▲「『セミ爆弾』は寿命がつきかけて体力が怪しくなったセミの防御退避行動だと言われている。実年齢68歳のワンワンの中の人はおそらくそのことを科学的知識としてよく知っている。ホンキで『がんばれセミさん』とは思っていない。だから題名も『がんばれ せみさん』じゃなくて『どっきん せみさん』なんです。どうせ強い意志をもって『ゆけ!』と命じたところで、行き着く先は『セミさんの寿命の終わり』にしかならないから。彼の本心は『あーびっくりした!まあ、あんたも頑張ってて偉いねぇ』でしかない。だから『ゆけー!』じゃなくて『いけー!』なんです。『セミさーん…心置きなく好きなように行(い)っちゃいなー』なんです。」「中梅煋次朗…おめぇこんなことをよく自慢げにつらつらと話すよナァ。」「声を出すのがセミプロのボーイソプラノの商売なもんで。」
暑さの増殖し始めた メゾソプラノ最前列沿いの少年らの横半面。
レンズを載せた子供用室内ドローンがレッスンスタジオの中空を滑ってゆく。
3年生の幼さの残る頬の赤みを帯びた隊列を超え、飛翔体のカメラはアルト側の防音サッシの卑近へ。
最後列6年アルトの一人が、まばらになって消えかけたボーイソプラノの音吐の中をキッズプロタブレットを捧げ持ちながら走り降りる。
練習用伴奏グランドの押しやられたシモ手がた腰窓の小棚の上にトンと乗せられたパキラのミニ・ハイドロカルチャへ、ラベルを剥がした350mlペットボトルに入っている水道水をちびりと足す指揮者兼指導者が、レノマのハンカチで手を拭きながら少年らの方へ回頭して一息ついた。
「コトラくん、どお?撮れてる?SNSクオリティ?」
指揮者の問いが、どこか人待ち顔の団員らの頭上を飛び越えてタブレットを抱えた6年生へ。
「うーん。撮れてますけど、やっぱ、ブィーンってノイズが入ってますね。」
「コトラっち、音は後から俺ら歌うのをiMovieで合成してアフレコすんだよ。カンケーねえし。ちょっと撮れたの見せてみ…」
アルトの角から丸刈りの6年生がどさどさ降りてきてパッドのディスプレーを覗き込んだ。
「先生ぃ、ンなことどうでもイイから、この最後の最後の『いけー』どうすんですカ?」
「どうすんですかもナニも、楽譜には『いけー!!』としか書いてない。伴奏以外は×音符も普通の音符も何も無いシュプレヒコールなのよ。あなた方で決めなさいよ。」
「こんなのいちいちオレらが決めてかなきゃなんねぇの?」
「まったく!カンペキに放置プレイじゃん!」
「だって先生方の話し合いや理事会で『今回のNコン課題曲は団員主体で』って決まったのよ。あんた方、合唱セミプロ小学生男子なんでしょ?しっかりしてよ。」
「相模(兄)先輩ぃ、『放置プレイ』って何?…ですか?」
「ピアノの先生も、ワタシもあんた方の指示で棒ふって伴奏するだけなの。残念でございましたわね。」
「そういうのを職場放棄って言うんじゃないでしょーか、先生?職場放棄!」
「座敷ホーキ的な?自在箒?学校の多目的室の掃除のときのカーペットとかは、なヵ、タービーっての使ってる。…昭和時代はフクバ+ホーキイって呼んでたらしいですぜぃ。笑」
「ほぼ月謝ドロボウじゃん?」
「先生、イイですか?ワンワンが描いたとされるNHKの楽譜の表紙の絵には『いっけ~~!!』ってハッキリ描かれてる。楽譜の歌詞のページには『いけーーーーー!!』。Eテレで放送された『発表!Nコン2026課題曲』のN児の範唱の歌い終わりはスーパーじゃ『いけーーーーー!!』なのに、実際は『いけー』で終わってて草」
少年たちは皆、自分が目前に広げていた楽譜を閉じてひっくり返し、表紙や歌詞カードを確認している。
「全然ばらばらチックくない?」
「困るよなぁー、みなさまの日本放送協会。しっかりしてくれなきゃ。」
「全く、こんなテキトーなまねして受信料とりやがってヨ!」
「おめぇ、小学生、受信料なんか一銭も払ってねぇだろ?NHKプラスも!」
「いや、我が家は口座振替です。」
「ね、先輩、だから放置プレイって何?」
「いや、大人の人たちが受信料を払ってくれてるから僕らは毎日学校で教育テレビ見れるんだから…」
「協太朗の唯一の目的は『ズームジャパン』のショーゴの常識ぃ!だろ? 全くこの真正BLボーイソプラノめ!」
「5年社会科の教育番組見て毎週出てくる迷探偵コナンまるパクリの小五の男の子に萌えまくってる男子小学生!…このド変態野郎!」
「うっせー!今はなぁ、多様性の時代なんだよ!ボクちゃんがショーゴタソ(;´Д`)ハァハァしてどこがいかんのじゃ!それに僕のラブラブはショーゴくんだけじゃなく、クックルンのクリンくんも外人萌えです。ラッキークッキンできあがりぃ~♡」
「誰だよ、それ?」
「NHKって公共放送だから放送法で企業名とか商品名って放送できないんだぜ。グロリア少年合唱団とか桃太郎少年合唱団は言ってもいいけど、TOKYO FM少年合唱団とかアンパンマン少年合唱団はダメなの…多分。」
「じゃ、ニュースとかの場合どう言うんダヨ?」
「『主として東京都を聴取対象地域とする超短波周波数変調放送局が運営する少年合唱団』とか、『入団テストにルックスの審査があるとかいう噂があるらしい、朝ドラ『あんぱん』でおなじみの出版社が運営する少年合唱団』…とか?」
「その話、完全に虚偽で盛ってるだろ?!」
「だいたい、ワンワンとかカンペキに幼児向け番組だしなー。」
「『いなばあ!』小さい頃お世話になりました。」
「なんで小学校課題曲なんだろ?」
「『いなばあ!』って、ιょぅι゛ょ萌えの大きなお友達♂に人気の番組らしいよ…(~_~;)。おうちゃんタソ(;´Д`)ハァハァ…みたいな?」
「詳しいねぇ。」
「ロリ系おじちゃん向けの番組でもあるの?!ウッソぉ!」
