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学ぶapplim vol.7

3月31日には、学ぶapplim vol.7 「普遍的アイデアを、どう新しくするか?」が開催されました。
ゲスト講師として須田和博さんにお話頂いた中で出て来た動画などをご紹介させて頂きます。




↑駅内で突然周囲の人々が踊り出すというびっくりな企画。
似たようなのだと、突然周囲の人間が「固まる」ってverもあったり。
バイラル動画という意味では、メントスをコーラの中に入れたらシュワシュワァ~~ってなるっていう動画も一時期ずいぶん流行ましたよね。




↑これは、広告対象であるギャラクシー端末を成層圏まで打ち上げちゃおうという企画。
でもそんなに高く飛ばしたら見てくれる人いないよね...じゃあUstreamで生中継しちゃえ。




特大のクレーンゲームを実勢に作ったという企画。
しかもなぜ大きいのかというと、「クレーンゲームの特大商品でもすっぽり入る車」という
コンセプトがあるから。
ただ実物大にしよう、じゃなくて、そういう着地点があるといいですよね。



↑この動画は、打って変わってむかーしのテレビCM。「空腹という状態を」唯一無二のメッセージとしてビジュアライズしているCMです。



↑同じ「テレビCM」でも、昔と今とでかなり趣向が変わっているという好例。
短期間でぐわぁっとZIMAの売り上げを伸ばしたい時のキャンペーン。



↑はたから見ると「わけわからん」テレビCM。でもそこはあえてそういう「つっこみがい」のある構成にすることで、その先の二次創作や口コミを狙っているそうです。



↑こちらの動画は講演当日はカットされていましたが、僕が冒頭の挨拶で飲酒運転撲滅のポスターの話をすることを聞いて須田さんが探してきてくれたそうです。
「グラスの乾杯」と「車の衝突」が近似されているわけですね!

applimについて(いくつか変わりました)

えーこんにちは。
久方ぶりの更新です。スタッフのgenfujimotoです。

今回はapplim2回めのスタッフ代替わりを迎え、メンバーが大幅に入れ替わったことと、
私、藤本が3代目の代表を務めさせて頂く...ということがまずご報告としてあります。

スタッフや運営体制などもろもろチェンジしたため、必然、活動内容や方針などにもいくらか変化が起きるだろうと思います。
「大丈夫かなぁ」
「うまくいくかなぁ」
「みんな追いて来てくれるかなぁ」
などの不安な視線も若干、内外から浴びることが正直あります。
でもせっかく手にした「責任」とか「自由」とか「チャンス」なわけですから、
目一杯活用していきたいと考えています。

さて、新生applimが大切にするスローガンは主に2つ

まずひとーつ、「広告を日常化すること」。
もうひとーつ、「非日常の体験を大切にすること」。です。

どういうことかと申しますと、
applimはこれまで、「開催期間1ヶ月をかけたマーケティングプラン立案コンテスト」を主に運営して参りました。1ヶ月間という長期間、数人でグループを組みコンテストに望ませるというシステムからして必然的に「非日常」な体験の場であったわけです。
あるいはこれまでの「学ぶapplim」としての1日講演会などのイベントも同じかもしれません。「著名なクリエイターの講演を聞く」という点で非日常的だったのかもしれません。
もちろんこれら「非日常の体験」が悪いものというわけではありません。だから2つめのスローガンで今後もそれらを大切にしていくと述べました。

しかし、それでもこれからは「広告を日常化して欲しい」と僕は思ったんです。
それはなぜか。
それは、applimを通して学生あるいは社会の人皆に身につけて欲しいこと、学んで欲しいことが
小手先の技術やいくらかの事例程度の知識の寄せ集めではなく、
良い広告がこれからも繁栄していける土壌となるような一人間としての"マインド"だったからです。

