今日、久しぶりの友人と飯を一緒にした。友人とはクラブで働いていた時から12年来の友人。このブログのテーマでもある「記憶」について話をした。人は年を老いごとにその人の存在となるものは何か。それは「経験」と「友人」と「制作物」しかない。自分一人で生きる上で活きてくるものは「経験」。その「経験」は何を元に活かされるかと言えば、「記憶」に他ならない。「記憶」がなくなれば、「経験」もなくなる。「記憶」は自分の脳の中にしかないもの。だからその脳から消えてしまう、「忘却」してしまえば、何も残らないし、今の自分に活かすことはなくなってしまう。だから、自分の脳以外のところに「今」の瞬間思っていること、感じていることを残しておくことは、これからの自分にとっての「経験」として活かせることになる。では、それ以外で自分の存在となるものは何か。それは「友人」に他ならない。自分が「記憶」をなくして、自分が自分を分からなくなってしまっても、自分を証明してくれるから。なぜなら、それは自分の脳ではないから。人の脳の中に自分がいる。それは、自分がいることを証明してくれる。だから、一番の孤独というのは、自分のことを誰も分かってくれない、自分のことを誰も知らないということこそが、本当の「孤独」というものなのだと思う。最後は、「物」として自分を残すということ。自分の感覚を「物」として残すということは、自分がいまこの世に生きてきたことの証になるだろう。そして、それこそが人に感動を与えることで、人の脳の中に「自分」という存在の場所を見つけることができる。そして、一番最愛の人の中に自分がいることこそが、自分を証明することとしては、一番幸せなことなんだろうと思う。だから、自分の子供は、何よりも自分を証明している存在として、愛する事になるんだろう。
久しぶりに印象に残ったCMを見た。Sony walkman「Play you」。

