美しい暦     

 美しい暦     

   Calendario bonito           

▲「『セミ爆弾』は寿命がつきかけて体力が怪しくなったセミの防御退避行動だと言われている。実年齢68歳のワンワンの中の人はおそらくそのことを科学的知識としてよく知っている。ホンキで『がんばれセミさん』とは思っていない。だから題名も『がんばれ せみさん』じゃなくて『どっきん せみさん』なんです。どうせ強い意志をもって『ゆけ!』と命じたところで、行き着く先は『セミさんの寿命の終わり』にしかならないから。彼の本心は『あーびっくりした!まあ、あんたも頑張ってて偉いねぇ』でしかない。だから『けー!』じゃなくて『けー!』なんです。『セミさーん…心置きなく好きなように行(い)っちゃいなー』なんです。」「中梅煋次朗…おめぇこんなことをよく自慢げにつらつらと話すよナァ。」「声を出すのがセミプロのボーイソプラノの商売なもんで。」

 

暑さの増殖し始めた メゾソプラノ最前列沿いの少年らの横半面。

レンズを載せた子供用室内ドローンがレッスンスタジオの中空を滑ってゆく。

3年生の幼さの残る頬の赤みを帯びた隊列を超え、飛翔体のカメラはアルト側の防音サッシの卑近へ。

最後列6年アルトの一人が、まばらになって消えかけたボーイソプラノの音吐の中をキッズプロタブレットを捧げ持ちながら走り降りる。

練習用伴奏グランドの押しやられたシモ手がた腰窓の小棚の上にトンと乗せられたパキラのミニ・ハイドロカルチャへ、ラベルを剥がした350mlペットボトルに入っている水道水をちびりと足す指揮者兼指導者が、レノマのハンカチで手を拭きながら少年らの方へ回頭して一息ついた。

「コトラくん、どお?撮れてる?SNSクオリティ?」

指揮者の問いが、どこか人待ち顔の団員らの頭上を飛び越えてタブレットを抱えた6年生へ。

「うーん。撮れてますけど、やっぱ、ブィーンってノイズが入ってますね。」

「コトラっち、音は後から俺ら歌うのをiMovieで合成してアフレコすんだよ。カンケーねえし。ちょっと撮れたの見せてみ…」

アルトの角から丸刈りの6年生がどさどさ降りてきてパッドのディスプレーを覗き込んだ。

「先生ぃ、ンなことどうでもイイから、この最後の最後の『いけー』どうすんですカ?」

「どうすんですかもナニも、楽譜には『いけー!!』としか書いてない。伴奏以外は×音符も普通の音符も何も無いシュプレヒコールなのよ。あなた方で決めなさいよ。」

「こんなのいちいちオレらが決めてかなきゃなんねぇの?」

「まったく!カンペキに放置プレイじゃん!」

「だって先生方の話し合いや理事会で『今回のNコン課題曲は団員主体で』って決まったのよ。あんた方、合唱セミプロ小学生男子なんでしょ?しっかりしてよ。」

「相模(兄)先輩ぃ、『放置プレイ』って何?…ですか?」

「ピアノの先生も、ワタシもあんた方の指示で棒ふって伴奏するだけなの。残念でございましたわね。」

「そういうのを職場放棄って言うんじゃないでしょーか、先生?職場放棄!」

「座敷ホーキ的な?自在箒?学校の多目的室の掃除のときのカーペットとかは、なヵ、タービーっての使ってる。…昭和時代はフクバ+ホーキイって呼んでたらしいですぜぃ。笑」

「ほぼ月謝ドロボウじゃん?」

「先生、イイですか?ワンワンが描いたとされるNHKの楽譜の表紙の絵には『いっけ~~!!』ってハッキリ描かれてる。楽譜の歌詞のページには『いけーーーーー!!』。Eテレで放送された『発表!Nコン2026課題曲』のN児の範唱の歌い終わりはスーパーじゃ『いけーーーーー!!』なのに、実際は『いけー』で終わってて草」

少年たちは皆、自分が目前に広げていた楽譜を閉じてひっくり返し、表紙や歌詞カードを確認している。

「全然ばらばらチックくない?」

「困るよなぁー、みなさまの日本放送協会。しっかりしてくれなきゃ。」

「全く、こんなテキトーなまねして受信料とりやがってヨ!」

「おめぇ、小学生、受信料なんか一銭も払ってねぇだろ?NHKプラスも!」

「いや、我が家は口座振替です。」

「ね、先輩、だから放置プレイって何?」

「いや、大人の人たちが受信料を払ってくれてるから僕らは毎日学校で教育テレビ見れるんだから…」

「協太朗の唯一の目的は『ズームジャパン』のショーゴの常識ぃ!だろ? 全くこの真正BLボーイソプラノめ!」

「5年社会科の教育番組見て毎週出てくる迷探偵コナンまるパクリの小五の男の子に萌えまくってる男子小学生!…このド変態野郎!」

「うっせー!今はなぁ、多様性の時代なんだよ!ボクちゃんがショーゴタソ(;´Д`)ハァハァしてどこがいかんのじゃ!それに僕のラブラブはショーゴくんだけじゃなく、クックルンのクリンくんも外人萌えです。ラッキークッキンできあがりぃ~♡」

「誰だよ、それ?」

「NHKって公共放送だから放送法で企業名とか商品名って放送できないんだぜ。グロリア少年合唱団とか桃太郎少年合唱団は言ってもいいけど、TOKYO FM少年合唱団とかアンパンマン少年合唱団はダメなの…多分。」

「じゃ、ニュースとかの場合どう言うんダヨ?」

「『主として東京都を聴取対象地域とする超短波周波数変調放送局が運営する少年合唱団』とか、『入団テストにルックスの審査があるとかいう噂があるらしい、朝ドラ『あんぱん』でおなじみの出版社が運営する少年合唱団』…とか?」

「その話、完全に虚偽で盛ってるだろ?!」

「だいたい、ワンワンとかカンペキに幼児向け番組だしなー。」

「『いなばあ!』小さい頃お世話になりました。」

「なんで小学校課題曲なんだろ?」

「『いなばあ!』って、ιょぅι゛ょ萌えの大きなお友達♂に人気の番組らしいよ…(~_~;)。おうちゃんタソ(;´Д`)ハァハァ…みたいな?」

「詳しいねぇ。」

「ロリ系おじちゃん向けの番組でもあるの?!ウッソぉ!」

「…だからNコン課題曲なのかぁ。少女とは真逆のオレらみたいな、完全いたいけで美声な男子小学生だってSNSの動画アップ用で歌うのに…」

「はぁ💨 妄想が支離滅裂でヒサンすぎる…。なんでもイイけど、この100小節目のコーダの処理はあんた方が早急に決めてよ。先生はそれに忠実に指揮するから。先生はこれからコトラくんたちとドローン撮影について少し話し合っときます。」

「Eテレのロリ系使用者の見分け方…って知ってる?高校野球の放送が大ッ嫌いなおじちゃんたちは、たいていロリ使用だって。○○タソ(;´Д`)ハァハァのお目当ての番組が高校野球中継にあっさり侵食されるから…らしい。」

 

子供達は当初、「課題曲」がきっちり100小節で書かれていることを意識していなかった。

色々なことに頭の回る「セミプロ」?の5-6年生の中には、全国規模のコンクールの課題曲というものは一度の選考会で夥しい回数歌われるものなので、あらかじめ作曲家に小節数やおよその演奏時間の条件が示されたうえで作られるものなのかもしれないと推察した者も確かに居た。『どっきん せみさん』は、もともと合唱団のプロモーション動画用に選曲されただけで、NコンやMV部門エントリーの意志など全く無い彼らにとって、最終目標は頂点を目指すことでもひと夏の思い出をつくることでもなく、ただ「良い操業をこなすこと」でしかなかった。たいていの子は、聞いてくれる人に何かをプレゼントすることと信じているようである。

ばたばたと楽譜が配られ、今回の企画のプレゼンテーション代わりに録画したN児の範唱ビデオを視聴したあと、指導者が『今回のNコン課題曲の解釈・表現の構築と陶冶は団員主体で』というメインコンセプトを説明すると、練習場に漂う、下級生が先ほどひっくり返したキッズ・サーモスの溢れた紅茶アールグレーの匂いを押して、ソプラノ中段から陶器のグルジア・ワインのボトルのような少年の左腕が一本立ち上がった。

「先生ぃ!先生ぃ?…あの、あの、この曲、ピアノ伴奏だけ全部通して聴かせていただけますか…?」

「伴奏だけ?ウメちゃん、何で伴奏?」

「いや、なヵ、好きなんすよ♡おねげーしやす。」

「っていうか、計画ではこの曲の伴奏はピアノの先生のご担当ですよ。それは守って。」

少年たちは彼のピアノテクニックの腕前はよく知っていたし、ピアノ曲の造詣が深いことも理解していた。『真っ白い平野』の連弾伴奏は大抵彼が先生の隣にちょこんと陣取って担当している。

「先生、いいじゃん。ウメちゃんが『イイ!』ってんだから、間違いなくすこすこラバーなんすよ。よきまるもんざえもんで、2-3回弾いてやってつかわさい。」

「頭から[C]のとこまでと、[I(アイ)]ぐらいからコーダの8小節がめちゃシブでウルウルなんすよ。…っていうか、ドビュッシーみたいな?小学生にこの檄プルかつメロい伴奏で歌わせるなんて格が上イッちゃっててヤバくねぇすか?」

彼らは近年のクリスマスコンサートでドビュッシーの『家のない子のクリスマス』などという変わった歌を歌っていたので、ウメちゃん少年の憧れのピアノモードのおおかたは理解できた。

「先生、そいで35小節目の[D]からは、波がうねるような感じで、俺らの歌なんか待ってなくてイイからメリメリメリメリって感じでバリバリバリバリっと煽るように弾いてやってください。それから冒頭のマルカートスタッカートは、もっとこう、ハードクリスタルの分厚いガラスがピシン!バキッ!って割れるときみたいな、もろにピキった感じでお願いしやす。ペダルはそのバリバリッ!って感じのアンビエントで…」

注文多過ぎサカエである。食べてるか走ってるか体液をあちらこちらから漏洩してるか叫んでるか突然寝てるかのワケわからん10歳ぐらいの男の子たちと哀れ主従関係を結ぶ「日本の少年合唱ピアノ」という職種は実に人間がよくできた寛容でフレキシブルなピアニストという崇高な尊敬に値すべき稀有のパートなのである。日本の少年合唱団は「楽譜が読めなくても入団試験に合格する」というレベルの男の子からウメちゃん少年のようなピアノのヴィルトゥオーソ・クラスまでの混成チームで多様性もはなはだしい。

ピアノの先生が、それならば…とYAMAHAに指を立てて最初の2つの4度和音を練習場に流した瞬間、例のソプラノ5年生がとんでもない声高の制止の訓告を発した。

「先生ぃ!ストップ!ストップ!だからそれ違いますって!それは先生のお上品で華奢な指4本のスノッブな押鍵でしかないですよね。」

「須藤(兄)先輩ァ~ぃ、スノッブって何デスか?」

「センセ、楽譜の裏表紙見てください。今年のガッコンのテーマ、なんて書いてありますか?」

少年たちは皆、狐に摘まれたような顔でガサゴソと各自の楽譜の裏を確認した。

そこにはちょっと手書きを意識させるゴシック系デザイン書体で「どきん」と印刷されていた。しかもその3文字の上にご丁寧にもスタッカート記号のような注意喚起の黒ゴマ由来の傍点が振られている。

「この曲は、道路上でセミ爆弾という昆虫の防衛生態反応に遭遇した60代男の、終活なんかキョヒってやる!俺らにもワンチャンあんだろ?!っていう感情を子供の声で歌わせてエモるハッピーエンドソングなんですよ。どきん!っていうのはたまたまその感情を引き起こすきっかけでしかないんだけど、それがなかったら、チョーさんも単なる年金生活者で尻すぼみに人生終わってるわけで…。」

「なんじゃーそりゃ?」

ウメちゃん少年はそう言いながら自席を蹴って練習グランドの胴に通団服の胸を滑らせ、ピアノの先生の右側に11歳の身体を割り込ませ、

「だからぁ、前奏の4度和音の弾き方は…」

立ったまま小学生のどこからこんな強烈なスナップが振り出てくるのだろうと思われるほどの先鋭的なアタックで乱暴とも言えるほどの勢いをぶつけ鍵盤を叩いた。

「バルトークのピアノ協奏曲第3番終楽章のピアノの最後の最後のチャン!チャン!みたくきつく弾くんです!お願いします。」

するとバルトークおたくの加賀協太朗が思わず自席で声をあげた。

「それって、バルトークが末期白血病で病院のベッドの上でようやく息子に手伝ってもらって楽譜書きながら死んじゃった…っていう。その最期の音なの。死んじゃう人が書いたとは思われないほどやっぱりマルカートスタッカート付いててフォルテッシモなの。」

「つぇ~!」

「この曲、バルトークとシリトリで始まってるんだ。」

「お願いしますよぉ。先生ぇ!」

少年らは言いたいことをピアニスト先生に一通りぶつけると、一応満足したのか『どっきんせみさん』伴奏リサイタルを気持ちよさげに身体をゆすりながら聴いていた。

 

日本の少年合唱団のレパートリーにはありがちなことに、彼らはNコン課題曲を小学校向けのものを中心にたくさん歌ってきていた。『祭りの宵』『明るい笑顔』や『花のまわりで』といった「戦後」「昭和」の匂いが濃厚ぷんぷんなものから『地球をつつむ歌声』、『未来を旅するハーモニー』など、平成末期の、すでに評価が定着して歌集などにとりあげられているものまで、特にNコン課題曲であることを説明されるまでもなくごく普通のレパートリーの一つとしてコンサートのプログラムにとりあげている。だが、特に彼らが小学生男子の気概を込めて熱心に頻繁に歌うのは『びっくり しゃっくり』からはじまって『大すき』までの1970年から西暦2000年に至る30年間のNコン課題曲群である。アルファ世代の5-6年生の少年合唱団員たちは身近なモバイル機器を駆使して、自分たちの演目へ当然のように配されるNコン系楽曲が、『空がこんなに青いとは』から『あたまの上に空』まではVBCとTFBC、『だから すきさ』から『大すき』までは暁星小学校聖歌隊のレパートリー由来であることを知っていた。

「TFBCのラジオデビュー曲って知ってる?」

「TFBCのデビューって、FM東京で一番最初に放送された曲ってコト?」

「正確にいうと1985年4月13日土曜日の朝の6時30分すぎに放送された。」

アルト側の団員達は取出し練習で♪そうだよねまだまだだよね からのフレーズを指名されて歌っている。放置プレイ状態のソプラノ高学年の連中は例によって私語の世界まっさかりだ。

「ビリーブ…とか?」

「ブブー!」

「サンダーバード?もしかして狼少年ケン??」

「もういっちょ!」

「じゃ、おお牧場はみどり?」

「うーん、遠いとは言わない。」

「わかった!気球に乗ってどこまでも…デしょ??」

「あー!超かすってる!第51回NHK全国学校音楽コンクール小学校の部、課題曲Aじゃよ!」

「え、わかんない。空がこんなに青いとは??え”ー?正解は?」

「『わりばしいっぽん』です。」

「『わりばしいっぽん』??」

突如、指揮者の声が飛んだ。団員主体の曲仕上げとは云え、練習時のマナーやエチケット指導はやはり大人たちが担っているのである。

「矢那瀬太洋!深谷寒太郎!」

「ハイっ!」

「二人とも、黙れ!ユニゾンの♪ゆめいっぱい の後はあんた方ソプラノがこの子たちをリードするんじゃないの?下のパートの歌を把握しててくれなきゃ。」

深谷少年は悪びれもせずあっさりと指導者に言い返した。

「そこんとこはやっぱりアルトがオレらを乗せていかないと…」

「言い訳しなさんな!あんたがた少年合唱団のモットーを言ってごらん!」

「 ”かならず僕がそばにいて、支えてあげるよその肩を” …?」

「ばーか!そりゃ『ビリーブ』の歌詞でしょ?しかもアルト五十嵐君オ得意のギャグの持ちネタじゃないの。」

少年たちは例によってバカ受けだ。

「ここの少年合唱団のモットー、言ってごらん。はい、アオケン君。」

「『お客様へ勇気と夢のおすそわけ』…の方ですか?」

「そうヨ!練習中に友達がべちゃべちゃ喋ってる中で練習して仕上げた曲なんて、しょせん不真面目と悪夢のおすそわけにしかなんないでしょ!わかった?」

「ふわぁい!」

「その返事で人に夢を届けるつもりか?!おこがましい!」

「はぁーい。」

TFBCが『わりばしいっぽん』で放送デビューした1985年ごろ、使い捨てで木材由来の割り箸は甚大で身近な自然環境破壊要因の代表格だった。人間どもの欺瞞や浅はかさを突くように蓬莱泰三が詞を書き、それに見合う鋭く冷徹でありながら民衆の無関心をあぶりだすアップテンポの曲を三善 晃が付けた。割り箸が、今や「竹や間伐材を無駄なく使いきる環境負荷の低減を目指した江戸時代からの日本の由緒あるSDGsに寄与する木工芸製品」という21世紀現在の環境評価は隔世の感がある。ブレードランナーのハリソン・フォードの冒頭シーンを観て、割り箸を割って擦り合わせる所作に憧れ来日するインバウンドのガイジンは多いだろう。だが、当時まだ都会的なファミリーFMを標榜していた40年ほど前のFM東京がこの作品を少年合唱団のデビュー番組の冒頭にオンエアしたのも十分にうなづける。

 

🍉🍉🍉🍉

 

♪ますらたけをと生ひ立ちて、

 國のまもりに召されたる

 君が身の上、うらやまし。

 望めどかなはぬ人もあるに、

 召さるる君こそ譽なれ。

 さらば行()け、國の爲。

 

尋常小學唱歌「第五學年用」の『入營を送る』の歌詞だ。曲は1936年(昭和11年)第5回児童唱歌コンクール…現在のNHK全国学校音楽コンクールの課題曲。戦前の課題曲には大まかに5年生用相当のAと6年生用相当のBの他に男子用と女子用があり、この曲は学年共通の男子の課題曲で出典は5年生文部省音楽教科書である。兵役に就き入隊する者を讃える内容で、第一連の後半は「志望しても入隊許可がおりない人もいるのに、(国から)召集されたあなたはとても名誉なことです。だから、国の為に立派に行ってきてください」という不穏な概略だ。小学生男子の彼らはもちろん「戦前の音楽科教育」史料としてオファーのもとにこの曲や『廣瀬中佐』『少年戰車兵』『無言のがいせん(凱旋)』『鎌倉』『日本海海戰(敵艦見えたり近付きたり)』などといった短調で国威発揚の陰惨な曲調の軍歌じみた曲をいくつも歌って録音していた。信じ難いことだが「國民學校」(昭和16年→昭和22年)の音楽科ではすでに「指導用範唱レコード(SP)」というものが存在し、都会の学校では、明らかに「男子児童の声」でレコーディングされた教材が授業に使われていた。彼らはそのリメイクに動員されて歌っていたのである。

今回、合唱団の少年たちがこだわったのはコーダのクライマックスで絶唱される歌詞や100小節目のシュプレヒコールとともに、曲中60小節と61小節で繰り返される「とんでいけ」と明確に歌わせる楽譜上の指示註記である。合唱をなりわい(?)とする少年たちなのだから、歌詞なんかよりもむしろ音楽にこだわってほしいものだとご指導の先生方は思ったが、子供の言うこともなんとなくわかるような気がして頓着を無理やり納めて済ます拙速を思いとどまった。

「いや、『入營を送る』のリフレーンの ♪さらば行()け、國の爲 を あろうことか ♪さらば行()け、國の爲 なんて歌えマスカ?全然イメージが違って聞こえるでしょう?ぶちこわし!」

