美しい暦     

 美しい暦     

   Calendario bonito           

 

▲「子供は性別にカンケー無く全員オトナになるんです!そんなのにビクビクしてて、お客さんを喜ばせる歌が歌えますか?先輩、しっかりしてください!」「…わ、わかった。やっぱ、未来から来た子は言うことがスゴイってかオトナだわ。」「何言ってんですか!それ、ほとんど全部、なっちゃん先輩が言った言葉ですよ!『合唱団記念誌』に書いてある!先輩は…はっきりとは言えないけど、これからじゃんじゃん歌って大活躍して、お客さんを最高にハッピーにしていく少年の中の少年になって卒団するんです!」

 

「この電車は、宇都宮発、宙の森センター中央駅行き快速です。次は、長沢浄水プラント。長沢浄水プラント。お出口は右側です。お忘れ物の無いよう、ご注意ください。東急田園都市線へは、この先のたまプラーザ駅でお乗り換えです。This is a rapid train bound for Sora no Mori Center Chuo Station. Next stop is the Nagasawa Water filtration plant. The right door will open.」

ロングシートに電信柱のスズメのごとく着座していた少年たちの一団は、車内放送テープの告げる『えいごであそぼ』MCのような高齢女声アナウンスを受け流して身支度を始めた。と言っても、森村ブラッド満は使い込んだネイビーの野球帽を膝上からはがしとってツバをにぎったまま後頭から頭頂へ覆っただけだったし、山本哲平少年は薄い黒のストッキングの履き口を左脇腿の奥へ引っ張り上げて靴下どめの下にたくし込んだだけだったし、御堂マリオにいたっては、ややぽちゃ気味の胸の前に結んだ両掌を押し上げて適当にノビをしたという程度だった。彼らはいつものように持ち物らしい所持品を持ってはいず、全くの身軽だった。

 

 Tウォーター 長沢浄水プラント

 

鮮やかなラピスラズリのゴシック体切り文字施設銘板が、錆色の丸く細いスチール縦棒の連続した大人の背丈ほどのフェンスへ軽快に掲げられている。何千本という水柱がベラッジオの大噴水ショーのごとく吹き上がり、風を受けて施設の内側へ先っぽを折っているというモダンな意匠である。少年たちはそれをお尻で読みながら、背中からヘアライン仕上げのステンレス門柱の間を通り抜けた。内側に見て鏡文字になった英語表記側の銘文をこなれた発音で「トキオー ワラウァークス ビュローゥ! ナガサーワー フィルテレィシン プラント!」と御堂少年はおふざけに男の子っぽい締まった音吐で声高に叫んだ。誰もそれに応答したりしなかった。彼らは全員後ずさるように間断なく後ろ歩きを続けていたからである。少年たちが本館と同じマッシュルーム・コラムのセキュリティー・ステーションの真横を通り過ぎざま、各々「こんにちわぁー!」と小学5年の声を吐いた時も、全員後ろ向きのままだった(守衛はすでに人間ではなく、完全なセンサーの集合体で完結していたのである)。

「オラはTFBCの大久保先輩の方がいい声だと思うな。」

施設門扉から本館までざっと100メートルもあって、広い往来2本の誘導路の両側に50から125メートル幅の気持ちの良い芝生の「庭」があるのは、そこが広大な配水地を地下に湛えているからだ。

「TFBCの大久保先輩って、憲ちゃん?連ちゃん?」

アルトの森村が後ろ向きのまま問うた。

「TFBCってんだから連ちゃんだろ?『くものもくもく』の。」

「あの曲、カッコイイよね。セリフもまた、空の高みを思わせる!」

「僕は『真っ白い平野』だったら、大久保憲君の方がヤバかっこいいと思うけどな。深いし鳴りがクールでマジ澄んでるじゃん!」

「そうそう!大久保兄弟って、兄弟で何年か間あけて同じ曲、方々で歌ってるんだよね!なんだっけ?オペラの『トスカ』のディレクターさんだかコンダクターさんだかが、連くんが来て同じソロ歌ったんで『あれ?!随分前にやったときソロ歌ってくれたキミまだ声変わりしてなかったの?』って勘違いしたって話…超有名だよね」

「それ、『トゥーランドット』じゃないの?」

「ばーか!『トゥーラン…』に子供のソロ無いだろ?」

「ねえねえ、それよか、なんでオレら、よその少年合唱団の話してんだよ?」

「イイじゃん!カッけえ少年合唱は、どんな少年合唱団だろうがカッけえンだよ。」

「僕はアンパンマン少年合唱団の和久本くんの声の憂愁がヤバ目に好きだけどな…。」

本館の第1階層は打ちっぱなしのマッシュルーム円柱の林立で彼らの背後に近づいている。

「オレらの合唱団だったら、やぱアオケン先輩とか中梅先輩の頃がアコガレだヨな!」

「そうそう!あの頃の歌って、楽しいしマジもんで音圧あったよね?」

御堂マリオが振り返って目を輝かせ、歩きながら言った。

「なっちゃん先輩いたしね。」

「1メゾの小河内先輩が『アルトにもちんちん付いて無ぇのが一匹いるけどな。』って言ったら…」

「『やるかぁ!ちんぽこ野郎ぉ!身体が女子だからってバカにすんじゃねぇぞ!』って言い返したハナシでしょ?あれ、伝説だよなぁ。カックいぃー!」

「俺、当時の動画を繰り返し観て、ようやく加賀協太朗先輩のうっとりするような魅力っていうか、心の優しさがわかった!加賀やんは、最後まで少年エンタテイナーとしてお客さんを楽しませ続けようとしてたんだ!」

「僕ちんのアコガレはハート3つの中梅煋次朗先輩じゃけ!『きみの歌は、ぼくが守る』クー!カッコいい!!」

「はぁ、おめぇ、そればっかじゃん。」

山本哲平が後ろ歩きに復帰すると、代わって御堂マリオが、

「あの代って、深谷先輩がリーダーやってたんだよね。ヤリ手で歌うまくて、スマートで足長くてルックス良くて、半ズボン・ハイソックスがバッチバチに似合ってて、優しくて…ま、予科の頃からそういう団員だったんだケドさ!」

ここで、少年たちはフッと立ち止まり、御堂は走り込み森村に抱きついて言った。

「深谷くん、弱い者には特に優しいんだよねー!」

「はいはい。でも、深谷先輩はすっごくヤンキーでおちゃらけたところもあったのが、オラはすごいと思うぜ。」

「『夜の女王のアリア』のソロ歌ったとき、アオケン君か誰かがバラシのミーティグに、劇場ロビーで真っ黒いチューリップの花束あげたんでしょ?エモエモですぜ!見てミタカッタなぁー、ボクちゃん!」

森村少年は片膝ついて目前の哲平クンに何か贈り物を捧げ持つ芝居をした。

「なヵ、合唱団が男の子集団のチームとしてカッケー&歌唱力抜群の状態で、まじもんで惚れまくる!」

「大森先輩とか、佐久平先輩とか、ぽつぽつ一匹狼もいて、それが全体のスパイスにもなってて…」

「なヵさぁ、オレたちのSerritothにも深谷先輩のころの合唱団のこと、書かせようよ!」

「デルタ宇宙域で航宙中ってコトになってるのに?どうやって?」

腕組みをして思案のポーズの山本哲平の背後に、濾過池操作廊の長く長くのびた黒サッシの大きな窓枠カーテンウォールの延伸が見える。丘の上、ゴルフコースへ抜ける涼しげな風が吹き過ぎて、ベレーもキャップもかぶっていない少年のツーブロックの髪が立ち上がるようにそよいだ。

「なヵ、そういう場合のネタ処理は、ワームホールでしょ?やっぱ。」

「安直すぎくない?」

道の両側に立ち上がった鈍色のスマートな長いポールの上に街灯のスタイリッシュなランプシェードがかぶっている。もちろん、まだ自動点灯していない。

「ちょっとメタく、深谷先輩のころの合唱団のこと、Serritothに書かせようとしてる主人公ってのはどぉ?」

「だせぇ!」

「やっぱ、タイムスリップって処理しか無いでしょ?」

操作廊のサッシのガラス面の連続から、室内に林立するマッシュルーム・コラムのシルエットが透けて見えている。

「ゲートものだな。ティプラーの円筒に繋ぐきっかけは何にしよう?」

「やっぱ歌でしょ?少年合唱団なんだから!」

「何歌う?『おお牧場はみどり』とか?」

「わけわからん。」

「歌うんならゲートの必要ないでしょ。乗り物でも過去に行けるワケなんだから。」

「じゃ、『気球に乗ってどこまでも』!」

「だからぁー!」

「わかった!これで行こう!」山本哲平はグーにした右手を平手に打ち、前を見据え宙を指さして叫んだ。

「『アイアンシャープ』!」

 

僕らの夢が 

朝陽を浴びて 空に描いた

アイアン アイアンシャープ

僕らの夢が こだまする

宇宙を駆ける 快速船

ハヤテのように駆け回り僕らの敵をやっつける

アイアンシャープ アイアンシャープ

アイアン アイアン アイアンシャープ

アイアンシャープ アイアンシャープ

アイアン アイアン アイアンシャープ

 

 

おかあさん

ぼくは今デルタ宇宙域の真ん中ぐらいのセクターにいます。

危険領域のアラートはまだ消えていません。

でも、心配しないでください。

いつもコンサートの感想を聞かせてくれてありがとう。

こんばんは天ぷら定食です。ちょーおいしいです。

日本艦で良かったです。デザートに、ガリガリ君のチョコラBBローヤル味を食べました!すてきです。

運動会を見に来てくれてありがとう。

まさか高学年リレーで一位になるなんて今でも信じられません。

けさ、USSヴォイジャーJDが至近インターセプトコースに来ました!

アキラ級のがっつり戦闘モードの艦体で、めっちゃカッコ良かったです。

ワープナセルをゆらゆら振って船体で挨拶してくれました!

なみだが出ました。

 

STREAM教室の名前は『少年宇宙研究会』というレトロ趣味なもの。ピギーバック・ペイロード・ローンチのスラスター付き探査機におんぶされ、スイングバイまでしてもらって放たれたサイコロキャラメルぐらいの大きさのSerritothという名前のピコ・プローブを海王星の軌道から衛星トリトンとプロテウスの間へ打ち込み、現在はメンバー3人のグループでSTREAM運用している。森村少年は御堂マリオや山本哲平と積載AI to 地上AIのリンクを男の子として育て、自分たちは母親になって交信しながらカンタンな日記小説のようなものを作文させていた。天王星型惑星域版『更科日記』や『紫式部日記』といったところである。平安時代と違っていたのは、周囲の風景を撮影した画像を文脈に沿った「挿絵」にレタッチ作画させフォトブック化していること。47億キロメートル彼方から転送されてくるネプチューンの勿忘草色の大気に覆われた天体は、米粒よりも小さなレンズやセンサーが捉えたものとは思えないくらい美しく憂いに満ちていて子供たちの心を捉えた。研究会の親たちは特にそうした科学や宇宙工学の関係者でもなんでも無い大人たちだったのだが、「息子らが子供のうちに様々な美に触れ感動したり楽しんだり熱中したり好奇心を充したりし尽くしてから大人になっていってほしい」と願っている人々なのだった。

 

かつて人手不足と老朽管インフラのスクラップアンドビルドに苦しんでいた日本の浄水場は、法律の改訂と技術革新で今やわずかな人数のオペレーターとAIが極めて精度の高い水を作って送り出す優良企業へと変貌している。水道管は古くなり漏水破断が起こる前に、内側から血管・消化管の新陳代謝のごとく化学的に置き換わる。こうしたバイオ管のような素材は地震・自然陥没のような事態にもきわめて割れにくく丈夫な水道管網を作って流れている。一番すごいのは、薬剤投入についての法基準が様変わりしたことで、AIのビッグデータによる管理により凝集沈殿ろ過の技術革新が驚異的に進行し、塩素は「基準以上のパーセントを保つ」ことから「いかに基準以下の量で済ますか」へ変容した。水道水は明らかに美味しくなったのである。モバイル浄水場出現の影響もあって、どこの浄水場もみるみるうちにコンパクトな組織になった。少年たちが宇宙研のオペレーションに利用している長沢浄水プラントも、1956年の竣工時に使われていたたくさんの部屋はもはや必要無くなり、半官半民のTウォーターがリノベしてコミュニティー施設として広く一般に貸し出している。少年宇宙研の子供たちはこの昭和モダンな建築デザインが「レトロフューチャーでやばやばカッコいい」と大変気に入っていた。

 

少年合唱団というものは、どこの国でも例外なくステージやサーヴィス中は正装だが、特にヒートアイランド化がニューノーマルな首都圏の男の子の合唱団では、世紀の境目ごろに一旦制定した長ズボンの制服を早々と脱ぎ捨てて、最近はどこも短めな半ズボンの装いだ。もともと活発で体温が高止まりの彼らは、10分間ほども歌えばひたいやコメカミや鼻の下には汗が吹き出し、それは練習場でも舞台上でも変わらない。とりわけここの団員たちが足さばき良好で救われると実感するのは、ステージ衣装を着たまま遅刻→出演キャンセルの危機的状況に見舞われる今日の宇宙研の少年らのような場合だ。

「哲平!早く走れないのかよ!」

「ブラッド満、自分で持って走ってみろってば!」

「だいたい、何でソワレ出演の日に限って次から次へとゆく川の流れは絶えずしてデータが届くんだ⁉」

「そりゃ、Serritothに聞いてちょ~ヨ!」

通信モジュールは、受信機・アンテナ・増幅器・バッテリーをワンセットにしたものだ。さらにブレインマシンインタフェイスヘッドセット用のドングルが突き刺さった大人向けタブレットが必要なので、小学生にとっては少しかさばる装備を持ち歩くことになる。なかでも通信用バッテリーの重量は無視できない重さなので、電車に乗るまで森村はモジュールを突っ込んだニャンちゅう!宇宙!放送チュー!のキルト手提げバッグ(最初は体操着袋のような巾着に入れていたのだが、あまりにも重くて持ちにくいため、手提げバッグに入れ替えた)を他所の少年合唱団所属で今日の午後は「空き」の山本哲平に持たせ、ごそごそと走っていた。プラントの正門までの距離が、海王星に至る道くらい長く感じる!

「オレ、嫌(や)だよ、2人そろって遅刻で出演キャンセルになるの!」

「しょうがないじゃん。AIの判断で長々と送ってきてんだから。」

「だから、哲平くん、もうちょい速く走ってってば!」

「もうムリ―!」

浄水プラント本館1階正面のオシャレなエントランスを駆け抜けて、彼らは一目散で宇宙快速線2番線ホームへ向けて(彼らの感覚でいうところの)「猛ダッシュ」をかけているのだ。森村が後頭部にアタッチしたブレイン・インタフェイスを紺ベレーの阿弥陀かぶりでカバーして、運良くシートに着座出来ればダウンロードを最後まで続行させるという算段である。

「電車の中で通信、切れないの?」

「だって、携帯もタブレットもみんな使ってんじゃん!…モジュールめっちゃヘビーですよぉ!」

「オラも目の前スパーク状態っす!」

「宇宙快速線って、高温超電導リニアじゃないの?」

「伝播損失あるよね?地球から45億キロも離れてるとこからの通信、リニアの中で受けとるんだよ!」

「車輛浮いてんだし。」

「…ともかく、電車に乗ってみなきゃ判らねえじゃん!」

「僕は通信が落ちる方に5000点!」

「俺はいつもお若い竹下景子さんに3000点!」

「オラはニヒルでダンディーなはらたいらさんに全部!」

「昭和時代じゃん!」

「ちょっと待って!…超電導リニアって、高速移動用の直線ファイバ無線使ってんじゃないの?逆にすっげぇつながるのかもよ。」

「森村君甘いねぇ!近郊型の快速電車にそんなカッチョいいインフラついてるワケねぇじゃん!」

「かなぁ…?」

 

宇宙快速はただちにマグレブ走行へ入り、心地よい電磁音が美しい加速とともに車内を満たし始めた。

森村ブラッド満のその推測は、嬉しいことに当たっていたようだった。彼のブレインヘッドギアは驚くほど軽快にレスポンスを返し、海王星から送られて彼の下腿の紺ハイソの間に挟まれたニャンちゅう!宇宙!放送チュー!のキルト手提げの中で、モジュールに処理されたデータは、ロングシートで肩を寄せ合う彼らのタブレットに美しい画像やAIにでっちあげられた日記文を次々と表示させ、目も気も奪った。薄青のマーブルホワイトのビー玉を思わせるネプチューン。凍り付いたトリトン。稲垣足穂の小説の登場人物が白インクの硬ガラスペンで引いたようなルヴェリエ環とアダムス環。

「なんだか、すごくまぶしい!」

森村少年は思わず叫んだ。

「こんなにフライバイして撮りためてたんだ!」

山本哲平はAIの送出機序のアバウトさに少しだけ呆れて言った。

「身体が震えるし、目眩もする…」

森村がさらに言った。

「大げさだなぁ!」

マリオ少年はその発言が単なるアレゴリーだと信じ、タブレットを掲げ持った少年の肩の稜線をぴしゃりと叩いた。その子のステージジャケットのエポールの縫い目から、タダならぬ汗と常軌を逸した体温の漏出のようなものが感じられた。

「森村ブラッド満!お前の身体、本当に光って震えてんじゃん!大丈夫かよ?」

山本哲平が右肩を前方へ差し込むような姿勢で友人の異常を問おうとした。その瞬間…

ブレイン・インタフェイスにかぶせた阿弥陀かぶりのベレーがまるでお釈迦様の後光のように光り、そこから漏れたような、目を開けていられないほどの閃光が無音のまま四方へ散開し、最後に彼の紺ハイソで遮蔽されたニャンちゅう!宇宙!放送中!の手提げから光の束が立ち上がると、小学5年の2メゾ少年合唱団員の肉体はミルキーホワイトの圧倒的な怒涛の光の団塊となって、宇宙快速線の無機柄オレンジのロングシートの上であっという間に消失した!