「…だからNコン課題曲なのかぁ。少女とは真逆のオレらみたいな、完全いたいけで美声な男子小学生だってSNSの動画アップ用で歌うのに…」
「はぁ💨 妄想が支離滅裂でヒサンすぎる…。なんでもイイけど、この100小節目のコーダの処理はあんた方が早急に決めてよ。先生はそれに忠実に指揮するから。先生はこれからコトラくんたちとドローン撮影について少し話し合っときます。」
「Eテレのロリ系使用者の見分け方…って知ってる?高校野球の放送が大ッ嫌いなおじちゃんたちは、たいていロリ使用だって。○○タソ(;´Д`)ハァハァのお目当ての番組が高校野球中継にあっさり侵食されるから…らしい。」
子供達は当初、「課題曲」がきっちり100小節で書かれていることを意識していなかった。
色々なことに頭の回る「セミプロ」?の5-6年生の中には、全国規模のコンクールの課題曲というものは一度の選考会で夥しい回数歌われるものなので、あらかじめ作曲家に小節数やおよその演奏時間の条件が示されたうえで作られるものなのかもしれないと推察した者も確かに居た。『どっきん せみさん』は、もともと合唱団のプロモーション動画用に選曲されただけで、NコンやMV部門エントリーの意志など全く無い彼らにとって、最終目標は頂点を目指すことでもひと夏の思い出をつくることでもなく、ただ「良い操業をこなすこと」でしかなかった。たいていの子は、聞いてくれる人に何かをプレゼントすることと信じているようである。
ばたばたと楽譜が配られ、今回の企画のプレゼンテーション代わりに録画したN児の範唱ビデオを視聴したあと、指導者が『今回のNコン課題曲の解釈・表現の構築と陶冶は団員主体で』というメインコンセプトを説明すると、練習場に漂う、下級生が先ほどひっくり返したキッズ・サーモスの溢れた紅茶アールグレーの匂いを押して、ソプラノ中段から陶器のグルジア・ワインのボトルのような少年の左腕が一本立ち上がった。
「先生ぃ!先生ぃ?…あの、あの、この曲、ピアノ伴奏だけ全部通して聴かせていただけますか…?」
「伴奏だけ?ウメちゃん、何で伴奏?」
「いや、なヵ、好きなんすよ♡おねげーしやす。」
「っていうか、計画ではこの曲の伴奏はピアノの先生のご担当ですよ。それは守って。」
少年たちは彼のピアノテクニックの腕前はよく知っていたし、ピアノ曲の造詣が深いことも理解していた。『真っ白い平野』の連弾伴奏は大抵彼が先生の隣にちょこんと陣取って担当している。
「先生、いいじゃん。ウメちゃんが『イイ!』ってんだから、間違いなくすこすこラバーなんすよ。よきまるもんざえもんで、2-3回弾いてやってつかわさい。」
「頭から[C]のとこまでと、[I(アイ)]ぐらいからコーダの8小節がめちゃシブでウルウルなんすよ。…っていうか、ドビュッシーみたいな?小学生にこの檄プルかつメロい伴奏で歌わせるなんて格が上イッちゃっててヤバくねぇすか?」
彼らは近年のクリスマスコンサートでドビュッシーの『家のない子のクリスマス』などという変わった歌を歌っていたので、ウメちゃん少年の憧れのピアノモードのおおかたは理解できた。
「先生、そいで35小節目の[D]からは、波がうねるような感じで、俺らの歌なんか待ってなくてイイからメリメリメリメリって感じでバリバリバリバリっと煽るように弾いてやってください。それから冒頭のマルカートスタッカートは、もっとこう、ハードクリスタルの分厚いガラスがピシン!バキッ!って割れるときみたいな、もろにピキった感じでお願いしやす。ペダルはそのバリバリッ!って感じのアンビエントで…」
注文多過ぎサカエである。食べてるか走ってるか体液をあちらこちらから漏洩してるか叫んでるか突然寝てるかのワケわからん10歳ぐらいの男の子たちと哀れ主従関係を結ぶ「日本の少年合唱ピアノ」という職種は実に人間がよくできた寛容でフレキシブルなピアニストという崇高な尊敬に値すべき稀有のパートなのである。日本の少年合唱団は「楽譜が読めなくても入団試験に合格する」というレベルの男の子からウメちゃん少年のようなピアノのヴィルトゥオーソ・クラスまでの混成チームで多様性もはなはだしい。
ピアノの先生が、それならば…とYAMAHAに指を立てて最初の2つの4度和音を練習場に流した瞬間、例のソプラノ5年生がとんでもない声高の制止の訓告を発した。
「先生ぃ!ストップ!ストップ!だからそれ違いますって!それは先生のお上品で華奢な指4本のスノッブな押鍵でしかないですよね。」
「須藤(兄)先輩ァ~ぃ、スノッブって何デスか?」
「センセ、楽譜の裏表紙見てください。今年のガッコンのテーマ、なんて書いてありますか?」
少年たちは皆、狐に摘まれたような顔でガサゴソと各自の楽譜の裏を確認した。
そこにはちょっと手書きを意識させるゴシック系デザイン書体で「どきん」と印刷されていた。しかもその3文字の上にご丁寧にもスタッカート記号のような注意喚起の黒ゴマ由来の傍点が振られている。
「この曲は、道路上でセミ爆弾という昆虫の防衛生態反応に遭遇した60代男の、終活なんかキョヒってやる!俺らにもワンチャンあんだろ?!っていう感情を子供の声で歌わせてエモるハッピーエンドソングなんですよ。どきん!っていうのはたまたまその感情を引き起こすきっかけでしかないんだけど、それがなかったら、チョーさんも単なる年金生活者で尻すぼみに人生終わってるわけで…。」
「なんじゃーそりゃ?」
ウメちゃん少年はそう言いながら自席を蹴って練習グランドの胴に通団服の胸を滑らせ、ピアノの先生の右側に11歳の身体を割り込ませ、
「だからぁ、前奏の4度和音の弾き方は…」
立ったまま小学生のどこからこんな強烈なスナップが振り出てくるのだろうと思われるほどの先鋭的なアタックで乱暴とも言えるほどの勢いをぶつけ鍵盤を叩いた。
