ご連絡です。
現在、Hotmailがブロックされているため、サインインすることもできません。
第三者が私のメールを通じてスパムメールを送ろうとしているとのことで、
すべてのアクセスがブロックされている状態です。
つい数日前にも一度同じようなことがあり、ガイダンスに従い再登録をして復帰しましたが、
再度同じ状況に陥ってます。
現在、再復旧を待っている状態ですので、その間はメールの確認ができないのでご了承下さい。
先週日曜日のこと。
夜遅くまでインターネットで調べものをしていたら、すっかり目が覚めてしまい寝付けなくなってしまった。
すでに夜中の2時をまわっていて翌日も仕事があるからなぁと、ちょっと寝酒に頼ってグラスに日本酒を注いで飲みほした。
案の定、15分もしないうちに全身がドクドクと音を立てて体が重たくなっていき、そのままいつの間にか眠りに落ちていった。
それからおそらく約30分ほどして、私は激しい嘔吐感で目が覚めた。
眠気と酔いで朦朧とする中、私はベッドから立ち上がってトイレに向かった。
胃のあたりからこみ上げてくるどうしようもない不快感を押さえ込みながら、トイレのドアノブに手をさしかけたかかけないかという時、さ~っと血の気が引いていく感覚が一瞬かすめたような気がした次の瞬間、全てが途切れた。
多分数秒もたたないうちに、夫が目を覚まして何か言いながら近づいている声がかすかに聞こえた。
そこではじめて、私は自分が倒れていることに気がついたのだ。
倒れる瞬間、その一瞬の記憶がない。
狭い記憶の回路をこじ開けていくと、力を失って腑抜けになる脚の感覚をかろうじて覚えているような気もする。
意識が戻ると再び吐き気が襲ってきた。
体がわずかにしびれながらも、夫の手を借りて立ち上がり便器にもたれかかった。
しばらくそこに横たわっていると、さ~っと引いていった血潮が少しずつ体内に戻ってきて、ゆっくりと体が平静を取り戻していくのを待った。
体が落ち着くのを待って、何故私が倒れたことに気づいたのかと夫に聞いてみると、大きな音がしたからだという。
眠っていても気づくほどの大きな音だったのか。。。。
でも、きっとうまいこと倒れたのだろう。翌日になってもどこも痛みを感じたりはしない。
おそらく、急性アル中のようなものだったのだろう。
お酒を飲んで記憶が飛んだり、べろんべろんに酔っぱらったり、貧血で倒れたり…そういう経験の無かった私にとっては、今回のエピソードはちょっと貴重な楽しい経験となった。
今でもその時の自分を思い出すとなんか笑える。
それにしても、私がお酒を飲んだことも知らずに、ただただ倒れている私を見つけた夫はさぞかしびっくりしたことだろう。
夜遅くまでインターネットで調べものをしていたら、すっかり目が覚めてしまい寝付けなくなってしまった。
すでに夜中の2時をまわっていて翌日も仕事があるからなぁと、ちょっと寝酒に頼ってグラスに日本酒を注いで飲みほした。
案の定、15分もしないうちに全身がドクドクと音を立てて体が重たくなっていき、そのままいつの間にか眠りに落ちていった。
それからおそらく約30分ほどして、私は激しい嘔吐感で目が覚めた。
眠気と酔いで朦朧とする中、私はベッドから立ち上がってトイレに向かった。
胃のあたりからこみ上げてくるどうしようもない不快感を押さえ込みながら、トイレのドアノブに手をさしかけたかかけないかという時、さ~っと血の気が引いていく感覚が一瞬かすめたような気がした次の瞬間、全てが途切れた。
多分数秒もたたないうちに、夫が目を覚まして何か言いながら近づいている声がかすかに聞こえた。
そこではじめて、私は自分が倒れていることに気がついたのだ。
倒れる瞬間、その一瞬の記憶がない。
狭い記憶の回路をこじ開けていくと、力を失って腑抜けになる脚の感覚をかろうじて覚えているような気もする。
意識が戻ると再び吐き気が襲ってきた。
体がわずかにしびれながらも、夫の手を借りて立ち上がり便器にもたれかかった。
しばらくそこに横たわっていると、さ~っと引いていった血潮が少しずつ体内に戻ってきて、ゆっくりと体が平静を取り戻していくのを待った。
体が落ち着くのを待って、何故私が倒れたことに気づいたのかと夫に聞いてみると、大きな音がしたからだという。
眠っていても気づくほどの大きな音だったのか。。。。
でも、きっとうまいこと倒れたのだろう。翌日になってもどこも痛みを感じたりはしない。
おそらく、急性アル中のようなものだったのだろう。
お酒を飲んで記憶が飛んだり、べろんべろんに酔っぱらったり、貧血で倒れたり…そういう経験の無かった私にとっては、今回のエピソードはちょっと貴重な楽しい経験となった。
今でもその時の自分を思い出すとなんか笑える。
それにしても、私がお酒を飲んだことも知らずに、ただただ倒れている私を見つけた夫はさぞかしびっくりしたことだろう。
インドから戻った翌朝、キッチンにいたロザリオとたわいもない言葉を交わした。
するとロザリオが
「マダム…」と言ってうつむいた。
直感的になんとなく分かった。
「私は今日家に戻ります。そしてもうここには戻ってきません」
「そっかぁ。。。」
話を聞くと、私たちの同居人ラダ(夫の会社のインド人)と馬が合わないとのこと。
どうやら私たちがインドに行っている間に、色々とあったようだ。
ラダは気性があらく、好き嫌いもはっきりしている人で、人間関係ではもめ事がおきやすいといっていいタイプの人なのだ。
幸い、私は深くはないがそれなりにラダとはうまくやっていけているので、生活していく上での不便は感じないのだが。
でも実をいうと、ロザリオについては、私と夫との間でもコックを替えた方がいいかもしれないという話をしていたところだったのだ。
だから正直、ロザリオが涙ながらにここを去ると打ち明けてくれたとき、原因がラダにあるとは言っても、私はなんだか後ろめたい思いがしていた。
(コックを替えたかった理由は色々とあるが、今となってはあえて触れる必要はないので割愛する)
ここ数ヶ月間、私たちは日本食ができるコックを漠然と望んでいた。
そして数週間前、ある日本レストランに行った際、そこで働く若い女の子が料理を運びにきた際に私たちにこっそりと耳打ちしてきたのだ。
「あの、日本料理ができるコックさん必要ありませんか?」
それも、私たちが「日本料理ができるコック知りませんか?」と、まさに逆の質問をしようとしていたところに。
