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考え方を考える

ボクは、犯罪というものはとても冷徹な、科学的な判断が

下されていると思います。


例えば、

ある小学校とかに乗り込んで、

大量殺人を犯してしまった人がいるとします。

しかしこの人は悪い人でしょうか。

注目すべきは、

合理性がないということです。

もしも、自分の兄弟が殺されたとかならば、

自分が仕返しをする論理性があります。

しかし、彼らのような人には、それがありません。

つまり、脳的な故障である、病気であるかもしれないのです。

であるならば、彼らは悪い人でしょうか。


ボクはやっぱり「悪」というものはその人の中にあるとは

思えません。


とするならば、法律というものはどういう意味があるのでしょうか。


それは、

社会的に見て、(神様の視点において)

邪魔な存在であるということです。

彼らみたいな人がいると、

他の人間に迷惑をかけるから、

社会から排除する必要性がある、

ということです。



こう考えると、法律というものは、実は

とても冷静で、人間の感情といった、人間らしさではなく、

とても科学的で、感情などのない、客観的な、経済と似たような(人間を割り切っている)

ものであるといえて、とても恐いと感じます。


これにつけくわえると、最近問題となっている時効ですが、

この時効も

実はこういう視点でつくられているということでした。

どういうことかというと、15年で犯罪者ではなくなるということは、

15年も経てば、もう犯罪をしないであろう、

社会に迷惑をかける存在ではなくなったのだろう、

という判断、ということです。


(対して、アメリカでは、時効というものは存在しなせん。)

もちろん、時効というものは、100%社会に迷惑をかけないことを

保障するものではないので、

上記の理由が、

日本の法が、アメリカの法ではなく、時効を選択する理由にはなっていません。



金銭的な理由などの「つけたし」として成立しているわけです。




とてもおもしろい。




もっとよく考えろ。

どう考えたのか。

感動しちゃえ。

僕達は物語を買うと言われている。


これも前の、枠組みでモノゴトを考える、ということと関係している。


僕達は、いつまでたっても、本当の本当という事実に触れることはできない。

枠組みを持って考えてしまう生き物である。


そして今のマーケティングにおいても、

同じことが言える。



ある商品において、本当はどちらが速いとか、

どこの方が優れているなどといったことは、

実は関係ないことで、

重要なことは、それが、

どこよりも安全な商品である、などといった物語を

「(その人の中で)ホント」であると「信じている」かどうかである。




例えば

街でこういある野菜が売っていたとする。

それが無農薬野菜というものを売りにしている商品があったとする。

でも本当はそれ以外の野菜も無農薬野菜かもしれない。

僕達は事実を知らないかもしれない。


また、もう少し深く考えてみて、

もしも、無農薬野菜かどうかすべて知って、

どこがどれくらい無農薬に対して、対策をしているのか知れば、

僕達は事実を知ったことになるのだろうか。

ボクはそうは思わない。

なぜならば、

重要ないこと(消費者にとって重要なこと)は”安全な食べ物を食べる”

ということであり、

果たして無農薬であれば、

それが最も安全であるかどうかはわからないからである。

つまり、無農薬のことだけを知っても

本当の本当という事実を知ったことにならない。

これを突き詰めていくといつまでたっても

本当の本当はわからないのである。

やはり大事なことは、「消費者がそのことを信じているかどうか」

(この例の場合”ある野菜が安全な食べ物かどうか”を信じているということ)

ということだ。

つまり、マーケターは物語を売っているということ。


消費者が信じる物語=嘘(でもそれは、ホントであって、ウソではない)

わかる?

ボクのトモダチの1人がこんなことを言いました

「俺たちは、だまされながら生きてる」


まったくその通りです。


ブランドや、ニュース、いろんなものの本質が見えなくなっています。

そしてこれは、現代の問題ではなく、人間そのものの問題なのかもしれません。

なぜなら、人間と枠組みを持って、考えるものであるからです。


例えば、昔話を思い出してみると、

ちょっとした障害があるだけで、

変人だのと言われる主人公を

よく見ると思います。



このように、人は枠組みを持って生き、考え、行動します。


もしこうであるならば、

僕達が、だまされながら生きるということは

しかたがないことです。



しかし、

これによって、間違った社会になることは

もったいないことだと思います。



例えば、(そもそもこのことを考えたきっかけになったことだが)

ボクはゼミで、PR会社について学びました。

第3者的な立場のジャーナリストに

とりあげてもらうことによって、商品やサービスを購買させることが

PR(パブリックリレーション)です。

ですが、実際は、「これとりあげてよー」みたいなことがあり、

それによってPR活動が行われている。

それを受けて手ある、消費者の僕達は、

さも、ジャーナリストが注目し取り上げた、といったように

見せられ、それに対して、信頼をしています。

この私たちの特性自体はしかたがないことですが、

ジャーナリズムに反した、PR活動ということは、

問題であると思うのです。



僕達は、人に限らず、いろいろな事象によって

だまされ、枠組みをつくりながら生きています。


しかし、それを利用した倫理に反することは問題であると思います。


うまく総括できないけど、こんなとこ。

インタビューを見ると、

とてもおもしろい現象がある。


日本と海外の違いだ。

日本は淡々と答えるのに対して、

海外は、1人の人がしゃべってるのに、

他の人が、かぶせてでてくる。


主張しなければ、ダメなやつだと思われてしまう、

海外ならではだろう。


文化の違いはおもしろい。





それにしても、こういう現象を

普通に受け入れている僕達もおもしろい。

重要なことは、こういうことを

自然と把握しているということである。


言語化はしないけど、

違いを感じている。


もし日本らしい海外のインタビュー映像があったら

逆に変だと思うんじゃないかなー。

女性専用車両に一言いいたい!