感動するものは伝播する。それは、昔から変わらない。瓦版を読んで、新聞を読み、雑誌を立ち読みし、ラジオで終わりを聞き、テレビでプロレスを見て、LIVEに行って、旅行に行って、絵を見て、音楽を聞いて、CMを見て、、、学校に行って話をし、会社で話をし、飲みの場で話題にし、家族で笑う。昔と変わったことは何だろうか。 それは、伝播するスピードが拡大に早くなったこと、そして、コンテンツがあふれ返る今では伝播させたいものが多様化している ということのように思う。例えば、「Play you」に感動する、この感動を伝えたいと思う、そしてYouTubeに行く、伝えたい映像がある、もう一回見る、やはり感動する、共有する、、昔は話で伝えていたものが、映像で伝えることができる。しかも、全世界に。一瞬にして。日本は、素晴らしいCMを作ると改めて思う。素晴らしい商品を作ると改めて思う。なのに、なぜソフトは世界に輸出され、利益を生み、制作者が潤い、さらによいものを作る、という好循環がないのだろう。この「Play you」も素晴らしいCMだと思う。そもそも、感動のあるCMに最近まったく出会ってないような気がする。多くは、サービス名や商品の告知だけのつまらないCM。やはりお金を出す企業も短期で売り上げや結果を残したいし、担当者も家族を持つ会社員だから保守的にならざる負えなくて、つまらないものになってしまうんだろうな。自分の会社を愛してないからかな。失敗できないからだろうな。そこにいる本人自身も自信を失ってるのかな。感動を与えることより、サービスを知ってもらったっていうレポートが出せた方がいいもんな。でも、みんなで作り上げた、一体感、成し遂げた達成感、は、一生記憶に残り、その記憶とともにそのブランドも残るというのに。参加しているみんなの感動は、見ている側にも伝わり、想像を駆り立て、そのブランドのイメージをポジティブに残る。T-mobileやマイケルも海外っぽいけど似てる。なのに、CMというと映像というと海外のものが主流のように思う。このCMを見て思ったことは、こういう素晴らしいクリエイティブを通して、日本を海外で存在感のある国にする役割を担いたいと思った。すぐそこに世界に通用するクリエイティブがある。ないのは、それを利益に換える、ビジネスにする力ではないだろうか。素晴らしいクリエイティブを芸術ではなく、ビジネスとして世界に広めるようなことは、自分にとって喜びなんだろうと思う。
最近、日本について考えることがある。歴史は繰り返すというならば、日本は自分が生まれて育った国で、その国のルーツや歴史を知ることで、これからの日本を知ることもできるかもしれないとか思う。そこで、日本史と世界史についてざっくり本を読んでみた。
[1]世界は、侵略と支配によって弱者との「格差」による利益を生み出すことで生活圏/経済圏を拡大してきた背景がある。侵略/支配の手段としては、大きく二つ「戦争」と「宗教」です。そして、近年では「商業」である。
[2]そんな中で占領をされていない類を見ない国が日本である。ただ、今まで占領の危機には何度もあっている。
1回目、669年前後 唐帝国李淵(2000人軍勢)> 聖徳太子の後 = 新羅(朝鮮)が単独支配を開始(唐は共通敵)
2回目、1274年前後 元寇フビライ(3万、10万人軍勢)> 北条時宗 = 台風の襲来
3回目、
近年になって、特に広告業界で言われ始めているキーワードがある。
「Open」「Social」「Platform」。
これらのキーワードについて思うことを羅列してみる。今までは、企業と生活者の接点をメディアを通して持ってきた。その手段として、大勢が利用しているメディア、もしくは特定の目的、嗜好をもった生活者が集まるメディアに対して、広告スペースを設置して、そこに企業のメッセージを流して、接点を持ってきた。企業がこのコミュニケーションにかけるコストとしては、その広告スペースに大勢の生活者が集まれば集まるほど、もしくは、特定の生活者が集まれば集まるほど、その広告スペースの価値が上昇し、その対価を支払ってきたわけである。そうすることで、企業が提供する、ビジネスする商品やサービスが生活者に利用され利益が生まれてきたからである。それは、提供する商品の設計自体、サービス内容自体が大量生産、大量消費を前提に成り立ってきたからである。しかし、近年、企業が提供するサービス、商品が競争により多種多様に溢れ、それに慣れた日本の生活者は、一通りの購入体験ができるようになった。そうなると、提供されるものに対して、自分固有の「好み」が出てくるようになったため、1億人が1億通りの嗜好が出てくるようになる。そうなった時には、今まで単一化されたメッセージを大勢がみるメディアに対して、流せば売れていた時代から変化し、極端な話、1億通りのメッセージを1億通りのメディアに対して、流していかないと売れないようになっていく。そもそも企業が提供する商品、サービス自体をとことん細分化して最小公倍数の方向性になっていかざるを得ない。特に上場している企業は体質上その傾向に対応することができるはずもないため、最大公約数を狙わざるを得ない。そうなると、残るは、ほかの企業がやっていない最先端な要素、もしくは誰もが羨むブランド、を築くことをしていくことになる。しかし、インターネットはそれらを可能にする。前置きが意外に長くなってしまったが、ここで今回のテーマである「open, social, platform」は、その最小公倍数を最大公約数に変えていけるキーワードに思う。この3つのキーワードの主体は、生活者である。その生活者が各々嗜好していることを自ら行動した結果、たどり着く先が企業のメッセージであり、商品、サービスであればそれは成り立つと概念的には考えられる。主たる例が検索連動型広告であろう。そこで、重要になってくるのが、企業からのメッセージである。メッセージはすなわちコンセプトであり、そのコンセプトを具現化したコンテンツにある。今回記憶しておきたいのは、「open, social, platform」は、ただのそのコンセプトを伝える線であるということ。今までは、その線が異常に太く、その先に大勢の人がいた。それが、インターネットの登場により、線が細く、個々人に伝わるようになった。
そして、その個々人がまたその周りに伝えていく。つまり、伝わりやすくなってきたということあるが、逆にコンテンツの強度によるところが大きくなってきたということでもある。震源地の震度が大きければ大きいほどその津波が大きくなるように、コンテンツが強ければ強いほど、その波は伝わりやすくなってきたということだと思う。伝わりやすくなったために、企業のこのコミュニケーションにかけるコストは、今まではメディアに対して多く支払っていたものが、逆にメディアの線にコストをかける比重よりコンテンツの強度に震度をどれだけ高めれるかにかけていくことで目的を達成する結果が得られるようになってきたということだと思う。メディアの立場で悩ましいのは、その震度は、「起きてみないと分からない」という点だけである。その震度の大きさをパターン化できればいいが、それを導きだすには変数が多くなってしまっている。企業がコストをかける以上、その費用対効果を見る必要が出てくるので、結果が想定できないものにコストをかけることがしずらい現状である。なので、大半は、結果が担保できるところにコストをかけ、担保できないところにはコストをかけないことになり、担保できない「open, social, platform」は、企業からのお金でビジネスしている以上、成り立ち得ないということになる。つまり、「open, social, platform」はこれらの主体である生活者からお金をもらうことでビジネスを行うのが本質ではないかと思う次第である。もちろん企業ではなく生活者からもらうお金なので、サービスにもよるが、1円単位になるであろう。



