▲指揮者先生の最後のまとめの一言は、僕たちにオルドビス大絶滅末期的なトドメを刺した。
「これ、ボリュームが編集でかなり絞ってあって小学生のキミらにゃわからないと思うが、バックコーラスはTFBCです。」「TFBCって、まさか、あの天使のハーモニー;TOKYO FM少年合唱団じゃないですよねぇ?」「ああ、まさしく、天使のハーモニー;TOKYO FM少年合唱団サマだ。」
僕はその日、合唱団規則からステージ出演時はもちろんのこと、通団服に合わせるのさえあまり良く思われていない毛玉だらけの黒とか紺とかグレーのレギンスや分厚い黒タイツを本科生団員の3分の1ぐらいが半ズボンの下へダブダブと履いて来ている極寒の午後、レッスンスタジオのトイレ休憩中に第二メゾソプラノの連中が、年長さんの間を持たそうとそこそこ集中して『新・生化学戦隊レーニンジャー』の臨場シーン展開しているのをアルト側の自分の席からぼんやり眺めていた。小学生のやる戦隊モノの真似事なのでそういうクオリティーでしか無いが、キャラクターの設定がてんで意味不明で、耳を傾けていても飽きがこない。
「フッフッフ!自然界にポリエチレンテレフタレートを細菌分解する術(すべ)さえ知らぬオープンソースの盲者ども、我らイソメラーゼ・ドメインの異性化不斉点アタックを受けるが良い!」
メゾソプラノの中梅君がジェットスターA320のウイングレットのような腕をもたげたポーズでキメのセリフ第一弾を鷹の目で発した。
「来たなッ!このアミノ基移転酵素群め!あいにく俺らぁアルファーケト酸構成に多忙でな。早いとこ遊離アンモニアにでもなってイジェクトされちまえ!」
ここまでで通常の小学校高学年男子にも容易に理解できる単語はリトマス試験紙関連で「アンモニア」だけしか無かった。しかも「遊離アンモニア」というのは小学校の理科準備室の薬瓶のラベルに一本だに見たことが無い。
「こ!小癪な!…そうはいくか!」
「類縁体アタック降臨っ!」
「ヒドロキシ酸類にだってアタシたち無敵に作用するのよ!」
「イーシーファイヴ・ワン・99!」
「マルチ作用体、見参っ!」
日曜の朝9時台のテレ朝も、最近は光学異化相互変換の触媒イソメラーゼを戦隊キャラ化するほど複雑かつ生化学プロセス重視路線へと昇格進化しているらしい。
「…生化学グリーン!ボクは無邪気な戦士イーシー5・1・99ファイヴ!ヒダントインラセマーゼ!」
「生化学ピンク!アタシはマーカーのお役目も頂戴する唯一のヒロイン、α-メチルアシル-CoAラセマーゼ!」
自己紹介長げぇーな。
「こっちはパワーとテクの生化学イエロー!ご存知アラントインラセマーゼ!」
「おっと!忘れさせないゼ!リーダーのピンチへのスピード・アシストが大好物!いつもお供に生化学ブルー、俺は16-ヒドロキシステロイドエピメラーゼ!」
「そして異性化エンザイムの頼れるリーダー、生化学レッド、メチオニン代謝中間体なら何でもお任せ!EC 5.1.99.1 メチルマロニルCoAエピメラーゼ!」
「さよう、我ら、新・生化学戦隊…レーニンジャー!」
全員男子小学生ながら、オペラではスカート履いて少女役もこなす、生化学ピンク一人だけ女性戦士の役なのはさすがである。
僕たちの少年合唱団の日常を何に例えるかと言われると、天使の歌声でも天使のハーモニーや悪魔のハーモニーでも歌うボーイスカウトや歌う海洋少年団なんていう短絡的なものでもなく、一番マトを得ているのは「沖縄弁当」や、一歩引いて「䑓灣鐵路便當」(台湾の駅弁)という感じだ。台湾の駅弁には煮卵やパイコーといった抜群の定番が詰まってホカホカだが、PRCの方の駅弁はプラケースを真空パックにしたみたいな食欲が真空になるほど失せるものだ。沖縄弁当はなんでもありで中身がギッチギチでほとんど空間恐怖症といった込み入ったもので、あったかいものも冷たいものもジューシーをビニール袋に放り込んで「お好きなら自分でおにぎりにしてみればー?(やふぁらジューシーう好みっしどぅーくるうぶんにじりーなちんーでー?)」というテーゲーさを感じさせる。これが僕たちの少年合唱団のやかましくも静粛性皆無の日常だ。
今日の最初のトイレ休憩の『新・生化学戦隊レーニンジャー』をワンコインすら出さずに楽しく召し上がるのはオリオン少年合唱団から「本科生3ヶ月間団員交換」という名前だけの制度で適当にこちらへ送り込まれた4歳年中さんの男の子を僕らが上手くあしらって先生方も本科生に見えるように頑張ってステージ要員に育てたのが災いし、翌年オリオン少年合唱団から厄介払いでその子と合わせて移籍して来た年長5歳児の男の子計4名(!)だった。オリオンは僕たちの団のことを明らかに歌う男子未就学児のゴミ捨て場と考えているらしい。年長さんならアンパンマン少年合唱団にでも入団できそうなものだが、あそこには定員も入団テストも何やら難しげな入団条件も揃っていて「なんちゃって少年合唱団員ステージ経験があります」といったようなテーゲーなプロフでは採ってもらえないらしい。月謝が無いぶん、あちらは色々な男の子がわんさか押し寄せて指導しきれないんじゃないの?…とソプラノ6年の深谷君のママは言っていた。5歳男児にして簡単には決して円満な少年合唱団員人生の送れない、難易度の高い21世紀を四半世紀過ぎた複雑な世の中である。
「きゃぁー!生化学ブルーのイーシーファイヴ、ワン、エピメラーゼタソ(;´Д`)ハァハァ!」
第2メゾソプラノの中田コーガ(推定年齢5歳4.5か月)が生化学ブルーの中梅煋次朗の通団服の良い具合にいかった肩へ未就学児の稚拙な声をかけたかと思うと、プルートイド型遷移小惑星が衝突するほどの激烈な勢いで4年メゾの下腹部に肉弾の衝突音が聞こえる勢いでぶち当たっていった。
「おーう!俺の愛する本科幼稚部の2メゾ中田王子!生化学ブルーの中梅煋次朗お兄ちゃまのトリカルボン酸回路におまえの情念のすべてをロックオンしろっ!俺様がお前のすべての体液を痺れるほどバイオ活性モラキュラ―・コンバートしてやんからな!」
「お兄ちゃーんっ!やめて!アン!」
BLか?はたまた真正ブラコン?
「コーガたん!俺さまのコトを『ボクのこころの生化学ブルー!』と呼んでくれ!」
その指図を麗しの白百合とばかり受け止めて叫ぶ最低学年男子の声を聴くこちらは生化学反応的にブルーな心境だ。まったくこの男子小学生と幼稚園児の限りなき偏愛の嬌態をどうにかしてくれ!
「こっちのおまいら!このオレ様たちには何も言うコトが無えのかー??」
幼稚園児相手に七色の新・生化学戦隊どもが声を荒げると、彼らはきゃぁーとか「アー!」といった前後不覚の幼げな嬌声をあげ、調子に乗った少年合唱団のアホなお兄ちゃん団員たちともどもおふざけ率120%でトイレ休憩暇つぶしの声をまくしたてた。
気がつくと僕はピオーネ色のマグボトルを床から引き上げて、イコールだかスプレンダの入った甘い緑茶をグビリと飲んだ。
「うきゃー!釜屋お兄ちゃま、ボクたんにチューして!」
「フフフ、美しい俺様とピルビン酸デヒドロゲナーゼ複合体と化して昇天してみたいとは、まだ46億年早いってもんだ!」年長さん、今現在たった5年しか生きてないだろう?
「古川コトラ先輩ぁーぃ!先輩のステロイドホルモンを僕ちんの肉体深くにいーっぱい打ち込んでくださーい!」
ハルキくん、キミ、たちどころに糖尿や多毛症になるゾ!