「先生ぃ、 ♪シーラカンスをとりにこうよ出かけよう を ♪シーラカンスをとりこうよ出かけよう …って歌ったときのイメージの明らかな違いを考えてみましょうよ。」

『シーラカンスをとりにいこう』の場合の「行こう」を「いこう」と読ませるケースは今回の「いけ!」と同じパターンだ。

「そうねぇ~、なんかこう『行くんだ!』っていう強制とも言える前向きな意志を感じさせるのが『ゆけ』で、『行っこうかなぁ~、どうしようかなぁ~、行ってもイイけどなぁ~』っていう自由な自発や柔軟な思いを感じさせるのが『いこう』って感じがするわね。」

「でしょ~。」

梅雨明けのニュースがNHKのローカル中継で散見されている。夏休みはもう少しだ。あちこち凹みやすい小学生男子用水筒も学校での使役はじき休業を迎える。

「『入營を送る』の『♪さらば行け、國の爲』だと、どっちだと思いますか?僕は先生が今おっしゃった解釈で正解だと思いますが。」

「いや、だからオ国のために行ってらっしゃい…っていうんだから、強制、前向きの方よ。」

「じゃ、せみファイナルの防衛本能で生きる力を再度振り絞って飛んだ頚吻亜目(けいふんあもく)セミ科の昆虫を自分の老後の行末に例えた男の歌の場合は?」

「丘村君、なんで男の行末なの?」

「センセェ、どこぞやの音大や教育学部の音楽系コースをお修めになられた先生方のご立派な知識では叶わないとは思いますが、ミーンミーン!って鳴くセミは多様性の時代でも全員まちがいなくオスの成虫なんですわ。ミーンミーン!って鳴いてメスを誘引プロポーズする仕組みの人生なんじぇす。だからこれは基本的にオスのセミの歌で、これを自身の老後に例えているのは絶対にワンワンの名を借りた爺サンってワケなんですわ。」

「だからあんたたち、『小学生の部』のNコン課題曲の曲想やメロディーが近年とみに女子寄りだってブーたれてたのね。」

「ま、歌ってるのはたしかに小学生女子が圧倒的に多いんですケドね。でも、嫌じゃないですか、女子があからさまに女子小学生の合唱でございますみたいな発声で歌ってるのばっか聴くの。」

「同じ児童合唱でも男子のクラッシック発声と女子の頭声的発声は明らかにゼンゼン違う!先生ならお分かりでせう?」

「歌ってるオレらが言ってるんだから間違いないでやしょう?」

「じゃ、ねえ、青畑(弟)くん、なんでこの曲をドローンで撮ってSNSに上げようなんてあなたたち一致団結したのよ?セミの歌だから?それともかつてお世話になった『おかいつ』だか『いなばあ』の着ぐるみキャラのプロデュースだから?」

「当然です!ここ最近のNコン課題曲と比べたらホネがあってすっごく良くオモシロくできてる。学級の女子が音楽室で歌ってハイおしまい…っていうイージーさが無くって、ある程度の難易度も保証してもらえた。ウメちゃんが言ってるように伴奏だけでも聞かせどころがあって、…なヵ…大人の人やプロの合唱団が歌ってもオモシロく聴けると思うんです。」

「センセぃ…先生ぃ…ココだけの話なんですが…」

中梅煋次朗が自分からもコンダクターの左体側に寄ってナイショ話の姿勢で手のひらを覆い立て、声をやや落として話しはじめる。

「楽譜の[G]んとこからあと。rit.フェルマータがあって調も拍子も変わってアルトからステレオフォニックにスイッチしながら ♪ミーンミンミンミンミー て鳴くじゃないですか。あそこってあんまし没頭して虫捕りとかやらない、少年の心を忘れた女子にはうまく歌えないんデスよ。…楽譜には確かにp(ピアノ)って書いてある。それをだんだんクレッシェンド・ポコアポコしろと書かれている。伴奏の指示もピアノドルチェです。最悪なことに速度記号もメノモッソの指定です。でも、ここは弱く歌ったらイカンのです。セミ捕りをしたことのないヤツが勘違いをする。」

「中梅君、またあんたがたの『楽譜勝手に書き換え』案件?それは…」

「いや、オレらの最終目標は全国コンクールでヤマ小(しょう)蹴っ飛ばして金賞受賞とか、全国放送になって青畑(兄)くんの美少年ぶりをばテレビ画面でプレゼンとかNコン参加記念品グッズのTシャツをゲットとか、そういうんじゃないから。だから、別に課題曲の楽譜に忠実に歌う必要は無いんです。」

「でも、曲を作った方は、ココはこうして歌わないと私の意図は伝わらないって思いで楽譜を書いてるのよ。自分勝手すぎない?」

「いや、先生ぃ。楽譜にはちゃんと書いてあります。p(ピアノ)の横には『遠くで』、ポコアポコの横には『少しずつ近づいて』と書いてある。曲を作った人はセミの生態特性をきちんと把握してる。先生ぃ、セミはどうやって鳴くのか知ってますか?」

ナイショ話の手のひらはいつの間に下りて4年メゾは自慢げに話している。

「お腹の中の発音筋っていう筋肉を震わせて、それを体の中の空洞に共鳴させて拡声してるんです。バイオリンとかとおんなじです。ただ、バイオリンと違うのは、ミンミンゼミの場合、同じ鳴きを同じ強さで永遠に繰り返しているってコトです。時には弱く優しくp(ピアノ)やメゾピアノで鳴いたりするわけじゃない。鳴きの目的はあくまでも生殖だから。ミンミンゼミの声が小さく聞こえたとしたら、それはセミの鳴き方の加減じゃなく、聞いてる人の心の仕業でしかない。だから、楽譜の[G]んとこは女子が歌いがちなように心を落として弱く優しく歌っちゃいけない。」

「中梅君、それって、声のアタックは変えずに、なにかブラーをかけたみたいに響かせろ…ってコト?」

「弱音ペダルをずっと踏みながらプロコフィエフの戦争ソナタ第三楽章をホンキ出して弾いたみたいな。」

「中くん、ピアノにはマフラーペダルあるけど、人間の声でそれをやるのはとても難しいんじゃないの?」

「だからオレら少年合唱の腕の見せ所なんですよ先生ぃ。」

 

彼らは夕刻の迫るレッスンスタジオで、この話のもともとのトピックだった「強い意志を感じさせる『行け』の読み方をどうしてここでは『け』と読ませているのか」という課題の討議を完全に忘れて脱線していた。これがまさに小学生男子の生物学的特性である。

トイレ休憩の練習場雛壇の最下段で、3人の6年生が、江ノ島の遠景を望む晴天の鵠沼海岸のベンチに座る少年3人組といった風情の後ろ姿で、空になったサンキスト・アップルの段ボール箱を床に退け、長椅子に座っていた。

「この人は…人じゃねぇ…ワンワンは、どんな気持ちで『行け』って言ってんだ?」

深谷寒太郎は親睦会支給の「きょうのおやつ」のリンゴジュース200mlパックの上面左端の穴へ、剥がしとったストローを伸ばして突っ込んだ。

「ワンワンの中の人は、だから、老いていく自分の人生と仮死状態から再起したセミを重ねてんだよ。つまり、自らを頑張れって応援してるワケで…」

メゾ6年、パートリーダーの品川(弟)がテトラパック直方体の底面を左右にシェイクしながらシーキャンドルを遠目に見遙かす少年が如く、開けっぱなしのスタジオ入り口の内開き扉の方を凝視している。

「応援で背中を押すシチュの『行け』は、どうしても『けー』だよなぁ。」

そう言ってからアルト・パトリのトナミ・カズノリはリンゴジュースを音をたてて吸った。3人のパートリーダーが肩を並べ、長椅子に座って彼方を眺めながら作戦会議をしている光景は珍しい。

「ワンワン名義で詞を書いたヤツって、結局、シロウトなんだろ?」

「詞を書いたのはシロウトだけど、曲を付けたのはプロなんじゃない?」

「オレ、アンパンマン少年合唱団の出てる合唱祭みたいのでこの作曲した人の実物、見たよ。客席の歌唱指導みたいのを受けた記憶がある。」

「『け、と発音しろ』なんて、なんでこんな蛇足めいた註記つけやがったんだろ?」

「いくらなんでも『いけー』じゃ、『行っちまえ』『戻ってくんな』とか、最悪『逝け』にかけられてる自虐ネタ。」

「まったく、最近の大人の考えることってのはワケわからんよなぁ。」

「どうする?とりあえず『ゆけ』と『いけ』の2種類歌って録音聴いて決めるってのは?」

「また、先生、ウルサイぜ。楽譜を勝手に書き換えんなとか…」

3人の前に、突如相模湾に出現して湘南海岸を跋扈するゴジラ-0.1452ファイナルの翳のように一人の少年が立ちはだかって問うた。

「品川(弟)先輩ぃ、このジュースの飲みがら、どこ入れりゃイイんでしょう?」

「ここ。…悪かったな、セッティングほかしてオレらがパートリーダー会議やってて。おめぇ飲み終わるの早すぎんダヨまったく。」

中梅煋次朗の真っ赤なタラコ唇が見下ろしている。

黒柴顔の6年生はオ股の間からベンチの下に打ちやったサンキスト・アップルの陳列用段ボール箱を引っ張り出して4年メゾの胸の前に突きつけた。

「先輩がた、パトリ会議って、なんデスカ? 例の『とんでいけ』やシュプレヒコールの『いけーーー』の事案すか? あの『行け』は絶対に『け』なんですよ。決して『け』なんかじゃない。」

「なんでダヨ!?」

トナミ・カズノリが彼らしい先輩風順風満帆の口調で、キラぱっつんヘアー、ステージでおばちゃんたちに大人気の色白4年生へ問うた。

「僕ちんも最初『変じゃネ?』と思って考えたっす。ただ、パトリの先輩方、お分かりだと存じますが、2026年のNコンの課題曲テーマは何だったでしょうか?」

「わけわかんねぇ。」

「もったいつけやがって。」

「『どきん』ダロ?…アンパンマンの黴菌陣営側のシンパ、『ドキンちゃん』の『どきん』!…朝ドラで甘ぁーい汁吸った国営放送、今度はNコンにまで!まったく。」

「今年のテーマは間違っても『再起』『復活』『弱者や自然の摂理への共感』なんてのや『再チャレンジ』でもなければ『生きることへのひたむきな意志』でもない。周囲がどう言おうが、大切なのは、ただ『どきん』でしかないんです。ワンワンはセミ爆弾に遭遇してドキンとさせられる。それが一番大切なメインのエモーションなんです。だから大切なのは[C]の34小節目までで、それからあとはオマケのリアクション。『どっきん』の修飾でしかない。…卵から孵ったセミは脱皮を繰り返しながら暗い地中や樹木の根間で5年ちかくの幼虫生活を過ごし、やがて地下から這い出て羽化します。僕たち少年しかいない合唱団の団員と同んなじ。オスの成虫としてミンミン鳴くのは二週間から1ヶ月間ぐらいの間。『セミ爆弾』は寿命がつきかけて体力が怪しくなったセミの防御退避行動だと言われている。実年齢68歳のワンワンの中の人はおそらくそのことを科学的知識としてよく知っている。それでもなおかつ『そうだよね まだまだだよね』というのは単なる託ち種のエクスキューズでしかないんです。ホンキで『がんばれセミさん』とは思っていない。だから題名も『がんばれ せみさん』じゃなくて『どっきん せみさん』なんです。どうせ強い意志をもって『ゆけ!』と命じたところで、行き着く先は『セミさんの寿命の終わり』にしかならないから。彼の本心は『あーびっくりした!まあ、あんたも頑張ってて偉いねぇ』でしかない。だから『けー!』じゃなくて『けー!』なんです。『セミさーん…心置きなく好きなように行(い)っちゃいなー』なんです。」

「中梅…おめぇこんなことをよく自慢げにつらつらと話すナァ。」

「声を出すのが一応セミプロのボーイソプラノの商売なもんで。」

 

煋次朗は最後に「ただ、コーダのシュプレヒコールの『いけー』は、個人的には『いけッ!』の方が少年合唱団っぽいシャープさが出て良いと思います。」と申し添え、思い出したようにトイレに走って行った。彼がくっちゃべっていた場所の後ろには、飲み干したジュースのパックを畳んでストローを中に落とした(そうすることがこの合唱団のテトラパック廃棄の約束事項だった)団員たちがサンキスト・アップルの陳列用段ボールに飲みがらを並べて捨てようと列を作っていた。

「門脇大地がバレエ教室をムリヤリ退所して合唱団へ途中入団した日の練習前に下の合唱団駐車場でビニールボール投げて遊んでる子がいて、話しかけられたんだと。その2-3年生ぐらいの子は途中入団審査に来た門脇を見て、突然声をかけた。『お兄ちゃん、おかえりなさい。今日までずっと待ってたよ。今度は卒団まで一緒に歌おうね。』って言って、黄色いビニールボールを左手に握りしめたまま受験生にしがみついてきてきつくハグしたんだと。」

「中梅煋次朗らしいなぁ。あいつ、本科に上進した時点でもう、ヒトの人生を一発で見抜くようなああいうキャラだった。」

「大袈裟だなぁ。」

「まぁ、イイんじゃねぇの?オレはYouチューバーみたいなずっとくっちゃべってる男どもは大っ嫌いだけど、なヵ、中梅がするみたいな内容の話だったら許容範囲内かな?」

 

🍧🍧🍧🍧

 

彼らが次第にピアニストに対して発するようになった要求は、「全体的にスタカート・マルカート気味に」だった、アテンポのかかる[A]の ♪どうしたの からの無聊なフレーズや、さらには場面転換の ♪そうだよね の[D]以降も。前者は「現代音楽チックな感じがするから」、後者には波がバリバリ流れるような感じにして欲しいから…そして全体的に自分たちの歌がだらけて聞こえないように、ピアノはオレらをめらめら煽って欲しい…と様々な理由をつけてフレーズの強弱にかかわらずスタカート・マルカート気味にお願いしますと熱心にオーダーを申し入れていた。

美しく精悍な歌唱姿勢をお客様に見せてナンボの少年合唱団員であるのにも関わらずじっとしていることがニガテな4年生団員たちが、レッスンスタジオでついに通団服のシャツを脱いで上半身下着姿で歌うようになった午後、佐久平レキがあろうことかバッチバチの夏用ステージユニフォームを紺ベレーから黒いローファーまでの一式揃えまとって練習にやってきた。彼らは先ほどからシャープの落ちた[F]の58小節以降、まず「string.」という速度変調記号の加減の統一(?)がとれず、「ペルペトゥムモビレってコトですよね」と頭から駆け出す子もいれば、最初の ♪とんでいけ でアクセルをかけはじめる子や、クレッシェンドについているポコアポコを見て、3小節間均等に♩≒152 まで持っていくべきだと主張する5年メゾもいた。それからさらにその62小節目からの伴奏の煽りに乗せて2パートがまったく違う言葉を吐いてメノモッソまでもってゆくポリフォニックな部分が噛み合わず、他のパートの歌をきちんと把握して歌うというポリシーを遵守しているような5-6年生は好き勝手に疾走する3年生どもをどう持っていくべきか少しだけ躊躇していた。

「佐久平、おめぇ、ココんところをアルト担当の、ウーん…中梅煋次朗と2人で歌ってみんなに聞かせてみろよ。オレさまが手拍子たたいてやるから。」

「な、なんでボク?」…中梅が、この箇所のマネジメントを扱う丘村虎夢に声をあげた。

「中くんの豊かでオ美しくメチャ得意な音域だろ?みんなに聞かせてやれよ。」

「イイけど、何で佐久平先輩って、こんなホンバンの衣装着て来てンすか?暑いでしょう?」

「なんか出演あるんだっけ?」「え”ーオレの母ちゃん別に何にも言ってなかったっすよ。」「先生、服装コード、きっかしメールしといてくんさいよ(怒」「佐久ちゃんだけ、これから何か宣材撮影あるんすか?先生ぃ?」…少年たちはセミプロ・ボーイソプラノ集団独特の性癖から、例によって様々な私見を依頼文や命令形で言挙げした。

「佐久平、おまえ、どちらかっていうと服装とかカタチみたいのから入るタイプだよな。」

丘村虎夢が広げた左手のナカ指と薬指を揃えて唇に当てながら言った。

「いや、そろそろドローン撮影の色味のテストとか、有るんじゃないか…と思って…」

「佐久ちゃん、そんなのねぇよ!令和時代まっ只中に撮影動画の色味やトーンなんてドレスリハ撮影しなくってもAIでカンタンに変えられる時代なんだよ。なヵ、お気遣い大変ありがとう御座いますが、そのお気持ちだけ頂いておきます。」

 

♪さあ、お日さま向かってとんでいけー

 あおぞら向かってふるわせろきみのはねを!(さあ さあ あおぞら向かってはねを!こころを!)

 

佐久平と中梅は取出しのポリフォニー調の部分をとりたてて感情を込めることなく少年のあっさりとした声部処理という響きで歌って片付けた。高学年の団員たちは招聘を受けてバッハの『主を誉め讃えよ、全ての異教徒よ』を歌ったことがあったし、たとえば4分の4拍子を強弱付けてハンドクラップしながらポリ声部を合わせる訓練も積んでいた。今回も3年メゾの大塚K太が「主役の旋律がわからない」と不満を洩らしたときも、幼い彼に考えさせることすらせず、パートの5-6年生は「♪あおぞらむかって ふるわせ はねを こころを…でかまわない。」と、あっさり言って済ましていた。

「なヵ、僕たち少年合唱団員にとって…『夢』ってなんなんでしょう?」

びっちり着込んだ制服のネクタイを中指で緩めながら佐久平レキがぼっそりつぶやいた。

「このタイミングで、なんでそんな…」

「そもそも、少年合唱団に夢って必要?」

揶揄する者は多かったが、佐久平の少年合唱団員としての生き様を知っている上級生たちは黙って何かを考えていた。

「ここ、ピアノで先生が『タタッカ タタッカ タタッカ タタッカ ピロリロ ピロリロ ピロリロ』って自分ノリで下からリズムとっててくれないと絶対歌えない。ホンバンじゃトラムームー先輩の手拍子なんて無いわけで、オレも出来ることを頑張るから下で支える人たちにも頑張って欲しい!っつーのがサクちゃん先輩の夢なんすよ。」

「中梅、おめぇ、何言ってるの?」

「コレって、夢は一人一人に絶対必要なんだ!って歌なんですよ。」

「はいィィ??」

 

上手くことが運ばない事態の発生は、この曲ではほぼ1フレーズごとに起きていた。

♪せみさんおちていた の四分音符に「おち」というシラブルをあてはめることができず勝手に八分音符2つにして歌いがちだったり、♪おわった の語頭の音価が楽譜上バラバラに設定されていて混同していたり、もちろん男の子なので♪そっと手をのばすと の最後のポルタメントが不快感のあるほど極端だったかと思うと、フェルマータに引っ張られるのか全く付け忘れたまま歌ったりした。インターミッションが終わって58小節からの肝心なストリンジェンドでもリズムに乗り切れず、ぐずぐずになる場合も多い。だが、指導者たちはこの曲がNコン課題曲としてはこうした学びどころ(学ばせどころ?)のある…少年たちにとっては仕事(笑)の参考資料になる場面満載のよくできた曲だと評価していた。さらに彼らは散在する「×音符」を正確なピッチ厳守のまま、なんとか「男の子らしいカラーやニオイがストレートにするもの」へ引き寄せようと声色を変えたり発声をいじったり、基本的には男の子独特のダミ声のような地声を駆使して、どちらかというと真摯に声を揃えていた。

「去年だかの『ピエロ・リュネール(月に憑かれたピエロ)』のハイライツ、どなた様のご担当でしたか?」

教師が楽譜の3ページに目を落としながら問うと、「はいっ!」という快活な声と共に待ってましたとばかり2人の少年のフィセル・バゲットのような腕手が挙がった。

「煋次朗さん、悪いケドあなたの方はアンダーキャストでしょ?メインで歌ったのは?…」

「俺の方です!」

3年生の1学期までアングラ劇専門子役を養成する児童劇団にいた丘村虎夢(アタり役は『帰ってきた毛皮のマリー』と『南絶望が丘79』だったそうだ)が、培った演技力や劇の発声を買われて殆ど歌唱力やクラッシックの練度を問われない『月に憑かれたピエロ』の歌い手(?)に推挙されていた。同じ「×音符」でも、隣り合う単語ごとに「語って」「歌うように」と目まぐるしく指定の変わるシェーンベルクの神経質で小煩い注文へ、少年らは忠実に応えていた。

