私は、人間は自分なりの「頑張る理由」がなければ、継続的には頑張れない生き物ではないかと思っています。

意志の力だけで自分をコントとロールすることは、簡単ではないのではないでしょうか。

 

そう思うと一番影響を受けやすいのは周りからの「環境の力」ではないかと思っています。

「今自分は頑張っているんだ!」という思いは、なかなか継続しにくいものです。

一方、「自分は普通のことをしているだけだ!」と思う事は簡単に継続できます。

 

例えば、歯科関係者の多くは、当たり前のようにデンタルフロスを使用しています。

歯科関係者にとって、フロスを使用することは「大変なこと」ではなく「当たり前のこと」だから、頑張っているのではなく、歯ブラシをすることの延長線上にあるレベルのことなのだ。

プロ野球の選手が1日に何万回も素振りをする姿を見て、周りの人は「頑張っているな~」と感心しても、プロ野球の選手を目指す人にとっては、それぐらいの当たり前のことをしている行為を「頑張っている!」と思うような人はプロの選手にはなれないのです。

経営者になれば、24時間仕事のことを考えているのは「当たり前」のことですが、サラリーマンでオンとオフを使い分けている人からすると、24時間仕事のことを考えるなんて「大変だね!」と感じられるみたいです。()

 

自分のしていることを「大変なこと」と思うのか「当たり前のこと」と思うのかで、継続できるかどうかが決まってくるように感じます。

自分がすることを「普通のこと」「大したことではない」と感じる一番簡単な方法は、そういう環境に身を置いていくことだと思います。

 

「類は友を呼ぶ」という諺がありますが、似た者どうしでは、普通や当たり前が多いので、一緒にいて楽なのです。

不平不満が日常の人にとっては、頑張る人と一緒にいると疲れるのです。

逆に、プラス思考の人がマイナス思考の人と話していると普段の何倍も疲れてしまうのです。

 

クリニックを運営していて、仲間、同僚の存在で、頑張ることが「普通」のクリニックなのか、不平不満を言うことが「普通」のクリニックかで、クリニックの社員レベルが決まってきます。

 

「悪貨は良貨を駆逐する」という諺がありますが、人というのはいい影響よりも悪い影響の方が何倍も受けやすいものなのです。

前向きな言葉をかけるよりも、不平不満を述べる人の方が影響力があるものなのです。

無意識で生きれば、誰しも不平不満や言い訳をして楽に生きていきたいのを、意識して前向きに生きているのに、安易にマイナスの言動を目にすれば「自分も楽になりたい!!」と流されるのが人間なんだと思います。

だからこそ、社員の中でネガティブな人や不平不満や言い訳が常の人は排除していかなければいけないと思っています。

そして、周りにプラスの影響を与える人を増やしていかなければなりません。

 

トップの使命は、その環境にとっての「当たり前のレベル」を上げていくことではないかと思います。

 

 

 

 

 

人は自分が一番かわいいように作られている。

どんなに悟った人でも、無意識では自分が一番大切な存在なのだ。

 

「自分よりも他人の方が大事だ」という人は「偽善者」だと思う。

「自分も大事だが、自分と同じように他人も大事に考えたい」というのが、人間の目指す方向性ではないだろうか?

 

だからこそ、子供の時や若い時にはがむしゃらに自分のために頑張るべきだ。

自分のために頑張れない人は、他人のためには頑張れない。

まずは自分の成長のために力をつけて、その力をどう使っていくかは、年齢を重ねていって方向転換していけばいいのだ。

 

少年は、プロ野球の選手を目指して頑張るが、プロ野球の選手になってファンに夢を与えることが出来るのは、一般的には、試合に出れる1軍の選手だ。(中には例外もあるが…)

2軍にいて、「ファンに夢を与えるぞ!」と考える前に、自分が1軍に上がるための努力をするべきだ。

 