「俺の永遠のカルボキシル基、小林ユーガ!俺様と深くペプチド結合だっ!」
「お兄ちゃん!」
「ユーガたん!あハァー!」
4年メゾは既に年長児の貧弱な肩をしっかり抱いて脱水化合反応的状態だ。
まあ、そもそもトイレ休憩時に上級生が恥じらいも無くこんな気前の良い低学年団員あしらいをしていれば、お兄ちゃんたちも楽しいし、ステージでのパフォーマンス力も身につけられるという一挙両得、一つを放って二つを得る反応方程式だ。沖縄弁当ライクなこの少年合唱団の場合、特に奇異な現象ではない。お客様がたも、数十組の半ズボン通団服姿の2人の少年がしっかと抱き合う光景から醸し出される高温多湿でBL的なニオイを敏感にかぎ取っていただけば、さぞやわくわくドキドキとさせられることだろう。
「いいのかね?」
「何が?」
「こんなちっこい幼稚園だか保育園だかこども園のガキばっかり毎年オリオン合唱団から受け入れて、俺らのクオリティーってか、レベルとかハーモニーの美しさが低下するんじゃないかってコト。」
2メゾの青畑(兄)が血液中グルコース濃度がどんよりと上がりっぱなしな小5男子の声色で言った。日本の少年合唱団のステージのクオリティー評価なんて、本来聞いているファン次第だろう?
「アオケンちゃんなんか、日々、大人の女声みたいなカッコいい大人っぽい声で勝負してるんだから、やりにくいと思ったこと、無い?」
ちっこい連中のローゲやおソソの後始末は、少年合唱団でも感染拡大を防ぐにあたり、団の大人のスタッフしか対処できないように厳しく言い渡されていた。もちろん僕は、声質に関係なく後始末をしたことは無い。
「ゲロには胃酸が入ってるから、キミらが不用意に塩素系のハイターとかをかけると塩素ガスが出てみんなブッ倒れるぞ!学校で教わらなかったのか?」
合唱団の先生方は、お得意の「学校で教わらなかったのか?」というセリフをぶちながら『吐瀉物処理キット』の艶消しシルバーの封の頭をサッカリンデナトニウムを噛み潰したような顔をして切り裂くのだ。
僕の声や合唱団の歌のクオリティーは多分、お客様の満足度とは関係が無いと思う。
「ハルキちゃん。キミはいったい何のために愛する僕と歌っているのサ?」
古川コトラがバルキータイツみたくよれよれに捩れたリブの入る擦り切れそうなレギンスの太ももをこちらに揃えて尋ねた。
「うーん、わかんない。」
「じゃ、こっちのアオケンお兄ちゃんに聞いてみようか?」
「うん。」
ほぼ誘導尋問のような簡素な手続きで質問の矛先が変わる。
「アルトのアオケンお兄ちゃん。キミは何で俺らといっしょに歌ってんだ?」
5歳児団員の視線が5年生団員の視線と一緒に、䑓灣南部へ2つも砲塔を回頭した人民解放軍の055型南昌級駆逐艦のごとく僕の方に向いた。
「僕たち全員が幸せに歌って、聞いているお客様全員を幸せにしたいから。」
「そりゃ、キレイゴトな合唱団のモットーだろ?」
「いんや、我らが少年合唱団のホントのモットーは『必ず僕がそばにいて支えてあげるよその肩を』でやんすよ!」
「ばーか!イガちゃん、そりゃ、『Believe』の歌詞だろ?」
「まったくこのビクター少年民謡会めが!」
「んー。俺様のいたのはそんな有名演歌歌手の登竜門みたいなメジャーの大手スクールじゃなく、町の爺さん婆さんばっかのチンケな民謡教室でして…」
五十嵐少年はアルトの前列から話に挟んだ口を開けるとき悲しみや苦しみが喜びに変わるだろうとばかりに閉じて、食べかけのローソンの赤穂の塩揚げ餅の混紡カシミア下着色の袋に左手を突っ込んだ。トイレ休憩中に揚げ餅を食べるのはその個数に関係なく当然団規則違反である。
「そういう正式なんじゃなくってさ、あんだろ?なんていうかプライベートな理由が。…例えば、オレサマの場合は、ウチのハイソなお母様が合唱団入れ!って豪華トミカの働くゴージャス運搬車セットで釣ったから…というのはウソで、本当はこのカワイイカワイイ美少年5歳児王子のハルキちゃまと一緒に歌うためダヨー。なんちてー。」
それが言いたいがために話題を僕に振ったのか、この、たわけもの!
古川コトラはカワイイカワイイ幼美少年5歳児のハルキ王子ちゃまとブッチュん正面から濃厚なBL系キスを一発ぶちかました。学校から着たまま通団してきた都内某有名私立小学校(難易度も学費も目が飛び出るくらい高いが、コトラ氏の入学は、たぶん親子三代のコネである)の制服の上着のスソを翻したその後ろ姿はちょっと古典的なBL漫画の東京都青少年育成条例も執行者スモールポンドリリー(小池百合子)の怒りもチラ見せに買いそうなほどで、トイレ休憩中、こういう風紀を乱す行為に及ぶのはこちらも当然少年合唱団規則違反に近い、いや、ど真ん中である。…ああいうルックスの女の人はいったいどんなフスハー・アラビア語の ع(アイン)を話すのだろう。
6分後、僕たちはレッスンスタジオの定位置で、ピアノの先生の弾くヘ長調四分の四拍子、マルカートのついた四分音符がタイの全音符の上に乗る派手なファンファーレを聞いているところだった。1992年。鼻腔を炙りあげる熱砂がスーッと退潮するようにバブルの高みは引いたが、子供番組のオープニングのために作られた音楽はまだあの至福と肩パットの入った蛍光灯のきらめく明るさのままだった。衛生ナプキンの広告が船体についたソユーズ宇宙船で日本人もすでに宇宙へ行った直後の時代。まさしく「これ、本番ですか?」と令和の僕も言いたい。
ピアノ先生のあっさりとした伴奏をコーダまで聞いた後、今度はスタッフさんがケータイをスタジオのモニターにWi-Fiミラーリングで飛ばしてYouTubeのオンエア動画を2回流した。
「『ひらけ!ポンキッキ』って?」
「BSフジの『ガチャムク』の元祖じゃねぇ?よくわからん。」
「ガチャピンとムックは知ってる。ガチャピンって恐竜なんだって。おれ、福井恐竜博物館で見た。」
「『ポンキッキ』20周年のオープニングナンバーなんデスカ??」
「そもそも『ポンキッキ』とは?」
「『おはスタ』のパクリみたいな?『天てれ』的な?しらねぇー!」
「この着ぐるみキャラから言って、『刺身ストレート』的ちゃいまっか?」
「『セサミストリート』だろ?」
「なんか、カビ臭いマックで作ったショボいレンダリング3Dオブジェに無理やりアナログの人物と着ぐるみ動画を被してあるってカンジの?動画っていうか」
「ビ…《ビデオ》ぉ?」
「プププ…」
「 これ、大昔のCXお得意…キネコとVTRを無理やり切り貼りするっていう荒削り感満載なヤツじゃん。」
「ダッセ!」
「オールナイトニッポンぬ!ゴーゴーゴー、アンド ゴーズ オンぬ!」」
僕たちの感想も、そして言葉にはしなかったが歌っているお姉さんの歌声への評価も散々だったが、指揮者先生の最後のまとめの一言は、僕たちにオルドビス大絶滅末期的なトドメを刺した。
「これ、ボリュームが編集でかなり絞ってあって小学生のキミらにゃわからないと思うが、バックコーラスはTFBCです。」
「TFBCって、まさか、あの天使のハーモニー;TOKYO FM少年合唱団っていうヤツじゃないですよねぇ?」
「ああ、まさしく、天使のハーモニー;TOKYO FM少年合唱団サマだ。悪いか?」
「どうりでなんか、サビのところのコーラスに、ふんわりアマ堅い子供の声の残り香がっ!…」
「ねぇ、センセ…オリジナル、TFBCなら、ウチじゃなくって御本家のラジオ局の合唱団に話持ってけばイイじゃんっと思いマセン?なんでオレらなんかに?」
「尚央くん、ラジオ局の少年合唱団は今、BSの週レギュラー番組の同録で、それどころじゃないんだろう?あちらはオペラもシーズンごとに歌ってるし。」
「だって、あれって週一のたったの5分間の番組でしょ?」
これは、僕たち自身が僅か5分間の尺のライブに数十時間もの血のにじむような汗と涙とおしっこまみれの準備練習期間を割かざるを得ない哀れな少年合唱団員人生という自己認識を全くできていないバカ野郎的稚拙な発言だ。
「それで全く乗り気じゃ無いケド仕方なく俺様がたにオファーが来たってワケなんですか?」
「もはや、ちんちん付いてりゃなんでもイイっていう?」
「まったく!」
「んで、結局、バックコーラスなんかミキサーさんの指一本でフェードされちゃうっていうボーイズコーラスの哀れで損な性分ですよね、先生ぃ?」
「それが、歌のお姉さんのトラックもボーイソプラノでお願いしますっていうクライアントさんからのリクエストだ。」
最後に一番クソミソで噛みついていたソプラノの加賀協太郎が、半ズボンの腹から突っ込んだ右腕の中指を黒レギンスに開いた右膝の破れ穴からミミズのようにチラチラ振りながらぼそりと言った。
「なるほど。こりゃ俺らへの『ふしぎ色のプレゼント』だにゃぁ。」
♪ Wow Wow Won-der !
