第6章

 

第91話

 

「涼しぃ~!」

 

「世は真夏でムシムシなのに嘘みたい!」

 

爽やかで新鮮な高原の空気。クーラーのように、ひんやりとしたそよ風が頬を撫でる。

 

オーケストラの10日間の夏合宿。メンバーが次々と志賀高原、合宿先のホテル入りをする。

 

乗り合いの車で来たり、長野駅まで電車で来て、そこから志賀高原までバスで来たり。僕は水野の車に乗り合い。隆と、隆の彼女の里奈ちゃんとの4人。

 

午後2時半。予定通りの時刻にホテルに着いた。僕らの車が着いてまもなく、トラック隊の車が到着する。

 

「お~い正。ちょっと力を貸してくれ」

 

「ああ、いいよ」

 

2トンロングの箱型トラックには、ティンパニーやバスドラム、シロホン、グロッケンなどのパーカッション類。そして、コントラバスなどが積まれている。

 

数人で、楽器に傷やダメージを与えないよう、ゆっくり降ろして、ホテル内に搬入していく。

 

「正せんぱ~い!」

 

どうやらこずえちゃんの乗り合いしてきた車が到着したようだ。日光の観光で一緒だった、仲良しのフルートの紀香ちゃんと、チェロの夕子ちゃんと。

 

「正先輩。重いですから腰抜かさないでくださいよ」

「普段あまり使っていないでしょうから」

 

ホテルに着くなりのこずえちゃんの第一声。

 

「大丈夫。腰は普段からバンバン使っているよ」

 

「あら、いやらしい。レディに向かってのっけからその返事ですか?」

 

「こずえちゃんが誘導したんじゃない」

 

僕はこずえちゃんを無視する。

 

「あら、正先輩。これ見てください」

 

こずえちゃんが、未開封のポテチの袋を見て驚く。

 

「ポテトチップスの袋、膨れてパンパンです」

 

「気圧のせいだよ。袋の中の空気が膨張してるんだ」

「気圧はその空気塊の外側を逆にあらゆる方向から押す力。その力と空気塊の気圧とのバランスがとれたところで空気の体積が保たれる」

 

「だから周りの大気圧が下がると袋の中の空気塊の気圧の方が大きくなり体積が膨張する」

 

隆がこずえちゃんに説明する。

 

「わあ~。さすが物知りですね。隆先輩」

 

「ほら、だから水野のお腹もパンパンだよ。見てみて」

 

隆が言う。

 

「違う違う。俺は、単にデブ」

 

水野が言うと皆んなで笑う。

 

「正先輩のアソコも膨れて……」

 

「こずえちゃん。そんなこと考えているより合宿係でしょ?」

 

僕はトラックから楽器を降ろしながらこずえちゃんに声をかける。

 

「はいっ!」

 

「お仕事だよ、お仕事」

 

こずえちゃんは、何だか意味不に昔流行った歌謡曲を口ずさみ、ホテルに入っていく。先に来ていた合宿係のみどりちゃんが、到着したメンバーをチェックしている。

 

「正さん、隆さん、里奈さんいますね」

「体調に変化はありませんか?」

 

合宿係は3年生1人と2年生2人、1年生2人で、3年生のみどりちゃんは去年の合宿係リーダー。新米係りの指導役。1年生はこずえちゃんと、仲良しの夕子ちゃん。

 

「みどり先輩、私代わります」

 

こずえちゃんがホテルを出て来た。

 

「うん。お願い」

「私は会計係の方にいくね」

 

今度は、みどりちゃんがホテルの中へ入って行く。

 

「ホテル入りするメンバーのチェック。どうしてですかね?」

「名簿を印刷しておいて、自分で記入するようにしたらいいのに……」

 

こずえちゃんがつぶやく。

 

「これね、来たメンバーが元気かどうか、健康チェックまではいかないけど、少なくとも疲れすぎたりしていないか、病的じゃないか、合宿係が目で確かめる意味があるんだよ」

 

「なるほどですね」

 

「私は正先輩の男のナニが疲れていないか、手で確かめます」

 

「はいはい」

「じゃあ、僕は中に行くからね」

 

「それ、嫌です。何か中でやる事あるんですか?」

 

「ああ。5日目に、名古屋で開催される植物色素の研究会で口頭発表しなけりゃならないんだ。しかも英語だよ」

「だから、合宿中も練習時間以外は、なるべく発表のおさらいして、頭に原稿焼き付けておかなきゃ」

 

「こんな素敵な天国のような高原の園に来たんですよ?」

「下界の事は皆んな忘れて、私と一緒にメンバーチェックしましょうよ」

「貧乳生なら皆わかりますけど、OB、OGの方々は、私、知らない人もいますし……」

 

「はいはい、分かった。こずえちゃんに付き合うよ」

 

僕は少し離れたテラスにある白い木製の椅子に腰掛け、のんびりとこずえちゃんのサポートをすることにした。

 

「はい。トランペットの太田さんですね」

 

1年生の太田くん。こずえちゃんを見て恥ずかしげ。

 

「太田くんさ、きっとこずえちゃんに気があるよ~」

 

僕が少し離れたところから声をかける。高原の乾いた空気では声がよく通る。

 

「はいっ。知ってま~す!」

「あと、同じバイオリンの谷崎くんがこずえを好いております」

 

「やれやれ。こずえちゃんのファンは多いんだから、そろそろマトを絞れば」

 

「正先輩に敵うヤツはおりません」

「腰もバンバン元気だし、アソコもパンパン」

 

「あのさ……。弱ったな……」

 

「まあいいや」

 

どんどんとメンバーが集まってくる。

 

「はい。合宿費はホテルに入ってすぐのところで集めています。荷物はそのままお部屋にお持ちください」

 

こずえちゃん。接客みたいのが上手。

 

教育学部。さすが先生の卵だけある。

 

「そうだ。正せんぱ~い。ホテル代払いました?」

 

「まだだよ。荷物も車の中のまま」

「こずえちゃんが僕のこと縛っているじゃない」

 

「お金が無いんじゃありません?」

 

「失礼な。あるよ」

「じゃあそろそろ僕、中で出してくるね」

 

「イヤっ、いやらしい。いきなり中出しですか? やっぱり……、後でいいです」

 

「はい。谷崎くんですね」

 

谷崎くんも、太田くん同様、こずえちゃんを見て恥ずかしそう。

 

「どうしました? 腰が痛そうですよ?」

 

「長時間、電車やバスに乗っていたから……」

 

「ダメです! 男の子は、腰はバンバンじゃないといけません」

「ねえ、正先輩」

 

「えっ? 正先輩。 どこ?」

 

谷崎君が僕を探す。

 

「アソコで勃っているのが正先輩です」

 

こずえちゃんが、満面の笑みでテラスにいる僕の方を振り返る。

 

ピンポーン。

 

僕の携帯からLINEの着信音が鳴る。

 

『どう? 無事着いた? 志賀高原』

 

こずえちゃんが僕に近ずいてくる。

 

「誰からですか?」

 

「恵ちゃんだよ」

 

「あらあら。遠くまで来ても身も心も縛ってしまって。まるで貧困の奥さんみたいですね」

「こずえは、即バックされるのは嫌いです」

 

「単なる普通の彼女からのありきたりな連絡でしょ?」

 

そう僕が言うと、こずえちゃんはニヤリと微笑む。

 

「ここでは、恵先輩をひとまずおいといてアバンチュールしましょうよ」

 

「何で、ここでこずえちゃんと火遊びしなきゃいけないの?」

 

「あら? 私、そのつもりで来ました」

 

「そのつもりか、あのつもりか、このつもりか知らないけど、僕にその気は全く無いからね」

 

「大丈夫。毎日同じ釜の飯を食い、同じフワフワの布団で眠る。狭い部屋でしょうから、体位変になるかもしれないけど……」

 

「何も大変なことないよ。何より男子部屋、女子部屋、別々でしょ」

 

「爽やかな高原の空気と、夜には満天の星空」

「舞台はもう出来ています。正先輩、必ず落としてみせます」

 

こずえちゃんが、ポニーテールにしていた髪をサッとほどき、顔を斜め向きにして魅せ、そしてウインクをする。

 

フフフ……。僕は苦笑い。確かに可愛い……。

 

「こっ、こずえちゃん。面白いね」

「確かに、手玉に取られる男もいそうだ」

 

「金玉取られる男はいます。ほ~ら。落ち始めたでしょ?」

「過去にこれで何人泣いたか」

 

「こずえちゃん」

 

「はい」

 

みどりちゃんがホテルから出てくる。

 

「だいたいメンバーが揃って来たから、夕子ちゃんと、館内放送の方に回ってくれる?」

「後は私がやるから」

 

「はい!」

 

「さてさて。僕も部屋に入るとするよ」

 

「先輩。無銭宿泊はいけませんよ」

 

「はいはい」

 

「こずえちゃん。これ、放送の原稿用紙があるから」

 

みどりちゃんが、こずえちゃんに原稿を渡す。

 

「放送器具の使い方は、ホテルの従業員の人に聞いてね」

 

「はい」

 

 

ーーーーー

 

 

『あ~。テス、テス、テス』

『本日は晴天なり』

『It’s a sunny day』

 

『これは、その日が晴天じゃなくてもマイクをテストする決まり文句です』

 

マイクの電源を切る。

 

「こずえちゃん。紙に書いていないことは言わないほうがいいよ」

「何よりはじめに、ホテルの人に放送室のマイクの使い方聞かなきゃ」

 

夕子ちゃんが注意する。

 

「いいの、いいのよ。楽しくいきましょ!」

 

スイッチを入れる。

 

『皆様。志賀高原へようこそ』

『お疲れのことと思いますが、まず最初に宿泊代の会計をお済ませいたしますようお願いします』

『その後、会計で指示された部屋番号に従い、各々のお部屋にお入りください』

 

スイッチオフ。

 

「まったく。正先輩みたいな貧乏人もいるから金だけは先に取っておかなきゃね~」

「正先輩ね、研究室では、正さんにつるべとられてもらい貧乏、とか言われてるのよ」

 

夕子ちゃんが笑う。

 

「正先輩、可哀想だけどほんと貧乏なのよね~」

「でも、優しくて放尿力があるから好きなの」

 

僕の部屋の405号室がざわつく。

 

「おいおい正。こずえちゃんさ、放送で面白いこと言っているぞ」

 

スイッチオン。

 

『夕食となります午後6時まで自由時間ですが、初日の本日は、夕食時まで外出を控えていただきますようお願いします』

 

スイッチオフ。

 

「全く。ため息が出るわね」

「清々しい高原の空気くらい自由に吸わせてくれればいいのに……」

「カップルや、新カップル誕生のためにも、まさに初日が大切なの!」

 

ホテルの館内が笑いも交えてザワザワしている。

 

『なお、本合宿中では、皆様、品行方正、清廉潔白を保ち、心や行いを清く正しく、私欲を図ったりしないようお願いいたします』

 

スイッチオフ。

 

「そりゃ最低限のルールは守るわよ~。でもさ、そんなことや、あんなこと、スキンかって! ができる、絶好の機会じゃない? 家族計画の自販もあったし」

「私ね、もう正先輩に先制攻撃したもの。アバンチュールしようって」

 

「そしたら、なんて言ったと思う?」

「腰はバンバン、アソコはパンパン。テラスで勃って、考えておくって」

 

405号室の皆んなが、やんや、やんやと盛り上がる。

 

『夕食は大食堂にてカツカレーの予定です。それまでに身支度をすませておいてください』

 

スイッチオフ。

 

「初日からカレーなんてベタだよね~。もう、ビュッフェ方式の立食パーティー。三度エッチよ、三度エッチ!」

「飯より行為。身支度じゃなくて、身したくてどうしようもないのにね~」

 

みどりちゃんが、血相を変えて慌ててホテルの放送室に駆け込んでくる。

 

「こずえちゃん!」

 

「はい? 何でしょう?」

 

「マイクのスイッチの、オン・オフ、逆よ!」

 

 

ーーーーー

 

 

「いや~。しかし笑かしてくれたな、こずえちゃんの裏アナウンス」

 

「正。お前、面白い子に好かれちゃってるね~」

 

405号室の四年生の男子、OB連中たちが笑う。

 

僕は頭を2、3度掻く。

 

「しかし、放送マイクのオン・オフを間違えるなんて大笑い」

「そして、頭に浮かんだ言葉をそのまんま全部丸出し」


「前代未聞だよ」

 

水野が笑う。

 

「これさ、オーケストラの夏合宿、末代まで語り継がれるね」

 

皆んなで大爆笑。

 

『合宿係からの連絡です』

 

今度はみどりちゃんの声に変わる。

 

『皆様、お疲れ様でした』

 

『夕食は午後6時からとなります。遅延の無いよう、1階の大食堂にお集まり下さい』

『身の回りの整頓など、食事まで部屋での用事をお済ませ頂き、食事前のホテル外の外出は堅くお控え頂く様お願い致します』

 

『なお、本合宿の期間には、一般のお客様もホテルにおられます』

『各自、大学生としての品行方正な行動の程、よろしくお願い致します』

 

みどりちゃんの透き通る、優しく落ちついた声。

 

「これだよ、これ」

 

「これが普通のアナウンス」

 

とんだハプニングから僕らのオーケストラの夏合宿が始まった。

 

第90話(第5章 最終話)

 

有田先生が試験問題を研究室の広いテーブルの四隅に伏せる。それぞれの試験問題の前には、植物サンプルがそれぞれ30体置かれている。

 

花や葉はもちろん、中には実、更には樹皮、茎だけというものもある。

 

2級用と3級用の試験とサンプルは異なる。2級受験の3人はくじ引きをして、席を決める。大樹が最初にくじを引く。

 

「あた~っ。俺の席、難しいサンプルばかりだよ」

「これは誰かの陰毛だ~」

 

大樹が悔しそうに叫ぶ。

 

「何バカなこと言ってる。毎日、歩ちゃんの毛だけな姿に感動しているから、そんな口がすべるんじゃないの?」

 

義雄がそういうと、

 

「いっぱいナニを考えてるんだか」

 

恵ちゃんもため息交じりのダジャレを飛ばす。

 

「大樹くん。じゃあ、他の席と交換する?」

 

有田先生がそう言うと、大樹はどの席に並んでいるサンプルも手強いと悟ったか、

 

「いや……。いいです……」

 

弱音を見せてクジで引いた席についた。

 

筆記テストは、最初に和名が書いてある植物の名前は何の科かを問う問題。科名は日本語の表記でOK。60問ある。

 

次に、植物の和名をラテン語の属名で答える問題。これは圧巻80問。アルファベットひと文字のスペリングのミスも許されない。

 

そして実物テスト30問。科名は和名、そして和名、ラテン語での属名をそれぞれ答える。合格点はそれぞれ正解率8割以上。どれかが8割切ったら不合格。厳しいテスト。

 

「いや~。参ったな~……」

 

大樹がいくつかの植物サンプルを手にし見比べ、汗をかきながらつぶやく。

 

「2級は全然甘くないよ」

 

有田先生が大樹に声をかける。

 

「ここまで来たらからには、もうあごには髭ない」

 

今朝剃ってきたばかりのあごに手をやり、もう後には引けない大樹が回答を進める。

 

僕と恵ちゃんは、フフフと微笑む。

 

3級の義雄はどうやら頑張った甲斐があって、表情に余裕を見せている。

 

「ダメだ、こりゃ!」

「何度やっても、結果はおなじみだ!」

 

大樹が伸びをして大きく声を出す。

 

「大樹さ、僕も恵ちゃんも真剣なんだからお静かに」

 

僕は大樹に声をかける。

 

恵ちゃんも問題を見て悩んでいる。属名かな? 真剣な表情の可愛らしい横顔。アヒル口みたいに、時折上唇を動かす。その唇は僕のもの。

 

「さて、残り10分だよ。キッチリ測るからね」

 

「え~、先生。受験や資格試験じゃないんから、四、五分おまけしてくださいよ」

 

「なまけ容赦ないよ」

 

有田先生もダジャレで皆んなに声をかける。

 

声かけから10分ピッタリで先生が試験終了の合図。

 

「さて、今回は、隣の人の回答を採点するという方式にしよう」

「どんなところでミスをしたか、するか。お互い確認し合えるように」

 

僕らは席をひとつづつずらし、先生から答えをもらい採点する。僕は大樹の回答用紙。恵ちゃんは僕の回答用紙。

 

大樹は義雄の、義雄は恵ちゃんの採点をする。

 

「うわっ。すげえ~」

 

義雄が恵ちゃんの採点を進めながら唸る。

 

「義雄くん。採点中はお静かに」

 

有田先生が注意する。

 

蝉の声のこだまする、扇風機だけの暑い日の研究室の中。皆んな、黙々と採点を進める。

 

「どう? 終わった? 採点」

 

「はい」

 

皆んなで声を揃えて答える。

 

「じゃあ、2級合格者。いたかな?」

 

「恵ちゃんで~す!」

「科名は58点、属名77点、実物、何と満点です!」

 

義雄が笑顔で伝える。

 

「正くんも合格で~す!」

「科名満点、属名73点、実物28点です!」

 

恵ちゃんが、ノースリーブのシュークリームイエロー、細腕をあげて皆んなに伝える。

 

綺麗な腕。そう、それも僕のもの。

 

「さて、運命の2名だね」

 

有田先生は、こめかみに人差し指をさすりながら笑顔で結果を待っている。

 

「義雄、3級合格だぴょ~ん」

 

大樹がふざける。

 

「お~! おめでとう!」

 

僕、恵ちゃんが拍手喝采。

 

「You did it !(やったね!)」

 

「あ~嬉しい。ホッとした~」

 

義雄は大喜び。

 

昨日、脳裏をかすめた地獄絵図が、天使と天国の園に変わったような清々しい顔。

 

「さて、残るは大樹だね」

 

僕は、少し発表を焦らす。

 

「大樹くん。君は植物検定2級に果敢に挑みました」

「しかしながら、科名は52点でOKですが、ラテン語の属名54点、実物テスト20点」

「残念ながら、不合格になりました」

 

「あ~ん。やっぱり……」

 

大樹は肩を落とす。

 

まあ、僕と恵ちゃんは、晴れて2級に受かった。

 

「大樹よ。ドングリの実の見分け方、知らなかったのかい?」

 

「ああ。まさか夏にドングリの実が出てくると思わなかったし」

 

有田先生が、机の引き出しにしまっていたものらしい。

 

「実の底が凹んでいるのはマテバシイ属、Lithocarpus。実の底が凸か平らなのはコナラ属、Quercusだよ」

 

「実の殻斗の違いで、さらに分かれる」

「殻斗、すなわちドングリの帽子ね」

 

「殻斗が輪状なのは、アカガシ、アラカシやウラジロカシ」

「殻斗がヒゲ状なのはカシワやクヌギ。ウロコ状なのはコナラ、ミズナラ」

 

「何だよ。昨日教えてくれれば良かったのに」

 

大樹が不満顔。

 

「だって、夏にドングリとは思わなかったもん」

 

僕も言い返す。

 

「正や恵ちゃんはいいよな~。ブナ科の葉の問題で」

 

大樹が捨てゼリフを吐く。

 

「じゃあ、これ分かる?」

 

恵ちゃんが、自分に出た問題の実物テストの葉を見せる。大樹はその葉を手にする。

 

