4.右の道か、左の道か。
「ちょっと、あなた達こんな時間まで何をしていたの?」
学校の玄関で靴を履き変えていた、藤堂みのりと総三真翔はギクリと体を硬直させる。揃って声の聞こえてきた方へ見ると、スーツを着た女教師がこちらへ近づいてきていた。
しゅっと引き締まったスレンダーな体でスタスタとこちらへ向かってくるその姿は、真翔達の担任、川島美代子だった。
一瞬ひやりと、汗水を垂らした真翔だったが、この人ならもしかして協力してくれるかもしれない、と心に淡い期待を抱く。
傍らにいるみのりへと視線を向けてみても、その目は安堵と期待に満ちていた。
美代子は教師として、この桜ノ宮中学ではかなりの仕事をこなしている。クラスからも同僚からも好かれてもいたし、それはこの二人にも該当していた。
「あ、あの! 川島先生。門倉さんが今大変なんです。なんとか協力していただけませんか?」
まくしたてて言うと、美代子の鋭い瞳がぱちぱちと瞬きを繰り返す。その間、生唾を飲み込む数秒の時が流れ、それからすぐに美代子は教師の顔つきに戻った。
「……なにがあったの? 先生に訳を話して。それからよ」
真翔とみのりの顔はぱっと明るくなり、そして二人で身振り手振り、事の発端をできるだけ手短に美代子へと伝えた。
「なるほどね。事情はわかったわ。だったら、ワタシの車に乗って言って。今は一刻も早く門倉さんの元へと行かないといけないんでしょ? それにもうすぐ雨が降ってくるから――――」
「え、でもいいんですか? その学校の事とか……」
真翔が気遣うように尋ねると、教師は笑う。
「今は学校よりも大切な、やるべき事があるのよ。あたしはそのためにここに来たんだから」
そう言ってひるがえり、自分の車へと向かう背中が、二人にはとても大きく見えた。
すぐにエンジン音が聞こえてきて、目の前に黒い軽自動車が停止する。
座席から窓を開けて、「さあ、二人とも早く乗って」という声にそれぞれ後ろの席へ飛び込むようにして乗った。
学校の門まで来ると、ハンドルを切ろうとしたところで美代子が言った。
「門倉さんの家は、確か水口商店の近くだったわよね。普通に人が歩いていく分には門から左の道を行けばいいんだけど、車だと右の山沿いの道から回ったほうが早いの。道幅も広いしね」
「そうなんですか?」
みのりが後ろから尋ねるのをバックミラーに目を通して美代子は頷く。
そこに、ちょっと待ってくださいと真翔が慌てて身をのりだす。
「今は家に向かうよりも、門倉さんに追いつくのが優先です」
「……でも、もし先に門倉さんが家についたらそれこそ危険よ。あのノートは密閉された空間でも実態として現れる。逃げ場がなくなったらおしまいだわ」
「それは、確かにそうですけど……」
渋っていた真翔だったが、隣にいたみのりが先生を信じようと耳元に小声で呟いたのをきっかけに、決意する。
「わかりました。じゃあお願いします」
その言葉に、アクセルを踏んで美代子は答えた。
走行中、みのりと真翔の二人はずっと無言だった。ただ、流れていく景色を見つめながら、お互いの心には門倉麻子の事が頭によぎっている。
少女は己を叱咤しながら、もし麻子が自分を許してくれるのならば今度はずっと傍にいてあげようと心の中で固く決意する。
一人で歩いている麻子を想像して、胸がひどく締め付けられた。今すぐにでも打ち明けたい、あなたを裏切ってしまったと。
でも本当は、あなたの事が大好きで今でも親友だと思っていると。
失望されるかもしれない、けれどそんな事は怖くなかった。
ただ今は、麻子の元に一秒でも早く駆けつけて、その体を力いっぱい抱きしめたい。
それが、藤堂みのりの想い。
少年は自責の念に駆られながらも無力な自分にもどかしく、そしてそんな自分が門倉麻子のために何をしてあげられるのかを必至で悩んでいた。
ノートの力は絶対的だ。火で焼いても、山へ捨てても、いつの間にかそれはその人の元へと現れる。あらゆる物理的攻撃が効かないのであれば、対処の使用がない。
そして、ノートは対象者の『目』を奪う。
教師は笑う。
ミラー越しに二人を見つめる瞳は黒く濁っていて、拠り所を知らない。その目はやがて、正面の崩れた崖へと向かった。
山沿いを辿って、きついカーブの先にあるのは大量の砂や岩が崩れ落ちてきてバリケードのようになった道路だった。