 

…………

 

森村少年はそれからほんの数瞬、同じような電車のロングシートの上に座ったままの姿勢で正気を取り戻した。眠ってしまっていたらしい。

「起きなよ!ステージ衣装着て、これからどこで出演?遅れちゃうでしょ!多分…」

中梅煋二朗が、その子の肩をゆすって起こした。

「俺たちと同じ制服じゃん。キミ、どこの合唱団の子?」

加賀協太朗が尋ねた。

その知らない男の子は3人の真ん中に立っていたアオケン少年の通団服姿の立像に、ようやく両眼の焦点を結ぶなり驚愕してつぶやいた。

「なヵ…恐ろしいくらいリアルだ…」

映画2010年の冒頭で、木星付近でモノリスに遭遇したボーマン船長が行方不明になる直前に発した”My God, it's full of stars!"(すごい!満天の星だ!)をイメージさせる一言だった。その子は、せっかく目をさましたというのに、また白目を剥いてモケットへ横倒しに気絶してしまった。

アオケン少年がアルトの副パートリーダーだった。3人の中では一番ステータスが上。彼もまた白目を剥いて思いっきりあきれ返ると、胸元からボンタンアメの箱を引っ張り出し、箱の裏側に向けてウナ連絡の声を発した。

「先生ぃ、こちらアオケンです。すぐに駅のホームまで、えーと…4人…迎えにきてください。たぶん…mey be…緊急事態です。」

 

「先生、このステージ用ブレザーの団章の刺繍なんですけど、…たぶん、通信機になってます。団章を軽く叩くとスイッチが入って、伴奏の配信とか先生がたと交信とかができるようになるんだと思いますが。」

中梅煋次朗は謎の団員を運ぶために脱がせた団服の胸部を先生に見せながら事務室へ戻ってきた。

「それは現在のテクノロジーでも十分可能だ。でも、トランシーバーみたいな方が少年合唱団チックでイイだろう?」

「僕たちの今のボンタンアメ型レシーバーの方がカッコいいですよ。僕は今のが好きッス。」

事務室のソファーには生地のちょっと変わったワイシャツ(多分ポリエステル100%で皺が無く、下着が透けていない…実際、その子は下着のシャツをつけていなかった!)で、メゾのネクタイを緩めた男の子が右脚を平仮名の「く」の形にして横たわっていた。2人が業務レシーバーの話で大盛り上がりしながら入ってきたからなのか、その子はつつかれたようにパッと目を覚まし、上半身を起こして言った。

「きゃぁ!」

練習スタジオから突然呼び出されてそこに立っていたソプラノ・パートリーダーが寄り添って、「大丈夫?僕は、ソプラノの…」と言いかけると、

「パトリの深谷寒太郎先輩!ですよね?!スゴイぃぃぃ!」と叫ぶなり、「ヘイ、Siri!3Dホログラム動画終了ぉ!」と叫んだ。そこにあったものは何一つ消えたり、ビープ音を出したりもしなかった。

「この、ワタクシ、ソプラノ・パトリ深谷クンは、ホログラムにしちゃ超美男子でめっさハンサムだろ?ま、アンパンマン少年合唱団にゃ負けるがな。」

「…ということは、僕はつまり…ここは…」

「きみの所属する少年合唱団の事務室だよ。」

「はっ、知ってます。先週事務室当番だったし…。今年、エーディー何年デスカ?」

パートリーダーは返事するかわりに、事務室の壁に掲げられていたカレンダーを指さして告いだ。

「ああ、まだ21世紀なのか。」

「なぁ、合唱団2メゾの森村ブラッド満くん…」

森村は目を剥いて…

「…何で僕のような団員の名前をパートまで…?」

アオケン少年が右の前腕にかけて持ったステージ・ブレザーのネームタグをちらりと見せた。誰か知らない団員名を二重線で消した上に、そう書いてある。

「きみがタイムスリップしてきたことはよくわかってる。最近、未来からのタイムスリップが時々あるんだ。だいたい何年ぐらい先から来たの?」

「えと…だいたい…だいたい…75年ぐらい…かな?」

横で会話を聞いていた指揮者先生は笑いながら「きみはどう見ても50年ぐらい先から来たような感じにしか見えないよ。」と戯言を言った。

男の子はこわばって「あの頃の先生も…完全に変なジョーク、言うんだ(汗)」とつぶやいてため息ついた。

「これ、返すよ。」

森村の右肩の後ろから中梅煋次朗が胸章を見せながら、アオケン少年にパスされたステージブレザーを差し出した。

「元の時代に戻る前に時間軸とヵ影響出し…たく…ない?…じゃん…?」

4年2メゾが喋り始めたので、右後ろを振り返った森村ブラッドは、「下級生」の顔を見るなり突如仰天してはね起き、表情を変え、ブレザーをひったくって急いで袖を通した。中梅の声は文末、途切れ途切れに何事なのかと躊躇した。

「今のが中梅煋次朗くんだよ。」

「よ、よろしく。」と中梅はホワイトベルーガチックな顔をつままれたように言った。

「隣が事務局デスクさんと合唱団リーダーの深谷君で…」

団員たちはぺこりと頭を下げたが、森村ブラッド満は中梅少年の方だけは直視できず視線を落とした。何か不穏な表情である。

「…じゃ、お願いします。」と、先生はデスク嬢に目配せをし、場所を変えろとハンドサインを出した。

「森村くん、あっちでお話しましょう。」

「あっち…というのは、もしかしてお仕置き部屋?」

「子供たちはそう呼んでるみたいですが、正式には『個別練習室』です。」

 

二人が行ってしまうと、中梅少年は不安げに顔を曇らせた。

「何だか変ですよね?」

皆は「んん」という小さな声をあげてうなづくだけだ。

「何か、知ってるんでしょーか?僕の未来のコト?」

指揮者先生は「いや、あれはきっと…うん」と一言返してみたものの、彼にも未来のことは分からない。それ以上何も言わず、そそくさと森村の体温が残るソファーにへたりこんだ。

 

 

「うわぁ!ここのピアノ、昔っからカワイなんすネ!それから、このカシオトーン、一番右のセットアップボタンって58番のチャペル・オルガンなんですよね!きゃぁ!」

「森村君、触らないで!」

今の設定のまま、75年後もこのカシオトーンが現役で稼働しているわけないでしょと思ったが、彼女は心して口をつむった。

「先生もおっしゃっていらした通り、最近タイムスリップがあちこちで起きているんです。そこで厳しい時間規定が最近作られた。知っていますか?」

「知ってまーす!」

「言ってごらんなさい。第1条は?」

「過去の出来事に干渉しない」

「はい、2条?」

「未来の出来事を明かさない…例えば、アオケン先輩が誰と結婚するか?とか…」

「3条!」

「一切の記録を残さない 以上です!」

時間規定は半世紀以上経った未来でも有効ならしい。男の子はいかにも3年生ぐらいの団員がべっとりと付けたらしいカワイのアップライトの上前板の震えるような左手の指の跡をうっとりと眺めていた。

「森村くん、最後に一番大切なコト、第4条!」

「第4条って、最近付け加わったんですか?僕のいた時代には無いんですが…うッ!まずい」

彼は自分の言った時間規定第2条を言ったソバから破ってしまったことに気づき、顔をしかめた。

「大丈夫です。第4条、過去の出来事にあまり思い悩まない。これは私からの個人的忠告、アドバイスです。」

「…待って待って、もしかすると、事務室デスクさんも、タイムスリップ経験者?」

「私ではないけれど、ここにはそういう子もいるの。ここでの変化は殆ど目に見えない。でも、あなたがたの未来を変えたくなかったら、十分気を付けてお過ごしなさい。」

「うっひょー!少年宇宙研の千葉先生に教えてあげよーっと!」

デスク嬢はかなりきつい咳ばらいをして発言を制しようとした。

「いやー、千葉先生、過去のタイムトラベルの研究とかもしてるんすよ!奥さんは霞が関ビルの37階…この時代、もう霞が関ビルってありました?見栄えのしないチビっちゃい古いビルなんですけど、…その37階にあるガイジン向けの保険会社で奥さんが保険のオバちゃんやってて…」

「森村君!ストップ!やめて!未来の話はダメ!」

 

レッスンが終った予科生の練習室。森村ブラッドは、メタリック・グレーのインスタコードを抱え、コード進行をSモード・パッド奏法で寂しげにつまびいているところだった。

「僕も、この椅子に座って歌ったんだなぁー。過去に来て、ここで深谷先輩も、中梅先輩も、みんな予科生だった頃があったんだって、実感としてわかったりして!今でもちゃんとある部屋だけど、僕は予科の頃も今も、そんなことしみじみ感じながら座ったり歌ったりしたことがない。何にも感じなかった…」

森村の大きな独り言に問いかける柔らかい声の団員がいた。

「入団して初めての日も?」

「入団のときは、そりゃ、アコガレの少年合唱団ですもん。感激でしたよ。でも、そん時ぐらですかね?」

「ワタシは4年で途中入団したよ。最初から本科だったんだけど、合唱団初の仮入団扱いの子で、自分は果たして少年合唱団員になれるのかなーって秋ぐらいまでずっと悩んでた。何にも感じずに歌えたキミは羨ましいなぁー。」

その子は楽譜タッチパッドを掲げ持って両脚をXに交差させ、予科練習室の名札かけパネルの乗った長机にお尻を引っ掛けて立っている。上半身は少しだけふくよかだが、二脚はスラッとかっこいい。

「ところで、ねえ、ワタシもここで歌の復習したいんだけど、いいかな?」

「…え、え?え?…ちょっと待って!もしかして、もしかすると、あなたはなっちゃん先輩…デ・ス・カ?」

「なっちゃん先輩なんて、小松君みたいな呼び方しないでよ。」

「ホントのなっちゃん先輩?ま、マジかよー!死むー!モノホンの斉藤なつきパイセンっすか?!こりゃ、御堂マリオがいたら即死レベルでぶっ飛びますぜ!先輩の大大大大ファンなんです!あいつもおティムティム付いて無くて…ようするに…」

「トランスジェンダー?」

「昔はそう呼んでたんですよね。」

「否定はしないよ。身体は男子じゃないから。」

「だから、あいつのあこがれの先輩なんですよ!いつかなっちゃん先輩みたいな立派な団員になるのが夢!!…先輩を目当てに心の支えにして毎週ガンバって歌ってるんです。」

「へーぇ、ワタシがねぇ?こんな悩み多き団員なんだよ。1年もしないうちにカラダは変わるだろうし…」

「先輩、身体?そんなの、男子だって同じですよ。1年もしないうちに声だって変わり始めてヒゲもスネ毛も〇毛も生えて…」

「なっちゃんにはそれが無いのよ!]

「無いにしろ有るにしろ、どっちも同じです!子供は性別にカンケー無く全員オトナになるんです!そんなのにビクビクしてて、お客さんを喜ばせる歌が歌えますか?センパイ、しっかりしてください!」

「…わ、わかった。やっぱ、未来から来た子は言うことがスゴイってかオトナだわ。」

「何言ってんですか!それ、ほとんど全部、なっちゃん先輩が言った言葉ですよ!『合唱団記念誌』にちゃんと書いてある!先輩は…はっきりとは言えないけど、これからじゃんじゃん歌って大活躍して、お客さんを最高にハッピーにしていく男の中の男になって卒団するんです!まったく、もう!」

「そうなのかな?ま、いいけど、…ところで未来にもまだインスタコードって有るの?」

「しょっちゅうアプデかかるからちゃんと現役だけど、ありますよ。」

「何って曲のコードを弾いてるの?…あ!待って!未来の曲の名前はだめよ。」

「いや、20世紀の中頃ぐらいの映画主題歌です。『アイアンシャープ』って。歌ってるのは、よくわからんけど、たぶん上高田少年合唱団。1961年夏の封切りだから、実際に歌ってるのは練馬の開進第四小学校の高学年男子児童だろうって、合唱団で教わりました。

突然ここで、斉藤なつきの通団服の胸元から先生のくぐもった声がたった。慌てて胸ポケットからボンタンアメの箱を引き出す。

「斎藤君、森村君と今すぐ事務室に来なさい。デスクさんが車を出して駅まで送るから、持ち物一式と一緒に電車に乗って2つ前の駅まで往復してもらう。その間に何か起きるのを期待して…なんとか未来へ送り返したい。」

斉藤なつきは未来少年を立たせその左手からインスタコードをひったくり、事務室へと急かしながらつぶやいた。

「『子供は性別にカンケー無く全員オトナになる。』かぁ…なかなかカッコよくってめっちゃ良い言葉だ!今度、1メゾのバカ野郎どもがLGBTいじりでくだらん文句ふっかけやがったら、そう言って凄んでやろうっと!」

 

 

「森村君、なぜキミは僕をガン見するんですか?」

「いや、帰る前にしっかり目に焼き付けとかなきゃって思ってて…だって、アオケン先輩とあのころの指揮者先生だから…。ちょっと待って、それ、なっちゃん先輩も持ってたけど、通信機ですよね?大昔の。」

駅のホーム。森村のやってきた方へ帰る電車は先ほど出て行ったばかり。10分間は待たなくてはいけない。

「ちょっと触らせてもらってもいいですか?」

指導者が躊躇しながらそれを渡すと、

「うわぁ!スッゲ!僕たちのは薄っぺらで、遠隔爆破機能はもう付いていないけど、デザイン的な面白さは…」

と興奮してそれをべたべた触っている。

「…遠隔爆破機能と言ったか?結局、ワタシは爆破機能を付けることになったのか?」

「先生、『魔女の館』のライブの後に、そうおっしゃってましたよ。」と、アオケン少年。

「いや、ありゃキミらの自由時間があまりにもルーズだったから冗談のつもりで言っただけなのだが…。」

「先生、そんなことより、森村君がタイムスリップしたときの状況っていうか、原因を聞いとかないと…」

未来少年はいとおしそうにボンタンアメの箱を捧げ持つようにして男へ返却した。

「森村君、何をやっていてタイムスリップしたんだ?」

「いや、単に電車の中で、シートに座って、山本君と御堂君と一緒にネプチューンからの送信をこのパッドで見ていて…」

「ネプチューンの誰?」

「誰…って?」

「タイゾーとか名倉潤とか…それとも3人いっしょに?」

「いや、山本君と御堂君と僕の3人で、海王星近傍のラグランジュ地点のピコ・プローブから送られてくるフライバイ中のデータを見てたんです。トリトンとかアダムス環の静止画とかAIが描いた宇宙日記とか…。そうしたら体が熱くなって、光りはじめて、なんか分からなくなって…。」

「3人とも?」

「いや、たぶん僕だけです。通信機にこのヘッドセットで接続していたのは僕だったし、脚の間にニャンちゅう!宇宙!放送チュー!の手提げに入れためっちゃヘビーな通信セットを挟んでたのはボクだけだったから、それが原因なんじゃないかな?あとは、通信が高速移動用の直線ファイバ無線だと思うんです。快速電車だから。それでサクサク通信が入って来て…」

反対ホームに森村が乗ってきた方面行きの電車が入線し、音を立ててホームドアを開闢した。

「あの電車だよね。あっちに行く。」

アオケン少年が進行方向へ人差し指を向け尋ねる。

「いや、全然違うくて…ボクちんが乗ってたのは、宇宙快速線の宇都宮発、宙の森中央行きのヤツで…」

ボーイアルトの次の反応には、数瞬のクレバスのような間があった。

「ぷっ!ウチュウカイソクセン?なんじゃそりゃぁー?!キャハハは!」

アオケン少年は口を大きく開け、おそらくツボだったのだろう、憑かれたようにケラケラと爆笑が止まらなくなった。

森村ブラッドはみるみるうちに顔色を変え、

「アオケン先輩…もしかして今、わ…笑ってるんですか?」

「だ、だって、『ウチュウカイソクセン』は無いっしょ?ジョークヒド過ぎて草!ギャッハッハッハ!やめれー!なヵ、泣くぅー!」

「…あのぉ、先生ぃ。アオケン先輩って、…こんなに笑ったりするんですか?マジで?」

「こんなバカ笑いは、あんまり。…最近、時々あるがな?」

「そりゃ笑うって!抵抗は無意味だョ…てか、笑わないなんて、非論理的じゃん!ヒヒヒヒぃー…頼む、苦しい~。」

ホームの真ん中で七転八倒する11歳の男の子と、それを驚愕の眼差しで眺めているフォーマルウエアの少年が一人、比較的無表情の男。彼らの間に突如、女性の声で通信音が発った。

「合唱団から先生…と、アオケンくんたち。緊急事態です。こないだの1日入団の男の子たちがまた、ぞろぞろ押しかけて来て勝手に練習スタジオに…。至急お戻りください。通信終了!」

 

正体不明の「こないだの1日入団の男の子たち」3名は、練習場の楽譜の並ぶスチールキャビネットを勝手に開け、コロンとした角の丸いスマホで、楽譜やミュージック・スコア・タブレットの画面を盗撮よろしく撮影しているところだった。

「君たち、何ですか?」

少年合唱団の指揮者だから、小学生男子の厄介ごとには慣れている。出入り口を塞ぐように立って大声を出すと、闖入者たちはビクり震え上がって、角のあちこち丸い機械に覆い被さる格好で隠したり、見られないよう背中へ回したりしてとぼけ、先日のご指導のお礼に来た純真な少年たちの小芝居をしにかかった。

「こないだは、ありがとうございました。楽し過ぎくて興奮しまくりかったです。なぁ?みんな?」

3人はそろってぺこりと頭を下げた。

「ところで今日は、入団してくれた際の即戦力になる準備とばかり、興味のある楽譜を見て、予習をしに来たか?写真に撮って家で繰り返し勉強とは、やけに熱心じゃないか?まだ合格内定通知を出した覚えなど無いんだが…」

アオケン少年は事務局デスクさんの前で盾になって、いつでも彼らの逃走をとめられるよう準備した。森村ブラッド満はタブレットも入れたため重くて重くて閉口させられるニャンちゅう!宇宙!放送チュー!のキルト手提げバックを入り口の脇に立てて置き、ベレーの下からヘッドセットを引っぱがして丸め、その中へ突っ込んだ。一行が対峙しているのが昭和時代のズッコケ三人組の実写版のような風貌であったのにも関わらず、彼の関心事は、目の前に広がっているのが夢にまで見続けてきた「あの頃の」我らが少年合唱団の練習室の光景であることだけだった。彼は迷わずそこへ進み出て、「ワオ!これがアコガレの…!僕の大好きな釜屋作之進クン♡の座ってる席はどれだろお?うふ?」と、並んだスタック椅子のアルト側前列に向かって歩き出そうとした。

「森村くん!」

「はい!イエッサー!何でしょう?」

「先生の後ろにいなさい。」

未来の第2メゾソプラノはそれでも舞い上がったまま、うっとりと団員たちのいない椅子の林立の方を眺めやって立ち止まった。

「君たち、もしかすると、オリオンの団員たちなのか?」

ズッコケ三人組が緘黙にあらぬ方を向き身体をゆすってしらを切っていると、指揮者の背後から突然、元気な声で、

「ああ!この子達は明らかにオリオン少年合唱団員です。」

と森村ブラッドが断定した。

「典型的な。…俺らが先週もらった我らが少年合唱団の手書きの楽譜なんですけど、オリオンの子が写真撮ってあっちの合唱団でアーカイブされてて、こっちの団じゃ事務局さんとかが変わってとっくに廃棄されちゃってたのが、何十年かぶりにオレらのところに転送してもらって里帰りして…すっごくシブいんですよぉ!その曲!…なんてタイトルだったっけ…えーと」

