地球温暖化推進委員会 -13ページ目

地球温暖化推進委員会

全てのエコNPO・NGO団体に神の裁きを!

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 世の中はシルバーウイークだとかで長い休暇だったそうだが我がサービス業には関係の無い話だ。とは言え全く休みが無いわけではない。気温が落ちてバイクツーリングには良い気候になってきた。なかなかツーリングの計画はたたないが、妄想しながら物品に手を出す事はできる。近所の正規バイクディーラーがシーズン外れの在庫品を40%オフで処分セールすると知ったので駄目元で物色しに行ったら簡易型のメッシュジャケットとメッシュジーンズの掘り出し物があった。夜はともかく、まだ日中の日差しはキツイので出番はある。メッシュジャケットの肩と肘のプロテクターが貧弱だったので南海部品で探すと肘のプロテクターは丁度合う物があったが、肩のプロテクターは在庫切れだった。とりあえず肘のプロテクターを確保した。最近思うところがあり、GPSナビの電源を取り出すキットも同時に購入した。同時に超長距離ツーリングの便利グッズを見たが在庫切れで何も適当な物はなかった。

 今年は事情があってバイクで高速道路を巡航する様なツーリングはしていない。計画は立ってないが、バイク用品の調達の為に福岡までナンちゃってツーリング気分でバイクで買い物に出る事にした。福岡市のNAPSが目的地である。たまにはピストンヘッドに堆積したカーボンを燃やすべく、FZ1GTで高速巡航して佐賀県の三瀬峠越えした。午後1時前に店舗到着。ZZRオーナーズ倶楽部のメンバーさんと待ち合わせて買い物に付き合ってもらう。複数の目的の物があり、大半はNAPSで買えたが南海部品の商品が店頭にない。地元博多のメンバーさんに案内されて西区のライコランドに行くとお目当ての肩のプロテクターが売られていた。他にも検討すべき物はあるが取り合えず欲張らずに当初の目標を全て確保する事で満足した。ライコランドのまったりスペースでメンバーさんと長いお喋りを楽しむ。時間にして2時間強くらいだったな。午後5時近くになったので彼とサヨナラしてR202を3号線方向に走り、ファミレスでオヤツを取った後、駐車場でゲットした便利グッズをスロットルグリップに取り付ける。これはスロットルの開度を一定に保つ横着オートクルーズシステム(?)である。都市高速の下を走って大宰府ICから高速にのった。鳥栖ジャンクションまでは車が多くて加減速が多いので出番は無いが、長崎道からは交通量が減り、この横着システムが有効に働いた。手首の負担がかなり軽減される。ローテクアイデアグッズで特許も取っているせいかお値段は結構張ったが恩恵は充分受けていると思う。

 さてと後はGPSナビのバイクへの固定方法を決めねばならない。焦る必要はないが時間は止まってくれない。楽しみながら悩んでいこうか。

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 先日、縁があって知り合いの方から自身のコレクションの放出品を分けていただいた。手渡されたのは旧帝国陸軍の”98式軍刀”の鍔であった。保存状態があまり良くなかったみたいで表面のメッキ皮膜が腐食で剥げて緑青が発生していた。しばらく放置していたが、あまりに可哀想な姿だったので何とかしてやろうと表面の研磨をしてみた。先ずスチール製のワイヤーブラシで腐食して赤黒くなったメッキ皮膜と緑青を擦り取り、リューターに小型のワイヤーブラシで細部を研磨。平行して板金用のコンパウンドで磨く。地金の真鍮特有の光沢が幾らか戻ってきた。

