みことば100712
弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」(ヨハネ6:8-9)
人の考えでは限界と常識を超えることができません。イエスはこのあとわずかな食糧を五千人に与えられ、みなが満足したのです。世の出来事に心をしめつけられたり、自分ばかり見ている人は、そこから目を離し、神にシフトする必要があります。
人の考えでは限界と常識を超えることができません。イエスはこのあとわずかな食糧を五千人に与えられ、みなが満足したのです。世の出来事に心をしめつけられたり、自分ばかり見ている人は、そこから目を離し、神にシフトする必要があります。
みことば100711
それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(ルカ12:7)
神は私たちのことをすべてご存じです。ですからわからないことは神に聞けばよいのです。今日どのように生きればよいか、明日はどんなことが待っているのか、、すべて神にゆだねればよいのです。心配は神がしてくださります。神に心の内側を支配していただくことがいちばんの平安なのです。
神は私たちのことをすべてご存じです。ですからわからないことは神に聞けばよいのです。今日どのように生きればよいか、明日はどんなことが待っているのか、、すべて神にゆだねればよいのです。心配は神がしてくださります。神に心の内側を支配していただくことがいちばんの平安なのです。
みことば100710
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。(ピリピ3:20)
クリスチャンならだれでも知っていることですが、私たちはこの世を旅する寄留者的存在なのです。この世に永住する気がまったくありません。それゆえに世の名誉や地位に興味がないのです。この肉体にしても世と交流するためにまとっている一時的なものです。大事なのは永遠のいのちであり、天にある国籍なのです。
クリスチャンならだれでも知っていることですが、私たちはこの世を旅する寄留者的存在なのです。この世に永住する気がまったくありません。それゆえに世の名誉や地位に興味がないのです。この肉体にしても世と交流するためにまとっている一時的なものです。大事なのは永遠のいのちであり、天にある国籍なのです。
みことば100709
するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9:62)
イエスに従ってゆくことに対して迷いを持ち続けることはあってはなりません。その人は前にも後ろにも進めなくなります。イエスに従い歩むというのは、悩みぬいて決めるような事柄ではなく、よろこんでついてゆくべきことなのです。それは自然にわいてくる思いがそうさせるものなのです。
イエスに従ってゆくことに対して迷いを持ち続けることはあってはなりません。その人は前にも後ろにも進めなくなります。イエスに従い歩むというのは、悩みぬいて決めるような事柄ではなく、よろこんでついてゆくべきことなのです。それは自然にわいてくる思いがそうさせるものなのです。
みことば100708
アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』(ルカ16:31)
私たちが神と出会うためには周囲の祈りが必要です。なぜなら神は祈りを聞いてくださるからです。出会った後、人は聖書と聖徒の導きによってさらに信仰を深めてゆきます。しかしながら神の存在を認めていたとしても、すなおな耳、純朴な心を持ち続けていなければ、無念にも道は閉ざされてしまうのです。
私たちが神と出会うためには周囲の祈りが必要です。なぜなら神は祈りを聞いてくださるからです。出会った後、人は聖書と聖徒の導きによってさらに信仰を深めてゆきます。しかしながら神の存在を認めていたとしても、すなおな耳、純朴な心を持ち続けていなければ、無念にも道は閉ざされてしまうのです。
みことば100707
からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。(ルカ11:34)
目はその人のコンディションを現します。それは精神的なもの、肉体的なものだけでなく、霊的なコンディションをも現すのです。日々みことばのエッセンスを自然なかたちで適用させながら生きている人の目はとてもすがすがしいものです。まるで目がイエスを語るかのようです。
みことば100706
また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。彼らのしていることはみな、人に見せるためです。(マタイ23:4-5)
私たちは人の目を意識するのではなくて、神の目にかなったふるまいをするべきです。もちろん、常に神の目を意識するのではなく、日々みことばにふれていると、自然にそのような生き方になるものです。それはむしろきっちりしずぎることのない楽な生き方なのです。
私たちは人の目を意識するのではなくて、神の目にかなったふるまいをするべきです。もちろん、常に神の目を意識するのではなく、日々みことばにふれていると、自然にそのような生き方になるものです。それはむしろきっちりしずぎることのない楽な生き方なのです。
みことば100705
この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。(マタイ24:35)
目に見えるものは限りがあり、それはやがて滅びます。天地でさえいずれ滅びるのです。けれども神のことばは滅んだりしません。なぜなら神はことばだからです。私たちは神のすがたを見たことはありませんが、みことばによって神の中に生き、またみことばによって神は私たちの中に住まわってくださっているのです。
目に見えるものは限りがあり、それはやがて滅びます。天地でさえいずれ滅びるのです。けれども神のことばは滅んだりしません。なぜなら神はことばだからです。私たちは神のすがたを見たことはありませんが、みことばによって神の中に生き、またみことばによって神は私たちの中に住まわってくださっているのです。
みことば100704
しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」(ヨハネ4:32)
イエスが言われた食物とは天の父のみこころを行うことでした。食物や食事はどちらかというと得る行為としてのイメージがありますが、イエスは与える行為を食物であると言われました。つまりイエスにとっては神がよろこばれることこそが自分にとってとても大切な食物、すなわち満たしであると語られたのです。
みことば100703
まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。(マタイ13:17)
イエスを知り、イエスの愛につつまれる日々。私たちがすごしているこの毎日は、信仰の先輩たちが切に求めたものでした。彼らは救世主が来ることを来る日も来る日も祈りました。私たちはこの日常に感謝し、イエスを伝えてゆく立場にあるのです。