少し抽象度が高くなってしまいました。
例えばWEB広告について触れてみましょう。
これまで、広告では「運営」という考え方が軽視されて来ました。
「CMなどをマスメディアで突発的に放送/露出させ、PV数のスタートダッシュを決める!あとは栄枯盛衰よろしく時間と共に人々の感心が薄れれば、また次の商品を同じ手法で売り出す」
こんな全体像がプロモーションのほとんどではないでしょうか。

しかしWEBが消費者、現代人の生活行動を大きく変えてからは状況が変わって見えるました。

消費者は決して「20代」「男性」などのような統計的なカテゴリーで分割できるほど単純ではなく、自分好みの趣向に合わせたコミュニティに密接に関わっていくし
マスメディアに頼らずとも人から人へ伝搬された無料の情報を絶えず入手しつづけています。

そんな風潮が出来てこれからのWEB広告/WEBマーケティングには、「コミュニティ」としてユーザーと共に関係を築きあげていく「運営」という概念が重要になっていく、と信じたマーケターや業界関係者も多いのではないでしょうか。

ところが実際にそれが実践され、結果を残しているのかというと、自信をもって肯定することができず。。

こうした理想と現実のギャップを打破したくて、僕かぁこれからapplimを運営して行きたいと思ってるんです。

今の広告業界が頼りにしているのは、奇抜な策を練る「中の人」じゃなくて、むしろ広告というコミュニティに好意的に協力してくれる「外の人」なんじゃないかと。
「犬のお父さん」とか「九州新幹線」とか、年間トップのクリエイティブを産む活躍よりも、
「広告って面白いね」と楽しんでくれる一般人の活躍に期待しているのではないかと。

だからapplimではまずは広告の「外の人の観点」を持って欲しいし、「一般人の日常の中から」広告の出発点を見つけ出せるような感性を養って欲しい。
それは必ずのちのち専門職についた時にも普遍的に役に立つ理由は、上述した「運営」についての説明と同じです。

長くなってしまいましたが、以上がapplimが「広告を日常化する」をスローガンにする理由です。
正直、この理由がどこまで正しいのかとか、今までのapplimを応援してくれた人の考えとどれだけマッチするのか等についての検証は、まだまだ全然甘いです。

でも僕は、これが正しいと思ってるし、かつ周りの人も分かってくれるだろうと思って、
これから行動していこうと思っています。

applimを宜しくお願いします。

僕はたぶん今までの代表とかより人を動かしたり引っ張ったりするのは得意じゃないかもですが、
まぁマイペースでいきましょう。

あと、新スタッフ募集中です。
広告が好きな人、
学生生活何かに打ち込みたい人、
人の人生を変えてみたい人、誰でも歓迎です。
下記URL先の応募フォームもしくは直接
applim2011あっとgmail.comへご連絡下さい。

http://ow.ly/7EZik

社会は情報化の夢を見る その1

参考:社会は情報化の夢を見る 佐藤俊樹 http://ow.ly/6hGgY

今回は本著の特に第4章「近代産業社会の欲望」を取り上げる。

この章の狙いは「情報化」という言葉に潜む「何か世界を変えるかもしれない」という魔力、「情報化社会」への過度な期待そのものが近代産業社会の欲望から生み出された夢・虚像であることを述べることである。

昨日の「OtoOマーケティング」に始まりこのブログでも少なくない回数、情報産業周辺で語られる言説や、シンボライズされた魔法の言葉(マジックワード)について触れてきた手前、少々耳が痛い内容だった。

というのも「情報化社会論」というのは、大衆の安直な技術信仰に支えられたひとつの産業形態でしかなく、ましてやポスト近代産業社会論などとはほど遠い存在であるというのだ。

その事実を白日の元に晒すためには最低限本著で行われている程度の系譜学的(アルケオロジカル)な踏襲が必要ではあるが、ここでは本著でも例として挙げられている情報化社会に関する書籍の紹介だけに止める。

