当クリニックでは半年に一度、「何のために頑張るのか?」「何のために仕事するのか?」「何のために生きているのか?」を文章にして提出してもらうことになっています。

入社して間もない頃は「それは誰にもわかりません!」「そういうことは考えても仕方ないと思います」等辛らつなコメントもありますが、提出の回を重ねていく毎に、その人なりの理由を持つようになって来られます。

 

これまでにそういうことを考えてこなかった人にとっては、こういう質問はとても厄介な質問だと思います。

学校では答えのある質問をされますが、社会に出てからは答えのない質問の方が大半です。

 

スタッフにこの3つの質問を出しているので、自分の中でも毎回答えを真剣に考えるようにしています。

私の中では、「人は幸せになるために生きている」のだから、「どうすれば幸せになれるのか?」ということを考えていくと「感謝すること」「出来事に抗わないで、出来事を受け入れること」「〇×のせいと考えないで、〇×のお陰と考えれるように習慣化していく」3つのことが大切だと思っています。

 

左脳的に、理屈ではこれらのことが理解できていますが、なかなか実践できていません。

学校では「知っている」ということで高得点をとれますが、実社会においては知っていても実践していなければ、また習慣になっていなければ何もご褒美をもらえません。

知っているだけでは幸せになれなくて、行動しなければ何も変わらないのが現実です。

 

仕事ではいろんなことに挑戦していれば、なかなか思うようにいかないことが多いものです。

そんな時、周りや環境のせいにしないで、自己責任で自分に矢印を向けて、受け入れていくことを習慣にしていきたいと思っています。

そんな時にキーになるのが感謝に気持ちだと思います。

 

先日、ワールドカップの最終メンバーが発表されましたが、落選した選手が感謝の気持ちを述べていて感心しました。

一般的には、「落選して感謝??」と感じますが、「落選のお陰で……」「落選を受け入れて次のステップにつなげたい」と考えを前向きに向けていくためには、感謝の気持ちが必要なんだと思いました。

 

「感謝すること」「出来事に抗わないで、出来事を受け入れること」「〇×のせいと考えないで、〇×のお陰と考えれるように習慣化していく」3つのことを習慣化できるために、仕事を頑張っていきたいと持っています。

幸せな人が増えれば世の中もきっとよくなっていくと思うので、幸せを目指して生きていくことは人として生きていくうえでの義務ではないかと思います。

 

 

 

 

 

久しぶりのブログで、間隔があいてしまい申し訳ありません。

 

 

日々仕事をしていて(というか生きていて)一番難しくて一番大切なことは、感情のコントロールではないかと感じることが多いです。

 

自分の出来事において、「あっ、今自分は感情に流されている。このままでは悪い方向に向かっている」と自覚している場合でも、理性で自分の感情をコントロールできないことの方が多いです。

まだ自分で「感情に流されている」事に気づいている時には、傷は最小限で済みますが、自分で自分の感情に気づいた時には「後の祭り」「時すでに遅し」ということも少なくありません。

 

感情のコントロールは、自分の中では「幸せになるため」にはすごく優先順位の高い項目なので、安易に感情に流されている人を見ると、「自分はこうなりたくない!!」という自省の気持ちで見てしまいます

「自分のことは自分が一番気づいていない」と言われますが、他人の「感情に流されている言動」は自分の時以上に度々目につきます。

そういう人を見ると、「この人も感情に流されているのだから自分も普通だ」と自分を正当化する時と、「こういう生き方をしていたら幸せになれない」と「人のふり見てわがふり直そう」と自分を戒めることもあります。

 

瞑想やマインドフルネスで良く言わせることに、「感情的になったら深呼吸して一呼吸置くと良い」と言われているのですが、なかなか私の様な凡人には一呼吸ぐらいでは嫌な感情は立ち去ってくれません。十呼吸ぐらい必要かもしれません(笑)

 

私の中では、自分の感情をコントロールするためには、「感情に流されて」痛い目にあい続けるしかないのではないかと少し諦めています(笑)

その痛い目が自分の心の奥深くにしみ込んだ時に、「2度とあの思いはしたくない!!」という後悔の気持ちが、感情に流されそうな時に自分にブレーキをかけてくれるのだと感じています。

 

感情と理性がケンカをしても、圧倒的に感情が勝利します。

感情を抑えることが出来るのは、痛い目にあって感じた感情だけだと思います。

「毒を以(もつ)て毒を制する」ということわざがありますが、感情に流されて痛い経験をしていくことでしか、深く学ぶことは出来ないのではないかと思っています。

 

「痛い目にあわないと人は学べない!!」というのが私の信条なので、痛い目に会った時にはその経験を繰り返さないように、深く自分と向き合って次につなげながら成長していきたいと思っています。

 

 

 

 