どうやら、彼女と彼女の親戚にあたる男性は過去何年も日本人の会社や家で働いてきたため、日本語もコミュニケーションできる程度に分かるし、日本食も作れるというのだ。
翌日、彼女の親戚の男性が我が家にやってきた。
簡単な面接をして、とりあえずイード休暇明けに一度うちにきてもらうように…という話になっていたのだ。
そしてイードが明け、インドから戻った翌日にロザリオは自ら我が家を去っていった。
ある意味、とてもタイミングよくことがすすんだことに対する驚きとともに安堵感もあった。
ロザリオが去って2日後の今日、残業で遅くなったオフィズから戻ると、キッチンには新しいコック「ナシール」が立っていた。
ボシル、スクマル、ロザリオに続いて4代目コックの到来となったわけだ。
彼についての紹介はまたいつか。
するとロザリオが
「マダム…」と言ってうつむいた。
直感的になんとなく分かった。
「私は今日家に戻ります。そしてもうここには戻ってきません」
「そっかぁ。。。」
話を聞くと、私たちの同居人ラダ(夫の会社のインド人)と馬が合わないとのこと。
どうやら私たちがインドに行っている間に、色々とあったようだ。
ラダは気性があらく、好き嫌いもはっきりしている人で、人間関係ではもめ事がおきやすいといっていいタイプの人なのだ。
幸い、私は深くはないがそれなりにラダとはうまくやっていけているので、生活していく上での不便は感じないのだが。
でも実をいうと、ロザリオについては、私と夫との間でもコックを替えた方がいいかもしれないという話をしていたところだったのだ。
だから正直、ロザリオが涙ながらにここを去ると打ち明けてくれたとき、原因がラダにあるとは言っても、私はなんだか後ろめたい思いがしていた。
(コックを替えたかった理由は色々とあるが、今となってはあえて触れる必要はないので割愛する)
ここ数ヶ月間、私たちは日本食ができるコックを漠然と望んでいた。
そして数週間前、ある日本レストランに行った際、そこで働く若い女の子が料理を運びにきた際に私たちにこっそりと耳打ちしてきたのだ。
「あの、日本料理ができるコックさん必要ありませんか?」
それも、私たちが「日本料理ができるコック知りませんか?」と、まさに逆の質問をしようとしていたところに。
どうやら、彼女と彼女の親戚にあたる男性は過去何年も日本人の会社や家で働いてきたため、日本語もコミュニケーションできる程度に分かるし、日本食も作れるというのだ。
翌日、彼女の親戚の男性が我が家にやってきた。
簡単な面接をして、とりあえずイード休暇明けに一度うちにきてもらうように…という話になっていたのだ。
そしてイードが明け、インドから戻った翌日にロザリオは自ら我が家を去っていった。
ある意味、とてもタイミングよくことがすすんだことに対する驚きとともに安堵感もあった。
ロザリオが去って2日後の今日、残業で遅くなったオフィズから戻ると、キッチンには新しいコック「ナシール」が立っていた。
ボシル、スクマル、ロザリオに続いて4代目コックの到来となったわけだ。
彼についての紹介はまたいつか。
7月8月と断続的に胃腸の調子が悪かったため、インドで一度検査をしたほうがいいとの勧めを受けて、エンドスコーピ(胃カメラ)検査をすることにした。
日本から離れた以上は日本の医療やその他のサービスに頼っているわけにもいかないし、何よりもインドの医療技術は十分に高く、海外にも多くの医師を排出しているというから、比較的安心して身をゆだねることができる。
バングラデシュのようにまだ医療技術や環境が一部でしか整えられていない国では、重い病にかかると多くの人が治療のためにインドやタイ、シンガポールなどへ足を運ばざるを得ないこともある。
もちろん、経済力がなければ海外どころか国内でも適切な治療が受けられない。
治療のために大事な土地や家を売って田舎からダッカや海外に出てくる人たちもいるけれど、必ずしもその努力が報われるわけではないのが現状だ。
さて、私が訪れたのはタミールナドゥ州CoimbatoreにあるVGM HOSPITAL。
Gastrology(胃学)では腕のある院長がいるこの病院に、夫の友人が胃カメラなどの医療器具を提供しているということで紹介を受けた。
病院は比較的新しいのだけれど、その割には衛生管理についてはまだまだ改善の余地が見られた。
約15年前に一度だけ受けた胃カメラ検査では、咽喉から腹部にかけて刺激する異物感がひたすら嘔吐感を促して、相当苦しい思いをしたのを覚えている。
しかし、日進月歩の医療の発達と最近エンドスコーピを受けたという知人の確信的な言葉に、私は無条件で信頼を寄せて何も気構えることなく検査に向かうことが出来た。
舌に麻酔のスップレーをかけてそれを飲み込むと、すぐに麻酔が効いて舌から喉にかけての神経が膨張してしびれ始める。
左肩を舌にして黒いチューブのエンドスコーピが挿入されて喉にさしかかると、食べ物を飲み込むようにカメラをゴクンゴクンと飲み込むのだけれども、これが見事に期待を裏切るほどきつい!
痛みはほとんどないのだけれど、喉から胃にかけて広がる異物感が嘔吐を促し続け、涙腺が刺激され涙がぽろぽろとあふれ出し、鼻からは鼻水が、口からはよだれが垂れ流し状態になる。
カメラは胃からさらに腸まで進み、ところどころで細胞を採取し、写真を撮りながら体内を行き来する。
モニターに映し出された器具が私の臓器の細胞を掴んでサンプリングする度に、お腹のあたりで内幕がピンッと引っ張られるのを感じる。
その様子はとても興味深いのだけれど、とにかく挿入されている異物に対する不快感に体がリアクションをし続けていた。
検査が終了して起き上がると、知らぬうちに目から鼻から口から驚くほどの液体が流れ出てシーツを濡らしていて、私の左腕もぐっちょり。これは想定外の失態だった。
検査の結果、ちょっとした問題が発見されたため検査入院をすることになった。
問題とは、食道と胃のジョイント部分に青白い色をしたバルブがあるのだけれど、私のバルブはかなり大きく開いてしまっているのだ。
そのため胃から酸が逆上昇して、内膜に炎症を起こしている可能性があり、その度合いによっては将来的に発癌などを引き起こすこともあるという。
そのためまず、この酸の出具合を24時間体勢で測定し続ける必要があり、その数値次第で、薬療法にするか手術が必要かを検討することになる。
ということで、私たちのウェディング一周年記念日の9月5日、私は鼻から胃までチューブを通された状態でVGM HOSPITAL 402号室に放り込まれたのだった。

