みことば100722
それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」(ルカ22:19)
イエスがこのパンは自分であると語られましたが、それはほんとうです。もちろんそのパン自体をさすのではなく、イエスはみなのために食べていただくための存在であるということです。イエスを毎日の食事のように咀嚼し、またからだが裂かれたことが悲しいことではなくいのちを増殖する手段であったことをおぼえるのです。
みことば100721
しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」(マタイ19:14)
祈ってもらうために連れて来られた子どもたちをイエスは快く受け入れられました。私たちも子どものように無邪気にイエスのもとに歩みよるべきなのです。イエスはいつでも快く受け入れてくださいます。イエスは天のようすをこの世に現されたのです。
みことば100720
忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。(マタイ23:15)
信仰は宗教ではありません。宗教は人が作ったものであり、人を崇めようとする組織です。私たちは目に見えないかたちの教会の一員ですから、人に支配されることはありません。自由の身であることが原則なのです。
信仰は宗教ではありません。宗教は人が作ったものであり、人を崇めようとする組織です。私たちは目に見えないかたちの教会の一員ですから、人に支配されることはありません。自由の身であることが原則なのです。
みことば100719
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:10)
祈り求めることは決してむだにはなりません。神はすべての人の神であり、すべてのクリスチャンの父ですから、私たちはただゆだね、思うままに求めるべきなのです。生きている限り、必要は生じるわけですから、常に祈ることは怠ってはなりません。ただし無理をせず、ごく自然に会話を求めるように親しみを持って。
祈り求めることは決してむだにはなりません。神はすべての人の神であり、すべてのクリスチャンの父ですから、私たちはただゆだね、思うままに求めるべきなのです。生きている限り、必要は生じるわけですから、常に祈ることは怠ってはなりません。ただし無理をせず、ごく自然に会話を求めるように親しみを持って。
みことば100718
自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。(マタイ5:46)
愛してくれるから愛し返すのは神の方法ではありません。神は私たちクリスチャンに対し、神と同じような愛し方をするようにと求められます。しかし神はできるできないは求められません。「こうしなさい」「はい」という呼応が大事なのです。できないことは神が手をのばしてくださるのです。
愛してくれるから愛し返すのは神の方法ではありません。神は私たちクリスチャンに対し、神と同じような愛し方をするようにと求められます。しかし神はできるできないは求められません。「こうしなさい」「はい」という呼応が大事なのです。できないことは神が手をのばしてくださるのです。
みことば100717
すると、その地の人々は、イエスと気がついて、付近の地域にくまなく知らせ、病人という病人をみな、みもとに連れて来た。そして、せめて彼らに、着物のふさにでもさわらせてやってくださいと、イエスにお願いした。そして、さわった人々はみな、いやされた。(マタイ14:35-36)
イエスにふれることによって病気がいやされるというのは、決して空想話ではありません。近代もイエスによるいやしは続いています。それを信じ、受け入れるかどうか、そこに差が現れます。
イエスにふれることによって病気がいやされるというのは、決して空想話ではありません。近代もイエスによるいやしは続いています。それを信じ、受け入れるかどうか、そこに差が現れます。
みことば100716
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13:35)
愛というのは非常に奥の深いことばです。現実の世では、人を愛(いと)しく感じる感情を中心にとりあつかわれることが多いわけですが、実はそれは本来の愛から派生したほんの一部にすぎません。愛とは神を知るためにある機能の最上部に位置します。まことに尊い領域なのです。
愛というのは非常に奥の深いことばです。現実の世では、人を愛(いと)しく感じる感情を中心にとりあつかわれることが多いわけですが、実はそれは本来の愛から派生したほんの一部にすぎません。愛とは神を知るためにある機能の最上部に位置します。まことに尊い領域なのです。
みことば100715
イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」(ルカ8:25)
信仰とは信じる力のことではありません。力は神からくるもので、どちらかというと従うことが信仰の中心といえるでしょう。神に従うとき、神は私たちを通して大きな力、奇蹟、いやしなどを現されるのです。
信仰とは信じる力のことではありません。力は神からくるもので、どちらかというと従うことが信仰の中心といえるでしょう。神に従うとき、神は私たちを通して大きな力、奇蹟、いやしなどを現されるのです。
みことば100714
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:14)
まったくそのとおりです。いのちに至る門はかぎりなく小さかったです。小さいというより、目には見えないものだったというのが正直なところです。特に自分で努力した記憶もありませんし、門にたどりついた理由もわかりません。ひたすら叫び求めただけだなのです。今思えば、ことあるごとに伯母からイエス・キリストを求めなさいとしつこく言われつづけていたことがほんとうに幸いでした。
まったくそのとおりです。いのちに至る門はかぎりなく小さかったです。小さいというより、目には見えないものだったというのが正直なところです。特に自分で努力した記憶もありませんし、門にたどりついた理由もわかりません。ひたすら叫び求めただけだなのです。今思えば、ことあるごとに伯母からイエス・キリストを求めなさいとしつこく言われつづけていたことがほんとうに幸いでした。
みことば100713
彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。(マタイ1:20)
新約聖書の最初に登場するのがマタイの福音書である理由は、イエスの誕生について克明に書かれてあるからでしょう。イエスは聖霊によって人の胎に宿られたのです。これが新約を理解するうえでのキーワードです。
新約聖書の最初に登場するのがマタイの福音書である理由は、イエスの誕生について克明に書かれてあるからでしょう。イエスは聖霊によって人の胎に宿られたのです。これが新約を理解するうえでのキーワードです。