第71話

 

「あら? おはよう」

「正くん、何でここにいるの?」

 

「おはよう。恵ちゃん」

 

「人事部のチャーターした観光バスが、大学正門に9時頃来てくれるんだ」

「今日日光に行く研究職の内々定者は20人ちょっとだし、地方大学の人は前泊でホテル集合、それ以外は各大学に直接迎えに来てくれる」

 

「なるほどね」

 

「でも、ここ9時出発で、他の大学も廻ると日光での昼食に遅くならない?」

 

「僕が最後に拾われるらしい」

 

「じゃあ、日光でのお昼は間に合うね」

 

「うん」

 

「フフッ。そのTシャツで行くの?」

 

恵ちゃんが微笑む。

 

僕は<計画通り>の道路標識のプレートのTシャツにジーンズ、薄いジャケット。かなりラフな格好。

 

「私、見送りしてあげようか?」

 

「よしてよ。バスで変に盛り上がると困るから」

 

「大丈夫よ」

 

正門前にバスが来る。

 

「じゃあね、恵ちゃん」

 

結局恵ちゃんがついて来た。バスに乗ると、ひゅう~ひゅう~、皆んなが僕をからかう。

 

「彼女さん見送りの佐藤くんです!」

 

ツアーガイドさんがマイクで微笑んで僕を紹介する。

 

「ワ~ッ!」

 

バス内が盛り上がる。大学生のノリだ。

 

「着ているTシャツは、家族計画通りの佐藤くんですよ!」

 

「お~っ!」

 

家族は余計だ……。バスの中から皆んなは恵ちゃんへ、ちぎれんばかりに手を振る。

 

「さて、皆んな揃いました」

 

人事部の近藤さんが陣頭指揮をとる。

 

「皆んな、日光に行きたいか~!」

 

「お~う!」

 

「余興がたくさんあるけど、大丈夫か~!」

 

「お~う!」

 

皆んなのテンションが恐ろしいほど高い。

 

「じゃあ、22名、早速自己紹介、ではなくて、他己紹介から始めましょう!」

 

「お~う!」

 

僕のバスの隣は名古屋から来た菅公平くん。スキンヘッド。一目でわかる。宴会好きのノリのいいタイプだろう。

 

「さて。では10分間でお隣同士、その人の情報を聞いてまとめて、そのあと他己紹介しましょう」

 

「ルールはありませんが、政治、宗教を絡めた紹介は絶対NG、軽蔑、差別、マイナスイメージな単語も陰湿なものは基本的にNGです」

「他己紹介はひとり2分程度で簡潔に」

 

「いいですね」

 

「は~い」

 

他己紹介は結局名前の由来が多いものになってしまう。

 

「じゃあ、次、佐藤正くん。菅公平くんの紹介ね」

 

僕はメモを見て話す。

 

「はい。菅くんの研究は、シンプルに言うと水や海水、油などの処理膜の研究です。この膜やその膜、プライベートでは、あの膜まで研究しているらしいです」

 

「いやらしいぞ~」

 

笑いのヤジ、どよめきがバスを包みこむ。

 

「名前の公平は読んで字のごとく。判断・行動に当たり、いずれにもかたよらず、えこひいきしないこと、などです」

 

「あだ名は……、言っていいのかな……。ハゲです」

 

バスの皆んなは菅くんを見て、プッと笑いが起こる。

 

「本人曰く、ふさふさの髪の人を見ると、公平の名前と違い不公平だ、と言います」

 

どっと笑いが起こる。

 

「さて、次は俺が佐藤正くんの他己紹介をします」

 

なぜか、ワ~ッと盛り上がる。恵ちゃんの見送りのせい?

 

「名の正は、善悪を見分けることのできる冷静な判断力を持った人に。本物を見る目を養ってほしいという気持ちを込めてつけられたそうです」

 

「研究は、バラ属の化学分類。彼女がいると言うことは、あの薔薇ではなく、その薔薇の方のようです」

 

ここでも笑いを取る。

 

「サークルはオーケストラで、ホルンを担当しています」

 

「お~っ、すご~! ホルン、難しいじゃん」

 

皆んなが唸る。

 

「佐藤くんの別名は、瀬戸際の魔術師。無理そうに思われても、物事を何でもギリギリで辻つまを合わせることができるそうです」

「家族計画もTシャツにある通り、基礎体温を測りながら計画通りヤッているそうです。危険日は、瀬戸際で寸止めしているようです。以上」

 

僕はそんなことは言っていない。全く……。

 

笑いと拍手とともに、僕らの互いの他己紹介を終える。

 

 

ーーーーー

 

 

「さて、皆さん。他己紹介は終わりました」

「次は、少し頭を使うゲームです」

 

「題して、皆んなで俳句~!」

 

皆んな、メガホンやカスタネット、タンバリンで鳴り物を叩き盛り上げる。

 

「はじめに、俳句の5、7、5のうちの最初の5、真ん中の7、最後の5を各々バラバラに思いのまま書き入れ、この三つの箱にそれぞれ入れます」

 

「さあ、始めましょう!」

 

皆んな、書き入れた上の5と7と下の5の句をそれぞれの箱に入れる。

 

「さあ、出来ましたか?」

「それでは、混ぜ混ぜします」

 

「ここから、二人作業になります」

「各箱から、一つづつメモを取り出してください」

 

「そして、隣の人と、引いた5、7、5の句を連ねて見てください」

 

笑いが漏れる組みがあれば、つまらなそうな顔をしている組みもある。

 

「さて、ここからが皆様の素晴らしい頭脳をフルに回転していただくところです」

「この三つのパネルを見てください」

 

プッと笑いが漏れる。

 

「○んち。○んぽ。○んこ」

「さて、この○に入る言葉を想像してください。放送禁止用語は除きます」

 

「皆んなの手元に出来た、5、7、5の句を、この三つのどれかに関連づけて、面白句を読んでください。字数は、厳密に5、7、5にとらわれなくても構いません」

「言葉は、引いたそのものではなくて、面白おかしく自由に変えても構いません」

 

「イマジネーションを受ける言葉、として捉えてください」

 

「さあ。開始!」

「出来た組みから発表してください」

 

バスの中がガヤガヤし始める。

 

「はいっ!」

 

「おっ? 早いですね。ではどうぞ」

 

「ガイコツから帰って来て、じいさんボケ? にんち」

 

どっと笑いが起き上がる。

 

「元の文は、外国から、と時差ボケに、が入っていました」

 

「そう、面白いですね。皆さんもこのように詠んでみてください」

 

「はい!」

 

「どうぞ」

 

「食糧難。今食べたもの、猫分じゃった。みんち」

 

これも笑いが起き上がる。

 

「猫踏んじゃったを猫分だったにしたんですね。しかもオチは肉のみんち。いいですね」

 

「はい! はい!」

 

次々と手が上がる。

 

「はい、女の子の組み」

 

「自己バスト。やっと2センチ、更新した。女ん子。これは○んことちょっと違うかな?」

 

「いいよ、いいよ! 全然いい。元は自己ベストね」

 

盛り上がる。タンバリンが鳴り渡る。

 

「まさか君が、主婦的ミスを犯すなんて。あんこ」

 

これも皆んな大笑い。初歩的ミスを主婦的ミスに。

 

「あんこ作りに塩と砂糖の塩梅を間違えたのでしょうか」

 

さて、僕と菅くんも発表。

 

「コンビニで、もみあげかって来るよ。さんぽ」

 

おみやげをもじった。もみあげの無いスキンヘッドの菅くんの言葉の重みもあり大受けした。

 

「これが最後とおみくじを引く。三度目の小吉。さんこ。3個目のおみくじです」

 

3度目の正直をもじる。

 

「休みだからって、床でフンみたいにコロコロしないで。うんこ」

 

「それは禁止用語ですよ!」

 

近藤さんが笑って注意すると皆んなで爆笑。

 

次々と出てくる。さすが皆んな研究職の卵。頭のキレがいい。

 

「さあ、この辺にしましょうか。色々おもしろい句が出来ましたね」

 

「次は、私は誰でしょう? ゲームです」

「15分間ほど休みを取りましょう」

 

人事部の近藤さんやアシスタントが、ジュースとおやつを配る。もう、バスの中は皆んな和気藹々。

 

 

ーーーーー

 

 

「さて、そろそろ、私は誰でしょう? ゲーム。初めていいかな?」

 

近藤さんは皆んなにマイクを向ける。

 

「いいとも!」

 

「すみません。ひと昔の受け答えで」

 

「さあ、始めます」

 

「この箱にあるカードを一枚選んで、頭の所につけます。その人は見てはいけませんよ。自分の頭にどんな人物が描かれているのかを、質問をしながら当てるというゲームです」

 

「やりたい人」

 

「はい! はい! はい!」

 

菅くんが手を上げて猛烈にアピール。どこからともなく、手拍子に菅コール。

 

「す~が! す~が!」

 

菅くんが運転席の方、前に出る。

 

「では、カードを一枚選んで下さい。見ちゃダメですよ」

 

菅くんが一枚カードを取り出し、近藤さんに手渡す。

 

「さて、どうしましょう、スキンヘッド。帽子をかぶって頭につけますか……」

 

「いや。セロハンテープでいいです」

「直接貼ってください」

 

皆んなから大爆笑を誘う。

 

近藤さんが、言われた通りに菅くんのひたいにカードの左右をテープで貼る。この姿だけでも、皆んな抱腹絶倒。

 

「では始めます」

 

「菅くんは、皆んなに質問を10個まですることができます」

 

「見ている人が、はい、そうです。あるいは、いいえ、違います。というように答えられる質問をしなくてはいけません」

 