目、鼻、喉が繋がっていることは知っていたが、チューブを通されることによってその体のメカニズムを身をもって実感することができる。
チューブが鼻孔を通過して喉へ降りていく時、同時に涙腺が刺激されてまたしても涙が出てくる。
喉を通過するときにはストローで水を飲まされて、食べ物を飲み込むようにチューブを体内へと運んでいく。
チューブが繋がれた測定器を肩から斜めがけにしてセットを完了し、24時間のpH測定が始まる。
私がするべきことは、体を横にしている時と立てている時はそれぞれのモードにセットを切り替える。また食事を取るときは食事モードにし、食後はそれを解除。吐き気やガスがこみ上げてくる感覚を覚えたら「1」のボタンを、胃や食道が燃えるような感覚を覚えたら「2」を、痛みを感じたら「3」のボタンを押す。炭酸飲料水は避ける。その他は食事もトイレも自由。

チューブが常に喉と食道に違和感を与えていて、唾を飲み込む度に喉を刺激するため、暇つぶしにと持って行ったパソコンも本も結局開かれることはなく、ただただ横になってひたすら時間が過ぎるのを待っていた。
時間が経つにつれて体が少しずつ違和感を受け入れ初めていくのだけれども、それでもやっぱり寝てしまうのが一番の解決策だ。
肩からかけられた測定器にはふたつのpHが表示されていて、そのうちの一つは空腹時と食中食後で大きな変化を示していた。
空腹時はpH値が低く、食事を始めるとその値が上がっていく。つまり空腹時は酸性度が強く、食事をすることによって、つまり消化活動をすることによって相対的な酸性度が下がっているのだ。
食事をしながらその数値の変動を見ていると、私たちの体がメカニカルかつフレキシブルにできていることに感動する。

この日のランチはイドゥリ…
5日の朝9時半にスタートした私のpH測定は、翌日の10時前には終了。
メモリーカードに記録されたデータをパソコンに読み込み、私の体内からチューブを取り出し、私はようやく解放されたのだった。
結果は、現段階では手術の必要なし。数年ごとの定期検診はしたほうがいいが、とりあえずは薬で状況を安定させておきましょう、、、とのこと。
胃痛と下痢の原因は水ではないか、と医師曰く。
そうかなぁ、、、と半信半疑な私に「また医者よりも知ったようなことを言って」と夫。
でも、自分の体のことは自分がよく分かっているというのも事実なんだけど。。。
ただ、ベトナム、中国(奥地)、エジプト、バングラ、そしてインドと見事に胃腸をやられたことを考えると、やっぱり水が合わないのかもしれない。
その後胃痛と下痢は一週間ほど続いて、バングラ帰国現在は小康状態となっている。
日本から離れた以上は日本の医療やその他のサービスに頼っているわけにもいかないし、何よりもインドの医療技術は十分に高く、海外にも多くの医師を排出しているというから、比較的安心して身をゆだねることができる。
バングラデシュのようにまだ医療技術や環境が一部でしか整えられていない国では、重い病にかかると多くの人が治療のためにインドやタイ、シンガポールなどへ足を運ばざるを得ないこともある。
もちろん、経済力がなければ海外どころか国内でも適切な治療が受けられない。
治療のために大事な土地や家を売って田舎からダッカや海外に出てくる人たちもいるけれど、必ずしもその努力が報われるわけではないのが現状だ。
さて、私が訪れたのはタミールナドゥ州CoimbatoreにあるVGM HOSPITAL。
Gastrology(胃学)では腕のある院長がいるこの病院に、夫の友人が胃カメラなどの医療器具を提供しているということで紹介を受けた。
病院は比較的新しいのだけれど、その割には衛生管理についてはまだまだ改善の余地が見られた。
約15年前に一度だけ受けた胃カメラ検査では、咽喉から腹部にかけて刺激する異物感がひたすら嘔吐感を促して、相当苦しい思いをしたのを覚えている。
しかし、日進月歩の医療の発達と最近エンドスコーピを受けたという知人の確信的な言葉に、私は無条件で信頼を寄せて何も気構えることなく検査に向かうことが出来た。
舌に麻酔のスップレーをかけてそれを飲み込むと、すぐに麻酔が効いて舌から喉にかけての神経が膨張してしびれ始める。
左肩を舌にして黒いチューブのエンドスコーピが挿入されて喉にさしかかると、食べ物を飲み込むようにカメラをゴクンゴクンと飲み込むのだけれども、これが見事に期待を裏切るほどきつい!
痛みはほとんどないのだけれど、喉から胃にかけて広がる異物感が嘔吐を促し続け、涙腺が刺激され涙がぽろぽろとあふれ出し、鼻からは鼻水が、口からはよだれが垂れ流し状態になる。
カメラは胃からさらに腸まで進み、ところどころで細胞を採取し、写真を撮りながら体内を行き来する。
モニターに映し出された器具が私の臓器の細胞を掴んでサンプリングする度に、お腹のあたりで内幕がピンッと引っ張られるのを感じる。
その様子はとても興味深いのだけれど、とにかく挿入されている異物に対する不快感に体がリアクションをし続けていた。
検査が終了して起き上がると、知らぬうちに目から鼻から口から驚くほどの液体が流れ出てシーツを濡らしていて、私の左腕もぐっちょり。これは想定外の失態だった。
検査の結果、ちょっとした問題が発見されたため検査入院をすることになった。
問題とは、食道と胃のジョイント部分に青白い色をしたバルブがあるのだけれど、私のバルブはかなり大きく開いてしまっているのだ。
そのため胃から酸が逆上昇して、内膜に炎症を起こしている可能性があり、その度合いによっては将来的に発癌などを引き起こすこともあるという。
そのためまず、この酸の出具合を24時間体勢で測定し続ける必要があり、その数値次第で、薬療法にするか手術が必要かを検討することになる。
ということで、私たちのウェディング一周年記念日の9月5日、私は鼻から胃までチューブを通された状態でVGM HOSPITAL 402号室に放り込まれたのだった。

目、鼻、喉が繋がっていることは知っていたが、チューブを通されることによってその体のメカニズムを身をもって実感することができる。
チューブが鼻孔を通過して喉へ降りていく時、同時に涙腺が刺激されてまたしても涙が出てくる。
喉を通過するときにはストローで水を飲まされて、食べ物を飲み込むようにチューブを体内へと運んでいく。
チューブが繋がれた測定器を肩から斜めがけにしてセットを完了し、24時間のpH測定が始まる。
私がするべきことは、体を横にしている時と立てている時はそれぞれのモードにセットを切り替える。また食事を取るときは食事モードにし、食後はそれを解除。吐き気やガスがこみ上げてくる感覚を覚えたら「1」のボタンを、胃や食道が燃えるような感覚を覚えたら「2」を、痛みを感じたら「3」のボタンを押す。炭酸飲料水は避ける。その他は食事もトイレも自由。