「ブナ科」

 

「それは当たり前だよ」

 

僕が言うと、その後、言葉が詰まる。

 

「これは……」

 

「ほら。分かんない」

 

恵ちゃんが微笑む。

 

「シラカシ。コナラ属、Quercusよ」

 

「大樹、ついでにこれはどうだ」

 

僕も大樹に葉を一枚手渡す。

 

「ブナ科……?」

 

「だから、それは合ってる」

 

「何だろう……」

 

「スダジイだよ。属名、Castanopsis」

 

「皆んなそれぞれ簡単ではない問題だったんだね」

 

「いや、難しい問題じゃないよ。大樹が、常緑や落葉広葉樹に弱いんだ」

「何度同じことをユアセルフ」

 

「そうか……。そうだよな~」

 

「花の実物テストは難しいラン科もクリアして大体合ってるし、次回は大丈夫だよ」

 

「次回の植物検定は9月にするからね」

「8月は夏休み」

 

有田先生が研究室を後にする。

 

「は~い!」

 

声を揃えて返事する。

 

皆んなで目の前にある植物のサンプルを手に取り教え合っこ。

 

そんな中、浅野教授がいきなり研究室に入ってくる。

 

「正と恵ちゃん。次は1級だな」

「義雄もよくやった」

 

珍しく物腰の柔らかい口調の教授。僕たちへの誉め言葉。

 

大樹は大難を逃れる。

 

「いいか。若い時期は何でもいくつでも覚えられる」

「うらやましい……」

 

教授が机に大きく広げられた植物検定サンプルに目を細め、穏やかな口調で話しはじめる。

 

「いいか、お前達。人生には二つの道しかない」

「一つは、奇跡などまったく存在しないかのように生きること。もう一つは、すべてが奇跡であるかのように生きることだ」

 

「大樹」

 

「はいっ!」

 

大樹は軍隊の隊員のように、靴のかかとを合わせ、起立、気をつけをする。

 

「この地球上にあるおびただしい数の植物界の花卉の存在をお前はどう思う?」

 

「はっ……、すっ、すごいなと思います」

 

「そんなこと聞いてるんじゃない。奇跡であるのか無いのかということだ」

 

「はぁ……」

「あっ、当たり前のように調和して存在しているので奇跡だとは思いませんが……」

 

「正は?」

 

「僕は奇跡だと思います」

 

「僕らは、宇宙全体のシステムが一定の法則によって支配されている事を認める事ができます。これは当たり前で奇跡ではないかもしれません」

「でも、小さな昆虫達や百花爛漫の花卉のことを考えると、それはもう、悠久の過去から奇跡の連続が織りなした夢のような、まさに神が創造したもののような感覚に落ちていきます」

 

「どちらも正解だ」

 

「奇跡はな、起きないから奇跡なんだ」

 

教授は少しアイロニカルに、ニヤけて答える。

 

「人が奇跡と呼ぶものは、実は当たり前の積み重ねに過ぎない。当たり前の積み重ねとは努力だ。自然界も人間でも、努力するものの前には奇跡が起こる」

「お前達の学んでいる学問も、情熱的に取り組んでいけば奇跡が起きる」

 

「あのぉ……」

 

「なんだ、恵ちゃん」

 

「友達との出会いや、恋したり、結婚したり。人との触れ合いなんかで、よく奇跡の出会いとか、運命の巡り合わせとか言いますけど、その奇跡という言葉も一緒ですか?」

 

すぐに教授はいつもの苦虫を噛み潰したような苦々しい顔つきをする。

 

恵ちゃんは肩をすくめ、少しかしこまる。

 

「友情、恋、結婚か。うんざりだ」

 

タバコでも吸いたくなってきたのだろうか。教授の手先が細かくブルブルと震えはじめる。恵ちゃんは気を利かせて濃いめに入れた熱いコーヒーを教授の前に差し出す。

 

「犬は友を愛し敵に噛みつくんだ。お前達に、そんな勢いのある真の友人はいるか?」

 

「恋、結婚? 男は結婚するとき、女が変わらないことを望む。女は結婚するとき、男が変わることを望む。だからお互いに失望することは当たり前のように不可避なんだ」

「それは、恋において手段を完璧にしようとする一方で、結婚という目的があいまいだからだ。理想と現実のギャップに悶える。これが男と女の問題だ」

 

「男にとっては世界が自分、女にとっては自分が世界だ」

「そんな男と女の出会いが奇跡かどうかなんて、つまらないことに頭を使うな」

 

「でも、努力する者の前には奇跡が起こるんですよね? 出会いもそうかなと思って……」

 

教授が鼻で、フンと笑う。

 

「狂ったほどの努力がないと本物の友情、愛情なんか芽生えてこない。奇跡なんか起こりゃしない。成って来るのは馴れ合いと不協和音だけだ」

 

「人は誰もが愚かで不誠実だ。狂人になんかなれやしない」

 

机に並べた植物検定用のサンプルが、夏の暑さでみるみる生気を失って来る。

 

教授は恵ちゃんが入れてくれたコーヒーを口にし、少し落ち着いた模様。

 

「しかし……、一つだけ救いがある」

 

「何ですか?」

 

恵ちゃんが真面目顔で問いかける。

 

「無垢になれ。無垢になるんだ。それは、人間的な願いから、人並みな憧れから脱却し、飾り気のない愛を繰り返し与え、相手が願う自分を予期し続けることだ」

「そうすれば、本物の愛情というヤツに触れられるかもしれない」

 

「だが、そんじょそこらの薄汚い心をした並の人間じゃそんな事できっこしない」

 

教授はそう言いながらコーヒーを飲み干し、カップを恵ちゃんに差し出す。もう一杯くれという合図。恵ちゃんは二杯目のコーヒーを入れる。

 

「いいか、俺はお前達を科学者の卵として育てている。科学者たるもの、物や人への願望や愛着を持つべきではない。ただ石のごとき心を持つべきだ」

 

「しかしお前達、学問だけから学問の勉強するのはやめろ。たまには一流の映画をみろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め。そして、それから自分の学問を作れ」

「同じ学問をしていても何を感じながらやっているかで、全然結果は違ってくるからな」

 

「恋にのめり込むのはだめだ。一流の恋なんて言葉、聞いたためしがない」

 

教授は大きく一つ咳払いをする。

 

「優れた科学者になるためには、何が一番必要だと思う?」

「なあ、義雄」

 

義雄がビビる。そして一瞬にして顔が凍りつく。

 

「そっ……、それは……、ちっ、知識や知性です」

 

「ほら。バカはすぐそう答える」

 

教授がニヤける。

 

「優れた科学を生み出すのは知識の豊富なヤツ、知性を備えた者だと多くの人は言う。彼らは間違っている」

「優れた科学者になるために必要なものは、人となり、だ」

 

「わかるか? 正」

 

「生まれつきの性質や先天的な持ち前のことですか?」

 

「そうだ」

 

「科学とは事実を整理することだ。それにより普遍的な法則や結論を見出すことができる」

「この作業には天性的な素質が必要。スポーツ選手が生まれつきの素質、身体を持っているように」

 

「ただわかるな。天性的なものにだけ頼る愚か者にはなるな。愚者と天才の違いといえば、天才には限度があるということだ」

「天才には超えられない壁があることがわかる。しかし、想像力でそれを飛び越える」

「想像力は、知識よりもはるかに重要だ。知識には限界がある。しかし、想像力は世界を、宇宙さえも包み込む」

 

「いいか。今だ、今だぞ。お前達の頭は空っぽだ」

「簡単なことだ。バカとアホは勉強しろ。できるだけ植物を覚えるんだ。これでもか、というほどに」

 

「自分の受ける教育の結果をあれこれと思い悩むな。もし毎時間を真剣な気持ちで勉強するならば、あとは成り行きに任せておけば安心だ」

「どんな学問分野を選ぼうと、ひたすらに努力を続ければ、いつかは同世代のすぐれた代表者として勝利感にひたれる輝かしい朝が来る」

 

皆んな教授の言葉にかしこまる。

 

「安心しろ。頑張るのは今日だけでいい」

 

教授が不気味にニヤける。僕らも緊張して張っていた肩をおろす。

 

「そして、それを毎日やればいい」

 

最後に一言言い残して研究室を出て行く。

 

「あた~っ! キツイよ。なあ、皆んな」

 

皆んなで顔を合わせて満足げに笑い合う。

 

陽炎の立つ真夏の昼に、クーラーも無い部屋で汗をかきかき植物と戯れる青春。それは、不思議で、明るくて楽しくて、そして科学と人生を学ぶかけがえのない青春。

 

第89話

 

「ジーッ、ジーッ。ミーン、ミーン」

 

外では蝉が、けたたましく鳴いている。研究室の扉と窓は開けたまま。しかして、風一つ入ってこない蒸し暑さ。

 

猛烈に暑い日になった。

 

「しかし、浅野教授。園芸学研究室のどの部屋にもエアコン付けないな」

 

義雄が植物検定の冊子を見てつぶやく。

 

「確か、学則で決まっているんじゃない。できうる限りのエアコンの設置」

 

「必ずとは記されていない」

 

大樹と僕はタオルを首にため息をつく。

 

「おはよう。皆んな」

 

「おはよう。恵ちゃん」

 

「暑いね」

 

「暑いわ」

 

恵ちゃんは、レースをフロントに重ねた白いブラウス。Vネック部分がスカラップになっていて首元がとても綺麗に見える。昨日の夜の、恵ちゃんの甘い香りの首元……。

 

「正くん。何見てボーッとしてるの?」

 

「いや……、別に……」

 

「しかし、エアコンぐらいつけて欲しいわよね」

 

恵ちゃんも汗をハンカチで押さえながら同じことを言う。

 

「教授は、夏は暑いだ。冬は寒いだ。植物も一緒なんだ」

 

「そう。それが口癖だから、仕方ないわよね」

 

「生物環境工学研究室は、全ての部屋にエアコンがあるよ」

「歩ちゃん達が羨ましい」

 

大樹が愚痴るようにつぶやく。

 

「大樹の電子顕微鏡室屋、義雄の培養室は年中恒温だから快適じゃないか」

 

「僕の実験室は気温に左右される室温だし、恵ちゃんのラン温室は、遮光幕が貼ってあるけど、夏はやはり暑いよ」

 

「まあな」

 

大樹と義雄が同時に答える。

 

「しかも皆んな、アパートにはエアコンがあるんだろ?」

 

「ああ、もちろん」

 

「僕のアパートなんて……」

 

言葉の途中で恵ちゃんが口を挟む。

 

「無いから汗だくよね。扇風機2台。くっ付いて暑いの、かなりキツイ……」

 

二人が僕たちをまじまじと見入る。僕も、何気なく口走った恵ちゃんも恥ずかしくする。

 

「そうそう、今日ガトーショコラ作って来たの」

 

恵ちゃんが、この場の雰囲気を変える。

 

「農場で植物検定の実物採取した後に、皆んなで食べない?」

 

「いいね。夏バテ防止に甘いもの」

 

「楽しみだ。なんだか暑いけど外、頑張れそう」

 

恵ちゃんがトートバックから、ケーキを入れた折を取り出し冷蔵庫に入れる。ホイップの生クリームも冷蔵庫にしまう。

 

「さて、午前中のうち、酷暑の時間の前に農場に出よう」

 

皆んな、農場実習用の作業着に着替える。

 

 

ーーーーー

 

 

「暑かったね」

 

「暑いなんてもんじゃ無い」

 

「私もバリバリに日焼けしたわよ」

 

「背中にタオルを入れておけば、汗を吸ってくれて抜いた時、スッキリして気持ちいいんだ」

 

僕がそう言うと、

 

「そう言うことは、前も! って言ってよ。胸に汗かいちゃった」

「私、はだかざわりのいいタオル持ってるの、正くん知ってるでしょ?」

 

裸……。僕は昨日の恵ちゃんとの情事を思い出して照れる。

 

「さて、ガトーショコラ食べようか」

 

大樹がドラムセットを叩く真似をしてはしゃぐ。

 

「まずハーブティーをいれるわね」

「暑いけど、ホットでいいかな?」

 

「いいよ」

 

僕らは皆んなで声を揃えて答える。

 

「ローズピンク、カモミール、ラベンダー、レモングラスを乾燥させミックスしたもの」

「家から持って来たの」

 

「チョコレート系のおやつに合うの」

 

恵ちゃんが甘い声で、ゆっくりとハーブティーを作る。

 

「さて」

 

恵ちゃんは冷蔵庫から、ケーキとホイップを取り出す。

 

「正くん、お皿4枚とフォーク4つ、お願い」

 

「ああ、わかった」

 

恵ちゃんは、ガトーショコラにホイップを乗せる。芸術的とも言える手さばき。綺麗な、恵ちゃん版ガートーショコラが出来上がった。

 

「ボナペティ」

 

恵ちゃんのとびっきりの夏の笑顔。

 

「いっただきま~す」

 

皆んなで合掌し食べ始める。

 

「美味いっ! ビターだけど甘みも感じる」

 

「まいうを超えてる! 生地の柔らかさが丁度いい」

 

「すごい。美味しいね、これ」

 

恵ちゃんはにこやかに僕たちが食べている姿を見つめる。

 

「何々、このサクサク感?」

 

大樹が恵ちゃんに質問する。

 

「スライスアーモンドよ。生地に混ぜて焼くの」

 

「美味しいよこれ、美味しすぎる!」

「これまでの人生で食べたケーキ類の中で、一番美味しい」

 

大樹が言うと、

 

「あら、私、大樹くんの誕生日にホールケーキ作って来たじゃない」

「同じ人の作品よ」

 

「いや、あれも美味しい、これも美味しい」

 

「恵ちゃん。これ作るの大変でしょ?」

 

僕が聞くと、

 

「材料は、ブラックの板チョコ3枚に卵3個。白砂糖大さじ1杯半にスライスアーモンドだけよ」

 

「えっ? 基本、板チョコと卵だけ?」

 

「そうよ。誰にでも簡単にできちゃう」

 

「作り方、教えて」

 

「うん」

 

「まず、板チョコを適当に割り、レンジで1-2分かけて溶かすの」

「そこに卵の黄身3個分、砂糖大さじ1杯半をしっかりと混ぜる」

「次に、別のボウルで3個分の卵のメレンゲを角が立つくらいまでホイップする」

 

「先の、チョコと卵の黄身3個を混ぜたところへ、3分の1くらいメレンゲを加え混ぜるの」

「均一に混ざったら、それに3分の2のメレンゲとスライスアーモンドを混ぜて生地を均一にする」

「最後に残りの3分の1のメレンゲを加え混ぜあわせる」

 

「それを、クッキングペーパーを敷いた焼き型にいれる」

「後は、予熱した160℃のオーブンで40分間焼くだけよ」

 

「簡単じゃない!」

 

「うん。好みにより、お砂糖やスライスアーモンドを入れなくてもいい」

「恵スペシャルには、加えるけどね」

 

「俺は、この恵スペシャルが好きだ」

「何時ぞや食べた有名店のガトーショコラと、遜色ないくらい美味しい」

 

大樹が、皿を舐めるようにケーキをたいらげる。

 

「うん。天文学的に美味しいね」

 

「何? 義雄。その天文学的に美味しいと言う言葉?」

 

「言葉で表せないほど美味しいと言うことだよ」

 

恵ちゃんが微笑む。

 

「あ~あ。恵ちゃん。嫁に欲しいな~」

 

「大樹。人妻に向かって何を言う」

「人妻違ったら、大変な床になるぞ」

 

義雄が大樹にダジャレで注意する。恵ちゃんは大笑い。

 

「ライ麦畑で妻替えてはよしてよ」

 

僕がそう言うと、恵ちゃんはさらに大きな声でガハガハ笑う。

 

皆んなは幸せそうな顔で、美味しいケーキと、フーフー冷ましながら、真夏の熱いハーブティーを口にする。

 

 

ーーーーー

 

 

「そうそう。今日の昼は弁当にして、研究室で植物検定の実物、勉強しながら食べないか?」

 

大樹の提案。

 

「取ってきたサンプル、この暑さでしおれやすいし」

 

「そうね……、研究室暑いけどね」

 

恵ちゃんが、仕方ないかな、と言う仕草でつぶやく。

 

「僕は昼食や夕食時くらい、クーラーの効いたところで食べたいな」

 

「意見が分かれたわね」

 

「俺と義雄は研究室で食べるよ。植物サンプル憶えながら」

「義雄はさ、今回3級落ちたら結構やばいし」

 

大樹はユズリハの葉と、馬酔木の葉を手に取りながら僕らにつぶやく。

 

「そうしたら、僕と恵ちゃんは生協に行くね」

 

「行くね」

 

恵ちゃんは僕の手をとり、可愛らしい繰り返し言葉。

 

僕らは研究室を出て行く。

 

「さて、義雄。今日は夜まで、実物テスト対策だ」

「花のサンプルはこの暑さだとしおれちゃうから、憶えたらすぐに冷蔵庫に戻そう」

「正や恵ちゃんのためにも」

 

「ああ、そうしよう」

 

「夏の花は比較的覚えやすいね。今回の花の実物テストは何とかなりそう」

 

義雄が今回テストの花には自信があるらしい。

 

「しかし、有田先生、どこから花を持ってくるか分からないよ」

「雑草の花もありだし、持ってこられなかったラン科の花も注意しなきゃ」

 

「ああ」

 

「今回は、葉を見て答えさせるものが多いと思う」

 

「俺もそう思う」

 

「針葉樹は結構出るな。ヤマを張ってもよさそう」

 

「義雄よ。ヤマを張るとか張らないとかじゃなくて。万遍なく覚えなきゃ」

 

「はいはい……」

 

「あと、種子。もちろん、分かりやすい植物からだけだろうけど、いくつか出そうだな」

 

「ああ」

 

「まあ、弁当買ってくるよ」

 

「義雄、俺と同じスポーツ弁当大盛りでいいか?」

 

「うん。いいよ」

 

「したっけ、待ってて」

 

大樹は弁当屋へ買い物に。

 

すぐ入れ替わりに、歩ちゃんが研究室に入ってくる。

 

「あれ? 歩ちゃん」

 

「大樹に会わなかった?」

 

「今、会いました。お弁当屋さんに行くって」

「私も、レディース弁当、頼みました」

 

「大盛り?」

 

「それは、ちょっと……、カロリー控えめの弁当の設定に難があると言うか……」

 

フフフと歩ちゃんが微笑む。

 

「珍しく、正さんと恵さんコンビとランチは別なんですね」

 

「うん。明日の植物検定の切迫度の違いかな」

 

「僕らは結構やばい」

「正と恵ちゃんは、間違いなく2級は受かるだろうから」

 

「義雄さんは、確か……」

 

「ああ、前回3級落ちた。明日が正念場」

「落ちたら、そこらの絵本に書いてある地獄絵図より怖い目にあう」

 

「大樹くんは大丈夫なんでしょうか?」

「昨日、研究室を出た後、ずっと夜遅くまで私と遊んでましたし……」

 

歩ちゃんが心配げ。

 

しかし、夜までずっと、つい口から出てしまった言葉に恥ずかしくうつむく。

 

「あらあら、歩ちゃんもおしとやかなフリして、ブラジャー何してるか分からないね」

 