「先生ぃ?…先生ぃ!」
伴奏のオクターブ四分音符4音のダイナミックな、まるでファンファーレのような躍動感と歌い上げの切り出し。「ソ↓!ド!ファ!ラー!」…このファンファーレの上行は本来ソリストの独壇場だが、今はドレミ唱練習の仕上げの段階で、全員が自分のパートのメロディーに置き換えて歌っている。訓練を積んでいる僕らでも、この「ソ↓!ド!ファ!ラー!」はちょっと危なっかしい歌い出しだった。先生方も「まあ、小学生男子の合唱の音取りだから、こんなものだろう。」と耳半分で聞いている様子がなんとなくわかる。
「先生ぃ?…先生ぃ!」
楽譜上は3部に分かれたリフレインの♪ Wow Wow Won-der !を歌い終わって、下級生の誰かがメゾの隊列の前の方で左腕を挙げた。
「はい。なんでしょう?大塚くん、このタイミングじゃないとダメ?」
第2メゾ4年の大塚K太の左上腕だった。
「はい。…この3回目のWowの音なんですけど…」
1メゾの後列の誰かが舌打ちをした。先生がおっしゃる通り、通して歌った後が何か注文の行き来のあるべき頃合いで、ここは、あまり良い良いタイミングではない。
「この3回目のWowの音が合ってないような気がして、とっても気になるんですが?」
「とっても気になるのはオマエの頭だろ?」
5年アルトの森村ブラッド満の声がした。
「いや。何?K太くん、言ってごらんなさい?3つ目のWowのメゾはCの音だよ。簡単でキミら体で覚えてるようなドだから、他のパートの基準にはなるでしょ?」
彼が言っているのは自パートの音高の問題では無いだろう。僕らアルトの音は下のソ。ソプラノはファを歌っている。もちろん四分音符で、この濁った和音が残ったまま4番目のWowの下のソ、♭シ、ミの和音に続く。皆は一応渡された楽譜を確認して、これがCsus4からC7へのコードの渡しであることに気づいた。「♪いつもあえるね」という日本語の歌詞部分へ続く期待感をこの2つの和音は醸し出している。
「うん。K太くん、ちょっと難しいね。キミらは根音でドミソって聞きたいんだけれど、ソプラノがファって下がっているから、先生もそう思う。しかも、K太くんが一番イヤな感じなのは、次の和音がドミソに戻らなくって属7でふわぁーって鳴るからでしょ?」
問答に聞き飽きた幼稚園児本科1メゾ、ハルキ王子ちゃまが属7ドミナントセヴンの口形でふわぁーっとメゾソプラノのあくびをした。
合唱団の事務室当番は静かでカッコよくコーヒーのいい匂いも嗅げて気分が良い。少なくとも『新・生化学戦隊レーニンジャ―』なんとかかんとかといった意味不明の少年らのモノマー脱水合成を見たり聞いたりせずに済む。当番の主たる任務は、休憩時間中の来客へのお茶出しやトイレへの誘導、あとは電話番といったところだ。
「はい、もしもし。合唱団事務室です。いつもお世話になっております。」
絶対に言ってはいけないのは「こちら合唱団事務室になります」という言い回しで、「“なります”じゃなくって、ここはもともと合唱団事務室なんだ。どうして『合唱団事務室です。』だけのことが言えないんだ?」と、かなり叱責される。僕たちは美しく正しい日本語を歌うボーイズクワイアーであるべきということらしい。
「あのぉ。男の子の合唱団ですか?」
電話の相手の声は少年だった。小学5年生ぐらいの男の子。欠席とか何かのハプニングがあった団員の緊急連絡以外、子供が合唱団事務室に直接電話をしてくることは珍しい。というか、今どきメールやSNSではなく、電話で連絡をしてくるということ自体珍しい。
「小学生男子だけが所属して歌っています。」
言い終わってギョッとした。レッスンスタジオの扉の方から、生化学レッドをサポートする16-ヒドロキシステロイドエピメラーゼの中梅煋二郎に抱きしめられた中田コーガの甲高い幼稚園年長児の幸せいっぱいな嬌声が響いてきたからだ。
「どのようなご用件でしょうか?」
他の合唱団から押し付けられた未就学児が本科生に5人もいるということは黙っておこう。
「あのぉ。他の少年合唱団の団員なんですが…入団できますか?」
「現役の団員ですか?」
「はい…うーん…」
移籍というヤツだ。つまりその、またオリオン合唱団からなのだろうか?相手の子は言葉を濁した。
サザエさんが磯野家の黒い電話の受話器に手のひらを当てて隣にいる母フネさんの居留守をつかって話をしている姿をまねて、僕は先生に告げた。
「先生ぃ、どうも移籍の入団希望者みたいです。」
「どこ?オリオンさんの子なら年齢を聞いて、ヤバそうだったら『今年の募集は終わりました』って嘘ついてくれ。」
受話器に当てた手をパッと剥がして僕は尋ね、帰ってきた返答に当惑して放心のまま先生に告げた。
「先生ぃ、この子…自分はフレーベル少年合唱団のA組団員だって言ってます。」
「フレーベルのA組って小学校低学年くらいの組だろ?」
「でも、5年生くらいの感じだった。」
事務室当番のネンキが明けて、レッスンスタジオに戻った僕の臭覚は、幼稚園ぐらいの小さい男の子が園庭で走り回って汗をかいてきたような乳臭さがあたり一面に浮遊するのを敏感に知覚した。
「パートどこだって?」
「そこで先生に電話を渡したから、聞いてないよ。」
「気をつけー!」
皆があわてて自分のスタック椅子にかけ戻った。
「黙祷ぉー!…礼ぃっ!お願いします。」
「はい、お願いします。」
長い方のトイレ休憩は突然練習モードに復帰した。事務室当番の僕が戻ってきてダベっているので、練習再開は皆の知るところ。
♪生まれたての素敵がいっぱい
キラキラ ふわふわ いっぱい
知りたい心は何処から来るの?
明日って時間は何処から来るの?
