第6章
第91話
「涼しぃ~!」
「世は真夏でムシムシなのに嘘みたい!」
爽やかで新鮮な高原の空気。クーラーのように、ひんやりとしたそよ風が頬を撫でる。
オーケストラの10日間の夏合宿。メンバーが次々と志賀高原、合宿先のホテル入りをする。
乗り合いの車で来たり、長野駅まで電車で来て、そこから志賀高原までバスで来たり。僕は水野の車に乗り合い。隆と、隆の彼女の里奈ちゃんとの4人。
午後2時半。予定通りの時刻にホテルに着いた。僕らの車が着いてまもなく、トラック隊の車が到着する。
「お~い正。ちょっと力を貸してくれ」
「ああ、いいよ」
2トンロングの箱型トラックには、ティンパニーやバスドラム、シロホン、グロッケンなどのパーカッション類。そして、コントラバスなどが積まれている。
数人で、楽器に傷やダメージを与えないよう、ゆっくり降ろして、ホテル内に搬入していく。
「正せんぱ~い!」
どうやらこずえちゃんの乗り合いしてきた車が到着したようだ。日光の観光で一緒だった、仲良しのフルートの紀香ちゃんと、チェロの夕子ちゃんと。
「正先輩。重いですから腰抜かさないでくださいよ」
「普段あまり使っていないでしょうから」
ホテルに着くなりのこずえちゃんの第一声。
「大丈夫。腰は普段からバンバン使っているよ」
「あら、いやらしい。レディに向かってのっけからその返事ですか?」
「こずえちゃんが誘導したんじゃない」
僕はこずえちゃんを無視する。
「あら、正先輩。これ見てください」
こずえちゃんが、未開封のポテチの袋を見て驚く。
「ポテトチップスの袋、膨れてパンパンです」
「気圧のせいだよ。袋の中の空気が膨張してるんだ」
「気圧はその空気塊の外側を逆にあらゆる方向から押す力。その力と空気塊の気圧とのバランスがとれたところで空気の体積が保たれる」
「だから周りの大気圧が下がると袋の中の空気塊の気圧の方が大きくなり体積が膨張する」
隆がこずえちゃんに説明する。
「わあ~。さすが物知りですね。隆先輩」
「ほら、だから水野のお腹もパンパンだよ。見てみて」
隆が言う。
「違う違う。俺は、単にデブ」
水野が言うと皆んなで笑う。
「正先輩のアソコも膨れて……」
「こずえちゃん。そんなこと考えているより合宿係でしょ?」
僕はトラックから楽器を降ろしながらこずえちゃんに声をかける。
「はいっ!」
「お仕事だよ、お仕事」
こずえちゃんは、何だか意味不に昔流行った歌謡曲を口ずさみ、ホテルに入っていく。先に来ていた合宿係のみどりちゃんが、到着したメンバーをチェックしている。
「正さん、隆さん、里奈さんいますね」
「体調に変化はありませんか?」
合宿係は3年生1人と2年生2人、1年生2人で、3年生のみどりちゃんは去年の合宿係リーダー。新米係りの指導役。1年生はこずえちゃんと、仲良しの夕子ちゃん。
「みどり先輩、私代わります」
こずえちゃんがホテルを出て来た。
「うん。お願い」
「私は会計係の方にいくね」
今度は、みどりちゃんがホテルの中へ入って行く。
「ホテル入りするメンバーのチェック。どうしてですかね?」
「名簿を印刷しておいて、自分で記入するようにしたらいいのに……」
こずえちゃんがつぶやく。
「これね、来たメンバーが元気かどうか、健康チェックまではいかないけど、少なくとも疲れすぎたりしていないか、病的じゃないか、合宿係が目で確かめる意味があるんだよ」
「なるほどですね」
「私は正先輩の男のナニが疲れていないか、手で確かめます」
「はいはい」
「じゃあ、僕は中に行くからね」
「それ、嫌です。何か中でやる事あるんですか?」
「ああ。5日目に、名古屋で開催される植物色素の研究会で口頭発表しなけりゃならないんだ。しかも英語だよ」
「だから、合宿中も練習時間以外は、なるべく発表のおさらいして、頭に原稿焼き付けておかなきゃ」
「こんな素敵な天国のような高原の園に来たんですよ?」