自分の持っているパンを困っている他人に分け与えてあげたいのなら、まずは自分がパンを得なければならない。

パンを1個しか持っていない人は、その半分を他人にあげることは至難の業だ。

パンを5個持てば、困っている人がいれば「1個ぐらいは他人にも分けてあげようかな~」という気持ちが出てくるものだ。

そのパンが10個になれば、他人に分け与えていく葛藤も少し楽になってくるものだ(もちろん例外はあるが……)

 

人間の幸せは、他人に認められたり、必要にされたり、喜んでもらうことにあると思う。

幸せは他人とのかかわりなしには存在しないと確信しています。

いつかは他人の力になりたいのであれば、まずは自分のために頑張る時期を経験する必要があるのです。

 

「自分が頑張ることが、他人の力になり、社会の役に立つ」というのが好循環であって、自分が犠牲になって他人に喜ばれることがあったとしても、そういう自己犠牲では継続していくことが出来なくなってしまうので、自分を大切にすることと他人を大切にすることはセットで考えるべきなのではないかと思います。

 

ジェームスアレンの「原因と結果の法則」という長年にわたるベストセラーの本があります。

 

その本では、

「今、目の前に起きていることは、すべて過去に自分が蒔いた種の芽が出てきたものである。

すべての現実は起こるべくして起こっているのである。」

ということを書かれています。

 

人は物事が思うように運んでいかない時に、原因を他人や環境や運命のせいにしようとします。

他人や環境など自分がコントロールできないことに原因を求めれば、自分は一切変わらなくていい、努力しなくていいので楽なのです。

一方、起こることはすべて、これまでの自分の生き方、考え方に起因していると考えれば、少しずつでも自分が変わっていくしかありません。

 

長年、仕事を通じていろんな人と付き合って感じることは、成長する人は素直だということです。

素直とは自分に矢印を向けようとする人のことだと思います。

 

何か注意したり、指摘するとすぐに言い訳をしてくる人は、「自分には責任がない!」「自分は変わるつもりはない!」ということをアピールしていることになります。

言い訳すれば、その場はどうにか逃れることができます。

しかし、自分の中の本来の根本原因を解決していないのですから、また同じような問題に直面することになります。

 

そういう失敗を何回か繰り返したときに「あれ!?同じことが何度も繰り返すのは、もしかしたら自分が変わるしかないのだろうか!?」ということに自分で気づくまで、人は変われません。

他人から指摘されるのではなく、自分の中で「原因は自分の中にある」ということに気づくまで、神様は根気強く同じ問題をその人に投げかけます。

人間界の相手には言い訳をして対処療法で逃げ切ることができても、天の上の神様はその人のことを思って根気強く、本来の原因に気づかせようとします。

 

人の一生は、魂の成長というジグソーパズルを埋めていく作業で、神様は問題という形でジクソーパズルのピースを私たちに渡し続けます。

ピースを渡されても「これは自分のところに合うピースではありません」といって神様にピースを突き返しても、私たちがそのピースの当てはまる個所を見つけるまで、神様は笑顔で同じピースを渡し続けます。

 

また、神様はチャンスを試練というお面をかぶらせて私たちにプレゼントしてくる、とも言われています。

ピースにしろチャンスにしろ、「原因は自分の中にあるかも!?」という謙虚な気持ちを持たなければ、この世は苦労の絶えない地獄に見えてしまいます。

 

全てのことは自己責任。

全てのことには原因があって結果がある。

自分の人生のシナリオはすべて生まれてくる前の自分自身で脚本したものだ。

ということを信じることで、言い訳をせずに自分に矢印を向けるようになってくるのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 不幸になるのは簡単だ。自分が持っていないものに目を向ければいいだけだから。

逆に

幸せになるのも簡単だ。自分が持っていることに気づけばいいだけだから。

  

 

私はこのセリフが大好きです。 

人間は無意識で生きていれば、自分が持っていないものを見つけようとして「不幸な生き方」をしてしまいます。

人は『幸せになる為にこの世に生まれている』のだとしたら、人生を通じて自分が持っているものに気づく練習をしていかなければならないのだと思います。

「灯台元暮らし」と言われますが、自分が持っていないものには意識が向きますが、自分が持っているものには、当たり前すぎてなかなか気づかないものです。

 

