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夢は小説家ですと本気で宣ふブログ

文章の世界に魅入られた小娘が、妄想を書籍化しようと奮闘する日記。

 昨日、会話のなかで私の姉はシスコンの節があるという話をした。
 姉は私を可愛がるのが好きなのだ。世話を焼いてくれたりプレゼントを買ってくれたり、姉の気持ちや許される資産のなかで私のことを可愛がってくれている。
 シスコンの姉に対する妹の姿勢というものがあって、姉の愛着心を受け入れ、そのうえで上手に甘えてみせて、関係を良好に保つというものがある。

 そんなことを話していたら、「気持ちが悪い関係だ」といわれた。

 最初、返された言葉の鋭さに気をとられて意味合いが掴めなかった。美しき姉妹愛を「羨ましいね」やら、「いいなぁ。私、お姉ちゃんいないからさ」などの羨望の気持ちで受け入れられることはあっても拒絶されることはなかった。頭の中で言われた言葉を整理する。気持ちが悪いとは、「きみがわるい。不快な」という意味合いを持つ言葉だ。受け入れ難いというのか? 姉妹同士の関係性が。
 だがしかし生まれ落ちた瞬間に姉がいて、母や父に可愛がられるように姉に可愛がられ、どのタイミングで関係を拗らせるいうのだろうか。そんなものは後付けだ。拗れたとしたら、個が意思を持ち始め、自分と他の様々な関係に理由や意味を築き始めてからだ。物ごころつく前からの感情に対して、後付けで自分が関係性を変えることはなにぶんおかしな気がした。
 姉妹というものは同じ腹から生まれ、どこかしらの遺伝子の共通点があり、長いこと暮らしているせいか大概の事を許せてしまうような、やはり赤の他人とは違うのだなと思う存在だ。その身内からの愛情に嫌悪感を抱くというのは、つまりは一転して自分の存在意義を問うようなものになるのではないかとすら思ってしまった。もしくは、いき過ぎた自己愛からの身内すら拒絶するほどの引き篭もり体質なのだろうか。
 いき過ぎたシスコンは気持ちが悪いのではなく、私は狂愛とよびたい。狂おしいほど愛おしいのだ。
 様々な思想があり見解がある。放たれた言葉に傷つくこともあるが、受け入れるだけの容量はある。なにもその人の考えを否定したいということじゃない。
 ただ私は、シスターコンプレックスも美しき姉妹愛と感じるねって主張したかっただけだ。
 twitterで日本語を愛したくなるコピーというタグがあって、フォロワーさんがリツイートしてくれたおかげで見ることができた話がある。

 花が散りゆく様子を表す言葉だ。

 桜は「散る」
 
 梅は「こぼれる」

 菊は「舞う」

 朝顔は「しぼむ」

 牡丹は「崩れる」

 椿は「落ちる」

 日本語には和歌の文化があって、花はよく詠まれる対象であった。
 美しい日本語として感銘を受け、今もこうして残っているのだと思うと感慨深い。

 「牡丹の花が散った」と書くことが間違いなわけではない。
 でも、もし牡丹が崩れるという名詞と動詞を知っているのならば、こう書きたい。

 「牡丹の花が崩れた。大き過ぎる花は形を保っていられないのだ。親鳥から巣立つ雛鳥のようにそれぞれの大地を目指す」
 花の散りゆく様子を人の心情に重ねてみたりして「人から良くみられたいという欺瞞の心が肥大して形を保てなくなった。牡丹の花が崩れるように、私への評価は地に落ちた」とか書いてみても面白い。
 巧い文章というのは先代の美しい日本語を引用させて頂いて雰囲気を醸し出しているのかもしれない。

「檻に12年」の犬が芝生初体験、米保護団体が“繁殖犬の現実”紹介。

 ペットについて書いた日に、こんなニュースをみつける。

 現実はいつだって残酷だ。
 商用目的となると世の中にモラルの概念はなくなるのか。

 みんながペットショップでであう可愛い動物たちの出生は、もしかしたらこうなのかもしれないよ?