久しぶりに最低のサービスを受ける機会がありました。

もしかすると、その会社はいい商品を扱っているのかもしれないですが、そのサービスぶりがあまりにもひどくて、「このサービスでよくつぶれないなぁ~」と感じてしまいました。

本当にその商品には自信があったのかどうかは、最終的に商品を購入していないからはっきりしないですが、もしも商品は最高のものだとしても……。

 

例えると、「提供する食事には絶対の自信があるから、きめ細かなサービスまでする必要がない」とか「治療技術は日本屈指のレベルなのだからその他のことは我慢してくれ」と言っているのと同じように感じました。

 

商品とサービスの関係っていつも考えさせられます。

商品とサービスのどっちの方が大切かと言われれば、それはケースバイケースだと思います。

例えば、ガンのように命に係わる治療であれば、サービスよりも手術の成功率がすべてだと思います。

商品とサービスは比較するものではなく、どちらも大切だが、商品に自信があるとついついサービスに甘えが生じやすくなってくるし、逆に、サービスが最高なら商品は普通でもいいかという甘えも出やすくなるのだと思います。

 

今の時代は、今現在は最高の商品も、1,2年後には普通の商品になってしまいます。

最高と思われるサービスも、周りが同じことを始めれば普通のサービスに成り下がってしまいます。

商品もサービスも気を抜いた瞬間に普通になってしまうのだと思います。

どちらも大切だが、どちらにより力を入れるかは、最終的にお客さんはどちらをより望んでいるのか、自分の会社が目指す方向性やビジョンは何なのかで、自然と決まっていくものだと思います。

 

もちろんどちらも大切だが、時間も資源も人も限られている以上、限られた条件の中でどこまで目指すかでお客様に選ばれるかどうかが決まってくるような気がします。

最終的に、決めるのはお店でなくてお客さんなんだと思います。

 

 

 

「お客様は神様です」と演歌歌手の三波春夫さんが言いました。

若い時に、外国人の知り合いが「Customer is always right.」と教えてくれました。

スターバックスには Just Say Yes といったポリシーがあるそうです。

 

一方、年々クレーマーが巨大化してきているということが、日々ニュースに取り上げられます。

 

「サービスされる人(お客)とサービスする人の理想の関係って何なんだろう??」と考えることがあります。

 

お金を払う人が上で、お金をいただく人が下なのであろうか?

お金を払うのだから、気持ちよく対応してもらう権利があるのだろうか?

お金をいただくことは、従順になる義務を含んでいるのだろうか?

 

ポイントは「お金」なのだろうか?

お金をいただく以上は、できない我慢をすることが仕事の難しさなのだろうか?

 

「お金」を払う人が威張る権利があって、お金をもらう人が下手に出る義務があるのだとしたら、給料を払う人が威張って、給料をもらう人はへつらうのが普通なのだろうか?

最近の求人難では、決してその原理は当てはまらない公式だ(笑)

 

雇い主と雇われる人との理想的な関係は「働いてくれてありがとう、働かせていただいてありがとう」で、最悪の関係が「雇ってやっているのに、なんだその態度は…、(安い給料で)働いてやっているのに感謝の気持ちのかけらもないのか…」だろう。(笑)

そう考える、お店の人とお客との理想的な関係は「買っていただいてありがとう、売っていただいてありがとう」で、最悪の関係が「お客だと思って偉そうにしやがって……、買ってやったのになんだその態度は…」ではないか……(笑)

頭を下げる下げないとか、どっちが上か下という問題ではなく、お互いに相手をリスペクトする必要があるのではないか?

 

昔の物質優先の価値観では、お店とお客の上下的な関係において「お金」は重要なファクターだった気がするが、最近の価値観では「お金」のために威張ったりへつらう関係になることは、特に若い人には受け入れがたくなってきているような気がします。

今の時代の日本のような恵まれた環境では、お金のために頭を下げるということが昔ほどは受け入れにくい人が多いのではないかと感じます。

 

いろんなお店で接客を受ける時に、どちらがお客さんかわからないような横柄な態度をとる店員さんもたまにいます。

こういう人は仕事に対しての向き合い方が何か違うような気がします。

働く人からすれば、仕事は、生活をしていくための給料をもらうためにします。

しかし、人間的な成長という視点からすると、仕事の時ぐらい他人に奉仕したり、自分を抑えなければ、人は無意識に生きてしまい、傲慢になったり自分勝手な勘違い人間になってしまいます。

人間誰しも大なり小なりプライドがあります。

仕事とはいえ、納得できないことに頭を下げたり、自分の感情を押し殺すことはストレスですし受け入れがたいことです。

 

人は「幸せになる為に生きている」のであれば、幸せになる為には「感謝する気持ち」「相手を尊重する気持ち」「自分への執着を手放す努力」などは欠かせないと思います。

しかし、これらのことを日常のプライベートの生活から学ぶことは難しいのではないかと思います。

自分がお客になって売り手に感謝するよりも、自分が売り手になって相手に感謝する方がより心がこもるし、自分が売り手の時に、お客に嫌な対応をされて自分の感情を押し殺しても相手の満足のために頑張ることで「自分への執着を手放す」修行になってくるように思います。

 

お給料をもらっているから、相手がお金を払っているから、プライベートではできないような我慢をしないといけないと考えるのか?