森村は指揮者が振り返って睨み、ねめつけたのを見て、慌てて気をつけの姿勢になり口を閉じた。

「今すぐ、君たちが写真に撮った楽譜を廃棄するか、送った共有のも全部回収して消してくれ!楽譜の無断撮影は著作権法違反だ。裁判にかけりゃオリオン合唱団お取り潰しってことになるかもしれないな。」

「待って!待って!待って!あの…口を出してすみません。この子達がやってるのは盗みやコピーなんかじゃなく、単なるアーカイブ作成です。未来への遺産…っていうか…」

「森村君、少年合唱団が国会図書館や国立楽譜アーカイブの真似事か?」

オリオンの子たちは指示を無視して逃走のチャンスを窺っているように見えた。

「僕の時代では、侮辱なんです。オリオンの団員を海賊とか楽譜ドロボーとか呼ぶのは…」

「あちこちの少年合唱団から報告が来てるの。オリオン少年合唱団の子達が楽譜盗撮したり、紙の楽譜を勝手に持ち帰ってしまったり…」

事務局デスクさんがアオケン少年の後ろで流し目がちに言った。

「わかりますよ。この時代的に。…でも、どうします?僕がこの子達のことや崇高な目的を知っていたら?」

「森村君、気をつけなさい。」

「オリオンは最後発の少年合唱団だから、他の団のレパートリーを勉強して合唱に還元したいと思ってるだけです。他団の営業を妨害したり、蹴落としたり、歌って儲けようとかしてるわけじゃありません。それどころかその逆。日本の少年合唱団で使ってるローカルな楽譜をアーカイブして共有しようとしている。」

オリオン団員のうち、ちょっとすばしっこそうなハチベエ肌の少年が口を開こうとしたので、指揮者はそれを制し、「私はこの合唱団の本科担当指導者だ…」と名乗った。ハチベエもオリオン少年合唱団メゾソプラノ何がしと名前を明かした。

「あちこちで、オリオンの子達の楽譜盗撮の被害が出ている。」

「それは…とても…残念です。海賊少年と呼ばれ、僕らは誤解されてる。僕たちが目指しているのは…それぇっ!」

ズッコケたちはハチベエのその突然の合図で、一目散、彼らを阻止しようとする者達を掻い潜って練習室出入り口へ走り込み、脱兎のごとく逃げ去った。ハカセ肌の最後の子が、扉の横にたてかけられていたニャンちゅう!宇宙!放送チュー!のキルト手提げバックの上端を鷲掴みにしたかと思うと、少しつまづきながらもスカイブルーのスキニーパンツの脚を素早く繰って合唱団の建物から姿を消した。一瞬の出来事だった。

見返るような姿勢でこの一部始終を目撃した指導者の視線の先で、森村ブラッド満は紫色の顔をしかめ、んはははと、ため息をつきつつ苦笑した。

 

合唱団事務室に引き上げた先生とデスクさんを、中梅煋次朗はソファーにかけたまま迎えた。

「中梅君、2メゾ森村の未来からの持ち物をオリオンの団員に盗られた。」

「見てました。ここの前をすっげ瞬足で走って行きやがった。」

「先生は、合唱団指導者失格だな。彼から目を離したばっかりに致命的な大ミスを…。男じゃなかったら『ミス日本コンテスト』最優秀受賞者だ。」

「そんなコト無いですよ。仕方なかったんです。同じ部屋にいたんだから、目を離してたわけじゃない。」

中梅は立ち上がり、体側がわを先生に向けて応じた。

「あんな団員は、先生は初めてだよ。」

「この少年合唱団と先生の大ファン?…僕は超嫌がられてるみたいだけど。」

「私らを見た時のあの子の激喜びように、この合唱団の未来は極めて明るいと思えた。」

「僕もです。」

「時間を変えてしまいそうだっていうのに、あの子に同情してる私がいる。まるで、自分の赤ん坊を初めて抱き上げたときみたいな、母性本能くすぐられる…みたいな。」

中梅はソファに沈んだ指揮者を見下ろす視線で、うふふと穏やかに笑った。

「あっ!今、森村くんは、どこにいる?」

 

森村ブラッド満は練習場の楽譜戸棚の前で、オリオンのハチベエが撮影していたタブレットを取り上げ、感激しながらページ送りをくりかえし眺めているところだった。

「何、見てんのよぉ!」

騒ぎを聞きつけてアオケン少年の背後から部屋に入って来た斉藤なつきがそう声をかけると、未来少年はギャーとか◎△$○&%#!的なわけのわからない叫びをあげて驚愕した。

「いや、ちょっと…僕が歌ってる曲があるか調べてたとこで…」

「ましましましかだけど、何か入力してないよね?」

「ましかですけど、未来の情報なんか入力してませんって!…って確認します。」

「大丈夫だよ…からかっただけ。でも、まじで視聴履歴も含めて全部消して!」

「100パーセント了解です。」

顔色が変わり、咳払いをした彼がソプラノ最右翼から3番目の椅子に腰をおろしてタブレットの履歴を調べ始めると、アオケン少年も彼の隣に座って(通常、鷹居兄弟の弟が座っている椅子である)肩を寄せ気味に問うた、

「で、どうなの?気分は?まだ、タイムスリップの後遺症は出てない?」

「…って?何?」

「ひどい吐き気とか…トリニトロン中毒。未来の人は知らないよね。未来からこっちに来ちゃう人がなるわけだから。悪いコト言わないから、なるべくトイレの近くにいたほうがいいよ。ゲロゲロだってよ。」

「ぷっ!」森村の左隣(加賀協太朗の席だ)に座った斉藤なつきが突然吹き出して笑った。

「2人とも僕をからかってるんですか?」

「あのさぁ、森村くん、未来ってどんなカンジ?3Dライダーとか、あるよね?」

「なっちゃん、それ、今も有んじゃん!」

「いや、もっと早くて正確でリアルタイムで色も認識するような…」

彼は自分がミスして未来の情報を漏らすように過去の二人からイジラレているのだと直感し、

「あの、それよか僕ちんはこの少年合唱団の毎日が知りたいです。教えてもらえないですかね?練習日は毎日、大コーフンの連続でしょうね?それにオペラとか大きなステージの出演は、この時代、基本的にライブ見に行くしかないから、団員は他の少年合唱団が実際に歌っているのは殆ど見られないでしょ?自分たちの立ち位置だけをしっかり信じて歌ってた!」

”それが普通”の2人の反応は、こいつ何言ってんだろ?と、ドン引きだ。

「僕の来たコノ時代って、俺らにとって、ボーイソプラノの合唱団の黄金期なんです!アオケン先輩がいて、なっちゃん先輩がいてくれて、古川先輩のギャグに中梅先輩が床で涙をこぼしながら爆笑してるのに、先生の指名がかかると二人でゴージャス美麗でデラックスな少年二重唱を繰り広げる…ってな感じで。」

「古川っちのギャグに中クンが床で涙をこぼしながら爆笑してる…ってのはまぎれもない現実だな。」

「皆さんは、この時代の少年合唱団に生きてるなんて考えると、嫉妬しちゃうカモです!」

「そんなに気に入ってんの?じゃ、もしまだ土曜日にここへ居たら、パート対抗スタンツ大会へ来なよ!アルトのチームに入れてあげるからさ!」

森村は何かを思い出すかような目の表情を見せて尋ねた。

「次の土曜日ですか??それって、指揮者先生のお誕生日記念の合唱団行事ですよネ?」

「次の土曜が誕生日?」

「なんでそんなコト知ってるわけ?」

「そりゃ未来では俺らの合唱団恒例の盛大な年中記念行事で…あちゃ!やっば!まじぃ!」

時間規定2条に抵触する発言をした森村はシマッタ!という顔をした。

「すいません!事務室デスクさんには黙っといてください!」

斉藤なつきが首を傾げて次いだ、

「先生のバースデーのコトで未来って変わるのかな。」

「いや、いや、それ危険性ってか可能性はあるんじゃないですか?」

「ね、やろうか?先生のバースデーパーティー!いいじゃん!気に入ったっす!キミのお手柄にしてしんぜよう!」

「いや!いや、僕の名前は出さないでください!」

「キミって、ナイスっす!惚れた!」

入り口にトナミ・カツノリの姿が見えたので、アオケン少年は森村の肩に手のひらを乗せて暇乞いをした。

「僕、これからトナミ先輩とシェーンベルクの斉唱の練習があるから行くね。じゃ、くれぐれもトリニトロン中毒のゲボには注意だよ。」

「は、はい…」

森村ブラッドはそんなタチの悪い冗談よりも、戸口のところから、2人でお仕置き部屋(個別練習室)に行こうと手招きする6年アルトに向かい、しずかちゃんにウィンクされた野比のび太がオ目々に星を浮かべて恍惚にひたるようなキラッキラの表情で手を振りつつ立ち上がったアオケン少年に驚愕を隠せなかった。

 

彼はお仕置き部屋のドアへ3回に分け合計16回もトナミ先輩の名前を呼びながらノックした。

6年アルトは16回目のあと、不機嫌そうにドアを引き、「お前、誰だ?」という表情で廊下に出て来たので、森村が素早くドアを閉めた。

「おめえ、誰だよ?今、練習してんだからさ。」

「トナミ先輩、あの、アオケン先輩のことでお話が…」

「はイィ??」

「あのぉ…」

「あいつが、何したんだよ?」

「いや、なヵ、調子が変ジャナイすか?もしかして、僕が何かやらかしたんじゃないかって思ってて…」

「うっせーな!あいつはフツーだよ。」

「いや、様子が変なんです。…僕、タイムスリップして来たんですけど、僕の来た世界では、先輩はいつも真面目で真剣に歌って、大笑いしたりギャグ言ったりジョークぶちかましたりしないって伝説のボーイアルトになってて、そのアオケン先輩がこれから卒団までに大・大活躍してくわけだから、そこんところが変わっちゃっちゃ、ちょっとマズいと思って…」

「それを俺様に言うワケ?」

「いや…僕ちんマジで心配なワケで…。僕はこの世界へ来て、もう何回か先輩を爆笑させてたりして…バタフライ効果って言うんですか?なヵ、未来が変わっちゃったらどうしよう…ってカンジで。」

「わかった。わかった。でも、あいつだって普通の小学生男子なんだよ。俺にはよくわかる。」

「はい。でも、僕はアオケン先輩の伝記みたいのは全部読んでるんです。合唱団の記念誌とか卒団文集とか、出演したライブの動画とかだけじゃなく、未来でいろいろダウンロードできる資料は全部。趣味のお掃除とか園芸とか得意なお習字のこととか、トナミ先輩とのBL関係とかも…」

「うっせーヨ!いいか?あいつはおめえが来ようが来まいが、昨日も一昨日も先週も先月もずっと楽しそうに笑って歌って過ごしてるよ。ゴタゴタ言うな!」

「…というコトは、僕はもしかして違う時間線の中へタイムスリップした?」

「ンじゃねぇの?まったく!」

「僕、なるべく早くもと居た未来に戻らないと…!」

「とっとと戻れよ。向こうのつまんねえアオケンにヨロシクな。」

トナミ・カツノリはそこまで言うと迷惑そうにガチャンと開けた扉の向こうへ消えた。

 

「先生、彼らの『一日体験入団・申し込み』書類の自宅住所も電話番号も全部デタラメです。」

「オリオンには合唱団のウェブサイトというものがありません。」

「どうも固定電話番号やFAX番号は公開していないようです。」

合唱団事務室では合唱団に来ていた団員たちを前に、デスクさんが指揮者先生へ報告をしている。

「一応、もう一度調べてみてくれないか?時間をかけて探せば何か…あるだろう?他の合唱団事務局にも問い合わせて…」

彼らの背後から、個別練習室のドア前より放逐の森村ブラッド満が声を発した。

「あの、オリオン少年合唱団の連絡先なら、僕、わかりますが…」

スマホ片手に再度偽情報らしき連絡先にリダイアルを避けて手動で番号を打とうとしていたデスクさんが、呆れ声で制した。

「あのねぇ!森村君、ダメなんですよ!」

「いや、もちろん未来の知識は教えられないっす。でも、僕が覚えてるオリオンの住所を言ってタクシーで連れてってもらうっていうのは?皆さんは行き先の場所を聞かなけりゃいいんですよ。この時代にもタクシーってあるんですよね?多分運転してるのはニンゲンで人力だとは思いますが。」

思わず中梅煋次朗が吹き出し、笑い出した。

「バッカだねぇ。耳塞いで”聞かない”なんて…。え?えっ?…まさか、そんなのアリなんじぇすか、先生?」

 

タクシーの助手席に無理やり押し込まれ、ニンゲンの運転手へ囁くように行き先を告げた2メゾ団員の声を誰も聞かないようにした。未来が変わるのを誰も好まなかったからである。彼らは故意に車窓を見ないように心がけた。

いったいどのくらいの時間、彼らは乗っていたのだろう。指揮者がメーターのはじくタクシー代はあまり行ってはいないと思う頃合いで、彼らはあまりパッとしない雑居ビルのようなところの前へ降ろされた。周囲の看板や住所表示をなるべく見ないよう努力して、『オリオン少年合唱団』という入居者表示板の示すフロアを確認した。

「ともかく、何としてでも未来の機械だけは取り戻そう!先生は刃傷沙汰は覚悟だ!」

決死の覚悟で階段を登り始めた指揮者先生に、森村は追従しながら念をおした。

「先生、この時代の人を傷つけたり力(ちから)ずくで何かしたりすれば確実に未来は変わります。それはマズい。実は僕はオリオン少年合唱団に気のあった友達がいて、いつも一緒にいたり、ここに遊びにきたりもするんです。」

「だから、ここの住所も知っていた。でも、未来の事を話しちゃダメだろ!」

「いや、その子のおじいちゃんもオリオンのソプラノで、ここへ練習に来てるはずです。だから、僕たちがオリオンの子や先生方を傷つければ…」

「確実に未来が変わる。きみのそのオ友達とやらも…」

「消える、かも、しれない。先生、悪い人たちじゃ無いんです。静かに冷静に話し合えば解決できるはずです。先生って、団員の話をよく聞いて任せてくださる指導方針ですよね?有名です。」

彼らはついにオリオンのドアの前に立った。この合唱団も、今日は練習曜日ではないらしく、中からボーイソプラノの歌声はしていなかった。

「相手の話をよく聞いて任せてくださる方針とやらの効果を確かめてみよう。」

彼は軽くノックすると重そうなドアを押し開けた。

 

「ここにいるハカセ君はうっかりこの手提げを持って行った。」

「ハカセ…というのは?」

外見としてはあまり誠意のありそうに見えない嫌な顔色をした男が「指導者ですが」と応対する。

「手提げには私たちの合唱団に関するものは何も入っていない。ここにいる子の個人の持ち物で、…誰と交信する機械だったけ?」

「Serritothっていう、ネプチューンへのマイクロプローブです。」

「お笑いトリオか。」

「この子に返してやってくれませんか。」

「それは脅迫ですか?」

「いえ、お願いです。合唱団の物ではないんです。先生もここの団員たちを大切になさっていらっしゃるでしょう?私もです。高価な機械で、たぶんお家の方が買い与えたものだと思いますので。」

「いや、先生、長沢浄水プラント宇宙研の千葉先生から借りたんです。奥さんが霞ヶ関ビルの37階に居る…」

「どうしたら、納得してくださいますか?」

「はいっ!先生ッ!提案です!」

ブラッド満は自らの右手を確信に満ちて挙手しながら言った。

「キミに聞いてんじゃ無い!」

たちまち未来少年は側のトナミ・カツノリに耳打ちのポーズで、

「先生に、”オリオン合唱団は楽譜のアーカイブが至上命題だから、ウチの合唱団オリジナルの楽譜をいくつかプレゼントするのが一番の友好の証”って伝えてください」と普通の声で囁いた。

「森村君、ハッキリ聞こえてる!」

指揮者先生は素直に交渉へかかった。

「…わかりました。うちの合唱団のオリジナルと編曲譜をいくつか進呈しましょう。持ち合わせてはいないので、メール添付、ファックス、こちら持ちで郵送・宅配…どれがよろしいですか?」

未来から来た子は安堵でホッと肩を撫で下ろした。

 

 

往路では身体に何も起こらなかった森村は、アオケン少年や指揮者先生とヘッドセット装着のうえ、復路のロングシートに腰を下ろし、タブレットに電源を入れ、ニャンちゅう!宇宙!放送チュー!の手提げへ入れためっちゃヘビーな通信セットを脚の間に押し挟んで流れる車窓の光景を、何か一心に念じながら見ていた。本人の体調としては特に何も起こりそうにない。普通の状態しか感じなかった。立ったまま彼を見下ろす格好の「現在」の団員と先生も空ろな目線。

車内へ次の駅への到着アナウンスが漏れ出てきたのと同じタイミングだった。

一行には、周囲が閃光では無いが何かぼんやりと白金の光で照度を増したような印象に取り変わったことがわかった。未来少年は「いよいよ始まったな」とは思ったが、過去へ戻ったときのような体の芯の熱さを今回は感じなかった。それどころか寧ろ、その炎熱は体の右外側からだけ感じる。彼は両脚の間へ通信セットを挟んだまま立ち上がって言った。

「僕がここへ来たのは、とんでもない事故だったのかもしれません。でも、お会いできたのは、人生最高の素晴らしい体験でした。どうもありがとうございました。このことは一生忘れません。」

彼の右腰の辺りへの光輝がもはや疑いようもなくなったので、指揮者も起立した少年を見据えて声をかけた。

「いや…ホント…大冒険のような1日だったが…私たちの幸福な未来のためにも、2度と来ないでくれよ。それじゃぁ、長寿と繁栄を。」

アオケン少年はニコニコと目の前で左手を挙げ、バルカン星人の挨拶をしている。

光の束は森村の右側でいよいよ確実に輝きを加え、そこに何かが起こる事を告げた。未来少年は右側を向き、アオケン少年の目を名残惜しげに見て微笑んだ、そして両手でバイバイと別れの挨拶をしようと両の掌を広げた途端…

 

車窓からの光を背に、真っ黒く見える高さ145センチくらいの物体が突然森村の両腕に飛び込んできた!