「なお、苦しい時だけ、私がヒントを1つだけ出します」

 

菅くんの頭には、誰かさんの似顔絵。

 

「さて、開始です」

 

「私は男ですね?」

 

菅くんが皆んなに問う。

 

「はい、そうです!」

 

皆んなで声を合わせて答える。

 

「私はテレビに出ることがありますね?」

 

「はい、そうです!」

 

「私は芸能人ですね?」

 

「いいえ、違います!」

 

菅くんは少し考える。

 

「私はアナウンサーですね」

 

「いいえ、違います!」

 

すいません。近藤さん、ヒントを下さい。

 

「はい、分かりました。私が菅くんの代わりに皆んなに質問します」

 

「私は政治家ですね?」

 

「はい、そうです!」

 

菅くんはニヤリとする。何とかマトを絞ったようだ。

 

「私は日本の首相ですね」

 

「いいえ、違います!」

 

予想と違い、菅くんが少し困惑する。

 

「私は内閣の大臣ですね」

 

「はい、そうです!」

 

「誰だろう……」

 

近藤さんが、口元をへの字に曲げてさらに大ヒントを送る。菅くんはニヤリ。もう、余裕の顔。

 

「私は麻生太郎ですね」

 

「はい、そうです!」

 

皆んな、割れんばかりの拍手を菅くんに送る。

 

菅くんは、唇を少し横にし、への字に曲げる。ついでに似顔絵を張っていたテープが片方剥がれる。皆んなこれには抱腹絶倒。大拍手。

 

「さて、日光が近づいてきました。ここからはマイクをツアーガイドさんに渡します」

 

「はい、今日は皆さん、皆さんの楽しいお話、ゲーム最高でした!」

 

「わいか~!」

 

誰かがツアーガイドさんの可愛い容姿を業界用語で叫ぶ。有村架純似で、確かに可愛い。

 

「このあと昼食をとり、日光東照宮、二荒山神社、日光植物園、そして華厳の滝へとご案内して参ります」

 

「まずは日光のいわれと歴史から……」

 

ガイドさんの一般的なガイドが始まる。僕は二日目。昨日の今日。少しうたた寝をする。

 

「佐藤くん、佐藤くん」

 

菅くんが僕の肩をたたく。

 

「はいっ!」

 

「少しお眠りのようでしたね」

 

ガイドさんの優しい声。

 

「日光植物園内は、佐藤くんにガイドをお願いしてあります!」

 

うお~っ! と皆んなからの期待の声と拍手。

 

僕は挨拶に立ち、無言で胸の<計画通り>のTシャツを指差す。皆んな大笑い。

 

 

ーーーーー

 

 

「美味しいね!」

 

「うん。ここのお店の料理は何を食べても美味しい! 最高!」

 

皆んな、この店の美味に驚く。僕も頷く。ここの味は格別だ。プーアル茶もとても美味しい。横浜中華街の名店並みの美味だと思う。こんな中華料理屋が日光にあるなんて。

 

「春巻きパリッパリ、熱々」

 

「おい、ここの大きい餃子、宇都宮餃子より全然美味しいぞ」

 

「このエビチリソース。どうしたらこんなに美味しい味できる?」

「フカヒレスープも最高だぞ!」

 

皆んな笑顔で中華を楽しむ。これからの日光観光のエネルギーも蓄えられる。

 

デザートの杏仁豆腐は良質の水で作られているのがわかるような、繊細で爽やかな味。とても美味しい。

 

明日また、隆とこずえちゃんたちと来るお店。ここはいい店。もう、今、明日のメニューを決めたいほど。こずえちゃんお気に入りのニラ饅頭も期待できる。恵ちゃんにも食べさせたい。

 

いや、下手に口を出すと、また研究室のメンバーと日光へ来ることに……。

 

「はい。皆さん、ランチは美味しかったですか~」

 

ガイドさんが僕たちに声をかける。

 

「は~い。すっごく美味しかったで~す!」

 

皆んなで口を合わせる。

 

「これから、日光東照宮、二荒山神社へと向かいま~す」

 

陽明門。昨日の今日だが、何度見ても素晴らしい。日光を見ぬうちは結構と言うな。この言葉がよくよく理解できる。ガイドさんの案内も素晴らしい。やはり日光通のプロは違う。

 

「さて、二荒山神社です。縁結び、恋愛運アップのご利益もありますよ」

「二荒山神社には縁結びのご神木がたくさんあります」

 

「まず有名なのがこの夫婦杉ですね」

 

夫婦杉。

 

「夫婦杉の根っこは一つになっているのですが、このように二本の大きな杉の木が天に向かってはえています」

「本当に、円満な夫婦のようです」

 

そばにあるみくじ結び。右の下から二段目の右端。昨日恵ちゃんとおみくじを結んだ。何だか心が嬉しい。

 

「本社正面の大鳥居をくぐり、神門手前の右側にある杉の大木は、楢(なら)が宿木となっています」

 

「杉と楢の宿木は大変珍しく、杉楢一緒に、好きなら一緒に、ということで、有名な縁結びの木として知られるようになりました」

 

そうなんだ。昨日の僕たちには分からなかった。

 

「次に、ここにある朋友神社ですが、この神社のご利益は、男女の縁に限りません」

「二荒山神社には、人生を変える、ものごとを生み出す大きなパワーがあります」

 

「朋友神社は、そのためのパートナー、朋友、との縁結びに御利益があリます」

「少名彦名命は大己貴命のお供で、警護にあたったり、相談に乗ったりした神様です」

 

「2人の神様は、朋友、だったのかもしれませんね」

 

菅くんの優しい目と目が合う。

 

「さて、皆さんバスに乗りましたか~」

 

「は~い」

 

「次に日光植物園に参ります」

 

「日光植物園は東京大学大学院理学系研究科の附属施設で、 東京都文京区にある日本で最も古い小石川植物園の分園となります」

 

「園内のガイドは、佐藤くんにお願いしま~す」

 

「わ~っ!」

 

皆んなから歓声が湧き上がる。菅くんは僕の頭でキラキラ手をする。

 

 

ーーーーー

 

 

「さて、まずは、この駐車場付近に咲いている花から説明します」

 

昨日の今日。咲いてる花が変わっている訳はない。

 

「あの白い花はウツギでアジサイ科です。八重になったヤエウツギも園内で咲いています」

「あと、ここでウツギ科にはガクウツギ、イワガラミがあります。イワガラミは落葉性のつる性草本です」

 

「お~い。佐藤くん。なんでアジサイ属の木。ウツギという名前なの?」

 

「ウツギと言うのは空木といい、茎あるいは枝が中空の樹を一般に○○ウツギと呼びます」

「花言葉は、秘密。その空洞に秘密を込めている、と言うような意味合いです」

 

「なるほどね~」

 

「単にウツギと呼ばれる樹の花は、別名ウノハナとも言います。夏は来ぬにも唄われています」

 

「卯~の花の匂う垣根に、」

 

ツアーガイドさんが歌い始め、皆んなが手拍子してつられるように歌い始める。

 

「ホ~トトギス早も来鳴きて、忍び音もらす、夏~は来ぬ~」

 

植物園散策のスタートが、優しい初夏の空気に包まれる。

 

第70話

 

「さて、いろは坂に入るよ」

 

新緑の頃を少し過ぎた爽やかで美しい木々と、そよ風にざわめく木の葉たち。

 

「上りの第二いろは坂は20カーブ、下りの第一いろは坂は28カーブあるよ」

「標高差は、約500m弱」

 

「安全運転で行くからね」

 

「いろは、って、いろはにほへとちりぬるを、わかよたれそつねならむ、うゐのおくやまけふこえて、あさきゆめみしゑひもせすん、だよね」

 

「正くん、よく覚えているね」

 

「うん。お母さんが小さいころよく歌ってくれてた」

 

「歌?」

 

「うん。メロディがあるんだ。平安時代末期の歌謡だったらしい」

 

僕はあまり音程が良くないが、いろは歌を車中で披露する。

 

「色は匂へど散りぬるを、は、香りよく色美しく咲き誇っている花も、やがては散ってしまう。諸行無常のこと」

 

「我が世誰そ、常ならむ。この世に生きる私たちとて、いつまでも生き続けられるものではない。是生滅法だね」

 

「有為の奥山、今日越えて。この無常の、有為転変の迷いの奥山を今乗り越えて。生滅滅己のこと」


「浅き夢見じ、酔ひもせず。悟りの世界に至れば、もはや儚い夢を見ることなく、現象の仮相の世界に酔いしれることもない安らかな心境である。寂滅為楽」

 

「ちやんと意味があるんだよね」

 

大樹が外の景色を見ながら呟く。

 

「うん。いろは歌は日本古代史の真相解明や、日本文化のルーツを再認識させるための、最も重要な文献の一つなんだ」

「空海、すなわち弘法大師が書いたものと言われている」

 

「47とも、ん、を入れて48とも言われる文字から成り立つ母歌。日本語の表音文字を1文字づつ含んでいるだけでなく、見事に一貫した文脈を形成している」

 

「超人的な頭脳の持ち主じゃないと、いろは歌に含まれるような、2重、3重の言葉の意味と、パズルのような文字の羅列の組み合わせを、仮名文字、各1回のみ使って実現すると言う神業のような創作はできない」

 

「空海といえば、同時期に最澄もいたね。空海は真言密教、最澄は天台宗」

「なんだか、歴史の受験問題を思い出した」

 

大樹が呟く。

 

「密教について少し触れると、私費で渡航した空海はただ純粋に密教を求めていたんだ」

「国費で入唐した最澄が密教を修学した動機は、ざっくりいえば当時の日本仏教、天台教団の経営上の問題」

 

