【震災から2年経った熊本へ編 その1】
「雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂、右手に血刀左手に手綱、馬上豊かな美少年」
娘が東京に旅立ち1週間が経った平成30年(2018年)3月24日(土)、晴れ
この日は春休みに入り、部活が休みだった息子君・ちぃ君と一緒に巨大地震から2年経った熊本へ復興状況の確認という名目でプチ旅行に出かけました
いつもなら高速道路で一気に熊本市まで向かうところ、今回は植木インターで降り、西南戦争で激戦の地になった田原坂(たばるざか)へとやって来ました
ここで簡単に西南戦争と田原坂のことを説明すると~
西南戦争とは、明治政府に不満を持つ薩摩の士族が西郷隆盛を大将として政府軍にしかけた日本最後の内戦のことで、田原坂とは熊本城を目指す官軍(政府軍)と阻止しようとする薩摩軍が明治10年3月4日から17日にかけ戦った西南戦争最大の激戦の地となっています。
冒頭の句は、その時の模様を歌った民謡ですが、両軍合わせて1万人以上もこの地で命を落としたそうです。
田原坂で敗れた薩摩軍は敗走を続け、後に西郷隆盛は自害へと追い込まれることになり、現在放映中の「西郷どん」でも悲しい展開が繰り広げられることでしょう。
と歴史話はこのくらいにして、この日の模様に話を戻すと~
最初に飛び込んできたのは大好きな顏出しパネルだったので、いつものようにパチリ
息子君は頑張って、ちぃ君も顔出しさせてくれたよ~
思春期まっさかりの息子君はいやいやだったろうけど、父思いの優しい子に育ち、僕としては嬉しい限りです
(僕がうるさいからとの説もありますが・・・)
その後、展望台に向かうと~
『はい、チーズ』
これまた仕方なく付き合ってくれたよ~
この日は桜が満開で~
(繰り返しになりますが、この記事は本年3月の出来事です)
この地でそんな凄惨な出来事があったなんて想像もつかないほど、のどかな雰囲気に溢れてました
その後、テクテク歩くと~
「西南役戦没者慰霊之碑」があったけど、これは西南の役で亡くなった官軍6,923名と薩摩軍7,186名、殉難者23名の
供養のために建立された記念碑だったので~
この像は田原坂で散った若者たちの象徴で、供養のために建てられたそうです
会津若松での白虎隊の例もあるけど、この頃は子供も戦いに駆り出されており、息子君に平和な世の中がいかにありがたいことなのか、しっかり説明しました。
その後、『崇烈碑』の看板を見つけたけど~
「崇」の文字上に日向ぼっこをしているバッタを発見したよ~
ここでも静かに手を合わせ~
命を賭けて戦ったんだなと思うと切ない思いでいっぱいでした
その後も散策は続いて~
因みに、公園入口にあるこの建物は~
当時の銃痕をそのまま残しており、当時の戦いの激しさを今の世に伝えていました
その後、「田原坂西南戦争資料館」に足を踏み入れると~
お勉強タイムが始まりました
ここにはペリーが来訪した頃から~
明治維新へと向かい~
薩摩軍、どちらも似たような握り飯だけど、干し肉(らしきもの)とめざしが違うなど、中央政府と薩摩の食料実情を垣間見たような気がしました
また、官軍兵の軍服と~
薩摩軍の軍服も展示されていたけど、官軍の方が垢抜け感があるなと思いました
因みに、この激戦では、官軍・薩摩軍を問わずに治療するため、博愛社が設立されたそうです
息子君には最後にコスプレをさせましたが、生涯銃を持つ日がこないことを切に願っています。
因みに、「西郷どん」主演の鈴木亮平さんもご来館されたそうだけど、このシーンをどんな風に演じられるのか今から楽しみだなと思いつつ、この地を後にしました
その後、車で移動していると、七本柿木台場薩軍墓地を発見したので~
車を降り、二人で歩き出し~
以前から「青ブロ」ご覧の方はご存知でしょうが、歴史好きの僕はこれまであちこち巡り、各地の記事を書いてきました
毎回感じることは、勤王の獅子・新撰組等の幕府軍、官軍と薩摩軍など、幕末・明治維新時には大勢の若者が日本の将来を憂い、命を賭けて戦ってきたということ
僕らには命を賭けて戦うことはないけれど、彼らを見習い、目の前の困難に立ち向かっていかなきゃいけないですね
「震災から2年経った熊本へ」編は、まだまだ続きます
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