美しい暦     

 美しい暦     

   Calendario bonito           

▲指揮者先生の最後のまとめの一言は、僕たちにオルドビス大絶滅末期的なトドメを刺した。

「これ、ボリュームが編集でかなり絞ってあって小学生のキミらにゃわからないと思うが、バックコーラスはTFBCです。」「TFBCって、まさか、あの天使のハーモニー;TOKYO FM少年合唱団じゃないですよねぇ?」「ああ、まさしく、天使のハーモニー;TOKYO FM少年合唱団サマだ。」

 

僕はその日、合唱団規則からステージ出演時はもちろんのこと、通団服に合わせるのさえあまり良く思われていない毛玉だらけの黒とか紺とかグレーのレギンスや分厚い黒タイツを本科生団員の3分の1ぐらいが半ズボンの下へダブダブと履いて来ている極寒の午後、レッスンスタジオのトイレ休憩中に第二メゾソプラノの連中が、年長さんの間を持たそうとそこそこ集中して『新・生化学戦隊レーニンジャー』の臨場シーン展開しているのをアルト側の自分の席からぼんやり眺めていた。小学生のやる戦隊モノの真似事なのでそういうクオリティーでしか無いが、キャラクターの設定がてんで意味不明で、耳を傾けていても飽きがこない。

「フッフッフ!自然界にポリエチレンテレフタレートを細菌分解する術(すべ)さえ知らぬオープンソースの盲者ども、我らイソメラーゼ・ドメインの異性化不斉点アタックを受けるが良い!」

メゾソプラノの中梅君がジェットスターA320のウイングレットのような腕をもたげたポーズでキメのセリフ第一弾を鷹の目で発した。

「来たなッ!このアミノ基移転酵素群め!あいにく俺らぁアルファーケト酸構成に多忙でな。早いとこ遊離アンモニアにでもなってイジェクトされちまえ!」

ここまでで通常の小学校高学年男子にも容易に理解できる単語はリトマス試験紙関連で「アンモニア」だけしか無かった。しかも「遊離アンモニア」というのは小学校の理科準備室の薬瓶のラベルに一本だに見たことが無い。

「こ!小癪な!…そうはいくか!」

「類縁体アタック降臨っ!」

「ヒドロキシ酸類にだってアタシたち無敵に作用するのよ!」

「イーシーファイヴ・ワン・99!」

「マルチ作用体、見参っ!」

日曜の朝9時台のテレ朝も、最近は光学異化相互変換の触媒イソメラーゼを戦隊キャラ化するほど複雑かつ生化学プロセス重視路線へと昇格進化しているらしい。

「…生化学グリーン!ボクは無邪気な戦士イーシー5・1・99ファイヴ!ヒダントインラセマーゼ!」

「生化学ピンク!アタシはマーカーのお役目も頂戴する唯一のヒロイン、α-メチルアシル-CoAラセマーゼ!」

自己紹介長げぇーな。

「こっちはパワーとテクの生化学イエロー!ご存知アラントインラセマーゼ!」

「おっと!忘れさせないゼ!リーダーのピンチへのスピード・アシストが大好物!いつもお供に生化学ブルー、俺は16-ヒドロキシステロイドエピメラーゼ!」

「そして異性化エンザイムの頼れるリーダー、生化学レッド、メチオニン代謝中間体なら何でもお任せ!EC 5.1.99.1 メチルマロニルCoAエピメラーゼ!」

「さよう、我ら、新・生化学戦隊…レーニンジャー!」

全員男子小学生ながら、オペラではスカート履いて少女役もこなす、生化学ピンク一人だけ女性戦士の役なのはさすがである。

僕たちの少年合唱団の日常を何に例えるかと言われると、天使の歌声でも天使のハーモニーや悪魔のハーモニーでも歌うボーイスカウトや歌う海洋少年団なんていう短絡的なものでもなく、一番マトを得ているのは「沖縄弁当」や、一歩引いて「䑓灣鐵路便當」(台湾の駅弁)という感じだ。台湾の駅弁には煮卵やパイコーといった抜群の定番が詰まってホカホカだが、PRCの方の駅弁はプラケースを真空パックにしたみたいな食欲が真空になるほど失せるものだ。沖縄弁当はなんでもありで中身がギッチギチでほとんど空間恐怖症といった込み入ったもので、あったかいものも冷たいものもジューシーをビニール袋に放り込んで「お好きなら自分でおにぎりにしてみればー?(やふぁらジューシーう好みっしどぅーくるうぶんにじりーなちんーでー?)」というテーゲーさを感じさせる。これが僕たちの少年合唱団のやかましくも静粛性皆無の日常だ。

今日の最初のトイレ休憩の『新・生化学戦隊レーニンジャー』をワンコインすら出さずに楽しく召し上がるのはオリオン少年合唱団から「本科生3ヶ月間団員交換」という名前だけの制度で適当にこちらへ送り込まれた4歳年中さんの男の子を僕らが上手くあしらって先生方も本科生に見えるように頑張ってステージ要員に育てたのが災いし、翌年オリオン少年合唱団から厄介払いでその子と合わせて移籍して来た年長5歳児の男の子計4名(!)だった。オリオンは僕たちの団のことを明らかに歌う男子未就学児のゴミ捨て場と考えているらしい。年長さんならアンパンマン少年合唱団にでも入団できそうなものだが、あそこには定員も入団テストも何やら難しげな入団条件も揃っていて「なんちゃって少年合唱団員ステージ経験があります」といったようなテーゲーなプロフでは採ってもらえないらしい。月謝が無いぶん、あちらは色々な男の子がわんさか押し寄せて指導しきれないんじゃないの?…とソプラノ6年の深谷君のママは言っていた。5歳男児にして簡単には決して円満な少年合唱団員人生の送れない、難易度の高い21世紀を四半世紀過ぎた複雑な世の中である。

 

 

「きゃぁー!生化学ブルーのイーシーファイヴ、ワン、エピメラーゼタソ(;´Д`)ハァハァ!」

第2メゾソプラノの中田コーガ(推定年齢5歳4.5か月)が生化学ブルーの中梅煋次朗の通団服の良い具合にいかった肩へ未就学児の稚拙な声をかけたかと思うと、プルートイド型遷移小惑星が衝突するほどの激烈な勢いで4年メゾの下腹部に肉弾の衝突音が聞こえる勢いでぶち当たっていった。

「おーう!俺の愛する本科幼稚部の2メゾ中田王子!生化学ブルーの中梅煋次朗お兄ちゃまのトリカルボン酸回路におまえの情念のすべてをロックオンしろっ!俺様がお前のすべての体液を痺れるほどバイオ活性モラキュラ―・コンバートしてやんからな!」

「お兄ちゃーんっ!やめて!アン!」

BLか?はたまた真正ブラコン?

「コーガたん!俺さまのコトを『ボクのこころの生化学ブルー!』と呼んでくれ!」

その指図を麗しの白百合とばかり受け止めて叫ぶ最低学年男子の声を聴くこちらは生化学反応的にブルーな心境だ。まったくこの男子小学生と幼稚園児の限りなき偏愛の嬌態をどうにかしてくれ!

「こっちのおまいら!このオレ様たちには何も言うコトが無えのかー??」

幼稚園児相手に七色の新・生化学戦隊どもが声を荒げると、彼らはきゃぁーとか「アー!」といった前後不覚の幼げな嬌声をあげ、調子に乗った少年合唱団のアホなお兄ちゃん団員たちともどもおふざけ率120%でトイレ休憩暇つぶしの声をまくしたてた。

気がつくと僕はピオーネ色のマグボトルを床から引き上げて、イコールだかスプレンダの入った甘い緑茶をグビリと飲んだ。

「うきゃー!釜屋お兄ちゃま、ボクたんにチューして!」

「フフフ、美しい俺様とピルビン酸デヒドロゲナーゼ複合体と化して昇天してみたいとは、まだ46億年早いってもんだ!」年長さん、今現在たった5年しか生きてないだろう?

「古川コトラ先輩ぁーぃ!先輩のステロイドホルモンを僕ちんの肉体深くにいーっぱい打ち込んでくださーい!」

ハルキくん、キミ、たちどころに糖尿や多毛症になるゾ!

「俺の永遠のカルボキシル基、小林ユーガ!俺様と深くペプチド結合だっ!」

「お兄ちゃん!」

「ユーガたん!あハァー!」

4年メゾは既に年長児の貧弱な肩をしっかり抱いて脱水化合反応的状態だ。

まあ、そもそもトイレ休憩時に上級生が恥じらいも無くこんな気前の良い低学年団員あしらいをしていれば、お兄ちゃんたちも楽しいし、ステージでのパフォーマンス力も身につけられるという一挙両得、一つを放って二つを得る反応方程式だ。沖縄弁当ライクなこの少年合唱団の場合、特に奇異な現象ではない。お客様がたも、数十組の半ズボン通団服姿の2人の少年がしっかと抱き合う光景から醸し出される高温多湿でBL的なニオイを敏感にかぎ取っていただけば、さぞやわくわくドキドキとさせられることだろう。

「いいのかね?」

「何が?」

「こんなちっこい幼稚園だか保育園だかこども園のガキばっかり毎年オリオン合唱団から受け入れて、俺らのクオリティーってか、レベルとかハーモニーの美しさが低下するんじゃないかってコト。」

2メゾの青畑(兄)が血液中グルコース濃度がどんよりと上がりっぱなしな小5男子の声色で言った。日本の少年合唱団のステージのクオリティー評価なんて、本来聞いているファン次第だろう?

「アオケンちゃんなんか、日々、大人の女声みたいなカッコいい大人っぽい声で勝負してるんだから、やりにくいと思ったこと、無い?」

ちっこい連中のローゲやおソソの後始末は、少年合唱団でも感染拡大を防ぐにあたり、団の大人のスタッフしか対処できないように厳しく言い渡されていた。もちろん僕は、声質に関係なく後始末をしたことは無い。

「ゲロには胃酸が入ってるから、キミらが不用意に塩素系のハイターとかをかけると塩素ガスが出てみんなブッ倒れるぞ!学校で教わらなかったのか?」

合唱団の先生方は、お得意の「学校で教わらなかったのか?」というセリフをぶちながら『吐瀉物処理キット』の艶消しシルバーの封の頭をサッカリンデナトニウムを噛み潰したような顔をして切り裂くのだ。

僕の声や合唱団の歌のクオリティーは多分、お客様の満足度とは関係が無いと思う。

「ハルキちゃん。キミはいったい何のために愛する僕と歌っているのサ?」

古川コトラがバルキータイツみたくよれよれに捩れたリブの入る擦り切れそうなレギンスの太ももをこちらに揃えて尋ねた。

「うーん、わかんない。」

「じゃ、こっちのアオケンお兄ちゃんに聞いてみようか?」

「うん。」

ほぼ誘導尋問のような簡素な手続きで質問の矛先が変わる。

「アルトのアオケンお兄ちゃん。キミは何で俺らといっしょに歌ってんだ?」

5歳児団員の視線が5年生団員の視線と一緒に、䑓灣南部へ2つも砲塔を回頭した人民解放軍の055型南昌級駆逐艦のごとく僕の方に向いた。

「僕たち全員が幸せに歌って、聞いているお客様全員を幸せにしたいから。」

「そりゃ、キレイゴトな合唱団のモットーだろ?」

「いんや、我らが少年合唱団のホントのモットーは『必ず僕がそばにいて支えてあげるよその肩を』でやんすよ!」

「ばーか!イガちゃん、そりゃ、『Believe』の歌詞だろ?」

「まったくこのビクター少年民謡会めが!」

「んー。俺様のいたのはそんな有名演歌歌手の登竜門みたいなメジャーの大手スクールじゃなく、町の爺さん婆さんばっかのチンケな民謡教室でして…」

五十嵐少年はアルトの前列から話に挟んだ口を開けるとき悲しみや苦しみが喜びに変わるだろうとばかりに閉じて、食べかけのローソンの赤穂の塩揚げ餅の混紡カシミア下着色の袋に左手を突っ込んだ。トイレ休憩中に揚げ餅を食べるのはその個数に関係なく当然団規則違反である。

「そういう正式なんじゃなくってさ、あんだろ?なんていうかプライベートな理由が。…例えば、オレサマの場合は、ウチのハイソなお母様が合唱団入れ!って豪華トミカの働くゴージャス運搬車セットで釣ったから…というのはウソで、本当はこのカワイイカワイイ美少年5歳児王子のハルキちゃまと一緒に歌うためダヨー。なんちてー。」

それが言いたいがために話題を僕に振ったのか、この、たわけもの!

古川コトラはカワイイカワイイ幼美少年5歳児のハルキ王子ちゃまとブッチュん正面から濃厚なBL系キスを一発ぶちかました。学校から着たまま通団してきた都内某有名私立小学校(難易度も学費も目が飛び出るくらい高いが、コトラ氏の入学は、たぶん親子三代のコネである)の制服の上着のスソを翻したその後ろ姿はちょっと古典的なBL漫画の東京都青少年育成条例も執行者スモールポンドリリー(小池百合子)の怒りもチラ見せに買いそうなほどで、トイレ休憩中、こういう風紀を乱す行為に及ぶのはこちらも当然少年合唱団規則違反に近い、いや、ど真ん中である。…ああいうルックスの女の人はいったいどんなフスハー・アラビア語の ع(アイン)を話すのだろう。

 

6分後、僕たちはレッスンスタジオの定位置で、ピアノの先生の弾くヘ長調四分の四拍子、マルカートのついた四分音符がタイの全音符の上に乗る派手なファンファーレを聞いているところだった。1992年。鼻腔を炙りあげる熱砂がスーッと退潮するようにバブルの高みは引いたが、子供番組のオープニングのために作られた音楽はまだあの至福と肩パットの入った蛍光灯のきらめく明るさのままだった。衛生ナプキンの広告が船体についたソユーズ宇宙船で日本人もすでに宇宙へ行った直後の時代。まさしく「これ、本番ですか?」と令和の僕も言いたい。

ピアノ先生のあっさりとした伴奏をコーダまで聞いた後、今度はスタッフさんがケータイをスタジオのモニターにWi-Fiミラーリングで飛ばしてYouTubeのオンエア動画を2回流した。

「『ひらけ!ポンキッキ』って?」

「BSフジの『ガチャムク』の元祖じゃねぇ?よくわからん。」

「ガチャピンとムックは知ってる。ガチャピンって恐竜なんだって。おれ、福井恐竜博物館で見た。」

「『ポンキッキ』20周年のオープニングナンバーなんデスカ??」

「そもそも『ポンキッキ』とは?」

「『おはスタ』のパクリみたいな?『天てれ』的な?しらねぇー!」

「この着ぐるみキャラから言って、『刺身ストレート』的ちゃいまっか?」

「『セサミストリート』だろ?」

「なんか、カビ臭いマックで作ったショボいレンダリング3Dオブジェに無理やりアナログの人物と着ぐるみ動画を被してあるってカンジの?動画っていうか」

「ビ…《ビデオ》ぉ?」

「プププ…」

「 これ、大昔のCXお得意…キネコとVTRを無理やり切り貼りするっていう荒削り感満載なヤツじゃん。」

「ダッセ!」

「オールナイトニッポンぬ!ゴーゴーゴー、アンド ゴーズ オンぬ!」」

僕たちの感想も、そして言葉にはしなかったが歌っているお姉さんの歌声への評価も散々だったが、指揮者先生の最後のまとめの一言は、僕たちにオルドビス大絶滅末期的なトドメを刺した。

「これ、ボリュームが編集でかなり絞ってあって小学生のキミらにゃわからないと思うが、バックコーラスはTFBCです。」

「TFBCって、まさか、あの天使のハーモニー;TOKYO FM少年合唱団っていうヤツじゃないですよねぇ?」

「ああ、まさしく、天使のハーモニー;TOKYO FM少年合唱団サマだ。悪いか?」

「どうりでなんか、サビのところのコーラスに、ふんわりアマ堅い子供の声の残り香がっ!…」

「ねぇ、センセ…オリジナル、TFBCなら、ウチじゃなくって御本家のラジオ局の合唱団に話持ってけばイイじゃんっと思いマセン?なんでオレらなんかに?」

「尚央くん、ラジオ局の少年合唱団は今、BSの週レギュラー番組の同録で、それどころじゃないんだろう?あちらはオペラもシーズンごとに歌ってるし。」

「だって、あれって週一のたったの5分間の番組でしょ?」

これは、僕たち自身が僅か5分間の尺のライブに数十時間もの血のにじむような汗と涙とおしっこまみれの準備練習期間を割かざるを得ない哀れな少年合唱団員人生という自己認識を全くできていないバカ野郎的稚拙な発言だ。

「それで全く乗り気じゃ無いケド仕方なく俺様がたにオファーが来たってワケなんですか?」

「もはや、ちんちん付いてりゃなんでもイイっていう?」

「まったく!」

「んで、結局、バックコーラスなんかミキサーさんの指一本でフェードされちゃうっていうボーイズコーラスの哀れで損な性分ですよね、先生ぃ?」

「それが、歌のお姉さんのトラックもボーイソプラノでお願いしますっていうクライアントさんからのリクエストだ。」

最後に一番クソミソで噛みついていたソプラノの加賀協太郎が、半ズボンの腹から突っ込んだ右腕の中指を黒レギンスに開いた右膝の破れ穴からミミズのようにチラチラ振りながらぼそりと言った。

「なるほど。こりゃ俺らへの『ふしぎ色のプレゼント』だにゃぁ。」

 

 

♪ Wow Wow Won-der !

 

「先生ぃ?…先生ぃ!」

伴奏のオクターブ四分音符4音のダイナミックな、まるでファンファーレのような躍動感と歌い上げの切り出し。「ソ↓!ド!ファ!ラー!」…このファンファーレの上行は本来ソリストの独壇場だが、今はドレミ唱練習の仕上げの段階で、全員が自分のパートのメロディーに置き換えて歌っている。訓練を積んでいる僕らでも、この「ソ↓!ド!ファ!ラー!」はちょっと危なっかしい歌い出しだった。先生方も「まあ、小学生男子の合唱の音取りだから、こんなものだろう。」と耳半分で聞いている様子がなんとなくわかる。

「先生ぃ?…先生ぃ!」

楽譜上は3部に分かれたリフレインの♪ Wow Wow Won-der !を歌い終わって、下級生の誰かがメゾの隊列の前の方で左腕を挙げた。

「はい。なんでしょう?大塚くん、このタイミングじゃないとダメ?」

第2メゾ4年の大塚K太の左上腕だった。

「はい。…この3回目のWowの音なんですけど…」

1メゾの後列の誰かが舌打ちをした。先生がおっしゃる通り、通して歌った後が何か注文の行き来のあるべき頃合いで、ここは、あまり良い良いタイミングではない。

「この3回目のWowの音が合ってないような気がして、とっても気になるんですが?」

「とっても気になるのはオマエの頭だろ?」

5年アルトの森村ブラッド満の声がした。

「いや。何?K太くん、言ってごらんなさい?3つ目のWowのメゾはCの音だよ。簡単でキミら体で覚えてるようなドだから、他のパートの基準にはなるでしょ?」

彼が言っているのは自パートの音高の問題では無いだろう。僕らアルトの音は下のソ。ソプラノはファを歌っている。もちろん四分音符で、この濁った和音が残ったまま4番目のWowの下のソ、♭シ、ミの和音に続く。皆は一応渡された楽譜を確認して、これがCsus4からC7へのコードの渡しであることに気づいた。「♪いつもあえるね」という日本語の歌詞部分へ続く期待感をこの2つの和音は醸し出している。

「うん。K太くん、ちょっと難しいね。キミらは根音でドミソって聞きたいんだけれど、ソプラノがファって下がっているから、先生もそう思う。しかも、K太くんが一番イヤな感じなのは、次の和音がドミソに戻らなくって属7でふわぁーって鳴るからでしょ?」

問答に聞き飽きた幼稚園児本科1メゾ、ハルキ王子ちゃまが属7ドミナントセヴンの口形でふわぁーっとメゾソプラノのあくびをした。

 

合唱団の事務室当番は静かでカッコよくコーヒーのいい匂いも嗅げて気分が良い。少なくとも『新・生化学戦隊レーニンジャ―』なんとかかんとかといった意味不明の少年らのモノマー脱水合成を見たり聞いたりせずに済む。当番の主たる任務は、休憩時間中の来客へのお茶出しやトイレへの誘導、あとは電話番といったところだ。

「はい、もしもし。合唱団事務室です。いつもお世話になっております。」

絶対に言ってはいけないのは「こちら合唱団事務室になります」という言い回しで、「“なります”じゃなくって、ここはもともと合唱団事務室なんだ。どうして『合唱団事務室です。』だけのことが言えないんだ?」と、かなり叱責される。僕たちは美しく正しい日本語を歌うボーイズクワイアーであるべきということらしい。

「あのぉ。男の子の合唱団ですか?」

電話の相手の声は少年だった。小学5年生ぐらいの男の子。欠席とか何かのハプニングがあった団員の緊急連絡以外、子供が合唱団事務室に直接電話をしてくることは珍しい。というか、今どきメールやSNSではなく、電話で連絡をしてくるということ自体珍しい。

「小学生男子だけが所属して歌っています。」

言い終わってギョッとした。レッスンスタジオの扉の方から、生化学レッドをサポートする16-ヒドロキシステロイドエピメラーゼの中梅煋二郎に抱きしめられた中田コーガの甲高い幼稚園年長児の幸せいっぱいな嬌声が響いてきたからだ。

「どのようなご用件でしょうか?」

他の合唱団から押し付けられた未就学児が本科生に5人もいるということは黙っておこう。

「あのぉ。他の少年合唱団の団員なんですが…入団できますか?」

「現役の団員ですか?」

「はい…うーん…」

移籍というヤツだ。つまりその、またオリオン合唱団からなのだろうか?相手の子は言葉を濁した。

サザエさんが磯野家の黒い電話の受話器に手のひらを当てて隣にいる母フネさんの居留守をつかって話をしている姿をまねて、僕は先生に告げた。

「先生ぃ、どうも移籍の入団希望者みたいです。」

「どこ?オリオンさんの子なら年齢を聞いて、ヤバそうだったら『今年の募集は終わりました』って嘘ついてくれ。」

受話器に当てた手をパッと剥がして僕は尋ね、帰ってきた返答に当惑して放心のまま先生に告げた。

「先生ぃ、この子…自分はフレーベル少年合唱団のA組団員だって言ってます。」

 

「フレーベルのA組って小学校低学年くらいの組だろ?」

「でも、5年生くらいの感じだった。」

事務室当番のネンキが明けて、レッスンスタジオに戻った僕の臭覚は、幼稚園ぐらいの小さい男の子が園庭で走り回って汗をかいてきたような乳臭さがあたり一面に浮遊するのを敏感に知覚した。

「パートどこだって?」

「そこで先生に電話を渡したから、聞いてないよ。」

「気をつけー!」

皆があわてて自分のスタック椅子にかけ戻った。

「黙祷ぉー!…礼ぃっ!お願いします。」

「はい、お願いします。」

長い方のトイレ休憩は突然練習モードに復帰した。事務室当番の僕が戻ってきてダベっているので、練習再開は皆の知るところ。

 

♪生まれたての素敵がいっぱい

 キラキラ ふわふわ いっぱい

 知りたい心は何処から来るの?