「バルトークのピアノ協奏曲第3番終楽章のピアノの最後の最後のチャン!チャン!みたくきつく弾くんです!お願いします。」
するとバルトークおたくの加賀協太朗が思わず自席で声をあげた。
「それって、バルトークが末期白血病で病院のベッドの上でようやく息子に手伝ってもらって楽譜書きながら死んじゃった…っていう。その最期の音なの。死んじゃう人が書いたとは思われないほどやっぱりマルカートスタッカート付いててフォルテッシモなの。」
「つぇ~!」
「この曲、バルトークとシリトリで始まってるんだ。」
「お願いしますよぉ。先生ぇ!」
少年らは言いたいことをピアニスト先生に一通りぶつけると、一応満足したのか『どっきんせみさん』伴奏リサイタルを気持ちよさげに身体をゆすりながら聴いていた。
日本の少年合唱団のレパートリーにはありがちなことに、彼らはNコン課題曲を小学校向けのものを中心にたくさん歌ってきていた。『祭りの宵』『明るい笑顔』や『花のまわりで』といった「戦後」「昭和」の匂いが濃厚ぷんぷんなものから『地球をつつむ歌声』、『未来を旅するハーモニー』など、平成末期の、すでに評価が定着して歌集などにとりあげられているものまで、特にNコン課題曲であることを説明されるまでもなくごく普通のレパートリーの一つとしてコンサートのプログラムにとりあげている。だが、特に彼らが小学生男子の気概を込めて熱心に頻繁に歌うのは『びっくり しゃっくり』からはじまって『大すき』までの1970年から西暦2000年に至る30年間のNコン課題曲群である。アルファ世代の5-6年生の少年合唱団員たちは身近なモバイル機器を駆使して、自分たちの演目へ当然のように配されるNコン系楽曲が、『空がこんなに青いとは』から『あたまの上に空』まではVBCとTFBC、『だから すきさ』から『大すき』までは暁星小学校聖歌隊のレパートリー由来であることを知っていた。
「TFBCのラジオデビュー曲って知ってる?」
「TFBCのデビューって、FM東京で一番最初に放送された曲ってコト?」
「正確にいうと1985年4月13日土曜日の朝の6時30分すぎに放送された。」
アルト側の団員達は取出し練習で♪そうだよねまだまだだよね からのフレーズを指名されて歌っている。放置プレイ状態のソプラノ高学年の連中は例によって私語の世界まっさかりだ。
「ビリーブ…とか?」
「ブブー!」
「サンダーバード?もしかして狼少年ケン??」
「もういっちょ!」
「じゃ、おお牧場はみどり?」
「うーん、遠いとは言わない。」
「わかった!気球に乗ってどこまでも…デしょ??」
「あー!超かすってる!第51回NHK全国学校音楽コンクール小学校の部、課題曲Aじゃよ!」
「え、わかんない。空がこんなに青いとは??え”ー?正解は?」
「『わりばしいっぽん』です。」
「『わりばしいっぽん』??」
突如、指揮者の声が飛んだ。団員主体の曲仕上げとは云え、練習時のマナーやエチケット指導はやはり大人たちが担っているのである。
「矢那瀬太洋!深谷寒太郎!」
「ハイっ!」
「二人とも、黙れ!ユニゾンの♪ゆめいっぱい の後はあんた方ソプラノがこの子たちをリードするんじゃないの?下のパートの歌を把握しててくれなきゃ。」
深谷少年は悪びれもせずあっさりと指導者に言い返した。
「そこんとこはやっぱりアルトがオレらを乗せていかないと…」
「言い訳しなさんな!あんたがた少年合唱団のモットーを言ってごらん!」
「 ”かならず僕がそばにいて、支えてあげるよその肩を” …?」
「ばーか!そりゃ『ビリーブ』の歌詞でしょ?しかもアルト五十嵐君オ得意のギャグの持ちネタじゃないの。」
少年たちは例によってバカ受けだ。
「ここの少年合唱団のモットー、言ってごらん。はい、アオケン君。」
「『お客様へ勇気と夢のおすそわけ』…の方ですか?」
「そうヨ!練習中に友達がべちゃべちゃ喋ってる中で練習して仕上げた曲なんて、しょせん不真面目と悪夢のおすそわけにしかなんないでしょ!わかった?」
「ふわぁい!」
「その返事で人に夢を届けるつもりか?!おこがましい!」
「はぁーい。」
TFBCが『わりばしいっぽん』で放送デビューした1985年ごろ、使い捨てで木材由来の割り箸は甚大で身近な自然環境破壊要因の代表格だった。人間どもの欺瞞や浅はかさを突くように蓬莱泰三が詞を書き、それに見合う鋭く冷徹でありながら民衆の無関心をあぶりだすアップテンポの曲を三善 晃が付けた。割り箸が、今や「竹や間伐材を無駄なく使いきる環境負荷の低減を目指した江戸時代からの日本の由緒あるSDGsに寄与する木工芸製品」という21世紀現在の環境評価は隔世の感がある。ブレードランナーのハリソン・フォードの冒頭シーンを観て、割り箸を割って擦り合わせる所作に憧れ来日するインバウンドのガイジンは多いだろう。だが、当時まだ都会的なファミリーFMを標榜していた40年ほど前のFM東京がこの作品を少年合唱団のデビュー番組の冒頭にオンエアしたのも十分にうなづける。
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♪ますらたけをと生ひ立ちて、
國のまもりに召されたる
君が身の上、うらやまし。
望めどかなはぬ人もあるに、
召さるる君こそ譽なれ。
さらば行(ゆ)け、國の爲。