「3ページ目のこの群読の部分の仕上がりが不自然になってないか、虎夢さん、チェックしてあげて。お任せします。」

 

それから虎夢少年が最初にやったのは、10人ほどの団員を任意に指名して「×♪ウソだぴょーん」をごく普通に叫ばせることだった。3分の1の少年が「ぴょーん」の部分に「ぴヨォォ~ん」といった奇妙奇天烈でエキセントリックな口先の色をつけている。

「これで行こうや。みんな、「ぴヨォォ~ん」でお願いします。

彼はそれから入り際の「ウソだ」という語頭も団員たちに叫ばせてみて、「ウ-ソ-だ-」とテヌート気味にするか、「ウッソッダ」とマルカートするのか、今度は挙手で選択させ統一した。少年たちは「ウ-ソ-だ-」では今度も「だ-」に低い諧謔な声色が乗り、「ウッソッダ」であれば文頭の「ウッ」に明瞭なアクセントがつくことも発見した。

続いてソプラノチームに三連符がついてタイで伸びる「♪ジビビビビー」を歌わせ、ロングトーン以外では母音が消えるほど強いアタックを要求して、一方のアルトの「リアルな悲鳴ほか工夫して」の「×♪キャーー」は、低声部の子どもたちからの強烈なオファーを受け、「×♪ギャア~~」という男の子らしい叫びを採用した。

「『キャー』はどう考えても女や、ちっこい子の叫び声だろ?」

「いくら多様性の時代だからって言っても、俺らはあんまし『きゃぁ♡』って言わない。🎀きゅんきゅん💕は言うケド。」

「楽譜に『リアルな悲鳴ほか工夫して』って書いてあんだから、なヵ、工夫してギャグっぽい感嘆詞でイイんじゃネ?」

ただ、ピアノ伴奏のマネジメント担当のウメちゃんが、

「先生、ここの伴奏はクレシェンド・デクレシェンド遵守で明快にばりばりアルペジオお願いします。」

と目前でエア・ピアノを弾きながら言った。

 

🌻🌻🌻🌻

 

「それで『どっきん せみさん』の最後のシュプレヒコールは結局どうなったの?」

コの字型をしたキッチンカウンターの中からサラダの盛り付けをしている女が尋ねた。

「結局、相模(兄)君がYouTubeの動画かき集めて…」

「相模君って、メゾソプラノの方の相模君?」

「そう。それで、アップされてるプロとかの大人の人の女声合唱団の『せみさん』を聞いたら…」

アルファ世代の少年たちである。こうした情報収集能力には十分長けている。

「どこの女声合唱団も、最後の100小節目は、やっぱり『いけ!』って言っていて、『いけーーー』って伸ばしてる合唱団は無かった。だからオレらもシュプレヒコールは提案通り『いけッ!』です。」

「おばさん、おばさん!面白いのは、相模っちの探した中に、完全な打ち込みだけの、たぶんMIDI音声だけで合唱部分を歌わせた…てか、声部を出力してる動画があって、100小節目もデジタルの入力だから、『いけ!』は俺らみたいに楽譜のアナログ的な雰囲気でちょっと間を空けて叫ぶんじゃなくって、ホントにMIDIデータの小節線に機械的にくっつけて、いきなり『いけ!』って出力されてるんです。そうなると、どんなカンジだと思いますか?」

「さぁ?」

「伴奏ピアノには、最初、2分の2拍子の2部休符が入って、それからスフォルツァンドの最後のシメが💥Bang!って入るんです。こうなると、MIDI音声の『いけ!』とピアノの最後の音が、微妙に掛け合うんですよ!」

「そう!ジャン ジャンッ!…みたく。」

「あまりにも可笑しかったから、俺らもそれをいただいちゃいました!」

夕餉の支度の懐かしい良い匂いがしてきた。少年たちは、この子供食堂一律料金の十円玉が、自分たちの人数分あるのかを楽しみに確かめた。

「ユーリ君のおばちゃん!ここ来る途中でユーリ君に会ったよ…てか、下りのケーブルレールのゴンドラに乗ってた。後ろ向きのシートに座って…。」

「中梅、すれ違いのゴンドラに乗ってる後ろ向きの男子小学生、誰でもユーリ君にすんじゃねーよ!イイカゲンにしろ。」

「うんにゃ、アイワカラズかっこ良くてバリバリのメゾって感じだったですよ、おばちゃん♡」

「どうしてユーリのおばちゃんにそういう悪質なウソつくかね?しかも『アイワカラズ』じゃなくってそりゃ『相変わらず』だろ?アイワカラズはおめぇのノーミソじゃん!…すみません、つらい気持ちにさせちゃって。」

子供食堂調理人の元少年合唱団員保護者ママの店主は目を細め口角をバナナ形にして笑い、中梅煋次朗に優しく声をかけた。

「おばちゃん、全然つらい気持ちなんかしてないよ。ありがとう、教えてくれて。きっとそれ、本物のユーリ君だったんじゃないかな?おばちゃん、みんなのことを見てお話ししてると、ユーリ君、ひょっこり戻って来てるような気がする。」

「ホラみろ!ユーリ先輩は生きてるんだよ。僕とかおばちゃんみたいな心のキレイな人間にだけ見えるんだよ。」

「おばさん、第三軌条オタ子鉄メゾの門脇大地がバレエ教室をムリヤリ退所して合唱団へ途中入団テスト受けに来たとき、練習前に合唱団の下の駐車場で中梅くんがビニールボール投げて遊んでて、門脇を見るなり『お兄ちゃん、おかえりなさい。今日までずっと待ってたよ。今度は卒団まで一緒に歌おうね。』って言って、黄色いピニールボールを左手に握りしめたまましがみついてハグハグしたんですってよ。おかえりなさい…っていうからきっと、ユーリ君が帰って来たんだって勘違いしやがって…。」

「ウルさいなぁ!門脇先輩カッコよくてイケてるメゾソプラノなんだから100パーセント見間違えたんだよ。ダマれ!どっきんオバカのソプラノ6年!」

子供食堂店主はこともなげに問答を平定する。

「おばちゃん知ってるよ。中梅君から聞いてたもん。門脇先輩、確かにカッコいいね。」

「中梅おまえお喋りだな。」

だが、少年たちはそれ以上4年メゾを責めなかった。彼らもまた、合唱団の営業現場で発生する数々の危険の回避やあり得ないくらいの幸運の偶発が、かつてメゾソプラノで肩を並べ自分たちとともに歌っていた頑張り屋の少年…天上の遠いところへ行ったはずの今も彼らの合唱を守ってくれていると思われるような場面が多々あるからだった。

「中梅みたいなアホンダラがいるからなぁ。」

「こんな後輩、放って置けないぜ。」

「…あいつの夢って、何なんだろう?」

「おばちゃん、ユーリ君の夢って、何だったんですか?」

店主は答えがよくわかっていてニヤニヤした。少年たちはまた暫く口を閉じた。6年生たちが下級生に箸を配った。アオケン少年は「ありがとう」と言い、中梅煋次朗は黙って頭を下げた。メゾソプラノのパートリーダー、品川(弟)が手洗いを忘れていたことに気づき、席をたって店の一隅の小型ペデスタルシンクでくつくつと手を洗い、ハンカチでふきふき戻りながらながらぼそりと言った。

「…ユーリの夢なんて、一つしかない。俺らが幸せに歌って、お客様に幸せのお裾分けをすること。」

「…おばさん、そうなの?合唱団のモットーがそうなんですか?」

「佐久平パイセンの夢と同んなじだぁー。」

中梅がうっとりと言った。

「佐久ちゃんみたく、制服とか、外見で勝負したりはしないけど…まぁ、俺らの少年合唱団のガイケン見て幸せになってもらおうとはみんなも思ってる…」

「中梅煋次朗、夢見る11歳。制服の似合う絶世のメゾソプラノ。毎夜、歌って人々に夢と希望と幸せをお裾分けしている少年である。」

「中くん、ナルシー入ってんだろ?それにもう11歳とか派手にサバ読んでるし!」

「いや、そもそも概算で言ったまでです。」

食堂店主が洗った手を拭い、少年たちにプラスチックの盆に乗った定食を差し出した。

「はい。お待たせしました。『どっきん せみさん』定食。…おいしくてどっきんってするカモよ。」

「え”ー、蝉が入ってるの?」

「今流行りの昆虫食かい!?」

「だから『おいしくて、セミ爆弾みたいにどっきんとする』って意味だよ。キャビア入ってるとか、但馬牛のステーキとか…ミニ・もっちゅりんとか…さすがにそりゃ無いか。」

「でも、ユーリくんのおばさん、何で僕たちが『どっきん せみさん』のプロジェクトやってるの知ってたんですか?」

「中梅、おめぇ、またしゃべったろ?まったく…」

「まぁ、声を出すのがセミプロのボーイソプラノの商売なもんで。」

アオケン少年が上天板に並べられた十円玉をあたたかく見つめながら言った。

「違うよ。ユーリ君に教えてもらったんですよね?何となくそんな気がする。」

 

 

JASRAC 344-5451-9  2026 NHK Publishing, Inc.

▲「先生ぃ、その『草葉の陰』ってどんな影ですか?」「バッハって最後はライプチヒのトーマス教会で死んでるんですよね?」「教会の中に埋まってんだから草葉無くない?!」「そこって、俺ら同業者のトーマナー有んじゃん!」「♪トーマスは元気な機関車ぁ~ パーシーもいるよぉ!」「パーシーとゴードンのカステラってあるの知ってる?まじブキミ草!食ったコト無いケド。」「だかラァ!オラの質問はァ『草葉の陰』ってどんな影かってこと!色とか、形とかってのを聞いてるんですヨォ!『チイちゃんのかげおくり』みたく!」

 

 

♪ぼつぼつ模様の、舌が二つのお蛇さん、

 刺々だらけの蝟、来るな来るな。

 蠑螈よ蠑螈よ、足なし蜥蜴よ、悪戯すな。

 来るなよ来るなよ、お仙女さまのお傍へは。

 

 妙音鳥よ、節面白く、

 歌へ歌へ、ねんねこ唄を。

 ラ、ララバーイ!ララバーイ!

 此方の大事なお仙女さまにや

 恙も、障も、魔も附かぬ。

 そんなら御寝なれ、ねんねこせい。

 

 巣造り蜘蛛めら、ここへは来るな。

 脚長蜘蛛めよ、彼方行け、彼方行け。

 黒甲蟲、傍へも寄るな。

 毛蟲も、蛞蝓も、悪戯すな。

 

 妙音鳥よ、節面白く、

 歌へ歌へ、ねんねこ唄を。

 ラ、ララバーイ!ララバーイ!

 此方の大事なお仙女さまにや

 恙も、障も、魔も附かぬ。

 そんなら御寝なれ、ねんねこせい。

 

(坪内逍遥 訳 大正4年11月28日)

   国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

日本人の誰しもが曲のサビを♪ターンタータタラタラで歌えるほど有名なメンデルスゾーンの結婚行進曲にのせ、センターでドゥミポワントを狙いジュテを積んで舞台中央に進み出るのは白いターバンにシューズの裏まで全身真白づくめの10歳の王子様だ。

少年が、3人の中央にいるのは、彼が新郎新婦に連れられてやってきたどこぞやのプリンスで、ジュテを保たなくてはいけないのは、両側にいる動作の豪快なスター・ダンサーらに両手を引かれ、ストライドに合わせて移動しなくてはならないから。

曲冒頭C管3本の耽美なトランペット・ファンファーレのタイミングを聞き逃すと、あっという間に両手を妖精王オーベロンと妻=女王タイターニアに持っていかれ鞭打ち状態での登場となる。上級生はそれを繰り返し釜谷流星に念押ししておく必要があると思っていた。

 

華やかな夢の匂いのする1日。

彼に何かすてきなことがあったわけではない。それどころか、バレエの先生から、

「アオケンくん、ちょっとさびしくなっちゃった?ごめんね。」

と言われてしまった。

一般の演奏会終演MCの担当団員に手渡されるナレーション原稿には

「ぼくたちは、歌う姿を見ていただき、お客様にすてきな夢をみていただく少年なのです。楽しかったり、歌が上手くなって大人になって偉くなったりするために合唱団があるわけではありません。だから、苦しいこと、悲しいこと、辛いことがあっても我慢できます。」

と、サカルトヴェロ・コーカサスの古地図のように込み入った内容を自らに説いていた。

「先生ぃ、苦しいこと辛いことばっかり、我慢しまくってるオレらの顔を見て、お客さんは夢がみれるんでしょうか?」

抗う相模(兄)君の問いに、

「君らは近所の小さな子が泣くのを我慢して道端に立ってるのを見てどう思う?やっぱ不愉快か?…『頑張れ。負けるな。』って応援したくなるって子も多いんじゃないか?」

と返した。「何で…?」とさらに食い下がる相模っちに、

「君ら自身が毎日泣くのを我慢してひな壇に立ってるわけだから…。泣くのをこらえてる子の気持ちは痛いほどわかるだろう?」

アオケン少年は5年生になってから、スキップするように合唱団のメインエンタランスを潜って練習場に入る。

それは4年生の後輩に何人も楽しくて仲の良い後輩ができたからかもしれないし、「歌は友達っ!」の練度や境遇へと至ったからかも知れなかった。本人に直接尋ねてみたらいい。

「たとえばアキヨシ君やフクちゃんたちのこと…デスか?あとは瓶底メガネの矢那瀬くん…矢那瀬大洋くん?」

「メゾやアルトの3-4年生とはみんな一生懸命練習するのですが、お休み時間はギャッハッハって笑って過ごしています。」

彼は6年生の一部の団員はニガテだったが、5年生団員は全パートを通じて優良な人間関係を保っていた。同学年の団員全員と仲が良いというのは、日本の少年合唱団を見る限り比較的珍しい現象なのかもしれない。第2メゾソプラノの中梅煋次朗は自パートとアルトの4年生とは全員大の仲良しだが、第1メゾの4年団員との仲はそこそこで、ソプラノ・パートの4年生とはあまりうまく行っていなかった。

アオケン少年の所属するアルト・パートの低い声の少年らとは、もちろん腕白集団の男の子独特の絆のようなもので固く繋がり、弱い子や目下ステータスの下級生はとりわけ大切に面倒を見る。

彼自身が高学年の少年合唱団員になった日、指導者から「後輩たちの面倒をよく見なさい。それが上手に歌を歌えるようになる近道だ。」と例によって言われたことを励行している。

「『さっき、ウィズユースマイルのメゾとアルトが壊滅的にショボいって強く叱ったばかりなのに、何できみらはそんなに楽しそうなんだ?』って先生から不思議そうに言われたんで、『ぼくたち、みんなもっとしっかりと歌っていいんだよ!主役なのさ、エッヘン。ガンバロー!』…って僕が言ったら、4年の子達が『♪ガー ンー バー ロー オー!ドュワーッ!』って阿佐ヶ谷姉妹みたいに急にハモったからもう、オカしくて、笑いすぎて息ができないって答えたら、先生は『最近の小学生って、そんなことが可笑しいのか…?よくわからん。』って言ってあきれかえっていました。」

彼は黒い制服の折襟元から、登校前の玄関で母親に振られるらしいニナリッチ・オールデュタンっぽい残り香をふわっとさせ、今でももうどうしようもなく可笑しくて仕方ないという表情で学校の校章の箔押しのあるランドセルを背負い、帰っていった。

 

教室のスタジオのとば口から真っ白いお尻とアンナヴァンの肘を交互に見せながら、釜谷流星は人形劇に出てくる人工衛星よろしくシェネを繰り返しているところだった。

荷物棚には適当にたたまれたヒュンメルのタオルとイナズマ模様のキッズサーモスが、午後3時の形で置かれている。どちらも少年合唱団員の必需品で、どちらも合唱団の練習場で団員たちが見たことのある物。スタジオの中からは嗅ぎ慣れたバレエスタジオの匂い。少年合唱団の歌う「ララバイ」のデモ録音が聞こえてきていた。流星少年のくるくるターンは音楽には合っていない。部屋にいる「男の子」は絶対に彼一人で、「ララバイ」が歌われている間の彼はステージの上で美しく臥せっているはずだったから、少年は今、一人で「自主練習」を任されて大切なシーンのパを何回も何回もさらい続けていたのだろう。

 

♪Philomel, with melody

 Sing in our sweet lullaby.

 Lulla, lulla, lullaby, lulla, lulla, lullaby…

 

いきなり歌いながら部屋に入ってゆくと、流星少年は驚いてすぐ表情を解き来訪者を認めて柔和な表情に戻ったが、教室の女の子たちは掌を床に向けドゥミスゴンドをキープしていた。

 

「あおけん君、流星くんのくるくる…見た?だいぶイイかんじになってるでしょ?」

”流星くん”はタオルを頭頂に当てて王子様髪に吹き出した汗を吸わせている。

アオケン少年は先生の顔を仰ぎながら波打つように頷いた。釜屋流星は合唱の練習の合間にも繰り返しシエネの練習をさらっている。一昨日も見たばかりだ。

「お客さん、とっても喜ぶわね。出てくるだけで華があるし、今年も教室のみんな、男の子に負けちゃうかも?ヤベっ!」

レッスンに来ている子たちに聞こえないように右手を口の横に立てて「バレエの先生」は声を落とし、冗談を言って笑った。

少年合唱団員の姿に「華がある」のは中学年以上の彼らがみんな寡黙な練習の日々を経ているからだ。

「小さいのに、偉いんだねぇ。」と、さして小さくもない5年生に声をかけてくれるおばさん達もいる。ただ、流星の顔は紅いほおでぱっちり反り上がった睫毛の目が適当に離れていてメイク映えもし、普段からバレエ王子の髪型で、何より体つきがガチむちして衣装が良く似合った。鏡に映ったバレエバーの前の女の子たちの私語がそろそろ聞こえ始めたが、もちろん釜屋流星は彼の方を見て無言のままニコニコしている。床の上から立ったままサーモス水筒のストラップを引っ張り上げて彼に渡すと、

「ありがと。」

とタメ口で応え、ロックリングをつまんで下げ、ポンッと音を立てて蓋を開け中身を口に含んだ。紅茶の匂い。

先生とお母さんたちが気にしているのは、アオケン少年が「今年の王子の役を流星くんに盗られた」と心の底で思っているのではないかという疑念のようなもの。先生の言葉の中にその留意があるのは「小学5年生の子供」でも何となく解る。

お母さんたちと合唱団の先生方に頼まれて、デジレ王子ふうの仮の貸し衣装を着た下級生の写真をバレエの先生のスマホで撮ってもらい、「それから流星くんとツーショットで教室の先生に写していただいて、最後に3人ショットで自撮りしてお母さんたちに送ってもらってきてね。」…というのがアオケン少年のここへやってきた理由だ。

「去年の『取り替えっこ王子』(…わかりにくいようだが、これが正式な役名だ)の威厳たっぷり歯に衣着せぬストレートなアドバイスをかまし、練習が終わったら流星くんママがくれたこのお金で、何か精のつくものを食べて一緒に帰ってらっしゃい」とのミッション。

出がけに母親から、いきなり!ステーキのリブロース400グラム(!)2枚、スープセット付きが買えそうな額の千円札をばさばさ問答無用とミニオンズのお財布ぱんぱんに入れられた。

 

「取り替えっこ王子」の演技は、妖精王オベロンと女王タイターニアから両方の手を引っ張られ、腕がちぎれそうになりクルクル回って倒れてから泣くことと、基本のプレパレーション遵守の後、結婚行進曲に乗せてポンポンッと流麗なピケで歩くことの二つ。残りの20分間ぐらいはステージの上で眠る演技をするだけ。寝たふり王子が全登場人物(?)の中で「舞台の上へ最も長く上がり続け、常に姿が見えている演者」ということになる。

