第84話

 

「あ~あ。疲れた」

 

大樹と義雄は研究室の机に這いつくばるように両手を広げ、右ほほをつける。

 

「かなり気を使ったからね」

 

恵ちゃんも張っていた肩の力をスーッと抜く。

 

「でも、帰りの車で浅野教授、ずっと寝ていてくれたから助かったじゃん」

「ああ、静かな帰路だった」

 

恵ちゃんと歩ちゃん、みどりちゃんが熱いコーヒーを入れてくれる。

 

「一息ついたら、皆んなで生協に軽い晩御飯、食べに行こうか」

 

僕が言うと、皆んなうなずく。

 

「しかし、教授の知識はすごいね。脱帽だよ」

 

僕が言うと、

 

「うん。さすが最高学府の園芸学の教授よね。普段のヒグマの様相でイノシシみたいな鼻息の荒い、気難しい人間とは同じ人とは思えないくらい。目もキラキラ輝いていたし」

 

恵ちゃんが答える。

 

「そう。生きてるだけで、もうケモノ」

 

「大樹。その言葉、教授に伝えておこうか?」

 

「やっ……、やめてくれ。俺が生きてるだけで儲けものという意味だから」

 

「しかし職業としての学問。奥の深さを教えられたね」

 

「あの花は何科の何々と言う名前。しかも和名と少しの英名だけ」

「可愛いね、綺麗だね」

 

「そんな僕らの花への感情や今の知識レベルでは、学問としての園芸学を学ぶには全然足りない」

「学問って、改めて凄い」

 

「正は卒業したらアメリカに行くんだろ」

 

大樹がつぶやく。

 

「うん」

 

「そこでは深く、教授の言うところの学問のようなことを続けられるんじゃないか?」

 

「さあ、どうだか。あくまで庭師だからね。汗をかいて、土いじりをして」

「その上で、自分がどれだけ学問というものと向かい合えるかの問題だね」

 

「正くん、就職先の会社でそれ役に立つの?」

 

恵ちゃんが首を傾げて問いかける。

 

「わからない」

 

「植物関係の仕事なのは間違いないけど、職務内容は入社するまで秘密なんだ」

「企業だから当たり前だけど」

 

「そう、職務内容を深く聞いて見て、いざ就職しなかったら情報ダダ漏れ。大変な事になるもんね。下着泥棒ならぬ下見泥棒。なんてね」

 

恵ちゃんが自分で自分のギャグに笑う。

 

「会社が求めているものは学問ではなくて実務だよ」

「研究職だけど、営利のための研究らしい。学問のための研究じゃないんだ」

 

「学問のための研究は、恵ちゃんや義雄みたく、大学院へ行くなりしてさらに深く学ぶこと」

 

「恵ちゃんは、将来何になりたいの?」

 

「正のお嫁さんじゃない?」

 

大樹がからかう。

 

恵ちゃんは笑っている。

 

「私は、そうね……、前から言ってるけど、手堅く学芸員にでもなるわ。博物館の研究員なんてカッコいいでしょ~」

「将来は博物館の館長よっ!」

 

「案外、恵ちゃんならなれるかもね。男まさぐりなところがあるから」

 

義雄がボソッとつぶやく。

 

「男まさぐり? 失礼ね。それ、私へのホモ言葉?」

 

「まあまあ、お二人さん」

「恵ちゃんの夢。悪くはないね」

 

「そう、義雄は今の内定先蹴って大学院に行ったら、その後どうするの?」

 

「みどりちゃんの旦那になるんじゃない?」

 

また、大樹がからかう。

 

これには義雄も恥ずかしげ、みどりちゃんもうつむく。

 

「そうなれば公務員かな。どんな部署、役職でもいい」

 

「みどりちゃん。義雄、公務員だって」

 

「意外に面白くないのね。義雄くんの夢」

 

恵ちゃんがさっきの仕返し。冷たく平坦な口調で話す。

 

「義雄の人生に冒険は無理だ」

 

大樹も笑う。

 

「大樹、お前の将来ビジョンは?」

 

「俺は皆んなよりさらに堅実で確実。親族経営の会社の常務」

「体が常務なことが取り柄だし」

 

「まあ、つまらないギャグはともかく、歩ちゃんは将来の常務夫人。玉の輿だね」

 

大樹が照れて、歩ちゃんも照れる。

 

「いずれにせよ、この四年生の時間を皆んな大切に使わなきゃ」

「今は、教授の言う通り学問のための学問を学ぶとき。なんでも頭に入る、大切な時」

 

「Where there is love, there is spring life」

「恋もする、特別な時よね」

 

恵ちゃんがつぶやく。

 

「Shall we go.」

「さあ、生協に行こうか」

 

「Let’s go!」

 

 

ーーーーー

 

 

「ミーン、ミーン」

 

朝からけたたましく蝉の鳴く、暑い季節が来た。

 

「夏だね」

 

「うん。夏ね。Summer has come」

 

恵ちゃんが研究室のベランダに出て伸びをする。

 

