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沖縄うるま・浜比嘉島大会情報4:自慢のうるま産

やはりその地域にいったらそこの産品を買うのが楽しみ。うるまはどんな地域特性を生かしたものがあるのだろう?

 

全部は紹介しきれないのでいくつかを;

山城茶・グアバ茶

うるま市で栽培されるお茶は2種。在来種で現存するのは「山城茶」香り、のど越しがよいのが特徴でビタミンも豊富。

もうひとつはポリフェノールが多く含まれ、注目を集める「グアバ茶」

美ら海豚

美ら海豚はもづく入りの特性肥料で育てたブランド豚のひとつです。

しまりのある肉は高タンパク・低コレステロール・低脂肪で豚肉特有の臭みがなく赤肉に甘みがある。

もづく

全国で流通しているもずくのおよそ90%が沖縄産でその半分以上がうるま市勝連で水揚げされています。太くてやわらかく、健康にかかせないフコイダンが豊富です。「もずくゼリー・もずくカステラ」などもずくを利用した加工品もおすすめです。

津堅(つけん)ニンジン

勝連半島の沖にある津堅島の名産は「つけんニンジン」ほんのりピンク色を帯びた甘くてやわらかいのが特徴。また加工品としてキャロットゼリーも美味しいですよ。


ぬちま~す

世界一ミネラルが多い塩としてギネスの認定を受けた「ぬちま~す」。独自の製法を開発し、商品化した。「海水に含まれるミネラルをすべて製品化できるので身体にいい塩」なのです。


そのほかまだいろいろありますが紹介し切れませんのでぜひうるま市にいったらいろんな物を見て・買ってゆこう。

市の公式HPページより

沖縄うるま・浜比嘉島大会情報3:文化探訪

1.       海の文化資料館

海中道路の真ん中にある。海とともに生きたうるまの先人たちの知恵と暮らしを見ることが出来ます。

海中道路が完成する前は当然船での行き来であったのだが、この文化館では琉球が古くから東南アジアをはじめとして交易がさかんでそのときに使っていたい独特の船が展示されている。

マーラン船と呼ばれ<沖縄各地で山原船(やんばるせん)と呼ばれている>その名称のごとく、沖縄本島の北部地域から南部地域の那覇などへ、往復航路を物資の運搬で活躍していた船です。




それと近年では岩礁が浅くなったときに米軍の軍事用トラックを改造した船?車?が交通手段として利用されていたというのも興味深い。いまではすばらしい道路が各島々をつないでいる。あれ?あの島は無人島なのになんであんなりっぱな橋がつながっているの?まあいいか~。

1.       石川歴史民俗資料館

ここも時間が許せばぜひ見学を。

戦前・戦後の生活を今に伝える歴史文化ミュージアム。石川から始まった戦後の沖縄を多角的に展示しています。

文化財に関する詳しい問い合わせは
  教育委員会文化課(文化係)のHPをご覧になるか、
  または098-978-6832へ問い合せください。


沖縄うるま・浜比嘉島大会情報2:歴史探訪

うるま市をもっと知っていただくためにまずは歴史探訪から。

勝連城跡(世界遺産・史跡)

指定年月曰:昭和47515日勝連城跡は、琉球王国が安定していく過程で、国王に最後まで抵抗した有力按司、阿麻和利の居城として有名です。 若くして勝連の按司となった阿麻和利(あまわり)は、人々から慕われ、海外貿易によってますます力を付けました。時の琉球国王・尚泰久(しょうたいきゅう)は、阿麻和利に驚異を持ち、自分の娘.百十踏揚(ももとふみあがり)を嫁がせます。しかし、阿麻和利は国王の重臣で中城城の護佐丸(ごさまる)を1458年に滅ぼし、さらに王権奪取をめざして首里城を攻めたが、大敗して滅びました。阿麻和利が滅ぼされたことによって、首里を中心とする中山の王権は一段と安定しました。阿麻和利や勝連城跡について、沖縄の古謡をまとめた「おもろさうし」には当時の繁栄ぶりを謡ったものがたくさん収められています。それを裏付けるように、勝連城跡からは中国製やその他東南アジアの陶磁器などが多量に出土しています。城は、四方に眺望のきく比較的傾斜の急な孤立丘を取り込んで築かれており、外敵をいち早く確認できることや、南側に良港を控えていることなど、極めて良好な立地をそなえています

安慶名城跡(史跡)
指定年月曰:I?昭和47515日 安慶名に在する国指定の史跡である。城の北側を流れる天願川が別名「大川」と呼ぶことから、別名大川グスクとも称される。伝承では14世紀頃安慶名大川按司の築城と云われている。自然の断崖と急傾斜を巧みに利用した山城である。城の形態は、外側と内側に二重の石垣を巡らす県内では珍しい輪郭式のグスクである。安慶名城跡の築城時期については、本格的な発掘調査を行っていないので詳細は不明だが、県内におけるグスクの発掘調査をした例を見ると12世紀後半から13世紀初頭にかけてグスク時代の開始が認められているため、安慶名城跡も、その頃で、15世紀頃に現在の石垣が造られたのではないかと思われる。安慶名城跡の第3代目のころになると、中山王は尚真王の時代で、各地の按司を首里に集め中央集権国家を造ろうとしていたが、安慶名按司の勢力は具志川、あるいは中部一帯に広がっており、首里に呼び寄せようとしても聞き入れなかった。それで、仕方なく中山軍は安慶名城を攻めることにしたが、勢力のある安慶名城であるため、なかなか落城させることが難しかった。そこで、調べてみるとこの城には水がないことがわかったので水攻めにすることにした。しかし、安慶名城も考えたもので、米でウマを浴びせて見せ、遠くから見ると水浴びをさせているように見せていた。中山軍はあきらめたが、結局水がないことがわかって安慶名城は落城する結果となった。

伊波貝塚(史跡)
指定年月曰:昭和47年5月15曰明治37(1904)に来沖した鳥居龍蔵氏(とりいりゅうぞう)は石川のチヌヒンチヤ貝塚を発見し、その調査内容を翌年「考古界」や『太陽』で発表している。大正9年 鳥居氏の報告をたよりに石川を訪れた大山柏氏(おおやまかしわ)によって発見されたのが伊波貝塚である。石川市街地の南側の丘陵崖下に位置する二つの貝塚は、沖縄諸島の中では早い時期に実態が明らかにされた遺跡として著名である。伊波貝塚から出土した山形の口縁部に 4個の突起をもつ平底の深鉢形(ふかばちがた)をした土器は、伊波式土器と称され、縄文後期( BC 3500年)を代表する標識土器として知られている。

シルミチュー

宇比嘉の南南東端の森の中に大きな洞穴がある。地元では琉球開びゃく祖神、アマミチュー、シルミチューの居住したところと伝えれれている。
毎年、年頭拝みには比嘉のノロ(祝女)が中心となって、海浜から小石1個を拾って来て、洞穴内に安置された壺に入れて拝んでいる。また洞穴内には鍾乳石の隕石があり、子宝の授かる霊石として崇拝され、信仰圏の広い貴重な霊場である。
文化財保護条例により、勝連町文化財に指定します。
平成7220日 勝連町教育委員会

以上うるま市公式HP及びhttp://www.uruma-c.net/hama4.htmlから紹介