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Appadiyah* ~ in India ~

南インド出身のドラヴィダ人の夫と共にタミルナドゥ州コインバートルに在住。
“Appadiyah”とは、タミール語で「へぇ、そうなんだぁ」「へぇ、ほんとに~!」という意味の感嘆語。なんとなくその言葉の響きが好きなのでブログのタイトルに。

帰国間際に慌てて買ったリキッド・ファンデーションと口紅…
ダッカに戻って引き出しを開けると、昨年日本を発つ前に同じように慌ただしく購入したものと全く同じだということに気づいた。
しかも未開封のまま、その存在すら忘れていたのだ。

自分の安定したチョイスに感心すると同時に、あまりにも化粧っ気のない自分に改めて反省。

今回は、年齢を考えて基礎化粧品だけはしっかりするようにという友達の忠告を聞いて、化粧水を買って持ってきた。
それから、すっかり重ね焼きされた肌色にわずかな希望をかけて、資生堂の「HAKU」も購入。

敏感肌という以上に、基本的に体に何かを塗りたくるのに抵抗がある私の化粧品は、いつまでたっても減らない。

でもダッカに戻ってから今日までの一週間、朝晩の化粧水&ローションでのケアはなんとか続いている。

自分美化週間…いつまで続くだろうか。
蟻や蚊の襲撃に悩まされることもなく、渋滞に鳴り響く幾種ものクラクションの不協和音に頭を突き刺されることもなく、
日本での滞在は忙しいながらも、きわめて平和に楽しく過ごすことができました。

卵かけご飯も食べたし、牛乳も美味しく味わうことができたし、
食べたいものを片っ端から食べまくった結果、ダッカでは会う人会う人に太ったと言われるけれど、
美味しいものを美味しくいただいて肥えたのだから、まったく文句はありません。

夫が来日するまでの約3週間の間、ほとんど毎晩予定が入ってしまい、
時間が合わなくて会えなかった友達や、結局連絡もできなかった方々…すみませんでした。

今回は、時間が限られていながらも多くの友達や知人たちと会えて本当によかった。
私はかつてのというべきか、本来のというべきか、埃に埋もれてしまっていた自分自身を取り戻せたような気がした。
それには、友達や周りの人たちの、今までと変わらない何でもないような時間が必要だったのだ。
最初の一年間…私はやっぱりダッカで少し疲れていたのだと思う。
少しずつ少しずつたまっていった埃を、私を知っていてくれる人たちとの時間や何気ない会話が少しずつ払い落としてくれて、本当に心が軽くやわらかくなっていくのを日々感じることができた。
だから、改めて私の周りにいてくれる人たちに心から感謝することができた帰国でもあった。
そして、その忘れていた静かで落ち着いた気持ちで、「よし、ダッカに戻ってもこの気持ちを忘れずにまた頑張っていこう」と思えたのだ。

とはいえ、心のウォーミングアップを終えたその足で担ぎ上げられたダッカのリングはさすがに容赦なく、まだ足下がおぼつかない感があるのだけれど。


今回帰国してつくづく思った。
あ~日本はなんて心穏やかでいられるところなんだろうと。

それはきっとバングラデシュにおいてまだまだ私が未熟者で、
過激で騒々しく恐ろしくスローな時間の中で、私はいちいちペースが掻き乱されたりしているからなのだろう。
そんな全てを受け入れたら悟りの境地にでも入っていけるのだろうかなどと考えてみたりもするが、
当のバングラデシュ人たちだって、スローモーションの日常になれているとはいえ、
自分に害の及ぶことになると一気に着火して大声でわめいているわけで…
まあ、決してこの世の全てを受け入れたような安らかな仏のような微笑みをたずさえているわけではないのだ。

でも、なんといっても、ダッカがバングラデシュが悪いわけでは全くないのだ。
結局は自分で自分の人生を切り開いていく力を、もっと私自身が身につけていかなければいけないのだと思う。
先進国でもない、かといって遅れすぎているわけでもないこのバングラデシュという国は、ある意味では柔軟性があって居心地がよく、自分が成長したいと強く望む方向に導いていくにはうってつけの土壌と言えるのかもしれない?、、、、という期待を込めて。