 明日って時間は何処から来るの?

 鏡の中と…

 

「はい!はい!ストップ!少年合唱団のナントカ化学レンジャーのお兄様方、ここの歌詞は『♪鏡の中と外の僕』でイイの?」

「いや、先生ぃ。俺らなんたら半額レンジャーじゃなくって新・生化学戦隊レーニンジャーです。」

「センセー、おっしゃることかなり違ってるし…」

「21世紀のバイオケミストリーを馬鹿にせんでくだせぇヨ。先生方の大好きな発酵学とか入ってんですから。」

「発酵学だか八紘一宇だかわかんないけど、あなたがたソコの歌詞違ってらっしゃるんじゃないの?」

八紘一宇も今やホイップ=自由で開かれたインド太平洋戦略に移り変わっている。

「あ!『♪写真の中と外の僕』だ!」

「んー、青畑(弟)さん、あいにくですが、そこの『外の僕』も違ってますわよ。正解は『♪写真の中と今の僕』じゃないの?歌ってる歌詞ゴッチャゴチャっていうか、呆れるほど混同春菜が凄まじいです。」

「角野卓造じゃねーよ!」

「だからシンも子供だからって何年ラーメン出前オカモチさせてこなかったの?幸楽の狭っくるしい厨房に閉じ込めっぱなしで、学校から帰りゃ朝から晩まで汗水垂らしておばあちゃんのために中華の手伝いで働いてきたのよ!もうガマンできないわ!わたしオカクラに戻ります。」

相変わらずの長大な渡鬼セリフである。

「先生ぃ、この曲って同じような感じのフレーズで目の詰まった歌詞のリフレインが入れ子みたいにして何回も途中で繰り返してあるから、俺ら混乱するんスよ。」

「ここだって、弱起のフレーズで楽譜の段変わってるうえに『鏡のの』が、繰り返しじゃ『写真のの』に脈略なく化けてて」

「しょうがないじゃない。バブルが弾けたばかりの時代、誰だって、写真っていやぁ前に撮ったのが何日かたって紙に印刷されてようやく見れたんだから。あんたたちみたいに自分のタブレットで撮ってその場で見る『写真』とかとワケが違うのよ。」

「ねぇ、煋次朗お兄ちゃん、『バブル』って何?」

「『バブル』ってのはねー、小学校高学年男子って言やぁ、ほとんどの子がふくらはぎに黒と赤や水色や灰色の太い線の入った高価な裏起毛の白ハイソックスを得意がって毎日履いてた時代のコトだよ。」

「あと、アンバサや鉄骨飲料なんか飲みながら『ランバダ』踊ったり…」

ランバダって何じゃ?アンバサも…

 

「何やってるの?」

レッスンスタジオのトイレ休憩の過ごし方は、団員百人百様千差万別にイロイロだ。新・生化学戦隊レーニンジャ―ごっこもいればコンビニ揚げ餅をむさぼるビクター少年民謡会もいて、挙句の果てに団員用スタック椅子のチャコールグレーの座面に学校名の印刷された原稿用紙を広げ、金の箔押し校名入り2B鉛筆の頭を振って極端な犬食い姿勢でうんうん言いながら何か必死に書きつけているソプラノもいる。

「何やってるの?」

ふだんの彼の歌唱姿勢からは想像だにできない激烈な悪姿勢だった。

「見ればわかんじゃん」

「字を書いてる…っていうか、字を書こうとしてる。」

「うっせ―!邪魔だ!」

「何もこんなところで宿題なんかやらなくても…」

佐久平レキの表情がさらに険しくなったところで中田コーガの幼稚園児臭い通団服(たぶん、サイズ一番小さい)の汗びっしょりの肩口が僕の白ピタアンダーの外腕にゴツンと突き当たった。

「あちょー!」

それはこっちのセリフだ。ソプラノの後方では、アッ君がチッちゃんのおマタに半ズボンの太ももを差し入れて腰を振りながら二人でランバダを踊っている。

「宿題じゃ無ぇ!自由研究のレポート締め切りが今週なんだよぉ!」

「何の自由研究?」

「自然人類学…っていうか、この名前は昭和時代にオレらの学校の自由研究グループにつけられた苔むしたネーミングで、なヵ呆れかえるほど古臭くて、今はホモ属の住居とか生活圏まるごと発掘作業がじゃんじゃん進んでて、文化人類学も分子人類学も生物人類学も何でもかんでもいっしょこたに考えないと、イカんのよ、大変じゃすよ。ホモサピエンスとネアンデルタール人が全く別系統だって皆んなが信じてたような昭和末期の時代の名称の自由研究よ。」

彼はひとしきり学校の自由研究「自然人類学」の呼称の時代遅れを愚痴って学校指定の黒っぽい軸の鉛筆を原稿用紙に放り投げた。

ファブ4おたく一家の譲治君が、『ふしぎ色のプレゼント』のBメロ伴奏は『イエローサブマリン』のサウンドトラックのトリビュートだとあちらの方で言い張っている。

「んで、レキちゃんの悩みってのは?」

「え?ナンだと思ふ?」

5年ソプラノはNHK週刊情報チャージ! チルシルのずっと前番組のニュースキャスターが「いい質問ですねぇー」と言うときのような表情になって言った。

「うーん。ハイデルベルク人は歌が歌えたか?…とか?」

「プププ。その質問はイイ質問だけど、僕の研究テーマとは違うな。」

「じゃ、ハイデルベルク人とネアンデルタール人は友達だったのか?」

「どうしてそう思った?」

佐久平レキは「食いついたな」といわんばかりのドヤ顔で僕の目を見た。

「ハイデルベルクもネアンデルタールもどっちもドイツにあるから?」

「ガクッ!」

彼はスタジオの椅子にわざとらしくつんのめって通団服の貧相なトルソをチェア面にぶっつけた。

「僕たちホモ属のご先祖様はネアンデルタール人やデニソワ人と一緒に住んでいたと思われる…遺伝子的証拠がそう言っている。」

「なんで?」

「問題はそこなんだよ。ネアンデルタール人もおそらくデニソワ人も頑強で、たぶん頭が良くて器用で生活力があり文化的で、新参者のヒト属みたくお毛々もぽわぽわに薄くヨワヨワっちくなかった。それなのに、ネアンデルタール人とデニソワ人は絶滅して、一番ショボいはずの俺らホモ・サピエンス・サピエンスだけが生き乗った。…なぜなんデショウ?」

「驕り高ぶりってやつじゃないの?俺たちは強いんだぞぉー!とかココの合唱団の2メゾの連中みたく自信満々過ぎて足許をすくわれて絶滅した。」

「いや、それなら何で俺たちホモ属にはネアンデルタール人とデニソワ人のDNAがしっかりと残ってきちんと機能してるんだ?DNAレベルで言ったらネアンデルタール人もデニソワ人も21世紀の僕たちの体の中でちゃんと生き残っている。絶滅なんかはしてない。」

「だから、友達だったんじゃないの?」

「じゃあ、なんであいつらだけ絶滅したんだよ?」

「単なる驕りでしょ?強くて高慢だったからじゃない?」

この話は結局決着がつかなかった。トイレ休憩は更新世チバニアン期のようにさっさと終了し、佐久平レキはパブロフの犬のごとく条件反射的に学校の鉛筆を挟んだ原稿用紙を通団カバンの内ポケットに突っ込み、僕はソプラノから自パートのアルトまで出アフリカしたホモ・サピエンスのご先祖様のようにてくてく歩いて戻った。

 

『ふしぎ色のプレゼント』のコピー楽譜(合唱団の先生方や僕たち団員はこのタイトルを『プレゼント』と短縮している)をむき出しの太ももの間に挟んで、深谷寒太郎君の練習再開の号令がかかるのを待ちながら姿勢を正した少年合唱団員の上半身の林立に対峙するような角度で、ご指導の先生とは違う先生が一人の見知らぬ男子小学生の肩を優しく引っ張りながらさし入ってきた。まるでこれから小学校の黒板の前で「今度リハウスしてきました白鳥麗子です」と自己紹介しそうなシチュエーションで、実際その子は自己紹介をした。

その声には確かな電子発振的な聞き覚えがあった。さっき入団希望の電話をしてきた子である。

「で、何年生?」

皆はてんでそれぞれ好き勝手な叫び声で問い始めた。

「もうすぐ進級のこんな時期に、何で入団?」

「合唱経験アリ?」

「ナニユエ日本の少年合唱団で一番弱々っちい俺らなんかのところに?」

「どこの学校スカ?」

「異性恋愛経験ある?」

「ファンレやプレプレもらえるカモよー?」

「テヘ!ブラコンとかBLに、キョーミ有りマスカ?」

「もしかして、ついさっき電話してきた子?フレーベル少年合唱団の?」

僕の叫んだこの質問が結局決定打になった。

ドトールコーヒーのような質問の雨アラレは止み、僕たちは男の子だけの合唱団員の定められし性(さが)で、その子を合唱団の歌う仲間として瞬時に受け入れた。

 

「先生ぃ、何でフレーベルの子がこの合唱団に?」

「もしかして、オリオン少年合唱団みたく本科団員の短期交換デスか?」

「いや、俺らの合唱団にはあちらさんみたくルックスの秀でた者はおらんでしょう?」

「キミ、何組?SS組?S組?もしかしてユースじゃないよね?」

例によって他所の男の子の合唱団の事情にマニアックなほど精通した団員が何人もいるのは、小学生でも高学年ともなればSNSでカンタンに他の合唱団の実態やちょっとした沿革はもちろん出演経歴・歌声さえもあらかた把握可能な21世紀の世の中だからだ。

「それが、A組なんですって。」

「…先生ぃ、あの、フレーベルのA組ってのは小学2年とかの、例によってルックス抜群だけどナカミはワケわかんない低学年男子のクラスでやんすよ。俺らだと予科上がりスレスレの連中で…」

「じゃ、ご本人に聞いてみなさいよ。」

「…ずっと前からA組デス。」

「ウッソー!もしかしてアナザーのフレーベル少年合唱団なんじゃないの?」

「いや、先生も間違いじゃないかと思って聞いてみたの。お家のかたもいらしてたし、そうしたら、練習日のいつもの時間に合唱団に行ったんですって。」

「そうなんですけど、合唱団のビルがどうしても探せなくって、電話したらフレーベル館は、コマゴメのリクギエンの正門の前に移りました…って急に言われて…」

「ちょっと待って!…ってことは、キミは神田小川町に行ったの?」

「だって、普段そこで練習してるから。」

「それがそもそもの始まりだったみたい。」

「それで、そういう名前の子はA組の団員にはいないって言われて。入団テストは今年はもうやっていないし、5年生の子は今は入団を受け付けていないんですよ、って…」

「駅のホームの看板にここの募集案内が出てるのを偶然見かけて、駅の公衆電話から電話してすぐにここに来たんですッて。」

「コーシューデンワって、何??」

「先生ぃ、その話って、俺、すごく嫌な予感がするんだけど…」

「じゃぁさぁ、とりあえずパート分けもあるから、声出してみようか。」

「いや、その前に、手っ取り早くアカペラで好きな歌うたってもらいましょうよ。合唱経験あるわけだから。いいよね?」

男の子はこくりと肯首して、ブレスをとり、表情を引き締めた。続いて手を後ろで組むと、両足を肩幅に開いてお腹を前に張り、真っすぐ前を向いて突如歌い出した。

 

♪ぼくらのうたよー 風にはばたけ 風とゆけ 野原をわたりー 林をぬけて…

 

驚きだった!一部始終を注視していた古川コトラが2秒間だけ息を飲み、確信をもってメゾの声をあげた。

「スゲエ!これ、山本先生の時代の発声じゃん。バブルのちょっと前。カッコいいー!手打ちも乱れ打ちもしてるよね。間違いなく?タイムスリップじゃん。つぇー!」

「なヵ、最近多いよなぁー。タイムスリップ。」

「今のフレーベルの声と全然違うくない?」

「俺らとも全然違う発声だけどな。」

「あんたがた、ほかの合唱団の詳細に、なんで異様なほど詳しいの?ご自身の合唱団の歌の練習にもこれだけ熱心に取り組んでいただけると先生はウレシイけど。」

「そんなコトどーでもイイじゃん。結局、この声は1メゾですよね?」

 

 

「はいぃ。あなたがた最初のリフの頭が、どうして毎回ズッコケるの?♪うまれたてのすてーきーがいっぱい ですよね? やり直し! さんはい!」

「♪うまれたてのすてーきがいっぱーい」強力なユニゾンだ。

「ちがう!違う!すてーきーがーいっぱいです。楽譜よく見てよ、”きーがー”はタイでアーフタクトしてんじゃないの!勝手に楽譜書き換えないでよ。」

「いや、俺ら全員東京の子供なんで、鼻濁音のガを関西弁みたいな母音で伸ばす粗野な習慣は無いんすよ。マクドナルドをマクドぉとは決して言えないのと一緒です。」

「先生ィ、標準語ではここはオレラにとっちゃぁ、デフォ♪生まれたての素敵ぇきがいっぱーいしかねぇんですよ。」

「いや、ダンディ青畑(弟)クン!あんたがたの江戸弁のご高説は聞いてないの!楽譜のモンダイなのよ。だめだこりゃ。トイレ休憩パート2。 5分間ね。坊や、いったい何を教わってきたの?だよ。頭冷やしてらっしゃい。今の言葉プレーバック!プレーバック!」

「僕らだって。僕らだって、疲れるわ!」

「キミら昭和か?!」

「発売元CBSソニー…現ソニーミュージック」

「百恵タソ(;´Д`)ハァハァ!」

 

 

「えと。大好物はニューコンとアサイーボウルです。あと、ホテルニューグランドのチョコパフェも昭和チックでわりかし好きです♡」

MC指導の先生が、ため息混じりに言った。

「ねぇ、それってナンか少年合唱団ぽくは感じられないよ。ホテルニューグランドのチョコパフェはおじいちゃんオバアちゃん指向だし。これって団員募集動画なのよ。アサイーボウルはどう考えても『私はヘルシー志向です』ってオねえさんのニオイぷんぷんで、なかでもニューコンって…」

「小学生のボーイ・メゾソプラノが馬の肉を食っちゃイケナイってんデスカ?」

「いやぁー天使の歌声…少年合唱団員で馬肉ってのは止めてよ。せめて桜肉のすき焼きとかにならない?」

キメのキャッチシーン撮影は大波乱だ。

「なんかもうちょっとバシッとキメる言葉で行けない?それじゃ、中梅君の好きな食べ物大公開…みたいなMCじゃない?」

みんなは白けて自分の持ち物をぼんやり凝視したり、天井ソーラトン・キューブの逆さになったホワイトチョコのような突起を見上げていた。

「悪いけど、もう一度考えてきて。」

「先生ぃ、そりゃ中梅君が可哀そうだよ。合唱団の入団促進動画のコピーを脳みそカラッポの4年メゾに考えさせるなんて。」

「そうかも知れないわね。」

「そりゃ中梅くんに失礼じゃん。脳みそカラッポなんて…」

「いや、僕ちんは世界で一番かわいくてチューが上手で心もおっぱいも温かい中田コーガたんのような世界一の年長さん第2メゾ君がいてくれる合唱団一のシアワセ者でやんすよ。ねっ、コーガ君っ♡?」

「生化学ブルーの中梅先輩っ!ボク、ハッピーセットの次に先輩が大ぁーい好きっ!」

「コーガたんっ!俺は命をかけておまえを守り抜く!」

「煋次朗お兄タン!」

ほぼタカラヅカの熱愛シーン・モードで互いの名を呼びあうどうしようもない彼らの修羅場を放置して、練習スタジオの皆はいよいよ「勧誘ビデオ」の解決策をどうしたものかと考えた。

「わかった!先生が今の中梅君にぴったりの勧誘コピーを考えてくる。」

「先生ぃ、どうでもいいけど、パート同士、火花バッチバチのくせに幼稚園児だけはBL全開でかわいがってて、昭和時代のフレーベルの団員もいてバブル期のTOKYO FM少年合唱団の歌を団員勧誘のために歌ってるようなめっちゃくちゃな少年合唱団ですよ?」

「♪WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)

  むねがときめく しあわせなよかん~」

「そもそも、なヵ、こんなんで新入団員来るのかな?」

「勧誘の曲にしようってったの、あんたがたじゃない?」

「いや、ソプラノと1メゾとアルトだけですけどね。」

「2メゾはこの曲のイイとこがわかってねぇーんだよ。」

「ねぇねぇ、煌惺くん、あなたさっきから何を一人でブチブチ言ってるの?言いたいことがあったら、みんなの前でちゃんとおっしゃい。」

「ほーら、先生が怒っちゃったよ。コーちゃん、先生って一人でブチブチが一番嫌いなんだよ。」

「いや、いいです。カンケー無いから。」

「なんだよ、男なんだロ!ハッキシ言えよ!」

性的多様性の時代に「男なんだロ!」は「男の子だけの合唱」と同じくらいちょっと時代遅れだ。

「僕のお姉ちゃんって、中学のブラバンでフレンチホルンやってんですけど、今、課題曲で『あの丘を越えて』っていうのが全然上手くいかなくて頭にきてるって、毎日毎晩、弟をいじめるんです。なヵ口の形がホルン向きかどうかわかんない中学生に四管ソロってのをやらせるなとか言って…」

「なんだよ、煌惺…クン、しっかりしろよ!男らしくないな。」

結局、いずれにせよ「男らしくない」と言われる男子小学生である。

「せんせぃ、それってどんな曲なんですか?」

「先生は合唱の先生だから吹奏楽の課題曲なんか知らないわよ。」

「なヵ、曲を作った人は、セーヤ丈ショウって名前のやつで、演奏させられてる清く正しく美しく優しい女子中校生のコトなんかまったくお構いなしに難曲作りやがって!多分フレンチホルンの実物を吹いたことも無ければ見たことすら無ぇんだよ!…って、僕に言うんです。」

「煌惺くん、その作曲家の名前、ちょっと変じゃないかな。」

「いや、お姉ちゃんも漢字読めなくって。」

「セーヤ丈ショウねぇ…」

「きっと、その作曲家、少年合唱団の歌声を聞いたこともなければ、実物を見たことも歌ったことも無いヤツですぜぃ。」

「だれだろう?日本人の作曲家だとしたら星谷丈生さんのことかしら?」

「ま、少なくとも『ふしぎ色のプレゼント』なんか1小節も歌ったコトすら無い男だろうな。」

「コーちゃん、”僕だって合唱団で『ふしぎ色のプレゼント』の変ちくりんな弱起とかTOKYO FM少年合唱団が難なくサラリと歌ッてるのにこちとら完全にアウェー感の曲を怖い先生に怒鳴られつつ毎日泣きながら練習してるんだよ”とか同情買って、姉キもボクもセーヤ丈ショウも、みんなみんな生きているんだ友達なんだとか言ってごまかしとけよ。」

哀れな煌惺くんは最近合唱団で流行っている「みんなみんな生きているんだ友達なんだ」のキメゼリフを使って適当にあしらわれた。

「何の話してたんだっけ?」

「どうしてTOKYO FM少年合唱団がバックコーラス歌ってる曲を合唱団勧誘動画の曲にしようと思ったか?」

「だから、2メゾ以外が賛成したからッしょ?」

「はい、何?佐久平くん。」

挙手している子がいる。

「僕たちサピエンス・サピエンス種だけがホモ族の中で唯一生き残っているのは、お互い喧嘩とか戦争ばっかり30万年間もずっとやり続けてるからなんでしょうか?」

「…は?」

「なんだよ、サクちゃん合唱とカンケー無ぇだろ?」

「佐久平くん、合唱と全然関係がないけれど、どうしてそう思ったの?」

「なヵ、喧嘩も戦争もどちらも勝った方が生き残るか、アイコで両方生き残るかでしょう?だから、僕たちサピエンス種の少なくとも半分は必ず生き残るシステムってコトじゃないですか?」

「サクちゃん、核戦争みたく戦ってお互い全滅ってコトを考えてないダロ?」

「でもネアンデルタール人もデニソワ人も僕たちサピエンス種の遺伝子の中に生きてるんですよ。他の種とはラブラブだったんです。ネアンデルタール人には互いに死体を食べていた石器の跡はハッキリ骨についてるのに、生きているネアンデルタール人を叩き殺したりして食糧にしたっていう痕跡が発見されていない。」

「窒息とか餓死させるとか毒殺とかは出来るじゃん。」

「死体を食うのに毒殺や餓死はちょっと…」

「鑑識結果で、ネアンデルタール人のガイシャの首に索状痕とか口腔内泡沫痕跡、頚部圧迫による眼球への溢血斑が認められればそれは明らかに窒息による他殺です。」

「ばーか!マンモスの肉を食ってる時代に科捜研の女いないだろ?」

「♪みーんーなぁーのー友達ぃー ビッグマンモスぅ」

「♪わぉ!わぉ!」

「僕は学校の社会科で、病気や遺伝子の欠陥か気候寒冷化で寒すぎて絶滅したって勉強したよ。」

「ねぇ、先生ぃ、合唱団の野外コンサートの制服、レギンスかタイツにしてくださいよぉ。」

「はぁ、先生はアンタ方の話が全然わからなくなった。幼稚園の団員とはラブラブで仲良しのくせにパート間で年中ケンカばっかりやってるあんたがたは、絶滅危惧種の全国の少年合唱団の中で将来しぶとく生き残ってく危険性があるんじゃないの?」

「ヤッたァ!ラッキー!」

「お前はその前に声変わりとか卒団でどっかいっちゃうケドな。」

 

『ふしぎ色のプレゼント』の団員勧誘演出は、ソプラノ♪7ボーイズのようなプロの振り付けを施さないということが決まっていた。僕たちの発声は完全にクラッシック寄りなので、ミュージカルの発声やセリフのメソッドがそぐわない。普通の小学生の喋り方をする中梅煋次朗くんが、合唱団児童リーダーの深谷くんを差し置いてキメのセリフを担当することは、たいていの高学年団員が納得していた。

 

♪ワウ!ワウ!ワンダー!

