第81話

 

とうとう来てしまった。オケの連中との日光参りの日。

傘がいるかいらぬか程度の霧雨が降っている。

 

皆んなトイレを済ませ、大学構内のコンビニで軽い朝ごはんやおやつ、飲み物を買ってくる。

 

「はい、配車はくじ引きとなりま~す」

「車は6台。各々運転手込みで4人ずつで~す」

 

僕と恵ちゃんは特別にくじ引きなしで、水野の車にしてもらった。

 

こずえちゃんがグズル、ぐずる。

 

「正先輩ずるいです。もう、ルールも、友達も、約束も、へったくれもありません」

「何のためのくじ引きですか!」

 

「そこまで言う。その前に、なぜ僕が行かなきゃならない?」

「恵ちゃんも連れて来たんだよ」

 

「それは……」

 

「ねっ。誰からも文句が出ないんだから、許して」

 

「わかりました……」

 

こずえちゃんはトボトボとくじを引きにいく。

 

「私は、隆さんの車になりました」

「残念です……」

 

「こずえちゃん、僕の車で残念はないでしょ」

 

隆は笑う。

 

「さあ、乗って」

 

 

ーーーーー

 

 

僕らは予約しておいた20数人が入れる部屋へと向かう。

 

「ま・い・う~っ」

 

「美味しいね!」

 

「すっご~い。まいう!」

 

料理が来るなり、すぐさま皆んなの喜びの声。

 

「ビール、ルービ!」

 

昼間っからビールを頼む輩も出て来た。もう早よから宴会だ。

 

運転手以外の男たち、皆んなビール。もう誰も止められない。

 

「正くん。ここの中華料理、ホント半端じゃなく美味しいね」

「私、こんな美味しい中華食べたの久しぶりかも。いや、初めてかも」

 

恵ちゃんは春巻き、2口大くらいで濃い目の焼き色が付いている餃子、プリプリ・シャキシャキで、油通しをしたような香ばしさの具だくさんの五目あんかけやきそばなどに舌鼓を打つ。

 

「最高、ここの味。味付けにメリハリがある」

 

「こずえの腰のくびれのようです。メリハリがあります」

 

こずえちゃんも2度目の来店だが、改めて焼き餃子にご堪能。

 

「皮はやや厚目、焼き目の部分はカリッとして、それ以外の部分はモッチリしています」

「アンは肉が多めで、食べごたえがあります!」

「正先輩。もっちりしているこずえも食べごたえがありますよっ!」

 

オケの皆んなの食が進む。

 

「ねえ、横浜の中華街といえども、ここほど美味しいお店を知らないわよね」

 

紀香ちゃん、夕子ちゃんも僕らとの2度目の来店。友達と笑顔で舌鼓を打つ。

 

「お~っ! まいう~」

 

「う~。まいう」

 

オケのメンバーは、出てくる料理ごとにその美味しさに感動してる。もちろん、出来立てのアツアツやパリパリ感がいい。ビールも少し度を超えて来ている。

 

隆も、今回はグルメデートで彼女の里菜ちゃんを連れて来た。大人しい里菜ちゃんも満足げ。隆と色々だべっている。

 

ニラが大好きなこずえちゃん。ニラ団子が来た。

 

「皮はサックリ・モッチリで香ばしく,具材はザクザク食感で食べごたえがあります!」

「これは海の生き物でタコかイカかと問われますと、イカです。ニラの風味がイカしてます」

 

こずえちゃんのギャグは誰も聞いていない。まあ、こずえちゃんも受けなくてもこの場の雰囲気を感じるだけでいいらしい。

 

「杏仁豆腐おいしいね!」

 

恵ちゃんが大喜び。

 

「たっぷりの量で、たくさんフルーツが添えられていて」

「フルフル。滑らかな食感で、口どけ良しだわ」

 

「杏仁風味はマイルド。少し牛乳風味は濃い目かな?」

「でも、甘さ控えめで、後味スッキリ」

「きっと上質な天然水を使っているんだろうね」

 

餃子、また追加。

 

「パンパンでニラもたっぷり。焼き加減最高!」

「もうここの中華、最高!」

 

「私の乳も貧乳ですがパンパンです!」

 

皆んな食に夢中。誰もこずえちゃんの言葉、聞いちゃいない。

 

中華丼、エビチリ、ニラ団子が運ばれて来る。ビールもたんまり入った。皆んな、満腹感が襲って来る。

 

これから、東照宮、二荒山神社、植物園、そして華厳の滝、ワールドスクエア、温泉なんてスケジュール大丈夫かな?

 

心配していると、やはり、スケジュールの変更が入る。酒の入っていない、運転手組からの連絡だ。

 

「え~皆さま。宴たけなわのところではありますが、旅程の変更につきご相談させてくださいませませ」

 

「このまますぐに、世界遺産『日光の社寺』に向かいますと、おトイレなど、問題がある方が出て来る場合もございます」

 

「健全な青年として、避けなければならない事態を先読みし、まずは植物園から食後の散歩をすることで決定しました」

「異論はございますか?」

 

「異議なし!」

 

やれやれ、まあ、お酒の入った、そんな皆様に植物の可憐さを伝えなきゃならない。

 

「恵ちゃん、手伝ってね」

 

「うん」

 

傘はいらない程度の曇り空。僕は恵ちゃんの温かい手を握る。

 

 

ーーーーー

 

 

3人ほどが飲みすぎて、駐車場の車中で食休み。あとのメンツは大丈夫。

 

「さて、駐車場付近に咲いている花から説明するよ」

 

半月ほど経つと、咲いてる花も少し夏の花に変わって来た。まだ、ウツギ類は咲いている。

 

「白い花はウツギ。アジサイ科だよ」

「八重になったヤエウツギも園内で咲いてるよ」

 

「あと、ここでウツギ科にはガクウツギ、イワガラミがある。イワガラミは落葉性のつる性草本」

 

「お~い正。なんでこれらのアジサイ属の木、ウツギという名前なの?」

 

「ウツギと言うのは空木といい、茎あるいは枝が中空の樹を一般に○○ウツギと呼ぶんだ」

 

「なるほどね~」

 

「単にウツギと呼ばれる樹の花は、別名ウノハナとも言う。夏は来ぬに唄われている」

 

「う~の花の匂う垣根に」

 

こずえちゃんが歌い始める。ツアーガイドさんを思い出す。

 

「ホートトギス早も来鳴きて、忍び音もらす、夏~は来ぬ」

 

こずえちゃん、歌が上手。教育学部で正解。可愛い、いい先生になりそう。

 

「ねえねえ、イワガラミって、岩に絡むんですか?」

 

「そう。名前のとおり、幹や枝から気根を出して高木や岩崖に付着し、絡みながら這い登る」

 

「私は、タダシガラミです」

 

こずえちゃんが自己分析している。

 

「こずえちゃん、可愛いんだから、正への執着を捨てると、すぐに二人静かになるよ」

 

「俺がフタリシズカにしてあげる!」

 

どこかで聞いたセリフ。何人かの輩がこずえちゃんに話しかける。

 

「ねえ、こずえちゃん。モテるじゃない!」

 

ロックガーデンのところで足を止める。

 

「わあ。小さくて可愛い花たち」

 

女の子が優しい目で山野草を見つめる。

 

「看板に花の名前が大体ついていますから見てね」

 

皆んな、ガヤガヤ可憐な野草を眺める。

 

「ロックガーデン、面白いね」

 

どこからともなくそんな声。

 

「さあ、前に進みましょう」

 

「さてウメモドキ、モチノキ科、キジカクシ科のオモトもあるね」

 

「可愛い! 恵先輩、これなんですか?」

 

「ミズチドリと言います。ラン科の清楚な白い花ですよ」

 

「バラ科のカライトソウ、あと、これは珍しい、ツツジ科のギンリョウソウが咲いている」

 

「ギンリョウソウは、鬼太郎の親父の目玉に似ているね」

 

「似てる、似てる」

 

「正先輩も恵先輩もすごいですね」

 

「なんでそんなにスラスラと植物の名前が出て来るんですか?」

 

一、二年生の女の子たちが僕らに問いかける。

 

「可愛い、綺麗、素敵なものを覚えるのに苦労する?」

 

どこかで使った言葉。皆んなは微笑む。

 

「さて、実験室前の庭だよ」

「目に飛び込んでくる庭一面の花はトキワナズナだよ。まるで妖精の絨毯」

 

「ナズナ? ぺんぺん草と同じ仲間?」

 

誰かが質問してくる。

 

「いや、違うよ」

 

「ナズナという名がつくけどアブラナ科ではなく、アカネ科の常緑多年草」

「花言葉は甘い思い出」

 

林が途切れ開けた場所。植物園内は開放感のある場所と、林の鬱蒼とした場所とがバランスよく配置されている。

 

丘の林の中にはこの地を好んで散策されたという大正天皇の碑がある。

 

「大正天皇記念碑脇のクリの木は、当時、大正天皇がこの木に帽子を掛けたことから、御帽子掛の栗の木、と呼ばれるんだ」

「でも、今はすっかり大木に成長してしまい、帽子を掛けられるような木では無くなってしまった」

 

「さて、時間もあまり無いので、ここから芭蕉池まで、一気に歩こうか」

 

「そうしよう」

 

僕が音頭をとり、皆んなが続く。

 

「着いたよ」

 

「あれ、芭蕉池なのに水芭蕉がないね?」

 

「水芭蕉は4月に開花。今はそこら中に見られる、大きな葉になった」

「これはオオマルバノホロシ、ナス科」

「あれはイブキトラノオ、タデ科」

 

「紫色の菖蒲。ノハナショウブです。アヤメ科」

「ホザキシモツケ、バラ科。日本では、北海道と日光と長野の一部にしかない」

 

「そしてご存知、ワスレナグサ、可愛い青。ムラサキ科の花だよ」

「実はこれは、増えて増えてどうしようもなくなる」

 

「素敵な花言葉、Forget me not」

「私を忘れないでと違い、忘れるどころか、どんどん成長し増えていくんだ」

 

大学の四年間もそうだ。

 

僕らの思い出も、忘れる間も無く、どんどんと増えていく。

 

 

ーーーーー

 

 

美味しいものを食べ、植物園の散歩を堪能。

そのあと、日光東照宮、二荒山神社、華厳の滝と、遊んだ遊んだ。

 

20人を超える大所帯の移動の割には、皆んな行動が機敏だった。

 

「さて、ワールドスクエアね」

 

恵ちゃんが、珍しくワクワクしている。

 

「私、意外にテーマパーク好きなの」

 

「前回は、正先輩が論文で忙しくて寄れませんでした」

 

こずえちゃんが僕らに割り込む。

 

「こずえちゃん。こずえちゃんのファンの子、オケにたくさんいるんだから、そう僕にビッタリ引っ付いてこなくても……」

 

「今我慢して、後で恋愛しようなんて思っても、恋なんてそう簡単にできない」

「恋愛貯金は、好きな人へしかおろせないんです」

 

「まだ、18歳のキャピキャピギャルだよ。おろし先だらけじゃない」

 

「不健康な笑顔で自由を手に入れた私は、気がつけば、本気の恋もしたことがない女になってしまいました」

 

「でも、神様がいました。やっと会えたのが、正先輩です」

 

「さて、園内には、身長7㎝前後の小さな住人が14万人住るそうです」

 

「こずえちゃん、本当? それ、すごいね!」

 

「はい。その中でも、いつでもどこでも正先輩を探してるんです」

 

「だ・か・ら、僕には恵ちゃんがいるの。わかって」

「そして、僕はここに、い・る・し」

 

「誰かのためとか、誰かのせいで自分の進路を決めたらダメなんです」

 

「キラキラした青春、未来のために頑張って貯金してきたつもりだった」

「いつか女になったらって……。でも恋愛貯金なんて正先輩以外に、今更おろせるわけがない」

 

「ふふ。こずえちゃん、何一人上手で深刻な話してるの?」

 

「こずえは女に生まれたんじゃない。女になるために生まれたんです」

 

隆がやって来た。

 

「こずえちゃんは、皆んなの人気もので、買い手先バリバリじゃない」

 

「人のことをゴミだとか言う人間の言うことなんて、こずえ、聞かなくて全然いいんです」

 

「誰も、こずえちゃんのこと、ゴミだなんて言ってないよ?」

 

「心がきつい時はきついって言わないと、大人になってからパンクの仕方すらわからない人間になっちゃう……」

 

「あのさ、改めてこずえちゃんいくつ?」

 

「18です。もうすぐ19」

 

「アラサーみたいな言葉、似合わないよ。こずえちゃんをゴミという人、いまも、これから先も永久にいない」

 

「まあ、気を取り直してサグラダファミリアでも見に行きましょう」

 

僕らはこずえちゃんを軽くあしらう。

 

「スペインのサグラダファミリアは、日本名を聖家族教会といい、スペインの建築家アントニオ・ガウディが手懸けたもの」

「東側に位置する門は生誕の門といい、キリストが生まれたときを表わしているの」

 

「恵ちゃん、詳しいね」

 

「高校の時、叔父さん夫婦とヨーロッパを10日ほど巡り歩いたことがあるの」

 

恵ちゃんは話を続ける。

 

「上には4本の塔があり、中には螺旋階段があるので上まで昇れるようになっているの」

「また、南側に位置する予定の門は、栄光の門といいキリストの活躍を表わす門になるらしいよ」

 

「上には生誕の門と同じように4本の塔が建つ予定」

「そして西側に位置する門は、受難の門といいキリストが亡くなったときを表わしているので、十字架に磔にされている彫刻があるの」

 

「この教会は完成すると、キリスト誕生、活躍、死、を表す3つの門がそれぞれできる」

「3箇所の門の上にはそれぞれ4本の塔があるが、この合計で12本建つ予定の塔が、キリストの十二使徒を表わすことになる」

 

「この教会を設計するためにガウディは、何度も聖書を読み返したといわれているのよ」

 

「確か、1882年から建築がはじまり、現在もなお建築途中で、完成までには200年以上かかるであろうといわれている」

 

「恵ちゃん。今、それは違うんだよ」

 

「3DプリンターやCNCの石材加工機といった先端ITで、2026年頃の完成が見込まれているそうなんだ」

 

「知らなかった。すごいわね!」

 

「人類の知恵と精神力の賜物だよ」

「天才ガウディも、3Dプリンターの出現までは計算に入れていなかったみたいだね」

 

「こずえちゃんの恋も、3Dプリンターみたいなもので叶うかもね」

 

恵ちゃんがそういうと、

 

「そうだ! まるまるコピーした正先輩を、恵先輩にあげるです! もちろん、たってるところ」

 

「はいはい」

 

僕のたっているところ? 何? それ。

 

こずえちゃんの突拍子もない思いつきに、恵ちゃんは優しく微笑む。

 

第80話

 

「どうしてそうなる?」

 

オケからも研究室からも出た簡単な答え。僕が水・木、二日間とも日光に行けばよい。

 

「あのさ、今度こそ勘弁してよ。マジで……」

 

「あらあら、正くん。大変なことになっちゃったね」

 

「恵ちゃんも、肯定を前提としたコメントは控えてよ」

 

恵ちゃんは笑いをこらえて、口に手を当てている。

 

「わかった。じゃあ、こうしよう」

「僕は二日とも行く」

 

「おおっ!」

 

大樹と義雄が嬉しそうな顔で唸る。

 

「その代わり、対価をもらう。お金じゃないよ。奉仕で」

 

「奉仕?」

 

「ああ。卒論研究の手伝い。洗い物、してもらう券6枚綴り」

 

「大樹と義雄で合わせて6枚」

「3枚ずつでもいいし、2枚と4枚に分けてもいい」

 

「僕の酵素実験終了後の器具の洗い物は、一回あたり通常2時間ほどかかる」

「細かいパーツもたくさんある」

「その洗い物を、してもらう券」

 

大樹と義雄が二人でヒソヒソ話す。

 

「その話乗ったよ」

 

「私は何をすればいい? 私にしてもらう券」

 

恵ちゃんがクリクリとした眼差しで僕を見つめる。

 

「僕のかばん持ち、2枚かな」

 

「わ~い! 私も行くの? 二日とも。嬉しい!」

「で、夜の部は……?」

 

恵ちゃんは上目遣いに問いかける。僕は耳元で小声でささやく。

 

「それは、してあげる券。後でね」

 

「な~に言ってるの。させてもらう券でしょ」

 

「じゃあ、させてもらう券の賞味期限は?」

 

「和菓子の日持ちも知らないくせに、よく聞くわね」

 

私の気持ち? 恵ちゃんが声のトーンそのままに微笑む。最近こずえちゃんの話し方に影響されてきた。大樹と義雄は僕たちのイチャイチャ話を鼻であしらう。

 

「まあ、みんなで卒論研究始めましょ。正くんだけじゃなくて、皆んな遅れ気味なんだから」

 

恵ちゃんの合図で、皆んなはそれぞれの部屋に散る。

 

僕は今日は研究室のPCで、これまで得られたデータをもとに多変量解析のクラスター分析の予備的調査を行うことにした。

 

僕が卒論で使うクラスター分析のクラスターとは、英語で『房』『集団』『群れ』のことで、似たものがたくさん集まっている様子を表している。

 

クラスター分析とは、異なる性質のものが混ざり合った集団から、互いに似た性質を持つものを集め、クラスター、すなわちグルーピングを行う方法だ。対象となるサンプルや変数(項目、列)をいくつかのグループに分ける、簡単にいえば、似たもの集めの統計手法。