今回の帰国中、回数にしたらわずかだけれども、私はダッカに来るまで10年近く通っていたダンスのスタジオでまたレッスンを受けてきた。

正子先生をはじめスタジオのみんなに会っても、まるでほんの1~2ヶ月ぶりくらいに会ったような、すごく自然な再会だったと思う。

でも、初日のレッスンが始まる前、私たちが各々でウォーミングアップをしているときに先生が一人で音楽をかけて踊っている姿を見た時、私の目にはとてもあついものがこみ上げてきた。
それはただの懐かしさからではなく、先生の動きそのものに改めて感動したのだった。

先生の動きは、そこに流れる音楽にもうひとつ別の魂を吹き込んでいくのだと思う。
先生が作品に使っている曲は、曲そのものもとてもすばらしくて私も好きなのだけれど、そこに先生の動きが入ることによってよりドラマティックで大きく広がっていくような気がるするのだ。
ダイナミックでエレガント、力強く大地に立ちながらも軽やかに空間に体を解き放つ、荘厳で崇高な動き。
先生が踊った曲を一人で聞いていると、そこに踊る先生の映像をが現れて、その姿をたどっていくことでそこに広がる世界が大きく変わっていくのだ。

ダッカに来てからも、これまでスタジオで(特に作品で)使った曲を聞くことで私は別の世界に入り込んでいって、それによって一人励まされたりしていたものだ。

私は長くダンスを習っていながら、別のダンスのことは実は全く知らない。
だから私は、「踊ることが好きで好きでたまらない」とか「ダンスが私の生き甲斐」だというタイプとは正直違うのだ。
でも、正子先生の踊りの世界が好きで、「あ~、あんな風に踊れたらいいなぁ」という思いがあったからずっと続けてきたのだろうなと思う。

一年以上のブランクがあってのレッスンで、以前のように体が自由に動かないことや、発表会に向けて作り上げていく作品についていけなかったりしたのが寂しくもあったけれど、それでも一ヶ月間また先生のスタジオでレッスンを受けられたことに本当に感謝している。
日本にいるときにはそれが当たり前すぎて、時には体がだるくてやる気がでない日もあったりしたけれど、こうして日本を離れて振り返ると、なんとかけがえのない時間を過ごし何にも代え難いレッスンを受けていたのだろうと思う。

日々の生活そのものだってかけがえのないことだとは分かっている。
けれど、ここダッカでも長い目で深く関わっていける何か、自分にとって尊い何かを見つけることができたらと、心から願わずにはいられない。
今朝、出勤前にビザの更新に行ってきた。

夫の会社のアージュンがビザ・オフィスで待っていてくれた。

私たちは窓口の列には並ばずに、夫のビザ関連を担当しているサイフル氏のいる部屋へ向かった。

必要書類を渡して、アージュンとサイフル氏が話をしているのを横で聞いていた。

グシュ(賄賂)の交渉は、はじめサイフル氏が3500タカ要求していたのが分かったが、最終的には2000タカでおさまったようだ。

ここではグシュは恥ずべきことではなく、机の下の取引どころか、机の上で堂々と交わされているのだ。

おかげで私の延長ビザは夕方には発行されたのだった。
気のせいだろうか、ダッカの渋滞が以前にも増してひどくなっているような気がする。
日本帰りの日本ボケのせいだろうか。

帰国早々、再び残業続きの仕事に追われ、
疲れ切って車に乗り込んでから家に着くまでに、早い時でも1時間はかかっている。

ボーッと車窓を眺めていてふと、

やっぱりダッカは確実に車の量が多すぎる!

という今更の再発見ともいえる事実にうろたえた。

この渋滞は、信号不足や交通マナーの欠落だけが引き起こしているのではなく、
明らかに、どうみても車が多すぎるのだ!

かく言う私も車で通勤をしていて、渋滞の原因の一要因となっているわけだから
文句を言える立場ではないのだけれど…。

帰国後一週間経った今になって、
このダッカの渋滞が「どうだ、これがダッカだ!」と言わんばかりに
グイグイと私に差し迫ってきているのだ。

ダッカよ、お前がそんな街だということはよ~く分かっているのだ。
だからもうしばらく私を放っておいてくれ。
帰国2日目、帰ってくるかと心配していたコックのナシールも無事に仕事に復帰した。
バングラでは、長い休暇が明けるとそのまま仕事に戻ってこない…ということがよくあるのだ。
初代コックのボシルもそうやってこの家を去っていったのだから、
勝手に2~3日休暇を延長する…なんていうのはかわいいものだ。