「帰国後、空海と最澄の二人に交友があったんだけど、最終的には決別に終るんだ」

 

「何それ? 交友? 正くん、聞かせて」

 

恵ちゃんが興味あるらしい。歩ちゃんもみどりちゃんも耳をそば立てる。

 

「俺も、空海と最澄とに、密教で接点があると思わなかった」

 

大樹も興味ありげ。

 

「空海は最澄を密教の弟子として受け入れたんだ」

「しかし、空海は最澄の密教観、密教受法などの未熟性についてある程度わかっていた上で、最澄の密教受法の請願を受け入れた」

 

「ただ、この二人の修学経緯が異なっていたことから決別が始まる」

 

「天台教学を学ぶために唐に渡った最澄は、天台山での修学の帰途、たまたま密教を学ぶんだけど、それは彼本来の入唐求法の目的ではなかったんだ」

「そして最澄の受法した密教は、空海が長安から相承した正統密教ではなく、いわば二義的な地方密教だった」

 

「空海と最澄が決別に到ったのは、最澄がなまじ密教をかじっていたために、ある程度学力があると思っていたことと、一方空海は、引き受けた責任上、きちんと教えようとしたこと」

「つまり最澄の雑密的な未完の密教に対して、空海は純密、正密をもって応じたところに両者の食い違いが生じたものと考えられている」

 

「最澄は空海から密教を習うのに三ヶ月程度で十分と言い、空海は最澄に三年かかると言った」

 

「食い違いが生じて当然」

 

「なるほどね。奥が深いね」

 

義雄が呟く。

 

「話はいろは歌に戻るけど、遣唐使として中国に渡っていた空海は、キリスト教も学んでいたと言われている」

「このキリスト教の秘密の鍵も、いろは歌の中にあるらしい」

 

「何、何? それ」

 

恵ちゃんが聞きたがる。

 

「ごめん。言い出しっぺの僕も忘れた」

 

「いろは歌が、イエスのイ、から始まり、エとスの位置にも意味があるらしいことなどなど……」

 

「さて、華厳の滝に向かうよ」

 

明石先輩が最後のカーブをゆっくり曲がる。

 

 

ーーーーー

 

 

「すごい、すごい! 壮観! 迫力満点!」

「落差97m! 滝幅7mだって!」

 

女の子たちは、荘厳な滝を眺めて嬉しそう。

 

「イワツバメがたくさん飛んでる」

「水しぶきを横切ってる。数百羽はいるよ!」

 

「巣もいっぱいあるよ。崖の所々に」

 

しばし、自然への畏怖の念を五感の全てで受け取る。

 

「そう、華厳の滝は藤村操の自殺した場所でも有名だよね」

 

義雄が話し始める。

 

「エリート学生の厭世主義的な自殺」

「当時は世間を驚かせ、あとを追う者が多く出たらしい」

 

「彼の死後、華厳の滝では180人近くの自殺者が出たらしいという噂が立った。実際は警察に止められて40人くらいだったらしいけど大勢だよね」

 

「それでここが自殺の名所、心霊スポットとして有名になってしまった」

 

「彼の言葉は軽くはないよ」

「すべての真相は一言につきる。不可解なり」

 

「恨みを抱いて悩み苦しみ、ついに死ぬことに決めた。岩の上に立ってみたが、心には何か不安があるか、いやない」

「始めて知った。とてつもない悲観は、とてつもない楽観と同じなんだ」

 

僕が、うる覚えの現代言葉を皆んなに伝える。

 

「でもね、まだ18歳の若輩者よ。世の真理など分かる歳じゃない」

 

確かに恵ちゃんのいう通りだ。

 

「自殺は、第一高等学校の教壇に立っていた夏目漱石に、勉強する気がないならもうこの教室にこなくてよいと言われた2日後の事件だったらしい」

「もちろん、漱石のせいではないけれど、漱石は後年までこの事件のことを深く記憶に留め、小説の草枕の中にも、その若い死を惜しみ一文を書き込んだらしいね」

 

「余の視るところにては、”かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う”と」

 

「でも、吾輩は猫であるには、”打ちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない”、と突き放したりしてる」

「漱石の心の内にあったものは、生存は人生の第一義なり、だからね」

 

「しかして、彼の残した言葉と死は、神経衰弱にも陥った漱石と漱石の作品に大きな影響を及ぼしたことは確かだね」

 

僕のいう言葉に皆んな納得。

 

誰からとではなく、僕らは並んで、華厳の滝に向かって合掌した。

 

 

ーーーーー

 

 

「華厳の滝、お土産屋さん多いね」

 「少し、覗いて行こうか?」

 

大樹が楽しげ。

 

「ソフトクリーム、美味しいそうだね」

 

「うん。食べましょう、食べましょう」

 

恵ちゃん、歩ちゃんも、みどりちゃんが、明石先輩と一緒に頬張る。

 

「僕らは、ゆばカツにしよう、ゆばカツは中身がすべてゆばらしい」

 

僕と大樹と義雄はゆばカツ。

 

「まいう~」

 

「あら、ソフトクリームもとても美味しくてよ」

 

恵ちゃんが、僕に少し舐めさせてくれた。

 

「うん! 濃厚で美味しいね」

 

皆んなで美味しさに笑顔。

 

店の中には忍者ものの土産が目立つ。

 

「そうそう、最近静かなユニークTシャツブームなんだよね」

「何か買って行こうか?」

 

「いいね」

 

大樹が乗る。

 

「ロゴマークが<計画通り>。普通道路の白山通りや青山通りなどの道路標識と同じデザイン。正買いなよ」

 

「<シナリオ通り>。これは義雄かな」

「<明日、休みます>。これも正」

 

「<おっしゃる通り>。これも道の通り名の標識のように書いてある。俺か?」

「<明日にのばせることを今日するな>。これも俺だ」

 

「<明日から本気だす>。これ、僕買おう」

 

明石先輩も話に乗る。

 

「<犬と話せます>。これみどりちゃんにする?」

 

「可愛いですね。私、犬大好きだし、いいですよ!」

 

「<やればできる子です>。これは恵ちゃん」

 

「オーケーよ!」

 

「<ブラック企業>や、<残業半端ないって>。これは明日正が買いなよ」

 

「いや、買わないよ。買えるわけないじゃん会社の懇親で……」

 

「<勉強不足なんです。この子>。これは俺が買う」

「<人見知りです>。これは歩ちゃん」

 

「<うん。それ普通に無理>。これは正」

 

「あのさ、なんだかんだ言って、Tシャツ3~4枚で一万円くらいかかるじゃない」

 

「まあ、大切な思い出だ。どこにでも売ってるけど、華厳の滝で買うことに意味がある」

 

「何の意味がある?」

 

僕が問いただす。

 

「まあ、何でもいいじゃん」

「ほら、外人さんカップルもユニークTシャツ買って着てるぞ」

 

「彼女は<爆乳>。彼氏は、胸に<遠足>。背中に、<バナナはおやつに含まれますか?>」

 

皆んなして笑顔になる。

 

「意味が分かって着ているのかな?」

 

「多分、買うとき聞いてはいるけど他言語だから、そんなに気にしてないんじゃない」

 

「あのさ、こずえちゃんがここに来ると怖いよ」

 

「あら、どうして?」

 

「冗談で<貧乳>とか、おもしろTシャツ着てオーケストラの合奏なんかに来てみてごらん。金管、木管楽器の、いわゆる息を吹き込む系の楽器のメンバーは、皆んな笑いで吹き出し息切れ、練習にならないって」

 

「正くんの買う、<計画通り>や、<明日、休みます>、も十分やばいよ」

 

恵ちゃんが僕に警告する。

 

「確かに。誰かが確実に笑い出す」

 

みどりちゃん、歩ちゃんがクスクス笑っている。

 

「さすが、着るところを選ばないとね。オケの合奏は絶対避ける」

 

「私の<犬と話せます>も、やばいですよね?」

 

「やばいやばい。みどりちゃんもオケの練習にそれ着て来るの厳禁ね」

 

「さて、戦場ヶ原、奥日光に向かうよ」

 

「は~い!」

 

皆んなで仲良く声を合わせる。大樹は早速、<おっしゃる通り>の通り看板のTシャツを着る。

 

「なんか、見ていても、思い出しても吹き出すよ、慣れるまで」

 

「オケの合奏、厳禁どころか、大学構内で着ているところ見つかったら、練習で思い出し笑いされる可能性もあるね」

 

「ただ一人だけ、笑いに耐えるどころか、素で笑わない気丈な娘がいる」

 

「こずえちゃんでしょ?」

 

「そう、恵ちゃんの言う通り」

 

「こずえちゃんは、それいいですね、と真顔で褒めてくれる系の娘だから」

「天然だから」

 

 

ーーーーー

 

 

「たくさんの野草が見られる戦場ヶ原にも寄りたいけど、時間がないから日光湯元の温泉に直接向かうね」

「大樹くんは温泉につかりたいだろうけど、万が一の時の運転補助だからダメね」

 

大樹は黙って、着たばかりの自分のTシャツの胸を指す。書かれているのは、<おっしゃる通り>。

 

明石先輩は笑いながらも安全運転。

 

「そう、戦場ヶ原の言われなんだけど、皆知ってるかな?」

 

「いや、そういえばよくわからないです」

 

僕は、蛇と百足が戦ったことくらいの知識しかない。

 

「むかし、男体山の神と赤城山の神が、美しい中禅寺湖を領地にしようと奪い合う戦いをしたんだ」

「しかしなかなか勝負がつかず、男体の神は鹿島の神に助けを頼んだ。すると鹿島の神は自分が助けるよりも、男体の神の子孫の猿丸という弓の名人に助けを求めるように助言したんだ」