 

抱きつかれた未来団員は押し倒され、その上に乗った地球人の幼生のような生き物の頭で、まだ光りの粒がふわりと残った阿弥陀かぶりの紺ベレー帽の天頂が弾みをつけて起き上がり言葉を放った。

「ふっ!ヤッたぁ!成功!成功!大セイコー学園!」

「マリオ!何してんの?」

「助けに来たに決まってんじゃん!」

「えっ!何やってくれたんだよォ!まったく…」

「ね、ちょっと、もしかして僕、今、タイムトラベルした?!うっひょー♡ここになっちゃん先輩とか、居る?マジ爆発ぅー*☆!なっちゃんパイセンと会えたりなんかできるですかね?!まじ最高ぉに、すごすぎー!!大昔だけに、チョベリグー!」

指揮者先生は白目を剥き、がっくりと肩を落として胸元からボンタンアメの箱を取り出す。パッケージのセロファンへ諦念のままメッセージを発した。

「少年合唱団事務室デスクへ。私だ。未来の団員が1人増えたのでそっちへ戻る。連絡以上。」

御堂マリオは通信の間も駅へ入線した車内で間断なく興奮して喋りまくっている。

「ね、あれって、大昔の通信機じゃん?ちゃんと自爆とかしてた?でもデザインが、なヵ、どショボくね?それに、通団服もダっセぇし。コレに白ハイソックスは有り得んコーデっしょー!団徽章の古臭さとか終わってるカンジしねぇ?」

森村ブラッドは、「ウソだろ…」と一言発したきり、取り返しのつかない事態の発生に両目を閉じて電車とホームドアが開いたのも気がつかなかった。(つづく)

 

 

🚇🚇『宇宙快速線 後編』へ ⇨つづく

▲「中梅先輩…ど、どうかしましたか?ってか、近いですヨ。密です、密!?」「ね、未来から来た奴って、オラを見て何で怯えんだよ?マジ不愉快なんですけどー。」「いや、そりゃ森村くんだけオンリー。あいつ超パニクってんですよ。中梅先輩のポスターを子供部屋のベッドの横に貼ってるようなヤツだから…」「ポスター?なんじゃそりゃ?…ポスターって、Myojoのジュニア・アイドルのスクール水着ピンナップとかみたいなヤツ?この中梅煋次朗様の??」「いや、海パンとかじゃなく…。もっと詳しく言うと…」

 

🚇『宇宙快速線 前編』へ ⇦戻る

 

合唱団指導日誌 補足 

問題は2倍になった。一人でも持て余したタイムトラベラーは2人に増えた。トゥーマッチというかイナフというか、この人数は多すぎる。

 

「ね、もう一本後の電車にしてくれたら帰れてたかも知んないんだよ!!何で待っててくれなかったんだよ。」

「だって、死んじゃったかもしんないって心配したんだよ。タイムトラベルしたのに違い無いって感じたから同じ装備借りて慌てて来てやったのに!たとえば第2次世界大戦中の硫黄島とか、戦国時代とか、縄文時代とかに飛ばされてたらどうすんだよ!」

「いや、縄文時代に宇宙快速線もJRも帝都高速度交通営団も無いだろ!」

合唱団事務室では部屋の片隅でアオケン少年と、取り出し練習で後入りのソプラノ深谷寒太郎や加賀協太朗たちが未来の2人の会話を横に聞き、話している。

「なヵ、未来の子のハナシって、すっげ具体的で芝居には見えない。」

「いや、少年合唱団、オペラ子役でもあるんだから芝居は得意じゃないと未来でもアウトなんだろ。アンパンマン少年合唱団には一般のキッズ・ミュージカルでメイン張る子役もいたんだし。」

ソファーの上では未来の二人がずっと喋っている。

「僕、プロのボーイアルトっぽく振る舞おうと思ったんだけどさぁ、でも、ココのアオケン先輩があんなにカッコ良すぎてムリー。ヒィーッ!気絶しそう!」

「いや、マリオ聞いて!この時代のアオケン先輩、今、すっごくフクザツなんだよ。あのなぁ…」

「まだ混乱の真っ只中だと思うが、解決策が要る。みんな、アイディアはないか?」

指揮者先生がソファーの側に立ち、事務室へ集まった団員たちと緊急会議の開始である。

「今日は取り出しの練習日だからイイですけど、全員が通団する少年合唱団の通常練習日にタイムトラベラーがいたら…」深谷寒太郎がまず切り出すと、

「先生ぃ、一人でもヤバヤバなのに、2人もいたら大災害ですって!」と、中梅煋次朗が継いだ。

「うっ!…なヵ感じ悪ィ。」御堂マリオが思わず小声で毒づくと、傍から森村ブラッド満が、

「何言ってんだョ!めっちゃカッコいいだろ?うっせぇ!」と抗った。

「あの装備を付けて電車で往復したが、森村くんには何も変化が起こらなかった。」

実際を見た先生が報告する。

「その代わり、駅に到着する寸前、御堂マリオ君が現れた。」とアオケン少年。

「つまり、一方通行ってことですかね?」

「何で帰れなかったんだろう?」

「待って!その前に、このタイムスリップって、事故なんだよね?2人とも、未来のあの電車に乗っていて、身につけていた通信装置が誤作動か何かして偶然過去へ飛ばされてしまった?」

「ま、正確にはあの電車じゃないんだけどね。」と御堂。

「そう。あれじゃなくて僕らが乗ってんのは宇宙快速線。」

アオケン少年はまた笑い出した。

「なんじゃそりゃ?ロケットかスペースシャトルか何か?」

「いや、宇都宮と宙の森中央を結んでる大深度の高速地下鉄で、僕たちは長沢浄水プラントって駅からそれに乗って出演に行こうとしていた。」

「そんな鉄道、この時代には無いよ。」

「だから帰れなかったんだ。あの電車なんかに乗っても!」

「何十年後かにその電車が開通すれば、君らは未来に帰れるかもしれないことは、わかった。でも、君たちがお爺さんになる前になんとか元の時代に戻したい。未来の情報がこれ以上たくさんの団員に伝わらないようにしたい。先生は事務室でデスクさんと策を練る。学校の成績優秀なアオケン君と斉藤くんが2人で個別に未来の子達を聞き取りしてアイディアを出してくれ。」

「僕は同じアルトの斎藤先輩にインタビュウして欲しいっす!ってコトは、森村君は、成り行き上アオケン先輩とね?」

と、御堂マリオ。森村は少し当惑したが、アオケン少年がそれを見てエロカワにニヤリとした表情を見てさらに凍りついた。

「好きにしてくれ。それじゃ、それ以外は各自取り出しの練習に戻りなさい。特に加賀協太朗は南安雄のソロ部分のクワジ・レチタティーヴォがまだ全然ぎこちないぞ。高い音の連続だが、もっと心を作って正確に歌い込んでくれ。以上。解散!」

 

トイレに行こうと胸をはりスタスタ一人で合唱団の廊下を歩いていた御堂に森村は走って追いついた。

「マリオ!何でオレ様にアオケン先輩を振るんだよ!」

「何でって、なっちゃん先輩と2人っきりになれなくて逆ギレ?」

「いや、今日はもうさんざんアオケン先輩といっしょにいたんだよ。僕の思ってたアオケン先輩とちょっと違うくて…。っていうか、この時代の合唱団はすっごい素晴らしいんだって憧れてたけど、実際は、なヵ、普通で…。」

「私らの合唱団と完全に同じ合唱団なんだもん、そりゃ普通さ。」

「中梅煋次朗先輩みたく、僕も日本一の少年合唱団員になりたくて入団した。でも、ここにいたら静かに何んにも残さないように、歌も歌わず口をつむってひっそり生きるしかない。」

「歌も歌わない少年合唱団員なんて、ま、聾唖のアコガレの椎太先輩とかはいたけど、私しゃ耐えられまへんがな。」

「だろ?」

あいづちをうった瞬間、森村ブラッドは突然マリオ少年の背後に人物を認め「ああぁぁうわぁ!」と意味をなさない叫び声をあげながら慌てて走り去った。何事かと振り返った御堂の前に、体臭がしそうなほど至近へ迫った中梅煋次朗が体温も伝わる距離でこちらを不審げに見ていた。

「うわぁ!」

御堂も思わず叫んで言葉を継いだ。

「中梅先輩…ど、どうかしましたか?ってか、近いですヨ。密です、密!?」

「ね、未来から来た奴って、オラを見て何で怯えんだよ?マジ不愉快なんですけどー。」

「いや、そりゃ森村くんだけオンリー。あいつ超パニクってんですよ。中梅先輩のポスターを子供部屋のベッドの横に貼ってるようなヤツだから…」

「ポスター?なんじゃそりゃ?…ポスターって、Myojoのジュニア・アイドルのスクール水着ピンナップとかみたいなヤツ?この中梅煋次朗様の??」

「いや、海パンとかじゃなく…。もっと詳しく言うと…」

中梅はここまで聞くなり「知りたくないッ!」と動揺を隠せず、一、二歩進んで振り返り、おいでおいでの手の形をしそうになりながら「でも…」と言いかけ、さらに「知りたくない!知りたくない!」と畳みかけつつ走り去ってしまった。

 

「コレ、言っちゃイケナイことなのかもしれませんが、なっちゃん先輩の大ファンでした!」

「わたし?ありがとう。でもそれ、森村君に聞いたよ。未来にいるカラダが女の友達が、わたしのファンだって。」

「それ、ワタシです!あの、…ウルサイですかネ?」

「いいけど、どうやって未来へ帰ろうかね?」

予科練習室が斉藤なつきのお気に入りの場所だ。予科生の小松作之進とよくここで話したり遊んでやったりする。

「先輩って、超気さくで、下級生に優しくて、おまけに歌は抜群に綺麗で上出来で。」

「はじめて会った子がなっちゃんのコト、知ってるなんて、なんだか不思議な感じ…」

「知ってるって、…全員がよーく知ってますよ。完全なCGNなのに、それに挫けず、元気で明るくて、お客様は男女を問わず大切にして…、落とし物はよくするし、忘れ物もときどきあるけど、おおらかで、秀才くん。でもアルトのメンバーとは固い友情でしっかり結ばれている活発な”男の子”。声はすっごいカッコイイ深い濡れたアルトで…」

「落とし物と忘れ物は合ってるけど、他のことはどうかな?違ってるような気がするけど。」

「はい、知ってます!でも、そのプレッシャーばっかりの悩み多きなっちゃん先輩が合唱団で歌っていくうちに、ある時からどんどん変わっていくんですよ!だから、みんな先輩が大好きなんです!」

「そうなのかねぇ。」

「そうなんですよ!うぐっ!未来のことを喋っちゃったカモ…汗」

「ねぇ、ねぇ、それよりその明るい未来への帰り方を考えないと。」

「ふわぁー、このマジメさがなっちゃん先輩の萌えポイントなんですよねぇ!」

「まじめじゃないヨ!」

「これ、あっしの夢だったんですけど、ココで2人派手に美しい歌、うたいません?」

「だから、未来に帰る方法を考えないと!」

「オッケー!ここの合唱団規則、知ってますよね?」

御堂マリオは仁王立ちになり、両手を腰に当てて胸を張りながら団規を唱え始めた。

「まず、第18条のカッコ6のB!当合唱団員は団員生活の全ての場面に於いて歌を愛し、声あわせて歌い、団員のほこりを確かめあうこと。」

「……?」

「さらに、合唱団規則 第24条附則…団員は練習時間中であるなしにかかわらず、適切に水分補給をするよう各自留意しなくてはいけない。ただし舞台等ライブ演唱中を除くするものとする。なっちゃん様、飲まなきゃ団規違反でアナタを通報するヨ!」

「すごい!暗記してるの?合唱団規則?!」

「覚えてるよ!練習サボれるじゃん!…じゃ、2人でとっとと事務室のウォーターサーバーへお水飲みに行ってから、帰ってきて、団員のほこりを確かめつつ歌をうたおう!行くゾ!おー!」

 

 

斉藤なつきは他の団員同様、通団時に水筒を持たされて来るので、事務室で1.5オンス紙コップをもらってウォーターサーバーから水を飲んだ経験は無かった。だが、御堂マリオの方は練習をサボれるので、わざわざこうするのだという。彼は、なっちゃん先輩が小さな紙コップに注いだ飲料水を、西部劇の酒場のガンマンよろしく一気あおりに飲み干す姿を見て、この団員の後年の活躍を確信した。

「なっちゃん先輩!歌うたいましょうヨ!」

「…歌う…って、何歌うの?」

未来から来た子は、予科生室に戻ってきたアコガレの人がこのセリフを吐くとは思ってもみなかったので非常に当惑した。

「何歌うの?…って、決まってんじゃナイデスカ!先輩の大好きなアレですよ!アレ!」

「どれ?」

むっちりした手がいきなり練習室の扉を開けた。

「ねぇ!大ニュース!大ニュース!斉藤センパイ!『にほんごであそぼ』の公開収録のハガキ、当たっちゃったヨぉー!」

予科生室に飛び込んで来て言うのはソプラノの加賀協太朗。そんなことが今、言えるのは、彼がキッズ・スマホを持って通団してきたからに違いない。

「だからぁ?」

「千葉市民会館だって。憧れの川原エイトくんがセンター・メインで30分間ぐらい歌い踊るんだよ!一度、ナマで見てみたかったんだぁー。」

「キミだってその日練習あるんじゃないの?何曜日?」

加賀は悪びれもせず、左掌を左右に振りながら、

「欠席、欠席!サボ!サボ!」と言い放った。

「エイト君と言えば、コタローだよね!Kotaro Lives Alone!」

なっちゃんが目を輝かしながらそう言ったのを聞いて、御堂は「あなたの場合、それは違うだダロ!」と心の中でツッコミを入れた。

「『帰ってきたぞよ!コタローは一人暮らし』って、何で『帰ってきたぞよ!』なのか知ってる?」

「続編だからでしょ?」

なつき先輩は加賀協太朗と話しはじめた。

「…と、思わせて、実は違うんだな。DVのお父さんから逃れ、お母さんも病死しちゃって一人暮らしをしていたコタローを、お父さんが元通りの善良な親に回復して迎えに来る。それに応じてコタローもお父さんの家に戻ってめでたしめでたし…のはずが、もうエンドロールが流れ始めてるラスト2分40秒で「やっぱり怖かったころのお父さんの姿が目に浮かんでしまう」と、ぼろアパートに戻ってくる。だから『帰ってきたぞよ!』なんですね。そして、それまでおもちゃ刀剣ブル下げて変な殿様語でしゃべっていたコタローは、最後の最後にごく普通の子供になるって言う話よ。」

「最後に普通の子供になる…ってピノキオじゃん。」

「いや、エイトくんの吹き替えたピノキオ、最後は『人間になるっていうのは、肉体のハナシじゃなくって、心のことなんだ』ってスタンスなんだよ。人形の役をアテてるから、ずっと高い声でしゃべり続けてるんだけど、最後にゼペット爺さんの方が溺れて死にかけて、エイト君がその高い声のまま泣きながら『星に願いを』を歌うんだよね。きれいな高い声なの。泣きながらだから、すごい演技力だし。それでおじいさん復活してめでたしめでたし!」

「コタローでもピノキオでも、エイト君は最後に、心で『人間らしい子供になる』っていう難しい役をわざとらしくなく、自然に、説得力をもって演じている。」

「ま、なっちゃんもいっぱい歌って最後に”肉体ではなく”、心で普通の男の子になるんだよ。身体が材木で出来てるとか、女だとか、そんなことどーでもいいんだよ。歌では、誰が星にお願いをしたって叶うっていうんだから。」

未来”少年”はここまで聞いて心底納得し、声を震わせて言った。

「そうか!斉藤なつき先輩の大好きな大好きな愛唱歌ナンバーワンが『星に願いを』になったまさにその瞬間へ、わたしゃ、今、立ち会えたってわけだ!」

 

When you wish upon a star

makes no difference who you are

Anything your heart desires

Will come to you

(星に願いをかけるのに キミが何であるのかは問われない

 心から望んだことが キミに訪れる)

 

きらきら星は不思議な力

あなたの夢を満たすでしょう

 

人は誰もひとり

悲しい夜を過ごしてる

 

星に祈れば淋しい日々を

光り照らしてくれるでしょう

 

ディズニー映画のオープニング・イントロ・ロゴの宵の光景を心に描きながら、3人はアカペラで思いっきり声を合わせて歌った。アルトとソプラノを交換して彼らは二重唱で歌いまくった。歌い足りず、日本語でも英語でも繰り返し歌い、最後はとうとう事務室から先生方が飛んできて彼らの思いのたけをやんわりと制して帰った。

「御堂クン、あのさあ、先生のお誕生日パーティーでこの歌、一緒に歌わない?♪きらきら星は 不思議な力 あなたの夢を 満たすでしょう …って、きらきら星の星はスター。俺らのコトなんだよ。それが先生の夢をかなえる…って、まるでこの合唱団のコトみたいじゃん!」

「なヵ、加賀先輩、ご自身スター呼ばわりで高慢くない?!ま、いいよ!この3人で歌えば動画に残るし、将来、写真が合唱団の記念誌に載るはずだから、うちの母ちゃんめっちゃ喜ぶサー!」

 

”禁欲的で真面目な”アオケン少年と、森村ブラッド満は、個別練習室にこもり、膝を突き合わせて未来への対策を練っているところだった。カワイの黒い背なし椅子は、団員連弾の練習用に少しだけ横幅が長い。

「ネットで調べても、未来から来た人間が元に戻るっていう例は無いみたいだよ。もっと過去へ戻ってる人がいるのかもしれないけど、時間線が違うのか、僕たちの6年社会科の教科書には過去に未来人が現れたということは書かれていないんだ。」

「それは、未来の歴史の教科書にもです。時間規約の第3条で、一切のタイムスリップの記録は固く禁じられているから。」

森村は目の前に両掌を広げ、本のように開け広げて見せた。

「ところで、森村君、きみさっき、ここの廊下でトナミ先輩に僕のこと、聞いてたよね?」

「そうなの?忘れました。」トボケても無駄だ。

「僕の未来に関係することだよね。よかったら、僕にも教えて。」

「ダメですよ。未来のことは時間規約第2条で言えないことになってるでしょ。」

「団規や先生方のおっしゃることをキチンと守って行動する僕が、時間規約を破りたがってるって、キミは今、ビックリしてるハズだよね。…そういうコトじゃない?」

いたずらっ子そうに尋ねるボーイアルトの背後で、お仕置き部屋の小さな窓がそろそろ夕刻の光を透過させはじめている。

「トナミ先輩は、そういうアオケン先輩が普通なんだって言ってました。…でも、僕たちの未来にとっては、それじゃ困るんです。ジョークを言ったりしない真面目で何でも一所懸命なアオケン先輩でいてくれないと。」

言われた本人は首を振ったが、表情は微笑を伴って柔和だった。

「僕は僕でしか無い。未来の僕がどうでも、どう思われていても、僕は今の僕であり続ける。お掃除と庭いじりが趣味で、お習字が大好きで、自分の書いた字がカッコいいんで、超気持ちイイーって毎日思ってる僕であり続ける。…さ!過去に戻った人が元に戻った前例など記録に残され無いってことだけはハッキリした。帰り方は僕らがココで考えるっきゃ無いってコトさ。」

森村は先輩の表情は見ず、ずり落ちるままだった紺ハイソックスを片方ずつ脚を伸ばしてシュッシュッと引き上げた。75年後の日本の工業規格は児童の体格向上が止まっていたために男の子の膝を覆うぐらいの長さのままだ。