 

良いクラスター分析は、分けた塊に含まれる要素同士は似ていて、その塊、の特徴は、別の塊の特徴とはなるべく似ていないものとされるようにする。

 

クラスター分析は、あらかじめ分類の基準が決まっておらず、分類のための外的基準や評価が与えられていない教師無しの分類法。つまり、分類してみてから、どうしてそのように分類されたかを分析する方法。

 

今日は階層クラスター分析に集中して頭を回転させよう。

 

最も似ている電気泳動結果、ザイモグラムの形状の近い組み合わせから順番にクラスターにしていき、途中過程を階層のように表し、最終的に樹形図(デンドログラム)を作る。

 

階層クラスター分析は、近いものから順番にくくるという方法をとるので、あらかじめクラスター数を決める必要がないことが最大の長所だ。

 

そのあと、バラ属の植物学的分類とデンドログラムの結果を見合わせる。

ザイモグラムのパラメータを加減し植物学的分類とアイソザイムによる化学分類ができるだけ近づくよう調整して行く。

 

ここからがクラスター分析の難しいところ。

 

「正くん。うまくいってる?」

 

ちょうど区切れのいいところで、恵ちゃんがラン温室から帰ってきた。

 

「クラスター分析ね。私は判別分析よ」

 

恵ちゃんは熱いコーヒーを入れてくれる。

 

「判別分析はね、線形判別関数を用いて,値を直線的・平面的モデルに当てはめる方法」

 

「説明変数が2変数の場合を例にすると、2群の境界となる直線 ax+by+c=0 を求めれば、式 ax+by+c の値の正負によりどちらの群に属するかを判別することができる。3変数以上の場合は境界線は平面になる」

 

「つまり、2群が正負に分かれるような係数 a、b、cを求めればよい」

「もう一つは、マハラノビスの距離を用いて,確率を2次曲線モデルに当てはめる方法」

 

「1変数の正規分布においては、平均から遠くなるに従って確率密度関数の値が小さくなる。zの絶対値をマハラノビスの距離というの」

「マハラノビスの距離は2次元以上の場合にも拡張され、ベクトルと行列を用いて表わされる。2群の境界線は曲線となるのよ」

 

「判別分析はクラスター分析よりは簡単よ」

 

「ああ、クラスター分析は少し頭を使うね」

 

「でも、人間って本当に何かと分けたがる生き物よね」

 

「本当だよ。分類好き」

 

「俺は主成分分析と判別分析だよ」

 

大樹も研究室に戻ってきた。

 

「今のところ、バラ属の花粉の表面形態の計測から、バラ属やバラ品種を分けるには、主成分分析の結果、第1主成分に花粉の大きさに関する因子、第2主成分に花粉表面の微散孔に関する因子が抽出されていて、これらの2主成分により各々の分類群を分けているところ」

 

「統計って、自分が言いたいことの都合を合わせるために駆使する道具でもあるよね」

「もちろん、結果からの新知見、発見も生まれてくるし」

 

「さて、ランチ行こうか」

 

僕がそう言うと、

 

「久しぶりに、カフェテェリアのカルボナーラがいいかな」

 

恵ちゃんが呟く。

 

僕は机の上を片付ける。

 

「義雄は工学部か……」

 

「教授の言葉。2’GTが取れた研究。すぐに論文にしろ。すぐにだ! が効いているね」

「一応誘ってみようか? 義雄」

 

LINEが帰ってきた。

 

「今夜は傘まで返さない、と言われたそうだ。いつランチできるかもわからないみたい」

 

「朝まで帰さないの打ち間違いか。いずれにせよ、超忙しいってことね」

 

 

ーーーーー

 

 

『不参加』

 

LINEにオケの星座別コンパの出欠確認が送られてきた。

 

即答。

 

4月に新入生が入ってから夏の始まり頃までが、とにかく飲み会が多い。基本、上級生の男子が新入生をはじめとした女の子達と仲良くなりたいから。

夏合宿でのゴールインが当面の目標。そんなもくろみが多い。

 

とにかく、100人を超える大所帯のサークル。大学院生のOBも来て、出身地別、血液型別、星座別などなど、各々飲み会にはそれなりの人数が集まる。多いときには週3回も。

 

1年生の女の子はタダの飲み会が多い。この星座別コンパも新入生の女の子は無料。

 

『正先輩、血液型コンパに続き、星座別コンパも欠席ですか?』

 

こずえちゃんからLINE。

 

返信する。

 

『こずえちゃん、乙女座でしょ。僕は蟹座、どちらにしろ別の店だよ』

 

『あら、乙女座と蟹座は同じ店にしました。私幹事補佐です』

『千葉知った目で見られております。今回は総武線沿線、錦糸町卑猥の店。頑張ります』

 

『錦糸町。卑猥じゃなくて界隈ね。未成年なのに錦糸町界隈の飲み屋さん選び、分かるわけないでしょ? 習志野ごんべいさん。千葉県出身なのは分かるけど』

 

『バレましたか。乳を絞りました』

 

『はいはい。お父さんから聞いたんだね。そろそろ漢字変換の第一候補、父に変わるような文章を沢山打ちなよ』

 

『まあ、僕はキャンセルね』

 

『はぁ、残念です……』

『一応、メンバーには入れておきます』

 

『キャンセルはG千となります』

 

オケの業界用語みたいなもので、お金を千円単位でドレミファソ、英表記でCDEFGで表す。

 

C千が千円、E千が3千円、G千は5千円だ。

 

「もしもし、こずえちゃん?」

 

「はい。こずえだぴょん!」

 

「あのさ、だから、僕は最初から不参加。なんでG千取るの?」

「ね。よろしく」

 

「ソラミミです」

 

「そう、ミミ……。ミの音ということで、スペシャルプライス、E千でいいです」

「来れるなら、来てくださいよっ! 不参加でも、報連相は大事ですからね」

 

「わかった。じゃあE千払うから不参加。それで勘弁して」

 

こずえちゃんからLINEで返事が返ってきた。

 

『連絡は豆にしてくださいね』

 

『どこの豆に?』

 

E千払う対価に、こずえちゃんの変換間違いをおちょくってやろうと返信する。

 

『イヤだ、イヤラシイ! こずえにそれ、そこ、言わせるつもりですか?』

 

しばらくして、

 

『キャンパスで、ゴジラが失言したとの情報が入りました! と、アナウンスいたしました』

『オケのLINEが炎上しております!』

 

下手なおちょくり、やめときゃよかった……。

 

 

ーーーーー

 

 

「正、2’GTの論文、ドラフトできたよ」

 

「おう、早いな」

 

夜9時過ぎの研究室。

 

恵ちゃんも今日は久しぶりに夕方7時の箱入り娘。家に帰った。最近色々と夜遅くが多かったから。大樹はサークルへ。ドラムを叩く格好で出て行ったきり。

 

「義雄よ。イントロダクションとディスカッション、全然甘いよ」

「これじゃダメ」

 

僕は義男の論文の下書きを机に優しく放る。

 

「工学部の教授が、その二つは園芸学研究室の方でまとめて欲しいとのことなんだ」

「園芸学的にって」

 

「こんなレベルじゃ浅野教授には渡せないよ」

 

「うん。少し困ってる」

 

「仕方ない。やるか、僕たちで」

 

「すまんな。正」

 

「三千円で請け負うよ」

 

「三千円?」

 

「冗談だよ」

 

Pigments showing flower colors of yellow and orange, carotenoids, solid xanthine, and yellow flavonoid, chalcones and aurones, they are classified into three groups. But except for the yellow flavonoid pigments, still unsure in many the biosynthetic pathways, genetic knowledge is, of course, also not yet been obtained by chemical synthesis findings. 

 

On the other hand, the yellow flavonoid pigments are known as an intermediate metabolite in the biosynthetic pathway of anthocyanin.

 

Carnation (Dianthus caryophyllus) is on the botanical classification, belonging to the Caryophyllaceae Dianthus. Although varieties with yellow flowers is limited in the carnation, in the vacuole of carnation petals cells with yellow flowers, Calconnaringenin 2'-O- glucoside as a major yellow flavonoid pigments (Chalconnaringenin 2'- O-glucoside; after referred to as Ch 2'G) contains. 

 

And there p- coumaroyl -CoA an intermediate product of anthocyanin biosynthetic pathway, CHS malonyl -CoA as a substrate (chalcon syntase) by chalcone (4,2 ', 4', 6'-tetrahydroxychalcon; after referred to as chalcone) is synthesized is, then, glycoside enzymes (glucosyltransferase; after referred to as GT) is a chalcone 2'-O- glucosyltransferase (Chalcon 2’-O-glucosyltransferase) (after referred 

to as Ch 2'GT) by chalcone 2 'position is glycosylated Ch 2'G next, are believed to be transported to the vacuole is accumulated. However, the presence of Ch 2'GT has not yet been confirmed. 

 

「まあ、イントロダクションはこんな書き出しで行こう。英文法はごちゃごちゃだけど」

 

「正、助かるよ」

 

「あと、ディスカッションだね」

 

By using the DNA encoding the glucosyltransferase of the present study, capable of producing Ch 2'G in plants. 

 

Ch 2'G, since a pigment to be colored flower color of plants to yellow, using the DNA encoding the glucosyltransferase of the present study, can alter the flower color of plants to yellow. The Ch 2'G, in the presence of other pigments, the color is developed flower color of plants in a variety of colors. For example Ch 2'G, in the presence of anthocyanins, the color is developed flower color of plants orange. 

 

Thus, by utilizing the DNA encoding the glucosyltransferase of the present study, it is possible to alter the flower color of plants. The hue of the color after modification, preferably the hue in the range of yellow to orange, and more preferably include a yellow or orange, but is not limited thereto. Further, lightness and saturation of the color after modification is not particularly limited. 

 

「まあ、今日はここまでにしておこう」

「最近、不規則な生活してて、頭もうまく回らない」

 

時計の針も夜11時を回った。

 

『おやすみ、正くん』

 

恵ちゃんからのおやすみメールだ。

 

『まだ義雄と研究室にいるよ』

 

『あらまあ、困った人たちね。遅くなる日は連絡くらい頂戴』

『もうそろそろ帰って、ちゃんとお布団で寝るのよ』

 

『り。連絡は豆にするようにするよ』

 

『豆に?』

 

人のことは言えない。確かに、僕のスマホの漢字変換も、気せずしてこずえちゃんと同じようになっていく……。


 

第79話

 

オードブルがやってくる。ゆっくりとサランラップを開けていく。


サンドウイッチ盛り合わせ。二口大のキュートな四角型のやつ。

 

これはこの店の看板メニュー。具材もパンも、ものすごく美味しい。パンは自家製の多加水パン。ほとんど毎日来る、ここのランチのサンドウイッチにはまっている学生も多い。

 

地鶏の唐揚げ、アソートチーズ、特製生ハム。サラミ数種類、スモークサーモン、ポテトフライ。高価なものではないだろうけど、テリーヌも付いている。シンプルなオーダーにした。

 

その代わり、生ビールは飲み放題。

 

そして、オーナーとの事前打ち合わせで出てきた、気遣い無料サービスの、明太子スパケティ、納豆スパゲティも一人半前ほどづつ、取り皿と一緒に付けてくれている。今日はマスターの心意気が特にいい。

 

「義雄さんのご予約ですからね。正さんも後押ししてくれて。色々楽しみを用意しておきましたよ」

 

自家製ナンも準備をしてくれている。

 

「このナンはなんですか?」

 

「いつものお決まりの質問。ありがとうございます」

 

いつもの誰にでも受けるナンの受け答え。恵ちゃんがクスッと笑った。

 

「オードブルの具材などを乗せたり、くるめたりして食してください」

「でもメインはビーンズカレー、後ほどお持ちしますよ」

「特別、美味しいの作りましたから」

 

「最高です。マスターありがとう」

 

僕は親指を立てる。

 

「さあ、みんな揃ったか」

 

浅野教授が乾杯の音頭をとる。

 

「はい。みんな揃いました」

 

急遽決まった幹事の義雄が確認する。

 

「じゃあ諸君。ふとした自然現象の不思議への興味から、今回、このように2報の論文、および2’GTの単離が出来上がったこと、誠に嬉しく思う」

 

「誰が主役じゃなく、みんなが主役」

「この、約二ヶ月半という短期間でよくここまでやった。若いってすごいな」

「ありがとう、皆んな。乾杯!」

 

「日を改めて、2つの論文の完成パーティーもやる。今日はその前祝いだ」

 

「乾杯!」

 

ジョッキを掲げ合う。

 

あれ? ひと瓶多い?

 

言うまでもない。

 

「こずえちゃん。B型コンパの会場はあっち、座敷の方だよ」

「ここはダメ」

 

「あ~あ。とてもひどいことを言いますね。正先輩」

「淋しい。胸が何かで突かれた感じです」

 

「僕は、胸がこずえちゃんに憑かれた感じだよ」

「ねえ、あとで交わろ……」

 

「えっ? 交尾ですか?」

 

「違う違う」

「2次会の扇谷で合流しよう、と言うこと」

 

「今、ここにこうして同じジャルダンのすぐそばにいると言うのに、こころの距離は遠い存在……」

「淋しいです。私……」

 

「あら、こずえちゃん。こっちにいてもいいのよ」

「私たち、お祝いだし。賑やかでいいと思う」

 

歩ちゃんや、みどりちゃんも歓迎している。こずえちゃんが嬉しくて少し泣き顔になる。

 

「ありがとうございます。ふつつか者ではございますが、いっとき天国においてくださいまし」

「しばらくしたら、黄泉の国へ戻ります」

「ザ・夏鍋のイタリアンちゃんこの奉公もして来なければなりませんし」

 

「そんな、こっとで、よろぴくお願いします!」

 

「こずえちゃん、とか言ったな」

 

「はい。教授」

 

教授はナンに生ハム、オリーブオイルをかけて乗せて、チェダーチーズを包みこんでこずえちゃんに渡す。

 

「とっても、まいう~です」

 

教授も優しい。他学部の女の子には。

 

 

ーーーーー

 

 

「誰かカーネーションの自生地と名前の由来について話せ」

 

浅野教授が言い放つ。

 

「はい、南ヨーロッパおよび西アジア原産。ナデシコ科多年草です」

「日本にも自生種があります」

 

「学名は Dianthus caryophyllus。属名のDianthusはラテン語で、Dia神、とanthus花の意を持つ。つまり神の花という意味です」

 

僕は答える。

 

「まあまあ、普通レベルの知識だな。全然面白くない」

「カーネーションの名前の宗教的ないわれを知っているやついるか?」

 

「……」

 

「母の日と関係あります?」

 

こずえちゃんが教授に問う。怖いもの知らずが居て助かる。

 

「いい勘してるな」

 

「そう、古代ギリシア人はこの花をゼウスにささげたんだ」

「名はラテン語の〈花冠・花環〉を意味する語coronaあるいは、肉色caroに由来し、古くから花冠や花環に欠かせない植物だったんだ」

 

「呼び名は、coronation。戴冠式という意味だが、カーネーションの別名でもある」

 

「キリスト教伝説では十字架にかけられるキリストを悲しんだ聖母マリア落涙のあとに生えた花とし、五月第二日曜日の母の日が設けられた後は、母健在の子は赤花、母なき子は白花を胸につける習慣が生まれた」

 

「白花に赤がかかりまだらになった花は、中央部の赤はキリストから滴った血とか、イタリアの勇士オルランドが敵に胸を突かれた時の血だとか諸説がある」

 

「教授すごいです」

 

こずえちゃんが教授の話に食い入る。

 

「今では、その赤のまだらも、動く遺伝子、すなわちトランスポゾンの影響であるものと、模様遺伝子であるものとの区別がつく時代になって来ています」

 

みどりちゃんが話を膨らませてくれる。

 

「英語で、輪廻のことを、reincarnationというだろ」

「カーネーションに似ているだろ? 言葉の響き」

 

「それは当たり前、carnationに、re- 再び の意の接頭辞がついたものだ」

「 インカァ ' ネイション。受肉すること、肉体化することを意味する」

「すなわち生まれ変わり、輪廻の意味となる」

 

「確か、ユーミンの歌詞にもあるよね。リ・インカァ ' ネイション」

 

「ここでのcarnationのcarnaは、肉のcaroから来たもの」

 

「すなわち、カーネーションという名は、肉色の色の花、から来ている」

「これが世界で共通した見解の一つだろう」

 

「すごいすごい! 教授、勉強になります」

 

「こずえちゃん。ここで終わりにしちゃいけないんだよ」

「世界、6500ある言語で、carnationで通じる国はごくわずかなんだ」

 

「フランス語ではウィエ、ドイツ語ではネルケ、イタリア語ではガロファノ、英国の一部ではピンク」

 

「あれ? せっかくの美しいカーネーションの名の由来の話、どこへ行っちゃんたんでしょう?」

 

「ねっ、こずえちゃん」

「結局は、世界中で共通する学名、ラテン語のDianthus caryophyllusという名前を知ることから始めなくてはならない」

「そこから、先ほど教授が話してくれたような、世界での宗教的、民話的なその国その国の花の名前の起源にたどりつく」

 

「学名がつく前に名前があったり、学名がついてからの名前があったりするけど、そうして花卉園芸での植物名の知識を学んでいくんだ」

 

「私、随分失礼な考えをして来ておりました」

 

「初めは、正先輩を見て、園芸を演芸と間違えていたし、花卉という言葉がすんなりと入ってきませんでした」

「言葉の響きから、牡蠣がいつもどうも頭にちらついて……」

 

「まあまあ、こずえちゃん。そろそろ血液型コンパに戻ったらどう?」

 

僕がこずえちゃんに促す。

 

「牡蠣、入れどきじゃない。鍋奉行さん?」

 

恵ちゃんが優しく言葉をかける。

 

「夏に牡蠣はございません」

 

「こっちは、花卉入れどき」

 

恵ちゃんが、してやったり。

 

こずえちゃんが重い腰を上げ、のっしのっしと、どすこい、どすこいの芸の仕草で血液型コンパに入っていく。

 

「ワヲーッ! ヒュ~ヒュ~」

 

店の座敷で大騒ぎになった声が聞こえる。

 

 

ーーーーー

 

 

「あ~あ。美味しかった」

 

「ここ、なかなかいい店だな」

 

世界の食を知る、多国籍料理好きな教授もジャルダンを気に入ってくれたよう。

 

「また来よう」

 

ナンに合うビーンズカレー、サプライズの2種類のバター味、チキンタイカレーも最高の味だった。

 

さて、研究室の祝賀会はお開き。結局、教授はビール会に最後まで付き合ってくれた。オケのコンパはまだ続いている。

 

「恵ちゃん。このまま一緒に帰ろう」

 

「一緒に?」

 

「うん」

 

二人してヒソヒソ話す。

 

「何かから逃げるようなスリル感あるね」

 

「自由からの逃走」

 

二人して目を合わせてウキウキする。

 

「どうしてこんなにワクワクする?」

 

「幸せねっ!」

 

店を出たところで、

 

「すでに犯人の目鼻はついている」

 

こずえちゃんだ。なぜ気づく?