 

「猿丸は岩手県南部の奥州に暮らしていた」

 

「男体の神は大きな白い鹿に化けて猿丸の前に現われ、これを仕留めようとする猿丸を日光に誘導したんだ」

 

「正の買ったTシャツの、<計画通り>、だね」

 

「ここで男体の神は姿を戻すと自分が猿丸の祖先であることを語り、また赤城の神との争いの事情を話し、助力を求めたんだ」

「猿丸は引き受け、どのようにしたら良いのか聞いた」

 

「男体の神は、自分が大蛇となり、赤城の神が大百足となって争うだろうから、その大百足の目を弓矢で射抜くよう教えた」

 

「戦いが始まり、何千何万という眷属の蛇の群れと百足の群れが噛み合う凄まじい争いとなった」

「地鳴りはするわ、血が川になって流れるわで、それはもう凄まじい戦いだった」

 

「まるで、妖怪大戦争ね。お~怖」

 

恵ちゃんが、おどろおどろしい声をする。

 

「猿丸は、その中でひときわ大きな蛇と百足が絡み合っているのを見つけ、赤城の神はこれに違いないと大百足の目をめがけ矢を放った」

「矢は見事に大百足の左目を射抜き、敗れた赤城の神は血を流しながら逃げ去っていったんだ」

 

「美しい中禅寺湖の利権が絡んでいたのね。戦場ヶ原の戦いには」

 

「さて、着いたよ」

 

意外に早く日光湯元に到着した。明石先輩と大樹以外、旅館の温泉だけを頂きにいく。

 

「わずかにとろみをおびた乳白色の湯。硫黄泉特有の匂い、お湯がじんわりと体中にしみ込んでいくの」

「ポッカポカでツルツルになったわよ」

 

「冷えるところは暖かく、暖かいところはより暖かく」

 

「花の二十、二十一」

「どうする? 私たち、ゆでたてよ?」

 

恵ちゃんが色気を出した口調で話す。三人とも、とても綺麗だ。湯上がり美人。僕は照れないが、大樹と義雄が少し恥ずかしそう。

 

「Tシャツ着た?」

 

僕は恵ちゃんたちに聞いた。

 

僕は<計画通り>、義雄は<シナリオ通り>を着た。

 

「いや、三人で着ようかどうか迷ったんだけど、この場のノリはオーケーだけど、都会の帰りの電車では三人ともバラバラ」

 

「私は、<やればできる子です>。歩ちゃんは、<人見知りです>。みどりちゃんは、<犬と話せます>」

 

「迷ったけど……」

「やっぱ、三人とも着たわよ!」

 

「もちろん、ご覧の通り、文字隠しに皆ブラウスを羽織ったけど」

 

「まあ、大学まではTシャツだけのノリでも大丈夫けど、帰りの電車で一般客に見られたら、私たち何だと思われる?」

 

「まあ、普通じゃない、と思われるよね」

「ブラウスか何かを羽織らないと」

 

「そう、公共の場では、ちょっと……、ね」

 

「さて、大学まで約3時間。第一いろは坂を降りて、少し日光の道の駅に寄ろう」

「そのあとは高速道で、トイレ休憩で止まるくらいかな」

 

「安全運転で行くよ」

 

「は~い!」

 

「正くんは明日も明後日も日光だね」

 

「はい……」

 

恵ちゃんは、微笑んで僕を見ながら義雄のTシャツを指差す。<シナリオ通り>。

 

皆んな微笑んで、僕だけが笑えない。

 

第69話

 

「さて、日光宇都宮道路に入ったよ」

 

運転手は明石先輩。助手席は僕。真ん中の座席には恵ちゃんと歩ちゃんとみどりちゃん。後部座席は大樹と義雄。

 

「梅雨の時期だけど、今日から三日間とも晴れそうだよ」

「正くん、良かったね」

 

「あの、三日間来ること自体、誰からもノー天気と思われてます」

 

皆んなでフフフと笑う。

 

お前たちが企画したんだろ! 何を言っても仕方がないので、僕は声には出さない。

 

「最初はやはり東照宮からだね。そして日光植物園。そこで時間を取り、お昼も食べよう」

「女の子たちで、美味しいお昼ご飯を作って来てくれたらしい」

 

「その後、いろは坂を上り、中禅寺湖、華厳の滝」

「最後に、戦場ヶ原を通り、奥日光の温泉へ」

 

「日光湯元温泉の硫黄温泉は日本で4番目の濃度。お肌もツルツルでポカポカになるみたい」

 

恵ちゃんが嬉しそう。

 

「でも、ポッカポカで眠くなったら困るから、運転手の僕と、予備運転手の大樹くんは温泉には浸からないよ」

「時間があれば、東部ワールドスクエアにでも寄りたいんだけど、多分、時間がないと思う」

 

「僕は、明日行きます。会社の内々定者の懇親で」

「もちろん、戦場ヶ原や日光湯元には行かないですから」

 

車は順調に日光出口へと向かう。

 

「正、こずえちゃんからLINE来たぞ」

「16日には、温泉も入り、東部ワールドスクエアにも行きます、って」

 

「ただ、温泉は鬼怒川にしますって」

 

「何。何? それ」

 

「だから、植物園には少ししか寄れません。だって」

 

「大樹、こずえちゃんには余計な連絡は入れないでおいて!」

 

「はいはい」

 

大樹は笑いながらスマホをしまう。

 

「わあ! いつ来てもすごい! さすが陽明門ね」

 

恵ちゃん、歩ちゃん、みどりちゃんは修学旅行生の気分。スマホで写真を撮りまくる。

 

「眠り猫ね。徳川家康を護るために寝ていると見せ掛け、いつでも飛びかかれる姿勢をしている」

「もう一つの教えとして、裏で雀が舞っていても、猫も寝るほどの平和を表しているとも言われてる」

 

「美しい自然と空気。歴史的な史跡。最高だね、日光」

 

明石先輩は両手を大きく広げ伸びをする。

 

「三猿ね」

「見ざる、言わざる、聞かざる」

 

「誰かにお見せしたいわね。ねえ~、正くん」

 

恵ちゃんが暗にこずえちゃんを意識して呟くと、歩ちゃんとみどりちゃんが微笑む。

 

「ねえ、二荒山神社の方に行きましょ!」

 

「ここの境内の広さは、3400ヘクタールもあり伊勢神宮に次ぐものと言われていて、周囲は杉の巨木に囲まれているの」

「面積には華厳の滝、いろは坂、重要文化財の神橋、日光連山の男体山・女峰山・赤薙山・太郎山・大真名子山・子真名子山・前白根・奥白根の8峰も含まれるみたい」

 

「すごいすごい! ここはパワースポットよ」

「良縁にまつわるご神木がいくつかあるみたい」

 

恵ちゃんは、拝殿正面の神門の、向かって右手に1つの根から2本の杉が仲よく寄り添う夫婦杉を見つける。

 

「ねえ、みどりちゃん、歩ちゃん。そして私もおみくじ、結びましょ。彼氏と一緒に!」

 

「彼氏だなんて……」

 

大樹と義雄は照れながら、歩ちゃん、みどりちゃんと一緒におみくじを結び参拝する。

 

「奥の神苑には、縁結びの笹がある。結び札に願いを書き、笹に結びつけると良縁が得られるらしいよ」

 

「ここでも、しよっ!」

 

3つのカップルで仲良くお参り。

 

もう、歩くのも3つのカップルで。神聖な空気が皆んなの気持ちをそうさせる。恵ちゃんは、大胆に僕と腕さえ組む。

 

「そう、大自然の中のたくさんの参拝。もうそろそろにして、植物園に向かおうか?」

 

そうだ、明石先輩を置き去りにしてた。なんだか申し訳ない気分。

 

「さて、じゃあ植物園に行くわよ!」

 

「Shall we go!(行きましょう)」

 

 

ーーーーー

 

 

「ここだね、入り口」

「見落とすところだった」

 

入園料を払い、駐車場へ車を止める。

 

「最高の初夏。ここも素敵な空気!」

 

皆んなでおもいっきり伸びをする。

 

「正くん。植物園の案内、よろしく頼むよ」

 

「皆んな植物通だから何もすることないですよ。明石先輩」

 

「まあまあ、案内してよ、正くん」

「明日、会社の内々定者の案内人でしょ。練習練習!」

 

「じゃあ、この入り口と駐車場付近からね」

 

「これはオオバギボウシ。日本固有の種で、山菜としても採取される。外国人にも人気があって、今や世界中の植物園で見ることができる。キジカクシ科、Hosta属。以前は当たり前のようにユリ科だったんだ」

「Hosta属がキジカクシ科になったのは、世界でも大きなニュースの一つになったんだよ」

 

「ユリ科、細分化されたからね」

 

恵ちゃんが微笑む。

 

「これはマメイヌツゲ。モチノキ科、雌雄異株。庭木として植えられているから皆んな知ってるね」

「葉が裏へ反り返るので表面が盛り上がって豆のように見える」

「とてもによく似た樹木でツゲがあるけど、ツゲはツゲ科ツゲ属、雌雄同株。花は4−5月頃。イヌツゲとは全く違うものなんだ」 

 

「そして皆んなご存知のユキノシタ科ユキノシタ。とても可愛くて愛らしい色合い」

「可愛いけど、雪が積もっていてもその下に緑の葉を付ける生命力からユキノシタと名付けられたんだ。花言葉は、深い愛情、恋心」

 

「素敵ね、その花言葉」

 