尋常小學唱歌「第五學年用」の『入營を送る』の歌詞だ。曲は1936年(昭和11年)第5回児童唱歌コンクール…現在のNHK全国学校音楽コンクールの課題曲。戦前の課題曲には大まかに5年生用相当のAと6年生用相当のBの他に男子用と女子用があり、この曲は学年共通の男子の課題曲で出典は5年生文部省音楽教科書である。兵役に就き入隊する者を讃える内容で、第一連の後半は「志望しても入隊許可がおりない人もいるのに、(国から)召集されたあなたはとても名誉なことです。だから、国の為に立派に行ってきてください」という不穏な概略だ。小学生男子の彼らはもちろん「戦前の音楽科教育」史料としてオファーのもとにこの曲や『廣瀬中佐』『少年戰車兵』『無言のがいせん(凱旋)』『鎌倉』『日本海海戰(敵艦見えたり近付きたり)』などといった短調で国威発揚の陰惨な曲調の軍歌じみた曲をいくつも歌って録音していた。信じ難いことだが「國民學校」(昭和16年→昭和22年)の音楽科ではすでに「指導用範唱レコード(SP)」というものが存在し、都会の学校では、明らかに「男子児童の声」でレコーディングされた教材が授業に使われていた。彼らはそのリメイクに動員されて歌っていたのである。
今回、合唱団の少年たちがこだわったのはコーダのクライマックスで絶唱される歌詞や100小節目のシュプレヒコールとともに、曲中60小節と61小節で繰り返される「とんでいけ」と明確に歌わせる楽譜上の指示註記である。合唱をなりわい(?)とする少年たちなのだから、歌詞なんかよりもむしろ音楽にこだわってほしいものだとご指導の先生方は思ったが、子供の言うこともなんとなくわかるような気がして頓着を無理やり納めて済ます拙速を思いとどまった。
「いや、『入營を送る』のリフレーンの ♪さらば行(ゆ)け、國の爲 を あろうことか ♪さらば行(い)け、國の爲 なんて歌えマスカ?全然イメージが違って聞こえるでしょう?ぶちこわし!」
「先生ぃ、 ♪シーラカンスをとりにいこうよ出かけよう を ♪シーラカンスをとりゆこうよ出かけよう …って歌ったときのイメージの明らかな違いを考えてみましょうよ。」
『シーラカンスをとりにいこう』の場合の「行こう」を「いこう」と読ませるケースは今回の「いけ!」と同じパターンだ。
「そうねぇ~、なんかこう『行くんだ!』っていう強制とも言える前向きな意志を感じさせるのが『ゆけ』で、『行っこうかなぁ~、どうしようかなぁ~、行ってもイイけどなぁ~』っていう自由な自発や柔軟な思いを感じさせるのが『いこう』って感じがするわね。」
「でしょ~。」
梅雨明けのニュースがNHKのローカル中継で散見されている。夏休みはもう少しだ。あちこち凹みやすい小学生男子用水筒も学校での使役はじき休業を迎える。
「『入營を送る』の『♪さらば行け、國の爲』だと、どっちだと思いますか?僕は先生が今おっしゃった解釈で正解だと思いますが。」
「いや、だからオ国のために行ってらっしゃい…っていうんだから、強制、前向きの方よ。」
「じゃ、せみファイナルの防衛本能で生きる力を再度振り絞って飛んだ頚吻亜目(けいふんあもく)セミ科の昆虫を自分の老後の行末に例えた男の歌の場合は?」
「丘村君、なんで男の行末なの?」
「センセェ、どこぞやの音大や教育学部の音楽系コースをお修めになられた先生方のご立派な知識では叶わないとは思いますが、ミーンミーン!って鳴くセミは多様性の時代でも全員まちがいなくオスの成虫なんですわ。ミーンミーン!って鳴いてメスを誘引プロポーズする仕組みの人生なんじぇす。だからこれは基本的にオスのセミの歌で、これを自身の老後に例えているのは絶対にワンワンの名を借りた爺サンってワケなんですわ。」
「だからあんたたち、『小学生の部』のNコン課題曲の曲想やメロディーが近年とみに女子寄りだってブーたれてたのね。」
「ま、歌ってるのはたしかに小学生女子が圧倒的に多いんですケドね。でも、嫌じゃないですか、女子があからさまに女子小学生の合唱でございますみたいな発声で歌ってるのばっか聴くの。」
「同じ児童合唱でも男子のクラッシック発声と女子の頭声的発声は明らかにゼンゼン違う!先生ならお分かりでせう?」
「歌ってるオレらが言ってるんだから間違いないでやしょう?」
「じゃ、ねえ、青畑(弟)くん、なんでこの曲をドローンで撮ってSNSに上げようなんてあなたたち一致団結したのよ?セミの歌だから?それともかつてお世話になった『おかいつ』だか『いなばあ』の着ぐるみキャラのプロデュースだから?」
「当然です!ここ最近のNコン課題曲と比べたらホネがあってすっごく良くオモシロくできてる。学級の女子が音楽室で歌ってハイおしまい…っていうイージーさが無くって、ある程度の難易度も保証してもらえた。ウメちゃんが言ってるように伴奏だけでも聞かせどころがあって、…なヵ…大人の人やプロの合唱団が歌ってもオモシロく聴けると思うんです。」
「センセぃ…先生ぃ…ココだけの話なんですが…」
中梅煋次朗が自分からもコンダクターの左体側に寄ってナイショ話の姿勢で手のひらを覆い立て、声をやや落として話しはじめる。
「楽譜の[G]んとこからあと。rit.フェルマータがあって調も拍子も変わってアルトからステレオフォニックにスイッチしながら ♪ミーンミンミンミンミー て鳴くじゃないですか。あそこってあんまし没頭して虫捕りとかやらない、少年の心を忘れた女子にはうまく歌えないんデスよ。…楽譜には確かにp(ピアノ)って書いてある。それをだんだんクレッシェンド・ポコアポコしろと書かれている。伴奏の指示もピアノドルチェです。最悪なことに速度記号もメノモッソの指定です。でも、ここは弱く歌ったらイカンのです。セミ捕りをしたことのないヤツが勘違いをする。」
「中梅君、またあんたがたの『楽譜勝手に書き換え』案件?それは…」
「いや、オレらの最終目標は全国コンクールでヤマ小(しょう)蹴っ飛ばして金賞受賞とか、全国放送になって青畑(兄)くんの美少年ぶりをばテレビ画面でプレゼンとかNコン参加記念品グッズのTシャツをゲットとか、そういうんじゃないから。だから、別に課題曲の楽譜に忠実に歌う必要は無いんです。」
「でも、曲を作った方は、ココはこうして歌わないと私の意図は伝わらないって思いで楽譜を書いてるのよ。自分勝手すぎない?」
