見えないふり 第八話 | @ちゃんねるブログ アニメ速報

7.見えないふり

 門倉麻子は呆然と眺めていることしかできなかった。
 部屋に全身ずぶ濡れで飛び込んできた親友は、半透明の少女を紗奈と呼んだ。それも2年前自殺した川島美代子の娘。
 無論途中から転校してきた麻子には、先生に娘がいた事すら知らなかった訳で、何がなんだからわからない。

 かぶっていた布団をゆっくりと頭から下ろすと、麻子はみのりを見据える。
 みのりはなおも悲しそうに、涙で潤んだ瞳を紗奈に向けていた、それとは対照的に紗奈はこうなることを予期していたように冷静に言う。

「やっと思い出してくれたんだ。あたし達の想い出。みのりから奪ったみのりが見てきた世界の一部を」

 破れたページのノートをぷらぷらと見せつけながら、紗奈は言う。

「こんなの、今更返されたって困るわよ……。紗奈はわたしにどうして欲しいの?」

「別に。ただ、あたしはみのりが過去に縛られないように記憶を封じていただけ。それを返したのは、今からこの子から目をもらう所をしっかり見てもらうためなの」

「ちょっと待って。麻子は関係ないでしょ? やめてよ紗奈。ここにはあなたをいじめた子達はもういないのよ。これ以上何を求めるの」

 その言葉を聞いて、紗奈はうっとりとした上目遣いでみのりを見つめる。

「ねえ。みのりはあたしの事を親友だと思ってる?」

「思ってるわよ。今でもそれは変わらない、当たり前でしょ……?」

「そうよね。だったら、この子はいらないよね?」

 紗奈が指を差したその先。驚いた麻子の体がびくんと跳ね、ベッドが軋んだ。それに視線を向けた紗奈はくすくすとその様子を嘲笑した後、その顔からすっと笑みを消して唇を噛む。

「あの子達から奪った目がね、また見えなくなってきちゃったの。そんな時に毎日みのりが仲良く話してる、この子の声が耳から離れなくて、離れなくて……。今はもうあまり目が見えないから、その光景を頭で思い浮かべる度に胸が苦しくなってね」

「紗奈…………」

「ねえ、みのり。親友は一人でいいと思わない?」

 その問いにみのりは答えられなかった。どちらかを選んでしまったら、一つを失ってしまう気がしたから。
 どうしようもなくてみのりが俯いた先、いつの間にか床には小さく水たまりができていて、そこに映るみのりの姿が揺れていた。その光景が優柔不断な自分と重なって見え、悔しくて右手をぎゅっと握り締める。
 2年前から変わらない。
 みのりは自分の判断によって人の運命が変わってしまう事をとても恐れていた。だからいざという時に、行動に移せないでいる。
 いつだってそうだ。誰かに手を引かれなければ、みのりは何もできなかった。
 
 紗奈は自分の問いに答えられないみのりに対して、イエスと受け取ったのか楽しそうに白い歯を見せた。
 今から料理でも始めるかのような気軽さでゆっくりとみのりから、麻子へと視線を移す。

「大丈夫。死ぬことはないよ、目が見えなくなっちゃうだけ。その光をあたしに分けてくれるだけでいいの」

 首を振って嫌がる麻子の顎を紗奈は左手で掴んで固定した。そして顎から頬にかけて線をなぞるように指を滑らせる。ひくついた麻子の目を見て笑いながら、嗜むように耳を舌で舐めた。

 ひっ――と声をあげた麻子の表情からは血の気が引いて、大きな瞳が動揺を示した。不快感が紗奈の冷たい舌を通って流れ込んでくるようで、麻子は完全に動けなくなってしまう。
 もしここで目を閉じてしまったら、次に開けた時そこに光が宿っているとは限らない。そう思うと、恐怖にすくんで瞼さえ閉じることが躊躇われる。
 
 そこへ、矢を放ったような鋭い声が飛んできた。
 
「やめなさい――!」

 ぴくりと、紗奈の華奢な肩が揺れた。振り返ると、こちらを真っ直ぐな視線で睨みつけてくるみのりの姿があった。

「紗奈。わたしの親友を傷つけたら許さない。例え、あなたでも……」

 一瞬にして紗奈の顔に影が落ちる。
 既に興味がなくなった玩具のように麻子には目も呉れず、紗奈はのっそりとベッドから立ち上がった。

「嘘、みのりがあたしに意見するなんてこと一度もなかったよね。これってやっぱりこの女のせいなの?」

 その言葉を聞いてみのりの頭に血がのぼる。ずっと立ち止まっていたみのりの足が動いた。スタスタと紗奈までの距離を歩いたかと思えば、右手をばっと振り上げる。
 見上げた瞬間、紗奈の頬に鈍い痛みが走り、同時に気持ちのいい音が部屋に響いた。
 みるみる内に紗奈の頬が赤く染まっていく。