可愛い恵ちゃん。そして窓から見えるフランス式庭園が鮮やかに目に映る。瞬きもせずに、この絵を脳裏に焼き付けておくよ。

 

「学会発表の資料、出来てきた?」

 

恵ちゃんが僕に問いかてくる。

 

「う、うん。だいたいね」

「EvernoteとDropboxに入っているから、恵ちゃん、時間のある時みてくれる?」

 

「うん、いいよ。私のも入れとくね」

 

「お互いに相談しあいながら完成させていこう」

「義雄のは大丈夫かなあ?」

 

「おう、正。遊びに行こう」

 

大樹が研究室に顔を出す。

 

「遊び?」

 

「ソフトボールをするんだ、ソフトボール。メンバーが足りなくて」

 

「いいよ」

 

「恵ちゃんも来る?」

 

「うん、行く行く。面白そう!」

 

グランドには工学部にいっていた義雄も来ていた。

 

遺伝子の特許で大忙しになっている義雄。でも、みどりちゃんも一緒に来た。悪くはないはず。

 

5回戦の農学部内対抗戦。メンバーが1人足りない。

 

「恵ちゃんも出てくれる?」

 

「私? 私、全然だめよ。球技」

 

「大丈夫、大丈夫。立っていてくれればいいだけだから」

 

「ライトで9番ね」

 

「待ってて。運動靴に履き替えてくる」

 

恵ちゃんが来るまでキャッチボールや守備練習。球速も早い。本格的な試合になりそう。

 

恵ちゃん、大丈夫かな?

 

「では、始めます。農学部4年生紅白試合」

 

「どちらが赤? 白?」

 

「どっちでもいいんだよ」

 

僕らの園芸学研究室は皆んな同じチーム。先行だ。

 

一番、セカンド義雄。

 

「カキーン!」

 

三遊間を抜ける見事なヒット。みどりちゃんも満面の笑みで拍手を送る。

 

二番バッターは倒れ、三番センター僕。

 

センター前ヒット。義雄は三塁まで進んだ。

 

四番サード大樹。バットを持つ格好はいい。ワイルドにブンブン振り回す。しかして三振。

 

「格好だけ、格好だけ」

 

相手チームからヤジが飛ぶ。

 

五番バッターはセカンドフライ。スリーアウト。

 

「私、大丈夫かしら?」

 

恵ちゃんが首を傾げながら、手に不器用にグローブを着けライトの位置につく。

 

「僕がいるから大丈夫よ」

 

「ありがと」

 

僕はライトの恵ちゃん寄りに守る。

 

レフトはセンター寄りに守る。

 

「カキーン!」

 

相手の一番バッターの打った3球目が、恵ちゃんを狙ったようにライト方向へ転がっていく。恵ちゃんをかばうべく僕の足も間に合わない。

 

恵ちゃんが、球速の弱まった球を何とかグローブに入れた。

 

「恵ちゃん! ボール頂戴!」

 

僕が叫ぶと、恵ちゃんはお嬢さま投げで僕にボールを渡す。打者は二塁を蹴って三塁に向かう。僕はライト方向から三塁に遠投。

 

見事タッチアウト。

 

「やったね!」

 

恵ちゃんとハイタッチ。

 

「恵ちゃん。上手じゃん」

 

「転がってきたから拾ったの」

 

恵ちゃんのあどけない可愛い笑顔。

 

「恵ちゃ~ん。ナイス!」

 

相手組からもエールが送られる。

 

少し汗ばんでいる恵ちゃん。

 

「楽しいね。スポーツって」

 

恵ちゃんの何気ない言葉が、夏の爽やかさに色を添える。

 

 

ーーーーー

 

 

試合結果は3対2で僕らのいるチームが負けた。

 

「面白かったね。ソフトボール」

 

「うん。恵ちゃんもなかなかやるじゃない。ヒットも一本打ったし」

 

「あれは、相手が打たせてくれたのよ」

「球のスピードが全然違ってたじゃない。皆んなと」

 

確かに。相手は恵ちゃんに、どうぞ打ってくださいボールを投げた。でも、それを打った恵ちゃんも上手、運動神経いいじゃん。そう思った。

 

「俺、工学部に戻るわ」

 

義雄がそう言って道具を片づけ始める。

 

「義雄、特許資料作成に集中するのはいいけど、秋の学会発表のプレゼン資料作成、進んでいるかい?」

 

「実は、余り……」

 

「僕と恵ちゃんのは完成間近だよ」

「義雄のが遅れると、皆んなのが遅れることになる」

 

「3報とも、それぞれ共通して関連する内容や、個々にのみ特異的な内容など、お互いのプレゼン資料を勘案しながら作成を進めなければならないだろ?」

「学会事務局へのプレゼン資料提出は7月末日までだから、ゆっくりはできないよ。義雄、急がなきゃ」

 

「ああ……。分かってる」

 

「あのさ……」

 

「どうした、義雄?」

 