カーテンコールにも無論出ずっぱり。オベロンとタイターニアのカップルに両手を引かれ王子のレヴェランスを繰り返す!背筋を伸ばし何回も何回も!どんな教室のボーイズクラスの子でも決してもらえない役得…と前々回キャストの2メゾ5年生の門脇少年も言っていた。設定上はどこからか(おそらく英領インド?)略取誘拐されてきた少年ということになっている。

「この手の役柄がステージに立って、さらにバックへ少年合唱が付くのは、原作者も作曲者もオリジナルのバレエ振り付け師も全員ゲイだろう?少年合唱団の出演レパートリーにはよくある話だ。」

合唱団指導者はことも無げにそう言ってアオケン少年の昨年の音取りの結果を聞き、締めくくっている。

男の子は『ゴールデンバニティー号』や『バーンスタインのミサ』や『アマールと夜の訪問者』や『くるみ割り人形』のプローヴェ前にも似たような逸話を聞かされた。少年合唱はLGBT作曲家のマストアイテムだったらしい。光栄といえば光栄だ。

それから少年たち2人は先日まで取り組んでいたJ.S.B.の『羊は安らかに草を食み』のボカリーズをバレエの先生に歌った。

待ちくたびれてシビレを切らした教室の女の子たちもネクター色のレオタードの肩を上下に揺らし集まってきて2人の歌を聴いた。

無伴奏で歌うと、ボーイソプラノの素材が光るだけで全く眠い歌のように響く。

伴奏の方は牧童の囀りの如く軽やかで魅力全開のメロディーの有名なカンタータだが、歌っている少年には「ふいごを使って鳴るオルガンのように真っ直ぐな太い呼気で歌え」という絶対命令が出ている。

彼らがうっかりポルタメントを付けたり、ミュージカル子役のような韓流っぽいキツ目の力んだ歌い方をするとたちまち「やり直し」の要求と指導者の範唱がついて、団員たちはヨハン・サベスチャンがあまり好きになれなかった。

釜屋とアオケン少年の二人は、たまたま取り出し練習の最中、指名されてこれを歌い「なかなか良く歌えている!この2人は結構イイ線行ってるんじゃないかな?バッハ様も草葉の陰でさぞやご満悦だろう。」と指揮者に手放しで誉められてから、2人で何か歌おうというときに『羊は…』のスキャットを歌うようになった。

「先生ぃ、その『草葉の陰』ってどんな影ですか?」

と横から2メゾ4年の中梅煋次朗が質問したが、答えたのは博学なる6年ソプラノの深谷寒太郎で、彼は「バッハって最後はライプチヒのトーマス教会で死んで埋葬されてるんですよね?」と結局疑問形で指揮者に答えを問うている。

「教会の中に埋まってんだから草葉無くない?!」

「そこって、俺ら同業者のトーマナー有んじゃん!」

「♪トーマスは元気な機関車ぁ~ パーシーもいるよぉ!」

「パーシーとゴードンのカステラってあるの知ってる?まじブキミ草!食ったコト無いケド。」

「今のアンパンマン少年合唱団より、このぐらい昔の方のが楽しくてよかったナァ。」

などと高学年少年合唱団員たちが周囲で全く関係のない(?)戯言をギャーギャー騒ぎ立て、中梅が「だかラァ!オラの質問はァ『草葉の陰』ってどんな影かってこと!色とか、形とかってのを聞いてるんですヨォ!『チイちゃんのかげおくり』みたく!」とブチギレる中、結局アオケンと釜屋流星が「僕たちこれで結構いいコンビなのかも」と人知れず勝手に自惚れたのであった。

 

暇乞いに流星少年が昨年度のアンダースタディー、星野セオドアの「舞台上の寝場所」の誤りを指摘して「明日は我が身かもしれない」と危惧しているのを聞いて、バレエの先生は「少しだけ待ってて」と控室に戻り、サクラクレパスの赤いお花のマークのある白い軸のペンを一本持ってきた。《ソリッドマーカー・グローインザダーク》と太いサンセリフのフォントで表記されているのが見える。夏も近づく練習終わりの時刻だが、さすがに外気の様相は青褐色を帯び、日没を示唆している。チェーン店のヘヴィーなステーキも良いが、母の作る玉ねぎの乗ったサーモンのホイル蒸しも食べたいという食欲がアオケン少年の脳裏をかすめた。

「蓄光マーカーだよ。塗ってもほとんど見えないけど、電気が消えると光る。ゲネプロでキミの寝るところに20センチぐらい線を引いとけば、本番でステージライトが落ちれば自然に黄色く光るから、そこを目掛けて寝るといいよ。」

「客席からは見えないんですか?」

「見えるかもしれないけど、シェイクスピアに出てくる真夏の狂乱の森の舞台装置だよ。岩が光って泥んこの森の木々から妖精が飛び出てきたところで、だれも不思議に思わない。しかも流星くんがその上に寝っ転がるんだから。去年の星野くんみたく、全然違うジョーズの背中みたいな岩の上へ横になって背筋痛とかはやめてよね。カバンに入れておいて、ドレスリハーサルの時にサッとシルシ付けちゃいなさい。」

男の子は頭を下げ、ペンを受け取ると無造作に通団バッグの被せの端に突っ込んだ。

「先生ぃ、ケータイが鳴ってます。」

シニヨンに髪をまとめた巻きスカートのアシスタントさんが、聞き慣れた呼び出し音を鳴動させる韓国マカロンピンクケースのiPhoneを注意深く持ってきた。

「誰かな?」

表示された相手の名前を見て、前方斜め下の宙空に目線を送って少しだけ固まると、中指を滑らせ電話を受けた。

「はい。」早口だ。

フッとカンニングブレスのごとく深呼吸すると、デスクトップを見られぬようサイドボタンを押し、釜谷流星の方を見やって電話を差し出した。彼女の両の黒目がエントランスのダウンライトに光っている。

「キミに。」

「え?」

男の子は練習上がりの湿った頭頂の脇の髪を光らせながら怪訝そうに相手を見上げた。

「もしもし。」

保留がかかっていない。

「誰?」

「少年合唱団で練習に来ている釜谷流星です。どちらさまですか?」

「4年生か?」

「小学生です。王子の役でバレエの練習をしています。」

相手の甲高い奇妙にねじくれた気持ち悪い声が、周囲に漏れ聞こえている。ゴシップ系のお昼のワイドショーとかで、化粧スリガラスの衝立の向こう、「夫が2年前から3つ又かけて不倫していまして…」とボイスチェンジャーで「プライバシー保護のため音声を変えています」と表示される時のあの声だ。

「よし。それなら、となりの小学生とキミは詰みかけている。」

「誰のことですか?」

「カバンは持ってるのか?」

「誰がですか?僕の通団カバンはここにあります。」

「必ず持っていけ。自分のものは全部だ。何もそこに置いていくな。」

「誰なんですか?」

「早くしろ!お前のことは見てるぞ、釜谷流星。」

「誰かに喋ったらどうなるかわかってるだろうな。警察にも決して言うな。」

少年はいったん下ろした鞄の持ち手を鷲掴みのように握り上げ、内腕に挟み込むように抱いた。

「妙な真似をするんじゃないぞ。」

「この電話は隣にいる合唱団の友達にも聞こえています。その子のことですか?」

彼は周囲を見まわした。レッスンスタジオの外からここは見えない。

「その子と一緒にいつも通りの道でおまえの家に帰れ。途中にタクシーの会社があるな。そこでトイレを借りろ。必ずだぞ!」

電話は唐突に切れた。

「一緒についてこい、って…」

アオケン少年はうながされる必要もなく、すでにランドセルを背負っていた。

青ざめてスタジオの扉を押す釜谷流星の背中に、バレエの先生は声をかけた。

「流星くん、水筒とタオル、あっちに忘れてきてるよ。それから、手に握ってる先生のスマホ、返してね。」

 

 

「もう一度聞くけど、何の電話だったの?」

「『警察に言うな』『誰にも言うな』って。」

「僕には喋っちゃってんじゃん。脅迫だったんじゃないの?」

「アオケンくんと一緒に帰れって。いつも通りの道で帰る途中にタクシーの会社があるから、そこのトイレを借りろ…って。」

「何で?」

「知らない。そうしないと僕たち二人、ヤバイことになるらしい。」

「いつまでに行けって?」

「トイレ?…タクシー屋さん?…何にも言われてない。」

「じゃサ。まず、コンビニで何か買ってかない?のど乾いた。」

「ダメだよ。『早くしろ!お前のことは見てるぞ』って言われたんだよ。水筒の水飲んだらイイじゃん。」

「水筒の水は、今日も全部飲んで空っぽなんだよ。コンビニで南アルプス天然水か、なっちゃんオレンジ買うのに何分もかかんないでしょ?それに『お前のことは見てる』って言ってんだから、コンビニでお水買ってるだけだっていうのもちゃんと見えてるワケだし…?」

その通り、小学生たちは至近のコンビニで高価そうなエビアン2本を買った。店内にはこの時間であるのにも関わらず人がまばらで、それを十分見定めた上、アオケン少年は品選びの段階で相方を促し、美麗な声調でJ.S.B.の『羊は安らかに草を食み』のボカリーズを歌い始めた。彼らはセルフレジでタッチパネルへ11歳の少年の柔らかい指を沿わせながらも繰り返しそれを歌っていた。本来は2本のリコーダーがグランド・バスの上で囀る愛らしい曲である。善き羊飼い精錬なれば、羊らは心安らかに草を喰むという内容の曲。無機質で蛍光灯の光に満ちた空間に、それは涼しげに響いていた。

上高地の穂高の上の空の色とも言えるスクリューキャップをパチリと解いて、釜谷少年は一口だけ水を飲んだ。

「アオケン君、何で、JSBを歌ったの?」

「制服や通団服を着て『羊は安らかに草を食み』を歌う小学生男子なんて、きっとここら辺じゃ僕たちだけでしょう?」

 

♪Never harm, Nor spell nor charm,

  Come our lovely lady nigh;

  So, goodnight, with lullaby. ..

 

 2 人は指示らしい指示を口頭で告げられることなく、誘導されるがままハイヤーに乗っていた。ランドセルと通団バッグを各自それぞれ後部シートやフロアに転がしたまま。アオケン少年は裏返し忘れたエンジ色のプラスチック名札の底角を流れ行く街灯に光らせ、釜谷流星はバレエ用のピッチリ分けた髪の底地肌をミッドナイト・グレーのルーフライニングに沈ませながら。

トイレには目立たぬよう化粧鏡の横に立てかけられた「釜谷流星」と宛名が朱書きされた白い封筒。小学生の彼らにも謎の指示書は容易に見つかった。

「繰り返す。誰にも何も言うな。尋ねるな。まず、ここでトイレを済ませろ。二人で、タクシー会社の人に指示された車に乗って着いたところが目的地だ。好きに遊んでいろ。ただしその建物からは絶対に出るな。しばらくしたら、次の指示をするから必ずその部屋の中にいろ」

アオケン少年は、目を見開いて無言の下級生から手紙をひったくり、静かに落ち着いた声で全文音読した。

「『好きに遊んでいろ』ってんだから、その通りにしよう。」

「どこへ行くんだろう?」

「『誰にも何も言うな。尋ねるな。』って書いてあるんだから、聞かないようにしよう。」

「怖いよ。」

「怖くはない。」

「どうして?」

「繰り返し言われている。電話は『その子と一緒にいつも通り』、メモにも『二人で』と書いてある。釜谷くん一人じゃなく、僕に何かをさせようとしている。」

 

 

フィルイン・ドラムスを模した前奏ピアノの叩き込むようなトレモロリズム打ちを聞いた途端、ほとんど半数以上の団員たちは自分らの歌うべき次の曲がMCで予告されプログラムにある通りの順番の曲ではないことに気がついた。特徴的なリズムのイントロが、楽譜3小節目の弱起に差し掛かると、

 

ソー↑ドーラーソー

 

ソプラノパートの5-6年生が出遅れてはいけないと前奏のポカリーズを♪ルールールールーと咄嗟に繰り出した。アオケンたちアルトの少年たちも、これに沿うよう抑制した声量を最短のクレッシェンドで、

 

ソーソー♭ソーミー

 

と合わせ始める。おおかたの少年合唱団員のこの時点での判定は「ピアノの先生が、曲順を間違えている」だったが、アオケン少年の考えたことは「MC(今回のMC担当はソプラノ4年の倉木サトムだった)が曲のオーダーを間違えていたのをピアノの先生が本来の曲順に戻したのかもしれない」だった。倉木は比較的注意力があって、こんな間違いをするような子じゃないはずなのにと彼は思ったが、つい先日、下級生は誕生日だったとかで、練習スタジオで本科団員全員(!)に凝ったデコレーションのミニカップケーキを1個ずつ配ったことがあった。ケーキを持ち込んだ倉木ママに、先生は「こんなことをなさると、他の団員の保護者の方も、この合唱団では普通、誕生日にケーキを配るのが習慣なのだと気を遣われるようになって次第にエスカレートしてしまいますから、本来は決して受け取らないんですよ。」とニコニコ顔で苦言を呈していた。プチケーキ作りがお母さんのラブリーな趣味らしい。アオケン少年は「その気持ちは解る」とかすかに流れてきた甘いケーキの匂いを感じながら内心同情のような感覚で思った。結局、ケーキは「ここで食べてしまいなさい。お家の方にはなるべく言わないように。」と妙な口調の箝口令がしかれ、「こういう習慣ならヒデキ・カンゲキなんだけどな」と内心大歓喜の少年たちはごてごてしたデザインのスワロフスキー・ブローチのような小さなカップケーキをペロリと平らげた。こう言うことがあったばかりなので、少年は倉木サトムがちょっと浮ついて、曲順を間違えてアナウンスしたのかもしれないと思ったのだった。

指揮者先生は何事もなかったかのように、伴奏の頭が始まった途端、タクトを曲に合わせて振っている。こういう、なんというか軽微な「緊急事態」は、小学生の男の子しか所属していない児童合唱団では、たまにあることなのだ。

 

♪きみを忘れない 

 曲がりくねった道をゆく生まれたての太陽と夢を渡る黄色い砂

 二度と戻れないくすぐり合って転げた日

 きっと想像した以上に騒がしい未来が僕を待ってる

 

むしろアオケン少年が危惧していたのは、曲をサンドウィッチしてマイクの前に立つ倉木サトムの後半MCで、4年生が自分のアナウンスと実際に歌われた曲が違っていたことを、どう説明・陳謝するかということだった。釜谷流星は正しい曲名を謝罪するかもしれないなと、バース無し→いきなり!のサビを ♪「愛してる」の響きだけで …と歌い上げる左脳ブローカ野と側頭葉の連携信号の最奥で意識した。

彼よりもまるまる1年だけステージ経験を多く持っているアオケン少年たち本科小五の団員らはほとんど皆、誰も「正しい曲順」を知らない中で、後半のMC内容をどう処理するか…自分だったらなるべく以降の曲名を告げず、ただ、間をもたすためだけに今歌っている『チェリー』について何か言って済ませ、そのあと「それではこの後も楽しい歌の数々をたくさんたくさん聞いてください。」とだけアナウンスして何とかしのぐといったような付け焼き刃的方策だった。ポイントは「何が歌われるのだろう?」と楽しみにしている客席の人々に期待をもたせわくわく楽しみにさせること。もう一つは今歌っている曲が予告MCの曲案内と違っていたことに一切触れず謝罪もしないこと。彼らのステージでのパフォーマンスのミステイクは歌唱だけでなく、全ての立ち居振る舞いを含め何かうまくいかないことがあっても「全員知らんぷりしてスルーすること」が鉄則であり、日頃からそうするよう徹底的に指導を受けていた。今日も歌う曲の前奏が突然予想外の『チェリー』で鳴った後の彼らの対処が全く混乱なく運んだのはこのためである。ここの少年合唱団員たちは、機材トラブルで出発がぐちぐちと30分近くも遅れたボーイング737ダッシュ300ERのスターボード側の地表で深く頭を下げ、何事もなかったかのように笑顔で快くトーイング終了エリアの淵から手を振って見送るグランドハンドルのスタッフらのようだ。

 

ハイヤーは漆黒の田畑の中で大きく角を曲がり、その遠心力に打ち消された慣性がアオケン少年を夢から引きちぎるようにして目醒めさせた。

傍では釜谷少年が通団服の胸の中でまだ抑えた寝息をたててまどろんでいる。

何か作物が植っているらしい黒く広大な区画整理されていると思しき窓外の田園と、夢の中に置いてきたコンサートの曲順錯誤の焦燥が混濁して、小学5年男子の頭の中に残留していた。自分たちが今、何を迫られ、この乗り物に乗せられているのかは、しばらくの間思いあたらなかった。

車はスピードがでている。カリフォルニア・セントラルバレーの大農村地帯に走るカントリー・ルートか何かのように、建築物の気配の一切無いどこまでもまっすぐな一本道であることは、照明のまばらな窓外を見るまでもなくリアシートに埋もれている小学生にさえ体感として感じ取れた。

「ん?」

傍の少年の起き抜けの薄く開いた瞼の間に、彼は子供の指でいずこかを指して囁いた。

「まだ、着かないみたい。どこに着くのか知ってる?」

釜谷流星は、下ろした5年生の手を弱く握った。

「アオケンくん、ホンバン、僕より上手なピケで歩いたの?」

必ず僕がそばにいてささえてあげるよその肩をと、『ビリーブ』の歌詞ばりに、アオケン少年は横に崩れかけた下級生の上体をやんわりとショルダーチャージして防ぎ止めた。

「そんなのわかんないよ。見てたんでしょ?覚えてないの?」

「見てない。少年合唱はオケピットの奥で歌ってた。」

「アオケンくん、なんでこんなところにいるの?」

「流星くんが連れてきたから。」

「ぼく?」

「流星くんのピケが上手くいくといいから。」

下級生はようやく覚醒して窓の外をチラリと見た。

「何時ごろかな?」

上級生は肩を左右に振って頭を3回かしげながら応じた。

「知らない。こんくらいの時期、東京の日暮れは7時ごろだからそれよりずっと遅いはず。」

「なヵ、お腹すいた。」

アオケン少年は突然言われて自身の空腹をあまり意識していなかったことに気づいたが、相槌をかえした。

「そうだね。お腹すいたね。」

 

 

車は尻をひねるようにして道路脇の駐車場に乗り入れて止まった。縦列駐車のように、道ゆきと同じ方向へフロントガラスを向け、今まで一言も発しなかった運転手があっさりとドアを開けて言った。

「着きました。あの建物が、そうでしょう。」

一面の田んぼの中に田舎のコンビニ前かなにかのようながらんとした駐車場。つまらないトワイライトミストブラックのNboxが1台と赤紫っぽいノートが1台、互い違いに向き合い、建物の近くに停まっていた。二人が小学生男子の荷物を肩にかけると、後部座席の忘れ物有無を確認した運転手はあっという間に車を走らせて行ってしまった。虫の鳴き声もほとんど聞かれない、見回せば黒く沈んだ田畑のどこまでも広がる中の、孤島のようなところだった。

平屋のコンクリート。昔、コンビニだった場所へ居抜で入って営業しているかのようなファサード。古びた風除サッシつき手動ドアといったさびれた建物の入り口が一つ。中から蛍光灯の冷たい光が漏れていた。陸屋根のこちらに近い場所へ「キャロット・シャポー」と切り抜いたロゴ板が横並びで金属棒に支えられて立ち、その切り抜き看板が両側からリフレクター投光器のようなもので照らし出されている。「キャロット」の小さい「ツ」の字が何となく小学1年生の書く「シ」の字のような稚拙な形だった。

 

懐かしい食べ物の匂いと冷房機の濡れた風の匂い。古びた機械とガラスの匂いが少年たちの鼻腔に感じ取れた。

大衆食堂のようなデコラのテーブルと古びた地味な色の座面の食堂椅子の組み合わせが広がり、向かいには色褪せた自販機がハイパイを終えた麻雀牌のごとく並んでいる。さらに室内の脇には大小の使い込まれたアーケードゲーム機やクレーンゲームがぴっちりとディスプレイ面をちかちかピカピカ不健康そうな色で明滅させて立ち並んでいた。2人の瞬時の認識は「田舎の小さなゲームセンター」。…存在のおおかたの役割はほとんどそれで合っていた。