梅棹 忠夫 「情報の文明学」http://ow.ly/6hGri

林 雄二郎「情報化社会」http://ow.ly/6hGAN

さて、「情報化社会論」産業すらもその内に取り組む産業資本主義には様々な性質や原則法則がある。

性質とは技術革新を原動力とする点、それによるコストの安価化によって生産者と消費者双方に利潤をもたらす点などがある。
またその前提として市場競争を原則としており、著作権や特許権による一時的な独占は可能とはいえ真の意味での寡占・独占された状態は法律によって排除されている。いわゆる「イノベーションのジレンマ」に近い構造だと考えてもいいかもしれない。

また政治的な面で言うと民主主義的思想に基づいており「選択できることに対して人間は責任をとらなければならない」ことが大原則である。そして「技術革新」とは一見選択とは無縁かのように思えるがそれを社会に「システム」として組み込んだり社会を「制御」するという情報化社会論の考えによれば、それは数ある技術のありようの中から「選択」することに他ならない。

(ちなみに「システム」とは「複雑な構造をもった現実の実態を理論的に操作可能な体系をもった『モデル』に置換する概念」である)

こうした社会制御に関する理想と責任というギャップに、良い解決策としてあるのが、盲目的な技術進化論・技術信仰であると本著では述べられている。
好き勝手したいが責任は負いたくないという中途半端さ、技術の「必然」として社会変化を語る情報化社会論の錯覚のメカニズムなのであるとまとめらている。





ちなみに:
第四章「近代産業社会の欲望」以降この本では第五章「超近代社会への扉」、補章、補論と綴られているが、主張としてはやはり今回まとめた内容がメインらしい。つまり、、巷で溢れている「情報化社会・ネットが世界を変えるぜマンセー」的な言説は笑止千万である、、と。
少し拡大解釈し過ぎたかもしれないが。

しかも第五章はタイトルに「超」なんてついてる時点でもうあやしさプンプンで、思った通りに中身は「メタ」のオンパレードである。
少し先回りして第五章の中身を要約すると、、
「真の情報化社会論」と「『情報化社会論』論」は不可分である。。と。
「真の情報化社会論」と「『情報化社会論』論」は表裏一体というか
「真の情報化社会論」と「『情報化社会論』論」は自己循環的というか流動的というか。

そして本当の意味で未来志向な近代社会であるためには、
「真の情報化社会論」と「『情報化社会論』論」の、盾と矛のような捩じれた「状態そのもの」を認識できるようになれ、、、と。

要は『悟れ』と。

そうは言っても「はい、悟りましたありがとうございます」とは問屋が卸さないわけで。
なんだかなーと思ったりするわけです。

でも上記「少々耳が痛い」の部分。
O2Oとかゲーミフィケーションとか、そういうバズワードに踊らされている感はtwitterとか使っていたら誰しもがちょっとは感じ入る部分なんじゃないかとも思います。
そこは本当に身につまされました。

僕は1990年代とかの、初期の情報化社会論バブルとかは知りませんし、マスメディアでまでそういう主義主張が取り扱われていたっていう話は「ネットとテレビの競合」が当り前な感じだと思っていたテレビッ子かつネットも大好きな自分としてはへぇ~って感じでした。

皮肉な話なんですが、情報技術がどんどん情報化社会論産業を加速しているんですね。
いやむしろマスメディアの権威が落ちていてスモールメディア化している中では、昔の「梅棹 忠夫」みたいなビッグネームが上がってきすらせず、なんだか訳のわからん自称キュレーターやら自称デジタルネイティブやらちょこざいな人の言葉ばっかりに却って踊らされてしまうという意味で悪化しているのかもしれません。

どうせ踊らされるなら本当に人間的に格の高い人の言葉に踊らされたいもんですよね。

でも、出来ることなら流言庇護に踊らされたくない。
かといって系譜学的にこれまでの「情報化社会論」論を踏襲して地獄のミサワみたいに「あーこれ2年くらい前に流行ったよねー。2年くらい前に見たわー」とか言ってもそれはそれでしゃーない感じもします。

じゃあどうしたらいいのかなーと考えてみると、

例えば昨日の「O2Oマーケティング」の例で考えてみると、
参考:ネットとリアルの融合を推し進める「O2O」連携=ヤフーとJCB
Eコマース市場は約7.8兆円というけれど、Eコマース市場ってなんだろう?
例えばEコマース×外食で新規ビジネスの開発が進むとして、それってEコマース市場、引いては情報化社会産業の伸びしろってことでいいんだろうか?外食産業の伸びしろって言ったらいいんじゃないか?