「いや、先生ぃ。楽譜にはちゃんと書いてあります。p(ピアノ)の横には『遠くで』、ポコアポコの横には『少しずつ近づいて』と書いてある。曲を作った人はセミの生態特性をきちんと把握してる。先生ぃ、セミはどうやって鳴くのか知ってますか?」
ナイショ話の手のひらはいつの間に下りて4年メゾは自慢げに話している。
「お腹の中の発音筋っていう筋肉を震わせて、それを体の中の空洞に共鳴させて拡声してるんです。バイオリンとかとおんなじです。ただ、バイオリンと違うのは、ミンミンゼミの場合、同じ鳴きを同じ強さで永遠に繰り返しているってコトです。時には弱く優しくp(ピアノ)やメゾピアノで鳴いたりするわけじゃない。鳴きの目的はあくまでも生殖だから。ミンミンゼミの声が小さく聞こえたとしたら、それはセミの鳴き方の加減じゃなく、聞いてる人の心の仕業でしかない。だから、楽譜の[G]んとこは女子が歌いがちなように心を落として弱く優しく歌っちゃいけない。」
「中梅君、それって、声のアタックは変えずに、なにかブラーをかけたみたいに響かせろ…ってコト?」
「弱音ペダルをずっと踏みながらプロコフィエフの戦争ソナタ第三楽章をホンキ出して弾いたみたいな。」
「中くん、ピアノにはマフラーペダルあるけど、人間の声でそれをやるのはとても難しいんじゃないの?」
「だからオレら少年合唱の腕の見せ所なんですよ先生ぃ。」
彼らは夕刻の迫るレッスンスタジオで、この話のもともとのトピックだった「強い意志を感じさせる『行け』の読み方をどうしてここでは『いけ』と読ませているのか」という課題の討議を完全に忘れて脱線していた。これがまさに小学生男子の生物学的特性である。
トイレ休憩の練習場雛壇の最下段で、3人の6年生が、江ノ島の遠景を望む晴天の鵠沼海岸のベンチに座る少年3人組といった風情の後ろ姿で、空になったサンキスト・アップルの段ボール箱を床に退け、長椅子に座っていた。
「この人は…人じゃねぇ…ワンワンは、どんな気持ちで『行け』って言ってんだ?」
深谷寒太郎は親睦会支給の「きょうのおやつ」のリンゴジュース200mlパックの上面左端の穴へ、剥がしとったストローを伸ばして突っ込んだ。
「ワンワンの中の人は、だから、老いていく自分の人生と仮死状態から再起したセミを重ねてんだよ。つまり、自らを頑張れって応援してるワケで…」
メゾ6年、パートリーダーの品川(弟)がテトラパック直方体の底面を左右にシェイクしながらシーキャンドルを遠目に見遙かす少年が如く、開けっぱなしのスタジオ入り口の内開き扉の方を凝視している。
「応援で背中を押すシチュの『行け』は、どうしても『ゆけー』だよなぁ。」
そう言ってからアルト・パトリのトナミ・カズノリはリンゴジュースを音をたてて吸った。3人のパートリーダーが肩を並べ、長椅子に座って彼方を眺めながら作戦会議をしている光景は珍しい。
「ワンワン名義で詞を書いたヤツって、結局、シロウトなんだろ?」
「詞を書いたのはシロウトだけど、曲を付けたのはプロなんじゃない?」
「オレ、アンパンマン少年合唱団の出てる合唱祭みたいのでこの作曲した人の実物、見たよ。客席の歌唱指導みたいのを受けた記憶がある。」
「『いけ、と発音しろ』なんて、なんでこんな蛇足めいた註記つけやがったんだろ?」
「いくらなんでも『いけー』じゃ、『行っちまえ』『戻ってくんな』とか、最悪『逝け』にかけられてる自虐ネタ。」
「まったく、最近の大人の考えることってのはワケわからんよなぁ。」
「どうする?とりあえず『ゆけ』と『いけ』の2種類歌って録音聴いて決めるってのは?」
「また、先生、ウルサイぜ。楽譜を勝手に書き換えんなとか…」
3人の前に、突如相模湾に出現して湘南海岸を跋扈するゴジラ-0.1452ファイナルの翳のように一人の少年が立ちはだかって問うた。
「品川(弟)先輩ぃ、このジュースの飲みがら、どこ入れりゃイイんでしょう?」
「ここ。…悪かったな、セッティングほかしてオレらがパートリーダー会議やってて。おめぇ飲み終わるの早すぎんダヨまったく。」
中梅煋次朗の真っ赤なタラコ唇が見下ろしている。
黒柴顔の6年生はオ股の間からベンチの下に打ちやったサンキスト・アップルの陳列用段ボール箱を引っ張り出して4年メゾの胸の前に突きつけた。
「先輩がた、パトリ会議って、なんデスカ? 例の『とんでいけ』やシュプレヒコールの『いけーーー』の事案すか? あの『行け』は絶対に『いけ』なんですよ。決して『ゆけ』なんかじゃない。」
「なんでダヨ!?」
トナミ・カズノリが彼らしい先輩風順風満帆の口調で、キラぱっつんヘアー、ステージでおばちゃんたちに大人気の色白4年生へ問うた。
「僕ちんも最初『変じゃネ?』と思って考えたっす。ただ、パトリの先輩方、お分かりだと存じますが、2026年のNコンの課題曲テーマは何だったでしょうか?」
「わけわかんねぇ。」
「もったいつけやがって。」
「『どきん』ダロ?…アンパンマンの黴菌陣営側のシンパ、『ドキンちゃん』の『どきん』!…朝ドラで甘ぁーい汁吸った国営放送、今度はNコンにまで!まったく。」