店内でクラシカルな瓶コーラを傾けながら画面のイルミを前見頃に映し、かちゃかちゃとハメ込み式キャップの押しボタンを押している男たちは、誰ひとりとして夜中にやってきた2人の子供に興味はもちろんのこと、一瞥の視線さえ向けなかった。それどころか、そのうちの2人の若い男たちはゲームオーバーにごちゃごちゃ因縁をつけながら、コーラの瓶を赤い自販機の隣の仕切り回収箱にお尻から投げ込んで、アオケン少年のランドセルの右肩をそぐようにドアをこじ開けて退出していった。すぐ後ろで、車のスマートキーの解錠音が聞こえる。

「ここでいいの?」

「いいんじゃないの?『好きに遊んでいろ』ってんだから。」

「どのくらい待つの?」

「どのくらい待つのかね?」

最後のこの発言は、彼らの脳弓下器官の水分欲求信号や視床下部摂食中枢の空腹信号の表出だったらしく、二人はぴかぴかとワックスのかかったグリーンのコンクリート床の端で垢抜けない光を放つ食品類の自動販売機と思しきベンダー類に目をやった。どれもカラー付箋やA4・A5の再生紙にあれこれ黒マジックで「販売中」「両替できます」といった宣伝文句やこまごまとした注意書きが書かれ、ペタペタ貼り付けられていた。

彼らは小学生男子のごく当たり前の習性から、背負っていた通団バッグやランドセルを食堂テーブルのミルキーホワイトの天板に脱いで置き捨て、端から連れ立って、売られている商品と大体の価格にざっと目を通し始めた。

よくありのスナック販売機、令和時代のタバコ、瓶のコーラ類、ブリックパックのミルクや飲料、縦長のカップ麺、トーストサンド、ハンバーガー、紙カップらしきコーヒー類、ラーメン、うどん、そば、アイス…あとは缶飲料の自販機がいくつかと千円札両替機。復習のために離れて見上げると、小学生の彼らにも自販機類と天井面の間に一定のスペースが空き、機械の熱を放出するためのいくつかの換気扇や平たい業務用のパッケージエアコンの白い筐体が突き出ているのが見えた。

彼らは両替機の作動音に目を輝かせてから、生まれて初めてラーメンの自動販売機の「チャーシューメン」のくすんだ黄色いボタンを1回だけ押し、アオケン少年が黒く沈んだ取り出し口の左横のポケットから割り箸を1膳引き出して下級生に持たせた。注意深く捧げ持つようにずっしりとしたラーメンどんぶりを運んだテーブルの上で、少年合唱団の名前が箔押しされた通団バッグが懐かしいラーメンスープのにおいを招いてうち置かれていた。

 

男の子は犬食いに下ろしたぴっちりツーブロックの横分けの髪の下で、吊り上げたチャーシューを前歯で引きちぎるように噛み切る。こんな素性のわからない店の自動販売機からすとんと落ちてきたような発泡スチロールどんぶりのラーメンに乗っているチャーシューとは俄かに信じがたいクオリティーの充実に、彼は咀嚼しながらひょこひょこうなづき、すぐさま肉を土手によけて、音をあまりたてないで麺を3回にわたって分けてすすった。スパゲティのような中太麺。そこそこにこんなどんぶりの中へ麺は満ちている。子供の1回の咀嚼なので、それはまだ昭和の澄んだ醤油色のラーメンスープのうっすらとしたラードのまくの下に元気にのたくっていた。彼はそれから念を押すようにまた2回半うなづくと、食いちぎったチャーシューの三日月形の肉片を拾い、顎を良い形に傾けてまた肉をその半分の容積にしておいしそうに噛みしだいた。チャーシューはあとまるごと1切れと、今の食べあとのちょっとが残っている。その横に隠蔽されていたナルトとメンマ、麺の深くに沈澱しているわかめには目もくれず、男の子は箸の音をスチロール容器にカシカシ言わせながら、さっき噛み切って適度なマウントになったかんすい臭のある中華麺をパサパサとすすった。彼にはものを口に入れる時、顔を左右に(主に右に)振る癖があるが、今回はそれを真っ直ぐに吸い込んだ。もぐもぐもぐもぐとキラキラ光るシバザクラ色の唇をご満悦に閉じて喰みながら箸を揃えてどんぶりに渡し、下を向いたまま突然手を鼻の前でパチリと合わせて、口にものが入ったままという不明瞭さで「ごちそうさまでした」と唱えて目を上げた。

「なんだ?それで終わりなの?」

アオケン少年はあまりもの食べ終わり宣言の速さに驚愕して声を上げた。

「だって、この残りはアオケン君の分かな…と思って。」

5年生は、下級生が「1ぱいのかけそば」ばりにラーメンを2人で分け合って食べようと考えていることをすぐに見抜いて、

「食べるけど、僕は僕で買うから、いいよ。流星くんはこれ全部食べて。だって、すっごく美味しそうに幸せそうに食べてるから、ずっと見てただけなの。残りも、全部食べていいんだよ。お母さんから二人分のお金預ってるし、釜谷くんの食べてる顔って、なヵイイんだよ。」

「イイの?…変なの。」

下級生はそれ以外にはなにも応えず、どんぶりに渡したばかりの箸を綺麗な手つきでとりあげて、わざわざ再度「いただきます」と唱えて午餐を再開した。アオケン少年は電子調理器のようなラーメンベンダーが、ボタンを押したとたん、モンド系映画の核ミサイル発射シークエンスの、ニキシ管表示で人類滅亡までの時間を減数計時するシーンのように、ラーメンの押しボタンの上方で「できあがりまで」という小窓へneonガスの赤く細い光の数字が調理完了までの時間を測るレトロな光景を反芻した。

「大丈夫。取り替えっこ王子の役もバレエも必ず上手くいくんだよ。保証する。」

つゆにひたった最後のチャーシューを噛みしだきながら下級生はその言葉を聞いていた。

「僕はハンバーガー食べよかなぁ。いっしょに食べる?」

「アオケンくん、なんでそう思ったの?」

「合唱団の先輩後輩だもん。…こう見えて僕は判断がうまいんだ。」

「うん、そうかぁ…じゃ、チリバーガー。」

 

「取り替えっこ王子」のアオケン少年後継キャスティングの選考基準は、4年生以下で、寝顔・寝姿の穏やかな、やや豊満な少年ということだった。釜谷はその演技をわくわくと心から楽しみつつ「やすらかに穏やかな表情で真夏の夜、オートチャージャーのくぼみに収まるアストロボーイのごとく舞台上で静かに眠り落ちる少年」として評価され採用された。

「さらわれてきたよその国の王子だから、笑ったりはしないし、元気そうに息をついたり脂ぎったりもできない。元気いっぱいに動いたらイメージが壊れちゃう。身振りの美しさはピケで跳ねるみたいに足踏みするのを必ず意識するんです。最後のオーディションで、アオケン先輩がニコリともしないで審査テーブルの向こう側で僕を見ていて、先輩のステージパフォーマンスが美しくて流麗だったってみんなが言っているのは知ってて、まず僕が先輩の代わりに選ばれたってことは嬉しくて、ただ緊張して、アオケンくんが見ていてくれたのがわくわくしました。先輩は僕の選ばれるときに先輩ぶってかっこいいこととかアドバイスとかは、なにも言わなかった。」

公演プログラムのキャスト紹介文のためのインタビューで、釜谷流星はさらりとそのように応答している。

アオケン少年はその発言の通り、心して何も言わないで下級生が選ばれているのをスタック椅子の広い座面の上から見ていた。

 

「ごめんね。」

「??…なんで?」

「これはアオケンくんのせいじゃないよ。」

「ぼくのせい?じゃないの??」

「うん。ちがう。アオケンくんは悪くない。」

「?なヵ、わからないけど、わかった。大丈夫だから。」

二人はホットスナックのハンバーガーのボタンを押し、

 

加熱中 ◀︎調理中は加熱していますのでしばらくおまちください

 

と発光する茫漠としたランプの表示を眺めてから、「取出口(おす)」というアスタリスクの並ぶクリアプラスチックのフラッパの内側へ、彼らの掌から少し溢れるくらいの大きさのクラフトの紙ボックスがバスンと落ちてくる音を聞いた。

「よく考えたら、去年『取り替えっこ王子』をやったころの僕はまだ4年生だったんだよね。」

アオケン少年は火傷しそうな手指の痛みの中で箱から薄葉白無地の耐油紙にラップされ蒸気にふやけ微かな湯気を吐く皺だらけのチーズハンバーガーをつかみ出し、結局熱さに耐えかねてそれをバーガー袋の上に置いて冷ましつつ言を継いだ。

「たとえばホンバンMCが予定の曲と違っていても、それからどうしたら良いか、対処を冷静に判断できなかった。それでも『取り替えっこ王子』は務まったんだ。だから釜谷くんも大丈夫。心配しないでやりな。」

下級生はチリバーガーを3回フーフーした後、小さくちぎって前歯で噛んだ。

「それって、オラを褒めてんのかバカにしてんのかわかんないよ。…熱ちィ!」

彼らは慌ててコインをぶちこんで、瓶入りの、ナカミが茜色をしたファンタを抜き出し、生まれて初めて開栓フックへ直感的に瓶の口をかけて王冠を抜き、大辛なのか猫舌なのかわからず耐えかねていた口腔へ甘く淡い炭酸水を多めに流しこんでしのいだ。店内の客足が流石にこの時刻完全に引いていたことも、彼らは感知していなかった。

少年合唱団員たちは腹がくちるとダメ押しのようにアイスの自販機でグレープシャーベットバーとチョコミント・コーンを調達し、勢いをえてそれをなめなめピンボールビンゴの投入口にコインを落としはじめた。彼らのアイスが喉元にすっかり消えた頃には二人でJ.S.B.の『羊は安らかに草を食み』のボカリーズを鼻歌混じりに唸りつつピンボールのプランジャをビンゴのターゲット狙いで細心に打ち続けた。

最後の「6」だけが執拗に球を避けてアガらないのに業を煮やし、自分たちがなぜここへ来たのかも忘れて悲鳴に近い声をたてて熱狂した。結局、このことが端緒になって少年たちは2人で1枚の100円玉を次々に注ぎ込んで置かれている様々なアーケードゲーム機を渡り歩き、笑い声や叫喚や勝鬨の声をあげながらボタンやチープなジョイスティックを押し・倒し続けた。ちょっとエッチなゲェムもあったし、何をするべきかわからないゲームももちろんあった。シューティングもアクションもレーシングも、古典的なボードゲームやカードゲーム、テーブルゲーム等の移植もいくつかあった。自分たちがこれで何枚目の千円札を両替機に落としたのかも、何時間こんなことをやっているのかも、自分たちがどれほど2人絡み合って熱狂し続けているのかも自覚できていなかった。

彼らが大興奮の末驚くべきことに再び空腹を覚え、製鉄所の圧延機のロールから出てきたのかと思えるほどきつく熱せられたアルミホイルで包まれるハムチーズトーストをトングで引っ張り出し、放置して冷えたころに分け合って食べていると、あの手動の風除室付き引扉が開いて、漆黒を背景にベストとワイシャツ、ネクタイ姿の男が一人入ってきて少年たちを呼んだ。

「アオケンさま、流星さま…釜谷流星様、お待たせいたしました。ご帰宅のためお迎えに参りました。」

 

♪巣造り蜘蛛めら、ここへは来るな。

 脚長蜘蛛めよ、彼方行け、彼方行け。

 黒甲蟲、傍へも寄るな。

 毛蟲も、蛞蝓も、悪戯すな

 

玄関に佇むアオケン少年。扉の鍵はすでに開いており、玄関の灯りも、立ち上がったイサムノグチの見慣れたフロアスタンドも消灯していなかった。

何かへ促されるように黒いタッセルローファーを脱ぎ捨て、あがりかまちでランドセルを肩から抜き、右の肩紐を握って…出迎えにきた母の表情を読む。少年の襟元からは、もはやニナリッチの微かなラストノートさえ感じられなかった。

「おかえりなさい。アオケンさん。お腹空いてない?」

「たくさん楽しく食べて飲んできたから、あんまり…」

「流星くん、何て言ってた?」

「何て…って?うーん…チャーシュー麺食べてて、この残りはアオケン君の分って言ってたよ。」

母親は、そんなことは聞いてない、空腹かどうかを尋ねたから息子はその応答と勘違いしているのだとは思ったが、追って尋ねた。

「それで、何て答えたの?」

「残りも、全部食べていいんだよ。お母さんから二人分のお金預ってるからって答えといた。」

「そうなんだ。」

「だって、流星くん、とってもとっても美味しそうに幸せそうに何でもかんでも食べるからさ。」

「そんな子が、夫婦喧嘩で引っ張りっこされて、あとはただステージで寝てるだけの王子役の後継者になっちゃったんだ?ちょっと変わってるね。」

息子は柔和に唇を横に張り、安堵して微笑みながら行った。

「ぜんぜん変わってなんかないよ。僕も普段、みんなから『何を食べても美味しそうに幸せそうな顔をするね』って言われてきたから、流星くんもきっとそういう選考基準での後継者だったんだ。」

母は声を出して笑った。

「僕たちのこと、心配してなかったの?」

「してないよ。だってあなた見守りGPS持ってるでしょ?心配だったのは、お母さんの渡したお金があれで足りるかなってコトだけ。」

「あ!忘れてた。これ、おつり。」

半ズボンのぴっちりしたポケットの中から百円玉7枚を抉り出して母親に渡す。

少年は大学図書館見学のおり、不活性ガス消火設備の入った保存書庫でウィリアム・シェイクスピアの『終わりよければ全てよし』二折版ファーストフォリオの実寸大ファクシミリを見せもらった。少年合唱団のステージには、何の役にも立たない経験。

「大変だったわね。お風呂沸いてるから、入りなさい。」

アオケン少年は簡単に頷いて、制服のボタンに上から手をかけはじめながら言葉を返した。

「ぜんぜん大変じゃなかったよ。不思議な楽しい夢を見てたみたいだった。」

 

♪妙音鳥よ、節面白く、

 歌へ歌へ、ねんねこ唄を。

 ラ、ララバーイ!ララバーイ!

 此方の大事なお仙女さまにや

 恙も、障も、魔も附かぬ。

 そんなら御寝なれ、ねんねこせい。

 

ⓒRoad and Sky Music Publisher, 4th Division / Kusano Masamune, 1996.

 

▲指揮者先生の最後のまとめの一言は、僕たちにオルドビス大絶滅末期的なトドメを刺した。

「これ、ボリュームが編集でかなり絞ってあって小学生のキミらにゃわからないと思うが、バックコーラスはTFBCです。」「TFBCって、まさか、あの天使のハーモニー;TOKYO FM少年合唱団じゃないですよねぇ?」「ああ、まさしく、天使のハーモニー;TOKYO FM少年合唱団サマだ。」

 

僕はその日、合唱団規則からステージ出演時はもちろんのこと、通団服に合わせるのさえあまり良く思われていない毛玉だらけの黒とか紺とかグレーのレギンスや分厚い黒タイツを本科生団員の3分の1ぐらいが半ズボンの下へダブダブと履いて来ている極寒の午後、レッスンスタジオのトイレ休憩中に第二メゾソプラノの連中が、年長さんの間を持たそうとそこそこ集中して『新・生化学戦隊レーニンジャー』の臨場シーン展開しているのをアルト側の自分の席からぼんやり眺めていた。小学生のやる戦隊モノの真似事なのでそういうクオリティーでしか無いが、キャラクターの設定がてんで意味不明で、耳を傾けていても飽きがこない。

「フッフッフ!自然界にポリエチレンテレフタレートを細菌分解する術(すべ)さえ知らぬオープンソースの盲者ども、我らイソメラーゼ・ドメインの異性化不斉点アタックを受けるが良い!」

メゾソプラノの中梅君がジェットスターA320のウイングレットのような腕をもたげたポーズでキメのセリフ第一弾を鷹の目で発した。

「来たなッ!このアミノ基移転酵素群め!あいにく俺らぁアルファーケト酸構成に多忙でな。早いとこ遊離アンモニアにでもなってイジェクトされちまえ!」

ここまでで通常の小学校高学年男子にも容易に理解できる単語はリトマス試験紙関連で「アンモニア」だけしか無かった。しかも「遊離アンモニア」というのは小学校の理科準備室の薬瓶のラベルに一本だに見たことが無い。

「こ!小癪な!…そうはいくか!」

「類縁体アタック降臨っ!」

「ヒドロキシ酸類にだってアタシたち無敵に作用するのよ!」

「イーシーファイヴ・ワン・99!」

「マルチ作用体、見参っ!」

日曜の朝9時台のテレ朝も、最近は光学異化相互変換の触媒イソメラーゼを戦隊キャラ化するほど複雑かつ生化学プロセス重視路線へと昇格進化しているらしい。

「…生化学グリーン!ボクは無邪気な戦士イーシー5・1・99ファイヴ!ヒダントインラセマーゼ!」

「生化学ピンク!アタシはマーカーのお役目も頂戴する唯一のヒロイン、α-メチルアシル-CoAラセマーゼ!」

自己紹介長げぇーな。

「こっちはパワーとテクの生化学イエロー!ご存知アラントインラセマーゼ!」

「おっと!忘れさせないゼ!リーダーのピンチへのスピード・アシストが大好物!いつもお供に生化学ブルー、俺は16-ヒドロキシステロイドエピメラーゼ!」

「そして異性化エンザイムの頼れるリーダー、生化学レッド、メチオニン代謝中間体なら何でもお任せ!EC 5.1.99.1 メチルマロニルCoAエピメラーゼ!」

「さよう、我ら、新・生化学戦隊…レーニンジャー!」

全員男子小学生ながら、オペラではスカート履いて少女役もこなす、生化学ピンク一人だけ女性戦士の役なのはさすがである。

僕たちの少年合唱団の日常を何に例えるかと言われると、天使の歌声でも天使のハーモニーや悪魔のハーモニーでも歌うボーイスカウトや歌う海洋少年団なんていう短絡的なものでもなく、一番マトを得ているのは「沖縄弁当」や、一歩引いて「䑓灣鐵路便當」(台湾の駅弁)という感じだ。台湾の駅弁には煮卵やパイコーといった抜群の定番が詰まってホカホカだが、PRCの方の駅弁はプラケースを真空パックにしたみたいな食欲が真空になるほど失せるものだ。沖縄弁当はなんでもありで中身がギッチギチでほとんど空間恐怖症といった込み入ったもので、あったかいものも冷たいものもジューシーをビニール袋に放り込んで「お好きなら自分でおにぎりにしてみればー?(やふぁらジューシーう好みっしどぅーくるうぶんにじりーなちんーでー?)」というテーゲーさを感じさせる。これが僕たちの少年合唱団のやかましくも静粛性皆無の日常だ。

今日の最初のトイレ休憩の『新・生化学戦隊レーニンジャー』をワンコインすら出さずに楽しく召し上がるのはオリオン少年合唱団から「本科生3ヶ月間団員交換」という名前だけの制度で適当にこちらへ送り込まれた4歳年中さんの男の子を僕らが上手くあしらって先生方も本科生に見えるように頑張ってステージ要員に育てたのが災いし、翌年オリオン少年合唱団から厄介払いでその子と合わせて移籍して来た年長5歳児の男の子計4名(!)だった。オリオンは僕たちの団のことを明らかに歌う男子未就学児のゴミ捨て場と考えているらしい。年長さんならアンパンマン少年合唱団にでも入団できそうなものだが、あそこには定員も入団テストも何やら難しげな入団条件も揃っていて「なんちゃって少年合唱団員ステージ経験があります」といったようなテーゲーなプロフでは採ってもらえないらしい。月謝が無いぶん、あちらは色々な男の子がわんさか押し寄せて指導しきれないんじゃないの?…とソプラノ6年の深谷君のママは言っていた。5歳男児にして簡単には決して円満な少年合唱団員人生の送れない、難易度の高い21世紀を四半世紀過ぎた複雑な世の中である。

 

 

「きゃぁー!生化学ブルーのイーシーファイヴ、ワン、エピメラーゼタソ(;´Д`)ハァハァ!」

第2メゾソプラノの中田コーガ(推定年齢5歳4.5か月)が生化学ブルーの中梅煋次朗の通団服の良い具合にいかった肩へ未就学児の稚拙な声をかけたかと思うと、プルートイド型遷移小惑星が衝突するほどの激烈な勢いで4年メゾの下腹部に肉弾の衝突音が聞こえる勢いでぶち当たっていった。

「おーう!俺の愛する本科幼稚部の2メゾ中田王子!生化学ブルーの中梅煋次朗お兄ちゃまのトリカルボン酸回路におまえの情念のすべてをロックオンしろっ!俺様がお前のすべての体液を痺れるほどバイオ活性モラキュラ―・コンバートしてやんからな!」

「お兄ちゃーんっ!やめて!アン!」

BLか?はたまた真正ブラコン?