みたいな。

つまり「技術信仰」を捨てて「商い(あきない)信仰」というか。
あるいは「技術信仰」を捨てて「アイデア信仰」とか。

技術ってのはこれからも時代とともに発展し続けるだろうって前提の元、
でも時代とともに成長する産業はやっぱり「人ベース」とか人ならではの発想による「アイデア」が光るものだよね。って考えることが当面の策かなぁと思いました。


というわけで、若々しい学生ならではの斬新なアイデアがたんまり見れる、applim決勝レセプションまで、あと3日です。

詳細→http://applim.jp/plus/reception

チケット→http://peatix.com/event/791

O2Oマーケティング

こんにちは。applim+も残すところわずかとなりました。
決勝レセプションは華々しく東京ビックサイトにて開催されます!
オンライン決済で購入可能な当日観覧券も販売中ですので是非ご利用ください。
http://peatix.com/event/791

さてこのブログですが、本の紹介や引用にもそろそろ飽きて来たので最近のバズワードについて触れていってみたいと思います。
今回は「O2Oマーケティング」

O2O(おー・とぅー・おー と読みます)マーケティングとは...

online to offline marketing の略(to→two→2)

主にEコマースの分野で用いられる用語で、オンラインとオフラインの購買活動が連携し合う、またはオンラインでの活動が実店舗などでの購買に影響を及ぼす、といった意味の用語。

Eコマースで用いられたというのが元だという所がたぶん味噌で、その後スマートフォンの普及によるモバイル端末を介したデジタルでの「購買活動体験」が屋内でも屋外でも可能になったことが「O2O」という言葉をバズらせた原因なのではないでしょうか。

というのも online to offline の「offline」とはまさしく「電波入らない」的な状態を指しているはずだったのが、如何にofflineを「online化するか」みたいなことが論点に変わりつつあるということでしょうか。

あまり難しく考えず「ネットでの購買活動」みたいにざっくり把握して置いた方が良さそうですね。

今後この言葉の流行がいつまで続くのかは分りませんが、
バズワードらしく、定義の幅が広がっていろいろな分野や視点での応用が効くようになる未来を歩むのではないかと思います。

O2Oが論点となる分野や視点は色々考えられます。

・ネットを情報源として現実の購買活動に繋げる(食べログ、価格.comなど)
・ネットの技術を用いてどこでもいつでも物が買える(amazon、楽天、あとドミノピザの宅配アプリなど)
・ソーシャルメディアを用いて購買活動や現実の商品についてのシェア(ブクログ、Shopping+など:参考

他にも見たCMの商品をそのまま自宅で購入できるスマートテレビ構想とか、
街頭で聞いた音楽を聞き分けてEコマースにリンクしてくれる Shazamってアプリとか。

やっぱり無限にありますね。

思うんですがこうしたバズワードの発生の元となっている原動力って、
「世界が確実にインターネットによって良くなっている」っていう実感なんじゃないでしょうか。
ネットやモバイルによって、今までに出来なかった事が出来る。それがどうにも嬉しくて、ついどうにか呼び名をつけたくなって、そうしてバズワードが生まれるんじゃないでしょうか。