「森村君、そもそもキミは一体どうして僕たちのところへ来たの?」

「だから、長沢浄水プラントの少年宇宙研でSerritothって海王星近くのナノプローブと交信してたら、意外と大量のデータが降りてきて、時間が無くなって、今日、出演があるから通信セット抱えて浄水プラントの駅から宇宙快速線の宙の森中央行きに飛び乗って…」

「ううん、そういうコト聞いてない。過去へ飛ぶなら江戸時代の日本でも1970年代中期のニューメキシコでも、ビクター少年合唱隊やライオンズ高知少年合唱団でも良かったはずなのに、何でここへ来たんだろう?」

「そりゃ、ここが僕たちの合唱団だから。」

「でも、何で今?」

「そりゃ、俺ら団員総意でアコガレの時代だからですよ!現に僕はこうして憧れのアオケン先輩の実物に会えて話もしている。忘れてた、握手してくださいっ!」

森村は感情昂って突然右手を差し出した

「これって、もしかして、キミらの思いがこんなタイムスリップを引き起こしたんじゃ…??」

アオケン少年は未来少年の右手を握りしめて大きく手を振った。振られた男の子の腕は八丈島八重根港の桟橋に打ち寄せる黒潮のごとく大きなサインカーブを描いている。

「そうでしょうか?」

「そうでしょ?…全ての原因は、多分、キミたちだ!」

カワイの連弾椅子の左端に、アオケン少年は音をたててベッタリと左掌をつき、ニヤニヤしながら立ち上がって言った。

 

「今、理事会に連絡をとっている。極めて最悪の事態だ。森村君、御堂君、キミたちは今日の6時過ぎまでココでカンヅメだ。しばらくは事務局デスクさんの家へ泊まれるよう、先生が頼んである。団員の家にホームステイは時間規約第2条で未来の情報の漏洩を考えても許可できない。斉藤君たち、ちょっとこの部屋から出ていてくれないか?」

合唱団指導者は本科練習室から現役団員たちを人払いした。グランドピアノのトムソン椅子に腰掛けて、オリオン少年合唱団へ贈る楽譜を選び、付箋をつけて記録しながら続けた。

「森村君、きみはとても少年らしくて良い団員だ。御堂君も友達を思い、すぐ助けにくる勇気を持った団員だ。未来の先生方はさぞや誇りにしていらっしゃることだろう。…そこで単刀直入に言うが、私のお誕生日会をやったらいいと、団員らにけしかけるのは、二人とも止めてくれないか?」

「いや、けしかけてはいないです。」

「そう、この森村くんは、ハロウィーンの仮装で先生のコスプレしたぐらいの大ファンなんですよ。」

「大ファン…?」

「顎のラインまでシリコンモールドで作って、こういう色の背広着て、髪型までかなりのコダワりようだったほどで…」

「じゃあ、私が誕生日会っていうのが大嫌いなのは知ってるだろう?団員の誕生祝いなんてやったことも無いんだよ…」

「えっ!? それは知りませんでした。先生、もちろん、誕生会やっちゃえ!やっちゃえ!なんて、先輩たちには言ってません。でも…」

「でも…?」

「先生はあとご自身の誕生日が数回しか残っていないのかをご存じありません。」

「知ってるよ。」

指揮者は反射的に言葉を返した。

「もうすぐなのかもしれませんよ!」

「それも知っている。」

「じゃあ、何で?残されたみんなはそのとき、先生ともっと合唱を楽しんでおいたら良かったって思うんですよ!」

「実は今の団員の中には、私のその将来のせいでほんの数時間だが過去へ跳んできた者が一人いる。彼も最後に大過去のこの合唱団に来たそうだ。練習日ではなかったらしく、門が閉まっていて入れなかったと聞いた。『希望の虹』という歌を聴き覚えて帰ってきたよ。私が学校で小学5年6年の頃に歌っていた曲だ。」

「その子も会ったんですね?…小学5年か6年の頃の先生に。」

「彼はここへ無事帰ってきて、ニコニコしながら、『先生は、いなくなられてもずっと僕たちの歌を見ていてくださるんです』と心底ホッとしていた。」

「…先生?その子はどうやって未来に戻ってきたんですか?」

「さぁ、わからない。少なくとも君たちみたいにごく普通の電車なんかに乗って戻ってはこなかったよ。」

「普通じゃないです快速です。」

「快速って言っても空飛んだりするわけじゃないだろう?普通に線路の上をガタンゴトンって…いや、今はロングレールだからガタンゴトンはないか…」

「いや、先生、宇宙快速線はマグレブだから、レールなんか無いんですよ…」

森村ブラッド満はここまで言いかけて、突然、憧れの宮村ヒトミを救出するマユツバな作戦を思いついたあばれはっちゃくが「ひらめいた!」と叫ぶ瞬間のごとく目を輝かせた。

「そっかぁ!!先生っ!僕たちの帰り方が分かりました!」

 

 

未来から来た二人は事務室の応接ソファに腰を下ろした大人・団員らを前に、もったいつけてこれから彼らの帰還方法を発表しようとしている。

「僕たち二人がここへ到達した装備は、まず通信モジュール、…これは受信機・アンテナ・増幅器・バッテリーをワンセットにしたものです。それを両足の間に挟み、さらにブレインマシンインタフェイスヘッドセット用のドングルが突き刺さった市販品のタブレットを持っていた。あとは、後頭部にアタッチしたブレイン・インタフェイスを紺ベレーの阿弥陀かぶりでカバー。二人とも同じ先生から借りてきたので、全部同じ装備です。バッテリー切れなどはありません。」

「でも。帰れなかったんだよね?」

斉藤なつきが問うた。

「この装備を持って、宇宙快速線の宙の森中央行きに乗っていた。」

「ここの駅に来る電車じゃないよね?そんな快速線の線路は、この時代には通って無い。」

「その電車と同じような線とか、近くを走っている線じゃダメなの?」

団員たちは次々と思うことを言った。

「宇宙快速の説明をします。」

森村が続けた。

「高速の地下鉄で、リニア推進です。」

「地下鉄12号線とか、横浜市営地下鉄の4号線とかと同じだよね?」

中梅が確かめた。

「…それが、違うんです。12号線や横浜4号線は鉄輪のリニアモーターカー。モーターはリニアだけど、鉄のレールの上を鉄の車輪で普通の電車と同じように走っている。でも、宇宙快速線は、快速だから、加速が終わるとすぐにタイヤが浮いて、日本お得意の高温超伝導の磁気浮上で滑る。」

「そんな鉄道、日本には無いよね?」

「中国とかの妨害で、中央新幹線とかも完成してないし。」

未来少年森村がここでかすかに咳払いをし、胸をはって言った。

「僕は、この高温超伝導の磁気浮上やそれに付随する車内からの直線ファイバ無線にタイムスリップの原因があったと考えた。」

「いや、だから、日本にはまだ高温超伝導磁気浮上式の地下鉄は走っていないんだよ。」

「ジャジャーン!ここで御堂マリオくんから重大なご報告があります!」

「まったく、もったいぶってんな…」

「実は、現在、高温超伝導磁気浮上で走ってるほぼ地下鉄のリニアモーター線が、日本にはたった1ヶ所だけあります!」

「山梨の実験線だろ?それ、どうやって乗るんだよ?一般の子供なんかカネ出しても乗れないだろ?」

「それが、乗れるんです!山梨実験線の『集まれキッズ!リニア体験』乗車会!加賀協太朗先輩にスマホで調べていただきました。1日480席のキャパで、応募すれば子供も乗ることができる!もちろん、僕ら2人もです!」

 

彼らは重そうな装備をかかえ、合唱団練習場のエントランス室で限られた団員たちの送り出しを受けているところだった。指揮者先生が万が一の失敗に備えて同行し、もしもの場合はここまで連れ戻す。彼らは時間規定の縛りで花束もお別れの作文も持たされず、個々の団員たちに記念の品を渡すこともなかった。アオケン少年が森村にお別れの握手を求めたこちら側で、御堂マリオはきょろきょろしながら立っていた中梅煋次朗の前へ進み出て、少しだけ躊躇しながら言葉を発した。

「あのぅ…」

「何か、問題点?」

「あの…、ちょっと、誤解を与えたかもしれないと思って…。森村君のポスターのコトで…」

森村は、急に自分の名前が聞こえ、ぎくりとしてこちらを見た。

「団員募集のポスターなんです。ポスターに6年生ぐらいの頃の中梅先輩がカッコよく写ってて…。ちょっと森村君おいでよ。」

森村ブラッドは走り寄って揉み手しながらようやく中梅をはっきりと見て立った。

「それ、最初から言っといてくんないと!本当のコト?」

「本当です。中梅リーダー!あー、あの…、僕はそのポスターを見て、どうしても、どうしても、どうしても、少年合唱団員になりたくて入団しました。『きみの歌(うた)は必(かなら)ず僕(ぼく)が守(まも)る』って先輩のコトバが…」

「それがポスターに?そりゃ、逆だよ。今までの僕は…丘村先輩とか青畑(兄)先輩たちに守られて可愛がってもらって、相手にしてもらってココまで歌ってきた。僕の歌は先輩たちが必ず守っていてくれた…最後に、リーダーになった?僕は、今度はそれを未来の後輩たちへ…?」

「部屋のベッドに貼ってあるんです。ベッドのとこに貼って毎朝、毎晩見てるんです。合唱団だけじゃなく、辛いときも悲しいことがあったときも、逆に嬉しいことやすばらしいことがあったときにも、先輩のかっこいい合唱団制服姿とそのコトバを見続けて僕は頑張れた。」

中梅煋次朗は数秒間、真摯な表情で未来の後輩たちを見つめた。中梅のそういう表情を今まで合唱団のどの団員も指導者も見たことがなかった。

「きみが僕に話しちゃったことは、とんでもない時間規約第2条の違反のはずだよ。」

「はい、すみません。」

「でも、とっても嬉しかったナ。僕、これからも頑張ってそういう団員になって卒団してみせる。ありがとうね!」

御堂はニヤリとして皆の方へ体を戻した。森村は明らかに安堵したが、まだ10歳の少年へさらに穏やかで甘い憧憬の眼差しを手向けた。微笑まれた中梅煋次朗は元通りのお茶目な「チューくん」に戻り、未来少年に笑ってウィンクした。

「じゃ、大月までの直行バスに遅れないよう、早めに出かけたい。アオケン君、中梅くんたち、留守番をくれぐれも頼むよ。行ってきます。」

指揮者先生は二人の未来少年を連れて玄関の敷居を跨ごうとした。

「それでは、森村君、御堂君、未来に長寿と繁栄を!」

振り向いた彼らの目には、元通り真面目で真剣な団員に戻ったアオケン少年が、右手指を変な形にくっつけてバルカン星人の挨拶をしている姿が映った。森村はゾクゾクして畏怖の目線を返し、指揮者先生はニヤついて前方へ視線を戻した。

 

 

ドアを開けたところに喫驚の表情で立っていたのは、顔色と人相のあまり麗しく見えない男と、ズッコケ三人組…オリオン少年合唱団の一行だった。

「お出かけですか?」

「ええ、山梨の郡内の方へ、この子たちと…」

ちょっと改まった気持ちで玄関を出た未来の子達は軽く頭を下げた。

「とり急ぎではありましたが…お贈りした楽譜の件で、何か、不備などありましたか?」

指揮者先生が先に話を切り出した。気持ちが急いていたからである。

「とんでもない!すばらしい楽譜を何枚もいただいて、心から感謝していますよ。今日は、お礼と心ばかりのお返しをと思いまして楽譜をお持ちしたのですが、出直した方がよろしかったですか?」

先生はオリオンのハカセ君らが、白い浮輪図案が中央に入るネイビーの縦帯という、ひと目見てよくアリの『泉屋のクッキー詰め合わせ缶』の紙袋を両手に一つずつ、重たげにブル下げているのを見て、

「いや、余裕を持って出ようと思っていたので、立ち話で良ければ、かまいませんよ。」

と言葉を返した。ドアの隙間から、この様子を目にしたアオケン君たちは、また一大事かと、ぞろぞろ外へ出てきた。

「ところで、この団員さんたちがお持ちの重そうな手提げは、先日こちらで拝借した機械ではありませんか?これからお仕事に行かれるんですよね?」

アオケン少年はやっぱり来たかと故意に視線を逸らした。

「いや、これは時間を移動するための未来の装備なんです。」

と、先生が応じる。

「音楽や合唱とは全く関係ありません。」と斉藤なつきが念押すように言い添えた。

「で、今日これからこの子達を未来へ返すのに使いたい。見なかったことにしていただけませんか?」

未来の2人は装備がヘビーでオリオンの指導者を見て直立したままわざとらしくニヤッとした。森村が言った、

「お願いします。僕らが帰りたい未来では、オリオン少年合唱団のこと、”海賊”とか”楽譜ドロボウ”って呼ぶのは、失礼っていうかハラスメントにあたります。」

御堂も軽い口調で、

「んでもって、ボクたち2人の少年宇宙研のグループのメンバーが、大親友なんですけど、オリオン少年の団員なんですよ!山本哲平っていう、高い方のメゾソプラノ!”ナチュラル・ピュアなボーイソプラノ”とかなんとか、そいつ、合唱団でキャッチフレーズ付けられてるらしくて…」

「そ、そのキャッチフレーズは…」

オリオン指導者が右手人差し指を子供達に向けて驚いた。

「おじいちゃんもオリオンの団員だったって言ってました。」

「なんだっけか、山本ケンイチだったけ?あいつの、おじいちゃんの名前…」

「”ナチュラル・ピュアなボーイソプラノ”山本健一は、うちの合唱団のソプラノのトップソリストだが、なんであいつのことを知っている?」

「だから、それは…」

「オレら、タイムトラベルしてきたって言ってんじゃん。人の話、聞いてねぇなぁ。」

御堂がラフに話し始めたので、指揮者先生がそれをさえぎった。

「…どうでしょう?今後も私たちの合唱団とおたくの団は楽譜の融通を相互にしあって歌っていくというのは?ステージMCで『オリオン少年合唱団のアーカイブ提供で、何某と言う歌です』といった原稿を入れていってもいい。だから、今日のことは黙っていてもらえませんか?」

「ありがたい。これで望みが一つ叶う。お礼と言ってはなんですが、これ、みなさんでお召し上がりください。それから、当団でコレクションした楽譜をいくつか…。そうだ!この中には…」

ズッコケ三人組がそれぞれ泉屋のホームメードクッキー缶とちょっとしたファイルを入れた無地の紙袋を差し出した。

「”ナチュラル・ピュアなボーイソプラノ”山本健一と、ここにいるアルトのこの子が2重唱をとる『村の道ぶしん』を含んでおきました。」

三人組のモーちゃんがぺこりと頭を下げた。

「市販でネット通販もされている私立学校の歌集に入っている古い楽譜なんですが、岡本敏明の編曲が光ってましてね、最後の2段の掛け声を2部で歌うんですが、子供に歌わせるとかなりキレッキレの明るいフレッシュな音が鳴るんですわ。どうか皆さんで楽しんで歌ってみてください。それでは、私たちはこれでおいとまします。」

 

……………

 

おかあさん

ぼくたちの乗る船は、まだデルタ宇宙域中央部セクターから抜け出ていません。

危険領域内なので、僕たち子供も毎日、退避訓練が欠かせません。

脱出ポッドの中の爆破ボルトの場所も押した時の感触も覚えてしまったくらいです。

この間は、合唱団の練習の最中にアラートが来ました。

中梅君と2人で二重唱を歌っていた最中だったので、悔しくてしかたありません。

おかあさん

ずっと前、中梅君が家に来た時、

「僕、中梅君みたいな弟がほしいよ。おかあさん、作って。」

と頼んだら、おかあさんが

「いいよ。でも、弟ができたら、きみが弟みたいに大切にしてる中梅君の方、どうする?」

と、聞いてきたので、ぼくはとってもつらい気持ちになりました。

もう2度とあんなことは言いません。

僕たちの船を守ってくれる護衛艦、USSジョーディ・ラ=フォージには面白い艦載AIがいます。

こないだは休憩時間にずっと合唱の話をして、いっしょに歌も歌ったんです。

遠い遠いところを航宙する僕たちですが、そういうわけでちっともさびしくありません。

また亜空間通信します。おやすみなさい

 

「こいつ、きっとデルタ宇宙域で中梅先輩と二重唱するんだろなぁ。曲は多分『村の道ぶしん』だぜ。ウラヤマCィー!」

森村ブラッド満は、そう言いながら胸の前で右手を使って「C」の文字を作って見せた。

「ねぇ、前から思ってたんだけど、『道ぶしん』って、ハクビシンの同類?証城寺のタヌキ的な?」

「え”!おめぇ動物と思って歌ってたのかよ?『道ぶしん』って言うのはァ、道路を修理したり、作ったりするコトだよ。限界集落とか、高度経済成長期にできて老朽化で閉鎖されちゃった交通インフラとかを直すボランティア…」

「あー、結構、今っぽい歌なんですねぇ。」

「バカか!」

少年宇宙研の三人組は、あまり明るくはない第8衛星のぶっきらぼうな断崖の画像を見ながら、ウォーターサーバーから作りたての水道水(?)を落として飲んでいるところだった。

 

土をはこび 草を刈りて

われらは励む

われらの村の道ぶしん

村のために 国のために

つくしたるわれらの年寄りの歩みやすかれと

朝な夕な われらは励む

われらの村の道ぶしん

エンヤラホイ ヤレホイ ヤレホイ

エンヤラホイ ヤレホイ ヤレホイ

 

そういうわけで、ここにいる3人とも『村の道ぶしん』を合唱することができるし、二重唱でステージパフォーマンスにのせることも可能だ。森村の唯一の心残りは、この曲のソプラノ側を♪ミファソーラミソー…ファファミ、ミファソーラミソー…と歌いつぐ、中梅煋次朗らしい音吐を目前で聴くことができなかったという贅沢極まりない口惜しさだった。

「ねぇ、山本君。大昔のオリオン少年合唱団は、”海賊”でも”楽譜ドロボウ”でもない、良い子たちだったよ。」

「そうだろう?俺のじいちゃん、コノ曲をソロで歌ってたんだから。会って歌声聞いて帰って来りゃ良かったんだよ。残念!」

時間規約のローカル第4条は「過去の出来事にあまり思い悩まない。」であることを、森村は突然思い出した。

 

 

「先生ぃー、オレらの仕掛けたバースデー・サプライズ・パーティーに、あんまし驚いてなかったですね?」

中梅煋次朗が少しだけ不満そうに、指揮者先生へ向かい、左のゲンコツを体の前へ伸ばして可愛いパンチの真似事をした。

「だいたい事前に知ってたからね。…それに、みんなと一緒に『希望の虹』と『星に願いを』どうしても歌いたくなったんだ。」

タイムスリップを知る団員たちが集まり(つまり、彼らは先生の誕生会の仕掛け人だ…)、事務室の1.5オンス紙コップへ、ウォーターサーバーから水を注いでささやかな乾杯の音頭をあげたところだった。

「次は、『ピノキオ』の映画鑑賞会でもいいですよ。」

加賀協太朗が提案する。

「でも、なっちゃん、まさかオリオンのくれた楽譜の中に『アイアンシャープ』が入ってたなんて、うまく出来すぎじゃねぇ?」

「歌詞を見てビックリ!ウチュウのカイソクセンだなんて!」

「ま、映画で歌ってるのは男の子だけで、上高田少年合唱団がアテレコしたってウワサだから、オリオン少年合唱団のレパートリーに入ってても不思議じゃないでしょ?」

 

僕らの夢が 

朝陽を浴びて 空に描いた

アイアン アイアンシャープ

僕らの夢が こだまする

宇宙を駆ける 快速船

ハヤテのように駆け回り僕らの敵をやっつける

アイアンシャープ アイアンシャープ

アイアン アイアン アイアンシャープ!