「コーガたん!俺さまのコトを『ボクのこころの生化学ブルー!』と呼んでくれ!」

その指図を麗しの白百合とばかり受け止めて叫ぶ最低学年男子の声を聴くこちらは生化学反応的にブルーな心境だ。まったくこの男子小学生と幼稚園児の限りなき偏愛の嬌態をどうにかしてくれ!

「こっちのおまいら!このオレ様たちには何も言うコトが無えのかー??」

幼稚園児相手に七色の新・生化学戦隊どもが声を荒げると、彼らはきゃぁーとか「アー!」といった前後不覚の幼げな嬌声をあげ、調子に乗った少年合唱団のアホなお兄ちゃん団員たちともどもおふざけ率120%でトイレ休憩暇つぶしの声をまくしたてた。

気がつくと僕はピオーネ色のマグボトルを床から引き上げて、イコールだかスプレンダの入った甘い緑茶をグビリと飲んだ。

「うきゃー!釜屋お兄ちゃま、ボクたんにチューして!」

「フフフ、美しい俺様とピルビン酸デヒドロゲナーゼ複合体と化して昇天してみたいとは、まだ46億年早いってもんだ!」年長さん、今現在たった5年しか生きてないだろう?

「古川コトラ先輩ぁーぃ!先輩のステロイドホルモンを僕ちんの肉体深くにいーっぱい打ち込んでくださーい!」

ハルキくん、キミ、たちどころに糖尿や多毛症になるゾ!

「俺の永遠のカルボキシル基、小林ユーガ!俺様と深くペプチド結合だっ!」

「お兄ちゃん!」

「ユーガたん!あハァー!」

4年メゾは既に年長児の貧弱な肩をしっかり抱いて脱水化合反応的状態だ。

まあ、そもそもトイレ休憩時に上級生が恥じらいも無くこんな気前の良い低学年団員あしらいをしていれば、お兄ちゃんたちも楽しいし、ステージでのパフォーマンス力も身につけられるという一挙両得、一つを放って二つを得る反応方程式だ。沖縄弁当ライクなこの少年合唱団の場合、特に奇異な現象ではない。お客様がたも、数十組の半ズボン通団服姿の2人の少年がしっかと抱き合う光景から醸し出される高温多湿でBL的なニオイを敏感にかぎ取っていただけば、さぞやわくわくドキドキとさせられることだろう。

「いいのかね?」

「何が?」

「こんなちっこい幼稚園だか保育園だかこども園のガキばっかり毎年オリオン合唱団から受け入れて、俺らのクオリティーってか、レベルとかハーモニーの美しさが低下するんじゃないかってコト。」

2メゾの青畑(兄)が血液中グルコース濃度がどんよりと上がりっぱなしな小5男子の声色で言った。日本の少年合唱団のステージのクオリティー評価なんて、本来聞いているファン次第だろう?

「アオケンちゃんなんか、日々、大人の女声みたいなカッコいい大人っぽい声で勝負してるんだから、やりにくいと思ったこと、無い?」

ちっこい連中のローゲやおソソの後始末は、少年合唱団でも感染拡大を防ぐにあたり、団の大人のスタッフしか対処できないように厳しく言い渡されていた。もちろん僕は、声質に関係なく後始末をしたことは無い。

「ゲロには胃酸が入ってるから、キミらが不用意に塩素系のハイターとかをかけると塩素ガスが出てみんなブッ倒れるぞ!学校で教わらなかったのか?」

合唱団の先生方は、お得意の「学校で教わらなかったのか?」というセリフをぶちながら『吐瀉物処理キット』の艶消しシルバーの封の頭をサッカリンデナトニウムを噛み潰したような顔をして切り裂くのだ。

僕の声や合唱団の歌のクオリティーは多分、お客様の満足度とは関係が無いと思う。

「ハルキちゃん。キミはいったい何のために愛する僕と歌っているのサ?」

古川コトラがバルキータイツみたくよれよれに捩れたリブの入る擦り切れそうなレギンスの太ももをこちらに揃えて尋ねた。

「うーん、わかんない。」

「じゃ、こっちのアオケンお兄ちゃんに聞いてみようか?」

「うん。」

ほぼ誘導尋問のような簡素な手続きで質問の矛先が変わる。

「アルトのアオケンお兄ちゃん。キミは何で俺らといっしょに歌ってんだ?」

5歳児団員の視線が5年生団員の視線と一緒に、䑓灣南部へ2つも砲塔を回頭した人民解放軍の055型南昌級駆逐艦のごとく僕の方に向いた。

「僕たち全員が幸せに歌って、聞いているお客様全員を幸せにしたいから。」

「そりゃ、キレイゴトな合唱団のモットーだろ?」

「いんや、我らが少年合唱団のホントのモットーは『必ず僕がそばにいて支えてあげるよその肩を』でやんすよ!」

「ばーか!イガちゃん、そりゃ、『Believe』の歌詞だろ?」

「まったくこのビクター少年民謡会めが!」

「んー。俺様のいたのはそんな有名演歌歌手の登竜門みたいなメジャーの大手スクールじゃなく、町の爺さん婆さんばっかのチンケな民謡教室でして…」

五十嵐少年はアルトの前列から話に挟んだ口を開けるとき悲しみや苦しみが喜びに変わるだろうとばかりに閉じて、食べかけのローソンの赤穂の塩揚げ餅の混紡カシミア下着色の袋に左手を突っ込んだ。トイレ休憩中に揚げ餅を食べるのはその個数に関係なく当然団規則違反である。

「そういう正式なんじゃなくってさ、あんだろ?なんていうかプライベートな理由が。…例えば、オレサマの場合は、ウチのハイソなお母様が合唱団入れ!って豪華トミカの働くゴージャス運搬車セットで釣ったから…というのはウソで、本当はこのカワイイカワイイ美少年5歳児王子のハルキちゃまと一緒に歌うためダヨー。なんちてー。」

それが言いたいがために話題を僕に振ったのか、この、たわけもの!

古川コトラはカワイイカワイイ幼美少年5歳児のハルキ王子ちゃまとブッチュん正面から濃厚なBL系キスを一発ぶちかました。学校から着たまま通団してきた都内某有名私立小学校(難易度も学費も目が飛び出るくらい高いが、コトラ氏の入学は、たぶん親子三代のコネである)の制服の上着のスソを翻したその後ろ姿はちょっと古典的なBL漫画の東京都青少年育成条例も執行者スモールポンドリリー(小池百合子)の怒りもチラ見せに買いそうなほどで、トイレ休憩中、こういう風紀を乱す行為に及ぶのはこちらも当然少年合唱団規則違反に近い、いや、ど真ん中である。…ああいうルックスの女の人はいったいどんなフスハー・アラビア語の ع(アイン)を話すのだろう。

 

6分後、僕たちはレッスンスタジオの定位置で、ピアノの先生の弾くヘ長調四分の四拍子、マルカートのついた四分音符がタイの全音符の上に乗る派手なファンファーレを聞いているところだった。1992年。鼻腔を炙りあげる熱砂がスーッと退潮するようにバブルの高みは引いたが、子供番組のオープニングのために作られた音楽はまだあの至福と肩パットの入った蛍光灯のきらめく明るさのままだった。衛生ナプキンの広告が船体についたソユーズ宇宙船で日本人もすでに宇宙へ行った直後の時代。まさしく「これ、本番ですか?」と令和の僕も言いたい。

ピアノ先生のあっさりとした伴奏をコーダまで聞いた後、今度はスタッフさんがケータイをスタジオのモニターにWi-Fiミラーリングで飛ばしてYouTubeのオンエア動画を2回流した。

「『ひらけ!ポンキッキ』って?」

「BSフジの『ガチャムク』の元祖じゃねぇ?よくわからん。」

「ガチャピンとムックは知ってる。ガチャピンって恐竜なんだって。おれ、福井恐竜博物館で見た。」

「『ポンキッキ』20周年のオープニングナンバーなんデスカ??」

「そもそも『ポンキッキ』とは?」

「『おはスタ』のパクリみたいな?『天てれ』的な?しらねぇー!」

「この着ぐるみキャラから言って、『刺身ストレート』的ちゃいまっか?」

「『セサミストリート』だろ?」

「なんか、カビ臭いマックで作ったショボいレンダリング3Dオブジェに無理やりアナログの人物と着ぐるみ動画を被してあるってカンジの?動画っていうか」

「ビ…《ビデオ》ぉ?」

「プププ…」

「 これ、大昔のCXお得意…キネコとVTRを無理やり切り貼りするっていう荒削り感満載なヤツじゃん。」

「ダッセ!」

「オールナイトニッポンぬ!ゴーゴーゴー、アンド ゴーズ オンぬ!」」

僕たちの感想も、そして言葉にはしなかったが歌っているお姉さんの歌声への評価も散々だったが、指揮者先生の最後のまとめの一言は、僕たちにオルドビス大絶滅末期的なトドメを刺した。

「これ、ボリュームが編集でかなり絞ってあって小学生のキミらにゃわからないと思うが、バックコーラスはTFBCです。」

「TFBCって、まさか、あの天使のハーモニー;TOKYO FM少年合唱団っていうヤツじゃないですよねぇ?」

「ああ、まさしく、天使のハーモニー;TOKYO FM少年合唱団サマだ。悪いか?」

「どうりでなんか、サビのところのコーラスに、ふんわりアマ堅い子供の声の残り香がっ!…」

「ねぇ、センセ…オリジナル、TFBCなら、ウチじゃなくって御本家のラジオ局の合唱団に話持ってけばイイじゃんっと思いマセン?なんでオレらなんかに?」

「尚央くん、ラジオ局の少年合唱団は今、BSの週レギュラー番組の同録で、それどころじゃないんだろう?あちらはオペラもシーズンごとに歌ってるし。」

「だって、あれって週一のたったの5分間の番組でしょ?」

これは、僕たち自身が僅か5分間の尺のライブに数十時間もの血のにじむような汗と涙とおしっこまみれの準備練習期間を割かざるを得ない哀れな少年合唱団員人生という自己認識を全くできていないバカ野郎的稚拙な発言だ。

「それで全く乗り気じゃ無いケド仕方なく俺様がたにオファーが来たってワケなんですか?」

「もはや、ちんちん付いてりゃなんでもイイっていう?」

「まったく!」

「んで、結局、バックコーラスなんかミキサーさんの指一本でフェードされちゃうっていうボーイズコーラスの哀れで損な性分ですよね、先生ぃ?」

「それが、歌のお姉さんのトラックもボーイソプラノでお願いしますっていうクライアントさんからのリクエストだ。」

最後に一番クソミソで噛みついていたソプラノの加賀協太郎が、半ズボンの腹から突っ込んだ右腕の中指を黒レギンスに開いた右膝の破れ穴からミミズのようにチラチラ振りながらぼそりと言った。

「なるほど。こりゃ俺らへの『ふしぎ色のプレゼント』だにゃぁ。」

 

 

♪ Wow Wow Won-der !

 

「先生ぃ?…先生ぃ!」

伴奏のオクターブ四分音符4音のダイナミックな、まるでファンファーレのような躍動感と歌い上げの切り出し。「ソ↓!ド!ファ!ラー!」…このファンファーレの上行は本来ソリストの独壇場だが、今はドレミ唱練習の仕上げの段階で、全員が自分のパートのメロディーに置き換えて歌っている。訓練を積んでいる僕らでも、この「ソ↓!ド!ファ!ラー!」はちょっと危なっかしい歌い出しだった。先生方も「まあ、小学生男子の合唱の音取りだから、こんなものだろう。」と耳半分で聞いている様子がなんとなくわかる。

「先生ぃ?…先生ぃ!」

楽譜上は3部に分かれたリフレインの♪ Wow Wow Won-der !を歌い終わって、下級生の誰かがメゾの隊列の前の方で左腕を挙げた。

「はい。なんでしょう?大塚くん、このタイミングじゃないとダメ?」

第2メゾ4年の大塚K太の左上腕だった。

「はい。…この3回目のWowの音なんですけど…」

1メゾの後列の誰かが舌打ちをした。先生がおっしゃる通り、通して歌った後が何か注文の行き来のあるべき頃合いで、ここは、あまり良い良いタイミングではない。

「この3回目のWowの音が合ってないような気がして、とっても気になるんですが?」

「とっても気になるのはオマエの頭だろ?」

5年アルトの森村ブラッド満の声がした。

「いや。何?K太くん、言ってごらんなさい?3つ目のWowのメゾはCの音だよ。簡単でキミら体で覚えてるようなドだから、他のパートの基準にはなるでしょ?」

彼が言っているのは自パートの音高の問題では無いだろう。僕らアルトの音は下のソ。ソプラノはファを歌っている。もちろん四分音符で、この濁った和音が残ったまま4番目のWowの下のソ、♭シ、ミの和音に続く。皆は一応渡された楽譜を確認して、これがCsus4からC7へのコードの渡しであることに気づいた。「♪いつもあえるね」という日本語の歌詞部分へ続く期待感をこの2つの和音は醸し出している。

「うん。K太くん、ちょっと難しいね。キミらは根音でドミソって聞きたいんだけれど、ソプラノがファって下がっているから、先生もそう思う。しかも、K太くんが一番イヤな感じなのは、次の和音がドミソに戻らなくって属7でふわぁーって鳴るからでしょ?」

問答に聞き飽きた幼稚園児本科1メゾ、ハルキ王子ちゃまが属7ドミナントセヴンの口形でふわぁーっとメゾソプラノのあくびをした。

 

合唱団の事務室当番は静かでカッコよくコーヒーのいい匂いも嗅げて気分が良い。少なくとも『新・生化学戦隊レーニンジャ―』なんとかかんとかといった意味不明の少年らのモノマー脱水合成を見たり聞いたりせずに済む。当番の主たる任務は、休憩時間中の来客へのお茶出しやトイレへの誘導、あとは電話番といったところだ。

「はい、もしもし。合唱団事務室です。いつもお世話になっております。」

絶対に言ってはいけないのは「こちら合唱団事務室になります」という言い回しで、「“なります”じゃなくって、ここはもともと合唱団事務室なんだ。どうして『合唱団事務室です。』だけのことが言えないんだ?」と、かなり叱責される。僕たちは美しく正しい日本語を歌うボーイズクワイアーであるべきということらしい。

「あのぉ。男の子の合唱団ですか?」

電話の相手の声は少年だった。小学5年生ぐらいの男の子。欠席とか何かのハプニングがあった団員の緊急連絡以外、子供が合唱団事務室に直接電話をしてくることは珍しい。というか、今どきメールやSNSではなく、電話で連絡をしてくるということ自体珍しい。

「小学生男子だけが所属して歌っています。」

言い終わってギョッとした。レッスンスタジオの扉の方から、生化学レッドをサポートする16-ヒドロキシステロイドエピメラーゼの中梅煋二郎に抱きしめられた中田コーガの甲高い幼稚園年長児の幸せいっぱいな嬌声が響いてきたからだ。

「どのようなご用件でしょうか?」

他の合唱団から押し付けられた未就学児が本科生に5人もいるということは黙っておこう。

「あのぉ。他の少年合唱団の団員なんですが…入団できますか?」

「現役の団員ですか?」

「はい…うーん…」

移籍というヤツだ。つまりその、またオリオン合唱団からなのだろうか?相手の子は言葉を濁した。

サザエさんが磯野家の黒い電話の受話器に手のひらを当てて隣にいる母フネさんの居留守をつかって話をしている姿をまねて、僕は先生に告げた。

「先生ぃ、どうも移籍の入団希望者みたいです。」

「どこ?オリオンさんの子なら年齢を聞いて、ヤバそうだったら『今年の募集は終わりました』って嘘ついてくれ。」

受話器に当てた手をパッと剥がして僕は尋ね、帰ってきた返答に当惑して放心のまま先生に告げた。

「先生ぃ、この子…自分はフレーベル少年合唱団のA組団員だって言ってます。」

 

「フレーベルのA組って小学校低学年くらいの組だろ?」

「でも、5年生くらいの感じだった。」

事務室当番のネンキが明けて、レッスンスタジオに戻った僕の臭覚は、幼稚園ぐらいの小さい男の子が園庭で走り回って汗をかいてきたような乳臭さがあたり一面に浮遊するのを敏感に知覚した。

「パートどこだって?」

「そこで先生に電話を渡したから、聞いてないよ。」

「気をつけー!」

皆があわてて自分のスタック椅子にかけ戻った。

「黙祷ぉー!…礼ぃっ!お願いします。」

「はい、お願いします。」

長い方のトイレ休憩は突然練習モードに復帰した。事務室当番の僕が戻ってきてダベっているので、練習再開は皆の知るところ。

 

♪生まれたての素敵がいっぱい

 キラキラ ふわふわ いっぱい

 知りたい心は何処から来るの?

 明日って時間は何処から来るの?