 無知は罪だと人はいう。
 
 そもそも繁殖犬ってなんなん。人間のエゴって本当に怖い。12年間、46センチの檻の中で子を産み続けるってなんなん。人間と犬は違うから、その犬のことを人間に置き換えて考えることは違うって分かっている。でも、動物だってカテゴリーでいったら同じだからな。植物とか動物とか、そういう仕分け方で考えたら同じだからな。

 ほんとうに、世の中は見えている世界だけじゃないんだなって思い知らされた。裏の顔がある。

 悪いことをしている人がいますと大声で叫んで賛同してくれる人もいるだろうし、見て見ぬふりをする人もいるし、そうは言ってもと言葉を濁す人もいる。すべての人の心を入れ替えることなんてできないけれど、物事の本質に触れたとき自分のモラルを大切にしていきたい。
 もう軽い気持ちでペットショップのペットを見ることはできないだろうな。でも、知るってそういうこと。現実はすべてが真実だから、残酷だから仕方ないこと。
 せめて今日感じた軽蔑する気持ちを忘れないように。子どもが出来たときに「犬飼いたい」といわれたら家の近くで産まれた子犬がいないか探すような大人になれるように、今日の気持ちを覚えておく。
 先々週、書いたのはストーカーの話でしたが今度はペットの話を書こうと思っています。最近お気に入りの文章の組み立て方で、エピソードとか場面から話を作り込んでいくのではなくて溶け込ませたいメッセージ性とかロジックに物語をはめ込んでいくんです。

 ペットというものを可愛がる人間の心理はどこにあるのだろう。動物に首輪をつけて、餌を与えて、可愛がって犬もきっと人間が好きだと思っている。動物の言葉は分からないのに。自分が絶対の主なのがいいのか? 犬は人間の可愛がりたいという欲求を満たしてくれる愛くるしい魔性の生き物なのか? ペットを飼っているというよりは、人間が自分の生活の一部に犬を取り込んでいるような雰囲気がある。犬のために餌を用意して、散歩に行って、ときには玩具で遊んであげて、大概は犬からのおねだりではなく人間からの発信のような気がしてならない。
 犬は従順で人の言う事をよく聞くとはどういった了見だ。人間のほうがよっぽど犬に対して従順なんじゃないか? お犬様。生類憐みの令。
 ああ、それにしたって犬は可愛い。「犬 可愛い」でグーグル画像検索してみろ? 心の中にあるもやもやしたストレスが霧散して愛しさが込み上げるぞ。

 まだ第一章の話が考え終わった段階で、ラストの台詞は決まっていますがプロットも曖昧です。書き終わるのに何日くらいかかるか分かりません。そして、これも投稿用ではなく練習用なのです。ここには公開しませんが。
 仕事に結構いっているので一向に進まないです。作業しながらは頭ん中を物凄いスピードで構想が駆け巡っていくので仕事が邪魔になっているということはないのですが、文章書いているのが至高過ぎてちょっと出勤する時の後ろ髪ひかれる感じが。

 私ちょっと変になってしまった人間書くのたぶん得意なんだな。そういう方面の文章を書いていくとか宣言して制限するつもりもないけれど、たぶん得意です。好きです。
 歌といっても俳句です。

 大学生の時に俳句を習いました。といっても、「5・7・5」にあわせて言葉を区切るだけの俳句でした。字余りや字足らずもあまり気にせず好き勝手詠んでは俳句というものを身近に感じたのです。

 というわけで、鯉のぼりをテーマに俳句をよみます!


 嫡男や
 お前(おめ)に与える
 錦鯉


 五月晴れ
 似たもの親子が
 ほうけ口


 朝から考えて、できあがったのはこの2つでした。
 あとは恋と鯉をかけて「コイ浮かぶ」という下の句を考えていたのですが、うまく上の句が浮かばなかったです。
 俳句という17音の中にも風景やメッセージを込めることができます。

 俳句もまた。完成された表現方法のひとつなのです。