 

「こずえちゃんが僕の耳を引っ張る」

 

「そら、耳だよ!」

 

相変わらず、あんぽんたんな会話が始まる。

 

「空耳を聞いたである。扇谷で二次会でござる」

「まず、B型コンパの一次会を締めてこないと……」

 

こずえちゃんが腕を組んで何か考えている。

 

「いいよ、オケはオケで楽しんで来なよ」

「あのさ、僕らは二次会無し。恵ちゃんと締めのお寿司三皿、コップ一杯の生ビールくらいで丁度いいんだ」

 

「私も、あそこの廻るすし屋の下ネタが好きです」

 

「下ネタ? ネタでしょ?」

 

恵ちゃんの笑いがクスクス始まる。

 

「下ネタのこんにゃく寿司もあるです」

 

「それは、下仁田」

 

恵ちゃんはガハハとお腹を抱えて笑う。


   

「分かった、わかった。もう、どうにでもなれという心境だよ」

「こずえちゃんワールドに、お付き合いするよ」

 

「さて、お寿司屋さんはキャンセルして。蟻地獄と呼ばれる扇谷、秘密の間へと行きましょう」

「その部屋に立ち入ったが最後。よく聞く、朝まで寄り添って寝て居たカップルというライトなものから、生理が止まってしまったという深刻な話まで」

 

「それで、何が言いたい?」

 

「不肖こずえ、正先輩と二人でその秘密の間に身を委ねたいと……」

 

「はいはい、恵ちゃん。やっぱり帰ろう」

 

「うん。1時間くらいカラオケして帰ろうか」

「一番無難で安上がり」

 

こずえちゃんが僕に問いかける。

 

「扇谷には?」

 

「行かない」

 

「下ネタのお寿司屋さんには?」

 

「行かない」

 

「じゃあ、難しいですね……」

「山手線で巣鴨のスナックにでも向かいましょうか?」

 

「巣鴨?」

 

「化粧をしていない、巣鴨のママが見られます」

 

「そんなギャグ的な誘いもダメ」

 

「こずえちゃ~ん。どこ?」

 

店の中からこずえちゃんを探す声。

 

「わかりました。正先輩との楽しい時間は今度にしましょう」

「今回は、オケの飲み会に全力を尽くします」

 

おい。もともとがオケの飲み会だろ……。

 

「じゃあ、こずえちゃん。今度ね」

 

「はい、今度とお化けは……」

 

「そう、出たことないよ」

 

三人で笑って、僕は恵ちゃんと二人でカラオケに向かった。そしてそのあと、僕のアパート。下ネタへ。

 

 

ーーーーー

 

 

「水曜日は日光だよ……」

 

朝っぱらから大樹と義雄が、顔に苦渋の色を浮かべている。

 

「正よ……。助けてくれよ~」

 

「さすが4度目の日光は、誰がどこからどう見ても恩赦だよ」

 

「私も行かないし」

 

恵ちゃんも人ごとのように冷たくあしらう。

 

「もう……。恵ちゃんも……」

 

「とにかく、思いがけないトラベルに巻き込まれたな……」

 

大樹が呟く。

 

「おい、皆んな」

 

教授が威勢良く研究室に入ってくる。

 

「はいっ!」

 

「水曜日、急遽教授会が入り日光へ行けなくなった」

 

「えっ?」

 

大樹と義雄には朗報。強張った顔が緩んでくる。教授が研究室を出て行く。

 

「ラッキー!」

 

二人の表情がみるみる明るく変わる。

 

喜びもつかの間、教授が思い出したように研究室へ戻ってくる。

 

「それで代替え日だが……」

 

また、二人の顔が引き締まる。

 

「次の日の木曜日にしよう」

 

思いたったら翌日。そういう性格の教授だ。大樹と義雄は再びブルーな凍りついた顔に。

 

「まだ、オケのメンバー達との方が良かった……」

 

「ああ。大勢でいると、教授の目もいろいろ移ろうだろうからな」

 

「正、恵ちゃん。一生のお願い」

「木曜、一緒に行こうよ」

 

大樹と義雄が両手を合わせて拝む。

 

「助けてやりたいのは、山々、川々だけど……」

 

「あっ、LINEだ」

 

『おとぼけものの正先輩。おはようございます』

『水曜日の日光、楽しみにしております』

 

『昨日は二次会で、友と乳のことで揉み合いになりました』

 

『正先輩。LINEの修正です』

『乳は父の誤りです。感じ変換がどうもエロくてすみません』

 

「全く。漢字変換が、だろ……」

 

「大樹、義雄よ。なんか胸騒ぎがする。日光の件で、一悶着ありそうだぞ」

 

二人にLINEを見せる。

 

「そうだよ。オケの方への僕らの日程変更の連絡、新たな木曜日のスケジュール調整」

 

「なんか、ホント揉み事になりそうだな……」

 

第78話

 

『正。今日もこずえちゃんお持ち帰りか?』

 

『こずえちゃんの貧乳って本当か?』

 

『こずえちゃんって本当に面白い子だな。貧乳のTシャツ見て笑いが止まらないというと、肩揉んで癒してくれた。そして、次の肩どうぞって。また笑いが止まらなくなったよ』

 

『交えるタイプの正が好きらしいな。真面目なタイプ? と聞き間違えたかもしれないけど』

 

『ジャルダンで会おう!』

 

僕にLINEが続々入る。恵ちゃんに僕のLINEを見せる。

 

「あらまあ、どうしたことだか……」

 

こずえちゃんが帰ってすぐ。恵ちゃんはオケの情報網の早さに驚いている。

 

「すごいでしょ? 100人以上いるオケのLINEでは、下手なこと書けないんだよ」

「すぐに炎上する」

 

「これ、情報源こずえちゃんでしょ?」

 

「当たり前でしょ」

 

「どんなこと書いたのかしら?」

 

「ちょっと聞いてみるね、隆に。隆、B型だから」

「こずえちゃんからのB型コンパの連絡、入っているはず」

 

「来た来た」

「これ」

 

恵ちゃんに差し出す。

 

『この梅雨は、すごいしやすい気候です』

『今日のB型コンパと同じ場所に正先輩が来ます』

『わざわざ私のために、研究室の飲み会を同じ場所にしてくれました』

『貧乳のTシャツも着させられたこの私……。でも、正先輩には十分みたい』

『私たち、先輩と交配の関係です』

 

『今日は折箱に、しやすい私を包んでお持ち帰りしてもらいます』

 

「大嘘」

 

僕は呆れて呟く。

 

「あらあら。こんな風に書かれてたんだ」

「これは皆んな面白がるねっ!」

 

恵ちゃんはニッコニコ顔。

 

「何もしなくてもこずえちゃんの存在自体がギャグなんだ」

「なのにあの話し言葉、書き言葉にも大きな嘘とギャグがある」

 

「たぐいまれなる大物ね」

 

「何で僕のこと、好いてくれるんだろう?」

「恵ちゃん。今、僕のどこが好き?」

 

「えっ、いきなり?」

 

「うん。何でもいい」

 

「私が3年間見て来た正くんは、真面目で素直。どちらかというと、笑顔はあまり見なかったかな? ポーカーフェイスだったよね」

 

「あまりお笑いで押すタイプじゃない。そこが、チャラ系男と違ってる」

「落ち着いた心、正しい素行。それがイイ」

 

「そうでしょ?」

「でも、最近僕は変化したよ。よく笑うようになったんだ」

「もちろん、自然な笑顔は恵ちゃんのおかげ」

 

「好きだよ」

 

恵ちゃんは、クスッと笑ってくれる。

 

「そしてたぐいまれなる大物の登場」

「あの子、下手な芸人より全然面白い。存在もキャラも。そして言葉も」

 

「胸がつかえるところの奥底から、無意識な笑いが沸き起こる。喉も腺毛が震えて、時に止まらない」

 

「私もそう思う。初めて会った。こずえちゃんのような子」

 

恵ちゃんが笑いの口を手で押さえて話す。

 

「今回も、そう」

 

『この梅雨は、すごい、し・や・す・い気候です』

『先輩と交配の関係です』

 

「どこからああいう卑猥に聞こえない卑猥な言葉、出てくるの?」

 

「どうして僕を好きなんだか……」

 

「まあ、いいじゃない」

「一過性の劇症恋愛症候群よ」

 

「今夜も私は正くんのものよ。お察しの通り」

 

「うん。ありがとう」

 

「ただ、押して押して押し切られないようにね。こずえちゃんに」

「男の人って、押し切られてなびく人もいるみたいだから」

 

「正くんのような真面目なタイプがあぶないのよ」

 

「抱きつかれて、口づけされて、敏感なところを愛撫されると、心ごと止まらなくなる」

「少しでも嫌悪感があればすぐ拒否れるけど、どこかに、この子もいいかな? と思う心があるとズルズルいっちゃうの」

 

「正くん、こずえちゃんのこと嫌いじゃないから危ない危ない」

「18歳の指が吸い付くモチ肌のピチピチギャルだし」

 

「ギャルはずみな行動は慎むようにねっ」

 

僕は苦笑い。恵ちゃんも誰かさんに完全に影響されてる。

 

「報われぬ恋を、いつも何気に予感させるのよ」

「大丈夫でしょ? 私がいるから」

 

 

ーーーーー

 

 

「おい、義雄」

 

「はいっ! 教授」

 

教授が相変わらずの荒い息で研究室に入ってきた。

 

「2’GTが取れた研究。すぐに論文にしろ。直ちに。すぐだ!」

「ただし、主導はここの研究室じゃない。工学部の生命工学研究室に任せる」

 

「生命工学の教授に連絡を入れておくから書いてもらえ」

「義雄に書かせたら、いつ完成するかわからない。正に書かせるのはさすがに負担になる」

 

「生命工学の実務担当者と事務レベルの打ち合わせを十分にして、研究の流れと重要さを生命工学の教授にしっかり伝えろ」

「分かったな」

 

「分かりました!」

 

教授は用件だけ話して、教授室に戻っていく。

教授と入れ替わりに、電子顕微鏡室から大樹が戻ってくる。

 

「すぐに論文だってよ。義雄」

 

「ああ」

 

「大変だな。義雄」

 

大樹も呟く。

 

「これからみどりちゃんのところに行ってくるかな……」

 

「もし、みどりちゃんに時間があるならこっちに呼べば?」

 

僕が提案する。

 

「僕や恵ちゃんが話に入れば、生命工学の教授に伝える内容に厚みがつけられると思うけど」

 

「ああ、LINEで聞いてみるね」

 

「みどりちゃん。ビール会の前で実験ストップしたし、全然大丈夫って」

 

「じゃあ研究室に呼ぼう」

 

「大切なのは、どれほど花卉園芸に重要な発見かってことを相手側に知ってもらうことだね」

「生命工学では、あまり重要視されないかもしれないからね」

 

「そこんとこは僕に任せて」

「深海魚のように力持ちになるよ」

 

「何、それ? エンの下のじゃなくて?」

 

「底んとこよろしく」

 

僕もこずえちゃんに影響されてる。

 

「まあ、何でもいい。ありがとう、正」

 

「うん。いざとなれば隆もいるし、ことの重要さを伝えるのは訳無いと思うよ」

 

「じゃあ呼ぶね」

 

みどりちゃんがやってくるスカイブルーのワンピース。みどりちゃんの少し大人びた顔にベストマッチのコーデ。

 

「みどりちゃん。可愛いね」

 

「ありがとうございます」

 

「あら、正くん。こずえちゃんだけじゃなく、みどりちゃんへも?」

 

恵ちゃんが微笑む。

 

「いや……、可愛すぎてつい口に出てしまって」

 

大樹がみどりちゃんに声をかける。

 

「どこのブランド?」

 

大樹がワンピースのブランド名を知りたがる。

歩ちゃんと色々近づいているからかな?

 

「あっ、これですか? ノーブラ……。あの……、ブランドものじゃありません……」

 

突然大樹に質問され、どもって答えたみどりちゃん。

 

自分で言ってしまったノーブラと言った言葉が恥ずかしいらしい。気を取り直した後、みどりちゃんはピンクのカトレアの挿してある花瓶に気づく。

 

「恵さんが育ているカトレアですか」

 

みどりちゃんは、その優しい手で花瓶に触れる。

 

「そうよ」

 

「すごい綺麗ですね!」

 

「みどりちゃん。そんな花瓶に反応しなくてもいいわよ」

 

おいおい。恵ちゃんも、随分と大物の誰かさんに似てきたぞ。

 

「さあ、始めましょ」

 

みどりちゃには、確認の意味も含めて一から話をする。

 

カーネーションが黄色になるための遺伝子。カルコングルコシルトランスフェラーゼ。すなわちGT遺伝子。これがないと、カーネーションの黄色花はこの世に存在しない。

 

そして、カルコンをCh2’Gにするための遺伝子が単離できたため、アントシアニン生合成経路を持つカーネーション以外の花卉にこの遺伝子を挿入すれば、黄色花のない花卉園芸品種に黄色を与えることができるかもしれない。

 

この二つを中軸に論文の内容を園芸学的に厚くしていく。

 

 

ーーーーー

 

 

さて、GT遺伝子単離の打ち上げパーティーの前に、オケの部室に寄ってみる。

 

今日は血液型コンパだから、オケのメンバーは楽器を練習している姿ではなく、部室はほぼ待ち合わせ場所になっている。

 

僕はO型コンパに出られないし、こずえちゃんとの厄介な炎上話も少しトーンを押さえなきゃいけない。まあ、軽く顔を出しに来た。

 

こずえちゃんがいる。たまに僕から声かけしてあげよう。こずえちゃんの二の腕を人差し指で軽く押す。

 

「ピンポーン、宅急便の卓球部員です。おとぼけものです」

 

「正先輩。本当のことを言っても全然面白くないですよ」

 

「でも、ギャグのレベルはまずまずです」

「まあ、今は忙しいので不在通知入れといてください」

 

「どこに?」

 

「……」

 

「あら? 今、いやらしいこと考えてたでしょ?」

 

「僕は……、別に……」

 

「私に言わせるんですか? 18の無垢な乙女に」

「ねえねえ皆んな。正先輩ってね~、言わせるのよ私に」

 

バイオリンの一年生女友達同士で、入れるところはどこなの? とか、おとぼけものって何? とか、ひそひそヒソヒソと僕に冷たい視線を投げかけ話してる。

 

「あ~どうしましょう。どうぞ神様お助けください」

 

こずえちゃんはオーバーな神頼みのリアクション。やっぱり、普通に声をかけとくだけでよかった……。

 

「おう、正」

 

「おう、隆」

 

「今日の飲み会。同じ店なんだって」

 

「ああ、偶然も偶然」

「B型コンパはこずえちゃんが店決めたから、正とやっぱり波長が合うんだろ」

 

「何をおっしゃるうさぎさん。偶然の恐ろしさに驚くだけだよ」

 

こずえちゃんがピョンピョン飛んでくる。

 

「最初のパーティー会場予定は生協でした。でも8時で閉まるので盛況じゃない、と烙印を押しました」

「それで、ザ・夏鍋、イタリアンちゃんこを準備してくれるジャルダンにしました」

 

「イタリアンちゃんこ?」

 

「はい。地鶏にトマトソースがしっかり絡み、ネギ、お野菜、お餅もフワフワ」

「夏鍋で、このジメジメした梅雨時期を吹き飛ばします」

 

「いや、このジメジメ感は十分残ると思うんだけど……」

 

「そしてシャケの混ぜご飯」

「シャケはこの夏場にはマイナーじゃない?」

 

「そこで下打ち合わせにて話しました」

 

『今が牡蠣入れ時ですね』

 

