとしてきても自分の感情のスイッチをONにしないように我慢できればプラス1点、他人が感情にスイッチをONにしそうな状況を救ってあげられたらプラス2点、というゲームを人生において競い合っていると考えれば、案外点数を競うことも楽しいような気がします。

人は他人と自分を比べるから、自分を不幸に感じたりすることが多い。

「他人と比べる必要はない」「他人と比べることに意味はない」「人と比べる人生ではなく過去の自分と比べて生きろ」など頭では分かっていても、人生において、何とも比べないで生きていくことは不可能だと感じます。



「このお肉、美味しい」というのは、今まで食べてきたお肉と比較しているから美味しいと感じるだけであって、いつも高級肉を食べている人が食べたら、そのお肉は普通かそれ以下の可能性があるかもしれません。

「美味しい」というものは、絶対的なものではなく、何かと比較したうえでの表現なのです。


「あの人、賢いよね」というのも、自分の中での普通の人と比べて「賢い」「賢くない」と表現しているだけで、東大、京大の人が感じる「普通」と、一般的な学校の人が感じる「普通」では、大きな差があり、「賢い」「賢くない」というのも絶対的なものではなく、比較から発生する基準の一つだと思います。


「だからどうした……」と言われそう(笑)なので本題に入ると、人間にとって、誰もが望む「幸せになりたい」というテーマにおいても、「幸せかどうか?」は何かとの比較の問題なのだと思います。

「あなたは幸せですか?」と聞かれた時に、誰と比較するかで答えが違ってくるのではないでしょうか?


誰もが羨む憧れの有名人と比べれば、自分の人生なんか平凡で幸せと言い切れるほどのことではないような気がするし、恵まれない国の人と比べれば、明らかに日本人は幸せだろうと思えるし、幸せかどうかは何と比べるかが問題なのだとすれば、自分より下の人間と比べればいいのか?ということになってきます。

その場合、「自分より弱い人や恵まれない人を見つけて自分の幸せを感じる」ということに、何か差別的な罪悪感を感じる人は少なくないのではないでしょうか?

江戸時代に「上見て暮らすな、下見て暮らせ」という言葉がありましたが、自分が恵まれている方だと幸せに感じるためには、自分より下の人を見て暮らすことだという感覚なのでしょうか。

「自分より弱い人や恵まれない人を見つけて自分の幸せを感じる」ということは、相手を見下した間違った優越感を満たすための行動になってしまいます。

そして、その行動の先には、幸せは待っていなくて、「優越感を感じるためには、自分より弱い人見つけなければ…」という間違った負の循環になってしまいます。


それでは、正しい比べ方というものがあるのだろうか?


それは、人と比べる時には「他人と比べる人生ではなく過去の自分と比べて生きる」ことであったり、他人と比べる時には、その人に対しては敬意を示したうえで、自分の恵まれた環境に感謝することなのではないだろうか?

恵まれない相手を見下すのではなく、そんな苦しい状況でも負けずに頑張っている人を尊敬、応援しつつ、そのうえで、自分の恵まれた環境に感謝することで、間違った優越感が芽生えることもなくなってくるような気がする。


幸せを感じるためには、自分だけ感じる優越感ではなく、(相手に対する)「尊敬」と「感謝」の気持ちがセットでなくては、ならないような気がします。


幸せって、流されて生きることではなく、「尊敬」と「感謝」を意識しながら生きていくことで、感じていけるもののような気がします。


人間は、楽をしたい気持ちと成長したい気持ちと、どちらも持ち合わせています。

成長したいけど楽もしたい………

この矛盾への葛藤を自分の中で感じることが多いです。

スティ-ブンRコビーの「7つの習慣」でいう、「緊急で重要なこと」をしている時には、やるべきことを学校の宿題のように淡々とこなしていて、体は動かしているので、成長していないことへの罪悪感をあまり感じません。