 胸がときめく 幸せな予感

 いつも会えるね一緒だね

 

 生まれたての素敵がいっぱい

 ワクワク ドキドキ いっぱい

 好きって心は何処から来るの?

 今って時間は何処から来るの?

 

ファンファーレから冒頭の歌い出し18小節の間に、僕たちが歌いながら様々な角度から三々五々足音をたてずに集まってきて、定規で引いたみたいに整頓された隊列の線をステージにつくるさまをカミ手がわのカメラでとらえるという演出編集がされている。僕たちは普段そういう整列をしないので、これは完全な演技なのだが、お客様の見ているステージに短時間で美しい隊列を組む訓練を徹底的にやってきている僕たちにとっては造作ないことだった。

「年長さん4人もいるのにあんたがたどうしてそんなに全員ピシッと整列がキマるの?」

舞台の所作指導をしている先生の方が驚いて、オープニングシーン用のリールをモニターで見ながら言った。

先生方が舌をまいていたもう一点は、僕たちの転調の自然な流れだった。

オープニング・ファンファーレのホルンを鼓吹するようなヘ長調で曲は始まり、

 

♪見つめてごらん 毎日出会う不思議はきっと僕らの星のプレゼント

 

でイ長調アードゥアに五度圏をまたいでサビを流麗に歌い上げ、ヘ長調に復帰し、

 

♪ワウ!ワウ!ワンダー!

 昨日見た夢 羽ばたいて

 今日も会えるね 一緒だね

 

のエンディングのリフレインでフラット6つの変ニ長調へ持っていき落ち着かせる。TFBCのアードゥアの部分は少年合唱のハイライトで、コーラストラックではやや両肩を上げて歌っているように聞こえた。僕たちは逆に大人っぽくしなをつくって落ち着いた感じで流れるようにこの部分を歌った。シャープやフラットの個数が増えていくのをあまり聞く人に意識させないよう転調の小節線を穏やかに超えていくように心がけた。

「1992年のTFBCって、これ誰のチームだったんだろう?」

「92年の6年前入団だから、3期生ぐらい?」

繰り返すようだが、他の合唱団のちょっとした沿革はもちろん出演経歴・歌声さえもあらかた把握可能な21世紀の世の中。

「それって『嵐を呼ぶ少年たち』の代だよ、きっと。」

「委員長誰だったのか知らない。」

「ヤマザキくんの1コ上ぐらいの子達だよね」

「この目立ってる声って誰ダロ?」

「ソプラノ?さあ。」

「アルト側も特徴あるよね。こういう押し付けがましさの無いアルトのメインはジュンちゃんとかだよ。」

「このソプラノの声、どっかで聞いたような…。」

「資生堂エルセリエのソロの子かな?」

「レコーディング、一口坂スタジオだって。」

「行ったコト無い。どこのスタジオ?」

「ニッポン放送だって。ラジオ局じゃん!JOLF。」

「オールナイトニッポンぬ!ゴーゴーゴー、アンド ゴーズ オンぬ!」

 

練習スタジオの廊下のピカピカの床に映った大きな窓枠の曇空の中に、右下へ飛んで行く4‐5羽の鳥たちがいる。床の上の空は薄グレーだが、もうすぐ春が来るらしいことがわかる。僕も僕たちも決して風流人や季語を詠む子供俳人ですらないが、季節の移ろいをないがしろにできないのは僕らが日本の少年合唱団員だからだ。春には春の花々を歌い、稼ぎ時の夏には海・新緑・キャンプソングなど、紅葉の秋や冬にはクリスマスやお正月をはじめとして冬の風物を歌う。1年を季節の歌のレパートリーで回すには、それぞれのシーズンの前倒しで去年の曲の復習や新譜の音取りにのぞまなくてはならない。子供俳人の次点で四季に敏感な日本の子供はおそらく僕たちのような季節の子供の歌を中心に歌ってお客様を楽しませるボーイソプラノ集団にちがいない。

僕たち自身の肉体と生活はしかし、1年中完全に真夏モードだ。夏場でさえ学校では担任の先生から「お願いだから近寄らないで。」とヨタヨタ言われるくらい体の芯から核燃料のように熱気が出力するらしく、合唱団では真冬も発声練習が終わって1曲慣らしの歌を歌い終われば暖房は切られる。それでも、練習場にはまだきちんと僕らの身体から立った熱気が籠っている。「通団の行き帰りに走らないこと。あんたがた、ミメ麗しき少年合唱団の団員おぼっちゃま方なんだよ。まったく!」…だが、先生方の説諭の主旨はそういうことではないと思う。一つは舗道車道お構いなく小学生男子どもが暴走して危なく邪魔っけだからだが、もう一つは練習スタジオへそうやって走り込んだ男子たちというのはどの子も例外なく真っ赤な顔をして息も体温も上がり、始末に負えないからだ。「野外コンサートの制服半ズボンの下にレギンスを履かせろ」などという団員らの要求はまったくのところ、単なるオシャレというか「フツーにカッコいいでしょ」というウヌボレに近いものなのである。

「先生ぃ!また相模兄弟が取っ組み合いしてます!」

「先生ぃ!あいつらクビにするか、片っぽオリオン送りにしちゃってくださいよ!」

「先生ぃ、双子ちゃんの5年生って、全員あんなカンジなんでせうか?」

「2卵生ソーセージだからでしょ?要は、ほぼ同じ腕力の男子の兄弟喧嘩なんだから。」

ぼそっとつぶやいた丘村トラムくんの言に先生は「なるほど」と妙に納得していた。

家に帰ると普通の二卵性双生児だという。相模兄弟のママは「合唱団に行くと、ライバル競合むき出しで、競争心に火がつき、互いにマウントをとりたがる」のだという。ちょっとダンディでハンサムな弟はソプラノ・ソリストで、一方、少年のコケティッシュさがウリの外見セクシーな兄は第2メゾソプラノの貴重でステキなMC要員だ。パートが離れているのは「隣同士に並ばせると十中八九取っ組み合いの大喧嘩になるから」ということは高学年団員のほとんど全員が暗黙のうちに了知していた。パートの近い僕は、普段から相模(兄)の声に本当にうっとりと魅了されている。

皆の叫びを聞いて練習場に戻ってみると、2人は血まみれになる直前で練習場のひな壇のてっぺんでくんずほぐれつしていて、ここが僕らの合唱団の評価すべきところだが、ソプラノパートリーダーの寒太郎君と2メゾ5年サブリーダーの古川くんが、引っ付きあう超強磁力巨大フェライト磁石を無駄に引っ剥がそうとする少年たちのように全身全霊で取っ組み合う11歳男児の2つの肉体の綱引き合戦をやっていた。全く、オーエス!オーエス!である。とばっちりを受けるのを嫌がって、誰も相模兄弟の間(肉体的な2個体の間隙という物理的な意味である)には入って止めようとはしない。自分が可愛いというのも、こいう場合困りものである。

中梅煋次朗たちは幼稚園年長組のちび団員たちを抱き寄せてとばっちりが来ないよう、ひたすらかばって任侠沙汰をあまり見せないよう配慮してやっていたし、佐久平くんはレーザー素掘りで金箔の学校名の入った鳩居堂(!?)の学校指定の2B鉛筆(お金持ちの子弟しか行けない小学校なのである)の頭で自分の頭を掻きながら、ホモ・ネアンデルタールエンシスの「役割」について、およそ思索熟考の環境にはふさわしく無い2親等のホモ・サピエンス・サピエンスのガキ同士が大げんかし、それを放置できない少年合唱団員たちが髪を引っ張り合い物理的に絡み合って混戦乱闘する約8メートル圏内の至近で、何か意味のある考察結果を導こうと七転八倒していた。一方、過去からタイムスリップしてきたフレーベル少年合唱団の5年生A組団員くんは、アウェー感満載でほとんど存在感というものを消そうとしていた。実際彼は、僕たちの少年合唱団ではほぼ日常的で見慣れた狂乱の事態を目前に、茫然自失というか、感情的遮断解離の心理状態だったのである。

 

 

丘の上に登り詰めた冬の制服の僕たちが三々五々といった風情で集まっていた。

宵闇の深い霧に沈んだエッフェル塔第3展望デッキから見下ろす眼下のブルーブラックに濡れたパリ15区エミール=ゾラ通りの辺りという風情で僕らの紺ベレーの頭頂は徽章を除き新月の夜空に融解していたし、鉄紺のイートンの襟からは飛翔するカタチの小さなボタン・ループを垂らした開襟のカラーがぼんやりとラジウムの光を放っていた。

東京23区山の手はたしかに舌状台地と坂の街だが、ここはそういうこじんまりとした丘陵ではなく、ひらけた山上という形容が叶いそうなほどすっきりと視界の豁大な丘の上だった。

僕たちは丘の上のピクニック団体の本日のフィナーレ…キャンドルバルーン大会の終わりの余興にただ1曲だけを歌いに、足許が決して安定しているとは言いにくい登坂を終えてきていたのだった。

「みなさま、係の者がランタンの固形燃料に火を灯してゆきますので、お近くのお客様と協力して火傷しないように持ち上げておいてください。ランタンを傾けますと紙に引火して燃え上がり大変危険ですので、注意して支えてください。」

少年合唱団の登場を待っていたお客様がたの「群衆」のような人垣がばらけて、燦々五々大入道の頭のような、暗がりに沈みかけた大きな紙風船を取り囲み、先生方は団員にも、「それじゃぁ、キミたちも何人かでランタンの下を持ち上げていなさい。」と指示を振りかけた。糊で固められたような腰のある紙の円筒が、中国自力更生期の「工业学大庆」に林立する夥しい油井のように丸坊主の丘の上へ冷たく立ち上がった。

「おまえ、ここは一杯で満員だから、他のところへ行けよ。」

とソプラノの6年生たちに言われ突き放され、背中で所在なく佇んでいたフレーベル少年合唱団の子の左手を僕は無理やり引っ張ってきて左側に入れた。彼は黙って皆と同じように大紙筒の下辺に掌を当て、小さく暗く「ありがとう」と言って手元を見ていた。

彼の歌いを、普段のレッスン時間の僕も皆も問題なく受け入れた。「山本先生の時代の声」と言われた彼の発声はすぐ僕たちのボーイソプラノの声帯の動きに馴染んで決して突出してはいなかった。ただ、歌うとき、両足を肩幅に開いて手を後ろで組む姿勢だけは変わらなかった。先生はもちろん、団員の誰も指摘しなかったし、矯正しようとも思わなかった。ぶらぶらしたり、不安定な所作ででもなければ、発声に悪影響があるわけでもない。そんなことは、僕らの歌にとってどうでも良いことだった。

もう一点、彼は僕たちがしばしば「アンパンマン少年合唱団」と言ってもほとんど何のレスポンスも返さなかったことだけは強烈に覚えている。「アンパンマンも知らないのかよ?」と品川(弟)君が問うた。古川君がすぐさま「『アンパンマンのマーチ』って80年代の終わりだから、この子、全く知らないんだよ。」と援護する。「いいよ。気にするな。きみはまだ知らなくったって良いんだ。それで良いんだよ。」と古川コトラは優しく何度も繰り返した。ふだん、中梅君に少しだけきつくものを言う彼のこういうときの口調はとても柔和で思いやりに充ちていてホッとする。

 

係の男の人がジャケットの襟から鹿子ポロシャツの汗ばんだカラーを覗かせながら、淀んだブルーベースグリーンの首元のチャッカマンをスカイランタンの裾から覗き込むように差し入れてぱちぱちと固形燃料に点火し、それは粘度のある蝋燭があかりをともすようにゆらゆらと燃え上がってランタンの下部を内側から照らしだした。彼はその状態を確認すると、

「真っ直ぐに下げてください。」

と一言言った。もし、「おろしてください。」と言われたら、小学生の僕たちはその場で手を離して、紙筒を落下させようとしたかもしれない。「下げてください」の指示は、僕らに腰をおろして筒を下方へ下げ持たせていた。係の人はランタンの一辺をさっと右手で撫でてから、「温かい空気が中に溜まるまで、腰を下ろしてランタンを持っていてくださいね。」と足早に言うと、次のグループの着火に移っていってしまった。ランタンが傾かぬよう、大人の人たちは子供の僕たちの肩の高さになるべくバルーンを下ろそうとしてくれているし、僕たちもまた、大人の人たちの腰の高さを考えて風船を支えようとしている。

そして、しゃがんだり立膝をついたりしたまま、燃え盛る光源や少しずつ暖気の満ちる紙筒の上部を黙って見ていた。誰も私語の一つだにせず一言も発しなかった。こんな山の上に登坂するのも、夜の時間にここへ歌いにくるのも億劫だろうに、幼稚園年長さんたちはそれぞれ狂おしいほど慕うお兄さんたちに途中から背負ってもらったり手を引っ張ってもらったりしながらここへ辿り着き、チャイナランタンの裾に小さな両手をミトン形に添えていた。それが僕の両眼の片隅に見えた。

やがて、僕たちは、紙風船に温かい空気が充満するのを確かめるようにランタンを少しずつ、おそらく15センチかそこら垂直に上げ下げして、浮力がつくのを確かめはじめた。フレーベル君が片膝で折った黒い膝小僧が燃料の灯に照らされてピカピカピカピカと輝いているのが僕の視線を金剛石色に射ぬく。斜め横の煌惺君は、ご先祖のお墓参りに来てお線香立てに据えた束線香が安寧に煙を燻らすのをしゃがんでずっと見つめている少年のように膝を折って待っていた。

「まだかな。」

紙袋の向こう側で誰かが言った。

「試しに少しだけ離してみようよ?」

と煌惺君が言った。

僕らがほんのちょっと手を離してみると、それは水素の満ちた風船のように熱気でぱんぱんになった頭を微かに揺らしながらまっすぐ立ち上がって空を目指そうとした。

「それでは、みなさん、ゆっくり腰をあげてください。」

ソプラノ・リーダーの深谷君がコクのある少年らしい凛々しい声で皆に指示を出した。

「黙祷ぅ!」

煌惺君は、僕の方をほんの刹那思索しながら見やり、それからゆっくりと目を閉じた。チラチラとゆれる蝋燭の光が、彼の頬の稜線と小さな顎で明滅し丁寧に磨かれた彼の黒いコインローファの丸い爪先が蝋燭の光をまばゆく反射させていた。

僕は自分の息が静かに両の耳介に届くのを意識しながら目を伏せた。

幾多のランタンが人々を照らす丘の上、僕たちもお客様方の誰も一言も口をきかなかった。

紙筒の底部から溶けて溶解した燃焼剤のポタポタと漏れる頃合いになって、永遠の長さの黙祷は溶け、間髪入れず寒太郎君が、

「ランタンを飛ばしましょう。良いですか?5、4、3、2ぃ、1…」

スカイランタンは手を離した僕たちの目の前で、ほんの一瞬止まったかと思うと、射出されるがごとく浮き上がって、それからスローモーションのように漆黒の天に立ち登った。

「わぁ!」

思わず声を上げる山上の人々を下に残し、灯りのともった紙風船たちはそれを燈したまま、幾つもいくつも足早に滲むような光の点になっていった。緩やかな低層気流がその光点たちをそろって横に揺らし、なおもそれらはチラチラと瞬きながら淡い川のように揺蕩うて登っていった。僕らはその光を、みな同じ方を見上げたまま、黙って見送った。フレーベル君と煌惺君と手を繋いで、光点のスパタ模様が天に召され消えてゆくのを無言のまま見ていた。

 

「それでは、僕たちが今、団員勧誘動画に使うため、張り切って練習している曲…『ふしぎ色のプレゼント』を聞いてください。」

ソプラノ・リーダーの声が訪れた夜の帷の丘陵にきりりと響いて、待ち構えていた中梅君の勧誘キャッチコピーが戦隊モノのヒーローのごとく辺りに響いた。

     》きみの歌声は、必ず僕が守る!《

 

先生がギターで爪弾くGm7→Cのコードがアップテンポに鳴ったかと思うと、それがアルペジオ4つに変わり、C7(♭5)に始まった和音がG♭→Cのテンションに押されて、短い前奏が僕たちのユニゾンのソプラノ↔︎アルトの互唱にスイッチしていった。

 

♪WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)

 胸がときめく しあわせな予感

 WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)

 いつも 会えるね いっしょだね

 

 生まれたての素敵がいっぱい

 ワクワク ドキドキ いっぱい

 好きって心は何処から来るの?

 今って時間は何処から来るの?

 

 鏡の中と外の僕

 痩せたり太ったりお月様

 空の青と 夕焼けの赤

 

視覚情報の乏しい新月の晩の丘の上。「歌う僕たちにライトを当てないで欲しい」と所望したのは5-6年生だった。天燈を放出して先ほどまでの照度を失った人々は、歌声をきっと明るい場所よりも生々しく鮮烈に聴くだろう。僕たちアルトの柔らかく粘度のある、少年らしい低い声。星たちの瞬きのような5-6年ソプラノと第1ソプラノのサヌカイト鉱石琴が立てるような濁りのない波長の声。そこへ微かに混じった訓練の浅い幼児期を抜けていない丸い声。僕たちの全てがお客様がたへ、そして僕たち自身にも先ほど天空へ放した祈祷儀式の往還のごとく明瞭に煌びやかに聞こえていたに違いない。

ナチュラルを1個、シの音に押して、僕たちは先生のギターのA→C#m7コードの単純な音と共にイ長調へ上がり、

 

♪見つめてごらん 毎日出会う不思議はきっと僕らの星のプレゼント

 WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)

 一人ずつの夢輝いて

 WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)

 今日も会えるね一緒だね

 

歌詞を変え、僕らの歌は冒頭へ回帰してゆく。

コンサートを終え、丘を降りる柔らかな草の道の途中で声を落とし、

「黙祷のとき、僕たちの方を少しだけ見て、なんてお祈りしたの?」

僕は小声で煌惺君に尋ねた。

「僕たちがいつまでも、一緒に歌えますように。」

暗い行脚の中で、その声は明瞭に返ってきた。

フレーベル君に僕は何も尋ねはしかった。 

 

♪産まれたての素敵がいっぱい

 キラキラ ふわふわ いっぱい

 知りたい心は何処から来るの?

 明日って時間は何処から来るの?

 

 写真の中と今の僕

 喋ったり踊ったり 海の波

 小さな花と大きな地球

 話してごらん 毎日出会う不思議はみんな僕らの星のメッセージ

 

暗い丘上のコンサートを終えて、僕にはいくつも良いことがあった。

その一つは、帰りの貸切路線バスの中、隣の席に座った佐久平レキ君が深い安堵の溜息をついてしばらく目を瞑り、何かを納得した後、通団バッグを抱いた僕に言ったことだった。

「ネアンデルタール人とデニソワ人は絶滅して、一番ショボいはずのホモ・サピエンス・サピエンスの僕たちだけが生き乗った。…なぜなのか、今日のコンサートで中梅煋次朗君が『きみの歌声は、必ず僕が守る!』って叫んだときにようやくわかったよ。

ネアンデルタール人もおそらくデニソワ人も頑強で、たぶん頭が良くて器用で生活力があり文化的で、いよいよ食糧に困れば亡くなった家族を泣き泣き食べてまで生き残ろうとするような辛い判断も信念でやった。ヒト属みたくお毛々もぽわぽわに薄くヨワヨワっちくなかった。僕たちサピエンスは、脆弱で互いに喧嘩ばっかりしていたけれど、ネアンデルタール人やデニソワ人を受け入れて友達になり彼らの良いところを学び、自分たち自身もまた弱っちく喧嘩っ早いがゆえに友達を作って生き残ろうとした。だから、ホモ・ネアンデルターレンシスも、デニソワ人も彼らの大切な大切な尊い役目を終えたんだ。彼らの優れた点を僕たちに教え、DNAを分けてくれた。だから滅びていったんだ。…僕たちは君らに僕らの全てを託す。だから僕たちはいつまでも君たちといっしょにいるよ。」

流れるバスの車窓からは、丘の上から送り出していった弱い灯火とはまた別の鋭角で鮮やかな21世紀の灯りがただ静かに黙って通り過ぎていった。

 

♪WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)

 昨日見た夢 羽ばたいて

 今日も会えるね 一緒だね

 

 WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)

 胸が踊る 幸せな世界

 今日も会えるね 一緒だね?