「今年のテーマは間違っても『再起』『復活』『弱者や自然の摂理への共感』なんてのや『再チャレンジ』でもなければ『生きることへのひたむきな意志』でもない。周囲がどう言おうが、大切なのは、ただ『どきん』でしかないんです。ワンワンはセミ爆弾に遭遇してドキンとさせられる。それが一番大切なメインのエモーションなんです。だから大切なのは[C]の34小節目までで、それからあとはオマケのリアクション。『どっきん』の修飾でしかない。…卵から孵ったセミは脱皮を繰り返しながら暗い地中や樹木の根間で5年ちかくの幼虫生活を過ごし、やがて地下から這い出て羽化します。僕たち少年しかいない合唱団の団員と同んなじ。オスの成虫としてミンミン鳴くのは二週間から1ヶ月間ぐらいの間。『セミ爆弾』は寿命がつきかけて体力が怪しくなったセミの防御退避行動だと言われている。実年齢68歳のワンワンの中の人はおそらくそのことを科学的知識としてよく知っている。それでもなおかつ『そうだよね まだまだだよね』というのは単なる託ち種のエクスキューズでしかないんです。ホンキで『がんばれセミさん』とは思っていない。だから題名も『がんばれ せみさん』じゃなくて『どっきん せみさん』なんです。どうせ強い意志をもって『ゆけ!』と命じたところで、行き着く先は『セミさんの寿命の終わり』にしかならないから。彼の本心は『あーびっくりした!まあ、あんたも頑張ってて偉いねぇ』でしかない。だから『ゆけー!』じゃなくて『いけー!』なんです。『セミさーん…心置きなく好きなように行(い)っちゃいなー』なんです。」
「中梅…おめぇこんなことをよく自慢げにつらつらと話すナァ。」
「声を出すのが一応セミプロのボーイソプラノの商売なもんで。」
煋次朗は最後に「ただ、コーダのシュプレヒコールの『いけー』は、個人的には『いけッ!』の方が少年合唱団っぽいシャープさが出て良いと思います。」と申し添え、思い出したようにトイレに走って行った。彼がくっちゃべっていた場所の後ろには、飲み干したジュースのパックを畳んでストローを中に落とした(そうすることがこの合唱団のテトラパック廃棄の約束事項だった)団員たちがサンキスト・アップルの陳列用段ボールに飲みがらを並べて捨てようと列を作っていた。
「門脇大地がバレエ教室をムリヤリ退所して合唱団へ途中入団した日の練習前に下の合唱団駐車場でビニールボール投げて遊んでる子がいて、話しかけられたんだと。その2-3年生ぐらいの子は途中入団審査に来た門脇を見て、突然声をかけた。『お兄ちゃん、おかえりなさい。今日までずっと待ってたよ。今度は卒団まで一緒に歌おうね。』って言って、黄色いビニールボールを左手に握りしめたまま受験生にしがみついてきてきつくハグしたんだと。」
「中梅煋次朗らしいなぁ。あいつ、本科に上進した時点でもう、ヒトの人生を一発で見抜くようなああいうキャラだった。」
「大袈裟だなぁ。」
「まぁ、イイんじゃねぇの?オレはYouチューバーみたいなずっとくっちゃべってる男どもは大っ嫌いだけど、なヵ、中梅がするみたいな内容の話だったら許容範囲内かな?」
🍧🍧🍧🍧
彼らが次第にピアニストに対して発するようになった要求は、「全体的にスタカート・マルカート気味に」だった、アテンポのかかる[A]の ♪どうしたの からの無聊なフレーズや、さらには場面転換の ♪そうだよね の[D]以降も。前者は「現代音楽チックな感じがするから」、後者には波がバリバリ流れるような感じにして欲しいから…そして全体的に自分たちの歌がだらけて聞こえないように、ピアノはオレらをめらめら煽って欲しい…と様々な理由をつけてフレーズの強弱にかかわらずスタカート・マルカート気味にお願いしますと熱心にオーダーを申し入れていた。
美しく精悍な歌唱姿勢をお客様に見せてナンボの少年合唱団員であるのにも関わらずじっとしていることがニガテな4年生団員たちが、レッスンスタジオでついに通団服のシャツを脱いで上半身下着姿で歌うようになった午後、佐久平レキがあろうことかバッチバチの夏用ステージユニフォームを紺ベレーから黒いローファーまでの一式揃えまとって練習にやってきた。彼らは先ほどからシャープの落ちた[F]の58小節以降、まず「string.」という速度変調記号の加減の統一(?)がとれず、「ペルペトゥムモビレってコトですよね」と頭から駆け出す子もいれば、最初の ♪とんでいけ でアクセルをかけはじめる子や、クレッシェンドについているポコアポコを見て、3小節間均等に♩≒152 まで持っていくべきだと主張する5年メゾもいた。それからさらにその62小節目からの伴奏の煽りに乗せて2パートがまったく違う言葉を吐いてメノモッソまでもってゆくポリフォニックな部分が噛み合わず、他のパートの歌をきちんと把握して歌うというポリシーを遵守しているような5-6年生は好き勝手に疾走する3年生どもをどう持っていくべきか少しだけ躊躇していた。
「佐久平、おめぇ、ココんところをアルト担当の、ウーん…中梅煋次朗と2人で歌ってみんなに聞かせてみろよ。オレさまが手拍子たたいてやるから。」
「な、なんでボク?」…中梅が、この箇所のマネジメントを扱う丘村虎夢に声をあげた。
「中くんの豊かでオ美しくメチャ得意な音域だろ?みんなに聞かせてやれよ。」
「イイけど、何で佐久平先輩って、こんなホンバンの衣装着て来てンすか?暑いでしょう?」
「なんか出演あるんだっけ?」「え”ーオレの母ちゃん別に何にも言ってなかったっすよ。」「先生、服装コード、きっかしメールしといてくんさいよ(怒」「佐久ちゃんだけ、これから何か宣材撮影あるんすか?先生ぃ?」…少年たちはセミプロ・ボーイソプラノ集団独特の性癖から、例によって様々な私見を依頼文や命令形で言挙げした。
「佐久平、おまえ、どちらかっていうと服装とかカタチみたいのから入るタイプだよな。」
丘村虎夢が広げた左手のナカ指と薬指を揃えて唇に当てながら言った。
「いや、そろそろドローン撮影の色味のテストとか、有るんじゃないか…と思って…」
「佐久ちゃん、そんなのねぇよ!令和時代まっ只中に撮影動画の色味やトーンなんてドレスリハ撮影しなくってもAIでカンタンに変えられる時代なんだよ。なヵ、お気遣い大変ありがとう御座いますが、そのお気持ちだけ頂いておきます。」
♪さあ、お日さま向かってとんでいけー
あおぞら向かってふるわせろきみのはねを!(さあ さあ あおぞら向かってはねを!こころを!)
