8.流れていく血の雨
空気がぴりぴりと電気を発したような緊張を帯びていた。
つけたままの車のライトが点滅して、それが暗闇の中で一瞬の判断を促すように二名の人間を睨みつけている。
時に。総三真翔は何故こんなにも必死なのだろうか、と女は思う。
自分の命が危ぶまれる状況化だから? しかしそれならば、いくらでも逃げる隙はあったはずだ。
ナイフを握る女の手に力がこもる。対峙している少年に対して、苛立ちが抑えきれなかった。 腕や、腹からは雨で濡れた白い服の上から血がにじみ出ている。もし真翔が学ランを着ていたら、こうはならなかっただろう。
しかし、真翔の動きは一向に鈍くならずそれどころか女の目には早くなっているようにさえ思えた。
それでいて首の皮一枚のところでナイフを避けたりと、自分の周りを飛び交う羽虫のようで女の鬱憤は溜まりに溜まっていた。
ぴくぴくとこめかみが痙攣して、冷静でいられなくなっている自分にも腹がたち、一旦ふっと息を吐き出して平静を装ってみせる。
「わからないわ。貴方なぜそんなに傷だらけになってまでしてあたしを止めたいの。紗奈を救えなかったただの餓鬼のくせにして、今更ヒーロー気取り? 自分の命も惜しくないですってか?」
眉を不気味に吊り上げて表情を歪める女に対し、真翔の目がぴくりと動く。
「確かに……。確かに僕は、あなたの娘さんを救えませんでした。それは、とても悔しくてやるせないことですけど、だからこそ僕はこうしてあなたに立ち向かっている」
「へえ、じゃあ。あたしの為に死んで欲しいのだけれど?」
「それはできません。僕は藤堂さんに信じてもらえたんだから、それを裏切るような真似はできない。僕が死んでしまったら、きっと藤堂さんは自分の責任だと思ってしまうから」
「……あ、そう。じゃもういいわ。ま、な、と、君」
まるで光のない瞳。ゴミでも見るかのような目つきで真翔を睨んだ。
すっと鼻から息を吸うと、目を見開いて真翔の懐へと飛び込む。先ほどから、数十分は斬りかかっているのに、そのどれもが致命傷には至らない。
子供の体力だと思って、計算を見誤った完全なる女側の失態。
ナイフの柄を自分に向け、横薙ぎに振り払うが、軽快な動きで避けられてしまう。
自分の行動が読まれていることに心の中で舌打ちしながらも、今度は足を狙って下から突き上げた。刃が肉を切る感触はない。視界の端に真翔を捉え、ぎろりとそちらへ振り向くと力任せに剣鉈を振り回した。
けれどそれが最大のミス。雨のせいで滑りのよくなった地面で女はバランスを崩してしまった。
「なっ――――!」
しまった! と思った時には盛大に体がアスファルトに打ち付けられていた。持っていたナイフがガードレールの下をくぐり抜けて崖下へ落ちていき、手を伸ばそうとした時には既に遅く、それを笑うように、雨の音が大きく聞こえるようになった。
受身がとれなかった分、立ち上がろうとすると体に激痛が走り、思うように動いてくれない。
「……クソッ! なんなのよ、うざったいわね」
半ばヤケになったかのように叫ぶ女に対して、見計らったように真翔が言った。
「先生。自分では気づいてないかもしれないですけど、あなたの攻撃が僕に届くことは、多分もうありません」
「――――なんですって?」
真翔に向ける眼差しが、先ほどとは打って変わって頼りないモノへと変わっていた。それは凶器を失った事だけが原因ではないことを真翔が語る。
「この1年あなたの授業をずっと受けてきて思ったんです。もしかして、先生は身体が弱いんじゃないかって。授業を一つ終えるたびに大きく一回深呼吸しますよね。あれは、その証拠なんじゃないですか?」
「それは単に貴方達の物覚えが悪いからよ。ため息くらいつくわ」
「僕たちのクラスはわりと優秀な方ですよ。まあ、少し例外というか藤堂さんを除いてだけど……。でもね、紗奈さんと先生がどうしても僕の中で被るんです。あの子も病弱で、すぐにバテてしまう子だった。現に、先生は今かなり疲労しているはずの僕に攻撃が一切当たらなくなってしまった」
女はからくり人形のようにカタカタと笑った。
「ねえ、知ってる? あの子が失明した原因。あれはね、あたしの体質が元々なのよ」
「……それは、どういうことです?」
濡れた髪をかきあげて、女は雨雲を見上げた。
「そう。貴方の言ったとおり、あたしは体が弱い。もう今立ってるのも辛いくらいに。そんな忌まわしいものが紗奈にも遺伝してしまった。最悪な事により酷く、目を蝕む害悪なものとして。そして皮肉な事に、あたしがそれを知ったのはつい最近。こっちに住んでる祖父から伝えられただけ……」
そこまで話したところで女は目を細めたかと思うと、ぐらりと力なく地面へと倒れてしまう。慌てて、真翔は駆け寄ると、首に手を回して状態を起こした。
「せ、先生。大丈夫ですか?」
うなだれた女はぼんやりと少年を見つめながら、自虐的に口を引きつらせる。
「なんか、馬鹿みたいだわ。あたし……」
「先生、捕まってください。あんまり雨に打たれてると体温が下がって風邪をひいてしまいます」
けれど美代子は力なく首を振る。
言っても聞かない教師に困り、真翔はなりふりかまってられずに無理やり手を膝下にすべり込ませると、そのままぐっと持ち上げた。
そのせいでナイフでえぐられた傷口に衝撃が走る。けれどここで先生を落とすわけにはいかないと踏ん張った。
幸いな事に車までの距離はそれほど無い。教師を抱えたままの状態で、車のドア口まで運ぶと、開けっ放しの後頭部座席に病人をそっと座らせた。
閉めますよ、と確認してから車のドアを全部閉めて、最後に真翔が乗り込んだのは運転席だった。
座席が濡れてしまうけれど、この際仕方ないと真翔は心の中で先生に謝る。
そこへ、後ろでぐったりと横たわっている教師が怪訝そうに訪ねた。
「ねえ。なんであたしを助けたの? それとも、一緒に投身自殺してくれる気にでもなった?」
「そんなんじゃありませんよ。あなたが死んでしまったら、絶対に悲しむ人がいるんです。僕もそうですし、藤堂さんも、門倉さんも。そして娘さんも。後、運転には期待しないでくださいね。一応家が工場でフォークリフトの練習とかしたことある程度なので」
「……あたしとしては、このままアクセル全開で谷底に二人で無理心中したい気分だわ」
「先生独身でしたっけ」
明るくそう言って真翔はシートベルトをつけた。ミラーを自分の目線に合わせると、右足でアクセスをふかして、左足でクラッチを踏む。
「じゃあ、行きますよ先生。門倉さんの家までなんとか耐えてください」
ギアをニュートラルから一速に入れると、ゆっくりと目的地までのスタートを切った。
その途中。真翔はずっと気になっていた事を、この時間で聞く。
「先生。あのノートは何なんです? とてもこの世のものとは思えません。いじめていた子の目を奪ったあの力。あんなもの一体どこで……」
「さあ……。何せ祖父母に預けて仕事にかまけてる最低な母親だから。あの子の事は、何も知らないわ」
その沈んだ声に、もう話しかけないでと言っているように真翔は感じた。それに、これ以上詮索してもきっと望んでいる答えは帰ってこないだろう。
門倉麻子の家へ向かうまでの時間。ずっと真翔はその事について考えていた。