 

先生のギターがアクセントをつけて、単純な16分音符の連桁で和音を鳴らし、曲は賑やかに終わりを告げた。

 

 

すべてフィクションです

 

 

©1992 by フジパシフィックミュージック INC.

 

撮影スタジオ: BiFUさま (赤坂一ツ木通り)

 

わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 ・・・。 すると、王は答えて言うであろう、あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。(マタイ25-37)

 

アマリャはヨルダン・ハシェミトの砂漠にベドウィン野営をする家族の11歳の男の子で、砂と埃だらけの絨毯の上、屠ってくれた貴重な羊のてっぺんの肉と、くもったガラスコップに注いだ温かいしょうずくの効いた甘いお茶をごちそうしてくれた。

「僕の家の裏庭にもカルダモンが生えているよ。すぐにどんどん僕よりも背が高くなって、学校の制服の首周りに放っておいても汗が流れる季節になると、マスカット色でかわいい模様の入った花をぽちぽちと咲かせる。」

男の子はただニコニコして僕の話を聞いていた。鼻口を塞ぐようにしわがれたワジのツルバミ黒の宵闇が、家畜の皮の匂いのする縫い縁のテントの隙間から、尻に尻を足すように深くうち広がっていた。

マタイによる福音書の25章37節に書かれている旅人の例えは、この家族のように砂漠で過ごす人々にとっては、なんのヘンテツも疑念も不思議もないごく普通のことだ。岩山の麓の砂つぶにまぶされたようやっとの日陰の岩盤のへりに背骨の皮と骨をつけて横たわった僕の瞼の絶望的な熱射の照度を彼方から陰らせてきた有機体があった。

彼は僕の弱りきった肢体を自分の体の影法師で遮蔽するようにして、

「だいじょうぶかい?どこから来たの? ついておいで。お父さん!ここに誰かいるんだ!」

小さい子供の声から抜け出したばかりの頼もしい音吐で声を挙げた。どこの言葉なのだろう?…僕は自分のもっている子供独特の感覚で彼の言っていることをすぐに理解した。

「砂漠で出会う人間にはたったの2種類しかない。」

アマリャは賢そうな満月の峡谷のような両の目で僕を見ながら言った。

「2種類?」

「僕たちから何かを奪おうとする人。そうでなければ、もう奪い尽くされて困り果てた人の2種類だけなんだ。」

彼は変な指遣いで手指を2本立てた。

「僕はどっち?」

尋ねると少年は静かに黙って微笑んでいたが、髭がちの彼の父親はベドウィン・テントの後方で大笑いした。

『わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか? あなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか?』弟子たちがそう訝るのを聞いてイエスもまた、おそらく大笑いしたことだろう。砂漠ではそうするのがごくあたりまえで、特段、徳も政治的判断も宗教的指針にも関係のない砂漠に生きる人々の生活の一部だったから。ユダヤ教もキリスト教も、おそらくアマリャの帰依するイスラム教もすべておしなべて砂漠の宗教であり、一方、言葉ひとつ、トイレや台所や座敷にも、山や石ころや鏡、髪の毛の束やでっかくてウロだらけの古い木にいたるまで遍く神様が宿っていることをごく普通に信じることができる日本の風土とは全く違う。

「明日の朝ごはんにビスケットをフムスにつけたり、ふりかけをまぶしたりしてお茶と一緒にもしゃもしゃ食べてるうちに誰か迎えに来てくれるだろう。今夜はアマリャといっしょによくおやすみ。」

お父さんはカッコいい声で僕に言った。砂漠でヤギを追って暮らしている人たちが、電気で動くスマートフォンを持っているのだけはちょっとびっくりしたが、抱擁したアマリャの肌からはハーブやスパイスの優しい雨上がりの通学路のキンモクセイのような匂いがした。

「アオケンくん?アオケンくん?きみ、きみはいくつなの?」

僕の覚醒は両の指で1と1をゆっくりとかざしたところで途切れていた。アラビア語の11が1と10に右横書きする知識を僕は呼び起こすことすらできなかった。

 

あの峡谷を越えた山脈の向こうはすぐイスラエル。山脈の南はすぐサウジアラビア。

火星のゲディズ・ヴァレーにも見紛う赤い砂礫と涸れた岩山ばかりの場所で僕はあっさりと「迷子の日本人少年」になってしまった。アマリャには、英語でお礼の手紙を書いて送ろうとして両親から「砂漠の遊牧民に住所なんか有るの?」と聞かれ、せめて彼のお父さんの割石色のズボンのポケットに入っているスマホの番号を聞いておくべきだったと後悔した。

「あそこのツアーガイドさんの電話番号を先生たちから聞いて、尋ねてみたら?砂漠の岩山や谷に詳しい人たちなんだから、きっとその子の家がどこら辺かぐらい知ってるでしょ?」

古川君が読んでいた『変な家』をパシッと閉じながら言った。

「家じゃないんだよ。テントなの。遊牧民って、羊や山羊や鶏を飼いながら餌になる草のある場所を探して移っていく…」

「それはアオケンちゃんが戻ってきた時に先生から聞いた。でも、もしかして住所も、電話番号みたく有るのかもしれないじゃん。」

古川コトラは楽屋代わりの会議室の四周に置かれた長椅子に深く腰掛けて組んでいたなんちゃってニーハイソックスの両足を戻し、通団カバンへ本を戻しに立った。

「アオケンさん、古川さん、スタバイですよ。迅速にお願いします。キャンドルを配るんだから。」

アドベントLEDテーパーキャンドルは細くて長く、半ズボンのポケットには収まらない。最近の合唱団のクリスマス・ケープはとても短く、ポケットから顔を覗かせた白やピンクや紫の棒の頭がワンドマジックの切れたドラコ・マルフォイの魔法の杖のように見えて僕らの脇腹をぽつぽつ突いた。

先生から急かされているというのに、僕は通団カバンのサイドポケットに突っ込んであったイコールの薄青色の薬包をちぎって薬指・小指と掌の間に挟み、中身をこじ開けたペットボトルカバーの中の綾鷹に落とした。帰ってきてから僕はずっと日本茶に砂糖を入れて飲んでいる。中東の紅い砂漠の香辛料の香りの立つ宵に、砂糖をたっぷり入れたお茶は有り難いほどに甘く喉を潤し、安寧で心から僕を安堵させた。…廊下では既に各パートの点呼終了の申告が始まっている。「第1メゾソプラノ、8名全員居ます!」加賀協太朗のエナメルグレーのボーイソプラノの地声の報告が聞こえる。

「第2メゾ、5名、集合してます!」

綾鷹をカバンに投げつけて、クリスマス・ケープの下の紺イートンの両裾を掌で引き下ろしながらドア口を抜け、回廊のとば口へ躍り出た僕の姿をちらりと目視してトナミ先輩が指揮者先生に告げた。

「アルト、全員います!スタバイ完了!」

先生は6年アルト・パートリーダーをきつい視線で睨め付けてうなづいたが、アシスタントさんが即座に詰問の言葉を発した。

「アルト、何人?人数を言いなさい。キャンドルを配るんだから。」

送り出しの廊下整列時には、全員口を閉じる決まりになっている。

「アルト、7人です。」

それからトナミ先輩は戻ってきて、ゴールした高学年リレーのアンカーが用具係にバトンを返すときのように、僕へパンジー色のキャンドルを手渡した。6年生ケープの白いフェイクファーの襟周りから、嗅ぎ慣れた先輩の砂糖ライチに似た匂いがした。

 

秋の運動会や合唱団のハロウィン出演の終わったあたりから、僕が出演の前後に足繁く通っているのは、自宅の最寄駅の近くにある梟(フクロウ)カフェだ。ご指名はいつも真っ白いコキンメフクロウのフーちゃん(性別不詳・店の人に尋ねたことが無い)。優しくて、僕を覚えているらしくよく懐いて、撫でてもうっとりとしている。外国の映画によく出てきそうなフクロウらしい目や嘴は賢そうでいて人懐こい。猛禽類だから食べるものはお肉。オフホワイトの髭を汚さず上手に美味しそうに食べる。

「アオケンくんが来ると、水浴びしたがるのよ。」カフェの人に言われる。

「なんでだろう?」

「よくわからないけど、ホッとするのかな?」

「合唱団のみんなもよくいっしょにプールへ遊びに行く。スイミングやってる子もいるし。でも今は寒いから外プールで水遊びはちょっと…。」

お姉さんは加減、眉間から目をいつもより見開いて、

「アオケンくん、合唱に入ってるんだ?」と言われた。

「少年合唱団です。…だから、歌ってるのは男の子だけ。いつかみんなでココへ遊びにきて歌ってもいいですか?」

「ぜひぜひ!それなら10年ぐらいは待っていてもいい!」

「なんで10年?」

「フーちゃんの寿命。だいたい10年ぐらい生きれたらいいの。」

「ふぅーん。そうなんだぁ。…でも、10年したら僕たち全員声変わりしちゃうけど。」

 

 

やってきた電車に一番前の方のドアから急いで乗り込んだら、車内は制服を着た5年生の小学生でいっぱいだった。先生方の研修で、僕たちの方は午前授業だったのをどういう訳か春風の重来のように思い出す。尋ねなくても彼らが同学年の子たちであることは、その子たちの体格や体臭、身につけた学習の履歴が目線や目には見えない光背から感じられる。合唱団はフレキシブルかつ徹底したタテ割りの小さな社会で、ソプラノのパートリーダーから一言「全員学年順で並んで!」と下命があれば、誰の整理も調整すらも経ず、身体に触れもせず無言のまま学年順かつ背の順に並ぶ。先頭が1年生か、それとも6年生かといった無用な質問は出ない。また、こちらも義務教育期間の児童なのであまり頻繁に動員がかかることはない「学校のコンサート」への出演では、どの子達が自分と同じ学年の児童かは一目で見分けがつく。なのに車内はある程度涼しく、近くに寄ってきた男の子?は懐かしいような郷愁をさそう匂いがして僕は突然に微笑んだ。「にこり」という副詞がコキンメフクロウのフーちゃんの右耳のちょっと上あたりの羽毛のように暖かくつるりと脇腹をなでるようだった。つんのめるような感覚があって、安中榛名の近辺で僕は目を覚ましたらしい。足元でアイボリーホワイトのスカートの中を潜って伝ったコロ軸受けボルスタレス台車のくぐもった音がする。曇りがちな朝8時をもうとうに過ぎていた。小松駅始発のかがやき502号。一番乗りにくそうな普通の指定席のDとEに二人はちゃんと揃って座っていた。世間一般でいうところのクリスマス終わりし朝。着込んだダッフルコートも制服の上着も暑くて汗をかき始めている。胸元を杜撰に弄った左手の薬指に触れたトグルの先が、回って僕の掌を刺した。そうだ、讃美歌94番。初行ではなく、僕がだらしのない起き抜けの渇いた口唇の隙間から力なく発したのは

 

 ♪Rejoice… Rejoice. Emmanuel

 Shall come to thee, O Israel.

   (喜ばしきかな 喜ばしきかな

  エマニュエルぞ汝らイスラエルに来たれむ)

 

という英語の歌詞の終行だった。

右隣でエンジの石目格子の背もたれへ埋まって枕の白いリネンへ頭を転がしながら協太朗くんが、歯間から息を通して二番の歌詞をシーシーと歌い?継いでいるところだった。これが僕の今年のクリスマスプレゼントのおそらく終章だ。6年生になって、僕は「もう卒業も近いからクリスマスプレゼントは要らないんだ。」と母に言うのかもしれないし、母からここ毎年のように、「あなたがお父さんとお母さんへのクリスマスプレゼント」だと言われ続けるのかもしれない。人身売買といった物騒な話ではなく、僕は少年合唱団で歌わせてもらえ、その対価に両親へごマンとクリスマスキャロルやクリスマスソングをステージや教会や家のリビングやがっしりしたカシオ・プリビア・ピアノの前で歌ったり、音取りしたり、オーディションのための練習をしたりしているのだ。そのために方々の出演場所への交通費や合唱団のレッスンへの電車代や特別衣装や小道具類のための合唱団親睦会費みたいなものを現物支給にちかい感じでプレゼントしてもらっている。僕が両親に「天使の歌声」を磨きに磨いて歌って聞かせるのは当然のことなのだが、父も母も、僕からのクリスマスプレゼントは僕の歌声だけでいいと言うのだった。

 

 

JR東海の新幹線普通車ではワゴン販売が無いらしい。

「めいらくのカチカチアイスが食べられない新幹線なんて、お新香のついてない峠の釜飯みたいなクソだ」と葬式オタ兼横浜市営地下鉄1+3号線オタの子鉄、メゾソプラノの門脇くんが以前練習スタジオのアルト側打楽器ロッカーの前にパッセ・ルルベしながらフンマンやる方ない形相でぶっていた。

加賀くんのお母さんが、バラシのサービス販路のドアを出たところで、

「これは、アオケン君と2人分の追加のクリスマスプレゼント…」と言いながら、2千円と5百円玉ワンコインを協太朗君のステージ用紺イートンの左側のポケットへ落とし、息子が右脇腹に抱えていた2レイヤーコートをひったくって袖元を豊かな少年の両腕に差し向けた。

「新幹線の中でお弁当売ってないから、必ずホームとかの売店でお茶と一緒に買いなさい。先にお弁当を決めるのはどの人?」

「アオケンくんだよ!…オラが先にベイスターズ中華弁当買っちゃったら、アオちゃん、サンドイッチ買うお金しか残らないでしょ?」

「いってらっしゃい。二人とも、良いクリスマスをね。」

「お母さんもね。」

小学生男子でも、営業直後の少年合唱団員だから、こういう気の利いたセリフはステージ・サービスの続きで口をついて出る。

「ご馳走になります。行ってまいります。」

子どもGPSの針は午後6時23分を指していた。クリスマス・エクスプレスの駅売店で駅弁2個が即買いできるほどの時間的余裕は果たしてあるのだろうか?

 

「さっきは本当にありがとうございました。」

「わざわざ立って届けてくださって。せっかく聴いていらしたのに、申し訳ありませんでした。」

「ハルカくん、きちんと名前の後にお詫びとお礼を言いな。」

僕は撤収隊列の一番しんがりで仮設ステージを降りしな、待ち構えていた1メゾの加賀くんと井之上ハルカに声をかけられ、2人の後に付いて小走りで客席の通路ぎわカミ手で帰り支度をしていた初老の女性の前へ立った。下級生は白いポンポンの揺れるサンタ帽を両手で握っている。

「僕は第1メゾソプラノのサブリーダー、加賀協太朗です。こっちは、さっき帽子を蹴飛ばして客席に落としたアルト・ソリストのアオケンくんです。一緒にお詫びに来ました。二人ともふざけていたわけではないので、どうか許してやってください。」

「申し訳ありませんでした。ありがとうございました。」

僕たちはまた、頭を下げた。

 

 ♪青い鳥さえ いつもさえずり

 幸せを 歌ってる

 楽しいウィンター ワンダー ランド

 

Z世代の人たちは、クリスマスに何を思うのだろう?大学生の姉は単位のための制作物とレポートの作成で学校のワーキングスタジオに篭りっきりだ。ここに来ているお客様のほとんどはお年寄り、あとは冷やかしの通行人と残りは僕たちの家族。「♪楽しいウィンター…」の八分音符連桁を歌い終えるタイミングで僕たちソロの二人がステージ中央へ駆け込んでいく。走るのは「ソリ滑り」のイメージを出すからで、2メゾの連中は「そこで雪の中、アオケンちゃんと美少年ハルカがガッチリ肩組んでデュエットっていうのはどお?」と提案して乗り気だったが、先生は「演出過剰でやり過ぎ」と即却下した。新横浜というのは、独特の街のつくりがあって、12月の乾いた寒い夕暮れにはなんとなく硬い人工的な明るさの街路が碁盤に伸びて木枯らしを通す。

僕の右手から早とちり気味にセンターへ駆け込むハルカくんのクリスマスケープの透き通った背中が見えた。彼が何か躊躇したのかつんのめって頭からボトリと落っことしたサンタ帽がステージへ転がった途端、スタンバイに追いつこうとした僕の二脚がその赤いもふもふの布切れををトゥキックのように客席へ蹴り込んだ。メゾの前方の団員たちが「ハッ!」と息をのむ気配が感じられ、2人のソリストも一瞬怯んだが、伴奏は賑やかなクリスマスのスレーライドの加速を伴って僕の全神経に押し寄せてきた。

 

 ♪雪だるまの まわりで

 雪投げをしようよ

 こな雪がふるけれど

 体はあたたかい

 

ハプニングに気を取られないよう、心の中から直前の光景を排除するよう瞬時に判断して、僕は…僕たちは歌った。ステージかぶりつきのセンターで歌うソリストには、物理的には背後で歌う少年合唱団の様子は全く分からないと思われている。指揮者先生はシモ手に避けて小さく両手を振ってタクトしているし、その表情や身振りから皆の様子を感取することは全く不可能だと。

「…ってコトは、先生じゃなくてお客様の様子を観たら、合唱団で今一番孤独な歌い手なソリストだって、合唱団のみんなの様子ぐらいわかるってもんだよね。」

加賀協太朗は、サーモスのスモークレッド2リットル水筒に口をつけて水かお茶か薄めたスポーツドリンクか、(ともかくアルコール度数12パーセントの「ぶどうとりんごのスパークリングサングリア」ではないことだけは確か)何かをごくごく飲んだ後、レッスンスタジオの激冷えエアコンの吹き出し口の前でそう言った。彼は5年生の春、突然ソロ要員になったので独唱や二重唱の経験は他のソリストに比べたら圧倒的に少ない。ただ、彼の水筒のこちら側にはト音記号と八分音符のデザインと「KYOTARO」というバニー体の刻印が大きく入っていたのと、客席の様子を見れば背後の合唱団本隊の歌い姿や出来事を探れるのはまったくもってソリストたちの経験する事実だった。

『ウィンター ワンダー ランド』の低声部ソロを歌っている僕には、合唱団のみんながやっぱりハプニングに一瞬心を奪われながら、「それではイケナイ!」と頭脳をノーマル・モードに戻す様子が感じ取れた。そして、客席中頃の通路側の女性のお客様が一人、立ち上がって中腰のままのような感じで僕の蹴飛ばしたハルカ君のサンタ帽を拾い、席に戻った様子が見えた。ゴミだと思って近くのゴミ箱に終演後捨てに行こうとしたのか、もらって帰って誰か子供にプレゼントしようとしたのか、それとも反射的に落ちているものを拾おうとしたのか…、そのお客様の真意はハルカくんのソプラノを聴きながらカクカクとした低声をカクカクな感じには絶対聞こえないよう集中して歌っている僕には分かりかねた。

最後にハルカ君と僕が、

 

 ♪ウィンター ワンダー ラーン(ド)!

