「人生の質はコミュニケーションの質と比例する」ということを聞いたことがあります。
人生の質とは、簡単に言うと「幸せ感」だと解釈しています。
コミュニケーションの質が充実している人ほど幸せだということだと思っています。
コミュニケーションには下記の3種類があると言われています。
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言った人は気持ちがいいが、相手が嫌な気分になる
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言った人が嫌な気持ちになって、相手はいい気持ちになる
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言った人も言われた人も両方がいい気持ちになる
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の例として、独り言やボヤキ、自慢話、威圧的な部下への注意、命令、等々
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の例として、心にもないお世辞、言うべきことを言わないで我慢する、等々
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伝えることがお互いにwin-winの関係になれる。言われた人が、言った人の気持ちを理解できるコミュニケーション等々
人は誰しも自分のことが一番かわいいので、常に自分を守ろうという防御反応的な気持ちが働きます。
家族ならまだしも、心を許していない他人なら特に、誰かの言動が、自分を攻撃してくるのではないか?という恐れを抱きながら生活しています。
信頼関係が出来ている人の間では、言葉の中の「意味と価値」を省いても誤解が生じない場合もあります。
究極的には、長い夫婦関係で暗黙の了解で「アレ」「コレ」だけで意味が通じることもあります。(笑)
信頼関係が構築されていて、「この人が自分を攻撃してくるはずがない!」という安心感があれば、言葉を省略しても意思疎通ができるのかもしれません。
しかし、多くの人間関係では、そこまでの信頼関係が出来ている場合の方が稀なのではないでしょうか?
「信頼関係が築けている」と思うことは大切なことなのかもしれませんが、それを相手に求めると、誤解の原因になってしまします。
自分が相手を信頼することは自分の意志でできます。
しかし、相手が自分を信用していると思うことは過信につながってしまいます。
相手も自分のことを信用してくれていると思えば、どうしてもコミュニケーションの手抜きをしてしまいますが、相手の信用を損ねていかないためにも、相手が自分のことを完全には信用していない、と思うぐらいの気持ちでコミュニケーションしていくことが信頼関係の維持には必要なのかもしれません。
夫婦や親友との関係においても、「信頼関係が築けている」と思う過信が少しづつコミュニケーションの省略に結びつき、誤解が生じることもあるのではないかと思います。
コミュニケーションの質とは、「何をするか?よりも何のためにするか?」「何を言うか?よりもなぜそういうか?」に意識を向けていくことではないかと思います。