 鏡の中と…

 

「はい!はい!ストップ!少年合唱団のナントカ化学レンジャーのお兄様方、ここの歌詞は『♪鏡の中と外の僕』でイイの?」

「いや、先生ぃ。俺らなんたら半額レンジャーじゃなくって新・生化学戦隊レーニンジャーです。」

「センセー、おっしゃることかなり違ってるし…」

「21世紀のバイオケミストリーを馬鹿にせんでくだせぇヨ。先生方の大好きな発酵学とか入ってんですから。」

「発酵学だか八紘一宇だかわかんないけど、あなたがたソコの歌詞違ってらっしゃるんじゃないの?」

八紘一宇も今やホイップ=自由で開かれたインド太平洋戦略に移り変わっている。

「あ!『♪写真の中と外の僕』だ!」

「んー、青畑(弟)さん、あいにくですが、そこの『外の僕』も違ってますわよ。正解は『♪写真の中と今の僕』じゃないの?歌ってる歌詞ゴッチャゴチャっていうか、呆れるほど混同春菜が凄まじいです。」

「角野卓造じゃねーよ!」

「だからシンも子供だからって何年ラーメン出前オカモチさせてこなかったの?幸楽の狭っくるしい厨房に閉じ込めっぱなしで、学校から帰りゃ朝から晩まで汗水垂らしておばあちゃんのために中華の手伝いで働いてきたのよ!もうガマンできないわ!わたしオカクラに戻ります。」

相変わらずの長大な渡鬼セリフである。

「先生ぃ、この曲って同じような感じのフレーズで目の詰まった歌詞のリフレインが入れ子みたいにして何回も途中で繰り返してあるから、俺ら混乱するんスよ。」

「ここだって、弱起のフレーズで楽譜の段変わってるうえに『鏡のの』が、繰り返しじゃ『写真のの』に脈略なく化けてて」

「しょうがないじゃない。バブルが弾けたばかりの時代、誰だって、写真っていやぁ前に撮ったのが何日かたって紙に印刷されてようやく見れたんだから。あんたたちみたいに自分のタブレットで撮ってその場で見る『写真』とかとワケが違うのよ。」

「ねぇ、煋次朗お兄ちゃん、『バブル』って何?」

「『バブル』ってのはねー、小学校高学年男子って言やぁ、ほとんどの子がふくらはぎに黒と赤や水色や灰色の太い線の入った高価な裏起毛の白ハイソックスを得意がって毎日履いてた時代のコトだよ。」

「あと、アンバサや鉄骨飲料なんか飲みながら『ランバダ』踊ったり…」

ランバダって何じゃ?アンバサも…

 

「何やってるの?」

レッスンスタジオのトイレ休憩の過ごし方は、団員百人百様千差万別にイロイロだ。新・生化学戦隊レーニンジャ―ごっこもいればコンビニ揚げ餅をむさぼるビクター少年民謡会もいて、挙句の果てに団員用スタック椅子のチャコールグレーの座面に学校名の印刷された原稿用紙を広げ、金の箔押し校名入り2B鉛筆の頭を振って極端な犬食い姿勢でうんうん言いながら何か必死に書きつけているソプラノもいる。

「何やってるの?」

ふだんの彼の歌唱姿勢からは想像だにできない激烈な悪姿勢だった。

「見ればわかんじゃん」

「字を書いてる…っていうか、字を書こうとしてる。」

「うっせ―!邪魔だ!」

「何もこんなところで宿題なんかやらなくても…」

佐久平レキの表情がさらに険しくなったところで中田コーガの幼稚園児臭い通団服(たぶん、サイズ一番小さい)の汗びっしょりの肩口が僕の白ピタアンダーの外腕にゴツンと突き当たった。

「あちょー!」

それはこっちのセリフだ。ソプラノの後方では、アッ君がチッちゃんのおマタに半ズボンの太ももを差し入れて腰を振りながら二人でランバダを踊っている。

「宿題じゃ無ぇ!自由研究のレポート締め切りが今週なんだよぉ!」

「何の自由研究?」

「自然人類学…っていうか、この名前は昭和時代にオレらの学校の自由研究グループにつけられた苔むしたネーミングで、なヵ呆れかえるほど古臭くて、今はホモ属の住居とか生活圏まるごと発掘作業がじゃんじゃん進んでて、文化人類学も分子人類学も生物人類学も何でもかんでもいっしょこたに考えないと、イカんのよ、大変じゃすよ。ホモサピエンスとネアンデルタール人が全く別系統だって皆んなが信じてたような昭和末期の時代の名称の自由研究よ。」

彼はひとしきり学校の自由研究「自然人類学」の呼称の時代遅れを愚痴って学校指定の黒っぽい軸の鉛筆を原稿用紙に放り投げた。

ファブ4おたく一家の譲治君が、『ふしぎ色のプレゼント』のBメロ伴奏は『イエローサブマリン』のサウンドトラックのトリビュートだとあちらの方で言い張っている。

「んで、レキちゃんの悩みってのは?」

「え?ナンだと思ふ?」

5年ソプラノはNHK週刊情報チャージ! チルシルのずっと前番組のニュースキャスターが「いい質問ですねぇー」と言うときのような表情になって言った。

「うーん。ハイデルベルク人は歌が歌えたか?…とか?」

「プププ。その質問はイイ質問だけど、僕の研究テーマとは違うな。」

「じゃ、ハイデルベルク人とネアンデルタール人は友達だったのか?」

「どうしてそう思った?」

佐久平レキは「食いついたな」といわんばかりのドヤ顔で僕の目を見た。

「ハイデルベルクもネアンデルタールもどっちもドイツにあるから?」

「ガクッ!」

彼はスタジオの椅子にわざとらしくつんのめって通団服の貧相なトルソをチェア面にぶっつけた。

「僕たちホモ属のご先祖様はネアンデルタール人やデニソワ人と一緒に住んでいたと思われる…遺伝子的証拠がそう言っている。」

「なんで?」

「問題はそこなんだよ。ネアンデルタール人もおそらくデニソワ人も頑強で、たぶん頭が良くて器用で生活力があり文化的で、新参者のヒト属みたくお毛々もぽわぽわに薄くヨワヨワっちくなかった。それなのに、ネアンデルタール人とデニソワ人は絶滅して、一番ショボいはずの俺らホモ・サピエンス・サピエンスだけが生き乗った。…なぜなんデショウ?」

「驕り高ぶりってやつじゃないの?俺たちは強いんだぞぉー!とかココの合唱団の2メゾの連中みたく自信満々過ぎて足許をすくわれて絶滅した。」

「いや、それなら何で俺たちホモ属にはネアンデルタール人とデニソワ人のDNAがしっかりと残ってきちんと機能してるんだ?DNAレベルで言ったらネアンデルタール人もデニソワ人も21世紀の僕たちの体の中でちゃんと生き残っている。絶滅なんかはしてない。」

「だから、友達だったんじゃないの?」

「じゃあ、なんであいつらだけ絶滅したんだよ?」

「単なる驕りでしょ?強くて高慢だったからじゃない?」

この話は結局決着がつかなかった。トイレ休憩は更新世チバニアン期のようにさっさと終了し、佐久平レキはパブロフの犬のごとく条件反射的に学校の鉛筆を挟んだ原稿用紙を通団カバンの内ポケットに突っ込み、僕はソプラノから自パートのアルトまで出アフリカしたホモ・サピエンスのご先祖様のようにてくてく歩いて戻った。

 

『ふしぎ色のプレゼント』のコピー楽譜(合唱団の先生方や僕たち団員はこのタイトルを『プレゼント』と短縮している)をむき出しの太ももの間に挟んで、深谷寒太郎君の練習再開の号令がかかるのを待ちながら姿勢を正した少年合唱団員の上半身の林立に対峙するような角度で、ご指導の先生とは違う先生が一人の見知らぬ男子小学生の肩を優しく引っ張りながらさし入ってきた。まるでこれから小学校の黒板の前で「今度リハウスしてきました白鳥麗子です」と自己紹介しそうなシチュエーションで、実際その子は自己紹介をした。

その声には確かな電子発振的な聞き覚えがあった。さっき入団希望の電話をしてきた子である。

「で、何年生?」

皆はてんでそれぞれ好き勝手な叫び声で問い始めた。

「もうすぐ進級のこんな時期に、何で入団?」

「合唱経験アリ?」

「ナニユエ日本の少年合唱団で一番弱々っちい俺らなんかのところに?」

「どこの学校スカ?」

「異性恋愛経験ある?」

「ファンレやプレプレもらえるカモよー?」

「テヘ!ブラコンとかBLに、キョーミ有りマスカ?」

「もしかして、ついさっき電話してきた子?フレーベル少年合唱団の?」

僕の叫んだこの質問が結局決定打になった。

ドトールコーヒーのような質問の雨アラレは止み、僕たちは男の子だけの合唱団員の定められし性(さが)で、その子を合唱団の歌う仲間として瞬時に受け入れた。

 

「先生ぃ、何でフレーベルの子がこの合唱団に?」

「もしかして、オリオン少年合唱団みたく本科団員の短期交換デスか?」

「いや、俺らの合唱団にはあちらさんみたくルックスの秀でた者はおらんでしょう?」

「キミ、何組?SS組?S組?もしかしてユースじゃないよね?」

例によって他所の男の子の合唱団の事情にマニアックなほど精通した団員が何人もいるのは、小学生でも高学年ともなればSNSでカンタンに他の合唱団の実態やちょっとした沿革はもちろん出演経歴・歌声さえもあらかた把握可能な21世紀の世の中だからだ。

「それが、A組なんですって。」

「…先生ぃ、あの、フレーベルのA組ってのは小学2年とかの、例によってルックス抜群だけどナカミはワケわかんない低学年男子のクラスでやんすよ。俺らだと予科上がりスレスレの連中で…」

「じゃ、ご本人に聞いてみなさいよ。」

「…ずっと前からA組デス。」

「ウッソー!もしかしてアナザーのフレーベル少年合唱団なんじゃないの?」

「いや、先生も間違いじゃないかと思って聞いてみたの。お家のかたもいらしてたし、そうしたら、練習日のいつもの時間に合唱団に行ったんですって。」

「そうなんですけど、合唱団のビルがどうしても探せなくって、電話したらフレーベル館は、コマゴメのリクギエンの正門の前に移りました…って急に言われて…」

「ちょっと待って!…ってことは、キミは神田小川町に行ったの?」

「だって、普段そこで練習してるから。」

「それがそもそもの始まりだったみたい。」

「それで、そういう名前の子はA組の団員にはいないって言われて。入団テストは今年はもうやっていないし、5年生の子は今は入団を受け付けていないんですよ、って…」

「駅のホームの看板にここの募集案内が出てるのを偶然見かけて、駅の公衆電話から電話してすぐにここに来たんですッて。」

「コーシューデンワって、何??」

「先生ぃ、その話って、俺、すごく嫌な予感がするんだけど…」

「じゃぁさぁ、とりあえずパート分けもあるから、声出してみようか。」

「いや、その前に、手っ取り早くアカペラで好きな歌うたってもらいましょうよ。合唱経験あるわけだから。いいよね?」

男の子はこくりと肯首して、ブレスをとり、表情を引き締めた。続いて手を後ろで組むと、両足を肩幅に開いてお腹を前に張り、真っすぐ前を向いて突如歌い出した。

 

♪ぼくらのうたよー 風にはばたけ 風とゆけ 野原をわたりー 林をぬけて…

 

驚きだった!一部始終を注視していた古川コトラが2秒間だけ息を飲み、確信をもってメゾの声をあげた。

「スゲエ!これ、山本先生の時代の発声じゃん。バブルのちょっと前。カッコいいー!手打ちも乱れ打ちもしてるよね。間違いなく?タイムスリップじゃん。つぇー!」

「なヵ、最近多いよなぁー。タイムスリップ。」

「今のフレーベルの声と全然違うくない?」

「俺らとも全然違う発声だけどな。」

「あんたがた、ほかの合唱団の詳細に、なんで異様なほど詳しいの?ご自身の合唱団の歌の練習にもこれだけ熱心に取り組んでいただけると先生はウレシイけど。」

「そんなコトどーでもイイじゃん。結局、この声は1メゾですよね?」

 

 

「はいぃ。あなたがた最初のリフの頭が、どうして毎回ズッコケるの?♪うまれたてのすてーきーがいっぱい ですよね? やり直し! さんはい!」

「♪うまれたてのすてーきがいっぱーい」強力なユニゾンだ。

「ちがう!違う!すてーきーがーいっぱいです。楽譜よく見てよ、”きーがー”はタイでアーフタクトしてんじゃないの!勝手に楽譜書き換えないでよ。」

「いや、俺ら全員東京の子供なんで、鼻濁音のガを関西弁みたいな母音で伸ばす粗野な習慣は無いんすよ。マクドナルドをマクドぉとは決して言えないのと一緒です。」

「先生ィ、標準語ではここはオレラにとっちゃぁ、デフォ♪生まれたての素敵ぇきがいっぱーいしかねぇんですよ。」

「いや、ダンディ青畑(弟)クン!あんたがたの江戸弁のご高説は聞いてないの!楽譜のモンダイなのよ。だめだこりゃ。トイレ休憩パート2。 5分間ね。坊や、いったい何を教わってきたの?だよ。頭冷やしてらっしゃい。今の言葉プレーバック!プレーバック!」

「僕らだって。僕らだって、疲れるわ!」

「キミら昭和か?!」

「発売元CBSソニー…現ソニーミュージック」

「百恵タソ(;´Д`)ハァハァ!」

 

 

「えと。大好物はニューコンとアサイーボウルです。あと、ホテルニューグランドのチョコパフェも昭和チックでわりかし好きです♡」

MC指導の先生が、ため息混じりに言った。

「ねぇ、それってナンか少年合唱団ぽくは感じられないよ。ホテルニューグランドのチョコパフェはおじいちゃんオバアちゃん指向だし。これって団員募集動画なのよ。アサイーボウルはどう考えても『私はヘルシー志向です』ってオねえさんのニオイぷんぷんで、なかでもニューコンって…」

「小学生のボーイ・メゾソプラノが馬の肉を食っちゃイケナイってんデスカ?」

「いやぁー天使の歌声…少年合唱団員で馬肉ってのは止めてよ。せめて桜肉のすき焼きとかにならない?」

キメのキャッチシーン撮影は大波乱だ。

「なんかもうちょっとバシッとキメる言葉で行けない?それじゃ、中梅君の好きな食べ物大公開…みたいなMCじゃない?」

みんなは白けて自分の持ち物をぼんやり凝視したり、天井ソーラトン・キューブの逆さになったホワイトチョコのような突起を見上げていた。

「悪いけど、もう一度考えてきて。」

「先生ぃ、そりゃ中梅君が可哀そうだよ。合唱団の入団促進動画のコピーを脳みそカラッポの4年メゾに考えさせるなんて。」

「そうかも知れないわね。」

「そりゃ中梅くんに失礼じゃん。脳みそカラッポなんて…」

「いや、僕ちんは世界で一番かわいくてチューが上手で心もおっぱいも温かい中田コーガたんのような世界一の年長さん第2メゾ君がいてくれる合唱団一のシアワセ者でやんすよ。ねっ、コーガ君っ♡?」

「生化学ブルーの中梅先輩っ!ボク、ハッピーセットの次に先輩が大ぁーい好きっ!」

「コーガたんっ!俺は命をかけておまえを守り抜く!」

「煋次朗お兄タン!」

ほぼタカラヅカの熱愛シーン・モードで互いの名を呼びあうどうしようもない彼らの修羅場を放置して、練習スタジオの皆はいよいよ「勧誘ビデオ」の解決策をどうしたものかと考えた。

「わかった!先生が今の中梅君にぴったりの勧誘コピーを考えてくる。」

「先生ぃ、どうでもいいけど、パート同士、火花バッチバチのくせに幼稚園児だけはBL全開でかわいがってて、昭和時代のフレーベルの団員もいてバブル期のTOKYO FM少年合唱団の歌を団員勧誘のために歌ってるようなめっちゃくちゃな少年合唱団ですよ?」

「♪WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)

  むねがときめく しあわせなよかん~」

「そもそも、なヵ、こんなんで新入団員来るのかな?」

「勧誘の曲にしようってったの、あんたがたじゃない?」

「いや、ソプラノと1メゾとアルトだけですけどね。」

「2メゾはこの曲のイイとこがわかってねぇーんだよ。」

「ねぇねぇ、煌惺くん、あなたさっきから何を一人でブチブチ言ってるの?言いたいことがあったら、みんなの前でちゃんとおっしゃい。」

「ほーら、先生が怒っちゃったよ。コーちゃん、先生って一人でブチブチが一番嫌いなんだよ。」

「いや、いいです。カンケー無いから。」

「なんだよ、男なんだロ!ハッキシ言えよ!」

性的多様性の時代に「男なんだロ!」は「男の子だけの合唱」と同じくらいちょっと時代遅れだ。

「僕のお姉ちゃんって、中学のブラバンでフレンチホルンやってんですけど、今、課題曲で『あの丘を越えて』っていうのが全然上手くいかなくて頭にきてるって、毎日毎晩、弟をいじめるんです。なヵ口の形がホルン向きかどうかわかんない中学生に四管ソロってのをやらせるなとか言って…」

「なんだよ、煌惺…クン、しっかりしろよ!男らしくないな。」

結局、いずれにせよ「男らしくない」と言われる男子小学生である。

「せんせぃ、それってどんな曲なんですか?」

「先生は合唱の先生だから吹奏楽の課題曲なんか知らないわよ。」

「なヵ、曲を作った人は、セーヤ丈ショウって名前のやつで、演奏させられてる清く正しく美しく優しい女子中校生のコトなんかまったくお構いなしに難曲作りやがって!多分フレンチホルンの実物を吹いたことも無ければ見たことすら無ぇんだよ!…って、僕に言うんです。」

「煌惺くん、その作曲家の名前、ちょっと変じゃないかな。」

「いや、お姉ちゃんも漢字読めなくって。」

「セーヤ丈ショウねぇ…」

「きっと、その作曲家、少年合唱団の歌声を聞いたこともなければ、実物を見たことも歌ったことも無いヤツですぜぃ。」

「だれだろう?日本人の作曲家だとしたら星谷丈生さんのことかしら?」

「ま、少なくとも『ふしぎ色のプレゼント』なんか1小節も歌ったコトすら無い男だろうな。」

「コーちゃん、”僕だって合唱団で『ふしぎ色のプレゼント』の変ちくりんな弱起とかTOKYO FM少年合唱団が難なくサラリと歌ッてるのにこちとら完全にアウェー感の曲を怖い先生に怒鳴られつつ毎日泣きながら練習してるんだよ”とか同情買って、姉キもボクもセーヤ丈ショウも、みんなみんな生きているんだ友達なんだとか言ってごまかしとけよ。」

哀れな煌惺くんは最近合唱団で流行っている「みんなみんな生きているんだ友達なんだ」のキメゼリフを使って適当にあしらわれた。

「何の話してたんだっけ?」

「どうしてTOKYO FM少年合唱団がバックコーラス歌ってる曲を合唱団勧誘動画の曲にしようと思ったか?」

「だから、2メゾ以外が賛成したからッしょ?」

「はい、何?佐久平くん。」

挙手している子がいる。

「僕たちサピエンス・サピエンス種だけがホモ族の中で唯一生き残っているのは、お互い喧嘩とか戦争ばっかり30万年間もずっとやり続けてるからなんでしょうか?」

「…は?」

「なんだよ、サクちゃん合唱とカンケー無ぇだろ?」

「佐久平くん、合唱と全然関係がないけれど、どうしてそう思ったの?」

「なヵ、喧嘩も戦争もどちらも勝った方が生き残るか、アイコで両方生き残るかでしょう?だから、僕たちサピエンス種の少なくとも半分は必ず生き残るシステムってコトじゃないですか?」

「サクちゃん、核戦争みたく戦ってお互い全滅ってコトを考えてないダロ?」

「でもネアンデルタール人もデニソワ人も僕たちサピエンス種の遺伝子の中に生きてるんですよ。他の種とはラブラブだったんです。ネアンデルタール人には互いに死体を食べていた石器の跡はハッキリ骨についてるのに、生きているネアンデルタール人を叩き殺したりして食糧にしたっていう痕跡が発見されていない。」

「窒息とか餓死させるとか毒殺とかは出来るじゃん。」

「死体を食うのに毒殺や餓死はちょっと…」

「鑑識結果で、ネアンデルタール人のガイシャの首に索状痕とか口腔内泡沫痕跡、頚部圧迫による眼球への溢血斑が認められればそれは明らかに窒息による他殺です。」

「ばーか!マンモスの肉を食ってる時代に科捜研の女いないだろ?」

「♪みーんーなぁーのー友達ぃー ビッグマンモスぅ」

「♪わぉ!わぉ!」

「僕は学校の社会科で、病気や遺伝子の欠陥か気候寒冷化で寒すぎて絶滅したって勉強したよ。」

「ねぇ、先生ぃ、合唱団の野外コンサートの制服、レギンスかタイツにしてくださいよぉ。」

「はぁ、先生はアンタ方の話が全然わからなくなった。幼稚園の団員とはラブラブで仲良しのくせにパート間で年中ケンカばっかりやってるあんたがたは、絶滅危惧種の全国の少年合唱団の中で将来しぶとく生き残ってく危険性があるんじゃないの?」

「ヤッたァ!ラッキー!」

「お前はその前に声変わりとか卒団でどっかいっちゃうケドな。」

 

『ふしぎ色のプレゼント』の団員勧誘演出は、ソプラノ♪7ボーイズのようなプロの振り付けを施さないということが決まっていた。僕たちの発声は完全にクラッシック寄りなので、ミュージカルの発声やセリフのメソッドがそぐわない。普通の小学生の喋り方をする中梅煋次朗くんが、合唱団児童リーダーの深谷くんを差し置いてキメのセリフを担当することは、たいていの高学年団員が納得していた。

 

♪ワウ!ワウ!ワンダー!

 胸がときめく 幸せな予感

 いつも会えるね一緒だね

 

 生まれたての素敵がいっぱい

 ワクワク ドキドキ いっぱい

 好きって心は何処から来るの?

 今って時間は何処から来るの?