義雄の意地悪い言葉。

 

「裏じゃ……、何してるかって……」

 

歩ちゃんの頬がピンクに染まる。

 

「買ってきたよ~」

 

「あら、大樹早いな」

 

「車じゃなくて、スクーターで行ってきた」

「昼時なのに、比較的空いてたよ」

 

「この暑さだもんな~」

「やっぱ弁当より、クーラーの効いた食堂だよ〜」

 

歩ちゃんの弁当のおかずにパセリが乗っかっている。

 

「義雄、この属名は?」

 

「Petroselinum crispum、セリ科、オランダセリ属だよ」

 

「義雄さん、すごいすごい。瞬時に出てきますね、属名」

 

「まあね」

 

義雄は得意顔。

 

「じゃあ、この人参は?」

 

「Daucus carota。セリ科ニンジン属。二年草だよ」

 

「義雄、大丈夫そうだな。普段見慣れている木や野花、野菜類に関しては」

 

「ああ、昨日結構覚えた。正の作ったプログラムで」

 

しかし、暑い。

 

歩ちゃんも、汗をかきかき、お弁当を食べ始める。

 

「麦茶、入れるね」

 

大樹が氷をたくさん入れたグラスを三つ持ってくる。

 

「コナラとクヌギの違い、よくわからんな」

 

「アホか」

 

大樹がつぶやく。

 

「見分け方のポイントは、樹皮と葉だよ。あと、実。どちらも同じ科、同じ属」

「今更、基本で知らなきゃならないものが、?なんてかなりヤバイよ」

 

「焦せらせるなよ、大樹……」

 

「樹皮だけでも簡単に見分けが付くよ」

「クヌギの樹皮は、厚く、硬く、濃い灰色をしてる。コナラの樹皮は、クヌギと比較すると薄く、色も明るめの色をしているものが多い」

 

「葉を見れば、もう一目瞭然。クヌギの葉のほうが全然長い。葉脈が13~17対で、細長い。コナラは葉脈が7~12対で、クヌギと比較して丸く、付け根に向かって細くなっていく」

「葉脈の数だけでも分類できる」

 

「なるほどね。ありがとう大樹」

 

「針葉樹もちょっといくか? スギとヒノキとサワラの見分け方」

 

「自信ないな……、俺……」

 

「スギの樹皮は繊維状に細く長く裂ける。ヒノキはスギより幅が広くはがれる」

「大きなヒノキは、樹皮がよくはがれて赤みを帯びている」

 

「大樹よ、それだけじゃちょっと……」

 

「やはり葉だよ。葉」

「スギは針状で鎌形の葉。ヒノキはウロコ状の葉。明らかに違うよ」

「ただ、同じヒノキ科で、ヒノキによく似た木に、サワラがある。こちらの区別のつけ方は、葉の裏側の模様、気孔線を見るんだ」

 

「ヒノキはYの字。サワラは蝶のような模様で、Xの字をしている」

「針葉樹も厳しいかも」

 

「アカエゾマツ、アカマツ、アスナロ、アトラスシーダー、イタリアンサイプレス、イチイ、イトヒバ、イヌガヤ、イヌマキ、ウラジロモミ、エゾマツ、エンコウスギ、エンピツビャクシン、オオシマハイネズ、カイヅカイブキ、カヤ、キタゴヨウマツ、キャラボク、クジャクヒバ、クロベ、クロマツ、などなど」

 

「どうだ、義雄?」

 

「半分くらいは……。一応属名も書ける」

「ただ、実物テストになると……」

 

「ヤバイね」

 

義雄は、採取してきた植物のように体をしおれさせる。

 

「やあ、歩ちゃん」

 

「こんにちは。正さんと恵さん」

 

「歩ちゃん。どうしたの?」

 

「研究室に遊びにきました。忙しい中と聞いて応援しにきましたが、楽しそうで」

 

「歩ちゃん。全然楽しくはないんだよ」

 

義雄がつぶやく。

 

「でも、楽しそう」

 

「正よ、アトラスシーダの属名は?」

 

「Cedrus atlantica」

 

「ヒマラヤスギの枝は垂れ下がるが、アトラスシーダーの枝は上向きに伸びる。それでヒマラヤスギと見分けられる」

 

「ヒマラヤスギは、Cedrus deodora」

 

「ウラジロモミは?」

 

「Abies homolepis。マツ科モミ属。葉の裏はストライプ模様になっている」

「クリスマスツリーで使うモミの木の仲間だよ」

 

「正よ、明日いくばくか針葉樹が出ると思うんだけど、義雄のためにヤマを張ってくれないか?」

 

「そうだね、アカエゾマツ、アカマツ、アスナロ、アトラスシーダー、イチイ、イトヒバ、イヌガヤ、イヌマキ、ウラジロモミ、エゾマツ、カイヅカイブキ、カヤ、キタゴヨウマツ、キャラボク、クジャクヒバ、クロベ、クロマツ」

 

「これらは基本。絶対、絶対覚えなきゃ」

 

「ちなみに、正的に広葉樹のヤマは?」

 

「無いね、農場に植わっているもの全てだよ」

 

「あた~っ。きついね」

 

「まあ、焦せらず皆んなでワイワイやりながら憶えていこう」

 

「正、優しいな」

 

「いや。僕もまだまだあやしいものがあるから」

 

「私にも優しく教えて」

 

恵ちゃんが可愛らしく首を傾げ僕に微笑む。

 

「恵ちゃんは植物同好会に顔を出していたじゃない」

「恵ちゃんの方が僕よりずっと物知りなハズだよ」

 

「園芸学研究室って色々と面白いですね」

 

歩ちゃんがつぶやく。

 

「卒論や自由研究でやる事が沢山あるのに、更にまたやる事だらけ。ビックリします」

「体力はもとより、精神的に参らないんですか?」

 

「花はね、こころのたべものなんだ」

「参るどころか、元気になるよ」

 

暑い真夏の研究室の実験台に広げられた300を超える花・葉・種子達。強敵の植物検定サンプルを見つめて、僕らはやさしく微笑む。

 

第88話

 

僕はトボトボと研究室に戻る。

 

「どうした? 正。毛すねをつままれたような顔して」

 

「キツネにつままれてなんかいないよ」

「大樹よ。マジで晩御飯だけじゃ済まない話になった……」

 

「何? 何?」

 

「教授が、僕のサーバーにあげた植物検定のVBAプログラムを見たらしい」

 

「それで?」

 

「早く500属対応のバージョンを作って載せろとの事」

 

「えっ?」

 

「なかなか良く出来た、身もだえのあるプログラムだものね~」

 

「恵ちゃん。茶化さないでよ」

 

「誰でも良かったらしいけど、大樹のせいでデータベースの追加係が僕になった」

「この手のデータベースは複数人でやると確認に手間がかかるし、間違いが起こりやすいから」

 

大樹が僕に申し訳なさそうな顔をする。

 

「いいじゃない。多分、いや、きっと正くんが作るハメになるんだから」

「期限はあるの?」

 

恵ちゃんが可愛らしく首をかしげる。

 

「今のところないよ」

「できるだけ早めにとだけ言われた」

 

「それなら晩御飯のおごりだけで済む話じゃない」

 

恵ちゃんがつぶやく。

 

「いや、問題は、そのプログラムに音楽をのせろとの話なんだ」

 

「無料のBGMがそこら中に転がっているから、それを使えばいいじゃん」

 

義雄が、楽勝じゃないかと言う口調で答える。

 

「それが、著作権とか絡むと後々面倒だから、僕に作曲しろと言うんだ」

「いや、正確に言うと誰でもいい。大樹が作曲してもいいんだ」

 

「でも、植物検定の勉強のBGMがロックやヘビメタだとチョットね」

 

恵ちゃんが苦笑いをする。

 

「結局」

 

大樹と恵ちゃんが同時に話す。

 

恵ちゃんが、話を大樹に任せる。

 

「結局、正か」

 

「いいじゃない。園芸学研究室のモーツァルト」

「素敵な響きでしょ。器用貧乏さん?」

 

「勘弁してよ……。この忙しいのに作曲もだよ、作曲も」

 

「正くん、した事ないの?」

 

「あるけど……」

 

「じゃあいいじゃない」

「どんなの?」

 

僕は皆んなに、チャイコフスキーの花のワルツをモチーフにしたメロディを口ずさんだ。

 

「タリララ、タリララ、タラリラララ、ポンポンポンポン」

「3拍子。最初は下降系、次のポンポンポンポンは上昇系」

 

「そのメロディ! いいわよ!」

 

恵ちゃんがニコニコ顔で、僕の太ももをさする。太ももに、いいわ感を感じる。

 

「俺にはよくわからんが、耳障りはしないね」

 

大樹はどうでもいいと言う感じ。

 

「いい感じだよ。俺は好き」

 

義雄は褒めてくれる。

 

「これを6小節間、3回セブンスで下降させ繰り返した後、ターララ、ターララ、ターララ、ラーラーララと調を上昇させてもう一度最初の調に戻り、次の繰り返し6小節間にはオブリガートを加えるんだ」

 

「蝶が花の周りを舞うように」

 

「正。今アコースティックギターを持ってくるから弾いてみろよ」

 

大樹が軽音楽部の部室に向かう。

 

「正くん。何でも屋ね」

「自転車のパンクも直せるし」

 

「それは例えが変だよ。自転車のパンク修理と作曲は別物」

 

「まあ、何でもいいわ」

「器用貧乏さん。ますます好きになりそう!」

 

恵ちゃんが人数分のコーヒーを入れてくれる。

 

大樹が戻ってくる。

 

「正。これでいいか」

 

「ああ」

 

大樹がアコギを二本持ってきた。

 

僕がメロディを弾き、大樹には殴り書きした譜面を渡し、オブリガートを弾いてもらう。

 

「すごいわ! いい感じ! 素敵よ」

「花の周りを蝶が飛んでいる感じ! 出てる出てる!」

 

恵ちゃんも義雄からも拍手喝采。

 

「このメロディはメロウな感じだけど、明るいポップ調の主題もあるんだ」

 

「何々、聞かせて」

 

恵ちゃんが可愛いクリクリした瞳で僕を見つめる。

 

「タンタン、タリラリラッター、タタタタタタ・タ、タンタン、トュルリララッター、タタタタタタタ」

 

リズム感に溢れるメロディ。4拍子。

 

「それもいいメロディね。なんだか明るく眩い春を感じるわ」

 

「ギターでやろうか」

 

僕の口ずさんだメロディを大樹が弾いてみる。

 

大樹のギターの才能をよく知っている。上手い。すぐに耳コピして奏でる。僕は4拍子でギターの天板を叩く。

 

「いいじゃん。いいじゃん。何とかなりそうじゃん。作曲」

 

「さて、どうだか」

 

そう言いつつ、何だか大樹がいれば、教授の要望しているBGMが書けそうな気がしてきた。

 

「正くん、ホルン下手なのに、作曲は上手なのね」

 

「だ・か・ら、恵ちゃん。ホルン下手は余計」

 

「正。貧乏なのに、ホント作曲はうまいね」

 

「大樹もさ……」

 

「正、金儲けに関すること以外はなんでもできる。恵ちゃんと結婚したら、しわ寄せいっぱいの貧困生活を送れるね」

 

研究室の空気が、幸せな笑いで満ちる。

 

 

ーーーーー

 

 

「早速、作曲始めようか」

 

大樹が、iPad、そしてMac Bookをカバンから取り出す。まず始めに、ポケットにあるiPhoneのアプリを立ち上げ僕に渡す。

 

「正。鼻歌でいいからメロディをiPhoneに入れて」

 

「鼻歌? でいいの?」

 

「ああ」

 

僕は一つ目のメロディを鼻歌で吹き込む。

 

「貸して」

 

大樹がiPhoneを操作し、今吹き込んだ鼻歌のメロディを再生する。

 

「これでメロディと伴奏コードができた」

 

今度はiPadを立ち上げ、DTWソフトを立ち上げる。

 

「まず、コード進行をシンセサイザーの音で鳴らしていくね」

 

さすが軽音楽部。手慣れた手つきで編曲を進める。

 

「さて、次にメロディを入れるよ」

「そう、ドラムセットはどうする?」

 

大樹が僕に問いかける。

 

「ドラムセット?」

 

「大樹、セットのビートはいらないよ。リズムにスネアくらいは入れてもいい」

「シロフォンやビブラフォン。ティンパニーといったパーカッションは必要だけど」

 

「ビートのない曲は作ったことがないな~」

 

「というより、ビートが先にありき。ビートとコードをベースに曲を作り上げていくのが普通」

 

「この曲はイージーリスニングだから。小編成のオーケストラで使用する楽器をイメージして」

 

「まあ、分かった、分かった。任せて」

 

大樹がDTWソフトにティンパニーのロール、ビートだけ打ちこむ。

 

「正が作ったメロディのモチーフを入れ、演奏してみるよ」

 

メロディはオーボエとフルート。3度下に同じく2ndオーボエと2ndフルート。ポン、ポン、ポン、ポンの上昇リズムは、バイオリンのピッチカート。

 

3拍子の8小節間のフレーズの後、次の繰り返しにはバイオリンとホルンのオブリガート。3回目の繰り返しにはトランペットやファゴットをメロディ楽器に追加。フレーズごとに、mpからmfまでの強弱をつける。

 

「いい感じだね」

 

「ああ、いい感じ」

 

「コード進行も自由に変換できるんだ」

「一箇所、Eマイナーをセブンスに変えてみよう」

 

「いいね」

 

「便利な時代になったわね」

 

恵ちゃんが笑顔で目を細める。

 

「コードは静かめのシンセサイザーの伴奏だけど、どうする?」

「オルガンにしてみようか?」

 

大樹が伴奏をオルガンに変える。

 

「まあまあだね」

「でも、植物検定のBGMとしては、シンセが合ってるかも」

 

再び伴奏をシンセサイザーにする。

 

「これでいい。この方があっさりしてる」

「オーケストラの曲を作曲する訳じゃないから」

 

「よく聞くと、楽曲は意外に古典派風ね。メルヘンチック」

 

恵ちゃんが身を乗り出してiPadを覗き込む。

 

「正くん、後期ロマン派のファンじゃなかったっけ?」

 

「そんなの作曲できないよ」

 

「でも、この曲、聴きやすくていいわ」

「携帯やiPadで、曲がすぐ作れる時代になったのね」

 

恵ちゃんが感心している。

 

「二つ目のメロディも同じく編曲しよう」

 

僕らは、また最初から二つ目のメロディをiPadで編曲するところまで入力した。

 

「どうする、正。この曲の譜面を起こそうか?」

 

「そうだね。譜面にして、pdfに落としておこうか」

 

大樹はMac BookでDTWソフトを立ち上げる。

 

「さすが大樹。作曲ツールは一通り揃えてあるね」

 

「ああ。いい時代になった。簡単に作曲できる」

「後、主旋律がもう一つくらいあるといいな」

 

大樹が僕の方を向く。

 

「わかった」

 

行進曲風のリズムの旋律が頭に浮かぶ。

 

「iPhone貸して」

 

先のように、鼻歌で4拍子のメロディを吹き込む。

 

「正のメロディは、不思議とCから始まるね」

「曲の全体も、C、つまりハ長調にしようか?」

 

「いや、Dメジャーにしてくれる? ニ長調」

 

「なぜ?」

 

「天に響きやすい調は、ニ長調だと聞いたことがあるんだ」

「高尚で華美。雄大で宗教的。特に歓喜に使われる」

「例えば、ヘンデルのハレルヤ、ベートーベンの田園ソナタとか」

 

「はいはい。曲全体はニ長調にするよ」

 

皆んなで、まずは簡素に出来上がった10分足らずの植物検定BGMの音楽に聞き入る。植物検定プログラムでは、この曲を繰り返し演奏するように設定する。

 

「直すところがまだあるね。付け足すところもある。俺がやっておく」

 

「まずはBGMの初版完成、おめでとう!」

「作曲は正くん。編曲は大樹くんね」

 

恵ちゃんと義雄が、満面の笑みでパチパチと手を叩く。

 

 

ーーーーー

 

 

「こんにちは」

 

歩ちゃんが久しぶりに僕らの研究室に顔を出す。

 

「何しているんですか~」

 

「今、正と作曲してた」

 

「作曲?」

 

歩ちゃんがポカンと口を開けて不思議顔をする。

 

「植物検定プログラムのBGM」

 

「大変そうですね」

 

「いや、正と二人で2時間くらいで出来上がったよ」

「聞かせてあげる」

 

大樹が歩ちゃんを近くに呼んでiPadで曲を鳴らす。

 

「すごい! すごい! 素敵な曲」

「どうしたらこんなメロディが浮かんでくるんですか?」

 

歩ちゃんが首をかしげ僕を見る。可愛い仕草。

 

「自然を感じたり、好きな女の子を想像したり」

「そうしたら、いわゆる降ってくる」

 

「あら、私の想像、どこのメロディ?」

 

「企業秘密だよ」

 

僕が言うと恵ちゃんが笑う。

 

「きっと二つ目のメロディね。アップテンポでおてんばっぽいイメージが湧くもの」

 

「その通り」

「恵ちゃんの男漁りな性格をイメージした」

 

僕は微笑む。

 

「あら? 私は男真っ盛りよ。そんなこと言う正くんと一緒になったら、仲むずかしい夫婦になりそう」

「私、お茶、お花、お床を習ってきた由緒ある箱入り娘なんだからねっ」

 

恵ちゃんも微笑む。

 

「よいしょあるお床?」

 

「まあまあ、細かいところは気にしないのっ!」

 

「そう。明後日植物検定なんだ」

 

場の空気を変えるように、大樹が歩ちゃんに話しかける。

 

「じゃあ、今日はお邪魔かしら?」

 

歩ちゃんが答えると、

 

「大丈夫、大丈夫。俺、どうせ2級は落ちるから」

「3級取ってるし、安心安心」

 

大樹が意気がる。

 

「長男らしい、度胸ある性格してるな。大樹は」

 

「いや、俺、実は痔なんだよ」

 

歩ちゃんが恥ずかしそうにうつむく。

 

「長男だけど、痔なんなんだ。ややこしいね」

 

「じゃあ、恵ちゃんと義雄とで、僕ら少し早い夕食に行くね」

「その後、猛烈にラテン語を覚えなきゃならないし」

 

「分かった」

「したっけね。バイバイ」

 

大樹は歩ちゃんを連れて研究室を出て行った。

 

どこへ行くやら……。

 

「おい、正。したっけって北海道弁、何だっけ?」

 

「標準語で、じゃあね、と言う意味」

「大丈夫かな? 大樹」

 

義雄が心配する。

 

「まあ、3級は受かってるし。いいんじゃない」

 

恵ちゃんが人ごとのようにカラカラ笑う。

 

 

ーーーーー

 

 

「今日は私、ふわとろオムライスにしようかしら」

 

「僕もそれにする」

 

「義雄は?」

 

「俺はサーモンプレート。シャケご飯の縁にサーモンの刺身が散りばめられている」

「大好物なんだ」

 

「カフェテリアの一番隅のテーブルは、いつまでいても大丈夫な席だからイイわね」

 

恵ちゃんがつぶやく。

 

「夕食で混む前だったからラッキーだったね」

 

僕らは早速カバンからPCを取り出し、植物学名のラテン語の勉強を始める。

 