しかし、本来やるべき、「緊急でないけど重要なこと」に時間とエネルギーをかけないといけないのに、なかなかそこへのスイッチが入らない時や、「緊急でないけど重要なこと」が思いつかない時に、楽をしている罪悪感や、何かに焦っている自分に気が付きます。

そういう時には、楽をしようと思えば楽ができるが、楽をしていたら後でしっぺ返しが待っている恐怖が心のどこかに存在しています。


「緊急で重要なこと」は誰でもします。

ただただ、体を動かしていけばいいだけなので、そこにモチベーションはあまり必要ありません。

しかし、「緊急でないけど重要なこと」をしていくためには、夢、思い、情熱、ミッション、意味と価値など、体を動かす前に心が動かなければいけません。



人間は「心が体を動かす」のだから、まず、何かに感じて心を動かさなければいけません。

そんな時、手っ取り早く「本でも読むか?」という気持ちが頭をよぎります。

しかし、「この情報を得るぞ!」という強い気持ちで読書をしなければ、そんな逃げのような気持ちで本を読んでも、得るものは少ないです。


頑張りたいけど頑張れない、頑張りたいけど何を頑張っていいのかよくわからない、……でも、今楽をすると後でしんどいことになりそうな……(葛藤)



行動は、準備が9割と言われています。



「緊急でないけど重要なこと」をするためには、普段から目的意識を持って、自分の心が動いた時にすぐに行動できる体制を作っていくことが大切なのかな~と感じます。

人も仕事も、成長発展していくためには、身体だけを使う仕事ではなく、心と頭を使う「緊急でないけど重要なこと」に時間とエネルギーを使っていける工夫をしなければいけないのだと思いますが、人間は楽をしたがる生き物なので、「緊急でない」と、どうしても先送りにしたり、見てみないふりをしてしまう自分との戦いが、日々続いてしまいます。

夢、強い思い、情熱、ミッション、使命感、責任感、正義感、……自分の心を動かしてくれるものを大切に生きていきたいと思います。

「怒らない」というテーマの本を何冊か読んだことがあります。

そういう本がベストセラーになっているということは、怒っている自分を変えたいと思っている人が世の中には多いということなのでしょう。

私もその一人ですが………(笑)



本の結論から言いますと、怒らないための方法は、怒っている自分を客観視することだと思います。

「おっ、自分は今怒っているぞ!」

「怒っている自分はかっこ悪いぞ!」

「怒るということは、自分は正しい&相手は間違っている、と自分が裁判官か神様だと勘違いしていることだぞ!」

「怒るということは、自分で自分の体を破壊していることだぞ!」

「怒りとは何かに脅えている証拠だぞ!」

……等々



自分がしている「怒る」という行動が、客観的に見たらどういう意味と価値があるのかということが俯瞰できれば、「怒り」が消えないまでも、怒りの程度は確実に減ってきます。



「怒る」ということは、感情にスイッチが入っていることで、理性の力で抑え込むことは容易なことではありません。



人間は、感情と理性がケンカすれば、感情が勝つようにできています。

感情には感情で対抗するしかありません。


「怒り」という感情に対して、「怒る事」がどんなに自分を傷つけているのか、自分が損をしているのかということが、心の深い部分まで腑に落ちないと、一時の感情の力に流されてしまいます。