『こずえちゃん。牡蠣は冬だよ』

 

『値段もありますよね。この鮭の切り身、イクラになりますか?』

 

『イクラは無理だよ。ハハハ』

 

『これ、イクラ?。ハマチですか?』

 

『ハッハッハ。エビを指差して、いくら? とかHow much? とか値段を聞くなんて。こずえちゃん本当に面白いね』

 

「コック長に大受けして、そこでなんとかしてくれることとなりました」

「あと、ジャルダンのコック長の弱みを、私握ってしまったんです」

 

「何それ?」

 

「コック長、我が教育学部の某美女4年生と不倫しているんです」

 

「そんなの奥さんにすぐバレるじゃない。奥さんといつも一緒に厨房にいるんだもの」

 

「それが、見て見ぬ不倫なんです」

 

「ちょっと待った。頭を整頓させて」

 

見て見ぬ振り。見て見ぬ不倫……。まあ、いいか。一緒だ。

 

「まあ、僕たちの園芸学研究室はビール会。急遽だけど、教授、助手も顔だけ出してくれる」

「お気楽に行くよ。教授のいる時間は大樹と義雄にはプレッシャーになるけど」

 

「サンドウイッチに、地鶏の唐揚げ、アソートチーズ、サラミ、スモークサーモン、ポテトフライなどなど、お子ちゃまオードブルフルコース」

「ザ・夏鍋! なんて考えもつかなかったよ」

 

「まあ、同じ穴のムジナ。正先輩もオケの方にもいらしてください」

 

「あのさ、どうせ全部の血液型コンパ、二次会で、扇谷に合流するんでしょ」

 

「当たり前です」

「扇谷の、つみれを突かずして結構ということなかれ」

 

「なんか、どこかで聞いたセリフだね」

「でも僕は扇屋に行かずに帰るからね」

 

「え~! え~!」

 

「恵先輩とですか?」

 

「うん」

 

「えっ! え~!」

 

「何度驚くふりをしてもダメだよ」

 

こずえちゃんは、がっかりと悔し顔。

 

「そうそう、私におとぼけものの不在通知が届いてました」

 

「……」

 

「扇谷さんに行った後に、正先輩だけにお見せします」

 

「誰も知らないと・こ・ろに不在通知を入れるなんて……。入っている? 入れた? いや、それは嘘です」

「愛しているとは言わないで欲しかった。そう、過去にそこを知っていた男性が二人ほどいました……」

「ああ、神様!」

 

「こずえちゃん。今晩、絶対にお酒は控えてね。素面でそうなんだから」

「飲むとどうなるか分からない」

 

「正先輩。初めての私を前に、サクランボ状態にならないでくださいね」

 

「だから、そういうの今、素面で言う?」

 

第77話

 

「この蒸し暑い梅雨時期の朝っぱらから、そのスキーウエア姿は普通の人が見たら気が違っていると思われるレベルだね」

 

義雄が研究室に来るなり一言。

 

「仕方ないよ。これから低温室に入るんだから。肝心の卒論のためのサンプルが5日分溜まってる」

 

「おはよう」

 

恵ちゃんがやって来る。

 

「あら、正くん。こんな早くから?」

 

「うん。いつもより1時間前に来て実験開始」

「今日は、これから4時間の電気泳動2回、8時間強の試練だよ」

「明日も、明後日も……」

 

「大遊びした後だもんね~」

 

恵ちゃんが僕をおちょくる。

 

「でも、スタミナは十分よね。私知ってるよっ」

 

恵ちゃんは昨日の夜は素敵に乱れた。満面の笑み。

 

義雄はこの場に居づらそうな顔をする。

 

「じゃあ。マイナス10℃の世界に行くよ」

 

酵素抽出であれば、室温2ー5℃くらいでいいものを、丁度いい温度の実験室が農学部には無い。室温31℃。低温室との40℃差の温度差は正直きつい。

 

「私は、極楽の花園、蝶よ花よのラン温室に行くからね~」

「遮光幕を張っているから意外に涼しいし」

 

恵ちゃんが昨日の夜を思い出させる仕草。ポンポンと僕が居るかのようにお腹を叩いて外へ出る。

 

おいおい、昨日はちゃんと付けるもの付けたじゃないか。お腹の中に僕の分身はいないよ。女の子って、いや、恵ちゃんって可愛い。

 

義雄も培養室に向かう。

 

ゴリゴリ、ゴリゴリ。乳鉢に入れたサンプル、石英砂と乳棒の擦れる音。バラの葉からの酵素抽出。単純作業だが、コツがある。

 

数mm以上の塊は乳鉢では潰れないので、バラの葉を鉄板上に置き、金づちで1ー2mm以下に砕いておく。乳鉢に試料を入れ、リン酸バッファーを小さじ半分程度加えて抽出液が飛び散らないように乳棒で磨り潰す。1サンプル、約3ー5分。手際よく。

 

意外に簡単そうで、慣れが必要。約1時間半、この低温室。夏場に寒い不思議な感覚。

 

「ただし~っ……」

 

大樹の声だ。弱々しい。

 

低温室の二重扉を開けて入って来た。

 

「どうした?」

 

「いや、教授が日光にすぐにでも行きたいらしくて……」

「正抜きでいいから、来週にでもと……」

 

「ちょっと待って。あと30分。研究室でね」

 

「分かった……」

 

 

ーーーーー

 

 

「で、どうする?」

 

「僕抜きで行きなよ。水曜日ならオケの連中が行く予定をもう組んでいる」

「昼食の中華料理屋も、20数人入れる席を抑えてあるみたい」

 

「教授はまさに異次元の歩く植物図鑑だよ。世界の植物を知っている人だ」

「大樹にもいいし、オケの連中になんか、もってこいの勉強の場になる」

 

「でも気を使うだろ? 教授だよ。しかも、イノシシのような……」

 

「イノシシは失礼だよ。精々、ウルフのような、くらいのレベルに上げて」

「こずえちゃんに聞いた?」

 

「ああ。こずえちゃん、教授様が来るなら植物園の正はいらないって」

 

「なんて現金な子だ。ただ、植物園の、に限定している返事はクエスチョンだな」

 

「どうしよう……」

 

大樹が頭をかかえる。

 

「簡単だよ。食事と植物園の時間だけ、研究室の連中とオケのメンバーと予定を合わせて、それ以外の観光は別々に行動する」

 

「そうか! そうするか」

 

「ああ。いいかい、僕は抜いといてね」

「約束だよ」

 

「そう、恵ちゃんはどうしよう?」

 

「恵ちゃんは連れて行ってあげて。美味しい料理、食べて来て欲しいから」

 

「うん? 私がどうしたって?」

 

恵ちゃんがラン温室から戻ってくる。

 

「ああ、恵ちゃん」

「日光行き、来週の水曜日になりそうだよ」

 

「あら、そんなに早く?」

 

「色々あって……」

 

大樹はまだ決め切れない。

 

「正くんは?」

 

「僕は行かない」

 

「じゃあ、私も行かない」

 

「何、何? 俺と義雄だけ?」

 

「そういうことになるかな」

「でも、歩ちゃんやみどりちゃんを誘えばいい」

 

「教授だよ。教授付きだよ」

 

「なんだ、お前たち。暇してるのか?」

 

教授が突然研究室に入って来る。

 

「大樹。来週、いつでも大丈夫からな」

 

一言残し、すぐに去って行く。

 

「気をつけようね。壁に耳あり、柱に白蟻」

 

恵ちゃんのギャグに、笑えない大樹の顔が少し緩んだ。

 

 

ーーーーー

 

 

「正くん、お昼何にする?」

 

「生協のA定はカキフライ、タルタルソースかけ。B定はポークチャップ」

 

大樹がスマホで調べる。

 

「あら、どちらも美味しそうね」

 

「僕は新港のカレーでいいよ。150円」

「最近、お金使い過ぎだから。金欠だよ」

 

「また、正得意のアルバイトでも再開すればいいのに」

 

大樹が言う。

 

「人を散々遊ばせておいてそれは無いだろ。卒論があるし、もうお遊びは絶対無理」

「四年生になってキッパリ全てやめたんだ。バイトは」

 

「正、バイトの神様だったからな」

「塾講師、家庭教師3件を軸に、単発のバイトも。みんな感心してたよ」

 

「まあ、お昼ご飯にしよう」

 

「私は今日はカレーという気分じゃ無いから、生協に行くわ」

 

「俺も」

 

恵ちゃんと大樹は生協で決まり。二人して僕が次に何を口にするか、静かに僕をじっと見つめる。

 

「仕方ないな……」

 

僕も生協行きに妥協した。義雄は工学部。きっと、みどりちゃんたちと昼食。

 

「そう、アルバイトってどんなことしてたの?」

 

恵ちゃんが僕に質問する。

 

「交通量調査、パン工場の夜勤、土方などなど」

 

「高校野球の駅前得点板点数付けだとか、能楽の舞台の材料運びとかは?」

 

大樹が聞く。

 

「それは、地方テレビ局にコネがあって連絡が来て行ったりした」

 

「お金も良かったろ」

 

「ああ、塾と家庭教師で月10万、その他単発バイトは一回1万くらい」

「月に15ー16万円は稼いでた」

 

「今、正直きついよ。貯金を崩して生活している」

 

「正、学費は?」

 

「タダだよ」

 

「えっ? そうなの?」

 

恵ちゃんが驚く。体を反らし、リアクションも大きい。

 

「うちの父親が丁度高校二年の時、体調を壊して職を失ったんだ」

「そのあと、パートやアルバイトは始めたんだけど年収が低くて」

 

「高校の先生から、家庭が低収入なら、入試や入学後の成績が上位1/3 以上にいれば授業料が免除される可能性があると聞いたんだ」

「その通りだった。大学事務室に毎年申請に行く手間はあるけど」

 

「そうなんだ。初めて聞いたわ」

 

恵ちゃんは不思議顔。

 

「ということは……、正はタダで大学の高等教育を受けているわけ?」

 

「そういう事」

「だから、教養もみんなの倍近くとって勉強したし、今も自分なりに勉強頑張ってる」

「無料で最高学府で勉強させていただける嬉しさからかな? 神様のおかげだよ」

 

「じゃあ、バイトのお金は家賃や生活費?」

 

「もちろん。だけどサークルや友達付き合いでかなり減る」

「今は3年間で貯めたお金で生活してる」

 

「そうそう、パン工場の夜勤とか大変だって聞くけど」

 

恵ちゃんの友達も行ったことがあるらしい。

 

「うん。一晩どころか1、2時間で抜け出していく子もいるよ」

「あの製造ラインのバター臭、機械の音」

 

「肉まんライン、あんまんラインとかでは、布団のようなとんでもなく重い生地を機械に移し替え、30Lくらいもあるかの袋に入った具をその機械の上から入れる」

「正直、その袋に入っている具を見ただけで、しばらく肉まん食べたくなくなるよ。なんでも多量は気持ちいいもんじゃない」

「フランスパンラインもきつい。成形から焼き上げまで。覚えるまでが大変」

 

「へえ~、不思議ね。正くんパン作ってたんだ」

 

「一晩1万。魅力的なバイトだよ」

「でも、1日やったら3日くらい体の疲れが抜けなくて。それが問題だったね」

 

「よく頑張ったね」

 

恵ちゃんが褒めてくれる。

 

「能の舞台設営とかもやってたんだろ?」

 

「一本、100kgくらいの鉄骨を、二人ペアで城の階段を登り運んだりする」

「城のすぐ横で宴があるから」

「現場の人は、それ、ひとりで楽々担ぐんだよ」

 

「天守閣の近くには、重機は入れない。だから階段で手運びだったんだ」

「年に何回か催しものがあった。そう、特に夜中催される薪能(たきぎのう)が美しかったかな」

 

「真夏の夜の薪能」

「僕らバイトの人には、タダで見せてくれた。仕事には厳しく、そのあと優しい現場の人たち」

「その時、肉体労働の男ってカッコイイと思った」

 

「あら、正くんも筋肉質でいい体してるよ」

 

「……」

 

大樹の沈黙。恵ちゃんは、自分で言った言葉に少し恥ずかしがる。

 

僕は話を切り替える。

 

「そう、24時間、三交代の交通量調査はね、バイトに来る常連の人同士の友情が芽生えるんだ」

「売れないカメラマン。お笑い芸人を目指す人。職をなくした中年の家族持ちの人」

「バイトには、来る人来る人、それぞれの様々な人生ドラマがある」

 

「なんだか、正くんの人の気持ちが分かる温厚な性格形成の秘密が少しわかってきた感じがする」

 

恵ちゃんがそう言うと、大樹も頷く。

 

「正くんの未来。頼もしそう」

 

恵ちゃんは、微笑んで美味しそうにカキフライを頬張る。

 

 

ーーーーー

 

 

「おう、義雄。何してる?」

 

僕らが昼食から研究室に帰って来たら、義雄が机の上に書類をばらまいている。

 

「息してる」

 

「冗談抜きで、何してる?」

 

「2’GTの遺伝子が取れたよ。2種類」

 

「やったじゃん!」

 

僕は義雄に親指を立てる。義雄も微笑む。

 

「ああ、苦労したけど。みどりちゃんのおかげさ」

「やっと取れたよ」

 

「簡単に説明するよ」

 

「黄色花をつけるカーネーションA67、そしてオレンジ花をつけるカーネーション”8358-01”の花蕾中の花弁より全RNAを抽出した」

「その後、mRNAを調製し、cDNAを合成した2'GT遺伝子の候補となるcDNAを、縮重プライマーによる PCRスクリーニングによって単離した」

「得られたPCR産物をベクターに導入した後、シークエンス解析を行なった。その結果、遺伝子の相同性からGTをコードすると思われるcDNAを26種類単離した」

 

「次いで、この全長を5’および3’RACEによって単離した」

「これらをベクターにクローニングした後、大腸菌に導入し、培養した後、ホモジナイザーで破砕した。これを遠心し、上澄み液を酵素液として活性の測定に用いた」

 

「その際反応基質としてはアントシアニンの生合成経路の中間代謝産物などを用いた。この酵素液について、TLC分析、HPLCおよび14CUDP-グルコースを用いた液体シンチレーターによる分析を行った」

 

「その結果、カルコノナリンゲニンを基質とし、Ch 2'Gを生成する2'GT は2種類存在することがわかったんだ」

「単離したDcGT2(D)およびDcGT3(H)は、カルコンからCh 2’Gへの変換反応を触媒することが確かめられた」

 

「すごいじゃない!」

 

恵ちゃんが喜ぶ。

 

「ああ」

 

「今回提出した論文には間に合わなかったけど、これも早めに論文を書いて7月末締め切りの学会資料には組み込むことができると思う」

 

「教授や有田先生には報告した?」

 

「いや。まだこれから」

「今、資料を整頓してる」

 

「義雄。Tシャツの胸にある<シナリオ通り>だな」

 

「うん」

 

「みどりちゃんとはうまくやってるか?」

 

「ああ。今日も二人で食事した」

 

「やるじゃん! 義雄」

 

「なんだか、みどりちゃんがいると、いいことだらけなんだ。癒されるし」

「みどりちゃんも、僕のこと嫌がらないし」

 

義雄が今までより少し自信ありげな顔をする。

 

「それは、大丈夫。脈ありだよ」

「どう、2’GTが取れたお祝いに、今日軽く飲み会でも」

 

「そうだね、飲み屋とはいかなくても、喫茶ジャルダンでビール会でもしようか」

 

恵ちゃんがスマホをいじる。

 

「OK。家は大丈夫。私も飲み会に参加する!」

 

「大樹。歩ちゃんは?」

 

「ちょっと待って……」

 

歩ちゃんとLINEのやりとり。義雄もみどりちゃんに。

 

「歩ちゃんは7時過ぎなら合流できるって」

 

「みどりちゃんはいつでもOK」

 

「決まりだね」

 

僕は一応、いつも空いてはいるが、ジャルダンに予約を入れておく。1組だけ、宴会の予定があるらしい。

 

思いったったらすぐ実行。

 

「3つのオレンジ色のカップルで楽しく飲もう」

 

「おいおい、まだ俺は歩ちゃんにまだ指一本触れてないよ」

 

「俺もみどりちゃんの心の内はまだ全然知らない」

「ずるいぞ、正だけ。恵ちゃんと……、しっぽりといい仲なんだろ」

 

「そうよ。正くん、私に夢中なの」

 

おいおい。その時、素敵に乱れるのはどっちだ? 僕は、口にはもちろん出さず、視線を恵ちゃんに送る。

 

「皆んな、どうかしたの?」

 

廊下を歩いていて、ワイワイ騒いでいる僕たちの声を聞きつけたらしい。有田先生が、いつもの人差し指でこめかみをいじりながらやってくる。

 

「先生! 2’GT、二つ取れました」

 

「そう。それは良かった。またすぐに論文だね」

「教授は知ってる?」

 

「いいえ。まだ連絡してません」

 

「きっと喜ぶよ。皆んな、すごいね」

 

「皆んな、すごいね!」

 

「えっ! こずえちゃん。なぜここに居るの?」

 

「昼食後の散歩で、農学部の農場を散歩させていただきました」

「ラン温室にも失礼させていただいて」

 

「おいおい、温室は部外者立ち入り禁止だよ」

 

「そうだったんですか……」

「まあ、今回に限っては良しとしましょう」

 

「本当の目的は何?」

 

