みことば090323
イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。(ルカ23:46)
最後までイエスは天の父と一体でした。私たちはいつか天の父とこのような関係になれるようにと願っています。今はイエスと一体になり、すべてをイエスにゆだねる毎日です。イエスが私たちのすべてをにぎっています。目の前に、そして心の中にイエスを感じながら、日々生きてゆきましょう。
みことば090322
それから、七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。(マルコ8:6)イエスはご自分が人間としては無力であることを表しました。天の父の力なくしてはわざをなしえないことを前置きしたうえで、感謝をささげたのです。現実が乏しかったとしてもそれを見すぎることなく、天の父に目と心を向けましょう。父は常に豊かなのですから。
みことば090321
食事をするのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。金銭はすべての必要に応じる。(伝道者10:19)
ソロモンは類まれなる知恵の持ち主であり、人生をとことん楽しんだ王です。私たちはソロモンほどではありませんが、世を楽しむのが大好きです。ソロモンの生き方をうらやましく思ったりもします。けれども私たちが学ぶ必要があるのは彼の知恵でも生き方でもなく、自分のことを愚かだと悟ったところです。
みことば090320
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。(黙示録19:7)
あの人はここがきらい、この人はここがちょっと・・というように人に完璧を求めるのは不可能なのです。たがいにゆずりあいながらおつき合いするのがふつうです。すべてを理解してくれて、こちらも理解できる完璧なお方はイエスだけです。究極の婚姻の相手はイエスをおいてほかにはいないのです。
みことば090319
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。(ヨハネ15:9)
地上のすべての愛は神からくるものです。神の愛はすべてイエスを通して明らかにされます。イエスの語る愛は聖書で受けることができ、その愛は今、イエスを信じた者から次々に伝えられつつあります。神の愛は人間のそれとはちがって無償の愛です。求めるならばすべての人に与えられるのです。
みことば090318
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。(使徒3:6-7)
困っている人に施しをする場合、自分ひとりではたくさんの人をまかなうことはできません。イエスが五千人を満腹させたようにはいきません。となればイエスを配ればよいのです。イエスが代わりにみなを満たしてくださいます。
みことば090317
ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。(ルカ14:34)
せっかく信仰を身につけて、神に仕えながら生きてきたのに、ちょっとした出来事でイエスから遠ざかる人がいます。塩けという味つけはイエスのみがなせるわざですから、今一度聖書を手にとり、イエスとともに祈りの座についてみましょう。するとまたたくまに塩けの回復がなされます。
みことば090316
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(2コリ4:18)
現実世界は時間軸の中で、私たちに向けてさまざまな出来事をぶつけてきます。目に見えるものはとかく気になるものですが、もっと大事なものは目に見えないものです。見えないものを見えるようにしてくださるのがイエスです。イエスは私たちの霊の目なのです。
みことば090315
それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。(マタイ6:22-23)目はその人の全身状態を現します。どんなに前向きにふるまってみても、ほんとうの気持ちは目に現れますから目を見ればわかります。同じように信仰のコンディションが弱っているときはイエスの名を呼ぶ回数が減るのでわかります。かならずどこかに現れるものなのです。
みことば090314
わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」(ヨハネ16:28)
これはイエスがご自身のことを語った一節ですが、私たちのことでもあります。私たちは母の胎から生まれましたが、イエスに出会った瞬間、天の父から生まれた存在になりました。世を去ってからの行く末も、同じく父のおられるところです。イエスによってイエスのような存在に変えていただいたのです。