チューブが常に喉と食道に違和感を与えていて、唾を飲み込む度に喉を刺激するため、暇つぶしにと持って行ったパソコンも本も結局開かれることはなく、ただただ横になってひたすら時間が過ぎるのを待っていた。
時間が経つにつれて体が少しずつ違和感を受け入れ初めていくのだけれども、それでもやっぱり寝てしまうのが一番の解決策だ。
肩からかけられた測定器にはふたつのpHが表示されていて、そのうちの一つは空腹時と食中食後で大きな変化を示していた。
空腹時はpH値が低く、食事を始めるとその値が上がっていく。つまり空腹時は酸性度が強く、食事をすることによって、つまり消化活動をすることによって相対的な酸性度が下がっているのだ。
食事をしながらその数値の変動を見ていると、私たちの体がメカニカルかつフレキシブルにできていることに感動する。

この日のランチはイドゥリ…
5日の朝9時半にスタートした私のpH測定は、翌日の10時前には終了。
メモリーカードに記録されたデータをパソコンに読み込み、私の体内からチューブを取り出し、私はようやく解放されたのだった。
結果は、現段階では手術の必要なし。数年ごとの定期検診はしたほうがいいが、とりあえずは薬で状況を安定させておきましょう、、、とのこと。
胃痛と下痢の原因は水ではないか、と医師曰く。
そうかなぁ、、、と半信半疑な私に「また医者よりも知ったようなことを言って」と夫。
でも、自分の体のことは自分がよく分かっているというのも事実なんだけど。。。
ただ、ベトナム、中国(奥地)、エジプト、バングラ、そしてインドと見事に胃腸をやられたことを考えると、やっぱり水が合わないのかもしれない。
その後胃痛と下痢は一週間ほど続いて、バングラ帰国現在は小康状態となっている。
今回ダッカを発つ前日に、かつて南インドのコインバトル(夫の地元)に2年ほど滞在していたことがあるというレバノン人の女性と知り合った。
彼女はコインバトルから車で1時間ほどにあるイシャ・アシュラムに滞在して、ボランティア活動などをしていたのだという。
彼女の薦めで、私もこのアシュラムを訪ねてみることにした。
http://www.ishafoundation.org/
イシャ・アシュラムはサドゥ・グルによって設立された。
以前紹介したアート・オブ・リビングのスリ・スリ・ラビシャンカール同様に、インドには多くのグルジー(師)と呼ばれる人がいる。
ちなみにスリ・スリ・ラビシャンカールは、ここ最近汚職に対する断食抗議を続けインドを賑わせたアンナ・ハザレの強力なサポーターであり、その影響力はインド全土に広がっている。
バンガロールで会った友人のロヒニは、今インド全土に巻き起こっている改革への人々の意識の高まりは、1947年のインド独立に次ぐ大きな革命だと興奮ぎみに話していた。
さて、イシャ・アシュラムは、のどかな農場の広がる郊外から更に林の中に入り込んでいったところに建てられている。
石造りの建物に囲われたとても立派な施設で、ドーム型の寺院を中心に沐浴場、プジャスペース、カフェテリアなどが周りを囲んでいて、そこから少し離れた場所に滞在者たちの宿泊スペースがあるようだった。
受付で貴重品以外の荷物、靴、カメラを預けてアシュラムの中を見てまわる。
当日はお天気雨が降ったり止んだりを繰り返していて、石造りの建物をしっとりと麗しながらしとしとと流れる水の音は、静かな、そして清らかな空間を演出していた。
沐浴スペースは時間帯で男女の立ち入り時間が区切られている。
運良くちょうど女性用時間だったため、私たちは中に入ることができた。
手足を水で清めて、大きな石造りの階段を降りていくと沐浴場がある。(確かその水は99%ピュア・ウォーター云々といった説明をしていたような気がする)
そこでは一切の会話が禁止され、全身に水を浸したい人は専用着に着替えて入水し、それ以外の人は水を手に取り頭、額、喉にその水を当てていく。
決して広くはない沐浴場には、上部がわずかに水面上にのぞくように丸いリンガが置かれ、左手上部からは滝のように水が流れ落ちてくる。天井は高く、石に囲まれた静かな空間には何度もディフューズされた光の粒子の残りが、空間全体に陰影を落としている。
石造りの建物というのは荘厳さと静けさを内包していて、そこに降り注がれるわずかな光というのは、さらにその神聖さを強調するのに一役かっているのだと思う。
その静けさを縦に割るように流れ落ちる水の音と、そこから静かに流れに身を任せる柔らかな水の音の両方が、石とコラボレートしながら心地よい反響音を織りなしていた。
私がもうひとつ気に入った場所は中心のドームにある瞑想スペースだ。
ここも石造りのドームになっていて、私語は一切禁じられている。
中に入ると中央に大きなリンガが立っており、そこから水が注がれていて、その遠くに聞こえる小川のせせらぎのように控えめな流れは、石に囲まれたドーム全体に反響しながらまわり続ける。
円形の壁には四角いくぼみが並んでいて、そのくぼみに座って瞑想し続けている人たちもいた。
沐浴場とこの円形ドームに共通している石造り、水、そして人の声の排除。
これらの3つの要素が、なにか俗世間から隔離したような、特別に思わせるような雰囲気を、うまい具合に演出しているのだと思う。
そしてそれは、水の気配のする自然の中でただ一人でいるのとも似ているような気がした。
円形ドームを後にした私たちは、受付に戻り荷物を受け取ってからカフェテリアでランチを食べた。
さっきまでの静寂と、人でにぎわうカフェテリアのコントラストがあまりに大きく、一気に現実に戻ったような気分だ。
インドに多く存在するグルと呼ばれる人たち、アシュラムの中の非俗的な空気、私はそのどちらにもどっぷりと浸かることはないだろうというのが正直な感想だが、
何か心地のいい気の流れる空間で瞑想をしたり、その時自分が必要としている言葉を探したりするのは決して悪くはないと思う。
少なくとも、イシャ・アシュラムのドームや沐浴場の空間が私にとって心地のいい場だったのは確かだ。
彼女はコインバトルから車で1時間ほどにあるイシャ・アシュラムに滞在して、ボランティア活動などをしていたのだという。
彼女の薦めで、私もこのアシュラムを訪ねてみることにした。
http://www.ishafoundation.org/
イシャ・アシュラムはサドゥ・グルによって設立された。
以前紹介したアート・オブ・リビングのスリ・スリ・ラビシャンカール同様に、インドには多くのグルジー(師)と呼ばれる人がいる。
ちなみにスリ・スリ・ラビシャンカールは、ここ最近汚職に対する断食抗議を続けインドを賑わせたアンナ・ハザレの強力なサポーターであり、その影響力はインド全土に広がっている。
バンガロールで会った友人のロヒニは、今インド全土に巻き起こっている改革への人々の意識の高まりは、1947年のインド独立に次ぐ大きな革命だと興奮ぎみに話していた。
さて、イシャ・アシュラムは、のどかな農場の広がる郊外から更に林の中に入り込んでいったところに建てられている。
石造りの建物に囲われたとても立派な施設で、ドーム型の寺院を中心に沐浴場、プジャスペース、カフェテリアなどが周りを囲んでいて、そこから少し離れた場所に滞在者たちの宿泊スペースがあるようだった。
受付で貴重品以外の荷物、靴、カメラを預けてアシュラムの中を見てまわる。
当日はお天気雨が降ったり止んだりを繰り返していて、石造りの建物をしっとりと麗しながらしとしとと流れる水の音は、静かな、そして清らかな空間を演出していた。
沐浴スペースは時間帯で男女の立ち入り時間が区切られている。
運良くちょうど女性用時間だったため、私たちは中に入ることができた。
手足を水で清めて、大きな石造りの階段を降りていくと沐浴場がある。(確かその水は99%ピュア・ウォーター云々といった説明をしていたような気がする)
そこでは一切の会話が禁止され、全身に水を浸したい人は専用着に着替えて入水し、それ以外の人は水を手に取り頭、額、喉にその水を当てていく。
決して広くはない沐浴場には、上部がわずかに水面上にのぞくように丸いリンガが置かれ、左手上部からは滝のように水が流れ落ちてくる。天井は高く、石に囲まれた静かな空間には何度もディフューズされた光の粒子の残りが、空間全体に陰影を落としている。
石造りの建物というのは荘厳さと静けさを内包していて、そこに降り注がれるわずかな光というのは、さらにその神聖さを強調するのに一役かっているのだと思う。
その静けさを縦に割るように流れ落ちる水の音と、そこから静かに流れに身を任せる柔らかな水の音の両方が、石とコラボレートしながら心地よい反響音を織りなしていた。
私がもうひとつ気に入った場所は中心のドームにある瞑想スペースだ。
ここも石造りのドームになっていて、私語は一切禁じられている。
中に入ると中央に大きなリンガが立っており、そこから水が注がれていて、その遠くに聞こえる小川のせせらぎのように控えめな流れは、石に囲まれたドーム全体に反響しながらまわり続ける。
円形の壁には四角いくぼみが並んでいて、そのくぼみに座って瞑想し続けている人たちもいた。
沐浴場とこの円形ドームに共通している石造り、水、そして人の声の排除。
これらの3つの要素が、なにか俗世間から隔離したような、特別に思わせるような雰囲気を、うまい具合に演出しているのだと思う。
そしてそれは、水の気配のする自然の中でただ一人でいるのとも似ているような気がした。
円形ドームを後にした私たちは、受付に戻り荷物を受け取ってからカフェテリアでランチを食べた。
さっきまでの静寂と、人でにぎわうカフェテリアのコントラストがあまりに大きく、一気に現実に戻ったような気分だ。
インドに多く存在するグルと呼ばれる人たち、アシュラムの中の非俗的な空気、私はそのどちらにもどっぷりと浸かることはないだろうというのが正直な感想だが、
何か心地のいい気の流れる空間で瞑想をしたり、その時自分が必要としている言葉を探したりするのは決して悪くはないと思う。
少なくとも、イシャ・アシュラムのドームや沐浴場の空間が私にとって心地のいい場だったのは確かだ。
ラマダン明けのイード休暇を利用して、一年ぶりのインド里帰りをしてきた。
今回はダッカからコルカタを経由し、南インド・カルナータカ州の州都バンガロール(Bangalore)空港に降り立った。
(今回もコルカタにてオン・アライバル・ビザを申請)
バンガロールは南インドにおいてチェンナイ同様に政治、経済都市のひとつで、IT産業がとても盛んで、多くのIYエンジニアを国内外に排出しているという。
ここは標高920メートルと高地に位置しているため、年間を通してとても過ごしやすく、街全体が緑豊かなこの地はインドのガーデンシティと呼ばれている。朝晩は涼しく、3~5月の真夏期でもエアコンは必要ないくらいだという。