「怒る」ことで沢山痛い目にあった人は、少しづつ深い部分で「怒る」ことについてのマイナスの意味と価値に気が付くのだと思います。


「心の底から2度と怒りたくない!怒らない人間になりたい!」と決心しなければ、安易に「怒る」という感情に流されてしまうのだと思います。

禁煙、禁酒、違法ドラッグと同じぐらいの覚悟が必要なんだと思います。

偉そうに言っていますが、私自身、日々、「怒り」と葛藤しています。


「怒らない」人間になりたいけど、「自分は正しい、相手は間違っている」と感じた時には、「怒って当然」という、自己弁護が頭に浮かびます。

何が正しくて何が間違っているかは、環境や状況によっても違ってくるものですが、人間は自分の価値観で安易に判断しがちです。


「人とはこうあるべき」という価値観を他人に押し付けてしまう人は、「怒る」頻度も多くなってしまいます。


最近、幸せな人生かどうかというのは、「怒り」の頻度や程度が少ないことではないかと感じます。

他人を許すから、自分も許せるのだと思います。

他人を許せない人は、コンプレックスが強かったり、上から目線で他人をバカにした人が多いです。


自分の価値観を他人に押し付けたり、強要する人間は、価値観のぶつかり合いで常に感情的な生活を送らなければいけなくなってくるのだと思います。


「怒らない」人生が、幸せな人生なんだと思いますが、それでも「怒ってしまう」場合には、「この怒りは自分の為の怒りか、それとも他人の為の怒りか?」ということを問いかけて、利己のためではなく、誰かのための怒りなら、100歩譲って受け入れていいのかな?と思います。

でも、いつかは、「怒り」という感情を自分の理性でコントロールできるぐらいのレベルまで小さくしていきたいと思います。

歯科医院経営において、どの医院でも、社員教育というのは大きな問題の1つです。



私の場合、職場で社員と接していて「あれしろ、これしろ」と自分の考えを社員に押し付けてきて、これまでに何度も痛い目にあってきているから、今では他人に対して頭ごなしに物事を言うことへの抵抗感がとても強いです。

そうは言っても、今でも、早く結果が欲しい時には、知らず知らずのうちに社員に頭ごなし的な言い方をしている自分に気が付く時があります。



今は、そういう自分を俯瞰して客観視できるもう一人の自分がいるので、以前よりも自分自身のそういう態度を反省できたり、より早く修正することができるようになってきています。

世間で、がみがみと自分の考えを押し付けている人を見ていると、彼(女)たちは、自分を俯瞰できているのだろうか?と感じてしまう現場に出くわすことが少なくありません。(偉そうですみません……)

前回のブログで、多くの母親は頭ごなしに子供に注意しているケースが多い、ということを書きましたが、社員のような大人と、まだ小さい子供とでは、理解力が違うと言われてしまえばそれまでですが、自分が子供だった時に、親や教師などから頭ごなしに言われたらどんな気持がしただろうかということを、多くの母親は忘れているのではないかと感じることがあります。


仕事も同じです。

大人や上司も忙しいし、心に余裕がない時も多々ありますので、いつもいつも穏やかに子供や社員に物事の意味と価値を丁寧に伝えていくことは、不可能だと思います。

しかし、十分に時間がある時や自分の心に余裕がある時には、頭ごなしに言うのではなく、その行為の意味と価値を伝えていくことを心がけていく必要があるのではないかと思っています。


そういうことを意識しながら、教育していくことで、上の人間も成長していけるような気がします。

親や上司からすれば、相手よりも10数年長く生きている場合がほとんどですから、自分ができて当たり前のことも、小さな子供や部下からすれば、「なぜそうしないといけないのか」が心の浅い部分でしか理解できていないのだと思います。


大人も子供も、無理やり行動させようとすれば必ず反発します。

しかし、自分の意志でそうしようと思った時には、簡単に行動が変わってきます。


無理やりさせたことは、従っているふりをしているだけで、心は動いていないのですから、継続して変わる事はありません。


言動を変えるには、心からそう思わなければ、その人は変わる事はありません。

目に見える行動だけを変えようとするから、無理やり行動を変えようと矯正してしまうのだと思います。


親も上司も、相手の心を動かすために試行錯誤していくことが大切なんだと思います。


イソップ童話の「北風と太陽」のように自分から、洋服を脱ぎたいと思わせることが教育であって、例え数回、無理やり脱がせたところで、それは、相手の心を変えない限り言い続けていかなければいけなくなってしまい、両者にとって悪循環以外の何物でもないと思ってしまいます。


「北風と太陽」の話は、子供や社員など、教育に携わる人にとっては、決して忘れてはいけない話のような気がします。