 

ニュー東映の『宇宙快速船』のラストシーンは、男の子たちが高らかにこの歌を唄いながら、長沢浄水場配水地・人工地盤の噴水立つ近代庭園で、明朗に行進するというものだそうだ。

『ピノキオ』映画鑑賞会の次の回の上映演目は、おそらく『宇宙快速船』になることだろう。

 

All homages to

Star Trek: Strange New Worlds, 

Season 2 (2023)

 "Those Old Scientists" 

written by Kathryn Lyn & Bill Wolkoff

and adaptation.

 

スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールド シーズン2『大昔のサイエンティスト』翻案

および

心からの感謝と敬意を込めて

 

🚇『宇宙快速線 前編』へ ⇦戻る

▲「あんたたち4人だけで歌うんだから、普通、指揮者はいないのよ。弦楽四重奏だってビートルズやフォーリーブスだってトラジャや櫻坂46だって、指揮者なんかいないでしょ?」「何じゃ?フォーリーブスって?」「いや、俺ら ソプラノ♪7ボーイズみたく踊れませんから。」「そっか…。じゃ、キミらバレエは踊らなくてもいいか。歌うだけで。」「いや、いや、先生、そういうハナシじゃなくて!」

 

ジェファソン大通りが帽子掛けフックのカタチで折れ曲がっている校地の北の角のあたり。彼らのドミトリはWebbタワーの中層階だった。高層ビルで東南向きのその部屋のサッシ窓からは、オレンジ郡アナハイムまでLAの大住宅地の眺望が、西岸海洋性気候の初夏の爽快な日差しの中、塩ビ製ラップ膜のように輝いていた。

アメリカの夏休みは6月からすでに始まっていて、無人になった学生寮の1ユニット(2人部屋二つにシャワールームとレストルームが1つ付いている)に少年たちは飛び込み、1週間弱を過ごしたのだった。雨のディズニーランドへ繰り出して大騒ぎした以外、煋二朗らは毎日飽きることなくほんの数ブロック離れた学生食堂でサーバーからシャリシャリしたチョコフラッペをタンブラーに注いで力任せに吸いながら何の飾り気も無いホットドッグやナポリ·ピザにぱくついたり、部屋の階のラウンジでベンダーマシンから様々なスナックを落とし、アメリカ的な色彩のPT包装を引きちぎってむしゃむしゃ食べたりして満足していた。

アーノルド・シェーンベルグ・インスティテュートは、彼らの学生寮のタワー卑近にある、ちょっと南カリフォルニアの風情にそぐわない木立を臨む微かに表現主義的なにおいのする超モダニズムの建物だった。12歳の男の子は、日本から歌の勉強のためはるばるやってきたということで歓待され、研究所所蔵の貴重な楽譜の手稿やポートレート・スナップ類やその他何なのかもわからない様々な資料や絵や写真を毎日次々と見せられた後、『Herzgewächse(M.Maeterlinck)』とタイトルの振られた古ぼけた手書きの直筆楽譜に目前で遭遇した。

ドイツ語の歌詞も注記もタイトルも筆記体で読めなかったが、楽譜には休符や記号が正確に書き込まれ、音符のタマもまん丸に塗りつぶされ几帳面な印象を受けた。彼がそれを『心のしげみ』の原稿だと気が付いたのは、歌っていると永遠の長さに感じられる前奏の、四分音符5拍と半ののち見覚えのある旋律線で16分音符の連なりが認められたからだった。書き込まれたカーシヴはおそらく“Meiner müden Sehnsucht blaues glas(わがけだるき憂愁の水色せる水晶の釣鐘のもとに)”と書かれているはずだと少年はたちどころに判じた。小学6年生の彼はドイツ語を全く解さなかったし、ドイツ語には何の興味も覚えなかった。ただ、少年合唱団員の5-6年間で身に着けた歌うたいの鋭感から、「この曲はドイツ語の発音にしっくり来るよう作られている。」と言うことだけは何となく理解できた。彼は歌詞のドイツ語のプロナウンスを指導者へしがみつくように聞き習い、それを旋律線に逢わせ最大限効果的に出力することが自分の義務であると勝手に思い込んでいた。

 

♪…dem blauen sendet sie ihr mystisches

(その祈りは青き、白き神秘の…)

 

「ミステリーの」というドイツ語シラブルの頭にあるハイfの音(彼の家にあるピアノの、上から2番目のオクターブの中にあるファの音だと先生方に教えられた)を正確に出すことよりも、blauenのlauを撓むようにたっぷり発音することや、sendet sieのsの破擦音を本当に何かがずれて擦れる雑音のように出すことや、mystischesのscheをなるべく茫漠とした狂気を感じさせる響きにするようにといったことにいちいち留意して練習をくりかえしていた。彼のホワイトベルーガのような面立ちにそっくりな母は「学校の勉強とかもこのぐらい熱心にやってくれたら、こいつはさぞや大成するだろうに」とは思っていたが、ただ立っているだけで人を楽しい気持ちにさせる息子の性格を認めていたので一応口には出さなかった。そういうわけで、彼は目前へ提示された『心のしげみ』の手稿楽譜の最初のひとくされを胸声に近い発声で(昨年までの彼の所属は予科生時代から長いこと第2メゾソプラノのままだった)、“Meiner müden Sehnsucht blaues glas(わがけだるき憂愁の水色せる水晶の釣鐘のもとに)”と声に出して歌った。引率した大人たちは、小さなタラコ口唇の飛ばす唾液が音楽史上遺産級の貴重な資料に飛び散っては大変!と咄嗟に少年の真っ赤な唇の前へ左掌をかざして遮った。大きな手が口を覆うようにかざされ、ほんの最後の単語部分だけだったにもかかわらず、自分の声が一瞬彼の耳介に反射した。良い響きだと自惚れたが、実際その声には熟れた少年独特の深い鳴りと母への土産に買ったはずだったバーベナ・ハニーサックルのフレグランス・キャンディの残り香が含まれていた。手書きの楽譜は見えなくなった。彼は歌い止め、先生は左手をパンツの側へ戻した。

とはいえ、6年生になった煋二朗は周囲の人々の気持ちを毎回のステージ上やレコーディングスタジオのマイクブームの下やコンソールのデスク前で比較的良く慮ることができている優良なボーイソプラノだった。指導者たちはそれがよくわかっていたので、作曲家の手稿を前に思わず口から歌声の出た彼の地の姿を見て、まだ半ズボンの制服も結構カッコよく似合うローティーンの男の子をわざわざ太平洋航路のB78Pに乗せてLAXまで連れてきた気苦労も労われたような気がした。

 

 

♪×Pierrot! Mein lachen Hab ich verlernt!

  Das Bild des Glanzes Zerfloß - Zerfloß!

 (ピエロっ!わがニヤり 忘却とは!

  鋭利なる姿態 溶け去り!溶け去り!)

 

中梅煋二朗は、ドムのダイニングのマリーゴールド色のビニールソファーへエロティックな姿態をさらけ出すかのように寝そべり、それよりもはるかに煽情的な『月に憑かれたピエロ』の第9曲冒頭を唸っていた…というより自身の歌の世界に酔いしれていた。ドル札とクォーターを律儀に2枚突っ込んだベンダーをぶん殴って出したスニッカーズを寝そべったままくちゃくちゃ音を立てながら食べ、むにゃむにゃ言いながらふしだらなドイツ語の発音で「歌って」いる。本当はマウンズ・チョコ&キャンディーココナッツが食べたかったのだが、その隣に並んでいたスニッカーズ・アーモンドに瞬時目移りしたのだ。少年はクリーム色のピロー包装のギザを引きちぎって開けた激甘チョコバーの袋の内側をチョコまみれの気持ちの悪い色の舌ベロでぺろぺろ舐めながら(袋の内側でさえ十分に甘かった)「♪×Hab ich verlernt!(忘却とは!)」と歌い(?)、ベロ出しちょんまのごとく白目を剥き、聞くものがなるべく不愉快になるよう「わたし、ついにイッちゃいました 戻っては来ません」という少年ホラーな狂気を創出していた。

勿論、『ピエロ・リュネール(月に憑かれたピエロ)』からの3曲は、彼の担当ではなかった。

3年生の1学期までアングラ劇専門子役を養成する児童劇団にいた丘村虎夢(アタり役は『帰ってきた毛皮のマリー』と『南絶望が丘79』だったそうだ)が、培った演技力や劇の発声を買われて殆ど歌唱力やクラッシックの練度を問われない『ピエロ…』の歌い手(?)に指定されていた。今回のシェーンベルクのパッケージのように合唱団で数曲を吹き込む場合、何人かオーディション等で残った子供たちは、病欠などのもしもの場合に備えて互いのレパートリーを代役で歌えるよう補欠選手のごとく練習していた。中梅が『ピエロ…』を歌うことができるのもこのためである。だが、丘村たちは逆にト音記号の五線譜の上に加線3本あってその上に乗った四分音符タイ4つ分鳴き続けたり、下はト音記号五線譜下の加線2本の下に付いた音までを正確に歌ったりという『心のしげみ』を正確に歌うことはできなかった。もともと下のメゾ所属で高い音から低い音まで広いレンジで歌う訓練を何年か積み重ね、ついに声が熟れてソプラノへ移動になった中梅さえ毎日十分な声慣らしの後、グリーンのカシオトーンミニ相手に丁寧な丁寧な練習を着実にこなしてモノにした声だったからである。彼へのオファーがもし昨年一昨年の未だきちんとした集中力の無い時期に来ていたとしたら、このような無理な注文に応えることはできなかったろう。中梅本人がむしろ自己の成長練度に気づいて「最近は、頑張れば歌えるようになった」と自覚していることは頼もしいことだった。彼は茶色っぽい唾をソファー前の床に飛ばしながら「♪Zerfloß - Zerfloß!」とドイツ語独特の強烈な無声音を吐いた。彼は最後に付く「エスツェット」という字母の名前を知らず(先生から教えられたのだが覚えていなかった)、「ふにょふにょ」と呼んでいた。読み方は強いS の音。6年生なので直前のFが「下唇を噛んで強く吹く」ことも知っていた。「ともかく関西弁のような、母音を後添えする有声音にはしない」と丘村は歌詞唱の最初のレッスンで繰り返し強く注意を受けていた。その丘村虎夢は中梅の特訓が終わって、入れ替わりにこんな研修(?)旅行の最中も別室で個人レッスンを受けているところだった。

 

やってきた少年らはスマホのようなものは誰も持っていない。彼らは高学年なので、親が教え込めば両親に電話をかけたりSNSで家族に連絡をとったり、もちろんメールが日本にも簡単に届くということも理解してその通りできたのだろうが、大人たちは盗難や犯罪に巻き込まれることを恐れて「持って来ては絶対にいけない」と念を押して携行を禁じた。モバイルを他国人に盗まれればどういう恐ろしいコトが起こるか、中梅たちは引率指導者たちに各自1つずつ考えて言わされた。最後の方になると言うことが枯渇し、困った丘村は苦し紛れに「日本人男子小学生のバカさ加減や英語の成績の悪さがバレる」と言って子供たちの失笑を浴びたが、教師は「そうだね。それもあるよね、恐ろしい!」と評価した。「先生方は要するにアメリカ研修旅行へケータイを持って行かせたくないのだ」と彼らは納得して、この件はおしまいになった。保護者らは「引率者たちが毎日、スマホ撮影の写真・動画を律儀に送ってくれるならば」と賛成した。夏休みには合宿や演奏旅行やレコーディングがびっしりあって、小学生になってこのかた海外旅行など行くチャンスを持てない少年たちは、海外から日本へ電話をかけるにはどうしたらよいかなど考えたコトもないのだった。中梅はだから、他の団員たちがレパートリーのおさらいをして、旅行の最中も常にノドを温めている間、ゲームしたり、電話をして真夜中就寝中の家族を叩き起こしたり、LINEでミュートメッセージを送って暇をつぶしたりすることもできず、ソファーへ仰向けに寝っ転がり、ベンダーから叩き出した馬鹿みたいに甘いスニッカーズ・アーモンドをくちゃくちゃ食みながら『ピエロ・リュネール』をイイカゲンに「歌って」過ごしていたのである。

ダイニングのオレンジ色のドアのメタルノブがカチッと下りて、『自然Natur』のアオケン少年が滑り込むようにして入ってきた。中梅は口を閉じ、それでも舌と上前歯の間へキャラメルとヌガーと破砕アーモンドと少年の茶色くなった唾液の混濁物を溜めながら1曲目『月に憑かれて』10小節目の「…stillen Horizont」の部分を唸っていた(正確には、♪stillenという部分の五線譜の上には(歌え)という指示があり、”Horizont”の楽譜の部分には(語れ)と強制的な命令がドイツ語で付されていたので、譜面通りの音程で虫唾が走る気色の悪さをきちんと保って顎をしゃくりあげ、黙った。

 

♪Nacht fließt in Tag und Tag in Nacht~ (宵は昼へ、昼は宵へと~)

 

アオケン少年は、立ったまま、『自然』の高貴な歌い出しを、何倍も速いテンポで囀るように歌った。男の子の声は澄んでいる上に、凛々しさも張りもあったので、歌声の下に付随する、泥酔したワーグナーが「わが高貴なりしドイツ民族の黒き森の深き夜よ、おまえは香ばしく情欲に満ちて官能的だ!」とかなんとか喚きながらテキトーに筆を走らせたような伴奏のノッタリした白丸の音符のごてごてと重なった和音がほわーっと2人の心には聞こえていた。

「何で同じ人が作った曲なのに、こんなめっちゃ馬鹿みたいに感じが違うんスかね?」

中梅は口の中のモノを飲み下しざま、本当にワケワカランという口調で6年アルトに愚痴った。

彼らの見せてもらったオリジナルスコアには、アオケン少年の『自然Natur』が1904年、中梅が戯れて歌っていた『月に憑かれたピエロ』が1912年作曲とあった。約8年だ。すぐに成長して6年間ぐらいで終わってしまう少年合唱団員でも在団中にこんな人格や歌の変化はなかなか訪れない。アオケン少年は右手に重く握っていた25セントクオーターを7枚も律儀にドリンクベンダーの投入口へ突っ込んで、落ちてきたゲータレード・クールのスクリューキャップをグシャリと捻って美味そうに飲んだ。彼らの体温は高く、気候は爽快で、歌い疲れていることもあり、口渇していたのである。中梅が合皮ソファーから上半身を起こしたので、ボーイアルトは空いた座面に通団服の尻を落とした。もともと短めの半ズボンの方が好みなので(ズボンの裾が腿に張り付くのが鬱蒼しくてとても嫌だったのである。かなり汗かきの子なのだ)色黒の太ももがあらわになり、確かに涼しげな様相ではある。

「俺っちの『心のしげみ』と、交換しない?」

「何を?『自然』と?…ムリだよ。あんなに高い声、出ないもん。」

「知ってる?15小節目までアオケンくん歌って、中クンにパスするって計画あったの。」

「知ってるよ。1回歌わされたじゃん。先生方、反応イマイチだったでしょ。」

「そうだっけ?忘れた。」

「確かに曲の前半はアルトの歌いやすいセンリツだけど、中梅くんのいつもの声をずっと聞いてると、中くん一人で行けるって僕は思ったけどな。キレイな濡れた良い声だよ。僕は大好きだし、ずっと聞いてたいと思う。いっつもね。」

「僕はアオケン君の声って、合唱してるときはあんまり聞いてない。…どうしてアルトのアオケンくんにソプラノの中梅クンの声がいつも聞こえてるの?」

「どうしてだろう?好きだから?かな。」

「俺っちの声って、そんな良くないでしょ?クセがあるんだってよ。」

「クセがあるのって、悪いことなのかな?」

中梅煋次朗は6年生らしくなく、ボーイアルトの左手をとって、まだ少年の形を残している黒い人差し指に真っ白い自分の指を絡ませた。

「僕がなぜ少年合唱団に入ろうと思ったのか、知ってるでしょ?」

アオケン少年はされるがままに人差し指の力を抜いている。中梅がバネ指症のようにボーイアルトの人差し指をカックンと折り曲げた。

「知ってるよ。トナミ先輩にアコガレて、絶対に一緒に歌いたいってクリコン聴きにきて『神の御子は…』聴いて思ったんでしょ。それ、有名なハナシじゃん。まったくモノ好きってか、変わったシュミだよ。あんなジャイアンゴリラみたいな先輩。」

「僕は予科の時も、練習中に本科のお兄さんたちの部屋から合唱が聞こえてくると、トナミ先輩の声が聞こえてこないか耳を澄ませて全集中してた。本科に上がって希望通りアルトに配属になると、今度は自分の背中の方から聞こえてくるトナミ先輩の声を聞いた。幸せだったんだ。超憧れのお兄さんだったから。」

中梅は組み合わせた自分とアオケンの指を見ながら、「信じられない」と呆け顔をして見せた。

「毎日毎日そうしながら歌っていたから、そのうち他の子の声も歌いながらききわけられるようになった。中梅君の声は4年生の2メゾにいた頃まではたしかにフニャっとしたボケた声だったけれど、5年のころから急にヒーローっぽいカッコいいソプラノになって…」

「中梅様には合唱のときはアオケン君の声ってぜんぜん聞こえてこないけれどね。」

「うん、いいんだ。僕は自分ではそれがボーイアルトだと思ってる。僕は中梅君たちや上のパートのみんなの声に溶けて鳴るように歌いたいって思ってるから。」

「アルトだから?」

「たぶんネ。」

12オンスもありそうなゲータレードのボトルはあっという間に空っぽになった。

丘村虎夢の『ピエロ・リュネール(月に憑かれたピエロ)』からの2曲のおさらいは、どこまで進んだだろうか。

突き上がった血糖値の、甘美な尋常ではないブレスをともなって、中梅は7曲目の最後の歌詞、おどろおどろしいトリルのついた

 

♪× todeskranker Mond(末期の月…)

 