だから、本当は細かい定義なんてしゃらくせぇもんなのかもしれません。


ちなみに:
大学でGREE田中社長の講演を聞いたことがあるんですが、田中さんは
「バーチャルなものでしかない自分のアバターの着せ替えパーツなんかに金を払うことなんて害悪だ」
という意見についてこういう例えでいつも反論していると仰っていました。
「例えば僕がユニクロに服を買いに行くとします。でも僕の家のクローゼットには既に外に着ていくには困らない服だけならあるんです。これは余計で無駄な購買活動ですか?」
続けて
「ただ生きるためだけなら日本人だって相当安く、物も最小限買うだけで済む。購買とはそもそも無駄なもの。今の若い人にとってアバターに可愛い服を着せることは自分を着飾ることと同じこと。いつか壊れてしまうと分っているバーチャルな釣り竿を購入することは、またいつか喉が乾くと分っているのに自販機でジュースを買うのと同じことなんです。」

後半のジュースのくだりは完全に僕の付け足しですけどまぁ大体こういう内容だったと思います。
結構痺れました。

ものの価値ってなんなんでしょうか。
お金ってなんなんでしょうか。

改めて考えさせられますね。

広告の誕生 その1

広告の誕生(北田暁大)

当初はここまで引き延ばすつもりもなかった広告のメタ言説に関した話としてこの本を挙げさせて貰いました。

この本の主目的は、「広告を広告足らしめているのは何なのか」に着眼し「広告の誕生」を発見すること。

深入りすると哲学的に難解な講釈が必要になってくるので詳しくは本著を参照して頂くとして、
ここではいきなり具体例に入り「これは広告なのかどうか?」で考えてみましょう。

さてその具体例ですが、江戸時代にあたる日本の17~18世紀に「引札(ひきふだ)」というものがありました。
引札とは、ある店舗なり個人や団体なりが主として商用情報の伝達を目的とし、印刷などの方法でもって「複製」したチラシのようなもの。
これは一見我々が考える「広告」の定義にマッチしているように思われます。しかしはるか昔の江戸時代の文脈に置いて、これは広告とは言えないのではないか、と著者は疑問を投げかけています。当時の情報源としての「引札『枠』」が、「これは広告ですよ」とキチンと差異化された文脈で読者に認識されていなかったというわけです。
つまり、送り手と受け手の双方に「これは広告だ」という認識がまずあることが「広告である」ために必要だと言えます。
引札が利用され始めた当初は、「商用情報を掲載する」という行為自体も、文学や戯曲などの枠組みを超えて、ひとつの町人同士のコミュニケーションとして遊動的であったことも特筆されています。

その後、送り手側でより商業的な引札などの活用を目にして、誕生しつつある「広告」という概念について警告を発した人物がいました。それが福沢諭吉です。

「世人の耳目には最も新にして最も奇なるものなれば、人皆これを学者先生の著書と同様に認め、新聞紙中に記す所の事は必ず道理ある議論にして人々の心得にも為る可き教と思い、殊に下等社会の人民至ては、新聞紙を見て何れが社説、何れが投書と読み分る者もなく、雑報も公告も引札も案内も一様同視、苟も紙に黒く印したる言い草は、人の便利、人の為になる事と心得るは無理もなきことなり...近日諸新聞紙公告の部を見るに、売薬の引札最も多く、殊に此引札に限りて文字を別にし、或は図を付し或は絵を交えて、如何にも人の注意を促すものの如し。」

特に後半の記述には、時代とともに引札が「引札独自の様式」(字が大きかったり、絵を用いたり)が出来上がっていたことが示されています。
また、引札が、その他公的な情報と混同されていることについて批評が加えられています。

かくしてこの頃になって初めて単なる引札だったものが「広告」として独自の表現方法/表象空間を手にし、だからこそ、伝搬するメッセージの内容についても批判される対象となったことになります。



余談:
この話を聞いて思いだしたのは、何かの本で読んだ気がするのですが、「大昔の人々は『意識』を持っていなかった」と主張する科学者がいたそうです。なんとその人曰く、「『意識』とはおよそ3000年前で、しかも(どこかは分りましたが)どこそこ地域が発祥だ」とまで言明したそうです。
今は当たり前に存在するものでも、たしかに人間が猿だったころには存在しえなかったわけで。
でも「意識」とか「広告」とか、「心」とか「理性」とか、そういう漠然としたものになった途端に、
「いつかは分らないけどきっと人間は最初から持っていたに違いない」と思ってしまうのは、人間を「神の子」の様に特別視し過ぎなのかもなぁ。と思ったり思わなかったり。