鏡の中と…
「はい!はい!ストップ!少年合唱団のナントカ化学レンジャーのお兄様方、ここの歌詞は『♪鏡の中と外の僕』でイイの?」
「いや、先生ぃ。俺らなんたら半額レンジャーじゃなくって新・生化学戦隊レーニンジャーです。」
「センセー、おっしゃることかなり違ってるし…」
「21世紀のバイオケミストリーを馬鹿にせんでくだせぇヨ。先生方の大好きな発酵学とか入ってんですから。」
「発酵学だか八紘一宇だかわかんないけど、あなたがたソコの歌詞違ってらっしゃるんじゃないの?」
八紘一宇も今やホイップ=自由で開かれたインド太平洋戦略に移り変わっている。
「あ!『♪写真の中と外の僕』だ!」
「んー、青畑(弟)さん、あいにくですが、そこの『外の僕』も違ってますわよ。正解は『♪写真の中と今の僕』じゃないの?歌ってる歌詞ゴッチャゴチャっていうか、呆れるほど混同春菜が凄まじいです。」
「角野卓造じゃねーよ!」
「だからシンも子供だからって何年ラーメン出前オカモチさせてこなかったの?幸楽の狭っくるしい厨房に閉じ込めっぱなしで、学校から帰りゃ朝から晩まで汗水垂らしておばあちゃんのために中華の手伝いで働いてきたのよ!もうガマンできないわ!わたしオカクラに戻ります。」
相変わらずの長大な渡鬼セリフである。
「先生ぃ、この曲って同じような感じのフレーズで目の詰まった歌詞のリフレインが入れ子みたいにして何回も途中で繰り返してあるから、俺ら混乱するんスよ。」
「ここだって、弱起のフレーズで楽譜の段変わってるうえに『鏡の中と外の』が、繰り返しじゃ『写真の中と今の』に脈略なく化けてて」
「しょうがないじゃない。バブルが弾けたばかりの時代、誰だって、写真っていやぁ前に撮ったのが何日かたって紙に印刷されてようやく見れたんだから。あんたたちみたいに自分のタブレットで撮ってその場で見る『写真』とかとワケが違うのよ。」
「ねぇ、煋次朗お兄ちゃん、『バブル』って何?」
「『バブル』ってのはねー、小学校高学年男子って言やぁ、ほとんどの子がふくらはぎに黒と赤や水色や灰色の太い線の入った高価な裏起毛の白ハイソックスを得意がって毎日履いてた時代のコトだよ。」
「あと、アンバサや鉄骨飲料なんか飲みながら『ランバダ』踊ったり…」
ランバダって何じゃ?アンバサも…
「何やってるの?」
レッスンスタジオのトイレ休憩の過ごし方は、団員百人百様千差万別にイロイロだ。新・生化学戦隊レーニンジャ―ごっこもいればコンビニ揚げ餅をむさぼるビクター少年民謡会もいて、挙句の果てに団員用スタック椅子のチャコールグレーの座面に学校名の印刷された原稿用紙を広げ、金の箔押し校名入り2B鉛筆の頭を振って極端な犬食い姿勢でうんうん言いながら何か必死に書きつけているソプラノもいる。
「何やってるの?」
ふだんの彼の歌唱姿勢からは想像だにできない激烈な悪姿勢だった。
「見ればわかんじゃん」
「字を書いてる…っていうか、字を書こうとしてる。」
「うっせ―!邪魔だ!」
「何もこんなところで宿題なんかやらなくても…」
佐久平レキの表情がさらに険しくなったところで中田コーガの幼稚園児臭い通団服(たぶん、サイズ一番小さい)の汗びっしょりの肩口が僕の白ピタアンダーの外腕にゴツンと突き当たった。
「あちょー!」
それはこっちのセリフだ。ソプラノの後方では、アッ君がチッちゃんのおマタに半ズボンの太ももを差し入れて腰を振りながら二人でランバダを踊っている。
「宿題じゃ無ぇ!自由研究のレポート締め切りが今週なんだよぉ!」
「何の自由研究?」
「自然人類学…っていうか、この名前は昭和時代にオレらの学校の自由研究グループにつけられた苔むしたネーミングで、なヵ呆れかえるほど古臭くて、今はホモ属の住居とか生活圏まるごと発掘作業がじゃんじゃん進んでて、文化人類学も分子人類学も生物人類学も何でもかんでもいっしょこたに考えないと、イカんのよ、大変じゃすよ。ホモサピエンスとネアンデルタール人が全く別系統だって皆んなが信じてたような昭和末期の時代の名称の自由研究よ。」
彼はひとしきり学校の自由研究「自然人類学」の呼称の時代遅れを愚痴って学校指定の黒っぽい軸の鉛筆を原稿用紙に放り投げた。
ファブ4おたく一家の譲治君が、『ふしぎ色のプレゼント』のBメロ伴奏は『イエローサブマリン』のサウンドトラックのトリビュートだとあちらの方で言い張っている。
「んで、レキちゃんの悩みってのは?」
「え?ナンだと思ふ?」
5年ソプラノはNHK週刊情報チャージ! チルシルのずっと前番組のニュースキャスターが「いい質問ですねぇー」と言うときのような表情になって言った。
「うーん。ハイデルベルク人は歌が歌えたか?…とか?」
「プププ。その質問はイイ質問だけど、僕の研究テーマとは違うな。」
「じゃ、ハイデルベルク人とネアンデルタール人は友達だったのか?」
「どうしてそう思った?」
佐久平レキは「食いついたな」といわんばかりのドヤ顔で僕の目を見た。
「ハイデルベルクもネアンデルタールもどっちもドイツにあるから?」
「ガクッ!」
彼はスタジオの椅子にわざとらしくつんのめって通団服の貧相なトルソをチェア面にぶっつけた。
「僕たちホモ属のご先祖様はネアンデルタール人やデニソワ人と一緒に住んでいたと思われる…遺伝子的証拠がそう言っている。」
「なんで?」
「問題はそこなんだよ。ネアンデルタール人もおそらくデニソワ人も頑強で、たぶん頭が良くて器用で生活力があり文化的で、新参者のヒト属みたくお毛々もぽわぽわに薄くヨワヨワっちくなかった。それなのに、ネアンデルタール人とデニソワ人は絶滅して、一番ショボいはずの俺らホモ・サピエンス・サピエンスだけが生き乗った。…なぜなんデショウ?」
「驕り高ぶりってやつじゃないの?俺たちは強いんだぞぉー!とかココの合唱団の2メゾの連中みたく自信満々過ぎて足許をすくわれて絶滅した。」
「いや、それなら何で俺たちホモ属にはネアンデルタール人とデニソワ人のDNAがしっかりと残ってきちんと機能してるんだ?DNAレベルで言ったらネアンデルタール人もデニソワ人も21世紀の僕たちの体の中でちゃんと生き残っている。絶滅なんかはしてない。」
「だから、友達だったんじゃないの?」
「じゃあ、なんであいつらだけ絶滅したんだよ?」
「単なる驕りでしょ?強くて高慢だったからじゃない?」
この話は結局決着がつかなかった。トイレ休憩は更新世チバニアン期のようにさっさと終了し、佐久平レキはパブロフの犬のごとく条件反射的に学校の鉛筆を挟んだ原稿用紙を通団カバンの内ポケットに突っ込み、僕はソプラノから自パートのアルトまで出アフリカしたホモ・サピエンスのご先祖様のようにてくてく歩いて戻った。
『ふしぎ色のプレゼント』のコピー楽譜(合唱団の先生方や僕たち団員はこのタイトルを『プレゼント』と短縮している)をむき出しの太ももの間に挟んで、深谷寒太郎君の練習再開の号令がかかるのを待ちながら姿勢を正した少年合唱団員の上半身の林立に対峙するような角度で、ご指導の先生とは違う先生が一人の見知らぬ男子小学生の肩を優しく引っ張りながらさし入ってきた。まるでこれから小学校の黒板の前で「今度リハウスしてきました白鳥麗子です」と自己紹介しそうなシチュエーションで、実際その子は自己紹介をした。
その声には確かな電子発振的な聞き覚えがあった。さっき入団希望の電話をしてきた子である。
「で、何年生?」
皆はてんでそれぞれ好き勝手な叫び声で問い始めた。
「もうすぐ進級のこんな時期に、何で入団?」
「合唱経験アリ?」
「ナニユエ日本の少年合唱団で一番弱々っちい俺らなんかのところに?」
「どこの学校スカ?」
「異性恋愛経験ある?」
「ファンレやプレプレもらえるカモよー?」
「テヘ!ブラコンとかBLに、キョーミ有りマスカ?」
「もしかして、ついさっき電話してきた子?フレーベル少年合唱団の?」
僕の叫んだこの質問が結局決定打になった。
ドトールコーヒーのような質問の雨アラレは止み、僕たちは男の子だけの合唱団員の定められし性(さが)で、その子を合唱団の歌う仲間として瞬時に受け入れた。