「人間が想像できうる全てのことは、実際現実に起こりうることである」 by ○○

なぜなら人間の脳で考えていることなのだから。

私という意思は、宇宙の誕生'Big Bang’により、地球が誕生し、生命が生まれ、人間になり、私になった。今ここから見える夜空に光るその宇宙というのは、2000億の星があり、その星の中にさらに2000億の銀河があると言われていて、それを見上げている。地球は、その銀河の中の太陽系のひとつの星である。ということは、少なくとも2000億×2000億で、2000億二乗の地球があり、その地球の中には自分がいるかもしれないと思う。ただ、このことすら人間が考え出したことだから、真実は人間である以上、永遠に分かることは、ない、ということ。

つまり、宇宙は、人間の脳の中にあることになる。

死生観の話。
死生観とはどう生きるかという話なのですが、つまりは転生輪廻、死ぬ時はポックリ死んで、来世でまた会いましょう、ということです。人間は肉体を持って物理行動をしているが、結局は意思があるということ。そして、現代ではその兆候が弱まっている、人間本来の意思が弱まってサイクルが早くなっていると思うんです。大昔、縄文時代は狩りをしないと生きては生けなかった。弥生時代も穀物を育てて、生きるしかなかったから息子、娘、親、家族総出でひたすら穀物を作り続けていた。そして、現代、その「生きる」手段が多岐に渡り始め、自分の肉体を存続させる手段が増えたため、意思を大昔ほど持たなくても生きることができるようになった。そうすると、生まれて死ぬまでのサイクルが短くなり、結果自分の存在を存続させることが優先され、本来の本能である生存本能が薄れていくことになる。
ある父の話。

その父は地方の田舎で育って、今や48歳団塊世代の父です。
父は、団塊の世代の中でも最先端をいっていて、当時欧米から入ってきたジャズクラブでイベントを仕切って社交ダンスで女性と戯れ、車ではアルファロメオ、バイクではハーレー、サックスからスピーカーは自分で作り、自ら建築士になり自分の家まで設計する少年心をいつまでも持って、不器用ながらもこだわりをもった本物がわかる父でした。

そんな父に育てられた自分は、父に対して、もちろん感謝してるし、男として尊敬も無意識をうちにしながら大学生になりました。

大学生で地方の田舎から東京に出てくると、遊びに夢中で父とも連絡を取らなくなったある日、
父から東京に遊びに行くから、時間のあく夜に東京を案内してこれぞ東京っていう飯を案内しろ
と言われました。

面倒くさいなと正直思いながらも、育ててくれた父だから、しょうがなく自分の知ってる限られた東京で
夕飯だけ一緒にするかと思ったんです。

でも、やっぱり面倒くさいから、結局、アパートの近くの全国各地に展開しているラーメンチェーン店「天○一品」に連れていって適当にその場を凌ぐことにしました。店に入ってドロドロのスープの醤油ラーメンを注文して、何を話すわけでもなく麺をすすってた時に、父はそれとなしに一言口にしたんです。

「俺は、この48年間生きてきて、日本全国のラーメンを食べつくしてきたが、
ここのラーメンが一番うまいな。」

その1年後、このラーメンチェーン店は父の住んでる家の近所にも店舗ができました。
でも、それから一言もあそこのラーメンが一番うまいとは聞いたことは一度もありません。

それが不器用な父がそのとき本当にそう思って言ったのか、それとも自分へのやさしさで言ったのか、分からないし、本人に聞いても覚えてないと思うけど、確かなのは、
そんなささいな一言を、未だに忘れないということです。






日頃、感じたことは、

その瞬間に脳みその中で一瞬電気が走るように通り過ぎて、

次の瞬間には忘れてしまう。

どれほど、感度の高いことを受信しても、ひらめきがあったとしても、

次の瞬間には忘れてしまう。

その時の映像や表情、匂いは覚えているのに、なぜか、感じたことは

次の瞬間には忘れてしまう。

そもそも、ひらめきやアイデアは、過去の経験や知識の蓄積から生まれるもので

ゼロから生まれることは、ほぼ、ない。


ので、


脳の世界ではなく、Webの世界に置いておこうと思ったんです。