世界で一番うまいもの

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タイトルとは全然関係ありませんが...
先日「メタ」についてのことに触れたのでその続きを少しだけ。

考えてみれば「広告」ほど「メタ」なものもありません。

企業が消費者に売りたい商品を売るために、広告会社が企業に「売る」商品なわけですから、まさしくメタ商品と言えるでしょう。
コピーなどのクリエイティブというものが「この商品を買ってくれ」ということを伝えるための情報なのだとすれば、立派な「メタ情報」とも言えます。

しかしメタとは「高次な~」という意味でした。それでは広告会社がその他のメーカーや商社に比べて上等な会社とでも言うのでしょうか。広告はいろんな娯楽や芸術や情報よりも高等なのでしょうか。それもたぶん違いますよね。

広告が高次なのは、いつも末端に位置させられているユーザーから見た場合なのです。

広告関連の会社は尽く社会の中では「黒子」のような存在。決して表舞台には出てきません。
それはお金を出して露出の機会を買っている企業をたてるためだと言うのは、お題目にすぎません。

これまで世間一般の人が抱いていた広告に対する不信感も、この「目に見えない」高次の存在に対する不信感だったんだと思います。

もっとも、メッセージの裏に別の含意が隠されていること事態は日常でもよくあることです。
むしろ、日常的な場面でこそ多く見られるコミュニケーションでしょう。

人対人のコミュニケーションにおける含意に対して、
人対広告のコミュニケーションにおける含意には妙に警戒をしてしまう理由は何なのでしょう。

お金の問題かもしれません。この含意を忍ばせたメッセージを送ることに幾らかかっていて、それがどれだけ商品の値段に関わっているのか、と勘ぐってしまうのかも。

組織のせいかもしれません。時にお客様は神様ですと表現されるように一義的に個人と企業との力関係を計れないという理由も考えられるでしょう。

単一方向性のせいかもしれません。人対人であれば、メッセージに対して色々な反応の仕方がありますが、広告に対し個人がとれるレスポンスは非常に限られています。無視するか、無視しないかの2択。いえ、無視した場合はそこにコミュニケーションが発生しなかったとしてカウントに含まれないために、極論すれば一択かもしれません。

もっと単純に総量のせいか、あるいは純粋なメッセージとの割合のせいなのかもしれません。企業と消費者との接点の大部分が広告である場合も多いでしょう。確かに人対人の場合でも、いっつも何か裏がありそうな人とは関わりたくなくなりますよね。

いずれにせよ、この人対組織の間に存在するわだかまりや歪みみたいなものを、徐々に少なくし最後には無くしてしまうことが必要です。
その時に、広告代理店という「組織体」についても考え直す必要が出てくるでしょう。
広告を効率的に制作し流通させるための存在が、逆に企業と人との間で何かブラックボックスのような働きをしてしまうようではいけないということです。

「メタ」とは何か

「分解されるメディア コンテンツ・キュレーションについて考える」
http://t.co/V86towV


最近「メタ」という言葉をよく聞くようになったと思います。
その度に僕は「『メタ』ってなんだ?」と思わずにはいられません。

「メタ」
wilipediaによれば「高次のー」「超ー」「ーを含んだ」という意味での接頭語。元はギリシャ語。
おそらく我々が「最近ひんぱんに耳にする『メタ』」は「○○について記述した○○」という意味で用いられたものが多いでしょう。

言語についての言語=メタ言語
映画についての映画=メタ映画
情報についての情報=メタ情報

という風に。
なんだか、分かるような分からないような。

上記リンク先での用いられかたは「メタ情報」がメイン。
情報がたくさんあるものの、たくさんありすぎるせいでそれを整理するために更に情報が要る。
それがメタ情報。というロジック。
記事ではメタ「メディア」としてますけど、同じことですよね。

情報についての情報。これだけならなんだか至極簡単な話であって、そう取沙汰す程のキーワードで無いような気がします。
ところがやっぱり流行の言葉みたく最近その存在感が増しているのは、もしかしたら例の8チャンさんの「偏向報道」などが影響しているのではないでしょうか。もっと言えば、本当に公正な価値尺度の居所がまったく検討もつかなくなってしまった世の中の雰囲気、、、(?)