 

とコーダの声をはり上げ、合唱の皆が涼しげなハーモニーを醸し出しながら、ジャズ・ナンバーらしいコミカルな後奏がポップに鳴り、最後にピアノのグリッサンドがチャラチャラチャラチャラと下りて曲は終わる。

お客様は拍手をする。僕と、着帽など勿体無いくらいツヤツヤ輝く深いブラックチョコレート色の髪を見せた井之上ハルカ君とがステージ前方で頭を下げ、口の中でゆっくり「1・2・3・4・5」と数えている間に、舞台鼻最前列の広い犬走りをコツコツと歩いてきた人の靴音がほんの微かに聞こえたような気がした。

頭を上げると、オケピからステージに向かって何か言っているプロンプトの人のように、一人の女性が僕が蹴飛ばしたハルカ君のサンタ帽を仮設舞台の縁で差し出そうとしているところだった。こちらに駆け込んできた加賀くんが真っ白いハイソックスの右膝の汚れるのもかまわず床におとし、おし戴くように頭を下げ、お礼のようなものを言いながらそれを受け取ったのだった。

彼は立ち上がり、そのサンタ帽の白いフェイクファーのリムを自分がかぶる時の仕草のように広げると、頭を上げばなに目を剥いている下級生の頭へ深く差し込み、最後ににっこりとしながら、愛しむよう優しく丹精に赤と白の頭を2-3回ゆっくりなでてやった。

客席は再び何か温かい呟きのこもった音の拍手でこたえてくださった。

彼が今夕2回目のミニ・コンサートの後半も装束の見栄えで楽しんでもらえるよう後輩の頭に戻ってきたサンタ帽を、客席へ蹴り落としていた僕は、再びお詫びとお礼の気持ちで頭を下げた。

クリスマスケープからLEDキャンドルを覗かせた3人の少年が2回目に口の中で「1・2・3・4・5」と数えて頭を上げたとき、そのお客様は既に席へ戻ってニコニコと頬をゆるめている。まるで、僕とハルカくんと加賀くんの挙動全てが今日の慰めであったかのように…。いつまでもいつまでも微笑んでいらしたのだった。

 

終演後、お詫びと感謝の意味でのファンサの客オリを僕は団員人生で初めて経験した。この少年合唱団では団員がまずやることのないことだったからである。加賀くんに連れられて頭を下げに行った僕たちの小学生サイズの身長を見て、その方は最初吃驚し目を見開いて黙っていたが、最後にその目を細めて、

「じゃあ、ワタシにもクリスマス・プレゼントで、キミのこと、なでさせてもらえるかな?」

美少年ハルカは全然美少年じゃない照れ臭そうな顔をして、客さまにサンタ帽の頭を2-3回ゆっくりなでられていた。

1メゾという、全然別のパートで歌っている加賀協太朗くんと仲良しになったのは、僕がバート・バカラックで、ゴージャスかつ超カッコ良いオーケストラ伴奏の”We’ve Only Just Begun”のソロを歌ったときだった。加賀くんはカミ手マイクの前に立つ僕の遥か右(シモ手)の隊列前で、Bメロのサビのクライマックスに乗せてカンッ!カンッ!カン!カンッ!カンッ!…と、角ばった艶消しの黒檀クラベスでボサノバ・クラーベを打ってくれたときからだ。僕の親戚は半分日系ブラジル人だったし、彼の叩く音は澄んでいて気高く、劇場の中を僕の高揚した心臓の鼓動のように響き抜けていたのに、決して耳障りではなく、僕も合唱団の皆もお客様も励ますようだったから。バカラック独特のウエストコーストのドライな温かささえ聞こえた。少年合唱団の5年生アルト・ソリストは、彼の柔和で豊満な掌の中から響く拍子木の音と、その響きを11歳の肉体で作った加賀協太朗を瞬時にぞっこんホレてしまったのだ。

「大人のお客様は綺麗に揃った天使のようなコーラスを聴きにきているわけじゃないんだ。」

先生は曲の仕上がりが不自然に早すぎると、時々こう言って僕たちをいなすときがある。

「きみらがうまくいかない中で頑張って、たくさん失敗やミスをして、それでもパートのみんなで合唱を作っていこうと苦労して努力している姿をわざわざご覧に来られるんだ。綺麗な合唱だったらプロの男声や混声、子供の声なら女の子主体の合唱を聞いた方がずっと良い。」

「アンパンマン少年合唱団みたく、俺らルックス良くは無いしネ。」

皆がちょっとクセのある笑い方で沸いた。

加賀協太朗は指揮者の言に疑問をはさむ。

「先生ぃ。なんで、わざわざ失敗やミスに苦労してる小学生男子の合唱を?」

指揮者先生は彼の頭を優しく撫でながら(1メゾ・パトリの彼は後輩たちの声を聞くために大抵最前列の指揮者台の卑近にいるのだ)、

「大人の人たちも必ず100%、昔は君らと同じ子供だった。みんなは、今の大人の人たちは全員優秀な子供時代を過ごし、ミスも失敗もどヘマなんか一度もやらかしたことがない優秀な人たちだっだと思うか?」

再び皆は笑ったが、加賀協太朗は表情を崩さず真摯だった。

「子供の失敗を見てマウントですか?」

「そういう人もいるかもしれない。でも、そんな人はわざわざお金を出して男の子が失敗する姿を見には来ないよ。みんなの歌を聴いている人たちは、きっと幸せな少年少女時代を過ごした人たちだ。」

「それは自分の幸福な少年時代を思い出すから?私も子供の頃は失敗ばかりして、だけど仲間と一緒に頑張れた頃があったな…って?」

「加賀くん、それは君が大きくなった時に判断すればいいよ。」

 

客オリの「お詫びとお礼」で時間を費やしたにも関わらず、僕たちは新幹線新横浜駅下り3-4番ホームの10号車前崎陽軒陳列棚の1段目で、シウマイ弁当とチャーハン弁当を一つずつ手にいれることができた。午後7時まぎわの売店…チャーハン弁当の方は最後の1個。二人は滑り出して加速の効き始めたひかり657N700系の新幹線色のモケットに腰をおろしている。横浜副都心丘陵地のあたりでチケットと席番の検めを済まし、ゴミ焼却場らしい赤色灯がてっぺんに灯ったタワーや住宅地の灯りを車窓に見ながらテーブルを下ろして黄色やオレンジの経木の匂いのする乗せ紙の折り詰めを置く。蓋をとると今度は嗅ぎ慣れたシウマイの匂い。協太朗ママからのクリスマスプレゼントは何かホッとさせる安閑の温かい宝箱だった。

「お箸の紙、今のうちにクレ。」

制服紺半ズボンを履いたガチムチの磯野カツオといった風情の旅のツレは意外なことに箸を抜き出した長い紙の筒の一片を所望した。崎陽軒のお弁当の箸もお手拭きも楊枝もまとめてクリアの二軸ポリプロピレンのぺたんこ袋に入っている。お弁当の湿気や油分で箸や楊枝がフンニャリしないための配慮らしい。デザインはただの雪色の白に駅弁会社のロゴ。YOKOHAMAのそっけない表示。箱に収まっているのは、「詰め込んである」というよりは投げ入れたような黒ごまの俵ごはん、昔ながらのシウマイ 、鮪漬焼、蒲鉾、鶏唐、玉子焼、筍煮、あんず、切り昆布…一通り箸をつける僕は、「シウマイ弁当のナカミを食べる順番」や「最後にあんずを食べるかどうか」といったツウぶった論議はとても馬鹿げていると思う。《APPETITVS RATIONI OBEDIANT》…学校のホグワーツ的なチュードル様式の食堂のアーチ石にそう彫られている。その時に好きなものを欲のまま食べたら良いのにとシウマイ弁当にありつくたびに思う。

「お箸の紙なんか、集めてるの?」

「集めてんじゃない。今夜はクリスマスだろ?フレーベルの星を作るんだよ。」

「フレーベルのホシ?」

第1メゾソプラノの古川令くんは、先週土曜のクリスマス・ソワレを堂々とサボってアンパンマン少年合唱団の出ているバレエ『くるみわり人形』を観に行った。隠れゲイのチャイコフスキーの作ったバレエだから、子供も、少年合唱団やボーイズ・ダンサーと大小たくさんの男の子が性的多様性の今も動員される。3年までバレエをやっていたソプラノの門脇大地くんは別のバレエ教室でこれに出て「ジゴーニュ小母さん」でマツコデラックスふうの小母サマの裾を踏んでバレエが大混乱になったから、『くるみわり人形』は今でも大嫌いだと言っていた。令くんにはアンパンマン合唱団に憧れのソプラノ中学生がいる。大音量のオーケストラがここぞ第1幕のフィナーレとばかり森の雪のワルツをかなで、雪の精たちのコール・ドがバタバタと派手に大炎舞している中、青白い弱いスポットライトをもらって六花片に負けじとばかり澄んだ清らかさ、濁りのないピッチを強いて繰り出すボカリーズは、僕たちの合唱団でも歌ったことがあった。令くんは帰ってきてから盛んにアンパンマン合唱団のリズム感の淡白さや処理をほめていたが、最後に「やっぱり少年合唱団ってルックスなのかな?」とボソリとつぶやいて黙った。

 

「割り箸の紙のケースっていうのは、たいてい3センチ幅くらいの1枚の長っぽそい紙テープを中間で折って、その両端を糊付けして作ってあるっす。」

協太朗くんは、食べかけのチャーハン弁当を避けたN700系のグレーの座席テーブルの端で僕のあげた箸ケースの口にぽっちゃりした中指を突っ込み、注意して糊付けを剥がしていった。

「こうすると、30センチの長さで幅3センチの白い紙テープになるだろ?」

彼が伸ばしてみせたテープの片方の端は切れ込みが斜めに入っている。僕がそこを注視しているのを見てすかさず。

「このナナメのところが”フレーベルの星”の真ん中になるってワケでじゃす。」

と説明した。

「必要な紙テープは4本。…それを編み込んで星の形にするの。だから、俺のとアオケンちゃんのと、2つの箸袋を開いたテープを縦半分に折って、キツく折り目をつけて縦半分にする。」

「1センチ5ミリ幅の30センチの紙テープが4本できる。」

「それを織り込んでいって星の形にするわけさ。…崎陽軒の箸袋を使うと雪みたいに白いクリスマスの星が1つできる。」

ガチムチの磯野カツオのような、少年合唱団メゾ系の(以前はソプラノだった)5年生が、器用な感じに紙テープを縦に半裁し、注意深く折り目に沿って綺麗に切り分けている様子を見るのは初めてだったし意外だった。

「これを箸袋の元の折り目で折って、時計回りに組み合わせて…」

たぶん、この箸袋の大きさなら新幹線の車輌前方掲示板が「ただいま掛川駅を通過。」と表示する前に、白い星は完成していることだろう。

「向こう側に出てる右のを三角に折って、また三角に折り返す。」

僕はシウマイ弁当の筍を前歯で転がして食べた。

「それを飛行機を折るみたいに左へ折って…」

彼はそう言いながらも折った紙テープを戻しながら横に伸びた箸袋のスキ間に通す。

「これを丸ごと時計回りに九十度回して同じことをどんどん繰り返すんだよ。」

やっていることは簡単そうだが、僕は最初に折る三角をこちら側に折るのか、あちら側へ折るのか忘れてしまった。

「合唱団のソロがフレーズの最中に交代するのと同んなじだよ。歌い終わった子が後ろへ行きながら次の子へ交代するんだろ。これも同じ。後ろ側へ折る。」

合唱団の1メゾの副パトリだけのことはある。彼の説明は「知らない者」「失敗した子」…立場の弱い子に丁寧で分かりやすい。僕の蹴飛ばしたサンタ帽を客席から返して下さろうとするお客様に膝を落とし、ステージエプロンのフロアで少し汚れた真っ白い彼の左足のハイソックスの甲をチラリと見た。N700系のシートピッチは子供の脚には広大で、座席の影が5年生の下肢を翳らすことはなかった。

「でも、その質問はナイスタイミングだったよ。残りのテープの長さがこのぐらいになったら…」

副パトリは僕の方へ、熊本沖で獲れたリンボウ貝のようにテープの端が四方へ広がった作りかけの星を見せながら言った。

「今度は逆回しにしながら同じことをやる。…そうするとね…さっきまでと違って、折りきれないで出っ張っちゃうんだ。それでイイの。正四面体の出っ張りが4つできたら…」

「裏返して同じようにする?正四面体4つ。」

「さすが冴えてるね、アオケンさま。」

「いいけど。その残ったテープのハジはどう始末するの?」

5年1メゾは、近所の有名人の姉にイタズラを思いついた時のようなヤンチャな表情で答えた。

「ハサミで切って終わり。でも、ここにはハサミはないから、アオケンちゃんが持って帰って切って、誰かにあげるんだよ。」

僕は画竜点睛なフレーベルの星を通団バッグのポケットの非常用少額オレンジカードの隣へ差し入れた。

 

東海道新幹線が静粛で走っているかどうかもわからない…とインバウンドの外国人は言うこともあるらしい。だが、のぞみだってひかりやこだまとしょっちゅうすれ違ったり待ち合わせたりして、バフンと空気砲のような音を立てる。

僕たちはフレーベルの星を作りながら豪華な新横浜駅土産の駅弁をクリスマス・ディナー代わりにたいらげ、残りのお茶を飲んだりお手洗いに行ったりしてのんびり降誕祭の宵を過ごしていた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マルコによる福音書 2:23-28 新共同)そう言ったイエス様は神をも蔑む極めて罪深い者として処刑された。「お休みの日は神様のためにあるわけじゃない!疲れた人が休むためにあるんだ!」と最後まで言い張って磔にされた。今日一日、朝10時半からマチネ+ソワレとクリスマスの歌を歌い尽くし、疲れ果てた少年合唱団員に安息を当然の権利としてお認めになられた。

加賀協太朗が、自動ドアをくぐってトイレから戻ってきた。

彼は小学5年男子の所作らしくなく、ゆっくりと腰を浮かすようにしてモケットへ着座した。

…彼のこちら側の肩が忙しなく動いている。

なにかを毛繕うよう、音もなく、静かに安寧のまま彼の肩は揺れて膨らんだ。

そうしてあらかたの動きが終わると、さらにぼんやりとして、イエローオパールの小さな正四面体をぱくぱくさせた。

「フクロウの尾脂腺は尾羽の付け根、背中の下の方に1つあるの。そこから羽につける油を嘴につけて羽繕いをする。」

僕は、なぜそんなことを言い出したのだろう?

「それは、小鳥とかも?」

「そう。そうしないと羽に空気が溜まらないから飛べなくなるし、凍えるよ。」

「これって、たぶんセキセイインコだと思うけど…」

協太朗くんの肩で丸くなっている、頭のてっぺんが鮮やかな黄色で首から下が黄緑の、黒い縞の入ったよくありのナミセキセイインコを見て、僕は言いながら仰天した。

「手乗りインコじゃん?!!」

「うん。」

「なんで?」

「知らん!トイレから帰ってくる途中、デッキ歩いてたら飛んできて…胸にバサってとまった。セミみたいに…。それで、ビックリしてたら自分で嘴とかも使ってオラの肩によじ登って…小さく小さくピロッて鳴いた。」

「おとなしいからメスだよ、きっと。…逃げちゃったのかな?」

「普通は、そうだろ?東海道新幹線のデッキでセキセイインコが野生化してるって話は聞いたことがない。」

小鳥は僕たちの話の間で体を丸め、安心したのか嘴を背中に突っ込んで眠りはじめた。

「車掌さん、来ないかな?」

「さっき、来たばっかりだから、名古屋か岐阜羽島で誰か乗らない限り来ないだろ?」

「なでちゃおうか?」

「ゆっくり、弱く、やさしく撫でないと、また怖がって飛んじゃうよ。」

「このまま、米原まで連れてくか。俺たちに途中までのクリスマスプレゼントがまた一つ増えたな。」

協太朗くんは、そう言って指でインコの黄色い頭に触れようとして諦めた。ちょっと無理に近い体勢だった。彼は僕の手をとって自分の肩に近づけ、僕は小学5年の黒い指でその生き物の耳の下を撫でた。

「起きやがったナ。」

「おいで。お兄ちゃんのコートの胸の中で寝ようか?」

インコは怖がるふうもなく、僕の手の甲へちょこんと飛び乗って、コートの中へナポレオンの肖像画のように差し入れた僕の手の甲で小さく膨らみ、内ポケットの上へ寝床を作ってピロリと小さく小さく鳴いた。

「小鳥って暗くしないと眠れないんだよ。夜行性のフクロウだって、白コキンメのフウちゃんみたく小さい鳥っていうのはみんな同じなんだって聞いた。」

「じゃ、連れてくか。」

「連れていこう!」

 

「今日も東海道新幹線をご利用いただきましてありがとうございます。この列車は、ただいま、途中の三河安城駅を定刻通り通過いたしました。次の名古屋まで、およそ9分です。名古屋到着、20時16分、17番線。右側のドアが開きます…」

速やかな降車の身支度を促す車内放送が流れている。25分ほどで米原だ。米原から特急しらさぎに乗り換えて、敦賀で北陸新幹線に乗ったらあと4駅で目的地の加賀温泉に到着する。

「疲れてたんだね。寝てる。」

「静かにしてやんないとな。」

二人は少年合唱団の楽屋待機の習慣から口を閉じ、囁くように話をしていた。

 

「あっちから来た列車がまたあっちに出て行ったんだもの!座席もあっちに向いてた!そんなのに乗ろうとするのがおかしいよ!」

だが、そこは確かに5番線で、行先表示は特急しらさぎ15号「敦賀」行きになっていた。

「じゃあ、俺らが乗るのはどの電車なんだよ?時間だって20時56分ピッタリ発で合ってたじゃん!」

手乗りインコを改札ワキの駅員さんに手渡すのに時間を食っていた。新幹線を降りてまず乗り換えとは逆の改札口へ降りきってから誤謬に気づき、とって返して北陸本線の5・6番ホームに降りる頃には目的の電車の発車ぎりぎりになっていた。

「だって、新幹線でこっちから来たんだから、戻るなんて気持ちが悪いよ。こっち方面は、名古屋方面なんだから。なんでまた名古屋に戻るんだよ。」

新横浜から来た僕たち小学5年生に列車の「スイッチバック」という発想はハナから欠けていた。そもそもお客さんを電車に乗せたまま方向転換をして次の駅にゆくという経験など、西武特急ラビューに乗って飯能駅で出会した人生1度きりの稀有な体験だ。僕たちはまた階段を上ってもと来た精算所の駅員さんに相談に行った。さっきお預けしたピーちゃん(手乗りインコ)は、事務机の籠(⁉︎)の中で小さい鳴き声をたてていた。

「ほら、あの電車で良かったんじゃぁん。」

加賀くんは少年合唱団の1メゾ副パートリーダーにおよそ不釣り合いなほどムクれて口を尖らせた。まるでガチむちの磯野カツオがサザエさんに怒鳴られて2日間連続買い物代行をさせられた風体だった。

「なんで駅にトリカゴなんかあるんですか?」

僕はマトはずれに駅員さんに問うて、磯野カツオはさらに目尻を~マークに釣り上げた。

「6番ホーム21時4分発長浜行き…って、もうすぐ発車じゃん!」

その次の列車は30分後らしかった。乗り遅れれば長浜乗り継ぎの北陸本線の最終列車に間に合わない。間に合わなければ22時28分敦賀発の北陸新幹線の最終便「つるぎ50号富山行き」には乗れない。僕たちのクリスマス・エクスプレスが「♪きっと君は来ない…」と先に行ってしまうことになる。

6番ホームの列車はJR琵琶湖線新快速長浜行というらしかった。3駅ほんの10分ほど乗って、終点の長浜駅から敦賀行きの当駅始発北陸本線敦賀行きに乗り換えた。時刻は9時15分を過ぎたところで、駅は真っ暗な田畑の切れたところにある住宅地の真ん中のような寂しいところだった。新快速にありがちなシルバーの車体にベージュと白とブルーの細いラインが入った長浜始発電車に乗り込んで、箔押しで合唱団の名前が入った通団カバンをぶる下げ、紺半ズボンに白いハイソックスと田舎じみた黒折襟の制服に黒タイツを履いた小学校高学年男子が二人、枯茶色のシートモケットに太ももを4本並べ、力無く腰を下ろしているさまは、おおよそ降誕祭の煌びやかな夜半の光景に似つかわしくなかったことだろう。

「ピーちゃん、ご主人様が見つかったかな?」

「さあな。腹減ってるだろうな。」

「何かクリスマスプレゼントあげれば良かったね?」

「アオケン、おまえよく考えないで言ってるだろ?」

「う…うん。手乗りインコが食べるのって、ヒエとかアワとか…。」

「シウマイ弁当の残りは食べなかったろうね。」

「弁当の食べがらなんて、デッキのダストビンに捨てちゃってたしな。」

敦賀の駅には40分くらい乗って着いた。山間やトンネル、無人の田畑の真ん中を北陸本線はゴーゴーと走りながら僕たちのクリスマスを緘黙に紡いだ。

新幹線の敦賀駅は北陸新幹線の最果ての駅と思えないくらい明るく、安らかで暖かいところに見えた。

あと一歩。

見慣れたブルーと銅色のラインの入った車体は僕たちを心の底から安堵させた。金沢の由緒ある歴史的建築や意匠を模したカラーリングらしい。

つるぎ50号富山行。電光掲示板に表示された列車名と行き先表示とを何度も2人で繰り返し確認しながら、今日最後の40分間ほどの快適な新幹線の旅を暖かく思い描いた。

 

12月25日クリスマスの晩の23時6分、僕たちは凍てついた加賀温泉駅の北口に立っていた。アンクル丈しかないタッセル靴の履き口から出た両のくるぶしは、真寒の奇巌城で短剣を滑らせられたように痛く冷たかった。

つるぎ50号富山行きが、背中を丸め暗寒色に着膨れた最後のお客様の何人かを11番ホームに力無く押し出すと、雪国の鉄道駅らしい高い鉄骨の天蓋のついた鉄筐の中を超特急はあまり聞きなれない「ホォー」という叫び声を立てながら出線していった。それがJR線最終電車であったことがあからさまにわかるほど、駅の中は今日のひとひの所労の店じまいとばかり、さまざまな事物があっけらかんと暮れ始めた。あとは25分ぐらい後に石川鉄道の、僕らのやってきた福井へ向かう最終列車が半自動開閉の扉閉を確認して動き出せば今日の駅執務は全て終わるらしい。それに乗って福井に帰るべきだったのではないかと心の底から逡巡したのは、観音様のある駅北口の前には、僕たちよりストライドがあって、そそくさと荷物を抱え北口に降りたらしいお客さんたちがそそくさと乗り去ってしまった無人・客待ち車ゼロの閉店休業状態のタクシー乗り場がぽつんとあるだけだったからだ。新幹線停車駅の駅前であることが信じられないくらい逆L字に折れ曲がった細っこい道の向こうに普通の家屋や食品工場のような建物がぱらぱら並んでいるだけの、陰鬱で「何もない」…少なくとも観光地の温もりを諦めたような場所だったからだ。振り返った出口の名前は「北口(日本海口)」。その物遠い名前がいかにも北陸の果ての三冬の切言のようにも感じられ、僕たちは誰に命ぜられるともなく、カサつき始めた口をつぐんだ。

 