タイヤの擦れる音とともに、車が止まる。
「「え……?」」
考えることに没頭していた二人は、同時に声を漏らす。そして、目の前の光景に驚愕の目をしめした。
「こ、これじゃとてもじゃないけど車なんて通れないわよ! な、なんとかして向こう側へ行けないかな??」
「いいえ、そんな危ないことはできないわ、仕方ないわね。引き返すしかないわ……。ごめんなさい二人共」
ハンドルを切って、今まで来た道をUターンしようとする。
すると、じっと黙っていた真翔が猜疑の目を担任教師へと向けた。
「次は、どこに行くつもりですか?」
「え……?」
あっけにとられて、教師は思わず後ろの左座席にいた真翔に首を向ける。
「先生。あなたはわかってここに来たんじゃないですか。ここの所、梅雨のせいか土砂降りでしたよね。だったら地盤が緩くなって、崖崩れが起きていても不思議じゃなかった。それなのに、あなたは僕達をここに誘導した」
「ち、ちょっと待ってよ総三君。あたしは確認したはずよ? どっちの道に行くかって」
「そう、僕達はあなたの罠にまんまとハマってしまった」
「え? ど、どういう事? せ、先生嘘ですよね?」
一人訳がわからないと言った様子でみのりはあたふたしていた。
「嘘。…………嘘ねぇ? 何が、本当で、何が嘘なのか。貴方達にはそれがわかる?」
虚ろな目。海底の奥深くにでも沈んでいるかのような低い声からは普段の教師の面影が一切消えていた。
「何が言いたいんですか」
「あたしには、何もわからないわ。自分が正しいのか、間違っているのかさえ。けど、それでもあたしはやらなくちゃいけないのよ」
そう言って、口元を不気味に歪ませた。
次に懐から出した物は鈍く光る剣鉈。それを舌で這い舐めながら、獲物を狩るようなギラギラとした目を後部座席へと向ける。
「いいでしょう。この学校に来る際にもらったのよ。とても切れ味がよくて、この田舎では必需品だって……」
先に反応して声をあげたのは、真翔だった。
「――――藤堂さん、車から降りるんだ!!」
それがみのりの耳に入るか否かの数秒には、もう二人共車内にはいない。しかし、それは剣鉈を持った女も同じくして、車から飛び出と、先回りして道をふさいだ。
牽制するように、ナイフを突きつけてくる。
「逃がすわけないじゃない。せめて、一匹は狩らないとね」
ふふふ、と笑うその姿からは、以前の優しかった教師の面影はない。
今目の前にいるのは、狂った殺人鬼と違わないほど、同じ人間とは程遠い存在。
やがて、雨が降ってくる。それが、タイムリミットを急かしているようで、真翔とみのりの心には、焦りが募っていく。
「あぁ、いいわねぇ。雨、雨……。雨を降らす雲は、この世界を暗くする。紗奈の気持ちを、ちょっとでもわかってあげられる。この世界を闇へと染めあげる雨がわたしは好き」
まずい。とそこで真翔は歯ぎしりした。
このままこんな所で時間を稼がれたら門倉麻子に追いつくどころか、真っ暗になって道がわからなくなってしまう。
みのりへと目を向けると、怯えて腰が抜けそうになっていた。ふるふると恐怖で揺れるポニーテールが、どことなく頼りない。
それでも、真翔はみのりならやってくれると信じた。
「藤堂さん。僕が、先生を押さえつける。だから、先に行って」
「そ、そんな事……」
できない、そう言いそうになった。
けれど、モタモタしている暇はない。だからみのりはすぐに決断した。
何よりもこの人なら、みのりを立ち直らせた総三真翔ならやってくれる。自分が余計な心配をしなくても、きっと大丈夫だろう、と……。
心の底から、みのりはそう信じることができた。
わかった、と小さく呟く。お互い目も合わせずに、視線は目の前の敵へと向いていた。
「先生。手加減はしませんからね」
真翔が、地面を蹴った。
すぐに距離は縮まり、低く身構えていた教師の腕が、懐まで行こうとしたところで振り下ろされる。それを真翔は左手でつかみとろうとするが、思ったよりも力が強い。
「――――ぐっ!」
なんとか持ちこたえると、それを後方で不安げに見守っていたみのりが、全力で脇を駆け抜けていった。
それを目で追いながら、女は吐き捨てる。
「…………まあ、いいわ」
そして、再びその眼球はぎろりと真翔へと向いた。
「……じゃあ、あなたから償ってもらいましょうか。あたしの大事な娘を殺した償いをね…………」