広告の誕生 その1 | 大学生向け.ソーシャルアプリ×マーケティングコンテスト『applim』運営ブログ

広告の誕生 その1

広告の誕生(北田暁大)

当初はここまで引き延ばすつもりもなかった広告のメタ言説に関した話としてこの本を挙げさせて貰いました。

この本の主目的は、「広告を広告足らしめているのは何なのか」に着眼し「広告の誕生」を発見すること。

深入りすると哲学的に難解な講釈が必要になってくるので詳しくは本著を参照して頂くとして、
ここではいきなり具体例に入り「これは広告なのかどうか?」で考えてみましょう。

さてその具体例ですが、江戸時代にあたる日本の17~18世紀に「引札(ひきふだ)」というものがありました。
引札とは、ある店舗なり個人や団体なりが主として商用情報の伝達を目的とし、印刷などの方法でもって「複製」したチラシのようなもの。
これは一見我々が考える「広告」の定義にマッチしているように思われます。しかしはるか昔の江戸時代の文脈に置いて、これは広告とは言えないのではないか、と著者は疑問を投げかけています。当時の情報源としての「引札『枠』」が、「これは広告ですよ」とキチンと差異化された文脈で読者に認識されていなかったというわけです。
つまり、送り手と受け手の双方に「これは広告だ」という認識がまずあることが「広告である」ために必要だと言えます。
引札が利用され始めた当初は、「商用情報を掲載する」という行為自体も、文学や戯曲などの枠組みを超えて、ひとつの町人同士のコミュニケーションとして遊動的であったことも特筆されています。

その後、送り手側でより商業的な引札などの活用を目にして、誕生しつつある「広告」という概念について警告を発した人物がいました。それが福沢諭吉です。

「世人の耳目には最も新にして最も奇なるものなれば、人皆これを学者先生の著書と同様に認め、新聞紙中に記す所の事は必ず道理ある議論にして人々の心得にも為る可き教と思い、殊に下等社会の人民至ては、新聞紙を見て何れが社説、何れが投書と読み分る者もなく、雑報も公告も引札も案内も一様同視、苟も紙に黒く印したる言い草は、人の便利、人の為になる事と心得るは無理もなきことなり...近日諸新聞紙公告の部を見るに、売薬の引札最も多く、殊に此引札に限りて文字を別にし、或は図を付し或は絵を交えて、如何にも人の注意を促すものの如し。」

特に後半の記述には、時代とともに引札が「引札独自の様式」(字が大きかったり、絵を用いたり)が出来上がっていたことが示されています。
また、引札が、その他公的な情報と混同されていることについて批評が加えられています。

かくしてこの頃になって初めて単なる引札だったものが「広告」として独自の表現方法/表象空間を手にし、だからこそ、伝搬するメッセージの内容についても批判される対象となったことになります。



余談:
この話を聞いて思いだしたのは、何かの本で読んだ気がするのですが、「大昔の人々は『意識』を持っていなかった」と主張する科学者がいたそうです。なんとその人曰く、「『意識』とはおよそ3000年前で、しかも(どこかは分りましたが)どこそこ地域が発祥だ」とまで言明したそうです。
今は当たり前に存在するものでも、たしかに人間が猿だったころには存在しえなかったわけで。
でも「意識」とか「広告」とか、「心」とか「理性」とか、そういう漠然としたものになった途端に、
「いつかは分らないけどきっと人間は最初から持っていたに違いない」と思ってしまうのは、人間を「神の子」の様に特別視し過ぎなのかもなぁ。と思ったり思わなかったり。