到着した翌日はショッピングモールやバンガロール・パレスなどを観光をし、翌日は夫の地元から車でピックアップにきてくれた友人ナヴィンと共にマイソールへ向かった。
ティプ・スルターン宮殿を訪れた後、バンガロールより南西約150キロに位置するマイソール・パレスへ。
かつてのインドのマハラジャは、西欧貴族たちとの交流を深め、西欧文化を取り入れた豪華絢爛な生活をしていたのがよく分かる。
この宮殿はかつての木造建築が火災によって失われた後、第24代マハラジャのために再建されたのだという。
ヒンドゥ建築、ゴシック建築など異なる要素を取り入れた複合建築となっているのが面白い。
そんな西欧的な要素を取り入れつつもやっぱりインドらしさを色濃く映し出しているのは、天井画を含む壁画の数々の影響だろう。
英語のガイドに同行してもらったため、気づかずに通り過ぎてしまうディテールやエピソードなどを交えて説明してもらったのがよかった。
(携帯以外のカメラ持ち込み禁止だったため写真は無し)

バンガロール・パレス

宮殿内 ~象の鼻や脚部分だけがオブジェのように~

マイソール・パレス前で昼寝
その日は、バンガロールからマイソールを経て一気に夫の実家タミール・ナドゥのコインバトルまでの長旅となった。
周りを山々に囲まれたのどかな緑のアーチを走っていくのだけれど、広大なインドでは日本のように景色が連続的にダイナミックな変化を見せるのではなく、ひたすら同じ景色が続いていて、その広大さそのものがこの土地のダイナミズムとなっているのだと思う。
マイソールから約5時間半のドライブの後、一年ぶりの夫家族との再会となった。

ひたすら続く山々の景色

道路端の茶屋にて休憩

山肌に描かれたDOCOMOの広告
今回はダッカからコルカタを経由し、南インド・カルナータカ州の州都バンガロール(Bangalore)空港に降り立った。
(今回もコルカタにてオン・アライバル・ビザを申請)
バンガロールは南インドにおいてチェンナイ同様に政治、経済都市のひとつで、IT産業がとても盛んで、多くのIYエンジニアを国内外に排出しているという。
ここは標高920メートルと高地に位置しているため、年間を通してとても過ごしやすく、街全体が緑豊かなこの地はインドのガーデンシティと呼ばれている。朝晩は涼しく、3~5月の真夏期でもエアコンは必要ないくらいだという。

到着した翌日はショッピングモールやバンガロール・パレスなどを観光をし、翌日は夫の地元から車でピックアップにきてくれた友人ナヴィンと共にマイソールへ向かった。
ティプ・スルターン宮殿を訪れた後、バンガロールより南西約150キロに位置するマイソール・パレスへ。
かつてのインドのマハラジャは、西欧貴族たちとの交流を深め、西欧文化を取り入れた豪華絢爛な生活をしていたのがよく分かる。
この宮殿はかつての木造建築が火災によって失われた後、第24代マハラジャのために再建されたのだという。
ヒンドゥ建築、ゴシック建築など異なる要素を取り入れた複合建築となっているのが面白い。
そんな西欧的な要素を取り入れつつもやっぱりインドらしさを色濃く映し出しているのは、天井画を含む壁画の数々の影響だろう。
英語のガイドに同行してもらったため、気づかずに通り過ぎてしまうディテールやエピソードなどを交えて説明してもらったのがよかった。
(携帯以外のカメラ持ち込み禁止だったため写真は無し)

