朝、ホテルを出て交差点を進んで【総曲輪通り商店街】(そうがわ)に行ったら……。
《わ~っ!》と叫んでしまった。
しばし現実を忘れて富山で遊んでいたら、素敵な君が微笑んでいたのです。
ぼーっと、見つめましたね~。
《魅力ある若者だと思いながら…》
富山市中心市街地で「第69回全日本チンドンコンクール」が開催されていた。
運良く、「チンドン屋さんにお目にかかれたので嬉しかった!」
「全日本チンドンコンクール」は、
空襲で焼け野原になった町の復興を願い人々に明るさを取り戻そうと、昭和30年に始まった様です。
幼い頃、たった一度《雪》が舞っている時に、住んでいる社宅の周りで「チンドン屋さん」が賑やかに「ちんちんドンドン」と歌を歌いながら、明るい着物姿で踊っていたのをうっすらと覚えている。
その頃は「父の会社も上昇期であり、会社からの家族へのご褒美だったのかも知れない」
たった一回の思い出だった。
その後東京に来て、目黒駅前で暫くぶりに≪ちんちんドンドン≫という音楽が耳に入り、みれば確かにチンドン屋さん達であったが、余りにも現実すぎた衣装を着ていたので気持ちが萎えた。
その当時は【パチンコ業界】の開店の呼び込みのチンドン屋さんが殆どだった。
今回は違った!
【昔のチンドン屋さんの姿、衣装その儘で何とも言えない笑顔と【古き良き時代の歌謡曲】に気持ちが吸い込まれた。
歌は「フランク永井さんの君恋し」。
来ている衣装は皆さん「真新しい着物」だった。
なにもかもが懐かしくなり、頭の中をかき回され夢中になった。
一心不乱とはこういう事、気がつけば「頭の中」がすっからからん、煩わしい問題もすっかり消えてただ楽しかった。
『お母さん、そんなに楽しいの?富山へ案内して良かった~。お母さんの喜ぶ顔が見えてー』
チンドンコンクールのこと調べてみると、街お越しのために富山市が始めたみたい。
プロの部と素人の部でコンクールしてるそうだ。うまい人たちはプロなんだね。
食べていけてるのがすごい。需要あるんだね。
富山産業大博覧会を終え、一時的に消費が冷え込んだ地元商店街の活性化と、
観光客を招くため富山の宣伝を企図して、
富山市と富山商工会議所が主催の「桜まつり」の催しとして始まり、
42のチンドン屋が参加、平日昼間に行われたパレードには8万人が集まったようである。
「全日本チンドンコンクール」の記録では、1955年の第1回に42団体が参加、
以後団体数は50前後を推移するが1972年から下降を始め、1981年には18団体まで減少する。
その一方で、素人チンドンコンクールも始まり、そこからプロのチンドンマンに転進する者もみられ、その後プロ部門では28組前後の団体が出場している。
「全日本チンドンコンクール」は、富山に春の訪れを告げる行事として知られ、今年で69回目だったとの事。
新型コロナウイルスの感染拡大の影響で中止されていたが、今年4年ぶりに開催され、
8日、富山市の県民会館で開かれた予選会には、全国から集まった28チーム84人が参加しているそうだった。
チンドン屋になるには、化粧がうまくなければいけないというのを感じます。
また生活感が感じられない風貌も必要です。
気持が引き寄せられる、とても綺麗な娘さんでした。
「飴売り」が滑稽な格好をして、落語の寄席の口上を真似て飴を売っていたのが始まりとされる。
その後、人目を引く派手な衣装を身にまとった「広告宣伝業」へと役割を変え、
最盛期の昭和20~30年代には全国に2500人いたそうですが、テレビ、ラジオの普及とともに衰退、現在ではチンドン屋で「生計を立てている」のは全国で50~60人程だそうです。
心の底から「笑い」遠い昔を思い出しながら、♪君恋し!♪を口遊だ。
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富山駅前で、この様な催しもありました。
つきたての【お餅】が投げられて、拾う事ができました。
柔らかな美味しいお餅でした。
越中富山の薬売りの親子像
≪置き薬の発祥≫
富山十万石の二代目藩主・前田正甫は、質実剛健を尊び自らも、くすりの調合を行うという名君でした。
元禄3年(1690年)正甫公が参勤で江戸城に登城したおり、福島の岩代三春城主・秋田河内守が腹痛を起こし、苦しむのを見て、印籠から「反魂丹=はんごんたん」を取り出して飲ませたところ、たちまち平癒した。
この光景を目の当たりにした諸国の藩主たちは、その薬効に驚き、
各自の領内で「反魂丹」を売り広めてくれるよう正甫公に頼みました。
この事件が「おきぐすり」(配置販売業)の発祥とされています。
反魂丹=江戸時代に製造が始まった、富山を代表する薬。
動・植物性の生薬を効果的に組み合わせて作られており、