「あれ? 正くん。まだBGM入れてないの?」

 

「ああ、忘れてた。大樹がさっきの音楽のMIDIファイル持っているんだ」

 

大樹にLINEを打つ。

 

すぐにファイルが送られて来た。

 

僕はVBAで書いた植物検定プログラムに、MIDIからMP3形式に変換し、プログラムに曲を組み込んだ。

 

「恵ちゃん。どう? 聞こえる」

 

「うん。素敵」

 

「義雄は?」

 

「大丈夫。流れてるよ」

 

料理が届くまで、3人してそれぞれのやり方で暗記を進める。

 

「単語帳って、ツールとしてはシンプルかつ古くとも偉大なツールよね」

 

恵ちゃんが、スペリングをミスしたラテン語名を単語帳に書き出していく。義雄はiPadのメモ帳に、間違えた学名のスペリングを手書きで何度も書いていく。

 

僕は恵ちゃんと一緒。単語帳派だ。

 

「せっかく素敵な曲がついたのに、何かプログラムに味気ないと思ったら、正解ではピンポーン! 不正解だと、ブー、みたいな音が欲しいね」

 

恵ちゃんが僕につぶやく。

 

「いいよ。その音、つけるね」

 

簡単なプログラムの追加。すぐ完成。

 

「うん。これでいい。ゲーム感覚で暗記進みそう」

 

恵ちゃんが満足してくれた。

 

「さて、2時間半くらいたったし、お腹も一杯だし、研究室に戻ろうか?」

 

「私、家に帰るわ」

 

「恵ちゃん、帰っちゃうの?」

 

「うん。家でこのプログラムで勉強する」

 

「僕も久しぶりに自分のアパートで勉強しようかな。暗記モノ、結構集中力がいるし」

「なら私、正くんの家、少し寄っていってもいい?」

 

「うん。いいよ」

 

「羨ましいな~」

 

義雄が腕を組み、椅子にのけ反って僕らにつぶやく。

 

「そうそう。義雄、みどりちゃんとはどうなの?」

 

「どうなのって……。平行線だよ」

 

「時に男は大胆な行動を見せなきゃ」

「みどりちゃん、義雄のこと嫌いじゃないよ」

 

「あら、正くん、私に男らしい大胆な行動してくれた?」

 

「いや……、それは……」

 

「してなくても仲良く出来たの?」

 

逆に義雄に問い詰められる。

 

僕の頭に、オレンジ色のワンピースを着た伊豆の夜の海の恵ちゃんが浮かぶ。洗い髪に顔を埋めて……。洗い髪のシャンプーの香りと、うなじの甘い香水の香り。その場の流れで恵ちゃんの右の手のひらに射精した。それが恵ちゃんが僕のことを受け入れてくれたサイン。こんな恋の始まり、稀だと思う。

 

「まあ、時の流れに身を任せることかな」

 

僕がそう言うと、

 

「それ、俺へのアドバイスになっていない」

 

PCを閉じ、皆んなで笑ってカフェテリアを後にした。

 

第87話

 

「これらの結果から、カーネーションの黄色花には3つのタイプがあることが確かめられました」

 

「一つ目は、Aタイプ。細別するとのA-1、A-2の2タイプ」

「このタイプの黄色花はカルコン色素がほとんどで、フラボノールの有無は本実験では確かめられませんでした」

「このタイプのCHI遺伝子発現のノーザン・ハイブリダイゼーションの結果、CHI遺伝子の活性は無いに等しい。つまりほとんどバンドが確かめられませんでした」

 

「次にBタイプ。カルコンとフラボノールが2つあるタイプ。ノーザンのバンドが薄く出ていました」

 

「最後にCタイプ。カルコンとフラボノールが3つあるタイプ。ノーザンのバンドは濃くはありませんが、Bタイプと比較すると顕著にバンドが濃く現れました」

 

恵ちゃんが発表を続ける。

 

「Aタイプにおいては、CHI遺伝子はほぼ壊れているものと推察されました」

「蕾、stage1の時期から黄色いA-1と、蕾時のstage1は白く、stage2から黄色となるA-2との違いは、カルコン配糖化酵素、2’GTの発現時期の違いであることが示唆されました」

 

「2’GT遺伝子は2種類単離されました」

「このどちらかがCHI遺伝子の働く前に発現し、A-1タイプの様に、蕾時から花弁にカルコンを蓄積をさせるものと考えられます」

 

「次に、カーネーションのオレンジ花色の発現機構に移ります」

 

恵ちゃんが一呼吸おいてプレゼンを進める。

 

「オレンジ花色の発現については、濃いオレンジのF55、薄いオレンジのF57の二つのサンプルを用いました」

 

「カーネーションのオレンジ花は、黄色色素のカルコンと、有色色素のアントシアニンとの共存によるもの」

 

恵ちゃんは力強くプレゼンを行う。

 

「濃いオレンジ花色は蕾のステージで2’GTにより黄色のカルコンが溜まり、開花時にCHI遺伝子、DFR遺伝子の活性でアントシアニンが生成され、両色素が液胞内に共存するものと推察されました」

「薄いオレンジは、蕾の段階では無色で、開花と同時にカルコンとアントシアニンが同時に生成されているものと推察されました」

 

「この時、CHI遺伝子がBタイプ、あるいはCタイプである故、少量のカルコンが蓄積し、同時にアントシアニンも生成され、両色素が共存するものと考えられます」

 

恵ちゃんの発表は、論理的かつストーリー性に優れ、皆を楽しませる発表になる。

 

「何か質問ございませんか?」

 

座長役の有田先生が皆んなに問いかける。

 

「はい」

 

浅野教授が手をあげる。

 

「濃いオレンジ花色と薄いオレンジ花色のカーネーションでは、2種類の2’GTのいずれか一つのみが特異的に働くという解釈でいいのですか?」

 

教授の鋭い質問。

 

「今のところ推察段階を超えませんが、その可能性は高いものと思われます」

 

「それでは、1種類のオレンジ花において、2種類の2’GTが両方共に働くというケースは無いものと考えられますか?」

 

教授はとても嫌な質問をしてくる。恵ちゃんも少し困っている。

 

「ありえない事とは……、今の段階では言いかねます」

 

「分かりました。ありがとうございます」

 

確かに。まだカーネーションのオレンジ花の秘密が完全に分かったわけでは無い。

 

教授の質問を考慮すると、三つのオレンジ色の秘密がある事になる。僕らはまだ、その秘密を紐解く第一段階をクリアしたに過ぎない。

 

次に僕の発表。

 

有田先生から紹介を受ける。

 

「Thank you for chairperson」

 

「Good evening, Ladies and Gentlmen」

「Thank you all very much for coming today」

 

「My name is Tadashi Sato. Today I'd like to talk about……」

 

「At the beginning, I'd like to show you the contents of my presentation」

 

僕はプレゼン内容を事前説明してプレゼンに入る。流石に原稿の棒読みはしないが、間違えない様に慎重にプレゼンを進めた。

 

「Thank you for your time」

 

時間通りにプレゼンを終了する。

 

「Are there any question?」

 

有田先生が話すと、工学部の米国人の講師から質問が来る。

 

「Why do you use methanol instead of ethanol for pigment extraction?」

 

えっ?

 

遺伝子関係の発表なのに、いきなり、色素抽出になぜメタノールを使うのかを質問される。

 

「We have tried the process for finding an optimum solvent for extracting chalcons and anthocyanin pigments from flower petal」

 

「Water, trifluoroacetic acid, formic acid, ethanol, and methanol containing hydrochloric acid were tested as solvents for the extraction of anthocyanin pigments from carnation petal」

 

「Methanol containing HCl gave the highest value of total anthocyanin pigment contents compared to the other solvents」

 

「Therefore, methanol containing HCl proved to be the best solvent for the extraction of chalcon and anthocyanin pigments from carnation petal」

 

一応、過去に行ったカーネーション花弁からの色素抽出における抽出溶媒を検討した基礎的研究の結果を返答した。

 

「Great」

 

ネイティブの講師が納得してくれた。

 

しかし、本題とは違うところからも質問が来る可能性があるんだ。いい経験になった。気をつけよう。

 

「正。お前の発表、工学部の連中も感心していた」

「本番もよろしく」

 

浅野教授は満足げに席を立った。

 

「正。お前、本当に天才だな」

 

義雄が言葉をかけてくれる。

 

「いつものようにくっつけ本番に強い正くんは、男らしく頑張った」

「勉強が好きで好きで、たまがない感じも良かったよ」

 

恵ちゃんのあっさりした言葉。あのさ、ご存知通りたまはあるでしょうが。なきゃ女の子だろ。

 

「恵ちゃん、正しくんお疲れ。本番も、だいたい今日の様な感じでいいと思うよ」

「がんばろうね」

 

有田先生も自分の研究室に帰る。

 

「さて、ランチに行こうかにゃぁ~」

 

大樹が両手を上げ、猫の様に伸びをする。

 

「いいなぁ~、大樹はのんびりモードで」

 

「そういえば、しばらく三毛にゃん見ていないわね」

 

恵ちゃんが三毛にゃんのベランダにある段ボール小屋を眺める。

 

「学部長の生物環境工学の教授から、建物内で動物を飼う事の禁止令が出たんだ」

 

「えっ? いつ?」

 

「先週」

「学部の掲示板に貼ってあるよ」

 

「あらあら、三毛にゃん可愛そう……」

「チンチンに手、お触りを教えたかったのに……」

 

恵ちゃんがうつむく。

 

「一階の生物化学研究室で、窓の外から餌をあげて飼っているから心配ないらしいけど」

 

「それは良かった」

「でも、根っこの毛も刈りたい時、私あった」

 

「それは、正でやりなさい」

「まず、ランチ行こうよ。お腹すいた」

 

大樹が皆んなを急かす。

 

「どこにする?」

 

「発表練習の打ち上げだから、外で食べようか」

「ジャルダンの、でまかせランチにしよう」

 

大樹が仕切る。

 

「ピザとかサンドウイッチとかピラフとか。アソートチーズやローストビーフ。スモークサーモン、サラミハム食べ放題」

「シャンメリーで乾杯だね。一人千円コース」

 

「うん」

 

皆んなでうなずく。

 

「さて決まり」

 

「さあ。行こう、行こう!」

 

 

ーーーーー

 

 

「しかし、正は物事をそつなくこなすよなぁ」

 

大樹がサンドウイッチを頬張りながら皆んなに話題を投げかける。

 

「私もそう思う」

 

恵ちゃんも大樹に同意する。

 

「俺も」

 

義雄もだ。

 

「正くんって、意外にデタラメじゃなくて、しっかり守れる計画を立ててから実行するタイプよね。何だか一緒に勉強していてそう思う」

「この時はこれ、その時はそれ、そんな風にあらかじめ予測していたかの様に考え方や回答が出て来る」

 

「不思議よね」

 

恵ちゃんが少し首をかしげる。

 

「僕の場合、皆んなが一見面倒だと思うような長時間かかる複雑で細かい作業も、しっかり計画を立ててから焦らずに黙々と行うことにしている」

「結果として、多少遅れを取っても、最終的には周囲の人よりも作業が早く終わるということが多いね。昔から」

 

「あと、正くんって感情的になることが少ないわよね」

 

「ネガティブな感情をそのまま外に出していると、作業の効率を低下させてしまうんだ。僕はもともとポジティブな性格だし」

「淡々と、常に一定の結果を出して、それをまとめる。そういう風な物事の進め方が好きかな」

 

「正よ。もう少し物事をそつなくこなす方法を教えてくれないかな?」

 

珍しく義雄が僕を頼る。遺伝子関係の特許や関連業務で最近参っているらしい。

 

「そうだね、どんな時でも効率を重要視する。何事においても効率を重視するんだ」

 

「まず物事の全体像を把握して、効率的に目標を達成する方法を模索する」

「ここに時間をたっぷりとかける」

 

「その方法が決まったら細かい失敗は気にせずに、その方法で目標を達成しようとする事」

「何事にもポジティブであること。失敗も織り込み済みで」

「全体像を把握していたら、効率化のために、柔軟に物事のやり方を変える事もできる。突然のトラブルにも上手く対応することができる」

 

「義雄は少し、いや、大いにネガティブ思考のくせがあるからな~」

 

大樹がピザを頬張りながら、他人事を言うかの様につぶやく。

 

「そつなくこなす術を身につけると、気分によって仕事の能率が落ちることがほぼ無くなるから、コツコツ行う作業を一定の能率で長時間行うことができるよ」

「総合的な作業量が他の人よりも多くなることもあるけど……」

 

「正、お前そうだよ」

「要領が悪そうに見える時もあるし」

 

義雄がそう言ってピザを頬張る。

 

「そつなくこなす人って周囲の人に信頼されやすいわよね。結果として、様々な人から仕事を任されることが多くなる」

「正くんそうでしょ?」

 

「どんな状況でも、素早く物事の優先順位をつけるんだ。混乱せずに効率よく仕事をこなしていける」

「だから、ますます周囲からの信頼を得やすくなるという好循環になるのよね~」

 

「恵ちゃん。誇大広告は勘弁してね」

「僕だって、リラックスする、したい時も多いんだから」

 

「仕事と休憩にしっかりしたメリハリをつけることも、物事を進める上でとても大切だよ」

「僕は休む時には思いっきり休むから、それ以外はいつも全力を出しているつもり」

 

「オーケストラの練習。しっかり休んでいるものね」

「だからいつも演奏ではドレミファ、そらしんど~、と苦しんでいるみたいだし」

 

恵ちゃんが言うと皆んなが笑う。

 

「義雄。物事の進め方を他人任せじゃなくて、自分なりに考え出して実行するんだ」

「考えることは、知識の吸収量を増やし様々なアクシデントへの応用力も高いから、困難な物事を解決する時には自分で解決方法を考えて実行することができる」

「自分で考え、自分を育てるんだ」

 

「大切なのは、将来のトラブル予防のための対策を怠らない事。将来起こり得るトラブルを防ぐ対策を欠かさないことが大事だよ」

 

恵ちゃんが口を挟む。

 

「そつなくこなす術は、常に未来のことも考えて行動する事。未来に起こるリスクを最小限にする。よね?」

 

「いわゆる危機管理能力かな?」

 

僕は話を続ける。

 

「あとね、時間配分を決めてから一度に1つのことに集中すること」

 

「正はそうは見えない」

「一度にいくつもの事に対応してるイメージがある」

 

大樹が話を遮る。

 

「違うよ。僕は真逆で、一度に1つの物事だけに集中するタイプだよ」

「一度に複数の物事に対応していると、どうしても作業を間違えやすくなったり、時間のロスが出たりしてしまいがちでしょ?」

 

「それは、そう。俺だ……」

 

義雄がつぶやく。

 

「あと、完璧に執着せず視野を広く保つ」

「物事を完璧に成し遂げることに執着しすぎていると、視野が狭くなって物事の全体像が捉えにくくなり、結果的に効率が落ちる」

「視野を広く持つことで、勉強の能率が上がるだけでなく、周囲の人の事も考える余裕が生まれて、人間関係も円滑になる」

 

「正が皆んなに瀬戸際の魔術師と呼ばれる所以がわかってきたよ」

 

大樹がサラミハムを食べながら、口に出した自分の言葉に納得した素振りを見せる。

 

「あと、休憩時間はしっかりリラックスすることだね」

 

「勉強する時はしっかり勉強に集中して、休憩する時はしっかり休憩する癖をつける」

「物事を早く終わらせたい時は、つい休憩を入れずに長時間仕事をしてしまいがちだけど、休憩を入れない方が逆に仕事に時間がかかってしまうことがよくある」

 

「正くんの徹夜時の、労多くして功少なしの例ね」

 

恵ちゃんが笑う。

 

「まあ、勉強してて遊んでて、一番大事なのはポジティブに自分も周囲の人も元気づけることかな」

「小さな間違いやミスにはこだわらず、ポジティブな態度で物事を進めていく」

 

「でも、瀬戸際の魔術師さんは、周囲の人から誤解されやすい場合もあるのよ」

 

恵ちゃんが真面目顔で話す。

 

「物事をそつなくこなす人は、その淡々と勉強や遊びをこなす様子から、努力をしていない、抱えているのは難しい問題じゃないんだと思われて、余計な仕事を抱えさせられてしまうこともあるの」

 

「伊豆2回、日光5回とか。遊びの例だけど、皆んな、正くんは、あいつならなんとかなるさ、的な気持ちを与えてしまう」

「周囲の人から数多くの雑務を任されてしまうことが多いの」

「器用貧乏になってしまいがちよ。気をつけて」

 

「うん。ありがとう恵ちゃん」

 

「正は、生活貧乏で、器用貧乏」

「どちらにしろ、貧乏って大変だね」

 

大樹が言うと皆んな笑った。

 

 

ーーーーー

 

 

「明後日、植物検定だから」

 

研究室に帰るなり、有田先生は一言言ってそそくさ部屋に戻る。

 

「ほら、正。貧乏暇なし」

 

義雄が困った顔をする。

 

「義雄。今回3級取らないと教授、怖いぞ」

 

「俺今、特許とか遺伝子取りとか卒論で手一杯……」

 

「それは、心で手一杯と思い込んでいるからだろ」

「正のように、そつなく物事を済ます術を身につけなきゃ」

 

大樹が義雄をからかう。

 

「正。どうしよう、俺……」

 

「なるようになる。気楽にいこうよ」

 

「そうは言っても、私たちも2級取らなきゃ」

 

恵ちゃんが真面目顔。

 

「そうだね。猛烈に暗記進めようか。皆んなで、ラテン語の属名憶えから集中しよう」

「一つのスペリングのミスも許されないからね」

 

「実物テストは、明日、皆んなで農場へ行って植物を採取しながら憶えて、研究室に持ち帰り再度憶えよう」

 

「私、実は2級、まだ自信無いわ」

 

恵ちゃんが弱音を吐く。

 

「僕だってそうだよ」

 

「俺もそう……」

 

僕も大樹もまだ2級を取る自信がない。

 

「少なくとも、3級を取った時より進歩しているところを見せないと」

 

僕が話すと、皆んなため息をつく。

 

「俺、実物テスト自信無いから、今日から農場に出て憶える」

 

「義雄よ、バランスよく、効率的に憶えなよ」

「今日は属名のラテン語憶えに集中した方がいいよ」

 

「ああ……、分かった。正の言う通りにする」

「あのさ、正よ……。どうやってラテン語名勉強してる」

 

「Visual Basicで組んだプログラムでランダムに植物名を出して、その植物名のラテン語を打ち込んで、◯か×かを出すようにして、間違えたものを単語帳に書き込む」

 

「俺にもそのプログラムくれないか?」

 

「いいよ。あげる。3級用ね」

 

「私も頂戴」

 

恵ちゃんがニコニコして擦り寄ってくる。いつものいい香り。

 

「俺も」

 

大樹もニコニコして擦り寄ってくる。

 

「わかった。この前作った2級用。300属対応版、サーバーに乗せておくよ」

「一夜漬けみたいになるけど、結構役に立つと思うよ」

 

皆んなが僕の作ったプログラムを使い、早速暗記を始める。

 

「シンプルだけど、なかなかいいプログラムね」

「植物の花、葉、茎、ものにより種子の写真まであるし」

 