自分が持っていないものを求め続ければ、「不幸せな一生」になってしまいます。

幸せになりたければ、意識して自分が持っているものの価値に気づくしかありません。

 

鳥は空気の存在に気づかないし、魚は水の存在に気づいていないと思います。

生まれつきあるものには気づきにくく、失ったときにはじめて自分が持っていたことに気づくものです。

健康や髪の毛や張りのある肌などと同じかもしれません(笑)

失って初めて持っていた有り難さに気づくように思います。

 

そうはいっても、失って初めて感謝するのでは、幸せになれないように感じます。

失う前に感謝するには………日々の毎日から「当たり前」の閾値を下げる生き方をしていく生き方や考え方をしていかなければならないと思います。

「当たり前」と思うレベルを下げていくことが、自分がすでに持っていることに気づき、感謝する機会が増えてくるのだと思います。

「当たり前」閾値を下げるには、日々の一瞬一瞬を精一杯生きることが大切だと思います。

 

 

人は必死で生きている時には、余計なことを考えなくなりますが、下手に余裕があるとマイナスのことを考え、ないものを探し始めるような気がします。

日々、必死に生きていくことが、感謝する習慣を身に着ける一番の近道のように感じています。

 

 

 

 「人生の質はコミュニケーションの質と比例する」ということを聞いたことがあります。

人生の質とは、簡単に言うと「幸せ感」だと解釈しています。

コミュニケーションの質が充実している人ほど幸せだということだと思っています。 

コミュニケーションには下記の3種類があると言われています。

  1. 言った人は気持ちがいいが、相手が嫌な気分になる

  2. 言った人が嫌な気持ちになって、相手はいい気持ちになる

  3. 言った人も言われた人も両方がいい気持ちになる

 

  1. の例として、独り言やボヤキ、自慢話、威圧的な部下への注意、命令、等々

  2. の例として、心にもないお世辞、言うべきことを言わないで我慢する、等々

  3. 伝えることがお互いにwin-winの関係になれる。言われた人が、言った人の気持ちを理解できるコミュニケーション等々

 

人は誰しも自分のことが一番かわいいので、常に自分を守ろうという防御反応的な気持ちが働きます。

家族ならまだしも、心を許していない他人なら特に、誰かの言動が、自分を攻撃してくるのではないか?という恐れを抱きながら生活しています。

 

信頼関係が出来ている人の間では、言葉の中の「意味と価値」を省いても誤解が生じない場合もあります。

究極的には、長い夫婦関係で暗黙の了解で「アレ」「コレ」だけで意味が通じることもあります。(笑)

信頼関係が構築されていて、「この人が自分を攻撃してくるはずがない!」という安心感があれば、言葉を省略しても意思疎通ができるのかもしれません。

 

しかし、多くの人間関係では、そこまでの信頼関係が出来ている場合の方が稀なのではないでしょうか?

「信頼関係が築けている」と思うことは大切なことなのかもしれませんが、それを相手に求めると、誤解の原因になってしまします。

自分が相手を信頼することは自分の意志でできます。

しかし、相手が自分を信用していると思うことは過信につながってしまいます。

 

相手も自分のことを信用してくれていると思えば、どうしてもコミュニケーションの手抜きをしてしまいますが、相手の信用を損ねていかないためにも、相手が自分のことを完全には信用していない、と思うぐらいの気持ちでコミュニケーションしていくことが信頼関係の維持には必要なのかもしれません。

夫婦や親友との関係においても、「信頼関係が築けている」と思う過信が少しづつコミュニケーションの省略に結びつき、誤解が生じることもあるのではないかと思います。

 

 

コミュニケーションの質とは、「何をするか?よりも何のためにするか?」「何を言うか?よりもなぜそういうか?」に意識を向けていくことではないかと思います。