「朝5時57分の石川鉄道の金沢行でここから小松まで行けば、そこで6時49分発の新幹線東京行きに乗れる。」

協太郎くんの提案内容は僕も知っている。新幹線小松駅1番ホームのかがやき502号への乗り換え待ちは40分間もあり、指定席券を買うのも、朝食を買ったりするのも余裕の行程だ。東京駅到着は9時半ちょっと過ぎ、23番ホームに着く。在来線を入れてプラットホームがたった4つしかない此処の駅に比べたら、23番線という数字は賑やかだ。「それは地上ホームの23番線?それとも地下番線10個のうちのどれか?」と尋ねたら、きっと加賀温泉の駅の規模は決定的に些少だろう。

暖冬なのか、ここには未だ積雪はおろか降雪の気配すら認められなかった。ただ、午前中ぐらいに雨が降ったらしく路面はかすかに冷たく濡れ、乾くまでもなく夜の帷に落ちている。

母から「北陸だね。雪が積もってたら、どうしようか?」とさりげなく尋ねられていた。降雪にあきらめてどこかで丸くなって一晩過ごすハメになったかもしれないその道を、僕は今、ペタペタと加賀くんの後について歩いている。

「どうしてクリスマスプレゼントが加賀観音を拝むことなのかい?」

「どうしても来たかったの。自分のお小遣いじゃ払えないかもしれなかったし、4年の最初の頃、ソロになって初めて金沢と小松でやったコンサートのとき、新幹線が取れなくて小松から飛行機で帰ったんだ。そのとき、離陸した飛行機の窓から、真下に加賀観音さまが見えたのさ。」

「じゃあ、なんで俺様を誘ったんだよ。加賀協太朗だから、加賀観音?」

「うん。まあ、そういうことなのかもしれない…」

本当はそんな親父ギャグじゃない。加賀くんとどうしても二人で来たかったのだ。午後9時台の北陸本線。暗く冷たい普通列車の二人っきりのクロスシートで、僕と協太朗くんは熱い息をつきながら何度もいきみ、口づけした。美しく情念に満ちたクリスマスの奉呈。神様がお与えになった僕だけのための美しい聖夜。ヤドリギの下でなくても、すばらしいクリスマスプレゼントをもらえた。

 

「加賀観音なんか、もう建ってないだろう?」

「いや、建ってるか無くなってるか、それを見て確かめに行きたいんです。」

「クリスマスに??わざわざ?北陸新幹線、乗って?なんで?」

「まだ建ってたら、拝んで来たいんです。」

「クリスマスってイエス・キリストの誕生日だろ?インドの神様の仏像とカンケー無くね?」

「いや。聖書にはクリスマスがイエス様の誕生日だなんてどこにも書いてないんです。」

「それじゃ、なおさらだろが?」

ソプラノ5年の瓶田星斗君が『ケーキ屋ケンちゃん』聖地巡礼中、行川アイランドのトンネル柵によじ登って記念撮影のセルフタイマー自撮りのシャッターを切ろうとしていた時に知り合った「合法廃墟マニア」(もうじきつぶれそうな極めてさびれた遊園地やレトロ不気味でグロい個人経営もありがちな遊楽施設の管理の杜撰さや放置っぷり、荒れ果てた状態や恐怖のイカガワしさを楽しみに入園料を払って訪れるマニア)のお兄さんとコンタクトをとることができた。加賀温泉駅から徒歩で加賀観音まで行って拝んできたという。

「建ってるかどうかなんて、新幹線のホームから確認すりゃすぐわかるだろうに?」

「そりゃ行ったコトのある人は、どこら辺を見れば観音様が立っているか分かるんでしょうけど…。しかも、僕たち少年合唱団…クリスマスの一番のかせぎどきで夜にならないと遊びに行けないんですよ。真っ暗な中で、ホームからどこを見て探したらいいんだか。」

「歩くの?」

「小学生ですよ。バイク乗れないし、運転できるのはチャリと三輪車だけだし…。」

お兄さまが御参拝なさったのは初夏の昼過ぎだったと言う。

「待って。…必ず記録をとってあるんだ。あの時も歩くしかなかったから、ルートは書き残してある。お待ちなせえ。…えと、駅前に左右逆の大文字のLのカタチの道があって、…」

「えっ!ちょっと待っててください。僕も記録するから…」

合法廃墟マニアのお兄さんの巡礼記録は比較的正確でわかりやすかった。駅前にはちゃんと左右逆の大文字L字の道があり、それをまっすぐ行くとすぐに横断歩道で渡る中途半端な拡幅の道路があった。

「渡ったら左の方へちょっと行くと、信号機のついた合流する比較的広いなだらかな坂があって…」

「それを上るのね?」

「両側に舗道があるけれど、必ず右側の舗道を歩くこと。」

午後11時台の夜中の漆黒の加賀の夜にも、その坂や歩道はきちんと現存し、僕たちのぺたんこな黒いローファーが歩けるよう緩やかな勾配を伸ばしていた。

「歩いているうちに、なんとなく嫌な雰囲気がしてくるかもしれない。道の横には大きなため池があって…」

そこまで聴いて僕が「怖いところなんですか?」と尋ねると、

「行ったのはちょうど夏休み前の早い下校の時間だったみたいで、小学生が普通に歩いてたよ。廃墟の隣は普通の小学校らしい。心配ないんじゃないかな?わかりやすい道だよ。」

と教えた。協太郎くんと僕は言葉少なにその緩やかな上り坂をぺたぺたと登って行った。夜気は、やはり冷たく、雪の気配は無いが、歩きぬけるコートの襟を通る風が何かを囁いているようだった。

「坂が住宅街に差し掛かると、小さなロータリーみたいのがあるから、右に上がる。もし、そのロータリーの中に小さな時計塔が立ってたら、それは行き過ぎだ。少し戻って小さなロータリーみたいのを探しなおせ。」

僕たちはその諌言の通り、時計塔のある芝生の導流島に出くわし、がっくりと首を落とし踵を返してその消えそうなほど小さいロータリーのようなもののところへ戻った。

「行き止まりに見える、道がカギカッコの形に折れているところが終点だよ。注意して探すと「参道」という大きな表示が見つかるかもしれない。ちょっと怖いけど、その階段矢印の方へ上がると、加賀観音のあるお寺の入り口に辿り着く。階段になってるから、歩き疲れてたらそっちの階段で休むといいよ。」

もともと観光地だったために、わかりやすいはずだというアドバイスは適切だったらしい。一番怖かったのは、最後の「参道」の杜をくぐる短い階段だった。

僕たち二人の小学5年男子はこうして、躊躇と、注意散漫で行き過ぎ、引き返す混乱の末、記念すべき12月25日があと15分かそこらで終わろうとする刻限、加賀観音のお寺の門前に辿り着いた。そこに観音様がおわしますかどうかは、もうどうでも良かった。ライティングもされていなかったし、夜目の中、奥には何も見えなかったし見ようという気にもならなかった。

僕たちはかじかみ始めた手を合わせて簡単に虚空を拝むと、合法廃墟マニアのお兄さんが指南した通り、山門の前の荒れ果てた階段にズボンのおしりが湿るのも構わずへにゃへにゃと腰を下ろし、寒さが二人を襲うまで、ずっと無言のままそうして座っていた。

 

 

砂漠で出会う来訪者は2種類しか存在しない。敵か、あるいは飢え、渇き、死線を彷徨う者のどちらかだ。イスラム教徒であろうと、ユダヤ教徒であろうと…さらにはキリスト教徒であろうと、砂漠に於けるこの哲学は不変であるらしい。砂漠を舞台にした近現代のあらゆる戦を見ても、それは一脈通ずるものがあるのかもしれない。

つんのめるような感覚があって、安中榛名を通過した頃合いに僕は目を覚ました。アイボリーホワイトのスカートの中を潜って伝ったコロ軸受けボルスタレス台車のくぐもった音が足許のタッセルローファーのゴム底とアクリル・ナイロンの黒タイツのフットを伝わって響いていた。曇りがちな朝8時をもうとうに過ぎた小松駅始発のかがやき502号。一番乗りにくそうな普通指定席のDに座っていた。世間一般でいうところの、クリスマス・エクスプレス終わりし朝。着込んだダッフルコートも制服の上着も暑くて汗をかき始めている。胸元を杜撰に弄った左手の薬指に触れたトグルの先が、回って掌を刺し、僕は感づいてギョッとした。

「そこで寝てた手乗りセキセイのピーちゃんだったら今頃まだ滋賀県米原市の南部にいるよ。アオケン君の胸ポケットにゃもう居ない。」

僕の跳ね起きた仕草を見て気づいた隣席の男の子が言った。

あたたかい、たっぷりとした人懐こい小学5年生の男の子は、彼の存在自体がもう温暖でその体温放射が僕を心の底から安心させた。

 

 ♪Rejoice… Rejoice. Emmanuel

 Shall come to thee, O Israel.

  (喜ばしきかな 喜ばしきかな

 エマニュエルぞ汝らイスラエルに来たれむ)

 

僕は習い励んだ合唱団の発声で、小さく細く、声が澄むように英語のフレーズを歌った。四角いネウマを4線にぽつぽつ置いただけという朴訥な歌で、もとはグレゴリオ聖歌だったような正格旋法ふうの弱起の独特の暗さのある曲だ。 

右隣でエンジの石目格子の背もたれへ埋まって枕の白いリネンへ頭を転がしながら協太朗くんが、先ず歯間から息を通してシーシーと歌い、継いで第1メゾソプラノの声でボリュームを合わせ美麗に高声部をのせて歌詞で歌を合わせてきた。これが僕の今年のクリスマスプレゼントのおそらく最終章ということになるのだろう。

「協太郎君、ありがとう。」

「なんで?」

「僕のクリスマスプレゼントにつきあってくれて。」

車窓には北関東の住宅地の光景が流れはじめた。」

「でも,オラはアオケンちゃんに何一つプレゼントをあげてはおらん。上の旋律を歌ってるだけだ。」

彼は忘れている。大ウソつき。

通団カバンのポケットに入っているシューマイの匂いのする白いフレーベルの星を僕は合皮の前見頃の上からそっと撫でた。  

 

 

「いや、きみたち何で今、タコスの話をしてるんだ?」「先生はパリパリのとふんにゃりしたのとどっち好き?」「僕、沖縄の金武町のタコライスのお店行ったよ。お父さんが帰りに道、間違えて米軍基地の中に入っちゃって…」「アーうるさい!全員黙れ!口を閉じろ!…バレエできそうな釜谷くんはサルサはどうなんだ?」「うーん、ハラペニョとかはちょっと…」「ハラペニョ関係無いだろう?じゃ、ダンス前任者のアオケン君は?」「はい。僕は火の通ったレバー以外は一応なんでも食べます。」

 

 

午前0時の邸宅は美しい。

広大なガラスの側面。主張の無い打ちはなしをかました構造が建物の全て。明かりは落とされ、滲むようなフロアライトだけがワックスで輝くシックなグレーパープルの床の角でぼんやりと光を放っていた。バルコンの眼下、漆黒の本天にあまたのアラザン球がちろちろとまたたき、天蓋にスパタ模様の星々。夜は静けさで充ち充ちている。

ひと仕事を終え、すっかり落ち着いてしまったジオットや10号衛星もそこには見えているはずだった。男の子は床に就く直前の気持ちのよいひとときをまずパジャマ姿のままその眺望の舞台にさまよい出るのだった。

ひんやりとした宝石のような夜気が彼を抱き、温かい少年の身体から適度の湿気を流しとっていくのだが、それらは気化熱の代わりに穏やかな日々の思い出の小さな紙箱を植え込みの陰にそっと置きながら、夜目に紛れていくのだった。

 

辺りにはおとなしい虫たちの声が穏やかに聞こえている。

そこから室内を見ると、生い茂るスイカズラや、誇ったアイビーたち…ハイドロカルチャのまま巨木に育った数本のパキラなど、広い窓の開口部を内側から繁茂で覆い隠しているのが見えた。

薄ぼんやりと照らされた低い照度の部屋の奥に、気持ちのよいキッチンのユニットが整然と平行線を描いている。向こうの窓から折りあがった打ち続くトップライトに照らされて、ワークトップは星々の光を得ながら白金に輝いていた。透白の星明りと夜景で夜は長かった。きららかな、つましいひととき。静寂のたもとから、少年はすでに微かなノナナール臭を引き連れる温かいカラダを起こし、柔らかい、潤った裸足の足裏を冷たいシチリア・タイルのワックス床にペタペタとたてながらスタチューのごとく夜目の屋内に立っている。

 

キッチンのとばくち、幅広の冷蔵庫の輪郭は半ば暗がりになりかけた位置。白い筐体が自身の光を放っている。

中には冷たい水瓶。透き通った筒が何本か。熟れたうすぼんやりした白熱電球の明かりの中で黙として立っている。

バルコンの手すりに寄り添ってしばらく眼下に広がる光の織物を眺めたあと、子供部屋のクローゼットをほとんど音もたてずたおやかに開け放ち、手探りで濃い紺のシングル・ジャケットを、こそりと引っ張り出した。

暗がりの中。微笑みながら、ドロワーを起こし、生地の織りや厚さを指先で確かめて短いズボンを掴み出し、一番爽快そうな肌触りの小さな下着と、ソフナーのたっぷり利いた柔らかそうな黒タイツとアーガイル模様の短ソックスを一組ずつ決めた。最後にクリーニング・タグをちぎったワイシャツをベッドの上に充て置くと自身のパジャマをつるりと片手で上下に引き抜いて、ブドウの皮を剥くように寝間着を脱ぐ。

星明りの中で軟骨ほどの硬さの狭い肩と小さくても美しい胸を少しだけ光らせた後、今度は羽織ったシャツや床面からきりりと突きあがった両の脚を子ども部屋の茫漠とした宵闇の中へ滲ませて屹った。ボウタイの柄を目視で選ぶことはできない。彼はまたクロゼットのドア内にコロコロとぶる下がった1ダースの蝶ネクタイを次々と小さな親指で出鱈目につまんでみて、感触だけで今夜のコーディネートを決めた。

 

彼はすっかり着替えてしまうと最後に玄関から弱い光の中でもそれとわかるほど良く磨かれた一揃いの短靴を人差し指と中指にひっかけて持ってきた。20秒の後、広大なコバルトブルーに沈むバルコニーに戻った彼は、極小の瞳とまたたく冷たい星たちの銀沙の下、息を細く撚ったきれいな澄んだ小さなよく通る声で歌い始めた。

 

♪果てしなく広がる町から一人離れて

 読み返すあなたの手紙 漂う思い出

 David 私たちはこんなに遠い時間も場所も

 ここへ置いていって静かな微笑みを遠い日々のうたを

 

 どんなにかつらかった日々をあなたは見つめた

 よく笑いよく泣くあなたの話をきかせて

 David 私たちはこんなに近い同じ思いで

 ここで待っているよ聴こえるでしょメロディみんなで待ってるよ

 

 大きな声でさけびたいあなたの名前を

 わたしのともだち David

 

明らかに潤ったやさしい少年の音吐だが、決定的な凛々しいボーイアルトだった。彼は歌う訓練も積んでいたし、生来の喉は広い音域をシームレスに歌うことができた。

いくらかの歌詞が慎ましく、昇華した炭素酸化物のように消えていく。

彼は歌い終え上唇のごく内側を舌先できちんと舐めると、無言のまま彼方を見つめた。目を射る光は無く、夜の大気が小さな網膜をじんと覆っている。バルコニーの大げさなプランターが描くテラコッタの縁に尻をかけ、男の子の匂いのする脚を組みなおし、一口だけガラス瓶から水を飲んだ。

 

弟は脳蓋の中、大切な上級生の少年の右腕を両手でしごくように触れてから頬に押し抱いた。小さな可愛い心臓の鼓動がふつふつと人肌に伝わってきて彼は口腔から溢れるほど充ちた温もりに安堵した。

「雨漏りしてテーブルのスープが飲めないなら、テーブルを動かせばスープは飲めるよ。」

男の子はそう言って笑い、ステージで常に使うため立ったままでも捌けるはずの黒いコインローファを、わざわざ書斎のざくろ色ファブリックの円筒スツールに尻を落として履いた。彼のコーヒー色に透けたタイツの両の膝が光っている。靴の履き口から、柔らかい少年の爪先が右…左とトゥの内側へ滑り、ハニーサックルの微香を帯びたソックスの音をすっ、すっと逃がした。

広大な書斎の床に穿たれたステアケースのガラスハッチには、クリアな天窓から星々のきらめきが静かに落ちている。ガラス音をなるべく立てずにハッチをあちら側へ押すと、彼はくぐるように身を滑らせながら屋外の階下へぱちぱちと澄んだ靴音をたてて降りた。20段ほどもある階梯の最下段の床には、白濁した小さな長方形のライトタイルが2枚、ぼんやりと鈍い光を放って待っている。プライベートの車寄せらしいその屋外には、あらかじめ薄い白味のかわいらしい形をしたセダンが1台、彼の到着を待ってすっと停まっていた。

 

 

♪遠い日にそよ風をはらんだセイルは破れた約束のように

 暗礁で音をたててる かすかに…

 

安堵させる悦楽の後部座席へ音もなく身体をもたれかけると、少年はボーイアルトでそれだけを口ずさんだ。

「かしこまりました。アオケンさま。今夜は道がそう混んではございません。」

「ありがとう。それは良かった、ランスロット。僕、大好きだよ。」

彼が運転席の「ロボット」にそう声をかけると、筐体は少しくロボットらしい電子的な声で、「わたしもアオケン様が大好きでございます。」と応えた。このドロイド類をわざわざ少年が「ロボット」と呼んでいるのは、その外見が子供向けに金属的な円筒や円錐を組み合わせてアンテナ的な突起をつけた、単純なカラーコードの艶消しネオンシルバーだったからである。

山の中腹の木々はまだ藍鉄や御納戸色のグラデーションの中に沈んでいる。

それらが眼下の人々の明かりを垣間見えさせながら飛び過ぎて行くのがしっかり遮音に静まった車窓に移ろった。

「ねぇ、ランスロット?カズノリくんの夢の話、覚えてる?」

「夢というのは、主としてレム睡眠中にみられる視覚現象等のことですか?それともカズノリ様の将来等にわたる強い明るい希望という意味でございますか?」

「強い明るい希望という意味だよ。」

「トナミ・カズノリ様の夢はモーツアルトの『魔笛』第2幕の『夜の女王のアリア』を歌うことですが、すでにお身体が大人になりかけていらして歌うことが能わないでらっしゃいますよね?記憶しております。」

「そうだね。前にそのことを相談したとき、ランスロットは何って言ったか覚えてる?」

「はい。モーツアルトの『魔笛』第2幕の『夜の女王のアリア』はアルトからコロラトゥーラまでの音域ですが、配役はソプラノの曲です。と申し上げました。」

男の子は笑いながら、ハンドルの無いダッシュボードが、入り始めた街明かりを反映させているのを見て言った。

「ううん。そうじゃなくって、最後に何って言ったか、覚えてる?」

自動運転の車の進路は市街を抜けて、再び向こうの山の麓を目指すべく入力されている。男の子の頬に街路の淡い灯火が映っては過ぎるようになった。

「…それでは残念ながら、可能な良策はございません。と申し上げました。」

「そうじゃなくって、その一コ前あたりに言ったコトだよ。」

「アオケン様、ワタクシのメモリバンクにある発話記録にエラーは一切認められませんが、『その一コ前あたりに言った最後のコトバ』というご指示は論理的に矛盾を含みます。」

男の子は幸せそうな11歳の笑みを浮かべながらロボットの音声センサに言葉をかけた。

「覚えてなくたってイイんだよ。でも、ランスロットの話のおかげでカッちゃんの夢を叶えてあげられた。本当にありがとう。ランスロット、本当に大好きだよ!」

「アオケン様、わたくしもアオケン様が本当に大好きでございます。」

 

 

少年たちの高低に別れたステージ隊列の中央で、アカツキ氷菜音(ひなね)がほとんどディジタル色やロリータ臭を感じさせない、クラッシック寄りの発声で歌いだしたとき、通常レパートリーの音取りや自宅練習のためにCDや送信のガイド・テープ(21世紀の今、もはやポリエステルテープに録音されているものではないが、録音された楽曲を慣習的に彼らはそう呼んでいた)に合わせて歌う日常の少年合唱団員たちは、ほとんど何の躊躇もためらいもなく、MIDI音源や音声合成ソフトの歌声に合わせて通常のボーイソプラノの合唱を繰り出し始めた。

「たぶん、おそらく日本で最初にバーチャルシンガーと舞台で一緒に歌う少年合唱団にキミたちはなるんだと思うよ。」

練習スタジオで新しい楽譜を配りながら、指揮者先生は指導の口火を切った。

「先生ぃ、バーチャルシンガーって少年Vチューバーみたいなヤツ?ケモ耳で変わった色の詰め襟みたいなコス着て髪がパチパチ跳ねてるみたいな?」

少年合唱団員たちはVチューバーの存在自体は知っているようだが、具体的なキャラクターの名前が出てこないところから察して、ボーイソプラノの音声合成ソフトにはあまり興味がないように感じた。

「いや、普通の少女ボカロです。ただ、ロリ系やミュージカル発声のじゃなくて、みんなと同じクラッシック系の大人のシンガーさんのサンプリングということで話を聞いてるよ。」

先生は「大人の」というところを最初「成人の」と発しかけて、小学3年の子にも分かるよう「大人のシンガーさん」、と、言い直した。団員らはレッスンスタジオのダークグレーのスタック椅子に小さな尻を落とし、配られた楽譜をあまり興味を感じないというふうにパラパラとめくって眺めていた。