佐久平と中梅は取出しのポリフォニー調の部分をとりたてて感情を込めることなく少年のあっさりとした声部処理という響きで歌って片付けた。高学年の団員たちは招聘を受けてバッハの『主を誉め讃えよ、全ての異教徒よ』を歌ったことがあったし、たとえば4分の4拍子を強弱付けてハンドクラップしながらポリ声部を合わせる訓練も積んでいた。今回も3年メゾの大塚K太が「主役の旋律がわからない」と不満を洩らしたときも、幼い彼に考えさせることすらせず、パートの5-6年生は「♪あおぞらむかって ふるわせ はねを こころを…でかまわない。」と、あっさり言って済ましていた。
「なヵ、僕たち少年合唱団員にとって…『夢』ってなんなんでしょう?」
びっちり着込んだ制服のネクタイを中指で緩めながら佐久平レキがぼっそりつぶやいた。
「このタイミングで、なんでそんな…」
「そもそも、少年合唱団に夢って必要?」
揶揄する者は多かったが、佐久平の少年合唱団員としての生き様を知っている上級生たちは黙って何かを考えていた。
「ここ、ピアノで先生が『タタッカ タタッカ タタッカ タタッカ ピロリロ ピロリロ ピロリロ』って自分ノリで下からリズムとっててくれないと絶対歌えない。ホンバンじゃトラムームー先輩の手拍子なんて無いわけで、オレも出来ることを頑張るから下で支える人たちにも頑張って欲しい!っつーのがサクちゃん先輩の夢なんすよ。」
「中梅、おめぇ、何言ってるの?」
「コレって、夢は一人一人に絶対必要なんだ!って歌なんですよ。」
「はいィィ??」
上手くことが運ばない事態の発生は、この曲ではほぼ1フレーズごとに起きていた。
♪せみさんおちていた の四分音符に「おち」というシラブルをあてはめることができず勝手に八分音符2つにして歌いがちだったり、♪おわった の語頭の音価が楽譜上バラバラに設定されていて混同していたり、もちろん男の子なので♪そっと手をのばすと の最後のポルタメントが不快感のあるほど極端だったかと思うと、フェルマータに引っ張られるのか全く付け忘れたまま歌ったりした。インターミッションが終わって58小節からの肝心なストリンジェンドでもリズムに乗り切れず、ぐずぐずになる場合も多い。だが、指導者たちはこの曲がNコン課題曲としてはこうした学びどころ(学ばせどころ?)のある…少年たちにとっては仕事(笑)の参考資料になる場面満載のよくできた曲だと評価していた。さらに彼らは散在する「×音符」を正確なピッチ厳守のまま、なんとか「男の子らしいカラーやニオイがストレートにするもの」へ引き寄せようと声色を変えたり発声をいじったり、基本的には男の子独特のダミ声のような地声を駆使して、どちらかというと真摯に声を揃えていた。
「去年だかの『ピエロ・リュネール(月に憑かれたピエロ)』のハイライツ、どなた様のご担当でしたか?」
教師が楽譜の3ページに目を落としながら問うと、「はいっ!」という快活な声と共に待ってましたとばかり2人の少年のフィセル・バゲットのような腕手が挙がった。
「煋次朗さん、悪いケドあなたの方はアンダーキャストでしょ?メインで歌ったのは?…」
「俺の方です!」
3年生の1学期までアングラ劇専門子役を養成する児童劇団にいた丘村虎夢(アタり役は『帰ってきた毛皮のマリー』と『南絶望が丘79』だったそうだ)が、培った演技力や劇の発声を買われて殆ど歌唱力やクラッシックの練度を問われない『月に憑かれたピエロ』の歌い手(?)に推挙されていた。同じ「×音符」でも、隣り合う単語ごとに「語って」「歌うように」と目まぐるしく指定の変わるシェーンベルクの神経質で小煩い注文へ、少年らは忠実に応えていた。
「3ページ目のこの群読の部分の仕上がりが不自然になってないか、虎夢さん、チェックしてあげて。お任せします。」
それから虎夢少年が最初にやったのは、10人ほどの団員を任意に指名して「×♪ウソだぴょーん」をごく普通に叫ばせることだった。3分の1の少年が「ぴょーん」の部分に「ぴヨォォ~ん」といった奇妙奇天烈でエキセントリックな口先の色をつけている。
「これで行こうや。みんな、「ぴヨォォ~ん」でお願いします。
彼はそれから入り際の「ウソだ」という語頭も団員たちに叫ばせてみて、「ウ-ソ-だ-」とテヌート気味にするか、「ウッソッダ」とマルカートするのか、今度は挙手で選択させ統一した。少年たちは「ウ-ソ-だ-」では今度も「だ-」に低い諧謔な声色が乗り、「ウッソッダ」であれば文頭の「ウッ」に明瞭なアクセントがつくことも発見した。
続いてソプラノチームに三連符がついてタイで伸びる「♪ジビビビビー」を歌わせ、ロングトーン以外では母音が消えるほど強いアタックを要求して、一方のアルトの「リアルな悲鳴ほか工夫して」の「×♪キャーー」は、低声部の子どもたちからの強烈なオファーを受け、「×♪ギャア~~」という男の子らしい叫びを採用した。
「『キャー』はどう考えても女や、ちっこい子の叫び声だろ?」
「いくら多様性の時代だからって言っても、俺らはあんまし『きゃぁ♡』って言わない。🎀きゅんきゅん💕は言うケド。」
「楽譜に『リアルな悲鳴ほか工夫して』って書いてあんだから、なヵ、工夫してギャグっぽい感嘆詞でイイんじゃネ?」
ただ、ピアノ伴奏のマネジメント担当のウメちゃんが、
「先生、ここの伴奏はクレシェンド・デクレシェンド遵守で明快にばりばりアルペジオお願いします。」
と目前でエア・ピアノを弾きながら言った。
🌻🌻🌻🌻
「それで『どっきん せみさん』の最後のシュプレヒコールは結局どうなったの?」
コの字型をしたキッチンカウンターの中からサラダの盛り付けをしている女が尋ねた。
「結局、相模(兄)君がYouTubeの動画かき集めて…」
「相模君って、メゾソプラノの方の相模君?」
「そう。それで、アップされてるプロとかの大人の人の女声合唱団の『せみさん』を聞いたら…」
アルファ世代の少年たちである。こうした情報収集能力には十分長けている。