「遊び呆けて、あたふたしてる正先輩にエールを送りに来ました」

 

こずえちゃんは、七分袖のカーディガンのボタンを外し、<貧乳>と文字が書かれたTシャツを見せる。

 

「あのさ、それでさ、絶対オケの部室に行かないでね」

 

「あら? もう行って来ました」

 

「SサイズとMサイズ、そしてエロサイズもありますというと、そこにいた、トロンボーン、トランペットの先輩が練習できない状況に陥りました」

 

「だからさあ……、もう。言ったこっちゃない」

 

「楽器、吹けなくなるんだよ。こずえちゃん。それ見て聞いて」

「息を使う楽器はね……。全く……」

 

息を使う楽器の人間は、プッと笑い出したが最後、思い出し笑いも相まって、なかなか平常心に戻れない。

 

「確かに。皆んな、私の新入り挨拶の時の、横綱の四股入り自己紹介の時に近い反応がありました」

 

「まあ、それはいいとして、これからどうするの?」

 

「4コマ目が必須科目ですから、戻ってお勉強です」

 

良かった。こずえちゃん、顔を出しただけ。

 

「正先輩。今日はオケの血液型別コンパがあるのですが参加します?」

 

「いや。今日はパス。コンパ、四六時中やっているじゃない」

「僕はO型、こずえちゃんはB型だから店も違うし」

 

「あら、私の遺伝子型はBOです。すなわち、どちらでも良いという解釈ができます」

 

「でも、それをB型というんだよ」

「あと、僕ら、今晩はビール会」

 

「あらら、それは困りましたね……」

「どこですか?」

 

「ジャルダン」

 

「な~んだ。そこ、B型コンパの会場です」

 

第5章

 

 

第76話

 

「おう! 正」

 

大樹と義雄が手をあげる。

 

「正くん。早かったのね。まだ5時ちょっと過ぎよ」

 

恵ちゃんは、相変わらずの可愛いクリクリした目で僕を見る。

 

「隆やこずえちゃんが気を利かして早帰りさせてくれた」

 

「大樹には、6時帰宅なんて到底無理。温泉込み、確実に夜9時は過ぎます、と、こずえちゃんから連絡が入っていたと思うけど」

 

「そんな連絡、俺受けてないよ」

 

そうか! こずえちゃんが仕切ったんだ。旅のスケジュール変更。こずえちゃん、中華料理店から以外は研究室に何も連絡してない。ただただ、僕を早帰りをさせてくれる気持ちで動いてくれた。

 

「楽しかったか? 3度目の日光」

 

「ああ、なんだかんだ言って、日光は飽きないね。歴史的建造物、パワースポット。さすが家康公の眠っているところだけある」

 

「日光東照宮は、江戸の鬼門封じに当たるからな」

「裏鬼門は、確か静岡県の久能山東照宮。相殿に織田信長と豊臣秀吉が祀られている」

 

「いつ行ってもすごいパワーをいただけるよ。日光」

 

「そうそう、こずえちゃんたち、おみや買ってきてくれたよ」

 

僕は、リュックから餃子、ニラ団子、杏仁豆腐、湯葉カツを取り出す。

 

「あれ?」

 

太っちょの水野へのお土産Tシャツ、<空気吸っても太ります>。おみやの袋に混じっていた。後で渡そう。

 

「ま・い・う~!」

 

「湯葉カツの美味しさは知っているけど。この料理店の味!」

 

「これ、杏仁豆腐。最高の味じゃない!」

 

恵ちゃんも大喜び。

 

「こずえちゃんからLINEがあったけど、正たちの行った中華料理屋の料理、本当に美味しそうだな」

「このお土産の味で、よ~くわかる」

 

「行きたいわね、またいつか」

 

恵ちゃんは食通。そして、自分でその味を真似て料理を作るのが趣味の一つ。

 

「まあまあ、論文の最終チェックの準備しよう。6時開始だよね」

 

「うん。教授も正がいて安心すると思うよ」

 

 

ーーーーー

 

 

「準備はできたか?」

 

教授が有田先生と共に、珍しく穏やかに研究室に入ってきた。

 

「はいっ!」

 

皆んなで軍隊のように声を合わせる。

 

「正。日光はどうだった?」

 

教授の冷たく響く、場が凍りつく言葉。

 

「あの……、その……」

「家康公の遺訓にあるように、人の一生は、重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。急ぐべからず……、ですよね……」

 

「若造が何を言ってる。お前達が物事に行き詰まるのは重荷を背負っているからじゃない。背負い方がいけないだけだ」

「若いときは急げ、なんでも背負え!」

 

僕や皆んなは教授の言葉にかしこまる。

 

「それじゃあ、黄色花の論文の方から読み合わせを進める」

「質疑があれば、その場その場でするように」

 

Abstract、Material and Method、Result、そしてIntroduction、Discussionの順に皆で黙読し、論文のチェックを進める。

 

「やはり正の言う通り、黄色花の濃淡の単語は、明るさの度合いをイメージさせるtoneではなくて濃度を意味するdensityの方がいいな」

 

教授が皆に提案する。

 

教授には逆らえるわけがない。異議なし。皆んなで賛同。

 

「よく出来ている」

 

珍しく、教授から褒め言葉が出る。黄色花の論文チェックを終え、少し休憩。時計も7時を少し回ったところ。

 

「教授。日光の湯葉カツとニラ団子があるのですがいかがですか?」

 

恵ちゃんが熱い緑茶とともに教授と有田先生に差し出す。

 

「美味いな」

 

教授がボソッと呟く。

 

「そういえば、しばらく日光に行ってないな……」

 

この後の教授の言葉が怖くて、皆んな息を飲む。

 

「梅雨も半ば、花もどんどん咲いてくる頃だろう。いい時期だ」

「どうだ、有田くん。日光」

 

「はあ。でも皆んなも正くんも行ったばかりですし……」

 

「正は抜けても構わない」

 

この言葉に、大樹と義雄がビビる。

 

「植物検定の勉強にもなる」

 

さらに、大樹と義雄が緊張し顔が凍りつく。

 

教授は次の言葉を探してる。しばし沈黙の時。

 

「さて、オレンジ色の方に行こう」

 

皆んなホット胸を撫で下ろす。

 

「このタイトルの変更はしなくていい。Articleではなく、Noteで提出するので、あまり仰々しいタイトルは避けよう」

 

「Analysis of orange color related with chalcones and anthocyanins in the petals of carnations (Dianthus caryophyllus)のままでいい」

 

「さて、さっきと同じ順番でチェックして行こう」

 

皆で黙読を進める。

 

「教授」

 

「なんだ? 正」

 

「あの、Resultの内容にしては、Discussionのボリュームが少しありすぎる感じがして」

 

隆が知恵入れしてくれたところだ。

 

「黄色色素と、赤色のペラルゴニジン3マリルグルコシドの組み合わせだけではなく、黄色色素と、紫色素シアニジン3、5ジグルコシド、鮮ピンク色素のペラルゴニジン3、5ジグルコシド、暗赤色素シアニジン3マリルグルコシドと共存する花色の存在も示唆される」

 

「この部分を抜いたらどうかと思いまして……」

 

「ここは、正、お前が追記したところだぞ」

 

「はい。でも、黄色色素と、赤色のペラルゴニジン3マリルグルコシドの共存でオレンジ色を説明したNoteで、残りの三つのオレンジ色? の存在まで、あえて触れなくて良いし、もしかすると遺伝子の発現機構で、残りの三つの中間色は存在しないかもしれません」

 

「皆んな、どう思う?」

 

沈黙が訪れる。誰も教授に意見するなんぞできやしない。

 

「わかった。Noteだし、そんなにボリューム感はいらない。正の言う通りここは削ろう」

 

教授がチェックを入れる。時計の針は8時を回った。

 

「さて、論文の最終打ち合わせを終わろう。皆んな良く頑張った」

「後は7月末締め切りの、秋の学会のプレゼン作りだな」

 

「構成は、以前話した通り3報に分ける」

「共通の表題は、カーネーションの花色に関する基礎的研究」

 

「1報目は、カーネーションにおける黄色花の色素の分布。2報目はカーネションにおける黄色花の発現機構の解析」

「3報目は、カーネーションのオレンジ花に関する基礎的研究」

 

「各々15分の発表時間なので、プレゼン資料は14枚前後だな」

 

「はいっ!」

 

皆で、ここも軍隊のように声を合わせ返事をする。

 

「そうそう、あと論文完成の打ち上げ、義雄が幹事か?」

「あと、日光行き。大樹、幹事やれ」

 

「わかったな」

 

教授は有田先生と共に研究室を出る。

 

「わかったな」

 

恵ちゃんが可愛らしく、おうむ返しのように義雄と大樹にそっくりその言葉を繰り返す。

 

「思い立つのは翌日……」

 

小さくなった大樹が呟く。

 

「そんな冗談言っていると、いつまでたっても打ち上げや日光行き、決まらないわよ」

 

「今日決めよ。思い立ったが吉日でしょ。ねっ!」

 

 

ーーーーー

 

 

恵ちゃんが全員分のコーヒーを入れてくれる。

 

「論文の打ち上げは、今月末の正の誕生日にしようか?」

 

義雄が話を切り出す。

 

「でも誕生日。恵ちゃんと二人っきりでいいことしたいんじゃない? 正」

 

「ぜ~んぜん。私たち、いつでもできるから……」

 

恵ちゃんが大胆な発言を言いかけて止める。言った言葉は取り戻せない。恵ちゃんは顔を赤らめる。

 

「じゃあ、決まりだね。打ち上げは正の誕生日」

 

「日光は?」

 

「それが問題だ。梅雨明けにしよう」

 

「何となく、サンサンと輝く日の光の下の方が、ジメジメした空と気分の下よりいい」

「教授の心もsun、sunとお日様のように晴れるはずだ」

 

大樹がダジャレを交え呟く。

 

「散々と酷いことにならなければいいけど」

 

「恵ちゃん、そんな縁起の悪いこと言わないでよ……」

 

大樹はソワソワし始める。

 

「急ぐ必要はないんだから、学会のプレゼンがおおよそ出来てからにしよう」

「7月中下頃かな?」

 

「それなら、僕も行くよ」

 

「正が一緒ならものすごく助かる!」

 

「ウバユリ、ヤマユリの見所の時期だね」

 

「じゃあ、一応7月20日。この日にしておいて、教授の都合に合わせ日程を調整すればいい」

 

「大樹、頼むよ」

 

「ああ」

 

「ほら、決まった。思い立ったらすぐ決めなきゃ」

 

時計の針は8時半過ぎ。

 

「じゃあ、帰ろうか」

「晩御飯、どうする? 皆んなで食べようか?」

 

「……」

 

僕と恵ちゃんはうつむく。

 

「はいはい」

 

「俺は義雄と牛丼でも食べて帰るよ」

「正は恵ちゃん、お持ち帰りね」

 

 

ーーーーー

 

 

「恵ちゃん、何にする?」

 

僕と恵ちゃんは、僕の慰労に恵ちゃんのおごりということでプチ贅沢。イタリアンバルへ。

 

「初めは熟成ミラノサラミかな」

「何かオススメのいいワインある?」

 

「あれ? 箱入り娘さん、お酒大丈夫なの?」

 

「うん。今日は論文打ち合わせで飲んで帰りは終電近くになると連絡しておいたから」

 

「じゃあ、ドルチェット・ダルバにしようか」

 

テーブルに、ミラノサラミとワインが運ばれてくる。ダルバは、酸味と渋みのバランスが完璧で、舌触りはまるでビロードのようにきめ細かい。

 

「はちみつやスミレの花を思わせる華やかな香り、そしてこのミネラル感がいいわね」

 

恵ちゃんは満足げ。

 

「恵ちゃんは、アイリスの香りがする」

 

「正くんのお気に入りでしょ? 味見は後ほどね」

「さて、何にしよう……」

 

恵ちゃんはメニューとにらめっこ。

 

「マルゲリータピザのWチーズ、辛味チキンというところかしら」

 

「うん。それでいいよ」

 

ピザはもちろん美味しい。チーズもたっぷり。スパイスで味付けした、ジューシーでサクッとしたチキンの皮の食感もたまらない。

 

「論文の打ち上げ会には、隆さんやみどりちゃん、そうそう、歩ちゃんも呼ばなきゃね」

 

「うん。遺伝子関係、サンプル採取、とてもお世話になったからね」

 

「こずえちゃんは呼ばないの?」

 

「こずえちゃんは呼ばないよ。関係部外者だよ」

 

「でも、正くんの誕生日。何が起きるかわからないわよ」

 

二人して微笑む。

 

こずえちゃんは素直でさっぱりしてて爽やかで、人に嫌がられる娘じゃない。その場にいても何の違和感もない。

 

「呼ぼうか?」

 

「まあ、幹事の義雄くんに任せましょう」

「さて、ドルチェはティラミスね」

 

「正くんは?」

 

「うん……」


ぼくは、モジモジして下を向く。

 

「そうよね。聞くまでもないね」

 

恵ちゃんは笑顔で自分を指差す。

 

第75話(第4章 最終話)

 

コンビニのネットプリントで論文を取り出す。そのあと、市内の喫茶店へ。

 

「隆。悪いな」

 

「いや、いいよ。頑張ってくれ」

 

「こずえちゃんもすまないね」

 

「はい。すまないです」

 

 

ーーーーー

 

 

「さて、やるか」

 

コーヒーだけを注文する。僕の好みは、イエメン産のさわやかな香りと強い酸味のある味わいのモカ。

 

論文の下書きは、ほとんど自分で書いたので読みやすい。でもなんだろう? Introductionの冒頭から文章に違和感を覚える。

 

カーネーション黄色花の濃淡を意味する英語が、tone。yellow color toneになっている。僕はこの部分を、yellow color density にしたはずだ。toneは明るさの度合いなので、濃淡とは少し意味が異なると感じる。濃度のdensityの方がしっくりくる。

 

ここは今日の打ち合わせ、校閲者への質問が必要だ。もしかしたら、教授が手入れしたのかもしれないが。

 

あとは2つ、3つ、これも違和感がある表現があるが、多分、校閲の方が正しいだろう。

 

一応チェックを入れておく。

 

「待てよ……」

 

僕の目線は、一番大事な表題に移る。

 

Variation in chalcononaringenin 2′-O-glucoside content in the petals of yellow carnations (Dianthus caryophyllus)。

 

黄色いカーネーションの花弁……。日本語直訳の表現。なんだかこのニュアンスに違和感を持つ。黄色花を持つカーネーションの花弁の方が……。

 

「それだ!」

 

ついつい声に出てしまう。

 

英語に訳すと、Variation in chalcononaringenin 2′-O-glucoside content in the petals of carnations (Dianthus caryophyllus) bearing yellow flowers。そう、the petals of carnations (Dianthus caryophyllus) bearing yellow flowers。bearingだ! これで表現する方がしっくりくる。

 

Analysis of orange color related with chalcones and anthocyanins in the petals of carnations (Dianthus caryophyllus)。

 

もう一つの論文。カーネーションのカルコンとアントシアニンが共存するオレンジ花の解析。こちらの表題にも目が移る

 

これも思い切って、Analysis of chalcones and anthocyanins in the petals of carnations (Dianthus caryophyllus) bearing orange flowersにしようか?

 

ただ、このオレンジ花の表題の変更は要注意だ。論文全体のイメージを捉える表題の変更。オレンジ花の表題は後者のようにしてしまうと、論文全体の内容、文書の書き換えが必要になるかもしれない。教授や皆んなに要相談だ。

 

二杯目のコーヒーを頼む。

 

さて、もう一度二つの論文を見直す。窓の外では、少しだけ雨がぱらついている。晴れの予報とはいえ梅雨時。昨日と、おとといは晴れて快適だった。でも、今日も基本は曇り。しかし、悪くはない。

 

LINEの着信音。

 

「正先輩。華厳の滝すごいです!」

「これからこずえ、水着に着替え飛び込みま~す」

 

こずえちゃんから、滝の写真付きのおとぼけ連絡。こずえちゃんは天然系。ダジャレやおとぼけが好きな楽しい娘。時に度が過ぎるけど。

 

傘をさしてあげると、確かに百均で買ったのだけど、どうもどうもダイソーなものをと言うし、植物園の駐車場ではけっこう軽だらけ、庭花だらけとか。

 

どこから、あの言葉が出て来るのだろう? 脳みその思考回路を覗いてみたい。とても可愛らしくていい娘なんだから、早く彼氏を見つけて楽しい大学時代を過ごせばいいのに。

 

僕には恵ちゃんがいる。ホント、なんとかならないものかね……。

 

こずえちゃんに返信を打つ。

 

「水着、持ってないでしょ?」

 

さて、カーネーションの黄色花の方の in the petals of carnations bearing yellow flowersと変更したAbstractを読み返す。

 

Chalcononaringenin 2′-O-glucoside (Ch2′G) was found to be the major pigment molecule in the petals of carnations bearing yellow flowers. The concentration of this pigment varied from 5.5 to 100.0% (relative value with amounts in the line ‘7154-03’ assumed to be 100%) in 31 carnation genotypes investigated. The transcription of both phenylalanine ammonia-lyase (PAL) and chalcone synthase (CHS) genes was active in the petals of both yellow carnation flowers and a cyanic control cultivar. The transcripts derived from the chalcone–flavanone isomerase (CHI) gene in the petals of yellow carnation flowers were below the level detectable by Northern blot analysis, but could be detected by RT-PCR. This is possible to produce subtle amounts of CHI protein translated from suspicious amounts of the mRNA to catalyze chalcone, resulting in the variation of the concentration of Ch2′G. Other probable factors caused to the variation include the amount of substrates supplying the flavonoid biosynthetic pathway, spontaneous isomerization flowing over the CHI step producing flavonol derivatives, and chalcone 2′-glucosyltransferase (CHGT) activity.