恵ちゃんが微笑む。

 

「駐車場付近も百花爛漫だね」

 

「白のウツギ、ガクウツギ、アジサイ科だよ。ヤエウツギも園内で咲いていると思う」

「あと、ウツギ科にはイワガラミがあるね。これは落葉のつる性草本」

 

「これ、ピンクのシモツケソウ、Filipendula属。バラ科だね」

「花言葉は、控えめな可愛さ、純情」

 

「こずえちゃんに言ったら、私です! と必ず言うわね」

 

「キンロバイ。これもバラ科。可愛い5弁花。この黄色はフラボノイドの黄色じゃなく、カロチノイドの黄色だよ。綺麗な色だ」

 

「ヤマブキショウマもバラ科だね。レンゲショウマはキンポウゲ科、キレンゲショウマはアジサイ科。名前が似ていてややこしいけど、ご存知通り、皆んな別物」

 

「サルナシがあるよ。ほら、上の方の緑っぽい花。マタタビ科。キューイフルーツの仲間だよ。味もキューイフルーツに似ているんだ」

「日本、朝鮮半島、中国原産で果樹酒によく使われる」

 

「さて、シラン。ラン科、Bletilla属。これは大学の農場のラン温室にもたくさんあるよね」

 

「ヤマハタザオ。アブラナ科。4弁の白い清楚な可愛い花。Arabis属」

「日本原産のものは、スズシロソウと言われる」

 

「オレンジ色の有名なニッコウキスゲもあるね。ススノキ科、これも昔はユリ科だった」

「日光の名前がついているけど、実は日本全国どこにでもあるんだ」

 

「へぇ~。知らなかったよ」

 

大樹が感心する。

 

「この場所だけでもきりがないから、ロックガーデンの方にゆっくり向かおうか?」

 

「正くん。説明、かち割りながらも上手ね」

 

恵ちゃんがニコニコして後ろで手を組む。

 

「正先輩。すごいですね。なんでそんなに目に映るもの皆んなスラスラすぐに名前が出て来るんですか?」

 

歩ちゃんとみどりちゃんは不思議な顔をする。

 

「自分が、自分に与えられた花を学べる喜びを受け取ること。これが植物に対する僕の気持ちだからかな?」

「花を覚える僕を、花が覚えてくれる」

 

恵ちゃんが、私も! 私もよ! と僕に向かい、笑顔で自分を指差す。

 

 

ーーーーー

 

 

「歩きながら、また植物説明していくね」

 

「マサキだね、ツルマサキ。緑色の花、ニシキギ科。マユミと同じ科だよ。垣根によく使われているよね。丈夫で成長が早く、刈り込みにも強いからね」

「マサキという名前は、冬でも葉が真っ青な木、真青木からきているとも言われる。自生地は浜辺だから、ここのは移植だよ」

 

「近くにグンネラがあるよ。和名オニブキ、グンネラ科。花がとても太くてブラシみたいでしょ」

「葉柄の長さが1m以上、葉の直径が大きなものでは2m近く、草丈3mほどになり、地上で最も巨大な葉を持つ植物と称して、大阪と浜名湖で開かれた花博で日本に紹介されたんだよ」

 

「あれはコアジサイ、アジサイ科」

「そして隣にサワギク、キク科。素敵な黄色。これはカロチノイドの黄色」

 

「群生しているシライトソウ。これはシュロソウ科。ムーミンに出て来るニョロニョロみたいだね」

 

「本当だ! ニョロニョロを連想しますね」

 

みどりちゃんが微笑む。

 

「これ可愛いでしょ。1つの茎から二つ花茎が伸びるの。フタリシズカ、センリョウ科。どこかに一つ花茎をつけるヒトリシズカもあるよ、きっと」

 

「私、フタリシズカの響の方が好きです」

 

歩ちゃんは照れながら、大樹に寄り添うよう歩く。

 

「ミゾホオズキ、ゴマノハグサ科。この黄色は確かカルコンだったかな?」

「カロチノイドじゃないから……、たぶん」

 

「上を見上げて。ヤマボウシ、ミズキ科。ハンカチのような白が素敵でしょ」

「4枚の花びらのように見えるのは、花じゃなくて総苞片(そうほうへん)なんだ。便宜上、花と呼ばれている」

 

僕らはロックガーデンのところで足を止める。

 

「ここにも、ニッコウキスゲがあるね」

 

「今ロックガーデンで咲いているのは、イブキジャコウソウ、シソ科」

「シロバナウツボグサ。これもシソ科」

 

「紫のハナタツナミソウ、シソ科。羅生門の鬼の切られた腕に因んでるラショウモンカズラに似ている、けど別物。タツナミソウの分類は結構難しいんだ」

 

「コウリンタンポポ、キク科。オレンジが鮮明で綺麗だね。これも色素はカロチノイドだよ」

 

「コメガヤ、イネ科。ピンクっぽい優しい色」

 

「これはご存知のシモツケ、バラ科。ピンクの小花が可愛いね」

「すぐ隣の紫色のは、ミヤマウツボグサかウツボグサ。どっちだろう?」

「お隣は普通のセイヨウノコギリソウ、キク科だね」

 

「そうそう、通路の途中にトリカブトがあったね」

 

恵ちゃんが話し出す。

 

「根に含まれるアコニチンは猛毒だからね。気をつけないと」

 

「ロックガーデン付近、面白いね!」

 

「しかして、前に進もうよ。まだ植物園の入り口付近だよ」

 

「俺、お腹すいてきた」

 

大樹が呟く。

 

「俺も」

 

義雄も。

 

「もう?」

 

「まあ、急がずいこう。含満ヶ淵まで行ったら、昼食にしようね」

 

明石先輩が指揮をとる。

 

「さて、サトイモ科のオオハンゲがあるよ。カラスビシャクを一回り大きくしたような感じ。だけど、カラスビシャクとは違いムカゴをつけない」

 

「これはギンバイソウ、ナス科」

「次にツタバウンラン、ゴマノハグサ科。ゴマノハグサ科の典型的な花形だね。パンジーを逆にしたような可愛い花型」

 

「これはめずらしいよ、ツルガシワ、ガガイモ科、カモメヅル属。紫の小さな花には白毛がついているんだ」

 

「可愛い! ミズチドリ。ラン科、Platanthera属。私のように清楚な白い花!」

 

恵ちゃんが思わず声を上げる。

 

僕らは植物園の真ん中の方にズンズン進んでいく。

 

「さて、実験室の庭に出てきたね」

 

「庭一面のトキワナズナ。妖精の絨毯みたい。ホント可愛いね。アカネ科、Houstonia属。花言葉は、甘い思い出」

「山野草店で売っていたりもするけど、この自然の広大な絨毯は格別だね」

 

「こっちにはミヤマヨメナ、キク科もある。この紫も愛らしい」

「ヤグルマソウ、ユキノシタ科。株が堂々としているね」

 

恵ちゃんは恵ちゃんで、歩ちゃんやみどりちゃんから問われた花の説明をしている。植物同好会の恵ちゃんにとってはお手のもの。明石さんは僕らの説明する植物。ほとんど全部知っている。ニコニコして説明を聞いてくれている。

 

「さて、お昼ご飯の含満ヶ淵に向かおうか?」

「でもその前に、ちらっと芭蕉池も見てみる?」

 

「そうしましょう」

 

恵ちゃんが音頭をとる。

 

「いいかい、これはイブキトラノオ、タデ科」

 

「おぉ、珍しいのがある。オオマルバノホロシ。ナス科だよ」

 

「ドクゼリ、セリ科。名前と違い白く愛らしいセリの花」

「一面の紫色の菖蒲だね。ノハナショウブだよ。アヤメ科」

 

「ホザキシモツケ、バラ科。日本では、北海道と日光と長野にしか自生がないんだ」

「でも、地球の北半球にはたくさん分布している。不思議な分布だよね」

 

「そしてワスレナグサ、可愛い小さい青。ムラサキ科だね。これは、増えて増えてどうしようもなくなるんだ」

「素敵な花言葉、Forget me not。私を忘れないで」

「でも忘れるどころか、どんどん株が増えていく。庭では意外に厄介者」

 

「とにかく、正には参った! なんでも知ってるじゃん」

「ホント、歩く植物図鑑だな」

 

大樹が呟く。

 

「頑張れば、誰でも覚えられるよ」

 

「俺らは、飯を食うことを頑張る」

 

「さて、含満ヶ淵へ戻ろうか」

 

「うん」

 

皆んな、元気な足取りでお昼ご飯へ向かう。

 

 

ーーーーー

 

 

日光植物園内。大谷川の河岸。

 

「ねえ、川の向かいにお地蔵さんがたくさんあるよ」

 

義雄が言う。

 

「ああ、あれは並び地蔵。通称、化け地蔵」

「並び地蔵が、通称、化け地蔵、と呼ばれるようになったのは、お地蔵さまを数えて歩くと、行きと帰りに数えた数が違ってしまうから」

「洪水にあったり風化が進んだりで、ずいぶん崩れたものがあるらしく、どれを数えるかで数が違う……、とは思っても、いざ数えた数が行き帰りで違うとゾクゾクっとするよね。暑い夏には背筋が寒くなるからもってこいかも」

 

「浅野教授も化け教授だね。研究室に来た時と帰る時の機嫌が違ってしまうから」

 

「それは、大樹と義雄の不憫さからくるものだろ?」

 

「まあ、なんでもいいとして、さて、昼食にしましょう!」

 

恵ちゃんが声をかけ、みんなでレジャーシートを広げる。人通りも少ない園内。

「さて、昼食にしましょう!」

 

みんなでレジャーシートを広げる。人通りも少ない園内。

 