「今回の伴奏はテープになるよ。」

「先生ぃ、テープになるって、僕たちが歌った伴奏がテープになって売られる…っていう意味ですか?それともただ、伴奏がテープに録音されたものだというイミですか?」

「伴奏がテープに録音されたものだという意味ですよ。」

「それじゃぁ、『今回の伴奏はテープになる』じゃなくって、『今回の伴奏はテープです』じゃないんですか?『…になります』の使い方がまちがっていますよ、先生。」

「ともかくホンバンの伴奏は、楽器ではなく、練習の仕上げの段階から録音された伴奏にあわせて歌います。」

指揮者先生は子供からの語用の誤りの指摘を聞き流して続けた。

「クラッシックの伴奏の場合はフルに近いオーケストラもあるし、本来のVシンガー的なシンセサイザー音源も使われるそうです。みんな、勉強になりますね。経験値をあげる良いチャンスです。」

アルト後列の右端の方で、ちょっとゴツい黒い腕をスポーツ刈りの頭の横に沿わせて挙手している者がある。

「はい、トナミくん。なんでしょう?」

「はい。先生ぃ、この『魔笛・復讐の炎は地獄のように我が心に燃え』っていうのは、誰が歌うんですか?」

身体が熟れてさらに低くなりはじめている6年男子の声だ。

「合唱団ですよ。キミたちの誰かのソロです。オーディションしましょうね。」

「先生ぃ、これ、オレは歌えません。」

「そうねぇ。トナミくんには歌えないねぇ。楽譜をサッと正確に読んで偉いね。」

団員たちはその言葉を聞いて配られたばかりの自分の楽譜の束をばさばさとめくって該当のページを探している。

「一番上は加線3本の上に乗ったファだね。発声練習はしてるけど、普通の子には悲鳴みたいになって、正しい発声では出せない。ボーカロイドにはクリック一つで出せる声だけど、みんなみたいに訓練した少年にも出せるってコトでこの曲を演奏するんだそうです。」

「先生。コレって『夜の女王のアリア』ですよね?オレ、歌いたいです。」

指揮者先生は教育者らしく、やさしい声色でトナミ・カズノリの希望をやんわりと制した。

「トナミくん、キミは3年生ぐらいの頃『魔笛』の第3の童子やったものね。でも、6年アルトの今のキミにはちょっと無理しても出せない高さの音だよ。志望してくれてありがとう。あと1年早かったら歌えたね。」

少年は表情を変えず、黙してその悲しい言葉かけを聞いていた。彼の1列前の椅子に慣行から背筋を直立させて、教師の方を注視し、やりとりの一部始終に聞き耳をたてていたアオケン少年は、口から消化器官がせり上がるような悲嘆を感じた。

 

 

「ねぇ、ランスロット?カズノリくんの夢って、知ってるでしょ?」

ロボットは微妙な個人情報を参照しているのか、少しくタイミングをとって答えを返してくる。

ライトパープルのグラデーション。真夜中、少年にノンアルコールだが素敵な夢を見せるカクテルを売る星の酒場のようなところ。11歳の子供には十分高いバーカウンターチェアーによじ登るように腰をかけ、アオケン少年は傍のロボットに変な焦点の目線で話している。ワイシャツが綺麗な折り目をアメジスト色で染まった背中に光らせ、トランスルーセントなカウンターテーブルの下で、だらんと下がった80年代ふうのスクール白ハイソックスの両脚が暗がりのグラデーションの中へ沈んでいた。

「それは、あなた様をお嫁さんになさることですね。」

「うん。それもそうなんだけど、先輩が今、たぶん悩んでるのは今度のレパートリーで『夜の女王のアリア』を歌いたいってことなんだ。」

「…アオケン様。モーツアルトの『魔笛』第2幕の『夜の女王のアリア』はアルトからコロラトゥーラまでの音域ですが、配役はソプラノの曲です。」

「知ってるよ。僕も先輩もアルトだから、ホントは歌える。合唱団ではアルトでも全員ソプラノの高さはカバーするし、ソプラノの子も低い胸声を歌う訓練はする。…でも、今はちょっとムリかな。」

「それでは、声域的には無理ではアリマセン。」

「声域の話じゃないんだ。ランスロットには夢はないの?夢を見ることはないの?充電モジュールの超伝導パッドの上に腰掛けて明日のみんなの笑顔をピーカンの空の下へみたり、僕たちがファイアーキング・ダイナーでダブルダウンサンドやルートビールをオニオンリングと一緒に飲み食いしているテーブルの端で『いつか自分も加賀協太朗くんやアオケン君と一緒にPB&ジェリーサンドイッチを食べながらぬるいアリゾナを飲んだりしたい』と思うことはないの?カズ君には夢があるんだよ。前からいつか『夜の女王…』を♪ハハハハハハハハ…って歌うことがカズくんの夢だったけど、カズくんは身体がもう熟れてきちゃったんだよ。歌えないんだ。」

「それでは、代わりにアオケン様が『夜の女王のアリア』を歌って、トナミ・カズノリ様へプレゼントで聴かせて差し上げてはいかがでしょう?」

アオケン少年はがっくりと悲しそうに肩を落とし、それでもニコリとして礼を言った。

「ランスロット、どうもありがとう。そうだね。それは良い考えだね。」

ロボットはこの言説を字句通りに解して言葉を返した。

「どういたしまして、アオケン様。お役に立てましてサイワイです。」

 

 

今回のアカツキ氷菜音(ひなね)と少年合唱団(彼らはどこぞやの大所帯な児童合唱団から男子団員だけをこの企画のため即席にピックアップして集めたものではなく、普段からボーイソプラノを陶冶してグランドオペラ・室内歌劇等の少年役やチャーチクワイアの要員として歌えるようスタンバイするセミプロのボーイソプラノのみの児童合唱団である)のコラボは本邦初の試みということだが、歌あり踊りありのにぎやかな企画で、上演時間はあっという間に過ぎたと言える程の盛り沢山に充実したものだった。アカツキ氷菜音(ひなね)の集客はバーチャルシンガーの趨勢のファン層に準じてジェンダー的に偏りはあるが、彼女の設定のコンセプト的な堅実さは客層にも微妙に反映されており、これをクラッシック系のボーイズクワイアーの客層とタッグさせる試みは盛況で見事に結実したと考えて間違いない。

なかでも大小の2名の少年がステージ狭しと踊ったサルサが目をひいた。MCの団員が「コーンチップスやタコスに付けるソースではありません」と紹介したのはさすがにちょっと引いたが(少年合唱ともVアイドルとも、このダンスの見せ場は大きくかけはなれている!)、そのせいか背筋が通ったパートナーを尊重した大人顔負けのカッコいいサルサは目が覚めるような意外性を観客に与え圧倒させられた。考えてみれば合唱というのも、良い姿勢を保持しながら何十分間も歌い続けるのであるから、高貴で優雅…というよりはクラーベのこきみよさをきりっとした姿勢で踊りぬくサルサは彼らが日常鍛えているものを生かす良い見せ場だったのかもしれない。子供とは思えぬステップのキレやハードなエレガンスは気持ちよさげ。ステージの広さを全く感じさせずにあのコンパクトな身体をひらりひらりと伸展してゆくサルサの炎舞は忘れることのできないエキサイティングなひとときを届けてくれた。ダンサー君たちに拍手!

(少年踊り手:相模リヒト/中梅煋次朗)

 

 

左側の男の子の左手からぶる下がった特急電車柄のキルトバッグ手提げから、大判図書の『アンブロースのトバ・カタストロフを生きのこれ』という物々しい表紙の文字が半分覗く。

かばんの角がケーキのショーケースにトントンと触れそうだ。ガラス板一枚隔てたウィスコンシン氷期の夕涼みのようなアクリル棚に、並んだカシスと洋梨ピュレのミニドームが、彼のカバンの揺れで時々遮られ見えなくなっている。

2人はニコニコと無言のまま、ケースの中をそれぞれ安寧に見晴るかし、背の低い方の少年は彼より15㎝かそこら長身の同じように真っ黒い顔で坊主っくりの子の左手をぎゅっと握りしめた。

「おまえ、ナポレオン好きだよなぁ。」

愛の告白のように下級生へ言葉をかけた兄貴分の言っているナポレオンというのは、ボナパルトという名のコルシカ系フランス人でもなければ、よくありの「ナポレオンパイ」のことでもなく、26㎝ホーローボウルにチョコ生地を塗り伸ばし、これでもかというマウントのフレッシュ・フルーツをこってりしたクリームで満たし逆さにしたようなホールケーキだ。当然のことながらその切り口には万華鏡のごとくきらびやかで汁漏れの無い果物の切片が覗き、さしずめお菓子のナポレオンともいえる威風堂々荘厳な趣だ。

「ね、『イエス、わが喜び』のフーガの練習って、いつやるの?」

30年戦争の頃の代表的なドイツ・コラール。JSBのモテット。それをおびただしい色とりどりのケーキの洪水の中で話している。ドイツの音楽である。きょうのおふた。

「BWV227?自分でやんじゃねぇの?」

「ううん。合わせるの。BWVって、下着のパンツ作ってる会社の名前だよね。」

「そうだっけ?」

おそらくそれはB.V.D.だ。B以外は2文字も違っている。昭和半ズボン制服の少年合唱団。舞台袖支援の高校生OBたちに指摘され、対処によっては太ももをパシッとひっぱたかれながら、ボクサー下着の両の裾を半ズボンの下から見えぬよう慌てて折り上げている団員たちの姿をさんざん見てきたこの2人は、合唱団の出演のある日は学校で低学年の水泳にあてがわれていた黒いヒモフンドシをしめている。

「そんなの小っちゃすぎてサイズ駄目だろう。」とOBはいなすが、「水着と違ってひもを結んでるだけなんで、まだまだイケます。最近はカタ結びしてて、足を通すだけなんですよ。」と簡便さを強調した。それでも「ハミちんしねぇか?」と押し込むOBに「オレら、パイセンたちみたいにちんちんデカくねぇんで、全然平気でやす。」と返している。彼らはそもそもイベントの会議室のようなところで荷物を広げることもままならぬ更衣を声も音もたてず短時間に終えることが日常だったので、ともかく出演時は機能性と機動性、体温発散だけが肝要な、「短く、薄く、タイトで、着脱容易(だが、ガイケンはフォーマル)」な衣装と通団服をまとっているのだった。

「ねぇ、タツ君、ケーキ、なヵ、2つじゃダメ?」

5年アルトが6年アルトの左側腕へ彼のほとんど無いもみあげ(男の子は執拗に伸びてくるモミアゲを見栄えから残そうとする1000円バーバーのおばちゃんにいつも抵抗して短くしてもらっていた)をさらさらと阿(おもね)って、ねだるような11歳男子の声をケーキ屋の奥へ発した。

「ダメだろ。」

「なんで?」

「きれいで甘そうな幸せいっぱいのケーキを食うのは1回に1個と決まってる。」

「なんでだよ!?」

「なんでだと思う?」

「先輩が1個しか食べないから?」

「ばーか!俺サマのせいにすんなよ!」

「じゃ、エシレのバターケーキには、ここのケーキ何個食べてもかなわないから?」

「おまえ、帰れ!お店の人に失礼だろ?結婚は考えなおす。」

「ゲッ!いっつも最後にはソレじゃん。卑怯者!」

いかにもパティシエの妻でございますというデザインのフリルのついたエプロンを着た若女将らしき店員はショーケースの奥で大笑いである。アオケン少年の姉は大学の漫画・アニメーション実技演習の授業で今年はBL漫画の作画に取り組んでいる。兄弟はおろか両親にも少年合唱団のトナミ先輩との婚約を告げている弟は、ストーリー小物やポーズ作成の格好の材料だった。

「ねぇ、トナミ君に壁ドンされて『次はいったい何をされてみたいんだ?』ってすごまれたら、なんて答えるの?」

「されたことないもん。壁ドンなんか。」

「されたとしてよ。例えば『僕を自由にして♡』とかよ。」

「んじゃ、『ボクを栗ヨーカンにして』?」

「食べてもらうワケか?やや萌えかな。」

「もらわないよ。先輩、栗があんまし好きじゃないの。知らない?。もさもさするんだって。」

「いや、だからなんとか萌え要素満載でお願いしやすよ。こちとら単位も卒業もかかってんだから!」

「だって、壁ドンされたこと無いもん。第2メゾソプラノの中梅くんなら先輩に『このジャイアンものけぞる野蛮な巨大クソ黒ゴリラ!』って言い放って、トナミ先輩から練習場の壁へ追い詰められて壁ドンされてた…」

「だから、ギャグ漫画じゃ無いんだってばよ!はぁ。」

前世紀だったら「そんな収入も安定しない仕事しか来ないようなコトを大学でやるな」と親に言われたろうが、今や一転して「なんでもいいから手に職を」の大学生活だ。ちょっと煽情的なポーズのモデルをやってくれと頼まれ、彼の許容範囲であればクグロフやケーキのお駄賃につられてやってやったりもするのだが、さすがに坊主頭へウイッグを付けられ、「19世紀フランスのアルルの寄宿学校で、マルセイユの富豪の家に生まれ、なぜか両親には顧みられず、野生児のように育った男の子から身体を売ってくれと求められたジプシーの少年みたく、ベッドの中で髪をふり乱して悶えてみて。」とリクエストされてからは「いったい、大学ってところは何の勉強してんだ?」といぶかりながら、前もって設定をしっかりと聞きとってから仕事を受けるようにした。本日ケーキ屋へ先輩と参上したのも、婚約者と自分と姉の分のケーキを『板張りのゆかで筆を立てて浮世絵を描いてる少年時代の喜多川歌麿』のポーズをとる対価としての報酬を得たからだ。「少年時代の喜多川歌麿って、おじちゃんたちに身体を売ってお金をもらっていたのかもしれない」という嫌ぁーな気配はしたが、猫ちゃんあくびポーズで絵を描いていること自体は実に健全なものだったので、合唱団から帰ってきたばかりの通団服のままリビングの床に膝をついてモデルになった。

「姉ちゃんの分まで選べって?」

「うん、なんでもいいみたい。あの人、Z世代で特に好きなケーキってのも無いみたいだし。好き嫌い無く何でも食べるよ。」

「おまえみたいだな。」

「一応、姉弟だからね。」

アオケン少年は小さな締まったおしりをぴょこぴょこ左右に振りながら、また、ショーケースを左右に一覧した。赤・白・グリーン・オレンジにチョコ色、お星様を散らしたラピスラズリやちょっとアメリカン・ポップなターコイズブルー、フルーティーな黄色や青磁色やピンクが目にまぶしく食欲をそえる。一番左の刃が新幹線700系先頭車の形に切れ込んだペストリーフォークをケーキスプーンに持ち替えて、色とりどりすくって食べたい。

「ケーキ代の中に『選び賃』も入ってるらしいからねー。」

ケーキを買いに来たのではなく、鑑賞して選びに来たといった方が良さそうだ。

「こんなの、どうせ成分表はここに飾ってあるの全部、脂質と炭水化物とタンパク質、それに味付け程度の塩なんだぜ。水分もあるか…。ソトミは色いろあって、味は甘みと酸味とキャラメルやグレープフルーツみたいな微かな苦みと…、でもナカミはどれも同じようなもんよ。」

6年アルトはそう言っておいて、心の深層世界では「こんなこと、言わなきゃよかった。」と即時に後悔した。

「いいんだよ。先輩も僕も同じ男子小学生で、血や肉や同じような成分でできてて同じようなクラッシックのアルトの発声で歌う。だけど、カズノリ君は日本一のボーイアルトで、僕はその次点のボーイアルトになりたくて、僕みたいに先輩の声を聴いてると世界一シアワセな気持ちになる人もいれば、先輩みたいに僕の声を聴くのがエクスタシーだっていう人もいてくれる。僕も先輩も真っ黒々の顔と肌で坊主っくりだけど、僕の見た目をBLマンガの作画ネタにする女子大生もいれば、先輩をジャイアンゴリラだっていう愉快な4年メゾだっているんだよ。外目もあっていいんじゃん!」

シシリ産ピスタチオムースとミルクチョコ、シュルレアリスムのオブジェのようにクレセント型に形成し、ベリーとピスタチオひとかけとオレンジピールと小さな星のマジパンの4つだけ置いたシシリーケーキ。赤ブドウのゼリーを含ませて、マンレイの涙のプリントのように2つのクリア・ゼリーと小さなハートを濃さげでマットなクリムゾンのゆがんだ直方体の上に載せたような「リヴァー」。チョコクリスプの上に浮いているパッションフルーツのムースをホワイトチョコの惑星の外殻に閉じ込めて、最後にチョコの三角片が刺さったの。名前は「ダイソン天体」。

「よく来てくれるカッコいい坊やたち、お姉ちゃまにプレゼントするケーキは、そろそろ決まりましたか?」

若女将がいよいよ彼らにつきあいきれなくなったらしく、食傷気味に尋ねた。

いささか場にそぐわない子どもっぽい所作だが、アオケン少年はショーケースの前で胸いっぱいの深呼吸をした。幸せな甘い感無量が彼の11歳の胸腔をみたした。

彼の所望するガトーの候補はこの時点で3つあった。まず、メタリックスカイブルーでコーティングされたメタルスライム状のドラクエスフレ。それからアオケン少年の好物ナポレオン。あとはラリックのオパレッサンガラスのような層がコティーの香水瓶のようにたっぷり載ったオレンジゼリーケーキ。

とはいえ、5年生はいよいよお店のお姉さんに注文を繰り出すタイミングで、突如ショーケースの左最下段で売れ残っているような印象の1ピースに目が行って、

「こっちの一番下の黒いのを1つください。」と指定した。

トレーを持ってケーキトングを右手に輝かせた店員は、かがみながら「これですね?」とガラスケースの底の1きれを奥に引いた。隅っこのそのスペースにはケーキが無くなり、彼女は当然のごとく前方へホルダーに刺して立てられていた品名カードを後ろに下げようとした。

少年たちの視線が、初めてその札をとらえた。そこには小さな品名とともに価格や大雑把な材料や横文字がごちゃごちゃと記されていて、その瞬間まで一見してほとんど気を引かなかったからである。

夜の女王Queen of the Night /ダークチョコにマルベリー・バイオレットの豪奢なバラの花』と取り澄ました字体で記入されていた。

アオケン少年はすぐに「これ、もう一つ無いんですか?」と尋ねる。

凛々しい歌を歌う少年だが、彼は躊躇も疑いも無い明るい声で店員の返事を待たず傍らに立つ6年生へ告げた。

「お兄ちゃんの買うケーキと、僕の買うこの『夜の女王』、交換しない?」

「値段が違うし、それは多分売れ残りだよ。」

男の子は兄の目をしっかりと見つめて応じた。

「僕たちのために、ココへ1個だけ残っていてくれたんだよ。アオケンくん、ようやく来てくれたんだね。まちくたびれたよ…って、残っていてくれたんだよ。」

「俺のレッドベルベットケーキに乗った『ハレ―すい星』とおまえの『夜の女王』を交換するのか?…なんで?」

「僕はカズノリ君の歌う夜の女王のアリアがどうしても聞きたいんだよ。カズノリ君は歌いたくないの?♪ドドドド ドドドド ファー↘ ララララ ララララ レー↘」

店員は気を利かせて、『夜の女王』を違う紙箱に下ろしてドライアイスを添えはじめた。

 

 

♪緑の森よ 我は歌わん

 なれはこよなき我が憩いと

 

相模リヒトは、ニューヨークのサブウェーダイナーには明らかに不釣り合いなメンデルスゾーンを歌っているところだった。しかも、おそらく十分にメロウな歌いぶりで、一人で歌っているにしては、その単音の鳴りから甘いジーンと響くような倍音が聞こえてくるような気配。赤いプラスチックバスケットへこれでもかと盛られたフライドポテトにエッグ&チーズ・コンビーフハッシュサンドがひっくり返りかけたマスタードソースのミニカップとともに隣のキッチンからボールルームへ出ていく匂いがしている。ポットのホットコーヒーは必需品だ。

「アオケン君。このレクチャーが終わったら、相模リヒトとあっちでチリコンカンにスパイシードッグを食べて帰りなさい。飲み物はダブルストレングスのレモンスカッシュがベストチョイスだナ!」

ホットドッグの話題が出たというのに、いろいろなシロップやハチミツや甘味がどっさりかかって歯がぐわんぐわん痛くなりそうなメンデルスゾーンは、まだ終わる気配すらなかった。

 

♪長き冬の日 嵐にめげ

 梢は寒く雪を呼べど

 春風吹けば 蘇りぬ

 

「メモしなくていいのか?覚えられるのか?繰り返すが、呪文の効力はその日の真夜中に切れる。シンデレラと同じだ。ガラスの靴を階段に落っことしても、ストーカーまがいに王子様が探し出してくれるオプションは無く、カンペキにそれぞれ元の人間へと戻る。」

呪文の文句は日本語でも書きとめられそうなほど単純に思えた。

様々なことが予想外だ。呪文を教えてくれたのは、とんがり帽子をかぶった1万4000歳ぐらいの鼻の曲がったおばあちゃんとか、ロンやハーマイオニーをねちねちイジメる見た目陰湿そうなよその学寮の寮監とかではなく、お腹がちょっと出っ張った、民主党支持のイタリア系アメリカ人の中年のおじさんで、この現役魔術師の人間界の職業はダイナーの主人だったこと。