 

これでよし。

 

 

ーーーーー

 

 

「正せんぱ~い。この会えない時間が、愛育てました」

 

隆、こずえちゃんたちが華厳の滝の観光を終え、喫茶店に迎えに来てくれた。

 

予想通り、こずえちゃんは、<私は誰?>、そして<貧乳>の文字のプリントされたTシャツを買って来た。

 

「正先輩。私、貧乳ですが美乳なんです」

「うふっ」

 

こずえちゃんが色気ある目をしようとする。まだ仕草が幼くて可愛い。

 

「こずえの胸、興味あります?」

 

「だ・か・ら、僕は恵ちゃんしか見えないの。ごめんね」

 

「いや、恵先輩の貧乳と私の貧乳とは訳が違います。貧乳関係だけれど」

 

「それを言うなら、親友関係でしょ」

「しかも、恵ちゃんは貧乳とは違うよ、こずえちゃんだって別に……」

 

「あらっ! 正先輩エッチですね、まっ昼間から二人の女の子の胸比べですか?」

 

こずえちゃんは、僕の興味を引いたのが嬉しかったのか、フフフと不気味に微笑む。

 

「肝心の論文チェック終わりましたか?」

 

「だいたいね」

「午後の打ち合わせに遅れることを前提に、チェックした論文を皆んなに送っておいた」

 

「正先輩って、普通にすごいんですね」

 

「何が?」

 

「いわゆる、ただ勉強ができると言う上をいっています」

「頭の回転が早いとでも言うのでしょうか。なんか普通に勉強できると言うのとは違ってます」

 

「俺もそう思うよ。正の脳の回転の仕方はただもんじゃないって」

「勉強ができるとか暗記力がいいとかじゃないんだ」

 

「こずえちゃんの言う、創想、色々な情報をひっくるめてそれを瞬時にまとめる。そしてそれをわかりやすく表現する」

 

隆も頷く。

 

「さて、これからワールドスクエア、鬼怒川温泉だっけ?」

 

僕が隆に尋ねると、

 

「そう。時間があるから、日光江戸村にも寄ろうと言うことになったんだ」

 

「時間がある? 江戸村?」

 

「あのさ、僕、論文打ち合わせがあるんだよ」

「時間なんてないよ」

 

「そこは私が手を打っておきました」

 

こずえちゃんのニコニコ顔。

 

「大樹先輩に、6時に研究室なんて到底無理。温泉込み、確実に夜9時は過ぎますと」

 

「おいおい! それは困るよ」

 

「教授も快諾したそうです」

 

「えっ? 教授が?」

 

「それは何かの間違いじゃ……」

 

「先輩の送ったファイルを見て、とても感心していたようです」

「ゆっくり遊んでこい、とのことらしいです」

 

「こずえちゃん。それが怖いんだよ」

 

「教授は機嫌がいい時には、ものすごく機嫌がいいんだ。だけど、ムラがあってすぐ不機嫌になる」

「そして、大樹や義雄が餌食になる」

 

「いいじゃないですか。いずれにせよ正先輩と恵先輩は無事なんですから」

 

「そう言う話じゃなくて……」

 

「だいたい、皆んなが論文の最終打ち合わせの時に温泉入ってるバカがどこにいる! そう怒られるのが目に見えているよ。殺される以外のあらゆる仕打ちを受ける」

 

「簡単です。もう一つ手を打っておきます」

「正先輩が、植物園で一生懸命汗を流しながら皆んなを案内したので、ゆっくりと温泉につかることが必要だと」

 

「あのさ、そんなさらに怒りを煽る冷や汗の出る話は絶対ダメだよ」

 

「仕方ないです。行きましょうよ。論文の用事は想定外だったんだから」

 

「拙者、江戸村、ワールドスクエア、温泉のため、論文打ち合わせからはドロンいたします」

 

こずえちゃんが口に出して、大樹にLINEを打っている。

 

「あのさ。間違えてもそう言う恩赦の気持ちを逆なでするようなダメ言葉、研究室に絶対に連絡しないでね」

 

「はいはい。冗談です」

 

「正先輩……」

 

「うん?」

 

「晩御飯の予定、空きましたね」

「指が滑って、大樹さんにLINEしちゃいました」

 

「まさか……、こずえちゃん、僕を罠に?」

 

「いいえ」

 

こずえちゃんは、もじもじして下を向く。

 

「……はい」

 

 

ーーーーー

 

 

「あれ? 今市インターで降りないと、江戸村やワールドスクエアに行けないんだと思うよ」

 

僕の言葉を無視して、車は宇都宮日光道をそのまま東北道方面へと向かう。

 

隆はニヤリと微笑む。

 

「大学に帰るんです」

 

こずえちゃんが微笑む。

 

「えっ?」

 

「お土産に、湯葉カツ、ニラ団子、杏仁豆腐も買ってきました」

「論文打ち合わせの時、皆んなで分けて食べてください」

 

紀香ちゃんも夕子ちゃんも、皆んな笑顔だ。

 

「そうか……。ありがとう!」

 

「多分、6時頃には余裕で研究室に戻れるよ。もしかして5時過ぎに着くかも」

 

隆が言う。

 

「皆んな、本当にこのまま帰っちゃっていいの?」

 

「正先輩の大事な壮大な研究論文をおろそかにしてはいけません」

 

こずえちゃんが真剣な顔をする。

 

「断腸の思いですが、来週出直して来るので大丈夫です」

 

「あた~っ。それがあったか」

 

「はい。あります」

 

「今夜の正先輩は恵先輩のものですが、来週は分かりません」

 

「Que será, será. Whatever will be, will be. The future's not ours to see」

「ケ・セラ・セラ。明日のことなど分からない、です」

 

「さて、大学まで一走り、BGM何にしましょう?」

 

「いや、その前に、伊豆での正先輩たちの余興を見ましょう。DVDに焼いてあります」

 

「隆先輩は運転に集中ですよ。モニターは見ちゃダメです」

 

「はいはい」

 

こずえちゃんが仕切る。

 

「では、正先輩、入れてください」

 

知床旅情。

 

紀香ちゃんと夕子ちゃんはDVDを入れる前に思い出し笑い。

 

さて、かける。

 

実際演技している自分たちは、それほど受けるものとは思わないのだが、他人に受ける。再度、紀香ちゃんと夕子ちゃんに大受けしている。こずえちゃんにも受けている。

 

「大樹先輩が面白い人で、バックで踊っている正先輩たちが真面目な性格の人だから、そのバランス加減がいいんですよ」

 

紀香ちゃんが微笑みながら話す。

 

「とにかく受けますね。何度見ても」

「アブラハムには7人の子。これも思い思い適当な動きで大笑いさせます」

 

「これね。真面目にやるときついんだよ。結構」

 

「人間、たぬきになれば何でもできる、ですか?」

 

「たぬきじゃなくて、死ぬ気でしょ?」

「別に、死ぬ気になって踊ったんじゃないけど」

 

僕は、この余興の後の恵ちゃんとの夜の海を思い出す。

 

 

ーーーーー

 

 

「ずっとこのままでいたいね。永遠? だっけ?」

 

「うん。太陽と共に去って行った海」

 

僕はあの時、無言で背後から恵ちゃんのブラジャーの下の乳房を優しく手で包んだ。恵ちゃんは、僕のジーパンの秘部のところを撫で上げてくれた。

 

僕は顔を恵ちゃんの濡れた髪に埋めた。香水とシャンプーの入り混じった空気だけの呼吸。沈黙の時。恵ちゃんが手で愛撫してくれた。さざなみの音が遠のいて聞こえ、ついに耐えられなくなって……。

 

あの時、確かに2人で永遠を感じた。

 

 

ーーーーー

 

 

「正先輩。何、いつも通りぼ~っとしてるんですか」

「BGM何にしましょう?」

 

「永遠、と言う言葉がある曲がいいな」

 

「永遠……。意外にクラシック音楽の中ではその表題、すぐに思い浮かびませんね」

 

「たくさんあって良さげなのに……」

 

こずえちゃんは眉をしかめる。

 

「マーラーの大地の歌。第6楽章の告別の最後は、永遠に、永遠に、を繰り返すよ」

 

「それにしましょう!」

 

「そう、大地の歌の歌詞は李白らによる唐詩に基づいているんだ」

「この曲から聴き取れる東洋的な無常観、厭世観、別離の気分は何とも言えない」

 

「名曲中の名曲とも言えるような作品は、演奏のできふできを超越して、すごさを感じさせるもの」

「バッハのマタイ受難曲、ストラヴィンスキーの春の祭典などと並んで、マーラーの大地の歌は間違いなくそのひとつだと思う。マーラーのすべての作品の中でも別格の傑作だ」

 

隆が簡単に曲の解説をする。

 

「中国の詩を歌詞にしていて、テノールとアルトの二人の歌手が詩を歌う」

「李白や、王維やら、高校の漢文で習ったような詩人の作をもとにしていると記されている。とはいえ、ドイツ語版は正確な翻訳ではなく、原詩を適当にアレンジした半ば創作的なもの。しかして、陶酔、悲しみ、美、孤独、別れ、放浪……。こうしたおなじみの19世紀ヨーロッパの常識的テーマは、僕たちにはわかりやすい」

 

「マーラーは詩に絢爛豪華なオーケストラを随伴させた。ズバリ、マーラーの作品中でもっとも巧妙かつ洗練されたオーケストラの音楽が聴けるのが、この大地の歌だと思う。9曲の交響曲とも一線を画している」

「大管弦楽が、キラキラした輝きから陰鬱な霧まで、実にいろいろな響きをまき散らしつつ、退廃的な悲しみを奏でている」

 

「じゃあ、入れるね。大地の歌」

「全部聞いてもいいけど、1時間くらいかかるから、強いカタルシスに到達する最終楽章の第6楽章、”告別”だけね。これだけで30分近くあるから」

 

 

ーーーーー

 

 

「さて、エンディングだよ」

 

”わが友よ この世では 僕は幸せには恵まれなかったようだ”

 

”どこへと問うのか?  山へと分け入るのだ”

”独りの心に憩いを与えるため”

 

“故郷へ 身を置く場所へ”

“もはや見知らぬ地をさすらうことはない“

“心穏やかに その時を待つつもり”

 

”この愛おしい大地は 春になればどこもかしこも花が咲き”

”再び新緑に染まるだろう”

”永遠に 碧き光 遙か彼方まで”

 

”永遠に 永遠に”

 

「これからEwig……、Ewig……。永遠という言葉が、4分近くも繰り返される」

 

「永遠に、の句を繰り返しながらハ長調の主和音に至るけど、和音に音階の第6度音のイの音が加えられて、ハ-ホ-ト-イとなっているため、ハ長調ともイ短調とも区別のつかない、曲がいつまでも閉じられない印象を残しているね」

「マーラーはこの部分に楽譜に記している。Gänzlich ersterbend。完全に死に絶えるように、と」

 

隆が話し終える。皆んなは感動とともに、少ししんみりする。

 

「ランボーの詩集、地獄の季節にある”永遠”の詩も、小林秀雄の訳は、”見つかったぞ。何が? 永遠が。海と溶け合う太陽が”、と、永遠への憧れを詠った感があるけど、中原中也の訳は、”また見つかった。何がだ? 永遠。去(い)ってしまった海のことさ。太陽もろとも去(い)ってしまった”。そんな風に、厭世感をかもし出すように詠んでいる」

「そして、”もとより希望があるものか。願いの条(すじ)があるものか。黙って黙って堪忍して……。苦痛なんぞ覚悟の前」

 

「天才達がカタルシス、即ち、心の浄化を通じて、芸術に昇華させた永遠とは終焉を迎えるべきもの、ということになるのかな? 青春がそうであるように……」

 

僕がそう話すと、

 

「嫌です! こずえは嫌です。青春が終わるなんて。そんなの」

 

こずえちゃんがプンと可愛らしく頰を膨らませる。

 

「こずえちゃん。アナトール・フランスという詩人はこう言ったんだ。”もし私が神だったら、私は青春を人生の終わりにおいただろう”、と」

 

「こずえ、それがいいです!」

 

「でもね、こずえちゃん。全ての人間が青春時代を謳歌してその夢に浸ったまま終焉を迎えるのであれば、誰が進んで教育に励み、労働の提供をして、要らぬ苦労もし、人生を積み上げていこうと思う?」

 

「人間の道。それを創り上げてこられたのは、往々にしてそういう人間の努力があるからこそなんだ。あくまで人生は、青春、壮年、老いを経て死に至る順番があるからこそ、僕ら人間の命は等しく尊く、そして確かに美しく輝くんだよ」

 

「こずえ……、やっぱり嫌です。青春が終わって、恋ができなくなるなんて……」

「イ・ヤ・で・す」

 

フフフ。僕は微笑む。

 

「大丈夫よ。パスカルが言っている。”恋愛に年齢はない。それはいつでも生まれる”」

 

第74話

 

「いっただきま~す!」

 

中華料理店。単品だの定食だの色々注文。女の子たちは、パシャパシャスマホで写真を撮っている。

 

珍しくこずえちゃんも。

 

「この春巻き、パリッパリで超美味しいです! 焼き餃子も大きくて美味!」

 

紀香ちゃんや夕子ちゃんが大喜び。

 

「これが、宇都宮餃子っていうんですか?」

 

「違うよ。僕の知っている宇都宮餃子は、もう少し小さめで柔らかく、具もキャベツ中心だし違うみたい」

「ここのは、具がパンパンでニラもたっぷり。焼き加減も丁度いい」

「これは、餃子の満員電車だよ」

 

「フフフ。テレビで聞くような食レポですね」

「ホント、お腹が空いているからじゃなくて、ここの中華、とっても美味しい。最高です!」

 

こずえちゃんは、あんかけ焼きそば、エビチリ、ニラ団子に舌鼓を打つ。

 

「まいう~! 最高です、ここの味。味にメリハリがあります」

 

「私たち、同期の子達と横浜の中華街もたまに行きますが、正直まだ、ここほど美味しいお店を知りません」

 

紀香ちゃん、夕子ちゃんも舌鼓を打つ。

 

「ニラ団子。最高です!」

「これはニラの収穫祭です!」

 

「もう、こずえ、カフェテリアのニラ饅頭は忘れますです」

 

「本当?」

 

僕はこずえちゃんの言葉を信じない。

 

「嘘です。あれはあれでいいんです。やっぱり物事は近くで用を済ますでしょう」

「私が正先輩で用を済ましているように」

 

「おい正。本当にこずえちゃん、正で用を足しているのか?」

 

「隆よ。聞いてるだろ? 義雄からとか」

「僕は今はね、研究室の仲の良い女の子と一緒なの」

 

「ああ、まあね」

 

「でも、こずえちゃんと伊豆でキスしたとか、牛丼と一緒にアパートにおもち帰りしたとかの方が、全然オケでは噂になってるぞ」

 

「はぁ……、全く……」

 

「美味しい美味しい! 全部美味しい。幸せです」

「チャーハンも、思いっきり食べちゃいます!」

「無礼講ですみません」

 

僕は昨日食べたから知っているが、確かにここより美味しい中華料理店を探すのは都内でもなかなか難しいかもしれない。

 

「セットについてる杏仁豆腐ください!」

 

僕と隆は、女の子三人に杏仁豆腐を振る舞う。

 

「え~っ! 甘さ、柔らかさ、杏仁の加減が絶妙! 優しい味」

 

「正よ、このお店、本当に美味しいな」

「今度俺、里菜ちゃん連れてこようかな。最近グルメなデートしてないし」

 

「大樹さんからLINEが入っています」

「料理を見て美味しそうだと。また、日光に来る計画を立てるそうです」

 

「もしかして……、大樹に送った? LINE」

 

「はいっ!」

 

まあ、予想はしていた。でももう大丈夫。さすがの彼らも今回だけは動けまい。

 

「来週の水曜あたり、都合がいいらしいです」

 

「それ、まじ? 勘弁してよ……」

 

「まあいい。僕がいる必要がない」

 

僕は居直る。

 

「ランチと、東照宮、日光植物園だけらしいです」

 

「却下、却下。後で僕から連絡しておくよ」

 

「里菜ちゃんも、来週水曜なら大丈夫そうだ」

 

「あのさ……、隆も」

 

「まあいい。繰り返すけど、僕がいる必要はないから」

 

「正先輩は必要です。オケのLINEも炎上しました」

「美味しい中華に、日光観光、初夏の爽やかな植物園散策」

「車、四、五台分くらいにはなりそうですね」

 

「皆んな、美味しい話に食いつくわけです」

「そこで誰が食後の植物園案内できます?」

 

「……」

 

「この件は私にかませてください」

 

「任せてください、じゃないの?」

 

「心配は無料です」

「ツアーガイドの正先輩分の旅費、食費はかかりません。皆んなで割り勘で出します」

 

「僕、そんなことされたくないよ。そこまで貧乏じゃない」

 

「ボロは着てても、心はナイキ、ですね」

 

「はぁ……」

 

 

ーーーーー

 

 