と、男の子の悪ふざけ発声の様相で声震わせて鳴いていた。

 

 

国民社会主義ドイツ労働者党という名前を6年生の中梅は勿論聞いて知っていた。

他国と違い、ユダヤ人を厳しく差別する風潮の比較的緩やかだったワイマール期のドイツで、自分たちの利益のために、人々が何となく違和感を抱いていたユダヤ人に目を付けたのがナチスだった。彼らは本来、再軍備し軍事侵攻して占領地のポーランド人やウクライナ人や白ロシア人を始末し、そこにドイツ人を入植させることが理想の夢だったので、その費用のお金や仕事のポストのためにユダヤ人を利用して最後は虐殺のうえその死体や骨まで土に混ぜて有機農業に使ったのだと聞いた。シェーンベルクは、元来ドイツ併合地カトリックの音楽好きな銀行員でしかなかったが、運悪く両親ともユダヤ人だったそうで、これは合唱団で歌の指導を受けている合間にちょこちょこと聞かされた。だが、彼ら5人の海外研修がなぜこんなところで行われているのだろう?指導者は「SF小説の『高い城の男』って知っている?」と子供たちに尋ねていた。

「『高い城の男』でも、ココは日本の占領地だし、ニューメキシコは中立地帯なのよ。」

ドラマにもなった小説らしい。

「先生ぃ、カナダは?」

「ナチス傀儡政権のヴィシー・フランスの領土ってとこでしょ、多分…」

話はぜんぜんよくわからなかったが、パラレルワールドSFでも、カリフォルニアはナチスドイツに占領されずに済んでいるらしい。要するにユダヤ人で不可解な音楽ばかり作曲していた男の一家は、彼が喘息持ちだったこともあり、ナチに占領されそうもないこの場所へ逃げてきたということがわかった。

レコーディングプロデューサーのクライアントからは、中梅への指名で「『心のしげみ』は、伴奏にウィーン・ハーモニュームが入っているので、ルームエコーのバージョンも作ります。ボーイソプラノは巻き舌を使い、ビブラートを付けずに歌ってください。」というリクエストがついていた。6年生はもともと「3年の頃からビブラートつけて歌ってるソプラノの佐久平くんとかみたく、そんなプロい真似できんですよ。こちとら、所詮メゾなんすから、フツーに歌うだけです。」という謙虚さなのだが、巻き舌の出し方はスノーマンの『Walking In The Air』のソロをオリジナルのブリティッシュで吹き込んだ経験のある宮崎レオンや、スペイン製ゲイ映画の『ムーン・リヴァー』西語版(スペイン語だから発音は『ムーン・リリリィベル』)を歌ったアオケン少年に頼み込んで教えてもらいモノにした。その他様々、SやschやらTやら、子音の出し方には指導者から執拗な指導がさんざんあった。

「最後のコトバの最後の音なんだから、Gebet(祈り)の語尾は、特に気をつけてね。ゲベート!にしないでよ。Tに母音をつけないでね。ちぇ!…とか、ゲッ!…とか言うでしょ?あれと同じなのよ。ツバを吐くみたいに!中梅くんのこのTの音が出た合図で、伴奏が後奏の一番ヤバい幽霊チックなめっちゃホラーなアウトロを聴かせるんだから、ココはキミの最後の聴かせどころでもあり、曲の重要な結節点でもあるわけです。わかった?」

中梅は一応「わかりました」と応ずる以外選択肢は無いと思った。日本では今週あたりからもうクリスマスレパートリーの練習が始まっているのだろうか?いや、正確には11月のクリスマスツリー点灯式の演目のおさらいということになる。彼らは自分たちが現在の合唱団の基幹メンバーであるということを自覚していたので、ボクたちがいないうちに予科上がりの連中の音取りや『クリスマスの12日』の歌詞の覚え直しや『ハッピーホリデー』のカノン部分のテンポ・キープなど、自分たちがさんざん通ってきた基本的な場面のおさらいを進めるのに好都合かもしれないと高慢に思っていた。

 

 

彼らはサマーセッション関係の学生たちがマクドナルドホールの階段状になったエプロンで歌っている光景よりも、ステージホリゾントに設えられた、何か大きな犬歯飾りの敷き詰められたマホガニーっぽい壁面の方に強く引かれた。学生らはそこで座学だけでなくほとんど歌のパフォーマンスばかりの演習を短期集中で繰り広げているらしかった。

 

「恥ずかしいことですが、アメリカ亡命後のシェーンベルグはプロイセンのアカデミーで教えていた時とは違い、この大学では音楽専修ではない学生たちに音楽の話をするような授業についていたわけです。1936年3月16日付けのシュレッヘン宛 の手紙で『私は、アインシュタインが中学校で数学を教えるような、無駄なことをしている』と書き送っています。彼はその後、UCLAでオーケストレーション…例えば『和声構造の機能』といった授業を行い、そのための教科書も書いた。現代の一般の聴衆から難解と評されることになるシェーンベルグですが、この時期を境目に初心者向けの音楽理論の著作を残す機会を得たわけです。気難しかったと言われるバルトークが、やはりナチスと共産主義を嫌ってアメリカに渡った後、アメリカの聴衆にもわかりやすく明るいイメージの作品を作ったことと似ていますよね。『管弦楽のための協奏曲』の終章のフィナーレを初演からわずか3ヶ月後に、ハリウッド映画のオープニング・ロゴのバック音楽のような、明快で気分を高揚させるものへと書き換えた話は有名です。」

 

合唱団の子供達はレクチャーの最後の5分間ほどを指揮者先生の簡単な通訳で聞き、その後は学生たちの本日の学修結果の発表を聞いて形ばかりの『聴講』を終えた。引率指揮者が講義の終わりを見定めて、走るように前方へ駆け寄り、学生たちや講師に団員たち4人を指し示して何かパフォーマンスのようなものをプレゼンかプレゼントすると大きな声で喧伝しているのを少年たちは聞いた。コーヒーブレークに5分間もらえないかと言っているように聞こえたが、それは少年たちのためではなく、講義が終わってくたくたの参加者のために発せられた言葉であることを子供達は理解していなかった。

 

「4人で20分間歌うのも、40人で20分間歌うのも同じじゃないの?まさか、ギャラの人数対時間とか考えてんじゃないでしょうね?」

「え?ギャラ出るんですか?」

「出ないわよ。あくまでも日米親善です。」

「先生にはギャラが出るんですよね?」

「出ません!先生はココの音楽学校の受講生だったのよ!心からの恩返しのライブパフォーマンスです。大日本太平洋合衆国の勇ましき少年合唱隊の諸君、あなた方のその美しく凛々しいパーフェクトなボーイソプラノで占領民の者たちを魅了しておやりなさい!板付きまで3分、開演まで3分10秒!頑張ってね。」

「先生!俺らステージ衣装持ってきてませんが。」

「このまま!このまま!通団服で歌うに決まってるでしょ?カジュアル!カジュアル!ココはユナイティッド・ステーツ!ウエストコースト、サザン・カリフォルニアなのよ。」

「ワケわからん!」

「先生、ちゃんと僕たちのこと、最後まで引っ張ってってクダサイよ!」

「はいはい、不審者がカワイイ中梅くんを連れてかないようにしっかり見守っていてあげるから、何の 煩慮 も不安もせず心置きなく心ゆくまでタップリとお歌いなさい!」

「いや、先生、その前に、先生は、このカワイイ中梅君たちの指揮しなきゃダメでしょ?それがないと、大日本ナンとか連合国占領地じゃ、ネグレクトって言って、児童虐待行為ですよ。」

「あんたたち4人だけで歌うんだから、普通、指揮者はいないのよ。弦楽四重奏だってビートルズやフォーリーブスだってトラジャや櫻坂46だって、指揮者なんかいないでしょ?」

「何じゃ?フォーリーブスって?」

「いや、俺ら ソプラノ♪7ボーイズみたく踊れませんから。」

「そうねえ、門脇君ここに来てないもんねぇ。」

「先生、アルトの門脇っちはニッポンちゃちゃちゃ!安全サーブ!ソぉーレぇ!のバレエですよ。クラッシックバレエ!」

「あいつ、白鳥の湖の男性ヴァリエーション踊ったりY字バランスしたり、合唱団の練習休憩にピケでトイレ行ったりする…」

「そっか…。じゃ、キミらバレエは踊らなくてもいいか。歌うだけで。」

「いや、いや、先生、そういうハナシじゃなくて!」

「第一、俺ら何を歌ったらいいんですか?」

「それは先生、決められないよ!歌うのはあなたがた4人なんだから。」

「え”ー?!💢」

「MC無しなんですよね?」

「君たちは6年生だから、先生の子供の頃と違って、学校でしっかり英語習ってきてるよね?」

「まさか英語でMCするんですか?!」

「何語でするのよ?」

「ワンパノアグ語とかクリンゴン語?!チャッダっハぁー!!歯をムキ出して、dの発音はそり舌…」

「生まれて初めてカモです。」

「キミたち自分で考えて言うんだから、MC原稿暗記する必要無くてラクじゃん…板付きまでそろそろ2分ってとこかな?」

そこまで聞いて、少年たちはお湯を注ぎ入れたヒートリビールセラミック製マグカップのごとくたちどころに顔色が変わった。

 

最初にアオケン少年の『自然Natur』Op.8(1905年)が3分間、中梅煋次朗の『心のしげみ』Op.20(1911年)が3分ちょっと、次に丘村虎夢の『月に憑かれたピエロ』Op.21(1912年)からのハイライトで3分間と、最後の相模リヒトからの全員『ワルシャワの生き残り』Op.46(1947年)が7分間で、英語の曲目紹介の時間を4分間とふんで計20分間のミニコンサートをでっち上げた。中でもアオケン少年の『自然Natur』Op.8で、歌の最後のブレスを引き取ってからの30秒間の美しい世紀末的なオーケストラのメロディーとハーモニーが、アカペラでは略されてしまうのが惜しい。彼らはシェーンベルクという人の歌曲(?)が非常に伴奏と密接な関係を持って作られていることをこれで理解した。作成年順にプログラムが組まれているのは、単にクライアントさんが、この順でコンテンツを構成しますと彼らに言っていたことの流用に過ぎない。

だが、響きが固く冷たいボーイソプラノを駆使し、彼らが『…生き残り』の「シェマ・イスラエル」をアシュケナジムで歌い終えた瞬間、大学生らの拍手はむしろトラジャの『T.G.I. Friday Night』をライブに聴き終えたピットの観客たちの反応そのものだった。

拍手と嬌声とエールと悲鳴(?)の中で、マクドナルドホールのマホガニーっぽい壁面の前にちょっと不案内な感じで立った子供達は、6年生男子とはいえ、やはり小さく「子供」っぽかった。『夢で逢いましょう』の中嶋弘子がOP/EDでする挨拶の姿勢で、引率者がまた、作り笑いをしながら壇上に駆け上がり子供達…とくに丘村に強引で無茶振りとも言えるリクエストを発した。

「じゃ、丘村くん、バトルクライでも、グッバイ・エールでも、イッパツ派手に叫んでください。」

「え”?」

「聞いてくださったアメリカの方々へのお礼のエールです。やってください。キミの声質が一番合ってるはずだから。」

「…英語じゃなくて、イイんですか?そうじゃなきゃできませんよ!いいんですね?…じゃ、みんな!いくぞ!」

丘村虎夢は腰を落とし、肩を並べたツアーメンバーたちへ上目がちに勇ましげな声をかけ、集まっている音楽学校の学生ら聴衆を前に雄叫びのごとく声を張り上げた。

「アサヒ小ぉ、少年バリアンツー!ぜったい勝つぞー!ファイトー、おォー!」

「…何じゃ、少年バリアンツって…?」

すっかりカタマって呆れ返っている他の団員達をよそに、日本アニメをよく観ており、コレが何かを知っているらしい学生たちは大笑い。ヒューヒュー!とガッツポーズ、グッジョブサインでウケまくっている。

「おぉ?おー!…って?」「『最後まで心を一つに歌ったぞー』とか言えよ!」「わけわからん!」全員ぐだぐだである。

コレは無茶振りのリベンジか!?と指揮者は頭を抱えた。

 

 

翌日、モハーベ砂漠のドライブへ発とうとする前夜、コンプレックスの原っぱでグランピングのマネゴトのようにマシュマロを焼いたりバーベキューを楽しんだりしている夏期講座の学生らに誘われ、少年たちが ”レリッシュ満載マスタード&ケチャップをドバー” のホットドッグにかぶりついていると、南カリフォルニアの湿り始めた砂漠の植生の良い匂いのする夕べの風の中から、合唱団事務局のスタッフに連れられたふくよかな男の子が一人うっとりと肩をそよがせながら、宵へ沈んだアドビ色の校舎のレンガ壁の遠景の中からポッと現れた。その子は短くなり始めた通団服の半ズボンを履いていたので、最初に子供達がその人影に認めたのは、薄ムラサキの照明を受けてぽっちゃりと魅惑に発光する太ももの図像だった。

「協チャンじゃん!」

「加賀やん!」

中梅煋次朗らが叫ぶと

団員らは次々に

「Would you? 」「Try this hotdog, don’t you?」「With big mount of relish too!」「ペプシs available!」

英語らしきもので声をかけ、自分たちの饗宴(?)へ引き込もうと招き寄せた。

加賀協太朗は小学5年生の男の子にとって永遠とも言える太平洋越えの長旅をしてきたので、最初は黙って微笑み返しただけだった。アオケン少年がどちらも賞味しようと両手に掲げ持っていたホットドッグの片方を空旅でむくんだ少年の右手にトスすべく前へ差し出した。

 

加賀協太朗くんはシェーンベルクOp.2『期待』担当として、プロジェクト発足前から私がキャスティングを切望していたボーイソプラノだ。

練習場へ初めて伺った6月11日。合唱団は練習スタジオ駐車場の生垣の前で恒例のミニ・コンサートを開いていた。入場してきたアルト側最右翼のアンカーで止まった片山先輩の上背を見上げ、協太朗君が頭一つ半も違う背丈の先輩に何かを具申している。

自分たちがこの場所に位置決めをしてしまうと、後続の団員の隊列が窮屈になってしまうと訴えているように見えた。

その瞳に年長の者への畏怖は窺えたが、皆のためと思う自分の判断に対する信念は決然と感じられた。

「この人は、正しいと思う事への本当の勇気を持った人だ」と私は確信した。歌い手の人柄が如実に表れる晩熟期ロマン派、黒い森の夜の音楽『期待』担当へこの子を推したい…と願った私に、先生がたは彼のコンディションと経験と歌いぶりを見込んで、『加賀くんにはエアヴァルトゥング(期待)を歌わせましょう』と、はっきりとおっしゃった。

 

後援会報のレコーディング紹介のページに、コンテンツ制作のプロデューサーからこのような原稿が送られてきていた。団員名を明記して書き始められ、これが合唱のリード・ソリストへの賛辞の文章であることは、小学校高学年男の子たちにもはっきりとわかった。だが、6年生の団員らの殆どには、加賀協太朗のこの可評価が、決してマト外れではないが、彼の持つ本来の最大の魅力ではないことになんとなく勘づいて違和感を覚えた。

「劇のホンバン、うまく歌えた?」

ソーセージが片側からはみ出たホットドッグを手渡しながらアオケン少年は尋ねる。

「変な劇だったけど、結局面白かったよ。」

妙なゴテゴテした偽バロック装飾のついた建物全体を使ったホラーともグロテスクともつかない前衛パフォーマンスらしかった。天井の高い冷蔵倉庫の狭い一室で演じられる場面は、壁面上部を使い、シアン色に黒い子供の顔を次々と映写するだけの舞台装置で、出演するのは何十人という単位のゾンビ風な衣装を纏った小学生の男の子だけだった。加賀協太朗は、そこで唯一、ボーイソプラノを繰ってブリテンの『カーリューリヴァー』の梅若丸の一節を謡する少年の役柄だった。契約の段階で、楽日がシェーンベルク研修の実施日程と数日重なっていたので、ブッキングは「録音したものを本番で流すわけにはいかないか」と合唱団サイドから打診した。だが、「スタジオのかなり上部に設えられたゲージ床の小さなスチールバルコニーに立って胴ベルト安全帯着用で歌っていただくので、参加者からは全身が見えます。」と言われ、事前録音で対応する提案を取り下げる。合唱団指導者たちはクライアントが観客を指して「参加者」と呼んでいることに気づき、それ以上の交渉を諦めた。中梅らがシェーンベルグ・インスティテュートで初めて『心のしげみ』の手稿譜に遭遇した日の真夜中過ぎ、少年はまだ薄暗い倉庫のような場所の高みで「♪わが亡骸、また蘇り いかりの日、冥府浄土にて再びあひまみえむ」と、千秋楽のソロを歌っていた。夜10時過ぎの便にツアーマネージャーと飛び乗って、こちらの午後3時過ぎ、彼はまだLAXの通関が終わった頃だった。

「ね、ホットドッグ、誰にもらったの?」

「あっちのバーベキューやってるお兄さん…てか、お姉さんたち。」

アオケン少年はホットドッグを持った手で、後方7時30分を指し示した。

「作ってくれた人たちに皆で『So Long, Farewell 』お礼に歌ってあげない?」

「『サウンド…』の?…アカペラで?フリードリッヒ今ここに2人もいるじゃん。」

「2人で歌えばいいじゃん。カッコいいんだし。ねえ、みんなぁー、先輩たちィ~…」

彼らの合唱団では、フリードリッヒは6年の低声が担当するのが通例だったのだ。

 

♪So long, farewell, auf wiedersehen, good night

   I hate to go and leave this pretty sight!

 

ステージではしかめつらで前列の下級生たちに目を光らせ、顔面の白いパグ犬のようなルックスが悪く影響し、加賀協太朗は一見の聴衆からは「おっかないソプラノの男の子」と勘違いされているだろうと団員たちは思っていた。だが、実際の本人は「お客様を歌で楽しませ帰ってもらおう」という信念のかたまりが、ぷちぷちの半ズボン・ハイソックスを身につけて歩いているようなガッチリころんとした少年だった。それは彼のソプラノの声質が、『カーリュー・リヴァー』の幽霊の男の子というよりはもっと甘く温かい男の子の役に適しているものであることを感じさせてもいた。彼は始終「今度のステージでは、お客様に僕らの何を楽しんでもらおうか」と考えて練習場にいたし、下級生からは「歌の力が堅実で、すごい実力派のお兄ちゃん」と思われてもいた。3年生で自分の強い信念から入団試験を受けてパスしたが、今回のシェーンベルク研修ツアーでは唯一の下級生、小学5年だった。いったい、「外見で人を判断してはいけない」と言うか、アオケン少年の信条のように「顔は心の窓」であるのか、たかだか小学生の男の子の合唱ではあるが判断の難しいところである。南カリフォルニアの涼しげになった夕べ、長旅を終えたばかりの男の子が、ホットドッグを作ってくれた学生たちや周囲の若者に『サウンド・オブ・ミュージック』のレパートリーを歌って聴かせようと言い出したのは加賀らしく、それがこの5年生の最大の魅力だということは、6年生たちにはよくわかっていた。

 

♪So long farewell, au revoir, auf wiedersehen

  I’d like to stay and taste my first champagne!