「先生ぃ、何でフレーベルの子がこの合唱団に?」
「もしかして、オリオン少年合唱団みたく本科団員の短期交換デスか?」
「いや、俺らの合唱団にはあちらさんみたくルックスの秀でた者はおらんでしょう?」
「キミ、何組?SS組?S組?もしかしてユースじゃないよね?」
例によって他所の男の子の合唱団の事情にマニアックなほど精通した団員が何人もいるのは、小学生でも高学年ともなればSNSでカンタンに他の合唱団の実態やちょっとした沿革はもちろん出演経歴・歌声さえもあらかた把握可能な21世紀の世の中だからだ。
「それが、A組なんですって。」
「…先生ぃ、あの、フレーベルのA組ってのは小学2年とかの、例によってルックス抜群だけどナカミはワケわかんない低学年男子のクラスでやんすよ。俺らだと予科上がりスレスレの連中で…」
「じゃ、ご本人に聞いてみなさいよ。」
「…ずっと前からA組デス。」
「ウッソー!もしかしてアナザーのフレーベル少年合唱団なんじゃないの?」
「いや、先生も間違いじゃないかと思って聞いてみたの。お家のかたもいらしてたし、そうしたら、練習日のいつもの時間に合唱団に行ったんですって。」
「そうなんですけど、合唱団のビルがどうしても探せなくって、電話したらフレーベル館は、コマゴメのリクギエンの正門の前に移りました…って急に言われて…」
「ちょっと待って!…ってことは、キミは神田小川町に行ったの?」
「だって、普段そこで練習してるから。」
「それがそもそもの始まりだったみたい。」
「それで、そういう名前の子はA組の団員にはいないって言われて。入団テストは今年はもうやっていないし、5年生の子は今は入団を受け付けていないんですよ、って…」
「駅のホームの看板にここの募集案内が出てるのを偶然見かけて、駅の公衆電話から電話してすぐにここに来たんですッて。」
「コーシューデンワって、何??」
「先生ぃ、その話って、俺、すごく嫌な予感がするんだけど…」
「じゃぁさぁ、とりあえずパート分けもあるから、声出してみようか。」
「いや、その前に、手っ取り早くアカペラで好きな歌うたってもらいましょうよ。合唱経験あるわけだから。いいよね?」
男の子はこくりと肯首して、ブレスをとり、表情を引き締めた。続いて手を後ろで組むと、両足を肩幅に開いてお腹を前に張り、真っすぐ前を向いて突如歌い出した。
♪ぼくらのうたよー 風にはばたけ 風とゆけ 野原をわたりー 林をぬけて…
驚きだった!一部始終を注視していた古川コトラが2秒間だけ息を飲み、確信をもってメゾの声をあげた。
「スゲエ!これ、山本先生の時代の発声じゃん。バブルのちょっと前。カッコいいー!手打ちも乱れ打ちもしてるよね。間違いなく?タイムスリップじゃん。つぇー!」
「なヵ、最近多いよなぁー。タイムスリップ。」
「今のフレーベルの声と全然違うくない?」
「俺らとも全然違う発声だけどな。」
「あんたがた、ほかの合唱団の詳細に、なんで異様なほど詳しいの?ご自身の合唱団の歌の練習にもこれだけ熱心に取り組んでいただけると先生はウレシイけど。」
「そんなコトどーでもイイじゃん。結局、この声は1メゾですよね?」
「はいぃ。あなたがた最初のリフの頭が、どうして毎回ズッコケるの?♪うまれたてのすてーきーがいっぱい ですよね? やり直し! さんはい!」
「♪うまれたてのすてーきがいっぱーい」強力なユニゾンだ。
「ちがう!違う!すてーきーがーいっぱいです。楽譜よく見てよ、”きーがー”はタイでアーフタクトしてんじゃないの!勝手に楽譜書き換えないでよ。」
「いや、俺ら全員東京の子供なんで、鼻濁音のガを関西弁みたいな母音で伸ばす粗野な習慣は無いんすよ。マクドナルドをマクドぉとは決して言えないのと一緒です。」
「先生ィ、標準語ではここはオレラにとっちゃぁ、デフォ♪生まれたての素敵ぇきがいっぱーいしかねぇんですよ。」
「いや、ダンディ青畑(弟)クン!あんたがたの江戸弁のご高説は聞いてないの!楽譜のモンダイなのよ。だめだこりゃ。トイレ休憩パート2。 5分間ね。坊や、いったい何を教わってきたの?だよ。頭冷やしてらっしゃい。今の言葉プレーバック!プレーバック!」
「僕らだって。僕らだって、疲れるわ!」
「キミら昭和か?!」
「発売元CBSソニー…現ソニーミュージック」
「百恵タソ(;´Д`)ハァハァ!」
「えと。大好物はニューコンとアサイーボウルです。あと、ホテルニューグランドのチョコパフェも昭和チックでわりかし好きです♡」
MC指導の先生が、ため息混じりに言った。
「ねぇ、それってナンか少年合唱団ぽくは感じられないよ。ホテルニューグランドのチョコパフェはおじいちゃんオバアちゃん指向だし。これって団員募集動画なのよ。アサイーボウルはどう考えても『私はヘルシー志向です』ってオねえさんのニオイぷんぷんで、なかでもニューコンって…」
「小学生のボーイ・メゾソプラノが馬の肉を食っちゃイケナイってんデスカ?」
「いやぁー天使の歌声…少年合唱団員で馬肉ってのは止めてよ。せめて桜肉のすき焼きとかにならない?」
キメのキャッチシーン撮影は大波乱だ。
「なんかもうちょっとバシッとキメる言葉で行けない?それじゃ、中梅君の好きな食べ物大公開…みたいなMCじゃない?」
みんなは白けて自分の持ち物をぼんやり凝視したり、天井ソーラトン・キューブの逆さになったホワイトチョコのような突起を見上げていた。
「悪いけど、もう一度考えてきて。」
「先生ぃ、そりゃ中梅君が可哀そうだよ。合唱団の入団促進動画のコピーを脳みそカラッポの4年メゾに考えさせるなんて。」
「そうかも知れないわね。」
「そりゃ中梅くんに失礼じゃん。脳みそカラッポなんて…」
「いや、僕ちんは世界で一番かわいくてチューが上手で心もおっぱいも温かい中田コーガたんのような世界一の年長さん第2メゾ君がいてくれる合唱団一のシアワセ者でやんすよ。ねっ、コーガ君っ♡?」
「生化学ブルーの中梅先輩っ!ボク、ハッピーセットの次に先輩が大ぁーい好きっ!」
「コーガたんっ!俺は命をかけておまえを守り抜く!」
「煋次朗お兄タン!」
ほぼタカラヅカの熱愛シーン・モードで互いの名を呼びあうどうしようもない彼らの修羅場を放置して、練習スタジオの皆はいよいよ「勧誘ビデオ」の解決策をどうしたものかと考えた。
「わかった!先生が今の中梅君にぴったりの勧誘コピーを考えてくる。」
「先生ぃ、どうでもいいけど、パート同士、火花バッチバチのくせに幼稚園児だけはBL全開でかわいがってて、昭和時代のフレーベルの団員もいてバブル期のTOKYO FM少年合唱団の歌を団員勧誘のために歌ってるようなめっちゃくちゃな少年合唱団ですよ?」
「♪WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)
むねがときめく しあわせなよかん~」
「そもそも、なヵ、こんなんで新入団員来るのかな?」
「勧誘の曲にしようってったの、あんたがたじゃない?」
「いや、ソプラノと1メゾとアルトだけですけどね。」
「2メゾはこの曲のイイとこがわかってねぇーんだよ。」
「ねぇねぇ、煌惺くん、あなたさっきから何を一人でブチブチ言ってるの?言いたいことがあったら、みんなの前でちゃんとおっしゃい。」
「ほーら、先生が怒っちゃったよ。コーちゃん、先生って一人でブチブチが一番嫌いなんだよ。」
「いや、いいです。カンケー無いから。」
「なんだよ、男なんだロ!ハッキシ言えよ!」
性的多様性の時代に「男なんだロ!」は「男の子だけの合唱」と同じくらいちょっと時代遅れだ。
「僕のお姉ちゃんって、中学のブラバンでフレンチホルンやってんですけど、今、課題曲で『あの丘を越えて』っていうのが全然上手くいかなくて頭にきてるって、毎日毎晩、弟をいじめるんです。なヵ口の形がホルン向きかどうかわかんない中学生に四管ソロってのをやらせるなとか言って…」
「なんだよ、煌惺…クン、しっかりしろよ!男らしくないな。」