恵ちゃんが僕の作ったプログラムを褒めてくれる。

 

「正、羨ましいな。こういうプログラム、すぐ作れちゃうんだもん」

 

「三年間いろいろ頑張ったからね」

 

「彼女も作らず。よねっ」

 

恵ちゃんの満面の笑み。

 

「それ、クリアした」

 

僕が言うと、

 

「もっと早くから付き合っていればよかったねっ」

「そうしたら……」

 

「そうしたら、何?」

 

「ううん。何でもない」

 

恵ちゃんが、口を少し尖らせて、自分で自分の足を軽く蹴る。

 

「恵ちゃんの言葉、仕草。意味深だぞ」

 

大樹が強い口調で僕に向かって話す。

 

「僕は……、何にも知らないよ」

 

「元カレ?」

「いたの? 恵ちゃん」

 

義雄が恵ちゃんの方向を向く。

 

「さあ? どうだか」

 

当たり前でしょ、と言う顔で恵ちゃんはカラカラと笑う。

 

「どうして別れたの?」

 

「彼、海が好きだった……。突然 ワカメ話をきりだされて」

「恥部ハグした関係になって、すぐに別れた」

 

「恵ちゃんも、こずえちゃんに毒されて来たね」

「全く。女の子は、おっぱい何を考えてるんだか分からない」

 

義雄がギャグで返し、

 

「少なくとも、農学部の輩じゃない」

「もっと詳しくいうと、この大学の人間じゃない。馬は調べてないけど」

「もしかして……。正って馬並みか?」

 

情報通の大樹が芸能記者のように弁を振るう。

 

「いいじゃない、恵ちゃんの過去なんて」

「僕にも、過去はあったし……」

 

「えっ? 生活貧乏の正に彼女がいたの?」

 

「遠い昔の話だよ」

 

「遠い昔の話だよ」

 

恵ちゃんが、カラカラ笑ってオウム返しをする。

 

「正。恵ちゃんの過去に嫉妬しているだろ」

「男は女の過去に嫉妬し、女は男の未来に嫉妬する」

 

「ああ……」

 

「私、全然違うよ。正くんの未来に嫉妬してないし」

「逆に、正くん、私の過去にも未来にも嫉妬しているよ」

 

「ズキン!」

 

僕は胸を銃で撃たれたような、驚いた振りを見せる。

 

「平凡な今があればいいよね。恵ちゃん」

 

「うん。器用貧乏さん、一緒にいて楽しいし!」

 

「はいはい、お二人さん。のろけはそこまで」

 

「おいっ! 暇な奴はいるか?」

 

突然、浅野教授がいつもの勢いで研究室に入ってくる。

 

「ひっ……、暇な者はおりません」

 

とっさに大樹がまずい反応をしてしまう。

 

「何馬鹿言ってる! 学生は皆んな暇だ」

「お前、暇だろ!」

 

怒鳴るような声で、大樹の方を振り向く。

 

「ひっ……、暇な者は正と農場の馬くらいです」

 

大樹が余計なことを言う。

 

「正か。すぐに俺の部屋に来い」

 

「わっ! わかりました」

 

「すまんな正。晩御飯、おごるから」

 

「大樹よ。ことによっては、晩御飯だけじゃ済まないよ……」

 

第86話

 

「クラシック音楽って、いろいろな音楽の中でも、とてつもなく非日常的な世界へ通じる扉だよね」

 

隆が以前話したような話題を提起する。

 

「うん」

 

「その世界を体験するなら、できるだけ飛距離は大きく、遠くへ飛ばしてくれる音楽がいいよね」

 

隆が言うと、

 

「それは、モーツァルトやベートーヴェンもいいけど、どでかい後期ロマン派の大交響曲」

「ブルックナー、そしてマーラー」

 

ブルックナー、マーラーフェチの水野が答える。

 

ビールを口にして話を続ける。

 

「やっぱりマーラーだよね」

 

「19世紀から20世紀への音楽の橋渡しをする大交響曲。番号なしの大地の歌と未完の第10番を含めると、11の交響曲を書いた」

「俺、帰りの車で何がしかのマーラーの曲、たまに聴いているよ」

 

「私のもタマに効きますよ。サラリーマンとOLで揉み合っている朝立ちの電車内で」

 

「こずえちゃん。朝イチの電車がそんなに混み合うわけないでしょ?」

 

「電車の最交尾は混んでます」

 

「まあまあ。冗談は置いといて、マーラーの交響曲には、世界がまるごと入っている。常識を超えた巨大編成と楽曲規模、古典的な楽曲構成と調性の約束事を完全に破ってしまう作曲技法」

 

「マーラーは狂気すれすれの強烈な自意識のフィルターを通してその意識と無意識の中に飛び込んできた世界の、あらゆる事象を交響曲という溶鉱炉の中で鍛え上げた」

「すごいよね」

 

水野がコップのビールを飲み干す。

 

隣にいるみどりちゃんが、優しくビールを注ぐ。

 

「マーラーの音楽においては人間の生と死、愛と憎しみ、理性と狂気がせめぎあう」

「自然が、街の喧騒が、英雄の勝利や悲劇が、天国と地獄が、高貴なコラールと場末の酒場で奏でられる流行り歌が、神と悪魔が、そして宇宙までもが、音楽という言語を通じて僕らの意識を横切り、語りかけてくる」

「描写ではなく、そのものが聴こえてきてしまうことに、戦慄を覚えずにはいられない」

 

僕が話すと、すかさずこずえちゃんが口を挟む。

 

「正先輩、マーラーの曲の話題になると、必ず舞台的に同じことを言いますね」

 

「そう?」

 

「そうです」

「舌使いもうまくなりますしね。恵先輩がうらやましいです」

 

こずえちゃんがイヤラしそうな顔でにやける。

 

「当時の人々にとってあまりに斬新過ぎたこれらの音楽は、当然のごとく轟然たる賛否両論を呼んだ」

「交響曲第1番、巨人の初演を聴いた保守的な批評家ハンスリックはこう言ったんだ。私たちと彼のどちらかが狂っている。そしてそれは……、私たちではないはず……」

 

隆が話す。

 

「しかし、無意識の世界から宇宙。インターネット、AI。医学の進歩」

「僕たちを取り囲む知覚がとてつもなく広大に拡張された現代において、マーラーの交響曲はどれほど世界のリアリティを捉えているのかな?」

 

僕が提起する。

 

「まずは巨人からだね」

 

水野が話しはじめる。

 

「24歳から作曲を開始し28歳で完成させ、その後改訂をくり返して現在の形に至ったこの交響曲には、青年マーラーの夢、恋愛と挫折、希望がいっぱいに詰まっている」

「第1楽章、弦楽器群がハーモニクス奏法で延々と引き延ばすAの音で始まる冒頭から、もうこの世ならぬ超自然的な世界の調べ」

 

「鳥の声がそこに介入し、舞台裏のトランペットがファンファーレを奏で、さまざまな楽想の断片がいつしか集積しながらゆっくりと巨大な生命が目覚めるように音楽が動き始める」

 

水野は静かに指揮を振る真似をする。

 

「奏でられる主題は全部歌えるほど親しみやすい」

 

水野はそしてビールを一口。

 

「なんという心ときめく始まり」

「最後にはファンファーレ轟くお祭り騒ぎになるこの楽章が閉じられると、すぐに農民舞曲のような力強い第2楽章がつづく」

 

「ここまでの快活な印象は、第3楽章の不気味な葬送行進曲で暗転」

「コントラバスが奏でる民謡、フレール・ジャックの短調バージョンがカノン風に奏でられ、悲しみと言うよりは皮肉で毒の聴いた葬送行進曲になる」

「中心部に自作歌曲のはかなげな引用があり、してみるとこの楽章は自らの恋愛のシニカルな葬送の歌にも聴こえてくる」

 

「遠ざかる行進曲が消えると、間髪いれず全オーケストラが轟く長大かつドラマティックな第4楽章」

「嵐の様な主部と情熱的な旋律が交替し、何度も解放と勝利の幻影を見ながら、音楽は突然第1楽章の冒頭に戻る」

「ええっ! どうなるのこれ! と驚く」

 

「実際、第1楽章と似たような展開で音楽はふたたび盛りあがって行くけど、最後に堰を切ったようになだれ込むのは、その数倍も壮絶な勝利の凱歌」

「これでもか、これでもか! と咆哮するオーケストラ」

「マーラーの楽譜の指示に従ってホルン奏者が最終部分で全員立ちあがる。その勇壮たる格好のいいこと」

 

水野は立ち上がって、ホルンを吹く真似をする。

 

酔いが回ってきている。こずえちゃんが喜んで拍手をする。これぞ、まさに青春の飲み会。

 

「圧倒的なフィナーレだよね」

 

水野の後、僕が話を奪う。

 

「ところが、マーラーの交響曲はこれで終わらない」

 

「次にマーラーが書いた交響曲第2番の復活は、この勝利の凱歌を歌い上げた、英雄の死を弔う葬送から始まる」

「1時間20分におよぶこの大交響曲は、神の最後の審判とそこからの復活を描き、最後には合唱とパイプオルガンが加わり……」

「そうやって、マーラーの音楽は一度はまった人間を最後の音符に至るまで付き合わせる。最後の未完の第10番で、マーラーは妻アルマとの破綻した愛と、噴出する無意識の狂気を描いた」

 

「最後に、個、に戻ったマーラー」

「第1番で青春、第2番で復活、第4番で天国と天使、第5番で世界の喜びの頂点、第6番で悲劇、第7番で宇宙への入り口とも言える夜の歌、第8番で宇宙を描き、しかして、第9番では人生。個としての、はかない人生を描いた」

 

僕が話し終わると、隆が皆んなに質問する。

 

「マーラーの音楽の破れ目からは、21世紀を迎えた今日でも、荒々しく進歩していく未来までをも飲みこむ世界感、そして壮大な宇宙から、ときには囁かれ、ときには叫ばれる、目には見えないメッセージが秘められているのかな?」

「しかして僕らの命の最後の時には、どんなに時代が人間生活の繋がりや環境を変えたとしても、幸せだった、あるいは不運だった自分自身の人生を省みるしまもなく……、皆んな等しく最後には、ただ一人の人間、孤独な個に戻り、そして静かに消え失せていくものなのかな……」

 

そう、いつだか永遠を語った時と同じ思考だ。一体、人とはどうしていま、凛として確かに生きているのに、ときに生と死について、わけがわからない事で悩み、そして悩むことに悩んでしまうのだろう。

 

「まあ、先輩方!」

「クラシック音楽って、とてつもなく非日常的な世界へ通じる扉でしょっ」

「そんな非日常的なドアをノックして難しく考えないで、飲みましょ、飲みましょ!」

 

「パーッと飲むのが一番!」

 

こずえちゃんがカラカラ笑う。

 

「理系の人は、時にややこしくて困りますです」

「話が難しすぎて、交尾のLINEも殺到してます」

 

「どれどれ。どんな抗議?」

 

僕はこずえちゃんのスマホを覗き込む。

 

「正先輩。イヤっ、イヤです! まっ……、ま恥部見せ画面を盗み見されるのは。いくら先輩と交配の間柄でも……」

 

「そんな言葉使うから皆んなに……」

 

「いいんです、こずえ。皆んなには……。正先輩となら5回されても」

 

 

ーーーーー

 

 

「おはよう」

 

「おはよう。恵ちゃん、早いね」

 

「正くんこそ」

「飲み会の次の日だから、寝坊してくると思った」

 

「逆に、少し飲みすぎたから覚醒して早く起きたよ」

「マーラーについて、深夜まで皆んなで熱く語りあってた」

 

「あらあら。マーラーもいいけど、お勉強もしっかりとね」

 

「うん」

 

「今さっき、分析するカーネーションの黄色花のリスト作っておいたよ」

「始めよっか」

 

二人とも白衣をまとい、実験室に入る。お互いに体を寄せ合い軽くキス。恵ちゃんの爽やかな香りが嬉しい。

 

僕は実験室の冷凍庫の扉を開ける。二人にマイナス50度の超低温庫の冷気がかかる。魔法のランプの煙のよう。

 

「何か御用ですか? ご主人様」

 

恵ちゃんがボケをかます。

 

「お~寒っ!」

 

僕は冷凍庫用の厚い手袋をはいてサンプルを探し取り出していく。意外にバラバラにサンプルが散らばっている。

 

「ど・れ・い・に、し・よ・う・か・なっ」

「正くんのこと」

 

「恵ちゃん。そんな、サンプル探しながら、こずえちゃんチックな言葉は使わない」

 

「はいはい。さて、今日のご馳走、何にしますかね~」

 

恵ちゃんはまたボケる。

 

「恵ちゃん。料理じゃないんだから」

 

僕らはゴソゴソと超低温庫の底の方も探りながら、サンプルの入った袋を取り出していく。

 

「義雄、意外にサンプル使わなかったんだね」

 

「あるいは大樹くんがたくさん取ってきてくれたかよね」

 

恵ちゃんが必要な分だけのサンプルをシャーレに移す。室温解凍。冷凍庫の温度が急激に上がらないよう開け閉めに注意しながらの作業。

 

小一時間経った。

 

「さて、ここまで」

 

「次の乾燥の工程はお昼過ぎだね」

 

「うん。そうね」

 

「僕は研究室に戻るから、恵ちゃん、色素の抽出溶媒作って」

 

「あらあら、私奥さんじゃないんだから、命令形は無しよ」

 

「はいはい。作っておいてください」

 

「まあ、いいわ。作っておく」

 

僕は先に研究室に戻る。

 

ホワイトボードを見ると、大樹は電子顕微鏡室、義雄はいつも通り工学部に行っている。

 

学会提出のプレゼン資料を確認する。

 

「どう? 3報ともほぼ完成したわね」

 

恵ちゃんが溶媒の準備を終え戻ってくる。

 

「うん」

 

「あとは有田先生に添削してもらおう」

 

「そうね」

 

僕は共有サーバーに、有田先生へ資料と共に添削願いを出す。

 

「さて、私はこれからラン温室に行くわ」

「正くんは何する?」

 

「何するって、僕も卒論の実験だよ」

「正直、一週間分は溜まっていると思う」

 

「大変ね、それ」

 

「今日は1回泳動しかできないけど、明日からはしばらく1日2回泳動だよ」

 

「そうそう、学会資料の提出が済んだら、オケの夏合宿もあるしねっ」

 

「そうなんだよ……」

「しかも、その途中、色素研究会での発表もあるし」

 

「英語でしょ? 練習時間、大丈夫?」

 

「何とかなる……。いや、何とかするよ」

 

「正くん、恵ちゃん」

 

「あっ、有田先生」

 

「学会の資料見たよ。あらかじめ経緯も見てたし、3つともよくできている」

「僕の添削が済んだら、浅野教授に見せておくね」

 

「あと、色素研究会の発表の練習なんだけど、いつにする?」

 

「いつでも……、いいですけど……」

 

こめかみに指を当て、有田先生が少し考える。

 

「じゃあ、明日にしよう」

 

「明日?」

 

僕は予想外の展開に驚く。

 

「私はいいですよ」

 

恵ちゃんがハキハキと返事をする。

 

「サーバーをのぞいて見たら浅野教授のスケジュールも空いているみたいだし」

 

ちょっと待て、口頭発表の英文の校閲は済んでいるけど、今日明日の話とは……。

 

「おう、正。どうした?」

「鳩が豆鉄砲を食ったような顔して」

 

有田先生と入れ替わりで大樹がロックの曲を鼻歌で歌い、研究室に入ってくる。

 

大樹に事情を話す。

 

「正は本当に運のない男だね。貧乏暇なし」

 

「それは、例えが違うだろ。大樹だって、頻尿暇なし」

 

「俺なんて暇だし~。荷の軽い身だし~」

「怖いもん無いし~」

 

「ほんと。大樹くんは要領がいいわよね」

 

恵ちゃんが微笑む。

 

「正! 正はいるか?」

 

浅野教授が、いつものイノシシのような勢いで鼻息荒く研究室に入ってくる。大樹は自分事じゃないのに緊張してビビる。

 

「誰かしら? 怖いもん無いと言っていた人?」

 

恵ちゃんが小声で笑う。

 

「はいっ! 何でしょう……?」

 

僕もビビる。

 

「明日の色素研究会の発表練習に、工学部のネイティブの講師を呼ぶことにした」

「大丈夫だな? 園芸学教室の威信もかかっている」

 

大丈夫じゃないなんて、どこの口が裂けても言えない。

 

「だっ、大丈夫です……」

 

「だっ、大丈夫です!」

 

恵ちゃんが少し言葉のつっかえたオウムの様に、明るい口調で繰り返す。おいおい、そんなつっかえ言葉、オウムは言わないぞ。

 

浅野教授はヨシと頷き、笑顔で教授室に戻る。

 

「恵ちゃん。勘弁してよ……」

 

「あら? 私、何か変なこと言ったかしら?」

 

全く。恵ちゃんは舌使いがうまいんだから。舌? いや、口だよな。そういえば……。昨夜のこずえちゃんがイヤラしそうに笑っていた顔を思い出した。

 

いかんいかん。立っているところは窮地。この場に至って何考えているんだか……。

 

第85話

 

「正くん。秋の学会だけど、同じ学会で一人が二つの発表をすることはできないのは知っているよね?」

 

「学会発表の共通の表題は、カーネーションの花色に関する基礎的研究だけど、1報目は、カーネーションにおける黄色花の色素の分布。2報目はカーネションにおける黄色花の発現機構の解析、3報目は、カーネーションのオレンジ花に関する基礎的研究だったのを変更する」

 

「カーネーションのオレンジ花に関する基礎的研究を第2報にして、第1報と第2報を園芸学会、3報目をカーネションにおける黄色花の発現機構の解析とし、植物生理学会での発表」

「お願いできるかな?」

 

有田先生がいつものくせ、こめかみを人差し指で擦る。

 

「いいですけど、旅費出ますか? 自分の台所事情も厳しいんで」

 

「ああ、研究室で持つよ。安心して」

「そうそう、正くん、色素研究会へは、合宿先の志賀高原からの往復だっけ? 長野から名古屋への往復旅費は出ないからね。自腹だよ」

 

大樹も義雄も、恵ちゃんもフフフと笑う。

 

「正くんが、つるべとられて、もらい貧乏」

 

恵ちゃんが、余計な口をはさむ。

 

「細かい話をすると、東京から名古屋までの電車賃分も出せない」

「実体のない旅費の領収書はきれないからね。あたりまえだけど」

「ホテル代は大丈夫」

 

「了解です。ホテル代だけでも助かります」

 

「植物生理学会にはみどりちゃんの研究室の教授が行く。みどりちゃんは行くかどうかわからないけど」

 

「はい。プレゼン資料も浅野教授だけでなく、工学部の教授にもみてもらいます」

 

「そうだね。論文の連名として名前が入るし」

 

「みどりちゃんは自腹で行くそうです」

 

義雄がボソッとみどりちゃん情報を口にする。

 

「義雄はどうする?」

 

「おっ……、俺?」

 

「うん。園芸学会か植物生理学会」

「どちらも秋の大会だから、二泊三日だよ」

 

僕がたずねると、

 

「園……、いや……、植物生理にしようかな……」

 

「みどりちゃんと、福岡の街で飲んで遊んでからお泊りね」

 