バンガロール・パレス

宮殿内 ~象の鼻や脚部分だけがオブジェのように~

マイソール・パレス前で昼寝
その日は、バンガロールからマイソールを経て一気に夫の実家タミール・ナドゥのコインバトルまでの長旅となった。
周りを山々に囲まれたのどかな緑のアーチを走っていくのだけれど、広大なインドでは日本のように景色が連続的にダイナミックな変化を見せるのではなく、ひたすら同じ景色が続いていて、その広大さそのものがこの土地のダイナミズムとなっているのだと思う。
マイソールから約5時間半のドライブの後、一年ぶりの夫家族との再会となった。

ひたすら続く山々の景色

道路端の茶屋にて休憩

山肌に描かれたDOCOMOの広告
来月7日夜中の便でダッカを発ち、日本に帰国しま~す!!!
あ~、久しぶりの日本☆
楽しみだ~!!!!!
約一ヶ月の滞在なので、紅葉も見られるはず。
紅葉を見ながらの露天風呂。。。。
既に2件の温泉旅行を計画中。
着いたらまず、美味しい卵かけご飯が食べたい!
生卵NGの国では、むしょうに食べたくなるのだ。
そして、そんなことを思っていたのはどうやら私だけではなかったみたいで、
ある会社では、日本からダッカ入りした人が現地駐在スタッフに食べさせてやろうと、なんと生卵7パックを手荷物で運んできたというのだ!
わざわざ東急ハンズで購入した卵用のハードケースに入れて。(バンコクのトランジットではかなりもめたらしいが)
あ~、なんてステキなはからいなのだろう(涙)
後半は夫が日本にやってくるので、その前に友達と会ったり、やるべきことを終わらせておかなければ。
ということで、10月末ころまでで時間のある方は是非ご連絡くださ~い。(メールで)
※ちなみに、日本の携帯はまだ生きているので、日本でのご連絡は今まで通りの番号にお願いします。
(今回の帰国で解約します)
あ~、久しぶりの日本☆
楽しみだ~!!!!!
約一ヶ月の滞在なので、紅葉も見られるはず。
紅葉を見ながらの露天風呂。。。。
既に2件の温泉旅行を計画中。
着いたらまず、美味しい卵かけご飯が食べたい!
生卵NGの国では、むしょうに食べたくなるのだ。
そして、そんなことを思っていたのはどうやら私だけではなかったみたいで、
ある会社では、日本からダッカ入りした人が現地駐在スタッフに食べさせてやろうと、なんと生卵7パックを手荷物で運んできたというのだ!
わざわざ東急ハンズで購入した卵用のハードケースに入れて。(バンコクのトランジットではかなりもめたらしいが)
あ~、なんてステキなはからいなのだろう(涙)
後半は夫が日本にやってくるので、その前に友達と会ったり、やるべきことを終わらせておかなければ。
ということで、10月末ころまでで時間のある方は是非ご連絡くださ~い。(メールで)
※ちなみに、日本の携帯はまだ生きているので、日本でのご連絡は今まで通りの番号にお願いします。
(今回の帰国で解約します)
体調を壊してすっかり空白期間となっていた7月におこった出来事
そのに)
7月のはじめ、以前習っていたサルサの先生アドナンからメッセージが届いた。
7月12日~21日まで、ジャズダンスのワークショップがあるけど興味ある?
実は私は以前から、アドナンにジャズダンスのクラスがないか、何か機会があったら教えて欲しいと頼んでいたのだ。
バングラデシュでは、サルサは一部の人の間でちょっとしたブームになっているが、インドやバングラデシュの伝統的なダンスを除いたその他のダンスというのはまだまだ教え手がいない。
私はこの待ちに待ったオファーに飛びついた。
どうやら、インドのダンスセンターから講師を招聘して約一週間のジャズダンスワークショップが開催されるというのだ。
しかし残念なことに、レッスン時間は私の就業時間とかぶっていて、仕事が終わってすぐに向かっても渋滞の中1時間かけて到着したころにはレッスン終了…というなんとも具合の悪い設定だったのだ。
おそらく40歳前後でダンス(サルサ)に目覚めたアドナンは、母親がヨガや音楽などに精通していたらしく、もともと芸術に対する特別なあったのだろう。サルサにしても情熱的にのめり込み、やがてクラスを持って教えるようになり、今でもインターネットで様々な映像を見つけては研究したりしている。
初めて会った時に日本にいる私のダンスの先生の映像を見せたときにも、とても感動していて、私に先生のダンスを指導してくれと頼んできたくらいだ。
体の柔軟性はあまりないけれど、とても真面目なアドナン、ダンスに対するパッションはあるのだけれど、シャイで真面目な性格のせいか、ダンスそのものには開放感やパッションがなかなか表現しきれていない感がある。
ともあれ、勉強家のアドナンは、今回のジャズダンスワークショップ参加を決めていた。
私はセミナーにフル参加こそできないが、インドのダンサーの指導とはどんなものか見てみたいと思い、休日に一度見に行ってきた。
教室のドアを開ける前から、先生の力強い大きな声が聞こえてきた。
私はこういう厳しいレッスンが好きだ。
扉を開けると、20~25人ほどの生徒の前に赤いTシャツを着た割と小柄な男性が指導をしていた。
彼の姿勢、脚の使い方、指導の仕方などを見て、バングラでよくいる半年くらい習ったら先生気取り…といったタイプではなく、きちんと基本から勉強した人であるのが分かった。
彼はインドはコルカタにある「RHYTHMOSAIC DANCE COMPANY」で学んでいる生徒であり時には指導に呼ばれていったりもするらしい。
RHYTHMOSAIC DANCE COMPANY
http://www.rhythmosaic.webs.com/
生徒のほとんどは学生で、彼らの多くは学校でインド古典ダンスなどを授業で習っているとのことで、動きやステップの覚えも早くてリズム感覚もある。
アドナンのような少し年配、ほぼ未経験という生徒は4~5人ほどだったのではないだろうか。
コルカタはバングラデシュと同じベンガル語圏なので、指導もベンガル語で行われていた。
ストレッチ、ステップの練習が終わると、今度は作品の指導に入った。
最後の20分ほどは、これまでに習った作品の一部を何度も繰り返し通していた。
面白いと思ったのは、ジャズダンスでありながらあえてベンガル語の曲を使い、ジャズダンスのステップとインド舞踊の動きや表現の両方を取り入れていたことだ。
特に私にとっては、インド舞踏の動きが新鮮で面白いと思った。
たった一日の見学(しかもお腹をおもいっきり下していた)だったけれど、興味深いダンスを見ることができた。