みどりちゃんが一口おにぎりと卵焼きを作ってきてくれた。そして、野菜サラダ。おにぎりは、みぶ菜漬け、サケフレーク、ちりめん山椒。

 

鮭フレークは海苔で巻いてあり、ちりめん山椒は大葉で巻いてある。

 

卵焼きは、2回目の伊豆に行く時にみどりちゃんが作ってくれた逸品。三温糖と白砂糖の配分と牛乳を加えるのがミソらしい。あのときは写真を送ると義雄が悔しそうにしていたが、やっとみどりちゃんの味にありつける。しかし、7人分の卵焼きは大変だったろう。

 

歩ちゃん作の一口サイズに近いおにぎり。具は、カーマンベールチーズとニンジン。キムチとニラの卵閉じ、そしてカリカリ梅と焼肉。おかずに、鶏の醤油風唐揚げとつくね串。

 

つくね串はチーズ味、あと、梅肉と大葉刻みを乗せて食べるスタイル。

 

恵ちゃんは、大きなエッグインミートローフ二本。7人分の胃袋を満たすよう頑張ってきたらしい。自称、最強の秘伝の自家製ミートローフのタレも準備してきた。

 

「いただきま~す」

 

皆んなで声を揃えて食事が始まる。

 

「まいう~!」

 

食いしん坊の大樹が、歩ちゃんのおにぎりと、恵ちゃんのミートローフを食べて、大きな第一声。

 

「すっごい! 美味しいね!」

 

僕も、ちりめん山椒おにぎりと、ミートローフを食べてのっけから幸せな気分。

 

「しかし、女の子たち、すごいね!」

 

「世の中では、卵焼き一つできない女性もいるとかいうけど、皆んなはいつお嫁に行ってもおかしくない。すごい料理のレベルだよ」

「八ヶ岳の山で食べた昼ごはんも最高だったけど、今回もすごいね。美味しい」

 

「明石先輩に褒められると、なんだかすごく嬉しいです」

 

女の子たちはニッコニコ。

 

「この卵焼き。毎日食べたい」

 

みどりちゃんの卵焼きを頬張り、義雄が呟く。

 

「毎日食べられるようにすればどう?」

 

恵ちゃんが義雄をおちょくる。義雄は照れて、みどりちゃんは微笑む。

 

「鶏の唐揚げ、梅肉のつくね串も最高だね。その辺のお店の味を遥かに凌ぐよ」

 

山男の明石先輩は、体も大きいが、食べる量も半端じゃない。

 

「キムチとニラ卵、そしてカリカリ梅と焼肉のおにぎり。どちらも美味」

 

僕が話すと、

 

「あら、ニラ好きの彼女さんにも食べさせたくて?」

 

「恵ちゃん。あれは饅頭。全然違うよ」

 

「正」

 

「大樹、何?」

 

「いや、美味しくて頰が落ちそうな料理の写真をこずえちゃんに知らせたら、私たちは16日の日光のニラ饅頭のある中華料理店でランチする、との返信だ」

 

「ちょっと待て! なぜ今LINE打つ? しかも、こずえちゃんに……」

 

「そう、隆くんにもした」

「だって、悠久の大自然の中、こんなに豪勢なご馳走。誰かにすぐに話したくなるじゃないか」

 

「そうだ……。よく考えたら、僕、明日も明後日も日光なんだ……」

 

「いいじゃない。幸せよ。大自然と世界に誇る史跡に三日間。ノルマの論文も終わったし」

「私も毎日来たいくらい」

 

恵ちゃんが微笑む。

 

「正、ホント幸せ者だよ。皆んなに気に入られてさ」

 

「そういえば……、明日の会社の懇親会の昼食も中華だって言ってたな」

 

「ニラ……、店が一緒……」

「まあ……、いいか」

 

「そうそう、今は今。食べよう食べよう」

 

「うん。とっても美味しいお昼ご飯。これは今日しか食べられない逸品だからね」

 

みんなどんどん食が進む。オオルリ、キセキレイ、ミソサザイ、ヤマガラ。野鳥の声が優しい。

 

明石先輩が僕にアドバイス。

 

「正くんの植物の説明だけど、素人にはもう少し違う心持ちで、簡素な言葉でね。学術的な科名や属名を知りたいというより、花の名前や由来、花言葉なんかを知りたいんじゃないかな?」

 

「しっかりと自然のハーモニーを奏で植物たちは息づいていて、精一杯それぞれの花を咲かせている」

「それらに僕らの心を動かす生命の神秘があることが皆に伝わればいいんじゃないかな」

 

「明石先輩。ありがとうございます! そうします」

 

「皆んな、お腹いっぱいになったね」

 

「うん。最高の気分」

 

「さて、これからいろは坂、華厳の滝に向かいますか」

「正くんは教授の言う通り、これから滝に3日間落ちなきゃね」

 

恵ちゃんがフフフと笑う。

 

「もう、教授との約束は果たして来たから大丈夫よ」

 

「あら、論文はOKでも、3日連続で遊びに行くことは気に入っていないみたいわよ」

 

「えっ? ホント」

 

「うん。アイツ、豆腐の角に頭ぶつけて死ね、とか独り言でブツブツ呟いてたし」

「たぶん、正しくんのことよ。それ」

 

「いいなあ、正。ある意味、教授に気に入られているんだよ」

「正がいないと寂しいんだよ、教授」

 

大樹と義雄が羨ましそうに僕を見る。

 

「お前たちがいない方が教授、ずっと寂しいはずだよ」

 

僕がそう返すと、恵ちゃんと歩ちゃんが、こだまが返ってくるほど大声でワハハと笑った。

 

第68話

 

「うちの正がお世話になってます」

 

恵ちゃんがこずえちゃんに丁寧に挨拶。

 

「いえいえ、こちらこそ。うちの正が論文に手を焼いておりまして」

 

こずえちゃんが切り返す。

 

カフェテリアでのお昼ご飯。二人改まってなぜ、こう言う会話から始まる?

 

「大樹。まさかとは思うけど、お前、こずえちゃんに余計な知恵つけなかったか?」

 

「いや……、別に」

 

「正先輩、16日の日光、思いっきり遊んできましょう」

「1日じゃ足りないかな? 泊つけましょうか?」

 

「あのさ……」

 

「大樹。お前だろ。面白おかしく、僕らの論文期限のこと話したな」

 

大樹が口を押さえて笑いを隠す。

 

「だって、面白いんだもん。正が教授に何されるか」

「殺されること以外の、あらゆることをされるよ」

 

「あらあら、それは正先輩大変です」

「私の大好物のニラ饅頭、半分あげます」

 

「ニラ饅頭で、解決することと、そうじゃないことがあるんだ。こずえちゃん」

 

「あら、大抵のことは私、ニラ饅頭で解決します」

 

「まあ、いい。わかった」

「自分のためにも、13日までに論文のドラフト仕上げるよ」

 

「あと3日だよ……」

「私も手伝ってあげたいけど、遺伝子の話とか混じってくると英文が上手く書けなくて」

 

さすがに恵ちゃんは、少し心配してくれる。

 

「何か妙案はないかな……」

 

「そうだ! 隆がいる。秀才の隆がいるんだ!」

 

僕は隆にすぐにLINEを打つ。

 

「今日、すぐにでも見てくれるらしい。みどりちゃんも見てくれる」

「何で、今まで気がつかなかったんだろう」

 

「隆とみどりちゃん、義雄もカフェテリアに来るって」

 

「何だか、論文大丈夫そう」

 

「正先輩。だから言ったじゃないですか」

「大抵のことは、ニラ饅頭で解決します」

 

こずえちゃんがニコニコ微笑む。

 

 

ーーーーー

 

 

「まあまあ、良くできてるじゃん」

「じゃあ、このペーパーのwordの下書き、半日貨してね」

 

「みどりちゃんに、論文のストーリーを聞きながら書き加えたり引いたり、直してみるよ」

 

「助かるよ、隆」

 

「いや、ちょうど今、実験が暇な時期なんだ」

「16日は日光だろ。楽しみにしてるよ」

 

「いや、……、それがさ……俺はね」

 

「そう、3日連チャンだもんな」

「なかなかないよ。日光東照宮、3日連続で詣れるなんて」

 

隆は気のいい男。本当に、いい、と言う風に優しく話してくれている。

 

「奥日光の温泉も行きたいです。先輩」

 

来た! こずえちゃんの思いつき。

 

「いいね! 温泉」

 

恵ちゃんも賛同する。

 

「大樹くん。私たちも行こうか?」

 

「いや……、いいんだけど……」

 

「何、何? 大樹くん、温泉入れない訳でもあるの?」

 

恵ちゃんが問いかけると、こずえちゃんが心配そうに、

 

「チンチンがお小さいんですか? そんなの気になさることないですよ」

「こずえは貧乳でも堂々と皆んなと温泉入ります」

 

「こずえちゃんさ、よく昼間っから素面でそんなこと言えるね」

「あのさ、実は車の運転手が温泉に入るのは帰りの走行の安全上、あまり好ましくないんだ」

 

「僕も大樹くんの意見に賛成だね。眠くなることが多々ある」

 

隆も同意。

 

「じゃあ、温泉は明石先輩、隆先輩の運転手さん以外ね!」

 

何で、そう言う話の持っていき方にする? タダ乗りじゃん。恵ちゃんとこずえちゃんは、きゃっきゃきゃっきゃ、奥日光の日帰り温泉のスポットを調べ始める。

 

「まあ、隆。論文も日光もよろしくな」

 

「ああ」

 

「お礼は、ニラ饅頭でいいか?」

 

 

ーーーーー

 