僕が言うと義雄は下を向く。何だかいごごちが良くない素振り。僕は恵ちゃん、大樹は歩ちゃんといい仲になっている。義雄はまだだ。

 

「福岡だろ。交通費、宿泊代など結構かかるよ。そしてみどりちゃん代」

 

大樹がおちょくる。

 

「俺は……、純粋に遺伝子関係の勉強のために植物生理学会に行きたい」

 

「肝心の園芸学会には来ないの?」

 

有田先生も言葉にパンチを効かせる。

 

「どちらも行けばいいじゃない」

 

恵ちゃんの、カラッとした回答。

 

「私、両方行くよ」

 

「えっ! 恵ちゃん植物生理学会も来るの?」

 

「うん。皆んなと夜の中州へレッツゴー! スナックにも寄って、帰りに屋台の豚骨ラーメン」

「さらに楽しい夜もあるかな?」

 

惠ちゃんは僕を見て微笑む。

 

「俺は両方行かない。色素研究会も」

「研究室のお留守番」

 

大樹が鼻歌まじりにお気楽に答える。

 

「まあともかく、誰がどこへ行くのか早く決めておいてね」

「繰り返すけど、研究室では発表者分の旅費しか出ないからね」

 

有田先生が念をおす。

 

「よく考えてみ。義雄、発表ゼロなんだよ」

 

「そうだけど……。勉強の為にどれかには行く」

 

「まあ、なんでもいいから決めてまとめておいて」

 

有田先生が研究室を出ていく。

 

そう思いきや、また研究室に戻ってきた。

 

「7月の植物検定は予定どおり月末に行うからね」

 

「え~っ!」

 

「先生。皆んな、こんなに忙しいんですよ。卒論もあるし」

 

「理系の宿命だね。遊ばせないよ。伊豆に3度、日光に5回ほど行った人もいるし」

「マーラー交響曲第一番の演奏会、秋の学園祭で、ポリスのシンクロニシティーとか演奏する人もいるみたいだし」

 

大樹と僕は顔を見合わせる。

 

「いるみたいだし」

 

恵ちゃんが素敵に微笑んで有田先生の言葉を繰り返す。

 

 

ーーーーー

 

 

「そう、そろそろお昼ご飯に行こうよ」

 

大樹が皆んなを誘う。

 

「少し遅くなったね」

 

義雄が反応する。

 

「ちょっと待って」

 

僕は皆んなに声をかける。

 

「有田先生の言った、色素研究会と二つの学会に、いつだれが、どこへ行くのかだけ、まとめてからいこう」

 

僕はサーバーのスケジューラーを開き、皆んなのスケジュールの記入を始める。

 

「な~んだ。結局、義雄が園芸学会か植物生理学会のどちらにいくのかだけ決めればいいことだね」

 

「俺、植物生理学会にする。大決定」

 

「有田先生はともかく、浅野教授は何て言うかな~」

 

茶化したように、大樹が義雄に問いかける。

 

「お~怖」

 

恵ちゃんが首をすくめる。

 

「僕は大丈夫と思うよ、浅野教授」

「義雄には特許をまとめるという大事な仕事があるからね」

 

義雄に助け船を出した。

 

「正の言うことを信じるよ」

 

「予定表、研究室の共有サーバーにあげておいたよ」

「さて、ランチに行こうか」

 

「あら? 正先輩」

 

僕らがカフェテリアに入るのとすれ違いで、こずえちゃん達、一年生のオケの仲良しグループが出てきた。こずえちゃんは、今日は珍しくロリータ風の出で立ち。

 

「何ジロジロ見てるんですか。ロリコンの正先輩。ちょっと下揉んだでしょ? 私の姿」

「オケの練習、今日ありますよ。合奏ですよっ!」

 

「はいはい。こずえちゃん、分かってるよ」

 

「正先輩。ホルンは下手なのにさぼるのは上手だから、皆んなで心配してます。連絡とっても、メリーさんの非通知ですし」

「私たちは三コマ目が空いているので、部室に練習に行きます」

「正先輩も、食事の後どうですか? 練習」

 

「ああ。合奏の前だから、僕も早めに行って音出しするよ」

 

「そう、早く来ないと、ちんこお~くしちゃいますよ」

 

「遅刻なんてしないよ」

 

「待ってます! そのとき、このニラ饅頭を半分あげますね」

 

「うん」

 

僕らは空いてきたカフェテリアの丸テーブル席を陣取る。

 

「大丈夫なの? こずえちゃんと安請け合いの約束して」

 

恵ちゃんは首をかしげる。

 

「正くんの性格はね、八方美人的で、労多くして益少なしだよ」

 

「恵ちゃんの言うこと、当たってる」

 

大樹がつっ込む。

 

「僕のポリシーは、健康を損なわなければなんでもするだよ」

 

「体はもちろん、恋の消化不良にもならないようにね」

 

恵ちゃんが心配してくれる。

 

 

ーーーーー

 

 

僕も恵ちゃんも、定番のカルボナーラを食べることにした。大樹と義雄はペペロンチーノを注文。

 

「そういえば、1報目の黄色花の色素の分布で、カルコンではなくて、3つのフラボノールの開花前と開花後の量的な挙動を再確認したいんだ」

「恵ちゃん、午後から色素抽出してくれる?」

 

「正くんと一緒じゃなきゃいやだ」

 

「そんな、恵ちゃん。子供じゃあるまいし、一人で出来るじゃない」

 

「私一人に任せておいて、明日液クロを流すときだけ正くんなんてずるいよ」

「色々面倒だよ、一人じゃつまんないし」

 

「つまんないとか、つまるとかということじゃなくてさ……」

 

「一緒にやろう!」

 

恵ちゃんが満面の笑みをこぼす。

 

「今日は無理だね……」

 

「ほら。言わんこっちゃない。オケの練習でしょ?」

 

僕は腕を組む。

 

「じゃあ、明日にしようか。明日」

 

「分かった。明日ね~」

 

恵ちゃんが、カラカラ笑う。

 

「正。人を使うの下手くそだな~」

 

大樹が笑う。

 

「人に使われるのは上手なくせに」

 

義雄もにやける。

 

「正くんの将来は、管理職は無理そうね……」

 

恵ちゃんの可愛いため息。

 

「そう、万年平研究員かな?」

「管理職になる俺が言うんだから間違いない」

 

確かに、世渡りのうまい大樹がつぶやく。

 

「僕はその方が気が楽でいいよ」

 

「いただきます!」

 

皆んなでランチの合掌をする。

 

 

ーーーーー

 

 

『正。3時からホルン科で合奏前にパート練習』

『工学部2号館の204教室』

 

隆からLINEが入る。

 

『了解』

 

「恵ちゃん。ランチ済んだらすぐにオケの部室に行くよ」

「その後パート練習。夕方は記念館で合奏」

 

「あらあら。お忙しいこと」

 

「楽器って、3日吹かないとかなり下手になるんだよね」

 

大樹が僕に問いかける。

 

「ああ。練習を1日サボると自分に分かる」

「2日サボると友人に分かる」

「3日サボると聴衆に分かる」

「そういう格言めいた言葉があるくらい」

 

「正は何日サボった?」

 

「一週間くらい」

 

「知っているよね? セロ弾きのゴーシュ」

 

恵ちゃんがキラキラした瞳で語り始める。

 

「ゴーシュはチェロがあまりにも下手なためにいつも楽長に厳しく叱責されていた」

「そんなゴーシュのもとに、カッコウを始め様々な動物が夜毎に訪れ、いろいろと理由を付けてゴーシュに演奏を依頼する」

「そうした経験を経た後の音楽会本番の演奏は成功し、司会者が楽長にアンコールを所望すると、楽長はゴーシュを指名した」

 

「ゴーシュは馬鹿にされたと思って立腹しながらも、動物たちの訪問を思い出しつつ、印度の虎狩りという曲を夢中で演奏する。その演奏は楽長を初めとする他の楽団員から賞賛を受けることになったの」

 

「カッコウはこずえちゃんかな?」

「本番まで、猛烈とは言わなくても、やはりそれなりの練習をしていかないと」

「文武両道ねっ!」

 

「全く、ただでさえ卒論で忙しい理系で演奏会に出ること自体がそもそもの過ちだね」

 

「大樹には言われたくないよ」

 

「俺は簡単。ドラムを叩くだけ。3日サボっても腕は落ちないよ」

「しかし、文系の四年生は、時間に余裕があって羨ましいよな〜」

 

大樹がつぶやく。

 

「でも、就活があるから、余裕があるとは言えないよ」

「最近は、就活と四年次に行う卒研、卒論が重なって大変なので書かせない大学が増えているんだ」

「その点、僕らのように、理系は青田刈り的なものが残っているから、就活にはあまり苦労しない」

「俺らももう、ほぼ進学や就職先が決まっているし」

 

「人によるわよ」

 

恵ちゃんが口を挟む。

 

「私の別な大学に行った友達は理系だけど、就職戦線厳しいって」

「卒論も抱えて、汗やベソかきながら就職活動しているみたいよ」

 

「それは大変だね」

 

「僕の内々定している会社では、倫理憲章のルールに従い10月1日に内定をもらう」

「場所はディズニーランドの近くのホテルとディズニーランド。丸一日拘束される」

 

「内定式の後、スーツでディズニーランドに入るの?」

 

「うん。そう」

 

「何人?」

 

「研究職の二十数人くらい」

 

恵ちゃんがフフフと笑い始める。

 

「ディズニーランドってファンタジーの世界よ」

「スーツ姿で遊んでも面白くないし、周りの人も、現実世界から離れている楽園で、スーツの人達なんて見たくないよ」

「興ざめしちゃうじゃない」

 

「でも、会社からは、そう連絡が来ている」

 

「俺たちもその頃、ディズニーランドに行こうか」

 

「勘弁してよ。伊豆といい、日光といい、僕が行くところへ何度も3度も行かされる」

 

「正はそういう運命なんだよ」

 

大樹が笑う。

 

「さて研究室に戻ろうか」

 

大樹が席を立つ。

 

「うん。卒論の実験進めなきゃ」

 

恵ちゃんが微笑む。

 

「俺も卒論」

 

大樹も続けてつぶやく。

 

「俺も」

 

義雄も。

 

「正はオケね。がんばんなさいよ」

 

「大樹よ。そんな、お母さんの捨て台詞のような口調で言わないでよ」

 

「正ね。がんばんなさいよ」

 

恵ちゃんが微笑みながら、お母さんが話すイントネーションのように言葉を繰り返す。

 

 

ーーーーー

 

 

マーラーの交響曲第一番。巨人。今日の合奏は第4楽章からだ。シンバルの強烈な一撃から第4楽章は始まる。アイロニカルな緩叙楽章の3楽章で眠りにおち入りそうになる観客も、この冒頭の一撃を聞いたら間違いなく目を覚ます。

 

「ホルン。練習番号52の2小節目から、7小節間全員で吹いて」

 

僕らは指示通り、1stアシスタントを含む8人合わせてそこのフレーズを吹いた。

 

「何だか音がバラバラしているぞ」

「もう一回」

 

指揮者が首をひねる。

 

「やっぱりバラついているな」

「正よ。一人吹き」

 

僕はあせる。

 

100人近くいるオーケストラの中で、皆んな心は知れた仲間だとは言え、一人吹きは緊張する。実は僕はここのフレーズが上手く吹けない。まあ、有無をいわず僕は一人吹きをさせられた。しっかり吹けない。

 

「やっぱり正か。そこ、全体がフォルテシモで、一人ぐらいモゴモゴしようと分からないだろうと思っているかもしれないけど、それでここの全体のフォルテシモが濁るんだ」

 

「しっかりと練習しておいて」

 

「はい」

 

こずえちゃんが僕の方を振り向き、笑顔を見せる。

 

「次、前に戻るよ」

「練習番号16から18まで」

 

甘く切ないメロディ。青春時代に感じる蒼い愛。このメロディを恵ちゃんに贈りたいんだ。

 

とわ言え、僕はここは休み。1番ホルンの隆と、2番、3番ホルンが弦楽器の伴奏の和音を奏でる。ゆったりとした、甘美なバイオリンの旋律が美しい。僕は何気なく、優しく弓を引くこずえちゃんを見つめる。こずえちゃんの、普段とは違う素敵な横顔。何だろう。隆がいる、水野がいる、こずえちゃん、みどりちゃん、そして皆んな。

 

自分がこのオーケストラのメンバーであることがとても嬉しい。瞬間、心からそう思った。

 

「正先輩。お疲れさまでした」

 

「こずえちゃんもお疲れさま」

 

「今日は少し厳しくやられましたね。M男の正先輩にはちょうどよかったかも」

 

「おいおい。僕はM男じゃないよ」

 

「でも正先輩、思ったより上手でした。間違えるように成長しましたね」

 

「間違えるじゃないでしょ。で、その、思っていたレベルってどの辺?」

 

「まあ、普通に聞けるギリギリのレベルでしょうか」

 

「全然褒め言葉には聞こえないよ」

 

「正。今日はそれほど悪くなかったね」

 

隆も楽器を拭いて片付けながら僕に声をかける。

 

「どんな意味?」

 

「なんとか普通に聞けるレベル」

 

あた~っ。二人して似たような言葉を投げかけてくる。まだまだ練習が足りない。まあいいか。また今度がんばろう。

 

「今度とお化けは出たことありませんけど、また今度もがんばりましょう」

 

こずえちゃんが、ぼくの心を見抜き見通ししたような言葉をかけてくる。

 

「さて、夕食にしましょう。ちょっぴりのお酒と……」

「私こずえ、朝はパン食で、昼は軽食でした。夜は繁殖にします」

 

おいおい。ちょっぴりのお酒がメインだろ。何で、思いつきで夕飯を飲み会にする?

 

「夏だし、練習後のビールもいいね」

「正。扇屋に行くぞ」

 

隆も水野も乗り気。これは断りきれないパターン。

 

「こずえちゃん、女の子何人か誘ってきて」

 

「は~い! 天然物がいいですか? それとも養殖? 繁殖用もございますが」

 

「なんでもいいから呼んできて」

 

蝉がけたたましく鳴いている。蒸し暑さも増してきた夏の夜のキャンパス。結局、扇谷へ行くのは、十数人の大所帯になった。

 

「隆よ。僕、今日は財布の中身が寂しくて……」

 

「いいよいいよ。正はD千くらいで」

「そのかわり、練習はサボらずちゃんとしなよ。みんなに迷惑がかかるんだから」

 

僕は申し訳なくうつむいていると、恵ちゃんからのLINEが入る。

 

『正くん。練習終わったんでしょ? 研究室に帰ってこないの?』

 

『これからオケの連中と飲み会に行く……』

 

『あらあら。本当に余裕こいてるねっ』

 

『いや。研究も財布も、演奏の出来栄えも、全然余裕じゃないんだけど……』

 

『私、帰るね』

『明日はカーネーションの色素抽出ね。頑張ろうね』

 

『うん』

 

『じゃあね!』

 

『うん。じゃあね』

『そうそう。好きだよ、恵ちゃん』

 

僕は今日の4楽章で感じた蒼い愛の旋律を感じたまま恵ちゃんに伝える。

 

『何よ。どうしたの?』

 

『別に……』

 

『好きよ。私も』

 

「正先輩。おちんこでてて、ボーッとLINEなんて打っていないで。行きますよっ!」

 

「誰も落ち込んでないよ」

 

「さあ!」

 

夏のこずえちゃんが、満面の笑みで僕の腕を強く引っ張る。

 

第84話

 

「あ~あ。疲れた」

 

大樹と義雄は研究室の机に這いつくばるように両手を広げ、右ほほをつける。

 

「かなり気を使ったからね」

 

恵ちゃんも張っていた肩の力をスーッと抜く。

 

「でも、帰りの車で浅野教授、ずっと寝ていてくれたから助かったじゃん」

「ああ、静かな帰路だった」

 

恵ちゃんと歩ちゃん、みどりちゃんが熱いコーヒーを入れてくれる。

 

「一息ついたら、皆んなで生協に軽い晩御飯、食べに行こうか」

 

僕が言うと、皆んなうなずく。

 

「しかし、教授の知識はすごいね。脱帽だよ」

 

僕が言うと、

 

「うん。さすが最高学府の園芸学の教授よね。普段のヒグマの様相でイノシシみたいな鼻息の荒い、気難しい人間とは同じ人とは思えないくらい。目もキラキラ輝いていたし」

 

恵ちゃんが答える。

 

「そう。生きてるだけで、もうケモノ」

 

「大樹。その言葉、教授に伝えておこうか?」

 

「やっ……、やめてくれ。俺が生きてるだけで儲けものという意味だから」

 

「しかし職業としての学問。奥の深さを教えられたね」

 

「あの花は何科の何々と言う名前。しかも和名と少しの英名だけ」

「可愛いね、綺麗だね」

 

「そんな僕らの花への感情や今の知識レベルでは、学問としての園芸学を学ぶには全然足りない」

「学問って、改めて凄い」

 

「正は卒業したらアメリカに行くんだろ」

 

大樹がつぶやく。

 

「うん」

 

「そこでは深く、教授の言うところの学問のようなことを続けられるんじゃないか?」

 

「さあ、どうだか。あくまで庭師だからね。汗をかいて、土いじりをして」

「その上で、自分がどれだけ学問というものと向かい合えるかの問題だね」

 

「正くん、就職先の会社でそれ役に立つの?」

 

恵ちゃんが首を傾げて問いかける。

 

「わからない」

 

「植物関係の仕事なのは間違いないけど、職務内容は入社するまで秘密なんだ」

「企業だから当たり前だけど」

 

「そう、職務内容を深く聞いて見て、いざ就職しなかったら情報ダダ漏れ。大変な事になるもんね。下着泥棒ならぬ下見泥棒。なんてね」

 

恵ちゃんが自分で自分のギャグに笑う。

 

「会社が求めているものは学問ではなくて実務だよ」

「研究職だけど、営利のための研究らしい。学問のための研究じゃないんだ」

 

「学問のための研究は、恵ちゃんや義雄みたく、大学院へ行くなりしてさらに深く学ぶこと」

 

「恵ちゃんは、将来何になりたいの?」

 

「正のお嫁さんじゃない?」

 

大樹がからかう。

 

恵ちゃんは笑っている。

 

「私は、そうね……、前から言ってるけど、手堅く学芸員にでもなるわ。博物館の研究員なんてカッコいいでしょ~」

「将来は博物館の館長よっ!」

 

「案外、恵ちゃんならなれるかもね。男まさぐりなところがあるから」

 

義雄がボソッとつぶやく。

 

「男まさぐり? 失礼ね。それ、私へのホモ言葉?」

 

「まあまあ、お二人さん」

「恵ちゃんの夢。悪くはないね」

 

「そう、義雄は今の内定先蹴って大学院に行ったら、その後どうするの?」

 

「みどりちゃんの旦那になるんじゃない?」

 

また、大樹がからかう。

 

これには義雄も恥ずかしげ、みどりちゃんもうつむく。

 

「そうなれば公務員かな。どんな部署、役職でもいい」

 

「みどりちゃん。義雄、公務員だって」

 

「意外に面白くないのね。義雄くんの夢」

 

恵ちゃんがさっきの仕返し。冷たく平坦な口調で話す。

 

「義雄の人生に冒険は無理だ」

 

大樹も笑う。

 

「大樹、お前の将来ビジョンは?」

 

「俺は皆んなよりさらに堅実で確実。親族経営の会社の常務」

「体が常務なことが取り柄だし」

 

「まあ、つまらないギャグはともかく、歩ちゃんは将来の常務夫人。玉の輿だね」

 

大樹が照れて、歩ちゃんも照れる。

 

「いずれにせよ、この四年生の時間を皆んな大切に使わなきゃ」

「今は、教授の言う通り学問のための学問を学ぶとき。なんでも頭に入る、大切な時」

 

「Where there is love, there is spring life」

「恋もする、特別な時よね」

 

恵ちゃんがつぶやく。

 

「Shall we go.」

「さあ、生協に行こうか」

 

「Let’s go!」

 

 

ーーーーー

 

 

「ミーン、ミーン」

 

朝からけたたましく蝉の鳴く、暑い季節が来た。

 

「夏だね」

 

「うん。夏ね。Summer has come」

 

恵ちゃんが研究室のベランダに出て伸びをする。

 

可愛い恵ちゃん。そして窓から見えるフランス式庭園が鮮やかに目に映る。瞬きもせずに、この絵を脳裏に焼き付けておくよ。

 

「学会発表の資料、出来てきた?」

 

恵ちゃんが僕に問いかてくる。

 

「う、うん。だいたいね」

「EvernoteとDropboxに入っているから、恵ちゃん、時間のある時みてくれる?」

 

「うん、いいよ。私のも入れとくね」

 

「お互いに相談しあいながら完成させていこう」

「義雄のは大丈夫かなあ?」

 

「おう、正。遊びに行こう」

 

大樹が研究室に顔を出す。

 

「遊び?」

 

「ソフトボールをするんだ、ソフトボール。メンバーが足りなくて」

 

「いいよ」

 

「恵ちゃんも来る?」

 

「うん、行く行く。面白そう!」

 

グランドには工学部にいっていた義雄も来ていた。

 

遺伝子の特許で大忙しになっている義雄。でも、みどりちゃんも一緒に来た。悪くはないはず。

 

5回戦の農学部内対抗戦。メンバーが1人足りない。

 

「恵ちゃんも出てくれる?」

 

「私? 私、全然だめよ。球技」

 

「大丈夫、大丈夫。立っていてくれればいいだけだから」

 

「ライトで9番ね」

 

「待ってて。運動靴に履き替えてくる」

 

恵ちゃんが来るまでキャッチボールや守備練習。球速も早い。本格的な試合になりそう。

 

恵ちゃん、大丈夫かな?