「下界の事は皆んな忘れて、私と一緒にメンバーチェックしましょうよ」
「貧乳生なら皆わかりますけど、OB、OGの方々は、私、知らない人もいますし……」
「はいはい、分かった。こずえちゃんに付き合うよ」
僕は少し離れたテラスにある白い木製の椅子に腰掛け、のんびりとこずえちゃんのサポートをすることにした。
「はい。トランペットの太田さんですね」
1年生の太田くん。こずえちゃんを見て恥ずかしげ。
「太田くんさ、きっとこずえちゃんに気があるよ~」
僕が少し離れたところから声をかける。高原の乾いた空気では声がよく通る。
「はいっ。知ってま~す!」
「あと、同じバイオリンの谷崎くんがこずえを好いております」
「やれやれ。こずえちゃんのファンは多いんだから、そろそろマトを絞れば」
「正先輩に敵うヤツはおりません」
「腰もバンバン元気だし、アソコもパンパン」
「あのさ……。弱ったな……」
「まあいいや」
どんどんとメンバーが集まってくる。
「はい。合宿費はホテルに入ってすぐのところで集めています。荷物はそのままお部屋にお持ちください」
こずえちゃん。接客みたいのが上手。
教育学部。さすが先生の卵だけある。
「そうだ。正せんぱ~い。ホテル代払いました?」
「まだだよ。荷物も車の中のまま」
「こずえちゃんが僕のこと縛っているじゃない」
「お金が無いんじゃありません?」
「失礼な。あるよ」
「じゃあそろそろ僕、中で出してくるね」
「イヤっ、いやらしい。いきなり中出しですか? やっぱり……、後でいいです」
「はい。谷崎くんですね」
谷崎くんも、太田くん同様、こずえちゃんを見て恥ずかしそう。
「どうしました? 腰が痛そうですよ?」
「長時間、電車やバスに乗っていたから……」
「ダメです! 男の子は、腰はバンバンじゃないといけません」
「ねえ、正先輩」
「えっ? 正先輩。 どこ?」
谷崎君が僕を探す。
「アソコで勃っているのが正先輩です」
こずえちゃんが、満面の笑みでテラスにいる僕の方を振り返る。
ピンポーン。
僕の携帯からLINEの着信音が鳴る。
『どう? 無事着いた? 志賀高原』
こずえちゃんが僕に近ずいてくる。
「誰からですか?」
「恵ちゃんだよ」
「あらあら。遠くまで来ても身も心も縛ってしまって。まるで貧困の奥さんみたいですね」
「こずえは、即バックされるのは嫌いです」
「単なる普通の彼女からのありきたりな連絡でしょ?」
そう僕が言うと、こずえちゃんはニヤリと微笑む。
「ここでは、恵先輩をひとまずおいといてアバンチュールしましょうよ」
「何で、ここでこずえちゃんと火遊びしなきゃいけないの?」
「あら? 私、そのつもりで来ました」
「そのつもりか、あのつもりか、このつもりか知らないけど、僕にその気は全く無いからね」
「大丈夫。毎日同じ釜の飯を食い、同じフワフワの布団で眠る。狭い部屋でしょうから、体位変になるかもしれないけど……」
「何も大変なことないよ。何より男子部屋、女子部屋、別々でしょ」
「爽やかな高原の空気と、夜には満天の星空」
「舞台はもう出来ています。正先輩、必ず落としてみせます」
こずえちゃんが、ポニーテールにしていた髪をサッとほどき、顔を斜め向きにして魅せ、そしてウインクをする。
フフフ……。僕は苦笑い。確かに可愛い……。
「こっ、こずえちゃん。面白いね」
「確かに、手玉に取られる男もいそうだ」
「金玉取られる男はいます。ほ~ら。落ち始めたでしょ?」
「過去にこれで何人泣いたか」
「こずえちゃん」
「はい」
みどりちゃんがホテルから出てくる。
「だいたいメンバーが揃って来たから、夕子ちゃんと、館内放送の方に回ってくれる?」
「後は私がやるから」
「はい!」
「さてさて。僕も部屋に入るとするよ」
「先輩。無銭宿泊はいけませんよ」
「はいはい」
「こずえちゃん。これ、放送の原稿用紙があるから」
みどりちゃんが、こずえちゃんに原稿を渡す。