メタ・メディアでは飽き足らず、メタ・メタ・メディアなる言い回しまで「しなければならなくなった」今の事態がいい証拠。

テレビや新聞などのマスメディアよりも、一人の親しい友人の助言の方が夕食をするレストランを選ぶ際には参考になる=信頼度が増す。。
こんな話は食べログやグルナビなど、インターネットビジネス初期の頃からたくさん挙がっていましたが、今はその頃よりも更に状態が進行し
マスメディアか、パーソナルメディアか。Aか、Bか。
多くのインターネット利用者がそんな両極端(のような)選択肢の間で、行ったり来たりしているのではないでしょうか。

その不安定な状態が気持ち悪いから、人はより中立な立場を求める。
もっと(自分にとって)気持ちいい場所へ、丁度良いメディアへ。

少し夕食の場所を探すだけの間はそれで良かったし、ちょっと自分の趣味趣向を楽しむだけの間はそれで良かった。でも状態が進行し、ここまでインターネットが世の中で一般的になってしまっては事態はそう簡単には行きません。

それはこの世でみんなが幸せになる方法がないのと同じこと。
全ての人々にとって最適な、情報は、つまりメディアは、つまり社会は、たぶん存在しない。

人は最終的にはいつか、自分自身で価値の尺度を付けなければいけない。
情報は自分で選んで、自分で決めなくてはいけない。

そういう当たり前の解答から目を逸らして
メタ、メタのメタ、メタのメタのメタ...などと無限ループを続けることにどれほどの意味があることなのか。

最後には「メタ国家」や「メタ政治」などという言葉を批評家が持ち出し、「メタ人間」としてのSF小説がちょろっとブームになる程度で終わるのが目に見えていますよね。

参考:
メタとは何か? 自己言及の世界の危険と不思議そして語ることの重要性
http://blogs.itmedia.co.jp/itphilosophy/2005/12/post_294b.html

もっとも美しい数学 ゲーム理論 その1

もっとも美しい数学 ゲーム理論

数学によって編み出されたゲーム理論の可能性について述べられている本著。

ゲーム理論を企業の広告活動にも応用してみようと考えるのは至極自然な発想のように思われる。

その際、現代において考慮しなければならないと思われるポイントは以下の2点ではないだろうか。

・広告を打つ企業と広告を打たれる消費者を等価にゲームのプレイヤーと見なす
・上記両者の間での前提情報の格差は場の安定性を損なう

ひとつめについて、
既存のマーケティングサイエンスのアプローチにおいて、広告活動を計算する際に被広告側は常にひとくくりとされていて、主に競合企業(やはり広告を打つ側)同士のみのゲームかのように考えられてきた。
競合会社がいない場合は、ある広告量10を打つことがもっとも効率的であることが計算によって分かっている。しかし10の広告を打てば競合のA社が6の広告量を対抗して打ってくることが予想される。それによって消費者の関心が分散されるため、結果的には12の広告量を打つことが最適である。。。という風に。

しかし被広告側からも容易に情報発信が可能になり、被広告側(のレスポンス)も広告・プロモーション活動の一部である。被広告側の変数は増え、とりうる行動の選択肢も従来よりずっと増えるはずではないか。

ふたつめについて、
広告主側は被広告側について、所得(自由所得)に関するおおまかなデータを所持している一方で、被広告側は通常その広告活動がどれだけの規模(金額)を投じて施行されているのかについて皆目検討が付かない。企業が多額の資本を有する巨大な存在であればあるほど、ひとつの広告あるいはプロモーション活動に投じられる金額の自由度(振れ幅)は大きなものになる。この情報の格差が多きければ、被広告側は自分たちが関与している広告活動というゲームについてまともな計算(や推敲)を行うことから遠ざかってしまい、結果的に場は非常に不安定なものになってしまう。これは広告やプロモーションをあてずっぽう、なんとなく、テキトーに発/受信する結果を招き効率的とは呼べない。