そのに)
7月のはじめ、以前習っていたサルサの先生アドナンからメッセージが届いた。
7月12日~21日まで、ジャズダンスのワークショップがあるけど興味ある?
実は私は以前から、アドナンにジャズダンスのクラスがないか、何か機会があったら教えて欲しいと頼んでいたのだ。
バングラデシュでは、サルサは一部の人の間でちょっとしたブームになっているが、インドやバングラデシュの伝統的なダンスを除いたその他のダンスというのはまだまだ教え手がいない。
私はこの待ちに待ったオファーに飛びついた。
どうやら、インドのダンスセンターから講師を招聘して約一週間のジャズダンスワークショップが開催されるというのだ。
しかし残念なことに、レッスン時間は私の就業時間とかぶっていて、仕事が終わってすぐに向かっても渋滞の中1時間かけて到着したころにはレッスン終了…というなんとも具合の悪い設定だったのだ。
おそらく40歳前後でダンス(サルサ)に目覚めたアドナンは、母親がヨガや音楽などに精通していたらしく、もともと芸術に対する特別なあったのだろう。サルサにしても情熱的にのめり込み、やがてクラスを持って教えるようになり、今でもインターネットで様々な映像を見つけては研究したりしている。
初めて会った時に日本にいる私のダンスの先生の映像を見せたときにも、とても感動していて、私に先生のダンスを指導してくれと頼んできたくらいだ。
体の柔軟性はあまりないけれど、とても真面目なアドナン、ダンスに対するパッションはあるのだけれど、シャイで真面目な性格のせいか、ダンスそのものには開放感やパッションがなかなか表現しきれていない感がある。
ともあれ、勉強家のアドナンは、今回のジャズダンスワークショップ参加を決めていた。
私はセミナーにフル参加こそできないが、インドのダンサーの指導とはどんなものか見てみたいと思い、休日に一度見に行ってきた。
教室のドアを開ける前から、先生の力強い大きな声が聞こえてきた。
私はこういう厳しいレッスンが好きだ。
扉を開けると、20~25人ほどの生徒の前に赤いTシャツを着た割と小柄な男性が指導をしていた。
彼の姿勢、脚の使い方、指導の仕方などを見て、バングラでよくいる半年くらい習ったら先生気取り…といったタイプではなく、きちんと基本から勉強した人であるのが分かった。
彼はインドはコルカタにある「RHYTHMOSAIC DANCE COMPANY」で学んでいる生徒であり時には指導に呼ばれていったりもするらしい。
RHYTHMOSAIC DANCE COMPANY
http://www.rhythmosaic.webs.com/
生徒のほとんどは学生で、彼らの多くは学校でインド古典ダンスなどを授業で習っているとのことで、動きやステップの覚えも早くてリズム感覚もある。
アドナンのような少し年配、ほぼ未経験という生徒は4~5人ほどだったのではないだろうか。
コルカタはバングラデシュと同じベンガル語圏なので、指導もベンガル語で行われていた。
ストレッチ、ステップの練習が終わると、今度は作品の指導に入った。
最後の20分ほどは、これまでに習った作品の一部を何度も繰り返し通していた。
面白いと思ったのは、ジャズダンスでありながらあえてベンガル語の曲を使い、ジャズダンスのステップとインド舞踊の動きや表現の両方を取り入れていたことだ。
特に私にとっては、インド舞踏の動きが新鮮で面白いと思った。
たった一日の見学(しかもお腹をおもいっきり下していた)だったけれど、興味深いダンスを見ることができた。