 

「正。論文のドラフト、できたぞ」

 

隆が夜8時ころ研究室にやって来た。

 

「おう、隆。早いな。ありがとう」

 

「正の研究室、見つけるのに時間がかかった。意外に農学部の部屋多いんだな」

「義雄くん以外、皆んな帰ったのかな?」

 

「ああ、皆んな帰った」

 

「義雄はまだ工学部にいるの?」

 

「うん。みどりちゃんと二人で一生懸命遺伝子取りしてる」

 

「論文の読み合わせ、大丈夫か?」

 

「ああ、隆の都合は?」

 

「大丈夫よ」

 

「まずは、Variation in chalcononaringenin 2′-O-glucoside content in the petals of yellow carnations (Dianthus caryophyllus)から」

 

「この論文、全然悪くないよ。よくできていると思う。ただ、CHI遺伝子については詳しく書かれていていいんだけれど、やはりカルコンからchalcononaringenin 2′-O-glucosideになるための、2’GT遺伝子が取れていないから、何だかその部分が控えめに書かれている気がする」

 

「2’GT遺伝子はもう、大樹くんとみどりちゃんでほぼ取れることが確実だから、僕はもう取れている、に近い感覚で文章を構成した」

 

「それで、黄色花におけるカルコンの量の連続性、CHI遺伝子の働き、そして2’GT遺伝子の働き、この三つを、どれも同じように重きを置いたイントロダクション、ディスカッションにした」

「もちろん、Result、すなわち結果ではまだ2’GT遺伝子は記述できないけれど、イントロとディスカッションでは、存在するであろう2’GT遺伝子云々、と記載できるからね」

 

「うん。隆の言う通り、本報での二つの発見と2'GT遺伝子の重要さが同レベルで淡々と語られ、論文全体が引き締まり、分かりやすくなっている」

 

「ありがとう。これなら、教授と打ち合わせできるレベルのドラフトだよ」

 

「次は、オレンジ。Analysis of orange color related with chalcones and anthocyanins in the petals of carnations (Dianthus caryophyllus)」

 

「これはちょっと複雑だね。論文全体も、話があちこち飛んでて分かりにくくなっている」

「黄色と赤色色素の共存と、遺伝子の働きの記述がごちゃ混ぜになっている」

 

「まずは、色素は色素、遺伝子は遺伝子としっかり分けた」

「最初に黄色が溜まること。次にアントシアニンが加わること。それでオレンジになる」

「これを、既知のアントシアニン生合成経路で説明するんだ」

 

「これには生合成経路の模式図を使い説明する。それが、色素レベルでの話ね」

 

「そうすると、理屈に合わないことが出てくる」

「ここから遺伝子の話」

 

「アントシアニンができると言うことはCHI遺伝子とDFR遺伝子が正常。なのに、蕾や開花の段階で黄色色素ができている」

「ここで、Variation in chalcononaringenin 2′-O-glucoside content in the petals of yellow carnations (Dianthus caryophyllus)と同じく、CHI遺伝子が部分的に壊れていることが確かめられたことを再度示す」

 

「そうすると、壊れ方の少ないCHI遺伝子を通過した色素はDFR遺伝子でアントシアニンとなり、黄色色素と共存してオレンジ色が生成されると言う話の辻褄が合う」

 

「まずは、ここまで。これで論理とストーリーがすっきりする」

 

「色素は色素、遺伝子は遺伝子」

「ただ、大切なのはディスカッション、考察だね」

 

「ここでも、未知の2’GT遺伝子の話を織り込む」

 

「蕾の段階から黄色い素材では、早い時期から働く2’GTの存在が示唆される。もう一つは、開花と同時に働く2’GTの存在、これも想像だけど触れておく」

「2’GT遺伝子は二つあるであろう。仮説だよ」

 

「早い時期から働く2’GT遺伝子があれば、CHI遺伝子が動く前に黄色色素が溜まる」

「そして、CHI遺伝子が働き始めると、アントシアニン生合成経路に従いアントシアニンができる」

「つまり、黄色と赤が共存しオレンジ色になる」

 

「開花時期、CHI遺伝子と同じ頃に動く2’GT遺伝子があれば、それは前報で述べた通りのCHI遺伝子の壊れ方の機構でオレンジ花となる」

 

「これを考察に加える」

 

「さらに、黄色色素と、赤色のペラルゴニジン3マリルグルコシドの組み合わせだけではなく、黄色色素と、紫色素シアニジン3、5ジグルコシド、鮮ピンク色素のペラルゴニジン3、5ジグルコシド、暗赤色素シアニジン3マリルグルコシドと共存する花色の存在も示唆される」

「このことも、考察に入れれば面白いと思うよ」

 

「ありがとう、隆!」

「すごいね。さすが生命工学研究室の秀才」

 

「隆、晩御飯まだだろ?」

 

「うん」

 

「牛丼でもおごるよ」

 

「ああ、行こうか」

 

「そうそう。この前こずえちゃんを牛丼と一緒にお持ち帰りしたんだって?」

 

「あのさ……、どこからそう言う情報広まる?」

 

 

ーーーーー

 

 

「誰でもいい。牛丼買ってきてくれるか。大盛りで」

 

研究室には、僕と恵ちゃんと義雄。

 

「正くんがいいと思います。正くん、お持ち帰りが得意なので」

 

「恵ちゃん。余計なこと言わない……」

 

「何でもいい。買ってきてくれ」

 

教授が机の上に、無造作に千円札を置いていく。教授は、隆と一緒に修正した論文のドラフトが気に入ったらしい。あとは自分で手を加えるということで、朝から教授室に閉じこもっている。

 

「じゃあ、僕が買いに行くね」

 

「正の自転車、ペタルがもう取れそうだぞ」

 

「ああ、直しながら、だましだまし乗るよ」

 

「正くん、だましだましが得意だから」

 

恵ちゃんがチャチャを入れる。

 

「僕は素直に生きてるよ。だましだましするような事なんてないよ」

 

「はいはい」

 

ところで、大樹は?

 

「さあ? 朝一で生物環境工学研究室に行ったきり」

「きっと明石先輩と歩ちゃんと打ち合わせだ。日光の」

 

「そうね」

 

「まあ、牛丼屋行ってくる」

 

僕が出ていくなりすぐに、

 

「正! 正は居るか!」

 

教授の鼻息が荒い。

 

「きょ……、教授に頼まれた牛丼を買いに行ってますが……」

 

義雄が恐る恐る答える。

 

「全く、肝心な時にいない」

「論文の著者と謝辞に入れる氏名・所属が知りたい」

 

「全く……」

 

教授は自分で用事を頼んでおきながら、ブツブツ文句を言って教授室に戻って行く。

 

「さて、買ってきたよ。教授に届けてくるよ」

 

「教授、機嫌が悪いからね。気をつけてね」

 

 

ーーーーー

 

 

「全然、大丈夫だったよ。著者と謝辞だけの用事。済ませてきた」

「著者は僕ら4人と教授と有田先生とみどりちゃん」

 

「黄色花の論文のファーストオーサーは僕。オレンジ花の論文のファーストオーサーは恵ちゃん」

「コレスポンデンスオーサーは両方とも教授。今後の論文の審査状況、査読者のコメント、最終決定を含めすべての通知をジャーナルから受け取らなきゃならないから僕らは無理」

 

「謝辞には、隆、材料を採取してくれた歩ちゃん、あと色素を精製してくれた三年生の2人、色素を同定してくれた薬学部の人」

 

「あら? お持ち帰りのこずえちゃんは入れないのね」

 

「冗談でしょ? 入れないよ」

 

「しかし、とうとう出来たというより、黄色とオレンジ花色の論文化、かなり早かったね」

「教授が僕らの尻に火をつけたこともあるけど、僕らも頑張ったよね」

 

「いや、正の貢献度が高い」

 

義雄が真面目顔で話す。

 

「正。お前、天才だよ」

 

「褒めても何も出てこないよ」

 

「いや、正くん凡人らしく頑張ったよ」

 

「恵ちゃん。その褒め方は変」

 

「足手まといな事も結構あったのにねっ」

「とにかく皆んなで力を合わせると、物事スムーズに運ぶね」

 

「うん。卒業論文みたいな孤独な戦いより全然楽チン」

 

「何が楽チンだ?」

 

浅野教授がいきなり研究室に入ってくる。

 

「おい、正。お釣りは?」

 

「きょ……、教授の机の上に置いてきましたけど」

 

「そうか、やはり引用文献に埋もれたか。まあいい」

「そう、論文は今日中に英文校閲に出す」

 

「そのあと雑誌に投稿して、多分、二、三度やりとりしてアクセプトされると思う」

「色素研究会の資料も上出来。皆、よくやった」

 

「一杯やるか? 関係者集めて」

 

「いやいや、教授。日光だけで僕らは十分です」

 

「あら、私たちは不十分よ。ねえ、義雄くん」

 

「いや……、僕も……」

 

「義雄。飲み会企画しろ。関係者集めて」

 

「はいっ!」

 

教授は機嫌よく教授室に戻る。

 

「幹事さん? どうします?」

 

「大学生協で済まそう。8時閉店だし」

 

「8時閉店は早すぎますです」

 

「えっ? こずえちゃん? 何でここに?」

 

お昼なので、迎えに参りました。お話し、盗み聞きしてましたです。

 

「二つの壮大な論文が出来上がったんですよ」

「ここは、扇谷にでも行って、深夜まで最高のつくね鍋でも突っつきあいましょう」

 

「私と正先輩は、別途別な方法で互いに突っつき合います」

 

「どこから、そんな飲兵衛の言うような言葉が出る?」

 

「正先輩に盗まれたことのある、この唇からです」

 

「あら、私からは上品な言葉しか出ないわよ」

 

恵ちゃんが軽くかわす。

 

「私には、淫らなんです。正先輩」

 

「そうなの?」

 

「僕は嘘を言って、だましだまし生きるような人間じゃないからね」

「二人ともわかった?」

 

「I see. (わかりました)」

 

二人同時に英語で答える。

 

「そうそう、私と恵先輩。間接キスの間柄なんですよね」

「百合みたいなことにならなければいいんですが……」

 

第67話

 

「すいませ~ん。頭の大盛りに、玉子と生野菜サラダ。つゆだくで」

 

こずえちゃんが夕食に牛丼を選んだ。理由はお昼はお寿司で贅沢したから。本当にそう?