 

「では、始めます。農学部4年生紅白試合」

 

「どちらが赤? 白?」

 

「どっちでもいいんだよ」

 

僕らの園芸学研究室は皆んな同じチーム。先行だ。

 

一番、セカンド義雄。

 

「カキーン!」

 

三遊間を抜ける見事なヒット。みどりちゃんも満面の笑みで拍手を送る。

 

二番バッターは倒れ、三番センター僕。

 

センター前ヒット。義雄は三塁まで進んだ。

 

四番サード大樹。バットを持つ格好はいい。ワイルドにブンブン振り回す。しかして三振。

 

「格好だけ、格好だけ」

 

相手チームからヤジが飛ぶ。

 

五番バッターはセカンドフライ。スリーアウト。

 

「私、大丈夫かしら?」

 

恵ちゃんが首を傾げながら、手に不器用にグローブを着けライトの位置につく。

 

「僕がいるから大丈夫よ」

 

「ありがと」

 

僕はライトの恵ちゃん寄りに守る。

 

レフトはセンター寄りに守る。

 

「カキーン!」

 

相手の一番バッターの打った3球目が、恵ちゃんを狙ったようにライト方向へ転がっていく。恵ちゃんをかばうべく僕の足も間に合わない。

 

恵ちゃんが、球速の弱まった球を何とかグローブに入れた。

 

「恵ちゃん! ボール頂戴!」

 

僕が叫ぶと、恵ちゃんはお嬢さま投げで僕にボールを渡す。打者は二塁を蹴って三塁に向かう。僕はライト方向から三塁に遠投。

 

見事タッチアウト。

 

「やったね!」

 

恵ちゃんとハイタッチ。

 

「恵ちゃん。上手じゃん」

 

「転がってきたから拾ったの」

 

恵ちゃんのあどけない可愛い笑顔。

 

「恵ちゃ~ん。ナイス!」

 

相手組からもエールが送られる。

 

少し汗ばんでいる恵ちゃん。

 

「楽しいね。スポーツって」

 

恵ちゃんの何気ない言葉が、夏の爽やかさに色を添える。

 

 

ーーーーー

 

 

試合結果は3対2で僕らのいるチームが負けた。

 

「面白かったね。ソフトボール」

 

「うん。恵ちゃんもなかなかやるじゃない。ヒットも一本打ったし」

 

「あれは、相手が打たせてくれたのよ」

「球のスピードが全然違ってたじゃない。皆んなと」

 

確かに。相手は恵ちゃんに、どうぞ打ってくださいボールを投げた。でも、それを打った恵ちゃんも上手、運動神経いいじゃん。そう思った。

 

「俺、工学部に戻るわ」

 

義雄がそう言って道具を片づけ始める。

 

「義雄、特許資料作成に集中するのはいいけど、秋の学会発表のプレゼン資料作成、進んでいるかい?」

 

「実は、余り……」

 

「僕と恵ちゃんのは完成間近だよ」

「義雄のが遅れると、皆んなのが遅れることになる」

 

「3報とも、それぞれ共通して関連する内容や、個々にのみ特異的な内容など、お互いのプレゼン資料を勘案しながら作成を進めなければならないだろ?」

「学会事務局へのプレゼン資料提出は7月末日までだから、ゆっくりはできないよ。義雄、急がなきゃ」

 

「ああ……。分かってる」

 

「あのさ……」

 

「どうした、義雄?」

 

「俺、学会資料の作成、間に合わないかもしれない。というか、特許優先なのは工学部からも浅野教授からも指示されているし……」

 

「困ったな……。それは大変なことだよ」

 

「俺、学会も、色素研究会の発表もあるのがちょっと……」

「あのさ、学会発表資料の作成は俺の方で何とかするから、色素研究会の発表、正がしてよ」

 

「おいおい。それは無理。僕も……」

 

「ほら、オケの夏合宿があって、出来ない。だろ?」

「正のは自分都合。僕は特許が絡んでいる仕事だから自分都合じゃない」

 

「分かったよ。すぐにでも有田先生を交えて、事務レベルの打ち合わせをしよう」

「学会資料、色素研究会の担当者の責任範囲と発表者の再確認」

「早速、有田先生のところにいってくるよ」

 

僕は有田先生の研究室へ向かった。

 

「有田先生が今、打ち合わせしようって」

 

「ああ。早いほうがいいからね」

 

僕らはそれぞれの立場を主張し、先生に相談した。

 

結論が出た。

 

「あらあら。結局正くん、義雄君分の学会資料作成と色素学会での英語発表もすることになっちゃったね」

 

「ああ……。困ったことになった」

「確かに、義雄が特許に集中しなければならないのは分かる。けど……」

 

「大樹は最初から本件のメンバー外だから頼れないし……」

 

しかし、僕も暇ではない。オケの夏合宿も……。

 

「正くんならできるよ」

 

恵ちゃんは、他人事のように笑顔だ。

 

「ちゃぁ~んと私も手伝ってあげる」

 

「俺にもできることがあれば」

 

大樹も僕に気を使っていてくれる。

 

「分かったよ……。やろう!」

 

僕は踏ん切りをつけた。

 

「カッコいいじゃん。正くん!」

 

「カキーン!」

 

僕はバットを思いっきり振るマネをする。

 

「どうしたの? 正くん。壊れちゃった?」

 

「三塁に恵ちゃん。二塁に義雄。ファーストに大樹」

「キツイ勉強、怖い教授」

 

「自分がホームランを打って、皆んなでホームベースを踏まなきゃ」

 

「努力すれば自信がつく。自信がつけば強気でいられる」

「強気でいたら諦めなくなる。諦めなければ負けるもんかと思う」

「負けるもんかと思えば集中する。集中すれば結果が残せる。夢が叶う」

 

僕は惠ちゃんに笑顔で答えた。

 

「その話、負け犬のオーボエに聞こえますです」

「試合にも負けたし」

 

「こずえちゃん? なんでここに居る?」

 

「先輩方のソフトボールを、教育練の3Fの窓から、授業中、流し目一茂してました」

 

「流し目? 長嶋よね?」

 

恵ちゃんが聞き間違えかどうか確認する。

 

「勘定をまるで出さない正先輩が、珍しく感情を出しましたね」

 

「何をおっしゃるウサギさん。いつもこずえちゃんとの食事では、僕が勘定払っているじゃない」

 

「それは、暗にこずえの体が僕的だからでしょう」

「いつもあんな状況になるとは何人も知らなかった私……」

「時に、正先輩のアパートで、とてもいい貝缶を味わったこともありました」

 

「あのさ、こずえちゃん。今僕たち大切な話してるの。目の前にある困難を乗り越えるために。何かあるなら後でさせて」

 

「うしろでさせて……。あらあら、股、感情が高ぶって」

 

今日のこずえちゃんは、構ってちゃんモード。

 

「わかった、わかった。今晩軽く飲もう。それでいいでしょ?」

 

「はい。今夜の酒のおつまみは、アシの開きでいいですね?」

「こずえ、飲み過ぎると体がホテルのはご存知の通りです」

 

「はいはい」

 

「3発良っか、がオススメです。尻モモ狂いで頑張ります」

 

「はいはい。分かったから学部に戻りなさい」

 

僕はこずえちゃんを軽くあしらう。

 

「分かりました。恋人たちのハラバイを歌って帰ります」

「5コマ目は音楽ですから」

 

こずえちゃんが帰った後、恵ちゃんがボソッとつぶやく。

 

「こずえちゃんには、困難とか緊張はないのかしら?」

 

「こずえちゃんは、いつも緊張していると思うよ。お笑いは、緊張して言葉を選ばないと全然面白くない」

「世の中って、思っている程皆んな他人には興味がない。ギャグはこずえちゃんの装いという武器だよ」

 

「でも、こずえちゃんのように、若くて可愛いい子なら、それだけでいいのに」

「私、こずえちゃんからノー天気で緊張しないコツを学びたいわ」

 

「コツなんてない。緊張できることを経験させてもらっていることを幸せだと思うことだよ」

 

「なんだか、胸のつっかえがとれた。この困難。僕らには幸せなんだ」

「”苦しい”から逃げちゃダメだ。逃げようとするから苦しくなるんだ」

 

「学問も恋も一緒だね。夢は逃げないよ。逃げるのはいつも自分自身だ」

 

第83話

 

「お昼はガッツリ系の中華なんで、朝はサンドウイッチにしようと思っていたんですが、意外に時間がかかるんで俵むすびにしました」

 

「美味いな、このおにぎり」

「いい嫁になる」

 

「この卵焼きも恵ちゃんか?」

 

「これはみどりちゃん作です」

 

「いい嫁になる」

 

教授は美味しいものを頬張って上機嫌。

 

有田先生の8人乗りのワンボックスカーに8人満杯。助手席は教授。真ん中3人は、恵ちゃん、歩ちゃん、みどりちゃん。後ろの3席は僕と大樹と義雄。

 

「あの、教授の奥さんのお料理は?」

 

恵ちゃんが教授に話しかける。

 

「朝飯は作ってくれるが、弁当なんて子供のもの以外作らない」

 

「俺には昼食とたばこ代、合わせて1日千円。それだけ」

「夕食は、子供が余したものを食べる」

 

「お弁当って、二人分も三人分も、作るならそんなに手間が変わらないと思うんですが?」

 

「かあちゃんの考えていることは分からん」

 

僕らも、普段教授の考えていることは分からない。なんか、奥さんも教授の考えていることが分からないから、そういう事になるんだろう。

 

「そう、あと、チューリップウインナー。うずらの卵付きです」

「着いたらすぐに中華料理ですから、軽いものにしました」

 

教授が俵むすびを美味しそうに、人一倍ムシャムシャ食べている。

 

「教授。あまり食べたら中華食べられなくなりますよ」

 

有田先生が気を配る。

 

「うまいものは、うまいんだ。今食べる」

 

教授の言葉に、有田先生は口を閉じる。

 

少し、車内が暑くなり、ブラウスのボタンを外した恵ちゃん。

 

「恵ちゃんのTシャツ、面白いね~」

 

有田先生がルームミラーをチラッと見てつぶやく。

 

「はい。<やればできる子>です」

 

「ついでに歩ちゃんは<人見知りです>、みどりちゃんは<犬と話せます>を着てきました」

「三人で話を合わせて」

 

「じゃあ、男衆もそうか?」

 

まさか教授の前で、大樹が<おっしゃる通り>、義雄が<シナリオ通り>とプリントされた道路標識を模したTシャツを着て来られるわけがない。

 

「ぼっ……、僕らは普通です」

 

大樹がどもる。

 

「普通ってなんだ?」

「普通とは、あまねく広く世に通用する状態のこと。お前たちは社会ではまだ全然通用しない」

 

教授の言葉に、皆んな黙る。

 

「皆んな、トイレは大丈夫?」

 

有田先生が重い空気を取り払ってくれる。

 

「はい。大丈夫です」

 

「一応、羽生サービスエリアに寄るね」

「NEXCO東日本が提案する新タイプの商業施設、Pasarというらしい」

 

「調べてきたんだ」

 

駐車場がかなり混んでいる。

 

「ほんと。洗練された粋な和風モダンな建物ね」

 

恵ちゃんが驚く。

 

教授は、タバコを一服しに行く。

 

「大樹。タバコは?」

 

「それ、聞かないでよ」

 

喫煙所に向かわない、いや、向かえない大樹の気持ちがよくわかる。

 

「そういえば、この前は佐野サービスエリアでウサギの王国みたいのを見たな。思い出した」

 

僕がいうと、

 

「こずえちゃんたちと一緒に行った時?」

 

「確かそう。もう日光に4回も行っているから、いつの何だか分かんなくなってくるね」

「小雨が降っていて百均の傘をかけてあげると、こずえちゃんから、ダイソーなものをありがとうと言われた」

 

恵ちゃんが、フフフと笑う。

 

「こずえちゃんが絡むと、なんでもギャグになっちゃうね」

 

 

ーーーーー

 

 

「ニッコウキスゲが咲いているな」

 

教授がゆったりとした口調で話す。

 

「昔ユリ科、今ススキノキ科だ」

「札幌の歓楽街みたいな名前の科だ」

 

教授が少しニヤける。

 

「皆んなも知っての通り、ユリ科はAPG分類で12の科に分けられた」

「APG分類は知っているな?」

 

大樹がモジモジしている。義雄はビビってる。

 

「はい。APG、すなわち被子植物系統グループ Angiosperm Phylogeny Groupは、植物の分類を実行する植物学者の団体です」

 

「APG体系は、1998年に公表された被子植物の新しい分類体系。その後も変更が加えられています」

 

恵ちゃんが空気を読んで、テキパキと答える。

 

「そう。旧分類法の新エングラー体系やクロンキストン体系がマクロ形態的な仮説を根拠に演繹的に分類体系を作り上げたのに対して、APG体系はミクロなゲノム解析から実証的に分類体系を構築するものであり、根本的に異なる分類手法だ」

 

教授が熱く語る。

 

「葉緑体DNAの解析から、被子植物の分岐を調査する研究は近年飛躍的に進み、新しい知見はAPGに集約されている」

「学術先端分野はすでにAPGの体系に移行し、クロンキスト体系は歴史的体系として扱われている」

 

「正。昔のユリ科の分類指標は何だったか知っているな」

 

「はい」

 

「単子葉植物で、花びらが3の倍数で形成されていたら、とりあえずユリ科に突っ込んでおけ、的なものだったと思います」

 

教授が微笑む。

 

「もちろん、もっと分類形質があるが、ほぼその通り」

 

「例えばネギ。これは従来ユリ科だったが、キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属に、このニッコウキスゲ、ヤブカンゾウは、ユリ科からキジカクシ目ススキノキ科になった」

 

「俺が大きく驚いたのは、ギボウシがユリ科からキジカクシ目キジカクシ科になったこと」

 

「世界にも、衝撃的なニュースだった」

 

「ユリ目でも、ホウチャクソウはイヌサフラン科へ、ショウジョウバカマはシュロソウ科、ユリズイセンはユリズイセン科、ツバキカズラはツバキカズラ科、サルトリイバラはサルトリイバラ科へ分類された」

 

教授は弁を続ける。

 

「ユリ科自体は、ユリ、チューリップ、カタクリなど16属ほどに小さくなり、それまでユリ科だった、アスパラガス、マイヅルソウ、ナギイカダ、ヒヤシンス、スズラン、ニラ、ニンニク、タマネギ、ラッキョウは、それぞれの目や科の違うところへ分類された」

 

「有田先生。先生方も戸惑ったんじゃないですか?」

 

「すごく戸惑ったよ。いや、正直今でも戸惑っている」

「常にAPG分類の情報が更新されるからね」

 

有田先生が、癖であるこめかみに人差し指をこすりながら答える。

 

「有田君も俺も覚え直しだ。APG体系に追従して」

「そして、君たちは植物検定を通じ、最新の分類体系を覚えてもらう」

「明日にでも変更のあるものがあることを承知で」

 

「まず、科の前に目のオーダーを押さえておけ」

 

「皆んな、植物検定の冊子持ってきてる?」

 

有田先生が確認する。

 

「はい」

 

皆んなで口を揃えて答える。

 

「じゃあ、教授の話を冊子を見ながら聞いていって」

 

植物検定の冊子。それぞれの仕草で、目次をさっと斜め読みする。

 

今にも泣き出しそうな空色。自然林の静けさに包まれ、ゆっくりと時が過ぎる。

 

植物の学名は、国際植物命名規約にもとづき、属名(generic name)、種小名(specific epithet)をラテン語形で列記し、最後に命名者を付記する二命名法によって表記される。つまり、個々の植物名は斜め読みした科の下に、属名、種小名で示されている。

 

科名を頭に叩き込んだ上で属名を暗記する。もちろん、実物の花や葉、時に種子と共に。

 

植物検定は500属憶えろと言っているがウソだ。実際には1000属以上憶えてからなんぼの世界。

 

大樹が最後に冊子から目を離す。

 

「さて、行くぞ」

 

教授は学問の扉を開けて、植物園の奥へと僕らを連れて行く。

 

 

ーーーーー

 

 

「今回はユリ科に集中して見ていこう」

「いっぺんに何でもかんでも言われても、アホなお前たちには憶えられないだろうからな」

 

「まずイワショウブ、Triantha japonicaはチシマゼキショウ科として独立、オゼソウJaponolirion osenseは1属1種、サクライトソウ科」

 

僕らは植物検定の冊子をめくりながら教授の話を聞く。

 

「キンコウカ、Narthecium asiaticum はキンコウカ科として独立」

 

「ヤブカンゾウ、ギボウシ、ヤマラッキョの仲間はキジカクシ目で、ヤブカンゾウはさっき話した通りにススキノキ科」

 