7月はずっとお腹を下したり、胃炎になったり、熱が出たりして、
ひたすら嵐の中を低空飛行していた感じです。
そんな空白の期間にあった出来事。。。
そのいち)
11年バングラデシュに在住していたインド人の友人家族が、ビジネスをたたんでインドへ帰ってしまった。
アットルとその妻アンジェリ、そして息子と娘の4人家族。
アットルはアパレルのバイイングハウスを経営していた。
ベンガル語が堪能で、明るく社交的で面倒見がいいアットルは、実はインドのスーパースター シャルク・カーンがブレイクする以前からの親しい友人だったという。
バングラデシュの縫製産業が益々右肩上がりに成長していくと共に、新規参入の同業他社との競争率も激化。
また、長年付き合いのあったバイヤーたちが工場との直接取引に身を乗り出してきたりと、縫製産業をとりまく環境は渦巻くように日々変化し続けている。
アットルのビジネスは決して悪くなかったようだが、インドでの条件のいいオファーと、子供たちの将来のことなどを総合的に考え、あるとき潔くバングラデシュを去ることを決めたのだ。
6月に家族でインドに一時帰国した際に、仕事、子供たちの学校、新しい住居などすべてがとんとん拍子で決まり、翌月7月最後の日、11年の歳月を過ごしたダッカからインドへと帰って行ったのだ。
何かが動き出すときというのは、本当にあっという間に、そしてそれが自然な流れであるように物事が進んでいくものだ。
11年という時間は決して短くないにもかかわらず、私も彼らが去っていくことに不思議となんの違和感も感じなかったのだ。
それはきっと、アットル家の皆がとてもポジティブな人たちで、様々なタイミングがうまいこと合わさって生じた新しい大きな流れを喜びと期待を持って受け入れていったからかもしれない。
ひたすら嵐の中を低空飛行していた感じです。
そんな空白の期間にあった出来事。。。
そのいち)
11年バングラデシュに在住していたインド人の友人家族が、ビジネスをたたんでインドへ帰ってしまった。
アットルとその妻アンジェリ、そして息子と娘の4人家族。
アットルはアパレルのバイイングハウスを経営していた。
ベンガル語が堪能で、明るく社交的で面倒見がいいアットルは、実はインドのスーパースター シャルク・カーンがブレイクする以前からの親しい友人だったという。
バングラデシュの縫製産業が益々右肩上がりに成長していくと共に、新規参入の同業他社との競争率も激化。
また、長年付き合いのあったバイヤーたちが工場との直接取引に身を乗り出してきたりと、縫製産業をとりまく環境は渦巻くように日々変化し続けている。
アットルのビジネスは決して悪くなかったようだが、インドでの条件のいいオファーと、子供たちの将来のことなどを総合的に考え、あるとき潔くバングラデシュを去ることを決めたのだ。
6月に家族でインドに一時帰国した際に、仕事、子供たちの学校、新しい住居などすべてがとんとん拍子で決まり、翌月7月最後の日、11年の歳月を過ごしたダッカからインドへと帰って行ったのだ。
何かが動き出すときというのは、本当にあっという間に、そしてそれが自然な流れであるように物事が進んでいくものだ。
11年という時間は決して短くないにもかかわらず、私も彼らが去っていくことに不思議となんの違和感も感じなかったのだ。
それはきっと、アットル家の皆がとてもポジティブな人たちで、様々なタイミングがうまいこと合わさって生じた新しい大きな流れを喜びと期待を持って受け入れていったからかもしれない。
半年以上前に借りてそのまま放っておいた本を読んでいる。
「COCO AVANT CHANEL」
あの伝説的なデザイナー「ココ・シャネル」についての伝記だ。
貧しかった自分の過去を偽り続けたココのストーリーに隠された断片的な真実をつなぎ合わせ、ココを取り巻く人々の証言をたよりに彼女の人生をたどっているため、最終的にはどこまでも謎に包まれたココの姿を、読者一人一人が想像の中で描くしかない。
しかし、彼女の強烈な個性、彼女の生きた人生そのものが、謎めいた彼女の過去や誰にも語らなかった本心の不透明さをも凌ぐ魅力をはなっている。
そして私が同じ女だからなのか、「成功を収めた世界の偉人の一人」というよりは、階級社会、男性社会の中で自分らしくあること以外には生きられなかった、頑固で、才能と人々を魅了する個性にあるれた一人の女性としての彼女にとても惹かれた。(まだ下巻の途中だが)
さて、ココ・シャネルの生涯をたどっている間、つい先日、日本のベンガル語クラスで知り合った韓国人の友達から別の本を借りた。
「オノ・ヨーコという生き方 WOMAN」
オノ・ヨーコはいうまでもなく、私の大好きなジョン・レノンの妻だ。
彼女は由緒ある家庭に生まれた異端児で、ジョンと出会うずっと前から芸術家としてアメリカで活動していた。
ビートルズの中でも皮肉屋で扱いにくいとされていたジョン・レノンを虜にしたヨーコも、限りなく自分であり続けた魅力的な女性の一人だ。
私は夫からよく「フェミニストだ」とからかわれる。(彼は実際にそう思っているのだと思う)
私としては決して自分がフェミニストというという自覚はなく、単に女であるからああだこうだと言うことに対する不平等さを訴えているだけなのだけれど、それが男性の目にはフェミニストと映るのだろうか。
私はいつもこのフェミニストという言葉に反論して、平等主義だということを訴えているのだけれど。
なんにしても、子供の頃から「女の子なんだから」と言われることが大、超、極がつくほど嫌いで、女であることを理由に何かを強いられるとあえて反対のことをしたくなるという性格だったのは確かだ。
バングラデシュ、インドにおいては、最近でこそ学歴を持ち、男性社会で働く女性も珍しくなくなってきたが、日本を含めたアジアの文化というのはやはり欧米の個人主義とは違い、家族を重んじる文化は無意識の中に根付いている。
そして、家族社会の中にはやはり女性に対するある種の期待がぬぐえないのが事実だ。
私は、いきすぎない程度の家族主義、節度や家を大事にするという習慣は決して否定しないし、むしろとてもいいことだと思っている。
ただその一方で、「女だから」という制限や暗黙の期待にはどうしても反発してしまうのだ。
これはあくまでも私個人に向けられることへの反発であって、他の女性がどう振る舞おうが私には全く関係のないことだし、それは個人の自由だと思う。
ここバングラデシュにいて、実はそういったことが私の苛立ちのひとつであることは否めない。
そんな中で出合ったこの2冊。
これは、何かのメッセージなのだろうか。
自分をおさえることなく、もっと解放しろという。
機会を待つのではなく、自分で機会と環境を作り出していかなくてはならないのだと。
とりあえず、この2冊を読み続けてみよう。
その先には一体何があるのか。
「COCO AVANT CHANEL」
あの伝説的なデザイナー「ココ・シャネル」についての伝記だ。
貧しかった自分の過去を偽り続けたココのストーリーに隠された断片的な真実をつなぎ合わせ、ココを取り巻く人々の証言をたよりに彼女の人生をたどっているため、最終的にはどこまでも謎に包まれたココの姿を、読者一人一人が想像の中で描くしかない。
しかし、彼女の強烈な個性、彼女の生きた人生そのものが、謎めいた彼女の過去や誰にも語らなかった本心の不透明さをも凌ぐ魅力をはなっている。
そして私が同じ女だからなのか、「成功を収めた世界の偉人の一人」というよりは、階級社会、男性社会の中で自分らしくあること以外には生きられなかった、頑固で、才能と人々を魅了する個性にあるれた一人の女性としての彼女にとても惹かれた。(まだ下巻の途中だが)
さて、ココ・シャネルの生涯をたどっている間、つい先日、日本のベンガル語クラスで知り合った韓国人の友達から別の本を借りた。
「オノ・ヨーコという生き方 WOMAN」
オノ・ヨーコはいうまでもなく、私の大好きなジョン・レノンの妻だ。
彼女は由緒ある家庭に生まれた異端児で、ジョンと出会うずっと前から芸術家としてアメリカで活動していた。
ビートルズの中でも皮肉屋で扱いにくいとされていたジョン・レノンを虜にしたヨーコも、限りなく自分であり続けた魅力的な女性の一人だ。
私は夫からよく「フェミニストだ」とからかわれる。(彼は実際にそう思っているのだと思う)
私としては決して自分がフェミニストというという自覚はなく、単に女であるからああだこうだと言うことに対する不平等さを訴えているだけなのだけれど、それが男性の目にはフェミニストと映るのだろうか。
私はいつもこのフェミニストという言葉に反論して、平等主義だということを訴えているのだけれど。
なんにしても、子供の頃から「女の子なんだから」と言われることが大、超、極がつくほど嫌いで、女であることを理由に何かを強いられるとあえて反対のことをしたくなるという性格だったのは確かだ。
バングラデシュ、インドにおいては、最近でこそ学歴を持ち、男性社会で働く女性も珍しくなくなってきたが、日本を含めたアジアの文化というのはやはり欧米の個人主義とは違い、家族を重んじる文化は無意識の中に根付いている。
そして、家族社会の中にはやはり女性に対するある種の期待がぬぐえないのが事実だ。
私は、いきすぎない程度の家族主義、節度や家を大事にするという習慣は決して否定しないし、むしろとてもいいことだと思っている。
ただその一方で、「女だから」という制限や暗黙の期待にはどうしても反発してしまうのだ。
これはあくまでも私個人に向けられることへの反発であって、他の女性がどう振る舞おうが私には全く関係のないことだし、それは個人の自由だと思う。
ここバングラデシュにいて、実はそういったことが私の苛立ちのひとつであることは否めない。
そんな中で出合ったこの2冊。
これは、何かのメッセージなのだろうか。
自分をおさえることなく、もっと解放しろという。
機会を待つのではなく、自分で機会と環境を作り出していかなくてはならないのだと。
とりあえず、この2冊を読み続けてみよう。
その先には一体何があるのか。