「放送器具の使い方は、ホテルの従業員の人に聞いてね」
「はい」
ーーーーー
『あ~。テス、テス、テス』
『本日は晴天なり』
『It’s a sunny day』
『これは、その日が晴天じゃなくてもマイクをテストする決まり文句です』
マイクの電源を切る。
「こずえちゃん。紙に書いていないことは言わないほうがいいよ」
「何よりはじめに、ホテルの人に放送室のマイクの使い方聞かなきゃ」
夕子ちゃんが注意する。
「いいの、いいのよ。楽しくいきましょ!」
スイッチを入れる。
『皆様。志賀高原へようこそ』
『お疲れのことと思いますが、まず最初に宿泊代の会計をお済ませいたしますようお願いします』
『その後、会計で指示された部屋番号に従い、各々のお部屋にお入りください』
スイッチオフ。
「まったく。正先輩みたいな貧乏人もいるから金だけは先に取っておかなきゃね~」
「正先輩ね、研究室では、正さんにつるべとられてもらい貧乏、とか言われてるのよ」
夕子ちゃんが笑う。
「正先輩、可哀想だけどほんと貧乏なのよね~」
「でも、優しくて放尿力があるから好きなの」
僕の部屋の405号室がざわつく。
「おいおい正。こずえちゃんさ、放送で面白いこと言っているぞ」
スイッチオン。
『夕食となります午後6時まで自由時間ですが、初日の本日は、夕食時まで外出を控えていただきますようお願いします』
スイッチオフ。
「全く。ため息が出るわね」
「清々しい高原の空気くらい自由に吸わせてくれればいいのに……」
「カップルや、新カップル誕生のためにも、まさに初日が大切なの!」
ホテルの館内が笑いも交えてザワザワしている。
『なお、本合宿中では、皆様、品行方正、清廉潔白を保ち、心や行いを清く正しく、私欲を図ったりしないようお願いいたします』
スイッチオフ。
「そりゃ最低限のルールは守るわよ~。でもさ、そんなことや、あんなこと、スキンかって! ができる、絶好の機会じゃない? 家族計画の自販もあったし」
「私ね、もう正先輩に先制攻撃したもの。アバンチュールしようって」
「そしたら、なんて言ったと思う?」
「腰はバンバン、アソコはパンパン。テラスで勃って、考えておくって」
405号室の皆んなが、やんや、やんやと盛り上がる。
『夕食は大食堂にてカツカレーの予定です。それまでに身支度をすませておいてください』
スイッチオフ。
「初日からカレーなんてベタだよね~。もう、ビュッフェ方式の立食パーティー。三度エッチよ、三度エッチ!」
「飯より行為。身支度じゃなくて、身したくてどうしようもないのにね~」
みどりちゃんが、血相を変えて慌ててホテルの放送室に駆け込んでくる。
「こずえちゃん!」
「はい? 何でしょう?」
「マイクのスイッチの、オン・オフ、逆よ!」
ーーーーー
「いや~。しかし笑かしてくれたな、こずえちゃんの裏アナウンス」
「正。お前、面白い子に好かれちゃってるね~」
405号室の四年生の男子、OB連中たちが笑う。
僕は頭を2、3度掻く。
「しかし、放送マイクのオン・オフを間違えるなんて大笑い」
「そして、頭に浮かんだ言葉をそのまんま全部丸出し」
「前代未聞だよ」
水野が笑う。
「これさ、オーケストラの夏合宿、末代まで語り継がれるね」
皆んなで大爆笑。
『合宿係からの連絡です』
今度はみどりちゃんの声に変わる。
『皆様、お疲れ様でした』
『夕食は午後6時からとなります。遅延の無いよう、1階の大食堂にお集まり下さい』
『身の回りの整頓など、食事まで部屋での用事をお済ませ頂き、食事前のホテル外の外出は堅くお控え頂く様お願い致します』
『なお、本合宿の期間には、一般のお客様もホテルにおられます』
『各自、大学生としての品行方正な行動の程、よろしくお願い致します』
みどりちゃんの透き通る、優しく落ちついた声。
「これだよ、これ」
「これが普通のアナウンス」
とんだハプニングから僕らのオーケストラの夏合宿が始まった。