結局、いずれにせよ「男らしくない」と言われる男子小学生である。
「せんせぃ、それってどんな曲なんですか?」
「先生は合唱の先生だから吹奏楽の課題曲なんか知らないわよ。」
「なヵ、曲を作った人は、セーヤ丈ショウって名前のやつで、演奏させられてる清く正しく美しく優しい女子中校生のコトなんかまったくお構いなしに難曲作りやがって!多分フレンチホルンの実物を吹いたことも無ければ見たことすら無ぇんだよ!…って、僕に言うんです。」
「煌惺くん、その作曲家の名前、ちょっと変じゃないかな。」
「いや、お姉ちゃんも漢字読めなくって。」
「セーヤ丈ショウねぇ…」
「きっと、その作曲家、少年合唱団の歌声を聞いたこともなければ、実物を見たことも歌ったことも無いヤツですぜぃ。」
「だれだろう?日本人の作曲家だとしたら星谷丈生さんのことかしら?」
「ま、少なくとも『ふしぎ色のプレゼント』なんか1小節も歌ったコトすら無い男だろうな。」
「コーちゃん、”僕だって合唱団で『ふしぎ色のプレゼント』の変ちくりんな弱起とかTOKYO FM少年合唱団が難なくサラリと歌ッてるのにこちとら完全にアウェー感の曲を怖い先生に怒鳴られつつ毎日泣きながら練習してるんだよ”とか同情買って、姉キもボクもセーヤ丈ショウも、みんなみんな生きているんだ友達なんだとか言ってごまかしとけよ。」
哀れな煌惺くんは最近合唱団で流行っている「みんなみんな生きているんだ友達なんだ」のキメゼリフを使って適当にあしらわれた。
「何の話してたんだっけ?」
「どうしてTOKYO FM少年合唱団がバックコーラス歌ってる曲を合唱団勧誘動画の曲にしようと思ったか?」
「だから、2メゾ以外が賛成したからッしょ?」
「はい、何?佐久平くん。」
挙手している子がいる。
「僕たちサピエンス・サピエンス種だけがホモ族の中で唯一生き残っているのは、お互い喧嘩とか戦争ばっかり30万年間もずっとやり続けてるからなんでしょうか?」
「…は?」
「なんだよ、サクちゃん合唱とカンケー無ぇだろ?」
「佐久平くん、合唱と全然関係がないけれど、どうしてそう思ったの?」
「なヵ、喧嘩も戦争もどちらも勝った方が生き残るか、アイコで両方生き残るかでしょう?だから、僕たちサピエンス種の少なくとも半分は必ず生き残るシステムってコトじゃないですか?」
「サクちゃん、核戦争みたく戦ってお互い全滅ってコトを考えてないダロ?」
「でもネアンデルタール人もデニソワ人も僕たちサピエンス種の遺伝子の中に生きてるんですよ。他の種とはラブラブだったんです。ネアンデルタール人には互いに死体を食べていた石器の跡はハッキリ骨についてるのに、生きているネアンデルタール人を叩き殺したりして食糧にしたっていう痕跡が発見されていない。」
「窒息とか餓死させるとか毒殺とかは出来るじゃん。」
「死体を食うのに毒殺や餓死はちょっと…」
「鑑識結果で、ネアンデルタール人のガイシャの首に索状痕とか口腔内泡沫痕跡、頚部圧迫による眼球への溢血斑が認められればそれは明らかに窒息による他殺です。」
「ばーか!マンモスの肉を食ってる時代に科捜研の女いないだろ?」
「♪みーんーなぁーのー友達ぃー ビッグマンモスぅ」
「♪わぉ!わぉ!」
「僕は学校の社会科で、病気や遺伝子の欠陥か気候寒冷化で寒すぎて絶滅したって勉強したよ。」
「ねぇ、先生ぃ、合唱団の野外コンサートの制服、レギンスかタイツにしてくださいよぉ。」
「はぁ、先生はアンタ方の話が全然わからなくなった。幼稚園の団員とはラブラブで仲良しのくせにパート間で年中ケンカばっかりやってるあんたがたは、絶滅危惧種の全国の少年合唱団の中で将来しぶとく生き残ってく危険性があるんじゃないの?」
「ヤッたァ!ラッキー!」
「お前はその前に声変わりとか卒団でどっかいっちゃうケドな。」
『ふしぎ色のプレゼント』の団員勧誘演出は、ソプラノ♪7ボーイズのようなプロの振り付けを施さないということが決まっていた。僕たちの発声は完全にクラッシック寄りなので、ミュージカルの発声やセリフのメソッドがそぐわない。普通の小学生の喋り方をする中梅煋次朗くんが、合唱団児童リーダーの深谷くんを差し置いてキメのセリフを担当することは、たいていの高学年団員が納得していた。
♪ワウ!ワウ!ワンダー!
胸がときめく 幸せな予感
いつも会えるね一緒だね
生まれたての素敵がいっぱい
ワクワク ドキドキ いっぱい
好きって心は何処から来るの?
今って時間は何処から来るの?
ファンファーレから冒頭の歌い出し18小節の間に、僕たちが歌いながら様々な角度から三々五々足音をたてずに集まってきて、定規で引いたみたいに整頓された隊列の線をステージにつくるさまをカミ手がわのカメラでとらえるという演出編集がされている。僕たちは普段そういう整列をしないので、これは完全な演技なのだが、お客様の見ているステージに短時間で美しい隊列を組む訓練を徹底的にやってきている僕たちにとっては造作ないことだった。
「年長さん4人もいるのにあんたがたどうしてそんなに全員ピシッと整列がキマるの?」
舞台の所作指導をしている先生の方が驚いて、オープニングシーン用のリールをモニターで見ながら言った。
先生方が舌をまいていたもう一点は、僕たちの転調の自然な流れだった。
オープニング・ファンファーレのホルンを鼓吹するようなヘ長調で曲は始まり、
♪見つめてごらん 毎日出会う不思議はきっと僕らの星のプレゼント
でイ長調アードゥアに五度圏をまたいでサビを流麗に歌い上げ、ヘ長調に復帰し、
♪ワウ!ワウ!ワンダー!
昨日見た夢 羽ばたいて
今日も会えるね 一緒だね
のエンディングのリフレインでフラット6つの変ニ長調へ持っていき落ち着かせる。TFBCのアードゥアの部分は少年合唱のハイライトで、コーラストラックではやや両肩を上げて歌っているように聞こえた。僕たちは逆に大人っぽくしなをつくって落ち着いた感じで流れるようにこの部分を歌った。シャープやフラットの個数が増えていくのをあまり聞く人に意識させないよう転調の小節線を穏やかに超えていくように心がけた。
「1992年のTFBCって、これ誰のチームだったんだろう?」
「92年の6年前入団だから、3期生ぐらい?」
繰り返すようだが、他の合唱団のちょっとした沿革はもちろん出演経歴・歌声さえもあらかた把握可能な21世紀の世の中。
「それって『嵐を呼ぶ少年たち』の代だよ、きっと。」
「委員長誰だったのか知らない。」
「ヤマザキくんの1コ上ぐらいの子達だよね」
「この目立ってる声って誰ダロ?」
「ソプラノ?さあ。」
「アルト側も特徴あるよね。こういう押し付けがましさの無いアルトのメインはジュンちゃんとかだよ。」
「このソプラノの声、どっかで聞いたような…。」
「資生堂エルセリエのソロの子かな?」
「レコーディング、一口坂スタジオだって。」
「行ったコト無い。どこのスタジオ?」
「ニッポン放送だって。ラジオ局じゃん!JOLF。」
「オールナイトニッポンぬ!ゴーゴーゴー、アンド ゴーズ オンぬ!」
練習スタジオの廊下のピカピカの床に映った大きな窓枠の曇空の中に、右下へ飛んで行く4‐5羽の鳥たちがいる。床の上の空は薄グレーだが、もうすぐ春が来るらしいことがわかる。僕も僕たちも決して風流人や季語を詠む子供俳人ですらないが、季節の移ろいをないがしろにできないのは僕らが日本の少年合唱団員だからだ。春には春の花々を歌い、稼ぎ時の夏には海・新緑・キャンプソングなど、紅葉の秋や冬にはクリスマスやお正月をはじめとして冬の風物を歌う。1年を季節の歌のレパートリーで回すには、それぞれのシーズンの前倒しで去年の曲の復習や新譜の音取りにのぞまなくてはならない。子供俳人の次点で四季に敏感な日本の子供はおそらく僕たちのような季節の子供の歌を中心に歌ってお客様を楽しませるボーイソプラノ集団にちがいない。