「…………なに?」
 
 何をされたのかわからず右手を頬に当てた紗奈は、ひりひりと痛む肌に顔をしかめて、そこで初めてぶたれたのだと気づく。
 それでもなお信じられなくて、我が目を疑うような表情で呆けた視線をみのりに向けた。

「ふざけないで」

 ふるふると肩をいからせ、眉を吊り上げながら、みのりは泣いていた。
 その態度が紗奈には、まったくと言っていいほど理解できなくて、戸惑いがちに視線が泳いでしまう。
 そんなわからず屋に、沸騰したお湯のようにみのりの怒りは煮えたぎり、やがて爆発する。

「あんたが勝手に死んだ後、こっちはどれだけ辛かったと思ってるの? 毎日毎日、あの時何もできなかった自分が恨めしくて、嘆かわしくて。本当に地獄のような日々だった。こっちもあてつけに死んでやろうかと思ったわよ! 結局紗奈はわたしにとんでもなく大きな重荷を背負わせて身勝手にいなくなりやがった……!」

 まくしたてて言うみのりの態度を理不尽に思ったのか、むっとして紗奈も睨みつけて返す。

「当たり前よ。何言ってるの。こっちだってあなたが全然役に立たないから、辛い思いをしていたんでしょう!? だから死んでやったのよ。ふざけてるのはそっちでしょ」

 紗奈がみのりの頬をひっぱたいた。
 みのりはそれをものともしないで、その程度? と言いたげに鼻で笑うと、さらに続ける。
 
「目が見えなくなった事を死んでも認められないねちっこい陰湿女よね、あんたって。本当なんでこんな奴と友達になったのかわからないわ」

「そっちこそ普段は強気で、男子にも勝るとも劣らない性格してるのに、いざって時にはまったく役に立たないドブ鼠みたいだわ。下水道で一生を過ごすといいんじゃないの?」

 ふっと息を吐き出した紗奈。少し喋るだけでも体が弱い紗奈の昔からある癖だ。それを見ていたみのりは、胸に懐かしいものが込み上げてくるのを抑えられなかった。
 少しの沈黙の後、大きく深呼吸したみのりが少し歪んだ笑顔で言った。

「けど、それでもあんたは親友なのよ」

「……みのり」

「こんな悪口叩くことなんて今までじゃ考えられなかったけど、それはわたしがちゃんと紗奈と向き合わなかった結果なのよね……」

 一年前より紗奈への視線が高くなってしまった自分に、みのりは底知れない罪悪感を抱いた。それを振り払うように、紗奈の体を抱きしめる。

「紗奈、ごめんね。わたしはきっと最後まであなたの親友ではいられなかった。だから今だけはこうさせて」
 
 抱きしめる手に力を込めると、それだけで紗奈が消えてしまいそうに思えてそっと優しく包み込むようにした。
 けれど意に反して、次第に抱きしめている紗奈の背中に感触がなくなっていく。見ると、ただでさえ不明細だった紗奈の体がだんだんと光を帯びてきていて、今にも消え入りそうだった。
 それは頑張って作り上げた自慢の雪だるまが、春がきて自然と溶けてしまうように。

 けれど、みのりは今になってそれが嫌になってしまった。

「ねえ、みのり。やっぱりあたしはこの世界では邪魔者なんだよ」

 一瞬でも気を抜けば、その声は途切れてしまいそうなほどに頼りない。その予兆がみのりにとっては辛く、動悸が激しくなる。

「そんなことない。馬鹿な事言ってんじゃないわよ」

 そうかな? とみのりの腕の中で紗奈が囁いたのに即座にそうよ、と返す。

「だったら、自殺なんてするんじゃなかったな……。なんて、今更後悔しても遅いんだけど」

 微笑んだ紗奈の息が唇からこぼれた。それが最後と言わんばかりに。
 みのりの腕はすっと空中に浮いているだけのものになり、頬に当たった紗奈の吐息が、まだ余韻として残り続けていた。