このように、今後の広告活動を解析するまでにはざっと考えるだけでもたくさんの課題がある。ように思う。

広告活動をゲーム理論によって判断する試みをした発表の参考として、下記などがある。
http://seminar.econ.keio.ac.jp/tamada/thesis/mitasai/2005/advertisement.pdf

情報社会とはなにか4

「情報社会」とは何か? 大黒岳彦 著
http://ow.ly/5qA1q

写真が絵画への従属から脱し、報道というマスメディア的役割を担うためにはいくつかの条件が必要であった。特に

①露光時間の短縮
②カメラの携帯性

は必須であったと考えられる。
(著書ではさらに前提条件として写真独自の芸術性と新即物主義について説明がなされていますが哲学的で難解なので今回は割愛)

これは報道写真として必須の「現場」の「瞬間を切り取る」役割を満たすためである。そのためには現場までカメラが移動し、被写体にギリギリまで気づかれることなく瞬間的に撮影をしなければならない。
技術的にそれが可能となったのは1920年代はじめに登場したエルマノックスという小型カメラが初めてである。

そして写真とマスメディアを結びつける最後の重要条件が

③活字メディアとの連携
である。この条件は19世紀末に網版印刷(ハーフトーン印刷)が開発され活字と写真が同プロセスで印刷可能になったことで満たされた。


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上の写真は1931年にドイツの写真家ザロモンによって撮影された外交交渉での写真。
これまでの被写体が身構えポーズをとっていた杓子定規な写真とはいかに状況が変わったのかが分かるだろう。

かくして技術的発展によって写真はマスメディアと連携し新・メディアの生態系で絵画以上の存在となった。

次回は写真や映画をより一般化した近代複製メディアにまつわるメディア論を取り上げる。予定です。

情報社会とはなにか3

「情報社会」とは何か? 大黒岳彦 著
http://ow.ly/5qA1q

今回は本著の第2章に着目し、「情報化社会」そして「情報社会」の先駆けとなった1920年代頃のメディア変革について学習しよう。特に取り上げるのは、「写真」である。

写真機の発明された時期には諸説あるが、一般的には1830年代後半にフランスで発明されたとする説が有力である。
しかしここで重要なのはその年代や地域ではなく目的である。
初期の写真機は正確には「写真描画(photogenic drawing)」という目的のための技術として開発された。写真を使えば素人でも簡単にデッサンが出来ると、当時のメディア生態系の中心的存在であった「絵画」の補助としてそれに従属する道具として生まれたのに過ぎなかったのだ。

写真がこのメディア"生態系"を覆しみずから影響力を発揮しだすのは、技術が進歩するもう少し先の時代の話である。

写真が絵画に従属した「デッサン」のための道具以上に産業として成功したのは、当時のヨーロッパ新興ブルジョワ階級と結びついたことが理由である。それまでの貴族や特権商人がそうしていたように財力と権力の象徴として自画像を欲した大量のブルジョワ層が「肖像」制作装置として写真機を発見したのだ。

さらに19世紀半ばには技術的なブレイクスルーを果たし、撮像は鮮明になり、露光時間も短くなり、機材は安価になり工程が分化されたことで量産体制も整われた。貴族のための「絵画」に従属するカタチで生まれた写真がブルジョワ階層と結びつくことで芽を出し、ついに工業化による大量生産によって大衆の自己認識技術にまで広がりを見せることでメディア、マスメディアとして完全に開花したのだ。

しかし写真の記録性、芸術性、娯楽性が一体となって、文字通りの「メディア革命」を起こすためにはもう一つ要素が必要であった。

それが写真報道 photo journalism である。

続きは次回。
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