 研磨作業をしながら大学1年生の必修科目の英語の授業を担当した教授の事を思い出した。彼は学生から”鉄ちゃん”と呼ばれていた。鉄ちゃんは授業が脱線すると戦時中の思い出を話す事が多かった。鉄ちゃんは大東亜戦争勃発時には既に教員だったらしい。徴兵されると教員だから人を指導するのは慣れているだろうと判断されていきなり少尉として配属されたらしい。戦争末期のやっつけ人事だと思う。現場の古参の軍曹連中に舐められないように吸えない煙草を無理に吸ってみせていたとよく語っていた。鉄ちゃんの部隊は南方に配属されていたらしい。あるとき米軍の攻撃で鉄ちゃんの部隊は壊滅。鉄ちゃん自身は機銃掃射で14発も被弾して重症を負った。鉄ちゃんは野戦病院に運ばれたが軍医は鉄ちゃんに赤チンを塗って2日間放置した。幸運にも14発の弾丸は鉄ちゃんの急所をすべて外していた。内蔵と骨を上手く避けていたらしい。つまり軍医の見立ては軽傷なので重傷者の手当てが優先されたらしい。鉄ちゃんは戦地から復員してまた教鞭をとっていた。その鉄ちゃんが私達の前期授業の終わり近くで急遺してしまった。年齢を考えるとそう不自然でもないが彼の口癖の”人はなかなか死なん。”と言う言葉だけが教壇に残ったような気がした。

 鉄ちゃんは戦時中の徴兵で戦地に向かっているのでどんな軍刀を指揮刀に使っていたかは解らないけど、この98式軍刀の鍔を見ていると鉄ちゃんの授業を懐かしく思い出す。多分この軍刀の持ち主も生き残って復員出来たからこそこの鍔がここにあるのだな。

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 職場の後輩が愛車のTL1000Rを手放した。彼が使っていたシートバックをもらってくれと言われて引き取ったのがほぼ半年前。固定用ベルトに使用されているバックルの種類が手持ちのタイプを異なり、直ぐには使用できなかった。近所の手芸用品店で探してみたが見当たらない。先日上京した時に御徒町の大型手芸用品店で物色するも店頭在庫が1個。これでは話にならないので諦めてネット販売で購入した。

 既にFZ1GTとZZR400N4にはシート下からボルト留めでベルトを装着しているのでバックルさえあれば直ぐに実装出来る。お中元とお盆前のせいか配送に時間が少し余計に掛かったが、無事商品が手元に届いたので早速実装する。

 このラフアンドロードのシートバックはアニメの合体変形メカの様に、標準形態から二つの形態に変形可能なのであった。一つは二人乗りを可能にするタンデム形態。他方はトリプルパニアを模したサイドバッグ展開形態である。シートカウルとの干渉が気になったがバック側の形状が上手く合わせてあり問題無さそう。実際に荷物を詰めて走ってみないと解らないが現時点では上々の出来。

 まだ気温が高いので出歩く気は起きないが秋になったら本格運用開始かな。

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 追浜から移動して横須賀の市街地の京急汐入駅で下車した。目的は帝国海軍連合艦隊旗艦三笠の見学とどぶいた通りと呼ばれる飲食店街(?)での食事である。汐入着が丁度昼時であったので先にどぶいた通りで食事を取る事にした。御当地メニューは海軍カレーとネイビーバーガーである。意外に平日の昼間は人影もまばらで店も半分以上が閉まっていた。拍子抜けする。通行人は何故か若い陸自の隊員とアメリカ海軍関係らしい外人に青い迷彩柄の戦闘服を着たアメリカ海軍の軍人とおぼしき男達。

 観光マップで調べていたツナミと言うハンバーガーショップは樽の様な外人で行列だったので海軍カレーに目標を変更した。海軍カレー館と言う看板の店に入る。ここは明治41年当時のレシピで海軍カレーを食べさせているらしい。注文して直ぐにカレーが出てきた。なるほど化学調味料系の味は一切しない。カレースパイス風味のシチューの様な感じである。当時としてみればかなりハイカラな味として見られていただろう。牛乳が添えてあるので海軍ならではらしい。なかなか風情を感じる味だった。

 カレーを食べ終え、レジで三笠公園までの徒歩での所要時間を聞くと15分前後と言うので徒歩にて向かう。途中にアメリカ海軍基地のゲートがあった。この中にかつての帝国海軍横須賀鎮守府があった。残念ながら入る事は出来ない。ほぼ数分で三笠公園の入り口に到着する。公園内敷地は結構広い。戦前に戦艦三笠は記念艦になっていたので周囲の整地が早かったのだろうか。

 三笠のタラップを登り入場料600円を支払う。タラップで発信音の様なピーと言う音が聞こえていた。内部は写真撮影は歓迎と言う確認を取り、カメラ小僧となって順路を進む。日露戦争を戦ったこの艦は英国のビッカース社で建造された戦艦で当時としては最新鋭艦であった。今の様な電子装備有りきの世の中ではない。唯一電気的と言える装備はモールス電信機程度であとは人の目による有視界戦闘であった事は展示物からアリアリと感じられる。明らかな”人同士の戦い”である。