僕たち自身の肉体と生活はしかし、1年中完全に真夏モードだ。夏場でさえ学校では担任の先生から「お願いだから近寄らないで。」とヨタヨタ言われるくらい体の芯から核燃料のように熱気が出力するらしく、合唱団では真冬も発声練習が終わって1曲慣らしの歌を歌い終われば暖房は切られる。それでも、練習場にはまだきちんと僕らの身体から立った熱気が籠っている。「通団の行き帰りに走らないこと。あんたがた、ミメ麗しき少年合唱団の団員おぼっちゃま方なんだよ。まったく!」…だが、先生方の説諭の主旨はそういうことではないと思う。一つは舗道車道お構いなく小学生男子どもが暴走して危なく邪魔っけだからだが、もう一つは練習スタジオへそうやって走り込んだ男子たちというのはどの子も例外なく真っ赤な顔をして息も体温も上がり、始末に負えないからだ。「野外コンサートの制服半ズボンの下にレギンスを履かせろ」などという団員らの要求はまったくのところ、単なるオシャレというか「フツーにカッコいいでしょ」というウヌボレに近いものなのである。
「先生ぃ!また相模兄弟が取っ組み合いしてます!」
「先生ぃ!あいつらクビにするか、片っぽオリオン送りにしちゃってくださいよ!」
「先生ぃ、双子ちゃんの5年生って、全員あんなカンジなんでせうか?」
「2卵生ソーセージだからでしょ?要は、ほぼ同じ腕力の男子の兄弟喧嘩なんだから。」
ぼそっとつぶやいた丘村トラムくんの言に先生は「なるほど」と妙に納得していた。
家に帰ると普通の二卵性双生児だという。相模兄弟のママは「合唱団に行くと、ライバル競合むき出しで、競争心に火がつき、互いにマウントをとりたがる」のだという。ちょっとダンディでハンサムな弟はソプラノ・ソリストで、一方、少年のコケティッシュさがウリの外見セクシーな兄は第2メゾソプラノの貴重でステキなMC要員だ。パートが離れているのは「隣同士に並ばせると十中八九取っ組み合いの大喧嘩になるから」ということは高学年団員のほとんど全員が暗黙のうちに了知していた。パートの近い僕は、普段から相模(兄)の声に本当にうっとりと魅了されている。
皆の叫びを聞いて練習場に戻ってみると、2人は血まみれになる直前で練習場のひな壇のてっぺんでくんずほぐれつしていて、ここが僕らの合唱団の評価すべきところだが、ソプラノパートリーダーの寒太郎君と2メゾ5年サブリーダーの古川くんが、引っ付きあう超強磁力巨大フェライト磁石を無駄に引っ剥がそうとする少年たちのように全身全霊で取っ組み合う11歳男児の2つの肉体の綱引き合戦をやっていた。全く、オーエス!オーエス!である。とばっちりを受けるのを嫌がって、誰も相模兄弟の間(肉体的な2個体の間隙という物理的な意味である)には入って止めようとはしない。自分が可愛いというのも、こいう場合困りものである。
中梅煋次朗たちは幼稚園年長組のちび団員たちを抱き寄せてとばっちりが来ないよう、ひたすらかばって任侠沙汰をあまり見せないよう配慮してやっていたし、佐久平くんはレーザー素掘りで金箔の学校名の入った鳩居堂(!?)の学校指定の2B鉛筆(お金持ちの子弟しか行けない小学校なのである)の頭で自分の頭を掻きながら、ホモ・ネアンデルタールエンシスの「役割」について、およそ思索熟考の環境にはふさわしく無い2親等のホモ・サピエンス・サピエンスのガキ同士が大げんかし、それを放置できない少年合唱団員たちが髪を引っ張り合い物理的に絡み合って混戦乱闘する約8メートル圏内の至近で、何か意味のある考察結果を導こうと七転八倒していた。一方、過去からタイムスリップしてきたフレーベル少年合唱団の5年生A組団員くんは、アウェー感満載でほとんど存在感というものを消そうとしていた。実際彼は、僕たちの少年合唱団ではほぼ日常的で見慣れた狂乱の事態を目前に、茫然自失というか、感情的遮断解離の心理状態だったのである。
丘の上に登り詰めた冬の制服の僕たちが三々五々といった風情で集まっていた。
宵闇の深い霧に沈んだエッフェル塔第3展望デッキから見下ろす眼下のブルーブラックに濡れたパリ15区エミール=ゾラ通りの辺りという風情で僕らの紺ベレーの頭頂は徽章を除き新月の夜空に融解していたし、鉄紺のイートンの襟からは飛翔するカタチの小さなボタン・ループを垂らした開襟のカラーがぼんやりとラジウムの光を放っていた。
東京23区山の手はたしかに舌状台地と坂の街だが、ここはそういうこじんまりとした丘陵ではなく、ひらけた山上という形容が叶いそうなほどすっきりと視界の豁大な丘の上だった。
僕たちは丘の上のピクニック団体の本日のフィナーレ…キャンドルバルーン大会の終わりの余興にただ1曲だけを歌いに、足許が決して安定しているとは言いにくい登坂を終えてきていたのだった。
「みなさま、係の者がランタンの固形燃料に火を灯してゆきますので、お近くのお客様と協力して火傷しないように持ち上げておいてください。ランタンを傾けますと紙に引火して燃え上がり大変危険ですので、注意して支えてください。」
少年合唱団の登場を待っていたお客様がたの「群衆」のような人垣がばらけて、燦々五々大入道の頭のような、暗がりに沈みかけた大きな紙風船を取り囲み、先生方は団員にも、「それじゃぁ、キミたちも何人かでランタンの下を持ち上げていなさい。」と指示を振りかけた。糊で固められたような腰のある紙の円筒が、中国自力更生期の「工业学大庆」に林立する夥しい油井のように丸坊主の丘の上へ冷たく立ち上がった。
「おまえ、ここは一杯で満員だから、他のところへ行けよ。」
とソプラノの6年生たちに言われ突き放され、背中で所在なく佇んでいたフレーベル少年合唱団の子の左手を僕は無理やり引っ張ってきて左側に入れた。彼は黙って皆と同じように大紙筒の下辺に掌を当て、小さく暗く「ありがとう」と言って手元を見ていた。
彼の歌いを、普段のレッスン時間の僕も皆も問題なく受け入れた。「山本先生の時代の声」と言われた彼の発声はすぐ僕たちのボーイソプラノの声帯の動きに馴染んで決して突出してはいなかった。ただ、歌うとき、両足を肩幅に開いて手を後ろで組む姿勢だけは変わらなかった。先生はもちろん、団員の誰も指摘しなかったし、矯正しようとも思わなかった。ぶらぶらしたり、不安定な所作ででもなければ、発声に悪影響があるわけでもない。そんなことは、僕らの歌にとってどうでも良いことだった。
もう一点、彼は僕たちがしばしば「アンパンマン少年合唱団」と言ってもほとんど何のレスポンスも返さなかったことだけは強烈に覚えている。「アンパンマンも知らないのかよ?」と品川(弟)君が問うた。古川君がすぐさま「『アンパンマンのマーチ』って80年代の終わりだから、この子、全く知らないんだよ。」と援護する。「いいよ。気にするな。きみはまだ知らなくったって良いんだ。それで良いんだよ。」と古川コトラは優しく何度も繰り返した。ふだん、中梅君に少しだけきつくものを言う彼のこういうときの口調はとても柔和で思いやりに充ちていてホッとする。
係の男の人がジャケットの襟から鹿子ポロシャツの汗ばんだカラーを覗かせながら、淀んだブルーベースグリーンの首元のチャッカマンをスカイランタンの裾から覗き込むように差し入れてぱちぱちと固形燃料に点火し、それは粘度のある蝋燭があかりをともすようにゆらゆらと燃え上がってランタンの下部を内側から照らしだした。彼はその状態を確認すると、
「真っ直ぐに下げてください。」
と一言言った。もし、「おろしてください。」と言われたら、小学生の僕たちはその場で手を離して、紙筒を落下させようとしたかもしれない。「下げてください」の指示は、僕らに腰をおろして筒を下方へ下げ持たせていた。係の人はランタンの一辺をさっと右手で撫でてから、「温かい空気が中に溜まるまで、腰を下ろしてランタンを持っていてくださいね。」と足早に言うと、次のグループの着火に移っていってしまった。ランタンが傾かぬよう、大人の人たちは子供の僕たちの肩の高さになるべくバルーンを下ろそうとしてくれているし、僕たちもまた、大人の人たちの腰の高さを考えて風船を支えようとしている。