現代人のストレスからくる胃腸障害、 食べ過ぎ飲み過ぎによる各症状、
消化不良などにすぐれた効果を発揮する。
「お父さんとの姿」です」
≪先用後利≫
富山十万石の二代目藩主・前田正甫の「用を先に利を後にせよ」という精神から生まれた
「おきぐすりの先用後利」販売システムは、当時としてはかなり画期的な商法でした。
山河を越えて行く道中には山賊や盗賊の危険もあるでしょう。
宿泊費や交通費も馬鹿になりません。
しかも、たどり着いた旅先で必ずくすりを買ってくれるという保証もありません。
言葉や習慣の違いも当然あります。
利益を得るために長い年月がかかり、資金の回転も困難です。
こうした悪条件だらけの中、不安や迷いを断ち切ってスタートしたのですから、
しっかりとした「商いの理念」がバックボーンとしてあったに違いありません。
江戸時代から第二次世界大戦の頃まで、薬売りたちは、そのほとんどが真宗信者で、
懐や行李の底に小さな仏像を納めて、全国を歩き回っていました。
「仏が照らしてくださる。見ていてくださる。聞いてくださる。決してひとりぼっちじゃない」
と、心に念じることで、苦が苦にならず、死をも恐れない強い精神を作っていました。
同時に、背中に仏を意識することで「仏の願いにしたがって顧客にくすりのご利益を与える。」
顧客は病気が治るというご利益に対して感謝の気持ちとして代金を支払う。
それがくすりを与えた者に利益となって返ってくると考えていました。
こうした商法は、顧客との間に「互いに利を分かち合う真心と感謝の結びつき」を
より強固なものにし、人間関係が永続するという効果 をもたらしました。
何方にも「お馴染みの薬」だと思います。
何故か?懐かしい感じが致しました。
≪信用三本柱≫
「一代限りと思うな。孫の代まで続けるという心がけで、真心をこめて対応し、誠を尽くそう」
くすり売りの間で、親から子へ、子から孫へ、代々語り継がれてきた言葉だそうですが、
これを実践するために打ち出されたのが「信用三本柱」なのだそうです。
三本柱とは「商いの信用」、「くすりの信用」、そしてもうひとつが「人の信用」。
「商いの信用」の基本は、
顧客との間にトラブルを起こさず、不正な商いをしないということです。
一円の勘定も誤りなく正確に取引することで信頼関係が生まれます。
「くすりの信用」は、有効で安全な品質の高いくすりを提供すること。
そのために、絶えず顧客の求めるくすりをリサーチし、品質開発に努めなければなりません。
「人の信用」はもっとも重視されました。
顧客の悩み相談に乗って、適切なアドバイスを行ったり、励ましたりすることで信頼関係が作られています。
「くすりを売るのではなく、人間を売れ。顧客は人間を見てくすりの信用、イメージをつくる」
という考え方が、人材開発を促し、くすりの量産化につながり、販売の拡大をもたらしたのだと言う教えです。
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娘に誘われて重い腰をあげ「富山」にお寿司を食べに来ました。
富山湾で獲れるお魚も美味しかったですが、何よりも「心の整理、精神的な疲れ」を一番に取り除かれた事は、【笑い転げた「チンドン屋さん」との出会いでした】
薬を飲むよりも、アルコールで誤魔化す事よりも、自然と笑みが出て共に口ずさむ懐かしい「歌謡曲」にも助けられました。
実に楽しかった二日間の遊びでしたが、ソロソロ富山ともお別れの時間が来ました。
お昼を エクセルホテル東急 でランチを食べました。
何時も、旅の最後の食事はステーキで〆ます。
眺めながら、誘って連れ出してくれた娘達に感謝です。
遊びの中に「学ぶ」とか「知る」又は「忘れていた事を再認識」出来た事も喜びです。
帰りの車窓からも【立山連峰】を飽くなき眺めました。
{もう、眺める事は無いだろうなー}と心の中で呟きつつ…。
「東京駅」に着き、暫く時間を潰しました。
現実にもどりました。
富山とは「異なる」ここ東京駅にも「良さがあるのです」
富山で
【仏が照らしてくださる。見ていてくださる。聞いてくださる…】
この教えは、私も何時も心に閉まっているのです。
物事を正直に真面目に対処していれば、
【お天道様が見て下さっている。困った時には御仏が必ず助けて下さる。隠れている味方が手を差し伸べて下さる】
その信念で辛抱しながら生き抜いて来たのです。
富山市は、広く大きな市街地でとても「静かで安らぎのある処だと印象に残りました」
到底真似は出来ませんが「チンドン屋さん」の動きが、私の心の中に潜んでいるのを感じ心底親しみを持ちました。
楽しかったです。
お付き合い有難うございました。