3日目からは私も仕事に復帰した。
ドライバーのイドリスはまさに自主的休暇延長組で、子分的友人のムファッジャルを代理としてよこした。
一瞬、イドリスに買ってきたお土産をムファッジャルにくれてやろうかと思った。
私の会社でもやはりイード休暇の自己延長組が約半数。


ダッカの道はやっぱり混んでいた。
まるで私が日本にいた5週間の間、ダッカでは時間がゆっくりゆっくりと進んでいて、あの日ダッカを旅立った日にそのまま連れ戻されてしまったような気がした。

結局、私の中ではまだ日本とバングラデシュの両方がイコールに存在しているのだと思った。
だから、戻ってみればどちらの生活もリアルな感じがして、自分がいる世界がすぐに自分のものになってしまう。
これが3年、5年、10年と時が経っていくうちに、その比重が少しずつ変わっていくのかもしれない。
そうやって自分の居場所がどこなのか…少しずつ明らかになっていくのだろう。
5週間の日本滞在はあっという間に終わってしまった。

雲の下に日本列島が見え、きれいな成田の空港に降り立ち、キンモクセイの香りをかぎながらゆっくりと実家に向かう道…
“日本”の味をひとつひとつを確かめながらどっていった日は過ぎ去り、再びダッカへの道をたぐり寄せていく日が来てしまったのだ。

夜のダッカの街が眼下に見え、薄暗い空港をスーツケースを引きずりながら、日本のフィルターを拭いきれていない私は、かつて旅行者としてやってきたときのような感覚を覚えていた。
外国人パスポート用のイミグレーションの列に並んでいる時、数匹の蚊がふらふらと飛んでいるのを見て、すっかり無防備になっていた自分に気づいた。
空港の外のクラクションの音、暗い道、我が家の隣に新しい会社の看板ができていた以外は何も変わっていなかった。

家の鍵を開けると、リビングのファンがビュンビュンと音を立てていた。
コックのナシールはイード休暇のため田舎に帰っていて翌日からの出勤。

私と夫の大きなスーツケース2つと小さいキャビン用バックの計4つを開けて、手早く荷物をほどいていく。
二人分の荷物でも、運びきれずに日本に置いてきたものがまだまだたくさんあった。

洗濯物やお土産などを振り分けて、服や下着を所定の場所にしまおうとタンスの引き出しを開けたとたん…

ギャーッ!!!!

私は反射的に手に持っていた下着を降り投げて退いていた。

なんと、大量の蟻が引き出しの中で私の下着と靴下をむさぼっていたのだ。

またしても蟻。
初日から蟻。

そうだ、これがダッカだったのだ。

こうして私のダッカ生活は再び始まったのだった。
インドにて遭遇した動物たち

①野生の象

「野生の象を見に行こう!」
と、メトゥパラヤンからニルギリ山(蒼い山)に車で向かって間もなく、
なんと数メートル前を象の親子が横切っていったのだ。

象は通り道を持っていて比較的出没しやすい場所というのがあるらしいのだが、
それにしてもいつでも会えるわけではない。
あまりにもあっけなく象との遭遇を果たしてしまったのだった。

山道の道路脇には、車やバイクを止めて土手を降りたところで木々の葉を食む象を見学するひとたちが増えていった。
すると、おもしろがって象を刺激する人たちが…
しばらくすると、象がトランペットをならし威嚇し始めた。
その合図とともに、皆が一斉に車やバイクに乗り込んで逃げ出した。
当然私たちも車に乗り込んで、来た道を引き返した。

象が怒ると大変だということを、地元の人たちはよく知っているのだ。
(知っていてわざと刺激するというのは、世界中どこも同じなのだ)

象が走って追いかけてきたら、人間は簡単に追いつかれてしまう。
もしもそのような場面に遭遇してしまったら、左右ジグザグに走るといいのだという。
大きな体で小回りのきかない象は、ジグザグに追いかけると速度が鈍るのだという。
これは、象のいる地域ならではの知識なのだ。