  … YES?

 

オリジナルでは女の子のパートだが、こういう役柄で歌うことが自然にこなせる丘村が、グレーテルと二役で歌った。

たちどころにミュージカルを知っている学生たちから一斉に

 

 …NO!

 

の声が飛んで、少年たちも周囲の学生たちも大笑い。

 

♪So long, farewell, auf wiedersehen, good night

 I leave and heave a sigh and say “Good bye” GOOD BYE!!!

 

悪ノリのボーイソプラノが、アレナ・ディ・ベローナのソプラノ歌手のごとくGOOD BYEと声を張り上げるシーンは、映画版・舞台版でカッコいいフリードリッヒが担当したりクルトのやんちゃっぷりを聴かせたりの配役のブレはあるのだが、この合唱団では映画版と同じクルトがおふざけで歌うことになっていた。昨年度末の『サウンド…』では1メゾの瓶田聖斗と松田リクがダブルキャストで担当していたが、二人ともここには来ていない。役の無かった加賀が体格のふくよかさを見込まれたのか推されて、

 

♪GOOD BYE!!!

 

とThis is ボーイソプラノなハリのある大声で歌って大ウケだった。

 

♪The sun has gone to bed and so must I

   So long, farewell, auf wiedersehen, good night

   Good bye  Good bye  Good bye   Good bye

 

ここはザルツブルグの祝祭劇場でも、ステージの裏にナチスの将校たちがいっぱい監視に詰めているわけでも無かったし、二役で歌った子もいるので、ホットドッグのバーベキューグリルの前で、彼らは横一列に並び、楽しげに両手を振って歌い終えようとした。加賀協太朗が一番賑やかに両手を耳の上まで挙げて熱心に振っている。最後のフレーズを、学生たちが大人の声で ♪ Good bye と歌って返してくれるとは思っていなかった少年たちは、自分たちがまるで映画の登場人物になったような気がして心を震わせた。

 

 

サンバーナディーノの美しい(?)街並みから15号線に入ってケイジョンキャニオンを北上する。

軽快な電気自動車のつるりとした車内は冷涼で、自動運転は秀逸に車線変更を見定めて快適だった。バーストーの疲弊したパームツリーの目立つ寂れた街路を右手に見つつインターチェンジをモハベ高速から40号線(ニードーズとかパープルハートとか言われているフリーウェーである)に乗り換え、さらに旧ルート66に降りて東進した。少年たちにとっては永遠の長さの道行きだが、アメリカ人にとってはほんの隣町へのドライブに過ぎない。少年たちがようやく再び口を開いて二言三言発し、剥き出しのふとももの間や上に載せたダサニのキャップを力任せにひねって乾いた口唇へ一口水をふくむと、オートパイロットは少しだけスピードを緩めたように感じた。

 

中梅たちが分乗したテスラはスーパーチャージャーで1回蓄電したきり、モード設定が正しければ静かなままかなり走るので、走行音は野放図な路面の音ばかりということになる。彼らが通ってきたのは砂地にユッカがばさばさと生えた風化岩盤、大雑把なシルトの堆積した繰り返しで、空は青く澄み渡っているはずなのだが、フロントグラスからもドアウィンドウからも細砂が巻き上がって地面と同じ色で紗がかかった黄土色じみて光景を見せるのだった。尋ねると、呆れ返ることにここはまだカリフォルニア州の真ん中ということだった。甘く良い匂いのするフルーツがたわわに実り、ぴちぴちの海産物グルメに恵まれ、ハリウッドやビバリーヒルズやディズニーランドがあって、2回も3回もオリンピックが開催されるような健康的な場所で、雪をいただく山にヨセミテ国立公園の豊かな自然とアメリカ最大の人口を誇る「カリフォルニア」の光景を散々雑誌やガイドブックやテレビで見せられてきた彼らは、「一面に広がる砂漠荒野がカリフォルニアの実際だったの?」といささかうんざりしはじめていた。

ベリーAをジベレリン処理した種無しのものが「ニューベリー(A)」で、それの泉がニューベリースプリングということになる。モハベ砂漠にありがちな、町とも言えないような平屋の家の散在するゴーストタウン然とした沿道で、こちらもルート66あるあるなアスファルト補修の蜘蛛の巣状に目立つ古ぼけて傷んだ埃まみれのゆるいカーヴ1本道が砂に削られつつゴツゴツとしたつまらない岩山の麓をつっきっているだけの、何もない街道沿い。干からびたシェルやシェブロンのガス・スタンドだけが唯一のモニュメントだった。

 

「この先で休憩なんですよね?」

「中梅君、…お休みじゃなくて次の目的地ね。…先生方はマズいコーヒーとバッファロー・バーガーをいただくわ。」

「オレはおいしいコーヒー・フラペチーノにします。あと、ポテトの中んぐらいの。」

「マズいコーヒーが売りのお店なのよ。ローゼンハイムってところの人がポットに入れて持ってきたってコトになってて、要するに酸っぱくてアメリカ人にとっては少し濃いめのドリップコーヒー。」

「ローゼンハイム…って、お菓子屋さんの?」

「チュー君、それってユーハイムだろ?ローゼンハイムってお肉屋さん…ってか、ハム屋さんですよね?ネ?先生ぃ。」

「どっちもある程度当たってるわ。ローゼンハイムってバイエルンの南の少しオーストリア寄りにある…」

「アルトバイエルン・ウィンナーの、歌う《バイエルンの天使たち》…『僕らは少年合唱団』ですか?俺らの同業者じゃん。」

「こらこら、人気者のテルツ少年合唱団を熟成シャウエッセンと同類にしない!ポークソーセージではアリマセン!」

「で、ドライバーさん、この先ルート66を行ったらどこに着くの?」

令和時代の都内の小6男子である。怪しげな英語でドライバー氏に尋ねた。

テスラのドライバーは手を添えただけのハンドルはそのままに、寂れたルート66の暑苦しい窓外の彼方へ目を細め視線を通しながら言った。

「アルバカーキー、ニュー・メキシコォ!」

「なんじゃ、そりゃ?」

男の発音は、正確には”アルブクーキー、ヌ・メクシコォ”。これから行こうとしている場所の地名ではなかった。

「このツアーの麗しき終着点よ。そこからテキサス・インターナショナル航空のブラニフ航空コードシェア便でダラス・フォートワースまで行って、日本に戻る。直行便は無いから。」

「アルバカーキー、ニュー・メキシコーには、何があるんですか?」

子供のしゃべる英語を何となく聞いたアメリカ人はおどけて、

「プエブロぉ!ナヴァホ!アパッチぃ!カートランド!サンディーア!」

と言った。男の並べた固有名詞群は全く誤っていなかったが、中梅煋次朗が理解できた単語はアパッチ一つだけだった。今回の研修旅程の内容について、実は子供たちにはサプライズでふせられており、詳細な行程や目的は保護者だけに細かく知らされている。

 

平均律クラヴィーア曲集のボリューム1。日本人なら”前奏曲 第1番 ハ長調 BWV 846”と呼んでいる曲のほんの出だしの部分。

モハベ砂漠ド真ん中の旧国道66号線ぎわの寂れた何もない場所。店の裏手にはきちんとしたインターステート40号高速が大小のトラックやゴツゴツした車両を時速80マイルのまま4車線にわたって気持ち良さげに往来させていた。 あばら屋のようなカフェにおよそ不釣り合いな音楽のひとくされ。店の左奥に置かれたチープなショボいボールドウィンのスピネット・ピアノ。クラッシック然とした姿勢で背筋を伸ばしキーボードの上へ黒く長い右手の指を滑らせていたのは中学生ぐらいのアフロヘアーの男の子。合唱団員はセミプロとしてその「演奏」だか「練習」だかを尊重し、黙して奏者の背後に寄り集っていった。

 

♪Ave Maria, gratia plena,

    Dominus tecum,

    benedicta tu in,.....

 

中梅煋二朗が突如ラテン語歌詞で歌い出した。

安っぽいピアノのバッハはカウンターの上に並べられた、レンちんがバレバレのフレンチフライの油のにおいを載せて流れている。合唱団の少年らは条件反射的にそれを歌い継いだ。

 

♪et benedictus fructus ventris tui Jesus.....

 

引率者たちはカウンター横のべニア板状のドアを抜けてレストルームへ行っていていない。中梅は他の子たちが声を併せてきたので、戯れてイタリアオペラ第二幕の愛人と抱き合った胸を反らしてバカみたいに悲鳴のようなアリアの声を張り上げるベルカント・ソプラノのごとく、一瞬声を張り上げた。彼はテーブルの自分のフレンチフライをハンバーガーの付け合わせの貧弱なピクルスと一緒に自分の口唇へ押し込みたいと念じて歌っていたのである。だが、他の子たち…とくに商売っ気のある加賀協太朗と真面目真摯で常日頃(きっちり10月1日から4月のゴールデンウィークに入る前日まで)黒い折り衿の学童制服と半ズボンに黒タイツで通学・通団しているアオケン少年が、きわめて冷涼な澄んで鋭利なボーイソプラノを保って歌い続けたため、結局中梅を含め子らはそちらの方に従った。一面に夥しい枚数のステッカーが麻疹の出た8歳児の背中のように貼られた店のウインドウからは、団員たちの乗ってきたテスラのほかに、砂色のレネゲード、ジープ色のピックアップトラック、いかにも高慢な色合いのアイオニ、コンニャク色のとメタリック・カーマインのシボレー、荷台に黄色いポットの置かれた酔狂者の車らしいトヨタのハイラックスといったところがゴテゴテ並んで駐車されているのが見えた。

 

♪Sancta Maria mater Dei,

    ora pro nobis peccatoribus,

    nunc, et in hora mortis nostrae.

    Amen Amen.

 

彼らは少年のJSBがまだコーダになっていないのに、無理やりアーメン唱を2回繰り返して歌い収めた。ピアノの黒い男の子はアッフリカン・アメリカンらしいスレンダーな首をめぐらしてどや顔をし、運指を止めた。店内から…客たちやネイティブアメリカンっぽいアルバイトのカウンター担当たちから強烈な拍手をもらった。

カウンター脇のドアのところで様子を静観していた指導者らが進み出て呆れたという口調で言った。

「あなたがた、相変わらずヤルことが派手ね。」

「いや、先生、ビューティフルとかクールとか言ってください。これが俺らの仕事なんで…」

中梅が訂正を求めた。

「そうなの?赤ちゃん、泣かせちゃったし…」

ボールドウィンの傍に、買い替えたかプレゼントしてもらったらしいベビーバギーが1脚、リヤバンパーの凹んだ違法駐車のチェロキーのごとく打ち置かれ、シートに突っ込まれた赤ん坊がけたたましく鳴き声をたてはじめた。

 

彼らはレンチンがバレバレのフレンチフライを一つまみ二つまみ口の中へ強引に折りこんで嚥下し、顔をしかめながらアルミ缶から直接スプライトを飲み込んで「ごっくん」すると、すっかり手持ち無沙汰になって「なヵ、記念に写真とか撮ってください。」と指揮者たちに提言した。テスラの自動運転の旅はうんざりするほど同じ荒野の光景の連続で、しかも安寧で何も起こらなかったし、この店内には11-12歳の男の子の興味を惹くようなものは殆ど何も無かったからである。

一行はニューベリースプリングスの方角から来て店の前の「広場」のような一角へ勝手にパーキングしていたから、店舗の西側には「MOTEL」と縦書きにネオン管の入った錆びついたキャメル色に朽ちる比較的ノッポの看板が立っているのを目印がわりによく覚えていた。誰かがわざわざ昇ってデッキブラシで磨いたような痕跡のある新橋色の何かのタンクが錆びかけた鉄骨の高脚の上に立ってるのを記憶の片隅に留めてもいた。地下鉄日比谷線先頭車両を面取りし過ぎたみたいなポリッシュアルミのアメリカ・サイズのばかでかいキャンピングトレーラーや、いかにもコンクリートブロックを積み上げて建てたと言わんばかりの平屋のモーテル棟が、包装紙をむいで砂漠の荒れ地にポンと置いたような外見風情で連なっている。一行が記念に写真を撮ろうとぞろぞろ屋外へ歩み出ると、それらが炎熱によって強烈に炙り揚げられた熱風の嵐の中、ただただコルク色の砂の細粒を伴って子供たちにもiPhoneにもモーテルの建物にも、ルート66の路面やカフェ目当てにやってくる物好きな大小のビークルのセンターピラーにも、間違いなく吹き当たっているのだった。少年たちは自分たちへの砂の粒子の衝突よりもむしろ、まだ6月の終わりだというのに彼らの身体の全ての体表面へ均等に押しあたる、華氏90℉はあろうかという強烈な熱風の方へ全ての意識が行っていた。あるのかどうかもはっきりしない「敷地の端っこ」に立つモーテルの看板の下へ立ち並び、仰角の超広角モードで「はい、1億6千万たす1はー?」などと声をかけて記念写真を撮ったりした。中梅たちはどうということもない小学6年の男の子なのだが、ほぼプロフェッショナルとして何年間にもわたりたくさんのステージに立ったり、スタジオ録音のプロモーション動画やコンテンツの「ジャケット」写真に写ってきたというオイシイ経験を積み重ねてきたため、そこそこ良い垢ぬけた玄人はだしのこじゃれた表情でワンショットに収まった。引率の指揮者は、砂嵐によるピンボケや暴風の惹起するブレを気にして、ここからもう少し後退して安全なフレームや設定でもう1枚と考えたが、あまりにも風が強すぎて億劫になった。

そういうわけで、彼らは店のコーカソイドの小太りのスタッフ・マダムから、怒鳴るようにして繰り返し声をかけられていることに、最初は全く気が付かなかった。耳介にあたる風切り音の方が厳しかったからである。彼女はモーテルの管理事務所兼フロントの小屋の扉から、ぶくぶくにふくれた肉体を変わった色のブラウスのあちこちにはみ出させ、彼らのところへ進んできていた。彼女のかける声よりもまず、一行が認識したのは誰かがこちらへやってくるという図像の方だった。皆がようやくそれに気づいて遥かな距離からカフェの方へぱらぱらと戻っていくと、彼女が熱暴風の中で、おそらく南バイエルン訛りの英語で叫んでいる言葉がようやく聞き取れるようになった。

「I am calling you! Can't you hear me? I am calling you!」

 

「赤ん坊、なんとかしろってっても、ねぇ。」

「俺らがJSB歌ったのが元凶だとかイチャモンつけられても…」

「少年合唱団って、乳児保育はデフォなんでしょーか?」

彼らの呼び戻された原因が、この赤ん坊をなんとか泣き止ませてくれというクレームだったのには驚愕することこのうえない。彼らは閉口の極みという表情のまま、自分らの歌声が大泣きの原因ならば、目には目をで「アカペラで何か歌って泣き止ませる」しかないと考えた。「ボクはアメリカまで来て井上良くんの役なんかヤルのは嫌だ!」とさんざんゴネる加賀協太朗を説き伏せて「うたっておどろんぱ」の『やくそくするヨ』と『ダンシング・メイト』を店内のあちこちの什器に肘・膝をぶつけながら歌い踊ったり(協太朗はどんなときも、いったん納得すると真摯にモノゴトを運んだ)、一時のTFBCばりのちょっとキツい発声でポンキッキの『ふしぎ色のプレゼント』を歌ったりしたが、全く効果らしいものは無かった。歌い終わってしまうと、赤ん坊の金切り声が却って耳につく。

 

♪ Nacht fließt in Tag und Tag in Nacht,

 der Bach zum Strom,der Strom zum Meer -

 (夜は昼へ 昼は夜へ

  せせらぎは大河へ 大河は海洋へ…)

 

アオケン少年は大した進展もない状況に肩を落とし、今回のシェーンベルク・コンテンツの自分の持ち歌、”6つの管弦楽伴奏歌曲集”の『自然』(6 Orchesterlieder op. 8 (1904-05)-1 Natur)を、諦観の溢れた疲弊したボーイアルトで歌い出した。もともとは1つ上の学年のトナミ・カツノリ(アルト)と一緒にステージで歌ったときのレパートリーだったので、現在のアオケンの歌いは、やや肩の力が入ったものだったのだが、ここではもう完全にダレきって、でっちあげられた『退廃藝術』的な雰囲気さえ漂わせている。6年間近くセミプロとして歌を歌ってきた彼自身は、これがどちらかというとむしろ「人種的に純粋な大ドイツ民族的黒き森の世界」といった匂いを放つものであるように感じて当惑してもいた。中梅煋次朗はその歌の音吐を聴きながら、ボソリと

「アオケンちゃんって、合唱のとき、アルトの声はハーモニーに溶けちゃって全然ハッキリわかんないケド、とってもいい匂いがするんだよね。」

と呟いた。子供なので、アレゴリーの「匂い」ではないだろう。アオケン少年がまるで口先だけで歌ったような軽い節回しであったにもかかわらず、赤ん坊は次第に泣き止んだ。自分の耳介に染み入ってくる音楽が何であるのかを確かめようと小さな目を見開いてさえいるのだった。

 

♪ …was du erlebst,hab ich erlebt,

 was mich erhellt,hat dich erhellt.

   (そが智見は我が智見

  我を照らすものぞ また君を照らす)

 

一体、自分は何をしていたのだろうという驚愕の眼差しで泣き止んだ赤ん坊を見下ろして、少年たちは半信半疑、この歌の効用に驚くほど納得した。

「おい!おい!いったい、こんなに泣かせっぱなしにしやがって、おまえの母ちゃんってのは、どこにイんだヨ?」

愛想をつかし中梅煋次朗がわざわざ英語で投げるように尋ねた。

「知らない…」

スピネット・ピアノの前で腕組みをしていたアフロヘアのチョコレート色の少年が答えた。

「じゃ、こいつの父親ってのはいったいどこ行ったんだ?」

もはやどうしようもないという表情で質問を畳み掛けた。歌い終わったアオケン少年は、喫驚の表情で目をぱちくりさせ唇を舐めている。

「ここに座ってやがんのが、父親だよ!」

頭全体が逆三角の「さがほのか」イチゴと房の形をした店主らしき女が、均衡を無くしたハンガーのように肩を傾けながらココア色の顎をしゃくってその少年を見下した。

合唱団の皆が指し示されて視線を集めたその先に座っているピアニストの少年の、独特の体臭とまだ第二次性徴途上とも言える背中の線に、一行は茫然自失とばかり言葉を失った。(つづく

 

⚛︎(心のしげみ Herzgewächse  2 へ つづく)>> 

 

(登場する施設等はフィクションです)