女性専用車というものは

いいと思います。


今の痴漢の問題として、

男は自分を守ることはできない、と

いわれています。

女性に「この人痴漢です」

といわれたら、もう防御の仕様がない。

もし、本当はしていなくても、

社会的には事実となってしまうこともある。


この面でも、女性専用車両は有効である。


つまり、男を守る車両でもあるのだ。

もし、普通車にいたら、

「どうして、女性専用車両いかないのー?」

ってことになるからだ。


表面的には、女性を守る車両だが、

男性を守る車両でもあり、

問題解決を望める。


まとめると、

女性に不利という

unフラットの状態から、

対策ができることによって、

フラットになり、

非道理(問題)が解消される。

(このシーソーのようなイメージの関係でどちらも

問題を抱えているのはなんかおもしろい)



さて、長くなってしまったが、

こういういい点がある反面で、

その代償もでてくる。


ボクは、いつも思うのだが、

いつ、どの車両が、女性専用車両だかわからない。

女性専用車両と書かれている車両にのると

ドキッとする。

「今は大丈夫か?」と


ですから、

女性専用車両が有効なときは、

例えば、女性は男に比べて体が小さいから

ドアをちょっと狭くしておく、

なんてのはどうでしょうか??


アフォーダンスということで。

採用してください。

偶有性とは


AだけどBもありえた状態

可能だけど、必然ではないという状態。


モノゴトの本質ではない性質。

付帯性ともいえるもの


①どうやって考えていたのか??


②原理はなんなのか??


③ブルブルしないと。

刺激的な番組があった。


NHKの教育番組。


はさみと紙を使って、

紙を折って、それをはさみできると、どうなるのか?

ということの授業。


ボクも思わず夢中になって、まるで生徒である。

でもおもしろいのが、

できないできない。

生徒と同じくらいできない。



生徒の意見も真剣に聞いてしまうわけです。



ん~~、どう理解したらいいのか?

どう説明したらいいのか?

難しい・・・。くやしい~~~~!!


で、ボクの最も自分を理解させる回答を。



折ると、ヘコができます。

そのヘコの数+1が回答。

始め端っこがあるので、

ヘコができない部分が、絶対一つできるから+1となるのです。

増えるのは、折り重なるわけですから、

同じ数だけ上に増える。(つまり、2の○○乗ということ)

数式で言えば、

2の(折った数-1)×2+1ということです。



ある生徒の子が言っていた言葉でとても良かった言葉、

「これって指と指の間の”関係”に似ている。」


まさにそうである。

関係(対応関係)とは

ある意味、思考の省略である。


どういう「理屈」であろうが関係なく、

AとBが対応関係のルールがわかると、

Aの変化に対して、Bの変化がおのずとわかる

ということである。


ヒューリスティックスということである。



ボクは「理屈」もわかることのほうがすっきりするけど、

「理屈」を省略した「対応」という考え方が

あることがあって、それを自然と使おうとするところがとてもおもしろい。


世の中には、

Aというものがあれば、

1-Aが存在する


例えば、

ボクは昨日こういう恥ずかしいことをしてしまいました。

そろそろ後輩の就職活動がスタートするということで

相談に乗っていたところ、

「いやー、おまえも○○業界にこいよー」

とか言っていたわけです。

けっこう酔っていて、

なんかのストッパーが消えかけている感じでした。

今そういうことを思い出して、

とても恥ずかしい思いをしているわけです。


ボクは、こういう、

帰属意識というものが

日本的な感覚が

ステータス的な考え方が、

仕事においてはよくないと思っています。

そういうことで、得意気になることは

まったく間違っている、かっこ悪いことだと思っています。

しかし、酔って、頭の中では、

そういうことを自然に思ってしまっていたのです、

後輩になんとも得意気に言っていたのです。

本当にかっこ悪い人間であり、失敗です。



しかし、ここで思うことは、

だからそこ、普段から、

「プロになりたい。関係性には惑わされない」

と思っているということです。



Aということがあれば、

1-Aということも存在する。


本当は心の中で、○○

と思っているからそこ

非○○という心構えが存在する、


このA、1-Aという関係性は、

世の中の多くのことで存在する。

このスイッチのイメージを意識することがとても大事な時があるのです。



他にも、

情報がないという情報ということも

こういうことなわけなのです。




考えろ。

考えることは楽しい。

人間いつか死ぬし。

忘れていく。

考えろ。