$Appadiyah* ~ in Dhaka ~-象@
撮れたのはこんな後ろ姿だけでした…。



②朝の羊の群れ

朝早くに家を出て街に向かう途中、朝日を受けて羊たちが群れをなしていた。

朝のお散歩かあ。。。。

と思ったらどうやら違うらしい。

話によると、近くの農場へ羊たちをつれていき、そこで肥料となる糞尿をさせるという立派な朝のお勤めだったのだ。

なるほど~、まさに持続可能なエネルギー。

無駄になるものは何もないのだ。

$Appadiyah* ~ in Dhaka ~-羊の群れ



③早朝にたたずむ乳牛

インドを発つ日がやってきた。
朝のフライトに間に合うように、早朝に夫の実家をあとにした。

しばらくすると、一頭の牛がある家の門の前でじ~っと身動きもせずにたたずんでいた。
うつろな目をして、ただただ黙って立っているのだ。

なんとこの牛、朝の散歩を終えて、主人が門を開けてくれるのを待っているのだという。

牛もそんなに賢かったのかぁ…という驚きと同時に、
家に入れてもらうのを黙って待つけなげな姿にキュンとしてしまった。

※残念ながら写真は無しです。。。
すっかり報告が遅くなりましたが、前回Hotmailがブロックされましたとご報告した数日後から、再びメール復活しています。

帰国中につき、バタバタしていたためここに載せるのがすっかり後回しになってしまいました…すみません。
10月7日、キャセー・パシフィックKA183便でダッカを発ち、香港での2時間のトランジットの後、私を乗せた0715便は大きな翼を広げて日本へ向かって飛び立った。

鹿児島上空付近を通過するとき、大きな独立峰からなる桜島らしき島が見えて、その時はじめて「あ~、日本に帰ってきたんだ」と思った。

モニターに映し出される搭乗機の現在地が東海地方を越えて関東にさしかかろうとすると、私の心はいよいよ日本に降り立つ準備モードになっていた。

日本のパスポートを持つ国民として、でももう日本に住むことはない人間として、周りの誰一人としてそんなことは知る由もないのだけれど、私は日本に入国することに色々な思いが混じったなにか不思議な感覚を覚えていた。


飛行機から降りた瞬間、日本の秋の匂いが目から鼻から肌からしみわたってきた。

「あ~、これだ~」

と思った。

ちょうどいいバスがなく、私は京成線の特急でゆっくりと帰ることにした。
一年以上使っていなかったSUICAが改札でひっかかり、ちょうどホームに入ってきた電車にあやうく乗り遅れるところだった。

周りを見渡すとみんな日本人。
みんなが日本語を話している。
皆小さな声で行儀よくささやいていて、私は目を閉じてしばらく日本語のBGMを聞いていた。

電車の開閉の音楽。
車内で流れる宣伝広告。
この駅ではどっちの扉が開くとか、あの駅は何号車にのっていると階段に近いとか。
覚えていることと、記憶が薄れてしまっていること、変わってしまったことと、変わらずに残っていること。
たった一年数ヶ月のことなのに、私がいなかった空白の時間が何か特別な時間だったかのように、私は注意深く観察していたのだった。

人の思いというのは本当に勝手なもので、
その町から離れていってしまう人にとっては、“昔と変わらないもの”に安心したりして、
その町にずっと住み続けている人にとっては、自分の町がいい方向に変わっていくことに喜んだりするものなのだろう。

そしてしばらくして気づいたことは、

そんなに驚くような大きな変化は何もないなぁ…という当たり前の事実だった。

そしてそれは、日本にいるという感覚についても同じで、まるで1~2ヶ月の旅行から戻ってきたかのような、つい前日までいたダッカでの生活がまるで「他人事」というフィルターがかけられてしまっているような、それはまた不思議な感覚だったのだ。

地元の駅に着くと、心地よい秋の風とともにキンモクセイの花の香りがどこからともなく流れてきた。
キンモクセイの香りをこんなにも強く感じたことはなく、初めは何の香りだか分からなかったくらいだ。
スーツケースをガーガーと引きづりながら歩き慣れた道をテクテクと歩く。
変わったのは私の生活環境だけで、この町は何も変わっていなかった。
そしてよくよく考えてみれば、私だって住む場所がちょっと変わっただけで、その他に何かが大きく変わったということはなかったのだ。

それでもやっぱり、自分の家に帰ってくるというのは、ちょっとした特別な出来事なのだと思う。

鍵をあけて家に入ると、ワン子が相も変わらずキャンキャンと吠えて出迎えてくれた。