「どこの女声合唱団も、最後の100小節目は、やっぱり『いけ!』って言っていて、『いけーーー』って伸ばしてる合唱団は無かった。だからオレらもシュプレヒコールは提案通り『いけッ!』です。」
「おばさん、おばさん!面白いのは、相模っちの探した中に、完全な打ち込みだけの、たぶんMIDI音声だけで合唱部分を歌わせた…てか、声部を出力してる動画があって、100小節目もデジタルの入力だから、『いけ!』は俺らみたいに楽譜のアナログ的な雰囲気でちょっと間を空けて叫ぶんじゃなくって、ホントにMIDIデータの小節線に機械的にくっつけて、いきなり『いけ!』って出力されてるんです。そうなると、どんなカンジだと思いますか?」
「さぁ?」
「伴奏ピアノには、最初、2分の2拍子の2部休符が入って、それからスフォルツァンドの最後のシメが💥Bang!って入るんです。こうなると、MIDI音声の『いけ!』とピアノの最後の音が、微妙に掛け合うんですよ!」
「そう!ジャン ジャンッ!…みたく。」
「あまりにも可笑しかったから、俺らもそれをいただいちゃいました!」
夕餉の支度の懐かしい良い匂いがしてきた。少年たちは、この子供食堂一律料金の十円玉が、自分たちの人数分あるのかを楽しみに確かめた。
「ユーリ君のおばちゃん!ここ来る途中でユーリ君に会ったよ…てか、下りのケーブルレールのゴンドラに乗ってた。後ろ向きのシートに座って…。」
「中梅、すれ違いのゴンドラに乗ってる後ろ向きの男子小学生、誰でもユーリ君にすんじゃねーよ!イイカゲンにしろ。」
「うんにゃ、アイワカラズかっこ良くてバリバリのメゾって感じだったですよ、おばちゃん♡」
「どうしてユーリのおばちゃんにそういう悪質なウソつくかね?しかも『アイワカラズ』じゃなくってそりゃ『相変わらず』だろ?アイワカラズはおめぇのノーミソじゃん!…すみません、つらい気持ちにさせちゃって。」
子供食堂調理人の元少年合唱団員保護者ママの店主は目を細め口角をバナナ形にして笑い、中梅煋次朗に優しく声をかけた。
「おばちゃん、全然つらい気持ちなんかしてないよ。ありがとう、教えてくれて。きっとそれ、本物のユーリ君だったんじゃないかな?おばちゃん、みんなのことを見てお話ししてると、ユーリ君、ひょっこり戻って来てるような気がする。」
「ホラみろ!ユーリ先輩は生きてるんだよ。僕とかおばちゃんみたいな心のキレイな人間にだけ見えるんだよ。」
「おばさん、第三軌条オタ子鉄メゾの門脇大地がバレエ教室をムリヤリ退所して合唱団へ途中入団テスト受けに来たとき、練習前に合唱団の下の駐車場で中梅くんがビニールボール投げて遊んでて、門脇を見るなり『お兄ちゃん、おかえりなさい。今日までずっと待ってたよ。今度は卒団まで一緒に歌おうね。』って言って、黄色いピニールボールを左手に握りしめたまましがみついてハグハグしたんですってよ。おかえりなさい…っていうからきっと、ユーリ君が帰って来たんだって勘違いしやがって…。」
「ウルさいなぁ!門脇先輩カッコよくてイケてるメゾソプラノなんだから100パーセント見間違えたんだよ。ダマれ!どっきんオバカのソプラノ6年!」
子供食堂店主はこともなげに問答を平定する。
「おばちゃん知ってるよ。中梅君から聞いてたもん。門脇先輩、確かにカッコいいね。」
「中梅おまえお喋りだな。」
だが、少年たちはそれ以上4年メゾを責めなかった。彼らもまた、合唱団の営業現場で発生する数々の危険の回避やあり得ないくらいの幸運の偶発が、かつてメゾソプラノで肩を並べ自分たちとともに歌っていた頑張り屋の少年…天上の遠いところへ行ったはずの今も彼らの合唱を守ってくれていると思われるような場面が多々あるからだった。
「中梅みたいなアホンダラがいるからなぁ。」
「こんな後輩、放って置けないぜ。」
「…あいつの夢って、何なんだろう?」
「おばちゃん、ユーリ君の夢って、何だったんですか?」
店主は答えがよくわかっていてニヤニヤした。少年たちはまた暫く口を閉じた。6年生たちが下級生に箸を配った。アオケン少年は「ありがとう」と言い、中梅煋次朗は黙って頭を下げた。メゾソプラノのパートリーダー、品川(弟)が手洗いを忘れていたことに気づき、席をたって店の一隅の小型ペデスタルシンクでくつくつと手を洗い、ハンカチでふきふき戻りながらながらぼそりと言った。
「…ユーリの夢なんて、一つしかない。俺らが幸せに歌って、お客様に幸せのお裾分けをすること。」
「…おばさん、そうなの?合唱団のモットーがそうなんですか?」
「佐久平パイセンの夢と同んなじだぁー。」
中梅がうっとりと言った。
「佐久ちゃんみたく、制服とか、外見で勝負したりはしないけど…まぁ、俺らの少年合唱団のガイケン見て幸せになってもらおうとはみんなも思ってる…」
「中梅煋次朗、夢見る11歳。制服の似合う絶世のメゾソプラノ。毎夜、歌って人々に夢と希望と幸せをお裾分けしている少年である。」
「中くん、ナルシー入ってんだろ?それにもう11歳とか派手にサバ読んでるし!」
「いや、そもそも概算で言ったまでです。」
食堂店主が洗った手を拭い、少年たちにプラスチックの盆に乗った定食を差し出した。
「はい。お待たせしました。『どっきん せみさん』定食。…おいしくてどっきんってするカモよ。」
「え”ー、蝉が入ってるの?」
「今流行りの昆虫食かい!?」
「だから『おいしくて、セミ爆弾みたいにどっきんとする』って意味だよ。キャビア入ってるとか、但馬牛のステーキとか…ミニ・もっちゅりんとか…さすがにそりゃ無いか。」
「でも、ユーリくんのおばさん、何で僕たちが『どっきん せみさん』のプロジェクトやってるの知ってたんですか?」
「中梅、おめぇ、またしゃべったろ?まったく…」
「まぁ、声を出すのがセミプロのボーイソプラノの商売なもんで。」
アオケン少年が上天板に並べられた十円玉をあたたかく見つめながら言った。
「違うよ。ユーリ君に教えてもらったんですよね?何となくそんな気がする。」
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