「俺、学会資料の作成、間に合わないかもしれない。というか、特許優先なのは工学部からも浅野教授からも指示されているし……」

 

「困ったな……。それは大変なことだよ」

 

「俺、学会も、色素研究会の発表もあるのがちょっと……」

「あのさ、学会発表資料の作成は俺の方で何とかするから、色素研究会の発表、正がしてよ」

 

「おいおい。それは無理。僕も……」

 

「ほら、オケの夏合宿があって、出来ない。だろ?」

「正のは自分都合。僕は特許が絡んでいる仕事だから自分都合じゃない」

 

「分かったよ。すぐにでも有田先生を交えて、事務レベルの打ち合わせをしよう」

「学会資料、色素研究会の担当者の責任範囲と発表者の再確認」

「早速、有田先生のところにいってくるよ」

 

僕は有田先生の研究室へ向かった。

 

「有田先生が今、打ち合わせしようって」

 

「ああ。早いほうがいいからね」

 

僕らはそれぞれの立場を主張し、先生に相談した。

 

結論が出た。

 

「あらあら。結局正くん、義雄君分の学会資料作成と色素学会での英語発表もすることになっちゃったね」

 

「ああ……。困ったことになった」

「確かに、義雄が特許に集中しなければならないのは分かる。けど……」

 

「大樹は最初から本件のメンバー外だから頼れないし……」

 

しかし、僕も暇ではない。オケの夏合宿も……。

 

「正くんならできるよ」

 

恵ちゃんは、他人事のように笑顔だ。

 

「ちゃぁ~んと私も手伝ってあげる」

 

「俺にもできることがあれば」

 

大樹も僕に気を使っていてくれる。

 

「分かったよ……。やろう!」

 

僕は踏ん切りをつけた。

 

「カッコいいじゃん。正くん!」

 

「カキーン!」

 

僕はバットを思いっきり振るマネをする。

 

「どうしたの? 正くん。壊れちゃった?」

 

「三塁に恵ちゃん。二塁に義雄。ファーストに大樹」

「キツイ勉強、怖い教授」

 

「自分がホームランを打って、皆んなでホームベースを踏まなきゃ」

 

「努力すれば自信がつく。自信がつけば強気でいられる」

「強気でいたら諦めなくなる。諦めなければ負けるもんかと思う」

「負けるもんかと思えば集中する。集中すれば結果が残せる。夢が叶う」

 

僕は惠ちゃんに笑顔で答えた。

 

「その話、負け犬のオーボエに聞こえますです」

「試合にも負けたし」

 

「こずえちゃん? なんでここに居る?」

 

「先輩方のソフトボールを、教育練の3Fの窓から、授業中、流し目一茂してました」

 

「流し目? 長嶋よね?」

 

恵ちゃんが聞き間違えかどうか確認する。

 

「勘定をまるで出さない正先輩が、珍しく感情を出しましたね」

 

「何をおっしゃるウサギさん。いつもこずえちゃんとの食事では、僕が勘定払っているじゃない」

 

「それは、暗にこずえの体が僕的だからでしょう」

「いつもあんな状況になるとは何人も知らなかった私……」

「時に、正先輩のアパートで、とてもいい貝缶を味わったこともありました」

 

「あのさ、こずえちゃん。今僕たち大切な話してるの。目の前にある困難を乗り越えるために。何かあるなら後でさせて」

 

「うしろでさせて……。あらあら、股、感情が高ぶって」

 

今日のこずえちゃんは、構ってちゃんモード。

 

「わかった、わかった。今晩軽く飲もう。それでいいでしょ?」

 

「はい。今夜の酒のおつまみは、アシの開きでいいですね?」

「こずえ、飲み過ぎると体がホテルのはご存知の通りです」

 

「はいはい」

 

「3発良っか、がオススメです。尻モモ狂いで頑張ります」

 

「はいはい。分かったから学部に戻りなさい」

 

僕はこずえちゃんを軽くあしらう。

 

「分かりました。恋人たちのハラバイを歌って帰ります」

「5コマ目は音楽ですから」

 

こずえちゃんが帰った後、恵ちゃんがボソッとつぶやく。

 

「こずえちゃんには、困難とか緊張はないのかしら?」

 

「こずえちゃんは、いつも緊張していると思うよ。お笑いは、緊張して言葉を選ばないと全然面白くない」

「世の中って、思っている程皆んな他人には興味がない。ギャグはこずえちゃんの装いという武器だよ」

 

「でも、こずえちゃんのように、若くて可愛いい子なら、それだけでいいのに」

「私、こずえちゃんからノー天気で緊張しないコツを学びたいわ」

 

「コツなんてない。緊張できることを経験させてもらっていることを幸せだと思うことだよ」

 

「なんだか、胸のつっかえがとれた。この困難。僕らには幸せなんだ」

「”苦しい”から逃げちゃダメだ。逃げようとするから苦しくなるんだ」

 

「学問も恋も一緒だね。夢は逃げないよ。逃げるのはいつも自分自身だ」