 

ファンファーレから冒頭の歌い出し18小節の間に、僕たちが歌いながら様々な角度から三々五々足音をたてずに集まってきて、定規で引いたみたいに整頓された隊列の線をステージにつくるさまをカミ手がわのカメラでとらえるという演出編集がされている。僕たちは普段そういう整列をしないので、これは完全な演技なのだが、お客様の見ているステージに短時間で美しい隊列を組む訓練を徹底的にやってきている僕たちにとっては造作ないことだった。

「年長さん4人もいるのにあんたがたどうしてそんなに全員ピシッと整列がキマるの?」

舞台の所作指導をしている先生の方が驚いて、オープニングシーン用のリールをモニターで見ながら言った。

先生方が舌をまいていたもう一点は、僕たちの転調の自然な流れだった。

オープニング・ファンファーレのホルンを鼓吹するようなヘ長調で曲は始まり、

 

♪見つめてごらん 毎日出会う不思議はきっと僕らの星のプレゼント

 

でイ長調アードゥアに五度圏をまたいでサビを流麗に歌い上げ、ヘ長調に復帰し、

 

♪ワウ!ワウ!ワンダー!

 昨日見た夢 羽ばたいて

 今日も会えるね 一緒だね

 

のエンディングのリフレインでフラット6つの変ニ長調へ持っていき落ち着かせる。TFBCのアードゥアの部分は少年合唱のハイライトで、コーラストラックではやや両肩を上げて歌っているように聞こえた。僕たちは逆に大人っぽくしなをつくって落ち着いた感じで流れるようにこの部分を歌った。シャープやフラットの個数が増えていくのをあまり聞く人に意識させないよう転調の小節線を穏やかに超えていくように心がけた。

「1992年のTFBCって、これ誰のチームだったんだろう?」

「92年の6年前入団だから、3期生ぐらい?」

繰り返すようだが、他の合唱団のちょっとした沿革はもちろん出演経歴・歌声さえもあらかた把握可能な21世紀の世の中。

「それって『嵐を呼ぶ少年たち』の代だよ、きっと。」

「委員長誰だったのか知らない。」

「ヤマザキくんの1コ上ぐらいの子達だよね」

「この目立ってる声って誰ダロ?」

「ソプラノ?さあ。」

「アルト側も特徴あるよね。こういう押し付けがましさの無いアルトのメインはジュンちゃんとかだよ。」

「このソプラノの声、どっかで聞いたような…。」

「資生堂エルセリエのソロの子かな?」

「レコーディング、一口坂スタジオだって。」

「行ったコト無い。どこのスタジオ?」

「ニッポン放送だって。ラジオ局じゃん!JOLF。」

「オールナイトニッポンぬ!ゴーゴーゴー、アンド ゴーズ オンぬ!」

 

練習スタジオの廊下のピカピカの床に映った大きな窓枠の曇空の中に、右下へ飛んで行く4‐5羽の鳥たちがいる。床の上の空は薄グレーだが、もうすぐ春が来るらしいことがわかる。僕も僕たちも決して風流人や季語を詠む子供俳人ですらないが、季節の移ろいをないがしろにできないのは僕らが日本の少年合唱団員だからだ。春には春の花々を歌い、稼ぎ時の夏には海・新緑・キャンプソングなど、紅葉の秋や冬にはクリスマスやお正月をはじめとして冬の風物を歌う。1年を季節の歌のレパートリーで回すには、それぞれのシーズンの前倒しで去年の曲の復習や新譜の音取りにのぞまなくてはならない。子供俳人の次点で四季に敏感な日本の子供はおそらく僕たちのような季節の子供の歌を中心に歌ってお客様を楽しませるボーイソプラノ集団にちがいない。

僕たち自身の肉体と生活はしかし、1年中完全に真夏モードだ。夏場でさえ学校では担任の先生から「お願いだから近寄らないで。」とヨタヨタ言われるくらい体の芯から核燃料のように熱気が出力するらしく、合唱団では真冬も発声練習が終わって1曲慣らしの歌を歌い終われば暖房は切られる。それでも、練習場にはまだきちんと僕らの身体から立った熱気が籠っている。「通団の行き帰りに走らないこと。あんたがた、ミメ麗しき少年合唱団の団員おぼっちゃま方なんだよ。まったく!」…だが、先生方の説諭の主旨はそういうことではないと思う。一つは舗道車道お構いなく小学生男子どもが暴走して危なく邪魔っけだからだが、もう一つは練習スタジオへそうやって走り込んだ男子たちというのはどの子も例外なく真っ赤な顔をして息も体温も上がり、始末に負えないからだ。「野外コンサートの制服半ズボンの下にレギンスを履かせろ」などという団員らの要求はまったくのところ、単なるオシャレというか「フツーにカッコいいでしょ」というウヌボレに近いものなのである。

「先生ぃ!また相模兄弟が取っ組み合いしてます!」

「先生ぃ!あいつらクビにするか、片っぽオリオン送りにしちゃってくださいよ!」

「先生ぃ、双子ちゃんの5年生って、全員あんなカンジなんでせうか?」

「2卵生ソーセージだからでしょ?要は、ほぼ同じ腕力の男子の兄弟喧嘩なんだから。」

ぼそっとつぶやいた丘村トラムくんの言に先生は「なるほど」と妙に納得していた。

家に帰ると普通の二卵性双生児だという。相模兄弟のママは「合唱団に行くと、ライバル競合むき出しで、競争心に火がつき、互いにマウントをとりたがる」のだという。ちょっとダンディでハンサムな弟はソプラノ・ソリストで、一方、少年のコケティッシュさがウリの外見セクシーな兄は第2メゾソプラノの貴重でステキなMC要員だ。パートが離れているのは「隣同士に並ばせると十中八九取っ組み合いの大喧嘩になるから」ということは高学年団員のほとんど全員が暗黙のうちに了知していた。パートの近い僕は、普段から相模(兄)の声に本当にうっとりと魅了されている。

皆の叫びを聞いて練習場に戻ってみると、2人は血まみれになる直前で練習場のひな壇のてっぺんでくんずほぐれつしていて、ここが僕らの合唱団の評価すべきところだが、ソプラノパートリーダーの寒太郎君と2メゾ5年サブリーダーの古川くんが、引っ付きあう超強磁力巨大フェライト磁石を無駄に引っ剥がそうとする少年たちのように全身全霊で取っ組み合う11歳男児の2つの肉体の綱引き合戦をやっていた。全く、オーエス!オーエス!である。とばっちりを受けるのを嫌がって、誰も相模兄弟の間(肉体的な2個体の間隙という物理的な意味である)には入って止めようとはしない。自分が可愛いというのも、こいう場合困りものである。

中梅煋次朗たちは幼稚園年長組のちび団員たちを抱き寄せてとばっちりが来ないよう、ひたすらかばって任侠沙汰をあまり見せないよう配慮してやっていたし、佐久平くんはレーザー素掘りで金箔の学校名の入った鳩居堂(!?)の学校指定の2B鉛筆(お金持ちの子弟しか行けない小学校なのである)の頭で自分の頭を掻きながら、ホモ・ネアンデルタールエンシスの「役割」について、およそ思索熟考の環境にはふさわしく無い2親等のホモ・サピエンス・サピエンスのガキ同士が大げんかし、それを放置できない少年合唱団員たちが髪を引っ張り合い物理的に絡み合って混戦乱闘する約8メートル圏内の至近で、何か意味のある考察結果を導こうと七転八倒していた。一方、過去からタイムスリップしてきたフレーベル少年合唱団の5年生A組団員くんは、アウェー感満載でほとんど存在感というものを消そうとしていた。実際彼は、僕たちの少年合唱団ではほぼ日常的で見慣れた狂乱の事態を目前に、茫然自失というか、感情的遮断解離の心理状態だったのである。

 

 

丘の上に登り詰めた冬の制服の僕たちが三々五々といった風情で集まっていた。

宵闇の深い霧に沈んだエッフェル塔第3展望デッキから見下ろす眼下のブルーブラックに濡れたパリ15区エミール=ゾラ通りの辺りという風情で僕らの紺ベレーの頭頂は徽章を除き新月の夜空に融解していたし、鉄紺のイートンの襟からは飛翔するカタチの小さなボタン・ループを垂らした開襟のカラーがぼんやりとラジウムの光を放っていた。

東京23区山の手はたしかに舌状台地と坂の街だが、ここはそういうこじんまりとした丘陵ではなく、ひらけた山上という形容が叶いそうなほどすっきりと視界の豁大な丘の上だった。

僕たちは丘の上のピクニック団体の本日のフィナーレ…キャンドルバルーン大会の終わりの余興にただ1曲だけを歌いに、足許が決して安定しているとは言いにくい登坂を終えてきていたのだった。

「みなさま、係の者がランタンの固形燃料に火を灯してゆきますので、お近くのお客様と協力して火傷しないように持ち上げておいてください。ランタンを傾けますと紙に引火して燃え上がり大変危険ですので、注意して支えてください。」

少年合唱団の登場を待っていたお客様がたの「群衆」のような人垣がばらけて、燦々五々大入道の頭のような、暗がりに沈みかけた大きな紙風船を取り囲み、先生方は団員にも、「それじゃぁ、キミたちも何人かでランタンの下を持ち上げていなさい。」と指示を振りかけた。糊で固められたような腰のある紙の円筒が、中国自力更生期の「工业学大庆」に林立する夥しい油井のように丸坊主の丘の上へ冷たく立ち上がった。

「おまえ、ここは一杯で満員だから、他のところへ行けよ。」

とソプラノの6年生たちに言われ突き放され、背中で所在なく佇んでいたフレーベル少年合唱団の子の左手を僕は無理やり引っ張ってきて左側に入れた。彼は黙って皆と同じように大紙筒の下辺に掌を当て、小さく暗く「ありがとう」と言って手元を見ていた。

彼の歌いを、普段のレッスン時間の僕も皆も問題なく受け入れた。「山本先生の時代の声」と言われた彼の発声はすぐ僕たちのボーイソプラノの声帯の動きに馴染んで決して突出してはいなかった。ただ、歌うとき、両足を肩幅に開いて手を後ろで組む姿勢だけは変わらなかった。先生はもちろん、団員の誰も指摘しなかったし、矯正しようとも思わなかった。ぶらぶらしたり、不安定な所作ででもなければ、発声に悪影響があるわけでもない。そんなことは、僕らの歌にとってどうでも良いことだった。

もう一点、彼は僕たちがしばしば「アンパンマン少年合唱団」と言ってもほとんど何のレスポンスも返さなかったことだけは強烈に覚えている。「アンパンマンも知らないのかよ?」と品川(弟)君が問うた。古川君がすぐさま「『アンパンマンのマーチ』って80年代の終わりだから、この子、全く知らないんだよ。」と援護する。「いいよ。気にするな。きみはまだ知らなくったって良いんだ。それで良いんだよ。」と古川コトラは優しく何度も繰り返した。ふだん、中梅君に少しだけきつくものを言う彼のこういうときの口調はとても柔和で思いやりに充ちていてホッとする。

 

係の男の人がジャケットの襟から鹿子ポロシャツの汗ばんだカラーを覗かせながら、淀んだブルーベースグリーンの首元のチャッカマンをスカイランタンの裾から覗き込むように差し入れてぱちぱちと固形燃料に点火し、それは粘度のある蝋燭があかりをともすようにゆらゆらと燃え上がってランタンの下部を内側から照らしだした。彼はその状態を確認すると、

「真っ直ぐに下げてください。」

と一言言った。もし、「おろしてください。」と言われたら、小学生の僕たちはその場で手を離して、紙筒を落下させようとしたかもしれない。「下げてください」の指示は、僕らに腰をおろして筒を下方へ下げ持たせていた。係の人はランタンの一辺をさっと右手で撫でてから、「温かい空気が中に溜まるまで、腰を下ろしてランタンを持っていてくださいね。」と足早に言うと、次のグループの着火に移っていってしまった。ランタンが傾かぬよう、大人の人たちは子供の僕たちの肩の高さになるべくバルーンを下ろそうとしてくれているし、僕たちもまた、大人の人たちの腰の高さを考えて風船を支えようとしている。

そして、しゃがんだり立膝をついたりしたまま、燃え盛る光源や少しずつ暖気の満ちる紙筒の上部を黙って見ていた。誰も私語の一つだにせず一言も発しなかった。こんな山の上に登坂するのも、夜の時間にここへ歌いにくるのも億劫だろうに、幼稚園年長さんたちはそれぞれ狂おしいほど慕うお兄さんたちに途中から背負ってもらったり手を引っ張ってもらったりしながらここへ辿り着き、チャイナランタンの裾に小さな両手をミトン形に添えていた。それが僕の両眼の片隅に見えた。

やがて、僕たちは、紙風船に温かい空気が充満するのを確かめるようにランタンを少しずつ、おそらく15センチかそこら垂直に上げ下げして、浮力がつくのを確かめはじめた。フレーベル君が片膝で折った黒い膝小僧が燃料の灯に照らされてピカピカピカピカと輝いているのが僕の視線を金剛石色に射ぬく。斜め横の煌惺君は、ご先祖のお墓参りに来てお線香立てに据えた束線香が安寧に煙を燻らすのをしゃがんでずっと見つめている少年のように膝を折って待っていた。

「まだかな。」

紙袋の向こう側で誰かが言った。

「試しに少しだけ離してみようよ?」

と煌惺君が言った。

僕らがほんのちょっと手を離してみると、それは水素の満ちた風船のように熱気でぱんぱんになった頭を微かに揺らしながらまっすぐ立ち上がって空を目指そうとした。

「それでは、みなさん、ゆっくり腰をあげてください。」

ソプラノ・リーダーの深谷君がコクのある少年らしい凛々しい声で皆に指示を出した。

「黙祷ぅ!」

煌惺君は、僕の方をほんの刹那思索しながら見やり、それからゆっくりと目を閉じた。チラチラとゆれる蝋燭の光が、彼の頬の稜線と小さな顎で明滅し丁寧に磨かれた彼の黒いコインローファの丸い爪先が蝋燭の光をまばゆく反射させていた。

僕は自分の息が静かに両の耳介に届くのを意識しながら目を伏せた。

幾多のランタンが人々を照らす丘の上、僕たちもお客様方の誰も一言も口をきかなかった。

紙筒の底部から溶けて溶解した燃焼剤のポタポタと漏れる頃合いになって、永遠の長さの黙祷は溶け、間髪入れず寒太郎君が、

「ランタンを飛ばしましょう。良いですか?5、4、3、2ぃ、1…」

スカイランタンは手を離した僕たちの目の前で、ほんの一瞬止まったかと思うと、射出されるがごとく浮き上がって、それからスローモーションのように漆黒の天に立ち登った。

「わぁ!」

思わず声を上げる山上の人々を下に残し、灯りのともった紙風船たちはそれを燈したまま、幾つもいくつも足早に滲むような光の点になっていった。緩やかな低層気流がその光点たちをそろって横に揺らし、なおもそれらはチラチラと瞬きながら淡い川のように揺蕩うて登っていった。僕らはその光を、みな同じ方を見上げたまま、黙って見送った。フレーベル君と煌惺君と手を繋いで、光点のスパタ模様が天に召され消えてゆくのを無言のまま見ていた。

 

「それでは、僕たちが今、団員勧誘動画に使うため、張り切って練習している曲…『ふしぎ色のプレゼント』を聞いてください。」

ソプラノ・リーダーの声が訪れた夜の帷の丘陵にきりりと響いて、待ち構えていた中梅君の勧誘キャッチコピーが戦隊モノのヒーローのごとく辺りに響いた。

     》きみの歌声は、必ず僕が守る!《

 

先生がギターで爪弾くGm7→Cのコードがアップテンポに鳴ったかと思うと、それがアルペジオ4つに変わり、C7(♭5)に始まった和音がG♭→Cのテンションに押されて、短い前奏が僕たちのユニゾンのソプラノ↔︎アルトの互唱にスイッチしていった。

 

♪WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)

 胸がときめく しあわせな予感

 WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)

 いつも 会えるね いっしょだね

 

 生まれたての素敵がいっぱい

 ワクワク ドキドキ いっぱい

 好きって心は何処から来るの?

 今って時間は何処から来るの?

 

 鏡の中と外の僕

 痩せたり太ったりお月様

 空の青と 夕焼けの赤

 

視覚情報の乏しい新月の晩の丘の上。「歌う僕たちにライトを当てないで欲しい」と所望したのは5-6年生だった。天燈を放出して先ほどまでの照度を失った人々は、歌声をきっと明るい場所よりも生々しく鮮烈に聴くだろう。僕たちアルトの柔らかく粘度のある、少年らしい低い声。星たちの瞬きのような5-6年ソプラノと第1ソプラノのサヌカイト鉱石琴が立てるような濁りのない波長の声。そこへ微かに混じった訓練の浅い幼児期を抜けていない丸い声。僕たちの全てがお客様がたへ、そして僕たち自身にも先ほど天空へ放した祈祷儀式の往還のごとく明瞭に煌びやかに聞こえていたに違いない。

ナチュラルを1個、シの音に押して、僕たちは先生のギターのA→C#m7コードの単純な音と共にイ長調へ上がり、

 

♪見つめてごらん 毎日出会う不思議はきっと僕らの星のプレゼント

 WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)

 一人ずつの夢輝いて

 WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)

 今日も会えるね一緒だね

 

歌詞を変え、僕らの歌は冒頭へ回帰してゆく。

コンサートを終え、丘を降りる柔らかな草の道の途中で声を落とし、

「黙祷のとき、僕たちの方を少しだけ見て、なんてお祈りしたの?」

僕は小声で煌惺君に尋ねた。

「僕たちがいつまでも、一緒に歌えますように。」

暗い行脚の中で、その声は明瞭に返ってきた。

フレーベル君に僕は何も尋ねはしかった。 

 

♪産まれたての素敵がいっぱい

 キラキラ ふわふわ いっぱい

 知りたい心は何処から来るの?

 明日って時間は何処から来るの?

 

 写真の中と今の僕

 喋ったり踊ったり 海の波

 小さな花と大きな地球

 話してごらん 毎日出会う不思議はみんな僕らの星のメッセージ

 

暗い丘上のコンサートを終えて、僕にはいくつも良いことがあった。

その一つは、帰りの貸切路線バスの中、隣の席に座った佐久平レキ君が深い安堵の溜息をついてしばらく目を瞑り、何かを納得した後、通団バッグを抱いた僕に言ったことだった。

「ネアンデルタール人とデニソワ人は絶滅して、一番ショボいはずのホモ・サピエンス・サピエンスの僕たちだけが生き乗った。…なぜなのか、今日のコンサートで中梅煋次朗君が『きみの歌声は、必ず僕が守る!』って叫んだときにようやくわかったよ。

ネアンデルタール人もおそらくデニソワ人も頑強で、たぶん頭が良くて器用で生活力があり文化的で、いよいよ食糧に困れば亡くなった家族を泣き泣き食べてまで生き残ろうとするような辛い判断も信念でやった。ヒト属みたくお毛々もぽわぽわに薄くヨワヨワっちくなかった。僕たちサピエンスは、脆弱で互いに喧嘩ばっかりしていたけれど、ネアンデルタール人やデニソワ人を受け入れて友達になり彼らの良いところを学び、自分たち自身もまた弱っちく喧嘩っ早いがゆえに友達を作って生き残ろうとした。だから、ホモ・ネアンデルターレンシスも、デニソワ人も彼らの大切な大切な尊い役目を終えたんだ。彼らの優れた点を僕たちに教え、DNAを分けてくれた。だから滅びていったんだ。…僕たちは君らに僕らの全てを託す。だから僕たちはいつまでも君たちといっしょにいるよ。」

流れるバスの車窓からは、丘の上から送り出していった弱い灯火とはまた別の鋭角で鮮やかな21世紀の灯りがただ静かに黙って通り過ぎていった。

 

♪WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)

 昨日見た夢 羽ばたいて

 今日も会えるね 一緒だね

 

 WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)

 胸が踊る 幸せな世界

 今日も会えるね 一緒だね?

 

先生のギターがアクセントをつけて、単純な16分音符の連桁で和音を鳴らし、曲は賑やかに終わりを告げた。

 

 

すべてフィクションです

 

 

©1992 by フジパシフィックミュージック INC.