「ギボウシはリュウゼツラン科と共にキジカクシ科を形成、ヤマラッキョやネギの仲間はヒガンバナと共にヒガンバナ科を形成した」

 

「これを取っ掛かりにユリ科細分化の分類を憶えて欲しい」

 

「教授。確かに、ヤブカンゾウ、すなわちHemerocallis属、和名ワスレグサ属は形状がユリに似ているのに大きく分類されたのは驚きですね」

 

僕が新分類体系の感想を話し始める。

 

「Hosta、ギボウシ属がリュウゼツラン科のAgave、つまりアロエやリュウゼツランと近縁だなんて」

 「そしてイトラン属、すなわちユッカやキミガヨランとも同じ科に入るなんて」

 

「キジカクシ科は形態での共通の特徴がよくわかりませんね」

 

恵ちゃんが、不思議顔で首をかしげる。

 

「繰り返しになるが、学術先端分野、園芸学も植物分類はすでにAPGの体系に移行し、クロンキスト体系は過去の歴史的体系として扱われている」

「いいか、今を覚えるんだ。理屈はAPGが示している」

 

「ネギとヒガンバナでヒガンバナ科を形成したのは、花や形態の質的に理解できますね」

 

「ああ、正の言う通りだ」

 

「さて、進もう」

 

教授は僕らを先導して歩く。まさに今日話題に上ったユッカが咲いてきたところ。教授があらためて、ギボウシと共にキジカクシ科に入るものと説明してくれる。

 

テリハノイバラも咲いてきた。Rosa luciae。バラ属、Eurosa エウロサ亜属、Synstylae シンスティラ節。

 

バラ属の化学分類が僕の卒論。亜属や節まで暗記していて当然。

 

イヌツゲ、クララも咲いている。

 

クララ、Sophora flavescensマメ亜科の多年草。教授の話では、この根を噛むとクラクラするほど苦いから、言葉転じてクララになったらしい。

 

シロテンマ、タケニグサ、ボダイジュも咲いてきた。もうじき夏だ。ゴマナ、ヒメシャラ、チダケサシも咲いている。ハクチョウゲ、Serissa japonica の花も優しい。

 

「おい、大樹」

 

「はいっ! 教授」

 

「エゾスズランって何科だと思う?」

 

大樹は緊張する。目の前に花もない。

 

「え~っと、スズランですからユリ科です」

 

教授は微笑む。

 

「ほら、バカはすぐ引っかかる」

「エゾスズランはEpipactis papillosa、ラン科カキラン属だ」

「しかも、ユリ科にあったスズランはキジカクシ科に入った」

 

「スズラン亜科スズラン属だ」

 

「スズラン亜科には観葉植物のサンセベリアやドラセナ、オモト、ヤブラン、ハランが入っている」

「間違えることも大切だ。忘れないだろ」

 

大樹は教授の言葉に納得しながらも歩ちゃんの前に立ち、少し恥ずかしげ。

 

「ほら、あそこに咲いている」

 

教授はエゾスズランを見つけ指差す。

 

「近くにミズチドリもある。これもラン科、属名はツレサギソウ属Plantanthera」

「名前は、デルフィニウムの和名チドリソウに似ていて水湿地に生えていることから来ている」

 

「ユキノシタも咲いているな。Saxifraga stolonifera、ユキノシタ科ユキノシタ属は変わらないが、目のオーダーで、バラ目からユキノシタ目に抱合された。憶えておけ」

 

「義雄」

 

「はいっ!」

 

「ホトトギスが咲いている。何科だ?」

 

「ほっ、ホトトギスですから……、ユリ科です」

 

義雄が冷や汗をかき、しどろもどろに答える。

 

「正解だ。Tricyrtis属」

 

「名前の由来は、ホトトギスの羽毛の斑点と花の模様が似ているために、花にもホトトギスという名前がつけられた。単純明快」

 

「日本には、ここにあるように、黄色のタマガワホトトギスが数多く分布している」

「ユリやホトトギスの仲間は狭義のユリ科を形成している」

 

「まだまだ、イヌサフラン科、シュロソウ科、ユリズイセン科、ツバキカズラ科、サルトリイバラ科などユリ科を抜け形成された科の植物があると思うから、その都度説明する」

 

「一休みしよう」

 

憾満ヶ淵の化け地蔵を望む対岸の広場で一服。

 

恵ちゃん、歩ちゃん、みどりちゃんがお茶を準備し、お菓子を広げる。

 

僕と恵ちゃん、大樹と歩ちゃんが寄り添う。恥ずかしげに、義雄がみどりちゃんの横に座る。

 

教授は、朝の残り物の俵むすびと卵焼きを頬張る。中華料理屋でたらふく食べて来たと思いきや、すごい食欲だ。

 

「教授、食べ過ぎじゃないですか?」

 

有田先生が教授を気にかける。

 

「美味いものは美味い」

 

微笑みながら、教授は子供のように手を休めない。

 

しかし、さすが教授だ。だんだん僕たちの中で旧ユリ科から形成された12の科が、意外にすんなりと頭に入ってきた。まず、旧ユリ科からだ。

 

旧ユリ科を制すれば、他のAPGが示す目や科、そして属名を効率よく覚える回路が頭に形成されそうだ。

 

教授のもくろみ通り?

 

教授が機嫌よく、食べながら話す。

 

「お前たちは若い。頭の中は空っぽだ。一度きりの人生、青春の真っ只中だ」

「人生は、何事もなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりに短い」

 

「お前たちは、今、この時、この瞬間、学問だけを考えろ」

 

「過去は及ばず、未来は知れず」

「いつか来る、青春が終わってからのことは、青春が始まる奴らに任せればいい」

 

「今、この瞬間は大いに学べ」

「学問とは、それを感ずる人にとっては悲劇で、考える人にとっては喜劇だ」

 

僕らは、教授の言葉が腑に落ちたような落ちないような、ソワソワとした気持ちで首を縦にふる。

 

「正くん。青春には学問だけじゃなく恋も大事よね~」

 

恵ちゃんが僕の耳元で囁く。

 

地獄耳の教授が僕たちをにらむ。

 

「恋はな、いい雰囲気、悪い雰囲気、可愛い、醜い、かっこいい、かっこ悪い。お互いが持つ全てを好きになるんだ」

「お互いの全てを愛す」

 

「まあ、そんなこと出来っこない」

 

教授は不気味にニヤける。

 

「枯れない花はないが、咲かない花がある事に気づく日が来る。それが恋の定めだ」

「無駄な事に時間を費やすな」

 

そう言うと、ようやく教授は食事の手を止めた。

 

「お前たちを恋というつまらん夢から救うのは、理屈じゃなく多忙だ」

「覚悟しろ」

 

「お~怖」

 

恵ちゃんが肩をすくめて小声で呟く。

 

雨がパラパラ降り出した。雨足が少し、急ぎ足でやってきそう。

 

「虹を見たければ、ちょっとやそっとの雨は我慢するんだな」

 

教授は腰を上げ、恵ちゃんを見て珍しく優しく微笑む。教授はなんだかんだ言っても、陰では僕たちの恋を応援していてくれている。

 

「さあ、行くぞ。次はバラ科だ」

 

第82話

 

「ただいま~」

 

「おう……。正、恵ちゃん」

 

二人はPCと睨めっこしながら、植物検定の冊子をめくっている。

 

「そっけないおかえりの言葉だね」

 

「ああ、明日の植物園のことで……」

 

「何かあったの?」

 

「いや、浅野教授が、明日咲いている花を和名じゃなく属名で答えろと言うんだ」

「科名は和名でいいらしいけど」

 

「あら、それは大変」

 

恵ちゃんが笑みをこぼす。

 

「正や恵ちゃんもだぞ」

 

「くわばらくわばら」

 

恵ちゃんがつぶやく。

 

「だから、今こうして日光植物園で今咲いているだろう花を調べて、属名を憶えているところ」

 

大樹も義雄も必死な様子だ。

 

「一夜漬け、あまり効果ないと思うよ」

 

「正はいいよ。記憶力あるし」

「この前の植物検定の属名のラテン語、満点だったじゃない」

 

「恵ちゃんも植物同好会出だし、余裕でしょ?」

 

「僕らも今咲いている全部の花の属名は厳しいよ。分からないものは分からないと言えばいいだけでしょ?」

 

「どれが分からないかによる」

 

「冊子に載っていないものは和名も属名も分からなくていいらしい」

「でも、載っているものは全て属名で答えろ。そう言う指示なんだ」

 

「学名に限らず、この冊子のすべての植物の名を知っている人なんて多分存在しないよ」

「きっと作成した有田先生でさえ危ういはず」

 

「なあ正よ。どうやって属名覚えてる?」

 

「好きになって、数をこなすだけ」

「花葉の姿を脳裏にビジュアライズして、ひたすら暗記するだけだよ」

 

「正くんの言うとおり。一夜漬けは逆効果かも。混乱するよ」

「今の二人のそのままでいいと思うんだけど」

 

「あ~やめた!」

 

大樹がノートPCを閉じる。

 

義雄もため息混じりに冊子を閉じる。

 

「なるようになるさ」

 

僕が言うと、恵ちゃんが繰り返す。

 

「なるようになるさ」

 

「晩御飯、どうする?」

 

「もう7時か。生協ギリギリだね」

 

大樹が呟く。

 

「どう、恵ちゃんも」

 

「そうね、私も行こうかしら」

「でもお昼にご馳走を食べたから軽いものでいいかな?」

 

「じゃあ急ごう。生協、8時に閉まっちゃうから」

 

 

ーーーーー

 

 

「どうだった日光?」

 

「食事が美味しかったし、観光も楽しかったよ。オケのメンバーも喜んでいた」

 

「私、ワールドスクエア、面白かった」

「建物は、本物の1/25の大きさで忠実に作られていて」

「一つの建物あたり、約5000万円くらいかかっているらしいよ」

 

「鬼怒川温泉にも入ってきた」

 

「恵ちゃんも?」

 

「ううん。私は散歩組み」

 

「何だ。二人して家族風呂に入ってくればよかったのに」

 

大樹の冗談で、恵ちゃんが少し恥ずかしげ。

 

「開放感のある露天風呂が魅力的だったね。 鬼怒川の景色を一望できた」

 

「いいなあ~」

 

「俺たちも、食事、ワールドスクエア、温泉と遊びたかった」

 

「明日は、個人授業のようなもの。教授にビクビクしながら植物園を散歩しなきゃならない」

 

「いや、その前の食事も喉を通るかどうか……」

 

「中華料理で漢字がらめにあうかも……」

 

「それを言うなら、ラテン語がらめ、でしょ?」

 

恵ちゃんが真面目顔で、大樹のギャグを軽くあしらう。

 

「この生協のBGM、明日何か起こる予感がする……」

 

大樹がボソッと呟くように歌う。

 

「正解に一つだけの花」

「一生懸命になればいい……」

 

「それ、漢字がらめより面白い」

 

恵ちゃんが、素敵に微笑む。

 

 

ーーーーー

 

 

「さて、研究室に戻るよ」

 

僕がそう言うと、大樹も義雄も、そして恵ちゃんもぽか~んと口を開ける。

 

「どうして?」

 

「一夜漬けだよ、一夜漬け」

 

「正、恵ちゃんと一緒に帰らなくていいのか?」

「お楽しみもあるだろうし」

 

「大樹と義雄に教えてあげるよ。植物園で咲いている花のこと」

「何せ、今日見てきたばかりなんだから」

 

「最低限知らなきゃならない花の属名は今日憶えよう。教えてあげる」

 

「あら、正くん、優しいのね」

 

恵ちゃんが微笑む。

 

「だって明日は、歩ちゃんやみどりちゃんも来るだろ?」

「大樹や義雄に恥をかかせたくない」

 

「ありがとう、正」

 

僕らは恵ちゃんとバイバイして研究室に戻る。

 

 

ーーーーー

 

 

「ウツギ属はDeutzia属ね。もちろんアジサイ科」

「先生は種小名までは憶えなくていいと言ってたから、属名だけ」

 

「イワガラミ属はSchizophragma属、アジサイ科」

 

「ああ、この二つは大丈夫」

 

「じゃあ次に、エゾキスゲ。Hemerocallis属、ススキノキ科」

「これはユリ科と勘違いしないように」

 

「了解、了解。ススキノキ科ね」

 

義雄がメモをとる。

 

「和名で綴ると、ワスレグサ属。忘れないように」

 

「ありがとう。憶えやすい。忘れないようにワスレグサ」

 

「どこにでも生えているエゾミソハギ。ミソハギ科、Lythrum属」

「ミソハギの和名の由来はハギに似て、みそぎに使ったことから禊萩、または溝に生えることからミソハギ」

 

「わかりやすい」

 

「あと属名は、リスがランランしてるから、リスラム、みたいに語呂合わせすると記憶に残る」

 

大樹がメモする。

 

「オカトラノオ、サクラソウ科。これはね、意外にサクラソウ科と言う言葉が出てこない」

「属名はLysimachia。これは憶えやすいよね。利子撒きや。なんてね」

 

「次にラン科の花」

 

「憶えるべきは、カキラン、エゾスズラン、シラン、ミズチドリの四つ」

 

「カキランとエゾスズランは、Epipactis属。同じ属だよ」

「シランは言うまでもないね、学名Bletilla striata。Bletilla属」

 

「純白のミズチドリ、Platanthera属。別名ジャコウチドリ、ツレサギ属」

 

「ちょっと待って」

 

大樹が僕の説明を遮る。

 

「ラン科を整理する」

「シュンランやエビネは咲いてた?」

 

「もう花期はとっくに終わっているよ。余計なこというと、教授ぶちキレるよ」

 

「そうか。この四つだな」

「浅野教授、ラン科にはうるさいからな」

 

大樹と義雄が暗記している。男同士だが、真剣に暗記する二人の横顔はまだ少年のようで可愛い。

 

 

ーーーーー

 

 

「さて、もう10時だね。そろそろ帰ろうか?」

 

「そうだね。正のおかげで、随分明日の植物園が楽しみになってきた」

 

「こんばんわ」

 

「あれ? 歩ちゃんまだいたの?」

 

「はい。今日は実験が遅くなってしまって」

 

「大樹、家まで送って行ってあげなよ」

 

「ああ」

 

「ちょっと正、いいか?」

 

大樹が実験室に僕を呼び込む。

 

「何? 大樹」

 

「俺、歩ちゃんといい仲になったんだ」

 

「いい仲?」

 

「分かるだろ……。男女の仲」

 

「congratulations ! おめでとう!」

「義雄には言った?」

 

「もちろん。でも恵ちゃんは知らない」

 

「僕が知らないもの、恵ちゃんが知ってるわけないよ」

 

「とにかくおめでとう。You did it! やったじゃん! だね」

 

「ああ。身を固めた」

 

「別に、元々大樹の性格は浮気性じゃないから身を固めるなんて言葉は変だよ」

 

「いや、ナンパ癖、正も知ってるだろ?」

 

「ナンパを繰り返し、女の子の友人に、そんな付き合い方をしていたら女の子がかわいそうだよ、と強く言われてた」

「でも、お互いに合意の上だからいいじゃんだとか、女の子たちもその時は楽しんでるからいいんだよと軽くかわしてた」

 

「そうやって女の子の心をもてあそんで楽しい? 涙する子もいるのよ。そう聞かれても、いつも楽しいし、後はその子次第と答えてた」

「涙で目が洗えるほどたくさん泣いた女は視野が広くなる、とか捨て台詞もカッコつけて」

 

「大樹の過去には同情しないよ」

「よかったじゃない。歩ちゃん、いい子だよ」

「でも、歩ちゃんの未来に嫉妬しないようにね。大樹はこれまで女の子に前科持ちみたいな事してきたんだから」

 

「遊びじゃなくて、恋のチャンスなんてそうたびたびめぐってくるものではないよ」

「だから、いざめぐってきたら、とにかく自分のものにすること」

 

「うん。わかった」

 

二人して顔を見つめ合い微笑む。

 

「じゃあ、俺、歩ちゃんと帰るね」

 

「オーケー。僕は義雄とコーヒーでも飲んだら帰るよ」

 

「じゃあ、明日ね」

 

「うん。明日」

 

義雄が熱くて甘いコーヒーを二杯いれてくれていた。

 

僕を笑顔で待っている。

 

「義雄と二人だけの時間なんて久しぶりだね」

 

「ああ。いつも一緒にいそうで、なかなか一緒にいられない」

「最近俺、工学部に入り浸っているしね」

 

「どう、その後の進展」

 

「2’GTが2種類単離された。そこで一息、休憩中」

「みどりちゃんも、研究室の四年生の先輩の手伝いとか始めて、カーネーションの遺伝子取りだけに集中できる時間が短くなってきた」

 

「そう。でも、おおよその目的は達成したね」

「CHI遺伝子についての知見、DFR遺伝子の単離、2’GT遺伝子の単離」

 

「すごいよ、二人で」

 

「しかも、動く遺伝子の中でも、珍しいトランスポゾンを単離した」

 

「遺伝子のエクソン領域だけに挿入される、これまでのトランスポゾンにはない極めて珍しい特性をもっているもの」

「ターミナル・インバーテッド・リピートとして、5’-CAGGGTT-------AACCCTG-3’を有するAc/Ds型」

 

「そして更に、このトランスポゾンを動かすトランスポゼースの単離」

「すごいことだよ。この短期間で」

 

「ああ、頑張った」

 

「オレンジ色のカーネーションの秘密から、大きく研究が羽ばたいて広がっていったね」

 

「うん。なんだか嬉しいね。皆んなでやったんだ」

 

「遺伝子関連の発見は、優先権があるから特許にもできそうだね」

 

「うん。それ、工学部の教授も言ってた」

「でもまだ、浅野教授には内緒だよ」

 

「特許すぐ書け! そう言われるのが目に見えてるから」

 

「でも、その言葉も遠からず来るね」

 

「うん」

 

「誰が書く?」

 

義雄はまっすぐ僕を指差す。

 

「そろそろ帰ろうか」

 

「うん」

 

「義雄もみどりちゃんとうまくいくといいね」

 

「ああ。まだまだだけどね」

「頑張るよ。好きだから……」

 

義雄は恥ずかしげにうつむき、リュックを背負い帰路につく。

 

僕は一人、研究室に残り恵ちゃんにLINE。

 

『大樹が歩ちゃんと良い仲になったんだって』

 

『あら、良かったじゃない!』

 

『うん』

『義雄もみどりちゃんにぞっこんみたい』

 

『恋ってよく分からないけど……』

 

『分からないけど、何?』

 

『深呼吸やため息をつくと不思議な気分になるの』

『バラがトゲの中で咲くように、恋は焦燥の中に咲くの』

 

『?』

 

『私、やっぱり、今日正くん欲しかったな~』

 

『うん?』

 

『ウソよ。じゃあね! おやすみ』

 

僕はコーヒーを飲み干し、ゆっくりと目をつむり、恵ちゃんの笑顔を脳裏に浮かべる。宇宙一の音楽のラブレター、マーラーの交響曲第5番、第4楽章のアダージェットを聞いてから帰ろう。

 

ピンポーン。静かな研究室に響くLineの着信音。

 

『実はホントよ……。私、恋に狂っているのかしら?』

 

恵ちゃん。言葉が重複してるよ。

 

恋って、そのもの自体が狂気なんだ。