 甲板から艦橋に上がり、東郷元帥が見たであろう風景を楽しんだ後は艦内に入る。内部は様々な展示物があり、後部は艦長や高級仕官が使った部屋の展示がある。海自のOBらしいボランティアの人が観光客に熱心に解説して回っていた。なかなか聞いていて勉強になる事が多い。土産物屋で”号笛甲”と言うホイッスルを見つけた。500年程前から船乗りの間で使われていたらしいが今では海軍でしか御目に掛かる事がない笛らしい。三笠のタラップで聞いた音の正体はこれだった。興味があったので取り合えず確保して帰った。

 この汐入の駅前の港から横須賀港を巡る”軍港クルーズ”があるのだけど時間的な問題で次回のチャンスに持ち越す事になった。次の調査対象は原子力空母とネイビーバーガーだな。

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 上京の機会に恵まれたので大東亜戦争で海軍航空隊だった叔父が予科練時代に過ごした横須賀の海軍予科練航空隊跡を訪ねてみた。かつての海軍施設の跡は民間に払い下げられ、工場や倉庫の集まる場所となっている。京急線の追浜駅から海岸方向に向かうと貝山緑地公園に辿り着く。この公園には海軍航空隊発祥の碑と、予科練航空隊の碑がある。公園の頂には展望台があり、横須賀の海と空が一望出来る。荒鷲を志す若き航空兵であった叔父が見た海と空が見たいと思い梅雨の晴れ間の中、当地に赴いた。予科練の兵舎や施設は公園に隣接する水道局の浄化センターの位置にあったらしい。

 予科練に入隊する際の年齢制限は14~17才。ここで叔父は昭和12年6月1日から2年間の訓練期間を過ごした。予科練在籍中は休日もあった筈で追浜や横須賀、横浜方面に遊びに出た事だろう。実際の海軍施設の規模に関しての知識はないが自分の足で叔父が歩いたであろう土地を踏みしめてみたいと思った。

 貝山緑地公園に入ると直ぐに海軍関連の地である事を示す看板があり、表示通りに予科練の碑に辿り着く。乙種飛行兵と甲種飛行兵の二種類の碑と海軍航空隊発祥の碑が有るが海軍航空隊発祥の碑は移設されてここに建てられたらしい。叔父は乙種第8期生であったので乙種の碑の前で叔父に挨拶をした。

 公園の頂にある展望台から横須賀の空と海を暫し眺める。叔父に限らず予科練の若者はこの空と海を志をもって眺めていた筈である。この公園自体が実は海軍の施設で地下には大規模な地下壕があるらしい。展望台に上る途中からは対空砲台跡にも行けるが僅かなコンクリートの名残があるだけである。

 公園の周囲は海軍の土地でもあり、予科練の兵舎跡も見たいので気分次第でブラブラと歩く事にした。浄化センターに向かう途中、公園の斜面に地下壕の入り口が複数開いているのが確認できた。そのまま散策すると明らかに最近の建築ではない、雰囲気たっぷりの建物と倉庫があった。流通系の倉庫に使用されている様だが、素人目に見ても明らかに怪しい・・。外周を回ると看板と碑があった。海軍の技術研究施設跡であった事が判明。看板には当時の地図があり、予科練の兵舎跡がはっきりと表示されていたので浄化センターに向かう。

 浄化センターは敷地内に浄化した水を使った庭園を一般開放しているので問題なく内部に入れた。正面入り口から入ると左手に貝山緑地公園の斜面が面しているが、高さ数mはあろうかと思われる地下壕の大型の入り口が数箇所有り、巨大なタンクの様な構造物が露出している。頑丈なフェンスで内部進入は出来ない。資料によると総延長数キロに渡る迷路状態の施設らしい。浄化センターの庭園では浄化水でメダカとトンボを育てていると表記してあった。ここの敷地が予科練の敷地そのままで叔父達の生活空間でもあった。この風景を叔父達が見たらどう思うだろうか。厳しい訓練の日々だった筈だ。志を持つ者とそうでない者は自ずと生き方が異なるのである。