それとも、仕事の時ぐらい自分を律した言動をしなければ、いつ自分を律することが出来るのか?!と考えるのかで、やらされている感と自主的感が違ってくると思います。

 

自分はお給料のために卑屈になっていると考えるのではなく、自分の成長のために自分から好んで自分を律しているんだと思えれば、「今日も利己的な自分、自分勝手な自分を律することが出来た!!」と成長を実感できるのではないかと思います。

そう考えれば、相手が自分のお客さんになろうとなるまいと、支払われるお金の金額の大小にかかわらず、相手に誠意を尽くしたり気持ちよく対応することが自分事になってくるのではないでしょうか?

 

逆に、お客さんに対して横柄な態度をとっている人を見れば、お客さんに対してさえ自分を律することが出来ないこの人は、今後どんな不幸な人生を歩んでいくのだろうかと思えて、腹が立つのではなくその人に対して同情の気持ちが芽生えてくるのではないだろうか?

嫌々やらされていることは、被害者意識が芽生えて得るものも少ないですが、自分の意志でやっていると思えた時にそこから学ぶことが出来るのだと思います。

 

仕事を頑張る理由の一つが、自分が勘違い人間にならないため、傲慢な人間にならないため、自分への執着を手放すため、等々……

仕事だと思えるから、普段できない我慢もできるし、自分の感情をコントロールできることも可能になってくる気がします。

 

仕事って無意識でやってはいけないのです。

無意識はプライベートで十分です。

「憂鬱でなければ仕事でない」と幻冬舎の社長が言っていましたが、仕事がしんどいのは意識して仕事することで、自分をどこまで律することが出来るのかに挑戦するのが仕事の意味と価値のような気がします。

 

仕事で嫌なことがあっても、そのことを受け入れるのも、お寺で座禅を組んだり滝に打たれるのも、やらされているのではなく、全ては自分を成長させるための手段だと考えれば、前向きに受け止め成長するチャンスになるのではないかと思います。

 

 

トップの仕事は「決断」していくことだと言われています。

元プロ野球監督の野村克也さんが「コーチがするのは「判断」で、監督がするのは「決断」だ」と言われていました。

 

「判断と決断」

 

普段は、特に意識してこれらの言葉を使用したりはしませんが、言われてみると「判断」と「決断」には大きな違いがあると気づきます。

判断はまだ変えられるが、決断したらあとは進むしかありません。

 

ある人の言葉に、「上司がする判断は、剣道で例えれば、竹刀や木刀での試合だが、トップのする決断は、死ぬか生きるかの真剣での試合のようなものだ。」と言われていました。

 

それだけトップの人の決断には、大きな責任がかかっているのだと思います。

よく「企業はトップの器以上には大きくならない」と言われますが、トップの決断の連続で企業の未来は決まってくるのです。

 

野村監督のような偉大な監督でも、全ての決断で正しい決断をしていくことはできないでしょう。

安倍首相は自分の決断で、国民の未来がかかってきます。

そのプレッシャーたるや私には想像できないぐらい大きいと思います。

 

どんな決断にも、いろんな可能性が秘められているので、何かを決断した時点では、その決断が正しいかどうかは誰にもわかりません。

それでもトップは、決断をしていかなければ前に進めなくなります。

 

「企業はトップの器以上には大きくならない」と言われる「器」って何なんだろう!?と考えると、正しいか間違っているかわからない決断を下していく際の「胆力」のことではないかと思います。

 

何かを決断する際に、必ず、その決断への反論、批判、攻撃があります。

そうマイナスの言動に対して、どこまで耐えれるか、どこまで信念を貫き通せるかということを、「その人の器」と呼ぶのではないかと思います。

人間は、自分を受け入れられればうれしいですし、自分を否定させれば悲しくなります。

自分を否定された状況で、自分と向き合い、自分の決断が正しかったのかどうかを自分に問い続けていくことで器が大きくなっていくのだと思います。

 

「地位が人を育てる」と言われますが、地位が上になればなるほど、決断を迫られる状況が増えてきます。

他人から批判されたくなければ、決断することから逃げるようになります。

一方、批判も覚悟のうえで決断していくことでその人の器が大きくなっていくのだと思います。

 

芸能人や政治家など、影響力が強くなると同じように風当たりも強くなってきます。

人は「いいとこどり」はできません。()

周りに対して(認めてほしいと)影響力を持ちたいのであれば、風当たりにも耐えれる訓練をしていく準備が必要なんだと思います。