「さすがパワースポットです」

「東照宮、すごいです!」

 

「さて、家康公のご利益を授かりましょう」

 

こずえちゃんは目が爛々としている。

 

「陽明門。すごいですね」

 

皆んなでじっくり見回す。僕も。3度目だけど素晴らしい。筆舌に尽くしがたい素晴らしさ。

 

「次に神厩舎です。16匹の猿がいます」

「人間の一生が風刺された作品で、作者は不明なのだそうです」

 

こずえちゃんは色々調べてきている。

 

「1面は、母猿が手をかざして子猿の将来を見ています」

 

「2面目は有名な三猿。3匹の猿がそれぞれ耳、口、目をふさいでいます。見ざる、言わざる、聞かざるです」

 

「3面、座っている猿の姿。一人立ち直前の姿を表しています」

「4面、猿は大きな志を抱いて天を仰ぐ。青い雲が“青雲の志”を暗示しているようです」

 

「5面目。猿の“人生”には崖っぷちに立つときも、迷い悩む仲間を励ます友がいます」

「6面、物思いにふけっている姿。恋などに悩んでいる姿」

 

「7面目、結婚した2匹の猿。大きな荒波の彫刻は、これから夫婦で乗り越えてほしいという願いがあります」

「8面、お腹の大きな猿。やがて母親になって1面へと戻ります」

 

こずえちゃんのガイドはツアーガイドさん並みだ。説明力がすごい。脱帽する。教育学部に必要な、人に物事を丁寧に分かりやすく伝える素養は満たしている。

 

「眠り猫の先には、家康公の墓の上に立つ宝塔があります。真横と真後ろが、特にパワーが強いらしいです」

「隣には、願いが叶うといわれている叶杉のほこらがあります」

 

東照宮の正門を出て右手にある石灯籠が続く参道。今日で3日連続だ。

 

道の先には二荒山神社。

 

「二荒山神社、強いパワースポットです」

 

「パワーのある2つの神社を繋ぐ上新道、とても強いパワーが集まっています」

「私には分かります。ものすごく強いです」

 

確かに歩いていると、不思議、強い霊気をこの三日通じて感じられる。

 

「さて、夫婦杉です」

「正先輩。縁結びの神です。おみくじ結びましょう」

 

「ああ、それはいいや。僕、恵ちゃんと結んだから」

 

「どこですか?」

 

「右の下から2番目の一番はじっこ」

 

「これですね。まず外します」

 

「おいおい! 勘弁してよ」

 

「そして、私たちのこれをつけます」

 

「だ・か・ら、外すのは勘弁して」

 

「分かりました。その意見はのみます」

「隣に結びます」

 

「御神木に一緒にそっと触れましょう」

 

僕は仕方ない。言う通りにする。

 

「これで恋人との良好な関係を築けるパワーを授かりました。恵先輩との上をいきました」

 

「はいはい」

 

僕はこずえちゃんを軽くあしらう。

 

 

ーーーーー

 

 

植物園で入園料を払い、駐車場に入る。

 

「結構軽だらけ、庭、花だらけですね」

 

「こずえちゃん。駐車場の車からギャグ始めない」

 

「ここが植物園ですか?」

「想像していたのとは違いますね。自然植物山です」

 

「そう、ここは自然の中で、自生している、あるいは自生している植物の中で色々な草花を魅せる植物園なんだ」

 

「たくさんの花が咲いてますね」

「知りたい花だらけです」

 

「結構軽だらけ、庭……」

 

「こずえちゃん。ギャグはいらないよ。花だらけで十分」

 

「はいはい」

 

僕は三日目。

 

でも、隆、こずえちゃん、紀香ちゃん、夕子ちゃんに花の名前や意味、その他諸々関連する話を丁寧にしてあげる。

 

「正先輩。花には格別詳しいんですね」

「いつの間に覚えたんですか? 寝てる間ですか?」

 

「子供の頃から覚えたよ」

 

「さて、この花はなんですか?」

 

こずえちゃんは自分を指差す。

 

「説明は省くけど。花に劣らず可愛いよ」

 

社交辞令で僕がそう言うと、

 

「いつの間に覚えたんですか? たった二ヶ月半で?」

「嬉しいです。私! これからも先輩の欲に立ちます!」

 

「特にお布団の中では、すごく欲に立ちますよ!」

 

「こずえちゃん。欲じゃなくて役でしょ?」

 

 

ーーーーー

 

 

「皆んな揃っているか?」

 

浅野教授が相変わらず鼻息を荒くして研究室に入ってくる。

 

「正がいません」

 

「正が?」

「どこにいった?」

 

教授がイライラし始める。

 

「きょっ……、教授にも話ししていたと思いますが、おととい日光、昨日日光、今日もまた日光です」

 

「そりゃ結構だ。何してるんだ? ヤツは!」

 

イキリ立ち、苛立った強い口調。

 

「まあ……、あの……、いろいろな経緯がありまして」

 

恵ちゃんが教授の機嫌をなだめにはいる。

 

「これ。提出する論文の校閲が済んだ」

「皆んなで熟読して、変更箇所があれば知らせてくれ」

 

「正にはPDFで送って、今日の夕方までに返事をよこすよう連絡してくれ」

 

「夕方6時頃から論文最終チェック、読み合わせを行う」

「正が帰ってきたら合流させる」

 

「はいっ!」

 

浅野教授は、独り言のようにブツブツ正の文句を言い教授室に帰る。これが大樹や義雄なら大惨事だった。ただの文句だけでは済まない。

 

「恵ちゃん。正への連絡よろしくね」

 

「いいわよ」

 

恵ちゃんは、論文をPDF化する。

 

『お楽しみのところごめんね。教授が今日、夕方までにこの論文のチェックを済ましてくれとのことです』

 

『私たちも頑張るけど、やはり正くんが頼りなの』

 

『念入りにチェック願います。よろしくね』

 

P.S. 『もし無理なら、私たちでなんとかするけど……』

 

 

ーーーーー

 

 

「あっと、メールだ」

 

スマホのメール着信音が鳴る。

 

「誰からでしょう?」

 

「恵ちゃんからだね」

 

「やれやれ、ヤキモチメールですか」

 

「こりゃ大変だ……」

 

「どうしました? 別れ話ですか?」

「その話、進めたほうがいいですよ」


「いや、論文の英文校閲が済んだので、すぐに最終チェックしてくれとの連絡だ」

 

「おいおい、大変だな」

 

隆が心配してくれる。

 

「困ったね……」

 

こずえちゃんがちらりとメールを覗き込む。

 

「恵先輩。私たちでなんとかすると書いてあるじゃないですか」

「他人の全員に、ありがたく甘えてください」

 

「他人の善意でしょ? そうはいかないよ」

 

僕は頭の中を整頓する。

 

いい手はないものか……。

 

「そうだ、隆。華厳の滝は僕抜きで向かってくれる?」

「僕はその間、市内の喫茶店で論文チェックしている」

 

「いいよ俺は。こずえちゃん、それでいい?」

 

「残念ですが仕方ありません」

 

珍しく、こずえちゃんが素直に頷く。

 

「そのかわり……」

 

「そのかわり……?」

 

「論文打ち合わせ終わったら、夜食 de デートしましょう」

 

「そうきたか」

 

「はい。そうきました」

 

「多分無理だよ。論文の最終打ち合わせは長引くと思う」

「夜、かなり遅くなるよ」

 

「でも、晩御飯は食べますよね?」

 

「ああ、もちろん。でも……」

 

「恵先輩とですか?」

 

恵ちゃんとは、久しくスキンシップをしていない。

 

今日は、論文打ち合わせで、箱入り娘さんも帰りが遅いことを承知していると思う。今晩は、食事込みで恵ちゃんとデートしたい。

 

「こずえちゃん、今度にしよう」

「こずえちゃんとのデート、ちゃんと時間とるよ。約束する」

 

「今度とお化けは出たためしがありません」

「お化けを見せてくれたら、納得します」

 

「まあまあ、こずえちゃん。正の状況も分かってあげなよ」

 

隆が助け舟を出してくれる。

 

「わかりました。ただ、もう少しだけ植物園にいましょう」

「正先輩は歩く植物図鑑。何でもかんでも聞きまくります!」

 

こずえちゃんは、少しムキになっている。

 

「こずえちゃん。武者小路実篤の言葉知ってる?」

 

「”天与の花を咲かす喜び” ”共に咲く喜び” ”人見るもよし” ”人見ざるもよし” ”我は咲くなり”」

 

「天から与えられた自分自身を咲かせる喜び、他者と共に咲く喜び、そして、人が自分を見ていても見ていなくても構わない、私は私として咲きます。そういう意味の名言だよ」

 

「花はね、自分が花であることを花として一生懸命咲いてるんだ」

「どの花も自分が自分として、他の花と美しさを競うことなく誇らしく咲いている」

 

「そういう花の気持ちをこころで感じて、こずえちゃんが気に入った花を僕に質問してみて」

 

こずえちゃんはしおらしくなる。

 

「正先輩のいう意味、よくわかりました……」

 

こずえちゃんの細い髪と植物園の花たちが、一斉にヒスイ色のそよ風に揺れる。

 

第73話

 

「おはよう、恵ちゃん。相変わらず可愛いね」

 

「おはよう、正くん。なあに、その挨拶。私の体が僕的なの?」

 

「その目的と僕的をすり変えた、こずえちゃんチックな言葉遣いよしてよ」

 

「お~っす」

 

大樹も、義雄もやってきた。

 

「日光、どうだった?」

 

「あのさ……、今さ、まさに今さ、また僕、行くんだよ。日光に」

「体もしんどいから、シャツは、<明日休みます>を着てきた」

 

「いろはにへとへとだよ」

 

「結構、結構」

 

恵ちゃんが、僕を茶化す。

 

「これ、ツアーガイドさんの写真」

 

仕方ない、皆んなに昨日のガイドさんの写真だけ見せる。

 

「わいか~! いいなあ、正。こんな可愛いツアーガイドさんだったんだ」

 

「優しくてね、最高だったよ」

 

「今日のガイドさんはこずえちゃんね」

 

「ああ、結構下調べしてきていると思う」

 

「正くんの落とし方もね」

 

「おはよう。皆んな」

 

有田先生が研究室に入ってくる。

 

「カーネーションの花色の研究が一段落したから、卒論にも力を入れないとね」

 

「何? 正くん。そのTシャツ」

 

「ああ、先生。僕、明日休みます」

「思いがけないトラベルに巻き込まれて、疲れていまして」

 

僕もギャグをかます。

 

「トラベル?」

 

「おととい、昨日、今日と3日間、日光なんです」

 

「それは、結構だね」

 

恵ちゃんと同じ答え。

 

「でも、明日からはちゃんと卒論、頑張ってもらうよ。休ませるわけにはいかない」

 

「了解です……」

 

文句は返せない……。

 

「じゃあ、行ってくるね」

 

「どこ集合?」

 

「工学部前。隆が運転手だから」

 

「いってらっしゃい」

 

恵ちゃんが優しく手を振る。

 

 

ーーーーー

 

 

「やあ、こずえちゃん。あれ? 紀香ちゃんに、夕子ちゃん?」

 

「はい。バイオリンの娘たちは都合がつかなくて、先輩と同じ、曰く付きの農学部の紀香ちゃん、夕子ちゃんにしました」

 

紀香ちゃんはフルート、夕子ちゃんはチェロ。伊豆の研修で一緒だった農学部の1年生。

 

「二人とも、日光に行く? ハイかイエスで答えてね、と聞くと、ハイと言いました」

 

「あのさ、こずえちゃん。ハイもイエスも同じでしょ」

 

「ばれたか」

 

「あと、曰く付きとは言わないよ。同じ学部のとか、後輩のとか、研修で一緒だったとか、普通の日本語を使えばいいの」

 

「はいはい」

 

「あれ、隆は?」

 

「実は今日はレンタカーじゃなく、水野さんの車を借りることにして、コンビニに1DAY保険の手続きに行ってます」

「iPodがつなげられるし、カーナビで動画も見れます」

 

「先輩方の宴会の動画も」

 

「さあ、来ました」

 

「おう、隆。今日よろしくね」

 

「うん。朝飯抜きだけどね」

 

「えっ? 朝食、こずえちゃんが準備してくれるって言ってたじゃない?」

 

「ランチの中華料理店が格別に美味しいという情報がまとまりました」

「これからそこに2時間半、お腹をすかして一直線です!」

 

「いいですね。正先輩」

「答えはハイかイエスで答えてください」

 

「だから、それはどっちも……」

 

「ちゃんと、飲み物とお菓子はありますよ」

 

隆はゆっくりと正門を出る。

 

こずえちゃんは、朝からテンションが高い。

 

「ランチ急ぎたいんで、すぐに首都高に乗りましょう!」

「一般道は走らない様に首都高(しゅとこう)ねっ!」

 

 

ーーーーー

 

 

「最初のBGM、何にしようか?」

 

僕は助手席。iPodやCD、DVDケースを膝に置く。

 

「私たちの入学式の時の、先輩方のマイスタージンガーと大学祝典序曲の演奏がいいです」

 

「今年の入学式のやつね?」

 

「はい」

 

「じゃあ、ワーグナーのニュルンベルクのマイスタージンガー、入れるよ」

 

荘厳な響きの冴え渡る始まり。

 

「先輩方、本当に上手ですね」

 

紀香ちゃんも夕子ちゃんも感心する。

 

「正先輩は何してたんですか?」

 

「何してた? は失礼だね。隆の1stホルンのアシスタントしてたよ。通称1アシ」

 

「アシでまとい、とか、アシを引っ張るだとかだったんじゃないですか?」

 

隆が笑う。

 

「正、ちゃんと責を全うしてくれたよ」

「これ一曲、思いっきり吹くとバテるんだ。だから時折アシスタントに吹くところを交代する」

 

「正、上手かったよ」

 

「そうですか。それを聞いて安心しました」

 

「隆さんの上手さは半端じゃないから、正さんがついていけたかどうか。いらぬ心配をしてしまいます」

 

「あ、その心配なら、次のブラームスの大学祝典序曲で出てくるよ」

 

「おい、隆!」

 

「いやいや、正があちこち、失敗して困ったんだよね」

 

「ああ……、まあね」

 

「3rdホルン。in Eを吹いていたんだ。聴かせどころの181小節からは、ほぼ全てとちった」

 

こずえちゃんは、カラカラ笑う。

 

「こずえちゃん。ホルンて意外に、いや意外じゃなく難しいんだよ」

 

「はて? 何でしょう?」

 

隆が運転しながら丁寧に話し始める。

 

「ピアノの、ドレミファソラシドはもちろん知っているよね」

 

「は~い」

 

紀香ちゃん、夕子ちゃんも言葉を合わせる。

 

「これをドイツ語に直すと?」

 

「CDEFGAH、ツエーデーエーエフ、ゲーアーハーです。英語では、HはBですね」

 

「そう、その通り」

 

「弦楽器の全て、ピアノ、一部の管楽器はこの調性で演奏される」

「ヴァイオリンは、in Cだけ、フルートもin Cだね、夕子ちゃんのチェロもin C」

「楽譜に、調を記す必要はない」

 

「ホルンはね、楽譜の最初から曲の初めにin Esで、途中で in Cとか、in Hとか譜面に、その時演奏する楽譜の音符の調が何なのか、基本、曲の調性が変わるたび、1つの作品の折々にその指示が必ず書いてあるんだよ」

 

「必ず? それって、どういう意味ですか?」

 

「つまり、in Cでいわゆるドレミファソラシドの、ドの位置に記譜されている音は、ホルンではソの音を吹くことになるんだ。ピアノやバイオリンでは実音のドだよね」

 

「ホルンは曲の途中、in Aの調の指示があると、譜面のドの音をホルンのミで吹かなければならない」

 

「よくわからないのですが」

 

こずえちゃんが、首をかしげる。素直な地の出た時のこずえちゃんは、確かに可愛い。

 

「例をたくさん挙げたほうがいいね」

 

「モーツアルで多い、in Dの場合は、譜面に記譜されているドはホルンのラ、ピアノやバイオリンでは実音のレの音だね」

「ベートーベンなどで多いin Cは、ホルンのソ、ピアノやバイオリンの実音のド」

 

「in Hになると、記譜されているドはホルンのファ、ピアノやバイオリンの実音シの音」

 

「ややこしいですね」

 

「うん」

 

「ブラームスの大学祝典序曲は、1st、2ndホルンがin C。3rd、4thホルンがin Eだよ」

 

「でも、これは楽。この一曲ずっと調が変わらないから」

 

「ブラームスの交響曲第1番は、1st、2ndホルンがin C、in E、in Es。3rd、4thホルンがin Es、in H basso、in E、in Fと、楽章や、楽章の途中でも調が変わる」

 

「頭使いますね」

 

「うん。調は、CDEFGAH、そしてその半音下のAs、Esなど全部あり」

 

「通常はト音記号、さらに低音の時はヘ音記号もついてくる。ハ音記号は、一度だけ見たことある。何かのアンサンブルのときだったかな?」

 

「オクターブ上は8va、オクターブ下はbassoの指示」

「とにかく、ホルンの譜面。何でもありだよ」

 

「そんな譜面を一瞬に頭で読み替えて演奏しているんですか?」

 

「そうだよ」

 

「正先輩がとちるのも頷けます」

 