「何か道具は使いますか?例えばスタジオ・ツアーで売ってるボルデモートの魔法の杖とか…」

魔術師は黒板の文字をイレーサーで消しながらあっさりと言った。

「いや、何も必要ない。強力な呪文だから、道具なんて景気づけの飾り程度のものだ。」

ココでようやく『緑の森よ我は歌わん』を歌い終えた相模リヒトが、

「強力な呪文って、どんなに強烈?」と話へ復帰した。

「さっきも言ったとは思うが…いや、言い忘れたか?これで確実に人体交換されるが、交換に関わった者には二度と同じ呪文が効かない。一生で一度きりだ。」

日本からやってきた子供は二人とも面食らって言葉が出ない。「やはり自分は言い忘れたのだ」と男はその反応を見て確信した。

「…じゃあ、交換の相手の名前を言い間違えたら、もう一生、2度と人体交換の魔法は自分には使えない?」

「そういうことになるな。もともと普通の人間には生きているうちに人体交換なんてことはできないわけで、そう思えば言い間違いもあきらめがつく。」

相模リヒトはもう習い聞くべきことは何もないと、男の言ったホットドッグのことに頭が行っている。そういえばここに来てからひと口も飲み食いしていない。

「じゃぁ、しっかり練習してリハーサルしてからホンバンの呪文を言わないとネ。」

男は能天気なように見えて、この発言にはすぐさま難色を示した。

「ダメ!だめ!呪文に自分の名前が入っていれば、キミはもう一生涯交換の能力を失うんだ。名前を言い間違えないように、ここぞっていう時だけ一生に一回だけの呪文を唱えるんだ。練習もリハーサルも危険すぎる。おすすめしないぞ。」

「経験者は語る…ですか?」

魔術師は笑いながら応えた。

「いや、私も怖くてこの呪文を使ったことはない。」

アオケン少年は眉間にカフェモカ色のシワを寄せて相模少年へ不安に満ちた目くばせを送った。

「いや、大丈夫。長女が妻と人体交換して無事に復帰している。すばらしい1日だったよ。娘が成人の祝いをその機会の無かった妻にさせてやったんだ。」

詳細な事情はよく分からなかったが、この呪文を使う適切なシチュエーションは雰囲気として理解できた。

 

♪緑の森よ 我は歌わん

  汝はこよなき我が憩いと

  小暗き森の 樹々は繁り

  強き真夏の 陽はおごれど

  梢を延べて木陰なしぬ

 

 

 

「先生ぃ、サルサってナチョスとかタコスにつけて食べるアレですか?」

「あー!国際通りのタコス店の?」

「なヵ、辛いのチョー苦手なんすけど…」

「合唱とタコス、全然関係ないと思うんですが…」

「先生ぃ、やっぱ、食べなきゃダメ?」

「渋谷のタコベルだとワカモレやサワークリームとかチーズソースとかもあったよ。」

少年合唱団の練習スタジオにはいつものごとく小学校高学年男子達の勝手気ままな話し声、嬌声やしゃっくりが満ちていた。

「いや、きみたち何で今、タコスの話をしてるんだ?」

「先生はパリパリのとふんにゃりしたのとどっちが好きですか?…まさか両方?」

「僕、沖縄の金武町のタコライスのお店行ったよ。お父さんが帰りに道、間違えて米軍基地の中に入っちゃって…」

「アーうるさい!全員黙れ!口を閉じろ!…バレエできそうな釜谷くんはサルサはどうなんだ?」

「うーん、ハラペニョとかはちょっと苦手なんで…」

「ハラペニョ関係無いだろう?じゃ、前任者のアオケン君は?」

「はい。僕は火の通ったレバー以外は一応なんでも食べます。」

「いや、食べ物は置いといて、サルサを踊れるかどうか聞いてるんダヨ。」

「先生ぃ、サルサっていうのは踊るもんじゃないですよ。トマト、タマネギ、唐辛子なんかをパクチーといっしょに刻んで塩で混ぜ合わせたのに、ライムとかを絞って深い小皿に入れて作るメキシコお薬味のソースなんです。どこのスーパーにも瓶入りとか、チューブのもあるし…」

「はぁ、ダメだこりゃ。わかったから、この中でサルサを踊ったことのある少年は全員黙って手を挙げろ。」

子供達は練習場のスタック椅子の背に背中を当てて伸ばしながら、眼球を左右にずらし口唇を変な形につむり黙っていた。

「先生ぃ、セブンのタコス・サラダ・スパゲッティって、冷たいままでけっこうイケますよ。」

皆の沈黙の中、梶原朔太郎が4年メゾの声でボソリと言った。

 

 

コスモ・ジュエリーの店頭には、レッドカラントとピオニー、後からやってくるラム酒とマルサラのペンダントトップやリングの香りが漂っていた。

碧い薄明の店内に様々な煌びやかな香りと固形や雲母カプセルに充填されたスイーツたち。キャンディーチェーンの思い出のブランコ。階上へと開いた大開口のフルオープンのウォール・グラスの向こうには、酸化水素を湛えた天盆が空いっぱいの星々をそこに落としている。

アオケン少年はそれらの芳香に負けないくらい、傍の6年生が放つ大人びた熟れた男の子の匂いを小さな鼻腔から気持ち良さげにすぅとかぎとった。

「アップライトピアノがあるの?」

少年は初めて店へ足を踏み入れたとき、フロアに伸びた赤スグリの、ワイン色に染まるカーペットの上でランスロットにそう尋ねた。

さすがの随伴ロボットも甘い宝飾を売る店になぜアップライトがあるのかのデータまでは持っていなかったので、近くにいる白い手袋の男店員に耳打ちするかのように声を落として事情を尋ねていた。

「アオケン様。あれはトリニダードのカカオマスで作られたストリートピアノだということです。お客様にはご随意に演奏していただいて構わないと店員は申しておりました。」

トナミ・カズノリは今日は何も甘いものが欲しく無かった。ただ咽頭の天板が濡れるよう、意識して空気に甘く染まった唾を呑んだ。

一方、弟は今日、店の回廊へ品々の輝きを愛らしく反映させる黒いタッセルローファーでカチカチと歩き回り物色しながら、眩しそうな表情で金剛石色のハードキャンディのついた指輪とベッコウ飴のかんざし(ガーネット・ゼラチンの留め具の入ったループ・タイとどちらにするか迷ったが、彼は甘みの強そうに見える方を選んだ)に対価を払い、店員に断って指輪の方からペロリと口の中へ放り込んだ。そのまま二人して大ガラスに牡牛座北流星群を眺めに行って、乳白色に輝く小さな歯列へ当てて音をたてながら金剛石を舐め溶かす。喉を潤した後、戻ってきてランスロットにストリートピアノの伴奏を頼んだ。店の中は少年たちがコメットを眺めに行ったこともあって、宝石達の輝きを低く調光し、照明もインディゴ色に深くしぼって店内を薄暮に閉じていた。

 

♪Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen,

 Tod und Verzweiflung flammet um mich her!

 Fühlt nicht durch dich Sarastro Todesschmerzen,
 So bist du meine Tochter nimmermehr.

 So bist du meine Tochter nimmermehr.

 

風雲急を告げる前奏の16分音符の連打。弟は極めて正確に休符をかましラの音をタタタと踏んだ後、アレグロ・アッサイの咳き込むような歌を繰り出した。カカオマスの上板に映り込んだ彼のしっかりした肢体の背後で、ランスロットの円錐の頭に遮られることなく、上級生の少年の肩が少しく揺れている。彼の歌声はもちろんゆるく聞こえてはいたが、控えめだった。アオケン少年の声をしっかり聞いておこうとしているのだ。兄が目前のこの美しい少年の肉体へ蛹化し、正しいピッチとテンポの保持だけでなく、また自身の情念もこの姿を借りて歌わなくてはならない。弟が自分のために、全精力を注ぎ徹底的に歌い込んで、「夜の女王」ソリストの座を勝ち取ってくれたことは痛いほどよくわかっている。オーディションは最終選考まで、兄も同席する合唱団の通常の練習スタジオのグランドピアノの脇で行われたのだ。

「無理するなよ。僕のために声を潰したりしたら、僕は僕を決して許さない。」

テストのため招集された数人の少年たちがピアノの傍でブレスを落とす間、トナミはやってきて、アオケン少年のまばゆいばかりの両肩へ声をかけた。

「大丈夫。練習は無理なく繰り返してここまで来た。カズノリ君のために僕は必ず夜の女王になる。この曲で女王が一番パミーナに言いたかったことは、『お父さんを殺してしまえ!』なんてチンプでツマラナイことなんかじゃない。」

「そんなこと、わかるもんか。」

「ううん。僕はこの曲を何百回と心を込めて練習したから、わかった。」

「練習で?」

「この曲にはコロラトゥーラの超絶技法の箇所が2つある。お客様に一番聞いてもらいたい2つの聞かせどころの歌詞は24小節目の終わりのSo bist du meine Tochter nimmermehrと、69小節の一番歌い難い3連符から始まる高い声のBand。…意味はそれぞれ『親子の縁はこれっきり』と『親子の絆』という意味のバンド(絆)っていうところ。」

「それがモーツアルトの言いたかったことなのか?」

「そうだったよ。『パパなんかどうでもいいから、あなたはいつまでもお母さんの大切な人でいて』なんだ。」

トナミ・カズノリはそこまで聞き、ようやく弟が自分に何を伝えておきたかったのかを理解した。

「わかった。ありがとう。おまえは必ず合格して夜の女王になる。保証する。」

アオケン少年の返答を遮るようにして、オーディションの開始を告げる担当指揮者の声が発った。

 

♪Verstossen sei auf ewig und verlassen,

 Zertrümmert alle Bande der Natur,

 Wenn nicht durch dich Sarastro wird erblassen!

 Hört Rachegötter! – Hört der Mutter Schwur.

 

コスモ・ジュエリー店内のストリートピアノ。 

1小節の中に15個も音符が繰り込まれて鳴る雪崩のような後奏だが、ロボットの運指は決して駆け込むことはない。最後にラドレの和音がランスロットの銀色の指の下から鳴ると、2人の少年は楽譜の指示通りガサリと下を向いて息を吐いた。

「ありがとうランスロット。」

「じゃ、ホンバンこれで行こう。任せたぞ。」

「何言ってんだよ。ホンバン歌うのはカズくんなんだよ。」

彼らは少しく状況の発生に混乱した。

「違う。歌うのはあくまでもお前なんだ。そうだろう?お客様が聞くのは声の熟れる前の5年アルトの美しく雄々しい声なんだ。」

「でも、それを歌うのはカズくんなんだよ。」

心地の良い匂いはアオケン少年の口元に発つダイアモンドのクリアな殘り香か、それともカフェモカのネックレストルソにかかったグリーンのペパーミント首飾りのラストノートか。

「ロボットのわたくしには、現在の状況は極めてわかりかねますが、非常に技巧が求められる楽曲でもありますので、お二人で歌われてはいかがでしょうか?」

2人の少年たちは虚を突かれたように互いを見合って合点した。

「ありがとうランスロット。」

アオケン少年は先程と全く同じ心からの礼の言葉をもう一度ロボットに返した。

 

 

白無地で胸にプリーツ飾りのついたタック・ブザム。 白麻のポケットチーフ。 ラペルのはざまに覗くのは、もちろんブラックタイだ。身長差20センチはありそうなメゾ6年の相模リヒトと4年の中梅煋次朗がそろいの黒タキシードに身を包み、側線黒パンツの両足をスッとステージセンターややカミ手に統べたかと思うと、音楽が鳴ったとたん下級生の身体が地球独楽(ゴマ)のごとく猛烈な勢いで自転しはじめたのを見て、客席はもちろん、ステージ袖に待機した合唱団員たちは全員目をむき、息をのんだ。

少年らはもちろん選抜団員のバックアップに備え、本当に初歩的なサルサの基本ステップを半ば強制的に体験していたが、なかでも今、一番驚愕して団員らの人垣の中で大人気も無く口をあんぐり開けていたのは、彼らを指導したはずの南米人インストラクターと通訳兼任の女性ダンサーだった。

「すごい…。オレ、頑張ってもあんなには踊れない…」とインストラクターが珍しく流ちょうな日本語を口走ったので、周囲にいた者たちはちょっとだけ吹いて表情をくずした。相模は精悍な少年のヒップをラテンダンス独特のタメでぶるっと振ったかと思うとエロティックに腰回りをドリルし、女役の中梅は上級生に抱き留められたままウインクしたり投げキッスをしたりしている。プエルトリコ、コアモの激しい音楽の降り注ぐ中で、観客たちは呆然としながらもやがて体でリズムをとり、手拍子を送る者もたくさんいた。

「…信じられない。中梅なんか、最初、サルサとトルティーャチップスの違いもわからなかったくせに…。」

「あいつ、いつの間に練習したんだ?」

練習など殆どしていない。皆と同じように、基本中の基本のステップを簡単にたしなんだ程度だ。

驚愕する合唱団員たちの中、アオケン少年だけが祈るようにステージ中央を凝視していた。彼の心中は「呪文の効力が薄れ、消えませんように。」だけ。本来、彼よりもそれを祈ってしかるべき相模と中梅(…と入れ替わっているインストラクターに見える2人の大人)が、ステージのサルサの大熱演の踊りっぷりに熱狂して、「しめしめ、うまくいった!」の大満足に大盛り上がりである。ストップウォッチを左手に握った合唱団のマネジメントスタッフが、曲の山に近いタイミングを時計で確認しながら、比較的大きな声で「6!5!4!3!2!…」とカウントダウンしたかと思うと、両袖の少年たちに「はい、出て!Go!Go! Go!Go!」とキュー出しし、先頭の4-5名の子が先に走り出て手招きすると、弾かれたように彼らは大げさな手拍子をしながらステージへ駈け込んで踊りまくる2人を遠巻きに取り囲んだ。(あまり近くに行くと、情熱のダンシングにぶつかりそうだったからである)

子供らは殆ど意識しなかったが、周囲の子らにつられて本来は曲が終わった後、キューがあるまで袖待機だったはずの2人のインストラクター(に見えるナカミは相模と中梅)も一緒に姿を見せ、威勢よく拍手をしている。躍り出た少年たちは、タキシードをヒラヒラさせて演舞する2人に大声で「バモス!バモス!」「ダーレ!ダーレ!シニョーレス!」と声掛けし、オペラ子役仕込みの大仰な演技で跳び回った。

威勢づいたダンサーたちの演技はさらに白熱し、相模リヒトは4年生の身体を横抱きにリフトしたかと思うと、まるで腹帯を締めるがごとく脚をエロティックに交差させる中梅を何回も腹の周りに転がして腰を低めた。片手を繋いだままくるくると2人が回転したり、中でも電車ごっこのように上級生の肩に手をかけて中梅が股間を揺りながら撫でる場面はお客様も大興奮。下級生はそれだけでなくのけぞって頭をステージ面スレスレに回したり、胸をツンツン突き出して挑発したり、激しく踊りながら二人揃って客席へ手拍子を要求したりと大立ち回りだ。途中、ソロの踊りをそれぞれに展開したかと思うと、急に抱き合った二人が相模の頬を軽く平手打ちし、最後は下級生が6年メゾの腕の下で、テクニカル・ピッチのボールに発狂したかと思われる回転数をかけた自動旋盤の主軸台のように回り、サドンデスに、腰を抱かれた煋次朗が大きくのけぞりながら4年生の脚を「女」という漢字のカタチにしてダンスを終えた。彼らの演技のフィニッシュはバックに流れたウィリー・ロサリーオの『ジュビア』のエンディングにピッタリと合っている。合唱団の指導者達も団員たちも、「小学生の少年合唱団員に5分間ほどの激しいサルサ・ダンスを踊らせる」という企画がいかに無謀でありえないものであったかを感じ背筋を凍りつかせた。

2人の少年たちはステージ中央で繰り返しオベーションに応え、6年メゾが4年生の少年を抱き抱えたかと思うとロケット発射よろしく投げ上げ、黒パンツのふくらはぎのあたりをしっかりホールドしている。身長の2倍ほどの背丈になった中梅は、自由になった両手を弓形に大きく振って客席の拍手に応えている。壇上から客席を煽って二人への賛辞を求めている。

ステージのカミ手で拍手をしながらアオケン少年は真顔に戻り、次は自分たちがこの呪文で人体交換するトナミ・カズノリに一瞬目配せのように視線を合わせた。

 

 

「本当にいいのか?」

何を今さらと5年アルトはトナミ・カズノリを上目がちに見上げた。

「相模先輩と中梅くんの入れ替わりを見たでしょ?」

アオケン少年が留意しているのは、6年アルトの立ち位置へ自分が確実に入り、舞台袖や終演時に「トナミ・カズノリ!」と呼ばれたときに自分が返事をすることと、先輩に化けたまま自分は「小5になっている先輩」を引き連れて自宅へ戻り、お泊まりに来た6年アルトを演じることだ。

サルサの状況を見ていたので、交換が体の特性や身体としての能力は肉体のまま、外面的自己認識の心だけが入れ替わることは確認できた。だが、自身の想う人の美しい体へトナミ・カズノリが入り、この体躯へ下級生のあの美しい心が入ることなど許されても良いのだろうか?

インターミッション後の5ベルが鳴り終わった。

いつものステージの、いつものスタンバイ。

2人はそそくさと組まれ始めた入場隊形から綱元の暗がりへ抜け、互いの体が触れていないかだけを確認した。

アオケン少年が2人のフルネームを告げ、続いて、

 

CAMBIA CORPORUM(カンビアコーポラム)

MEUM CORPORA(メウムコーポラ)

SUA NOMINAVI(スアノミナーヴィ)

 

と澄んだアルトの声で呪文を唱えた。

視点が錯綜したように見え、互いの視力の差が目前をぼかしたり強めたりし、身長差から目線が上下し…だが、それ以外は何も起こらなかったように感じた。

「ありがとうな。ありがとう。」

「お礼は『夜の女王…』のF6の《三点ヘ》がキレイに出せた後に言って。」

6年生が4年アルトにそう言っている姿を見て、スタンバイしたソプラノの子らは少し違和感を覚えた。

「確認!隊列幅はBです。じゃ、入って!」

ステージライトが漏れるシモ手袖の口で、ドアマンの高2の先輩が少年たちに声をかけると、アルト最右翼の子達がコインローファやタッセル靴のつま先の光った利き足を踏み出した。小声で「行ってきます」とゲンカツギで唱える子もいる。

トナミ・カズノリは、もうアオケン少年のことを見なかった。「アオケン少年」の肉体は、心の余裕があれば『夜の女王のアリア』の歌い出しや24小節以降をイメージトレーニングしようと集中していて、それ以外の何も目に入らなかった。山台に乗った少年たちは通常のルーチンで促されることも何かを確認することもなく、到達点上で自然な感じに右向け右をして客席の拍手を浴びた。

 

 

午前0時の邸宅は美しい。

視覚の端へ伸びるガラスウォール。セパレーター穴が美しく、質量感のある打ちはなしをかました筐体が建物の全て。明かりは落とされ、滲むような床照明がワックスで輝くシックなグレーパープルの床の角でぼんやりと光を放っていた。バルコンの眼下、漆黒の本天にあまたのアラザン球がちろちろとまたたき、天蓋にスパタ模様の星々。夜は静けさで充ちている。姉は提出物のパッキングを終え、しばらく前に床へ就いてしまっていた。

静寂な冷たいキッチンに、もはや少年たちの人肌の交錯の気配も、フロアにおしゃれなアーガイルソックスの行き交う薄い闇も、彼らの囁き合う吐息に似た澄んだ香りも残っていなかった。書斎のステアケースのガラスハッチは不用心に開け放たれたままで、夜空にある惑星や恒星や銀河を一つも写していなかった。

指図を受けて一旦自動運転の車をガレージへ戻しにきたランスロットが満ち足りたように高温超伝導の充電ユニットで使った分だけのバッテリーをノイズも無く汲み始めた。

「ありがとう、ランスロット。僕らはちゃんと歌えたよ。」

素敵な夢を見せるカクテルを売る茜スミレ色の星々の酒場。ロボットは2人の少年から夢見心地に言葉をかけられ、「大好きだよ」と言われ、ラベンダーシルバーのメカ頭部の側面に小さなクチビルのカタチで付けられた幼性のアミラーゼやオキシターゼ、グロブリンなどの干からびた酵素の残滓の分析結果をオミットし、記憶メモリーにたくわえた。

少年たちの肉体は、真夜中の南中で既に交換復帰を終えていた。

トナミ・カズノリは、アオケン少年よりも座面の高い80年代ふうのバーカウンターチェアで夜スミレのカクテルを舐めながら、ランスロットを傍に呼び、「アオケンの体も声も、本当に美しかった。俺はあいつになれて、よかった。幸せだった。でも、鏡で見慣れてよく知っているはずだった俺の制服姿…いつも清潔にブラシをかけてるベレーの温かい傾き。頭のてっぺんと右胸の金モールが目を射る徽章。身体によくフィットしたブレザーの前見頃。背中や肩を包みこむ優しいぴったりの服。糊のきいた眩しいくらい真っ白いシャツと飴色に輝くボウタイ。身体に沿って折り目の入った紺半ズボンや膝の裏で綺麗に履きあがったネイビーのハイソックス。ドングリとチャールズⅢ世の5penceコインを穴にはめて、爪先へ電球を仕込んだみたく光るほど磨き込んだローファー。あいつはステージでの俺の姿を、こんなにもまぶしげに高いところへ見ていたんだって、自分で見てはっきり感じてびっくりした。」とささやくよう聴覚センサーへ告げ、音声入力を終えた。

 

 

The following work from :

Wizards of Waverly Place “Quinceañera”

John Adair and Steve Hampson

Disney Channel Aug. 2008.