そして、しゃがんだり立膝をついたりしたまま、燃え盛る光源や少しずつ暖気の満ちる紙筒の上部を黙って見ていた。誰も私語の一つだにせず一言も発しなかった。こんな山の上に登坂するのも、夜の時間にここへ歌いにくるのも億劫だろうに、幼稚園年長さんたちはそれぞれ狂おしいほど慕うお兄さんたちに途中から背負ってもらったり手を引っ張ってもらったりしながらここへ辿り着き、チャイナランタンの裾に小さな両手をミトン形に添えていた。それが僕の両眼の片隅に見えた。
やがて、僕たちは、紙風船に温かい空気が充満するのを確かめるようにランタンを少しずつ、おそらく15センチかそこら垂直に上げ下げして、浮力がつくのを確かめはじめた。フレーベル君が片膝で折った黒い膝小僧が燃料の灯に照らされてピカピカピカピカと輝いているのが僕の視線を金剛石色に射ぬく。斜め横の煌惺君は、ご先祖のお墓参りに来てお線香立てに据えた束線香が安寧に煙を燻らすのをしゃがんでずっと見つめている少年のように膝を折って待っていた。
「まだかな。」
紙袋の向こう側で誰かが言った。
「試しに少しだけ離してみようよ?」
と煌惺君が言った。
僕らがほんのちょっと手を離してみると、それは水素の満ちた風船のように熱気でぱんぱんになった頭を微かに揺らしながらまっすぐ立ち上がって空を目指そうとした。
「それでは、みなさん、ゆっくり腰をあげてください。」
ソプラノ・リーダーの深谷君がコクのある少年らしい凛々しい声で皆に指示を出した。
「黙祷ぅ!」
煌惺君は、僕の方をほんの刹那思索しながら見やり、それからゆっくりと目を閉じた。チラチラとゆれる蝋燭の光が、彼の頬の稜線と小さな顎で明滅し丁寧に磨かれた彼の黒いコインローファの丸い爪先が蝋燭の光をまばゆく反射させていた。
僕は自分の息が静かに両の耳介に届くのを意識しながら目を伏せた。
幾多のランタンが人々を照らす丘の上、僕たちもお客様方の誰も一言も口をきかなかった。
紙筒の底部から溶けて溶解した燃焼剤のポタポタと漏れる頃合いになって、永遠の長さの黙祷は溶け、間髪入れず寒太郎君が、
「ランタンを飛ばしましょう。良いですか?5、4、3、2ぃ、1…」
スカイランタンは手を離した僕たちの目の前で、ほんの一瞬止まったかと思うと、射出されるがごとく浮き上がって、それからスローモーションのように漆黒の天に立ち登った。
「わぁ!」
思わず声を上げる山上の人々を下に残し、灯りのともった紙風船たちはそれを燈したまま、幾つもいくつも足早に滲むような光の点になっていった。緩やかな低層気流がその光点たちをそろって横に揺らし、なおもそれらはチラチラと瞬きながら淡い川のように揺蕩うて登っていった。僕らはその光を、みな同じ方を見上げたまま、黙って見送った。フレーベル君と煌惺君と手を繋いで、光点のスパタ模様が天に召され消えてゆくのを無言のまま見ていた。
「それでは、僕たちが今、団員勧誘動画に使うため、張り切って練習している曲…『ふしぎ色のプレゼント』を聞いてください。」
ソプラノ・リーダーの声が訪れた夜の帷の丘陵にきりりと響いて、待ち構えていた中梅君の勧誘キャッチコピーが戦隊モノのヒーローのごとく辺りに響いた。
》きみの歌声は、必ず僕が守る!《
先生がギターで爪弾くGm7→Cのコードがアップテンポに鳴ったかと思うと、それがアルペジオ4つに変わり、C7(♭5)に始まった和音がG♭→Cのテンションに押されて、短い前奏が僕たちのユニゾンのソプラノ↔︎アルトの互唱にスイッチしていった。
♪WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)
胸がときめく しあわせな予感
WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)
いつも 会えるね いっしょだね
生まれたての素敵がいっぱい
ワクワク ドキドキ いっぱい
好きって心は何処から来るの?
今って時間は何処から来るの?
鏡の中と外の僕
痩せたり太ったりお月様
空の青と 夕焼けの赤
視覚情報の乏しい新月の晩の丘の上。「歌う僕たちにライトを当てないで欲しい」と所望したのは5-6年生だった。天燈を放出して先ほどまでの照度を失った人々は、歌声をきっと明るい場所よりも生々しく鮮烈に聴くだろう。僕たちアルトの柔らかく粘度のある、少年らしい低い声。星たちの瞬きのような5-6年ソプラノと第1ソプラノのサヌカイト鉱石琴が立てるような濁りのない波長の声。そこへ微かに混じった訓練の浅い幼児期を抜けていない丸い声。僕たちの全てがお客様がたへ、そして僕たち自身にも先ほど天空へ放した祈祷儀式の往還のごとく明瞭に煌びやかに聞こえていたに違いない。
ナチュラルを1個、シの音に押して、僕たちは先生のギターのA→C#m7コードの単純な音と共にイ長調へ上がり、
♪見つめてごらん 毎日出会う不思議はきっと僕らの星のプレゼント
WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)
一人ずつの夢輝いて
WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)
今日も会えるね一緒だね
歌詞を変え、僕らの歌は冒頭へ回帰してゆく。
コンサートを終え、丘を降りる柔らかな草の道の途中で声を落とし、
「黙祷のとき、僕たちの方を少しだけ見て、なんてお祈りしたの?」
僕は小声で煌惺君に尋ねた。
「僕たちがいつまでも、一緒に歌えますように。」
暗い行脚の中で、その声は明瞭に返ってきた。
フレーベル君に僕は何も尋ねはしかった。
♪産まれたての素敵がいっぱい
キラキラ ふわふわ いっぱい
知りたい心は何処から来るの?
明日って時間は何処から来るの?
写真の中と今の僕
喋ったり踊ったり 海の波
小さな花と大きな地球
話してごらん 毎日出会う不思議はみんな僕らの星のメッセージ
暗い丘上のコンサートを終えて、僕にはいくつも良いことがあった。
その一つは、帰りの貸切路線バスの中、隣の席に座った佐久平レキ君が深い安堵の溜息をついてしばらく目を瞑り、何かを納得した後、通団バッグを抱いた僕に言ったことだった。
「ネアンデルタール人とデニソワ人は絶滅して、一番ショボいはずのホモ・サピエンス・サピエンスの僕たちだけが生き乗った。…なぜなのか、今日のコンサートで中梅煋次朗君が『きみの歌声は、必ず僕が守る!』って叫んだときにようやくわかったよ。
ネアンデルタール人もおそらくデニソワ人も頑強で、たぶん頭が良くて器用で生活力があり文化的で、いよいよ食糧に困れば亡くなった家族を泣き泣き食べてまで生き残ろうとするような辛い判断も信念でやった。ヒト属みたくお毛々もぽわぽわに薄くヨワヨワっちくなかった。僕たちサピエンスは、脆弱で互いに喧嘩ばっかりしていたけれど、ネアンデルタール人やデニソワ人を受け入れて友達になり彼らの良いところを学び、自分たち自身もまた弱っちく喧嘩っ早いがゆえに友達を作って生き残ろうとした。だから、ホモ・ネアンデルターレンシスも、デニソワ人も彼らの大切な大切な尊い役目を終えたんだ。彼らの優れた点を僕たちに教え、DNAを分けてくれた。だから滅びていったんだ。…僕たちは君らに僕らの全てを託す。だから僕たちはいつまでも君たちといっしょにいるよ。」
流れるバスの車窓からは、丘の上から送り出していった弱い灯火とはまた別の鋭角で鮮やかな21世紀の灯りがただ静かに黙って通り過ぎていった。
♪WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)
昨日見た夢 羽ばたいて
今日も会えるね 一緒だね
WOW WOW WONDER (WOW WOW WONDER)
胸が踊る 幸せな世界
今日も会えるね 一緒だね?
先生のギターがアクセントをつけて、単純な16分音符の連桁で和音を鳴らし、曲は賑やかに終わりを告げた。
すべてフィクションです
©1992 by フジパシフィックミュージック INC.