「それは別問題。ホルン吹きは、瞬時に譜面が読めるようになるのは当たり前。ホルンで、演奏を失敗する要因は、その菅の長さや、倍音の多さにあるんだ。マウスピースも小さいしね」

 

「でんでん虫みたいなぐるぐる管がくねっているホルン。難しそうですもんね」

 

「ホルンの管は、最長で約3.6mの長さになるんだ」

「ギネスブックにも、一番難しい楽器と掲載されている」

 

「何故難しいかは、管の長さが大きく関係しているんだ」

「簡単に言えば、管が長いのに高音域を吹かされるから。そして倍音が多いから」

 

「マウスピースとベルの径の比率が一番大きいのも、ホルンの演奏を難しくしている要因の一つ」

「ホルンのマウスピースの直径は、2cmに足らない程度の大きさなのに、ベルの大きさは30cm以上あるので、音が響くベルでは15倍以上になると言う事になる」

 

「トランペットより小さな径のマウスピースで、チューバに匹敵するほどのベルの径を持つ」

「だから、音域もものすごく広い」

 

こずえちゃんが頷く。

 

「演奏の難しい楽器であるのに加えて、さっきの調の話」

「ホルン吹きの人ってすごいんですね」

 

「正先輩が、よく失敗する理由がわかりました」

 

「こずえちゃん。それは練習不足。別の話だよ」

 

隆、紀香ちゃん、夕子ちゃんが笑う。

 

 

ーーーーー

 

 

「ところで紀香ちゃんと夕子ちゃんは、どこ出身だっけ?」

 

「千葉県です」

「わたくし、習志野、権兵衛です」

 

「だ・か・ら、こずえちゃんに聞いてない。こずえちゃんの故郷は知ってるし、そんなダジャレ、耳に聞こえない」

 

「私は広島県です」

 

紀香ちゃんが答える。

 

「へえ~。広島のどこ?」

 

「三原市です」

 

「見晴らしのいいところです」

 

「だ・か・ら、こずえちゃんには聞いてない」

 

「でも、本当に三原市いいところだよね」

 

「ほら、正先輩も言った」

 

「僕のは、市にアクセントがあって、こずえちゃんのは見にアクセントがあるでしょ?」

「尾道や三原市に行ったことあるんだ。広島に行く途中。先輩の車で」

 

「え~っ。何キロくらい走ったんですか?」

 

紀香ちゃんが驚く。

 

「800キロちょいかな?」

 

「すごいすごい!」

 

「京都の桂川SAまで一気に走り、そのあと一気に笠岡市に向かった」

「カブトガニをゆっくり見て、そのあと尾道観光。そして三原市で食事」

 

「とにかく瀬戸内海の島々が美しく、魚介類はとびきり美味しい」

「シャコとか美味しかった~」

 

「そのあと、宿泊は広島県の片田舎の先輩の実家」

「大きな古い石風呂が気持ちよかった」

 

夕子ちゃんの故郷は?

 

「北海道の小樽です」

 

「またまた、遠いところから」

 

「おた~るのひか~り、蝦夷のゆ~き~」

 

「こずえちゃん。何でもダジャレにしちゃダメだよ」

 

「は~い」

 

「小樽は僕の母の故郷なんだ」

 

「へえ~。そうだったんですか」

 

「2~3度行ったことがある。運河だけじゃない。オシャレで住みやすそうな街だよね」

 

「はい。北海道にしては雪が少ないし、大都市札幌もすぐ近く。海も綺麗ですし、食べ物も美味しいです」

 

「うん。坂の街で美術館やオルゴール堂あり。ノスタルジックに包まれた素敵な街だよね」

「そうそう、函館、札幌と並んで、北海道三大夜景のひとつの天狗山からの夜景もいいよね」

 

「正先輩。貧乏な割にあちらこちら知ってますね。天狗にならないでくださいよ」

 

「こずえちゃん。貧乏、だけはいつも余計だよ」

「しかも誰なの? 貧乏人を三日間も日光へ連れ出したの。伊豆にも行ったでしょ?」

 

「はいはい」

 

「でも、昨日の日光は経費でタダだったんですよね?」

「正先輩の行く会社、よいしょある会社ですから」

 

僕がだんまりを決めるとこずえちゃんが、

 

「はいはい。由緒ある会社ですよね」

 

「さて、トイレ休憩しようか」

 

隆がSAの方にはウインカーを出す。

 

「ここのサービスエリアはウサギの国があるらしいです。楽しみです!」

 

「ウサギの餌を買ってきました」

「ほら! みんな飢えてます」

 

「あのさ、僕たちも飢えてるんだけど……」

 

「飢えをむういて、あ~るこ~をおおお……」

 

「……」

 

「何だか少し、ぱらっと雨みたい」

 

僕は百均まみれのカバンに入っている折りたたみ傘を取り出した。

 

「天気予報では、晴れだと言っていたのにね」

「まあ、梅雨の時期だから多少の雨は仕方ないか」

 

僕はこずえちゃんに優しく傘をかけてあげる。

 

「これはこれは、ずいぶんとダイソーなものを」

 

僕は相変わらずのこずえちゃんギャグに呆れる。

 

第72話

 

「ねえねえ、イワガラミって、岩に絡むんですか?」

 

「そうです。名前のとおり、幹や枝から気根を出して高木や岩崖に付着し、絡みながら這い登ります。高さは10~15mくらいになります」

 

「へえ~」

 

「俺はガイドさんに絡んで欲しいよぅ~」

 

菅くんが空に向かって吠えるようにうなり声を出す。

 

「スベるんじゃない?」

 

誰かが菅くんのスキンヘッドを指差して言うと、皆んなで笑う。

 

「さて、細かく説明すると、この付近だけで時間が済んでしまうので、先に進みましょう」

「気になった花や植物があれば、園内散歩中いつでも聞いてくださ~い」

「僕は独り言のように、淡々と咲いている花を説明していきますから」

 

「サルナシがあります。名前の由来は、猿がこの植物の実を好んで食べる、猿梨から来ています。上の方の緑っぽい花です。マタタビ科。キューイフルーツの仲間です」

「花言葉は誘惑です。猿や熊もこの実の美味しさに誘惑されるからです」

 

「俺もガイドさんに誘惑されるぞ~」

 

誰かが声を張り上げ、皆んなで微笑む。

 

「この実は僕たちも食べることができます。果実酒などにも利用されるんです」

 

「この花はシラン、紫蘭、紫の蘭と書きます。もちろんラン科で土壌に根を下ろす地生ランです。花言葉は、美しい姿です」

 

「それ、ガイドさんだ~!」

 

ツアーガイドさんは少しはにかむ。

 

「ランって、胡蝶蘭やカトレアも地生ランなんですか~?」

 

女の子が僕に問いかける。

 

「いいえ。胡蝶蘭やカトレアは着生ランと言って、土壌に根をおろさず樹上や岩の割れ目などで生きる植物です」

 

「さて、オレンジ色、ニッコウキスゲがあります。ススノキ科、昔はユリ科だったんです」

「日光の名前がついているけど、全国どこにでもあるんですよ」

 

説明しきれない程のたくさんの花が咲いている。説明をかち割りながら進んでいく。

 

「シライトソウ。シュロソウ科。ムーミンに出て来るニョロニョロみたいでしょ」

 

「似てる! 似てる! ニョロニョロと言う名で覚えてしまいそう」

 

「わ~。この大きな葉のフキの根から出ている太くてケバケバしい花? これなんですか?」

 

「グンネラと言います。和名は容姿の通りオニブキ。グンネラ科。花が太くてブラシみたいでしょ」

「葉柄の長さが1m以上、葉の直径が大きなものでは2m近く、草丈3mほどになって、地上で最も巨大な葉を持つ植物と称し、大阪と浜名湖で開かれた花博で日本に紹介されたんです」

 

「上を見上げてください。ヤマボウシ、ミズキ科。ハンカチのような白が素敵でしょ」

 

「どうしてヤマボウシと言うんですか?」

 

「白い花びらに見えるのは花ではなくて総苞片(そうほうへん)と言います。植物名は坊主頭と頭巾に見立てて山法師と名付けられました」

 

菅くんが白いハンカチをスキンヘッドに乗せて真似る。皆んなで大笑い。

 

「これで皆さん、ヤマボウシは2度と忘れない木になりましたね」

 

ガイドさんも微笑む。

 

「これ可愛いでしょ。二つ花茎が伸びています。フタリシズカと言います、センリョウ科。同じセンリョウ科には、ひとつの花茎しかないヒトリシズカもあります」

 

「佐藤さんには彼女がいて、フタリシズカでいいですね~。私はヒトリシズカなんです」

 

ガイドさんがそう言うと、

 

「俺がフタリシズカにしてあげる!」

 

「俺も!」

 

何人かの男衆がガイドさんに絡む。

 

「さて、これでこの花も忘れませんね」

 

また、ガイドさんが微笑む。

 

僕らはロックガーデンのところで足を止める。

 

「わあ。小さくて可愛い花たち」

 

女の子が優しい目で山野草を見つめる。

 

「看板に花の名前が大体ついていますから見てください」

 

皆んな、ガヤガヤ可憐な野草を眺める。

 

「ロックガーデン、面白いね」

 

どこからともなくそんな声。

 

「さあ、前に進みましょう。まだ植物園の入り口付近なんです」

 

「さて、ギンバイソウ、ナス科、サトイモ科のオオハンゲがあります」

 

「可愛い! 佐藤さん、これなんですか?」

 

「ミズチドリと言いますラン科の清楚な白い花です。花言葉は高潔。これもガイドさんを比喩しているかのようですね」

 

「佐藤さん、すごいですね! なんでそんなに目に映るもの、みんなスラスラ名前や花言葉が出て来るんですか?」

 

ガイドさんが僕に問いかける。

 

「ガイドさんのような綺麗なものを覚えるのに苦労しますか?」

 

皆んなが、僕にひゅう~ひゅう~言う。

 

「さて、実験室前の庭です」

 

「皆さんの目に飛び込んでくる庭一面の花はトキワナズナです。まるで妖精の絨毯です」

 

「ナズナ? ぺんぺん草と同じ仲間ですか?」

 

誰かが質問してくる。

 

「いいえ、違います。ナズナという名がつきますがアブラナ科ではなく、アカネ科の常緑多年草です」

「花言葉は甘い思い出です。小さな花のじゅうたんを見ていると、淡い恋の思い出や郷愁が感じられることからきているのでしょうか」

 

男連中は、庭を背景にガイドさんと並んだり、なかには肩を組んだりして写真を撮る。

 

「佐藤さんのいう通り、恋の甘い思い出になったでしょうか? 私、常盤貴子に似ていると言われたことがあるんです。とった写真を見て、トキワナズナ、思い出してくださいね」

 

「絶対思い出す! 思い出す!」

 

男子が大声をあげて喜ぶ。何人かはもうガイドさんと撮った写真をLINEで友達に送ったりしている。

 

「さて、時間もあまり無いので、ここから芭蕉池まで、一気に歩きましょう」

 

「そうしましょう」

 

僕が音頭をとり、ガイドさん、皆んなが続く。

 

「芭蕉池に着きました」

 

「あれ、芭蕉池なのに水芭蕉がないんですか~」

 

女の子が呟く。

 

「水芭蕉は4月頃の開花です。今はそこら中に見られる、大きな葉になりました」

 

「これはイブキトラノオ、タデ科です。そして隣はオオマルバノホロシ。ナス科」

 

「これはドクゼリ、セリ科。恐ろしげな名前とは違い白く愛らしいセリの花です。花言葉は、死も惜しまず、あなたは私の命取りです」

 

「意味ありげな花言葉だなぁ~」

 

誰かが呟く。

 

「そして紫色の菖蒲。ノハナショウブです。アヤメ科」

 

「ホザキシモツケ、バラ科。日本では、北海道と日光と長野の一部にしかありません」

「でも、地球の北半球にはたくさん分布している、不思議な花です」

 

「そして皆さんご存知のワスレナグサ、可愛い青。ムラサキ科の花です」

「実はこれは、増えて増えてどうしようもなくなります」

 

「素敵な花言葉、Forget me not。私を忘れないで下さいと違い、忘れるどころか、どんどん増えていきます」

 

「私の思い出も、忘れずにどんどん皆様の中で増やしていってくださいね!」

 

ツアーガイドさんがそういうと、また、男衆が、

 

「忘れない! 忘れない!」

 

「増やす! 増やす!」

 

手拍子とともに声を張り上げる。

 

「さて、そろそろ帰路に向かいましょう」

「佐藤さんのおかげで、楽しい植物園の散策になりました」

 

「皆さん、はい。素敵な案内をしてくれた佐藤さんに拍手~」

 

皆んな、割れんばかりのやまびこになるほどの大きな拍手を僕にくれる。

 

「佐藤くん、ありがとうございました。ホント植物についてなんでも知っているんですね。脱帽です。期待してます」

 

人事部の近藤さんが僕に満面の笑みをくれた。

 

 

ーーーーー

 

 

僕らはいろは坂を登り華厳の滝へ。そしてバスは次の目的地、東部ワールドスクエアへ向かう。

 

華厳の滝では菅くんが、予想どおりおもしろTシャツ、<残業半端ないって>、を買って着た。僕の胸には、<計画通り>。20人の同期になるであろう学生たちは、僕らの席を見ては笑う。

 

「さて、東部ワールドスクエアまで、私が怖い話を二つします」

「いいですか?」

 

「いいとも~!」

 

「はい。ありがとうございます」

 

ガイドさんが恐ろしげな声で話し始める。

 

「一つ目は、青い血というお話です」

 

「ある日、私はある人から手紙をもらいました」

「何と吸血鬼からの手紙です」

「そして、その手紙には、次のように書いてありました」


「明日の晩、私の城に来てください。ただし、必ずあなた1人できてください」


「私は、怖かったのですが、言われた通り1人で城に行きました」

 

ガイドさんは哀愁を帯びた顔をする。

 

「お城に行くと、薄暗いテーブルの上に飲み物が置いてありました」

「グラスの中には、青い飲み物が入っています」


「何だろう? この飲み物は?」

 

「私は、飲むのをためらいました」

「背筋も凍りそうでした」

 

「しかし、喉が渇いて渇いてどうしようもなく、結局、その飲み物を飲むことにしました」

 

ガイドさんが目をつぶり、その可愛い顔をしかめて飲み物を飲む真似をする。


そして、そのあと優しい顔になり、

 

「あ~、おいちぃ」

 

「そのあと、吸血鬼は笑顔で私を見送ってくれました」


「はい青い血の話でした!」

 

皆んなでカスタネットやタンバリンを叩いて盛り上がる。

 

「さて、皆さん、青い血の生き物、ご存知でしょうか?」

 

「は~い、は~い!」

 

「タコやイカ、エビです」

「あと、ダンゴムシ、カタツムリ、ザリガニ」

 

さすが研究職系の懇親会。皆んなの口から青い血の生き物がスラスラ出てくる。

 

「皆さんさすが研究者の卵ですね! すごいです」

「甘エビにはよく青い血が透けて見ることができますよね」

 

「はい。次にまた、恐ろしい話をします」

「いいですか~?」

 

ガイドさんが低音の単調な声になる。

 

「いいとも~」

 

皆んなも、低音の静かな声で答える。

 

「これから、自分の妹を食べてしまうという恐ろしい話をします」

「とても怖い話ですよ」


「ある街に、兄と妹の大変仲のよい兄弟が住んでおりました」

「ある日、お兄さんが朝起きると、とてもおなかがすいていました。食べ物をさがしましたが、何もありません」

 

「その間にも、おなかはどんどんすいていきました」


「ああ、何でもいいから食べたいなあ」

「お兄さんは、いてもたってもいられなくて、妹の部屋に行きました」

 

「お~い、何か食べるものはないか?」

 

「妹は、10日間姿が見えなくなりました」

「近所でも、妹の姿が見えないことが噂になり始めました」

 

「兄さんが妹に何かしたのでは……」

「とにかく妹は……、いません」

 

「妹の机の上にはイモが10個、置いてありました」


「いただきま~す」

 

「兄は、そのイモをおいしそうに一日一個食べました。ついには10個すべて食べてしまいました」

 

「イモを10(とお)食うはなし」

 

ガイドさんはゆっくりと話を締めくくる。


「妹を食う話」

「10日後、妹は遊びに泊まりに行ってた友達の家から元気に帰ってきましたとさ!」

 

また皆んなで、カスタネットやタンバリンを叩いて盛り上がる。とにかく、バスツアーは何をしても聞いても面白い。特に研究系の現役大学生。そして可愛いガイドさん。盛り上がらないわけがない。

 

「それでは、そろそろ目的地に着きます」

 

人事部の近藤さんがマイクを握る。

 

「皆様には、入社後におかれましては世界へ羽ばたく人材となっていただく予定です」

「内々定ではありますが。佐藤くんへは、入社していただいた暁には、研修の一環として入社後すぐにアメリカに行っていただく予定です」

 

「うお~っ!」

 

バスの中は拍手と歓声、驚きの声。

 

「佐藤くんだけでなく、この22名の皆様方には、いずれ国内、国外とあちらこちらに飛び回っていただきます」

 

「わ~っ!」

 

皆んなで歓声の声。

 

「それでは、到着いたしました。ワールドスクエア」

「そんな、自分達がこれから未来に訪れるであろう街並みを、どうぞ満喫してきて下さい」

 

拍手と口笛、タンバリンが僕らの未来を祝福するようにバスに鳴り響く。