 

ファストフード。ある意味会話する時間に制約がある。何かの魂胆があっての牛丼?

 

「正先輩とは、どんな食事でも許せます」

「食後は、せんべい布団一枚でOKです」

 

僕は飲みかけた水を、口から吹き出しそうになる。食後が狙いか……。

 

「いきなり……、何?」

 

「先制攻撃です」

 

「あのね……、まずは言うけど、僕はふかふかとは言えないけど、寝具はいいマットレスを敷いているよ」

 

「わかります。そして枕元には恵先輩の髪の毛とか落ちていると思います」

「あと、ゴミ箱にはティッシュと使用済みコンドーム」

 

「そこまで言う……」

 

「悲しいけれど、私……、女ですからわかります」

 

僕は語った。恵ちゃんと正式に付き合っている。恵ちゃんがいかに可愛いか、いかに優しいか、いかに素晴らしいか、熱く、熱く語った。

 

「ショックです。今の話」

「お酒、浴びるほど飲みたいです」

 

「ダメダメ。まだ18歳でしょ?」

 

「正先輩、こうしましょう」

 

「これから私からは用事があるとき以外、正先輩に連絡しない」

「私、正先輩を縛らない」

 

「万が一、恵先輩に飽きたら、正先輩が私のもとに帰る時が来たら、私、正式に恵先輩に正先輩との交際宣言をします。そう決めました」

 

「この条件でどうでしょう?」

 

「その条件って文脈おかしいよ」

 

「用事があるときに連絡するのは当たり前だし、僕がこずちゃんのもとに帰る時が来たら? そう言う言葉、どこからくる?」

 

「未来完了進行形です」

 

「まあまあ、帰ろう」

 

二人して、20分もいたかどうかの牛丼屋を出る。

 

「先輩のアパート、寄っていっていいですか?」

 

「ああ……、いいよ」

 

「でも、僕が愛しているのは恵ちゃんだけ、だからね」

「僕はこずえちゃんに、何にもしないからね」

 

僕は強く念を押す。

 

「はいはい」

 

こずえちゃんは不気味な笑顔。勝手に冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出す。

 

「乾杯です。先輩」

 

こずえちゃんはビールを飲むなり、いきなり僕に抱きつきキスをする。

 

「こずえちゃん。話が違うじゃない」

 

「性は知識になります。知識は力です。大切です」

「でも、想像力は知識より大切です」

 

「正先輩は恵先輩とは知識止まり」

「私には、未来を見据えた想像力があります」

 

「私、恵先輩に全て負けても、せめて今だけ、想像力では負けたくないと思う」

 

 

ーーーーー

 

 

「それで? 缶ビールを開けて抱きつかれてキスされた後、こずえちゃんとはどうなったの?」

 

「もちろん、何もなかったよ……」

 

「本当?」

 

「抱いたりしなかったよ」

 

「でも、抱きたかったでしょ?」

 

「いいや……」

 

「18歳の可愛い可愛い女の子。くびれた腰。指が吸い付く、透き通るようなモチ肌」

 

「何? その恵ちゃんならぬ、なまめかしい表現」

 

「私が男だったら一歩踏み出して愛撫しちゃうかもな~」

「残念だったでしょ?」

 

「いや……」

 

「顔には、うん、と書いてある」

「でも信じるわ、正くんのこと」

 

「あの……、実は……、なだめるために軽く抱き寄せたりはした」

 

「いいの」

 

「軽く抱きしめると言う行為は、スキンシップ。性的興奮を呼び起こさせないの。一般論としてだけど」

「テレビドラマでもよくあるでしょ、役者さん同士で」

 

「でも、ジーンズの上から股探りはされたんだ……。不思議と何も感じなかったよ」

 

「私の時は感じてくれるのにね」

 

僕はうつ向いて照れる。

 

「ありがとう。しっかり正くんの心は私にある。だから他の女の子では感じないのよ」

「今の正くんに対する私の心も同じ。他の男に目もくれないよ」

「あちこち迷いが生じそうでも、自分からは逃げることはできない」

 

「どうした、正。しっぽを握られた猿みたいな顔してるぞ」

「ああ、そうか。つかまれているのはしっぽじゃなくてアソコだもんな」

 

大樹がやってくる。

 

「朝っぱらからなんだよ」

 

「おはよう、皆んな」

 

義雄も来た。

 

「まあ、コーヒーでも飲みましょう」

 

恵ちゃんが四人分のコーヒーを入れてくれる。さすが恵ちゃんが入れてくれるコーヒーが一番。とても美味しい。

 

いつもの朝の研究室の空気が流れ始める。

 

「今月末、正くんの誕生日があるから楽しみにしていてね」

 

「そうか、恵ちゃんの手作りの何かだ」

「俺の時はケーキだったからな」

 

大樹が思い出したように話し出す。

 

「正には何かな?」

「俺以上の何かになるのは確実だ」

 

「ホールケーキ以上の何か? 思いつかない」

 

「手作り、じゃなくて、既成のものも考えられる」

 

「想定外、が起こるわよ」

 

恵ちゃんがニコニコ顔。

 

「もしかして、恵ちゃん自身とか?」

 

義雄はとぼけたように僕らに話す。

 

「義雄よ、もう恵ちゃん、それはとっくに正にプレゼント済み」

 

「まあまあ、それはいいとして」

 

僕がその話は中断する。

 

「想定外か……」

 

「こずえちゃん、をプレゼントする訳ないしな……」

 

「あのさ、大樹。どこの脳みそからそんな言葉出る? 想定外もいいところ」

 

恵ちゃんも笑っている。

 

「正、貧乏で自転車古いから自転車とか」

 

「そんな、親が子供に送るようなプレゼントじゃないよ」

 

「そうだ! 車! 恵ちゃんのうちに車が1台余っている」

 

よく大樹知ってるな。

 

「車の可能性はないよ。貧乏な正には維持できないから……」

 

「でも、恵ちゃんと二人で夢のドライブ。いいだろ~」

 

「まあいい、今日は皆んな卒論研究に没頭しよう」

 

「正、こずえちゃんからLINEだぞ」

 

「誰に?」

 

「俺に」

 

「大樹に?」

 

「ああ」

 

『正先輩には、用事がない限りLINEしません。が、ランチどうですか? と、お友達の大樹さん。正さんに伝えといてください』

 

「何これ?」

 

「まあ、可愛い可愛いこずえちゃん。皆んなで仲良くしてあげましょ」

 

恵ちゃんがこの場をしきる。

 

「こずえちゃんには、すぐにいい人できるわよ」

「あっさりしてて、軽やかで素敵な娘だもん」

 

 

ーーーーー

 

 

ラン温室へ向かう恵ちゃんの後ろを歩く。何だろう、恵ちゃんの体は文句のつけようがない少しナシ型の美形。骨盤が少し広い。安産型だ。

 

こずえちゃんの骨盤は、スッキリ腰がくびれ細くしまっている、トレンド系の痩せ型。

 

身体の形は、こずえちゃんも良さげ? 抱きやすい? そんなことが気になるのはなぜ?

 

「正くん、何考えてるの?」

 

「いや、その……」

 

「朝顔につるべ取られて転ぶわよ。いやらしこと考えて歩いてたら。ねっ」

 

何でわかる?

 

恵ちゃんはラン温室へ入っていく。

 

僕は植物検定の勉強のため、農場の花、木の葉や草の葉を集める。もちろん、植物名、学名付きで。2時間半位の農場散歩。初夏の風が柔らかい。

 

「正くん。いっぱいとったね」

 

恵ちゃんが、僕の腰袋を覗き込む。

 

「ああ。7月には2級、10月までには1級を取る覚悟でいかないと」

「10月からは卒論一筋。植物検定なんてやってる暇がない」

 

「定期演奏会は10月だよね?」

 

「あた~っ。それ言う?」

 

「うん。しかも10月25日。10月末ね」

「あと、学園祭11月3日からでしょ」

 

「研究室で3日間しるこ屋出さなきゃ。研究室の伝統を守るために」

「そして、鉢花売り」

 

「植物検定1級。急ぐわけ、わかるよ。忙しいこと、目白押しだもの」

 

恵ちゃんが満面の微笑みで僕を見つめる。

 

 

ーーーーー

 

 

「暇のあるやつだけでいいから部屋に来い」

 

研究室に戻るや否や、浅野教授が言葉を放つ。今のところ研究室にいるのは僕と恵ちゃんだけ。

 

「大樹呼ぼうか? 義雄は工学部にいて無理だし」

 

「うん。呼ぼう呼ぼう、大樹くんは」

 

恵ちゃんも、教授の鼻息の荒さを感じてる。

 

 

ーーーーー

 

 

「色素研究会のプレゼン資料を見た」

 

「カーネーションにおける黄色花の発現機構及びオレンジ花色の発現機構のスライドはOK」

 

「これで提出してくれ」

 

「英文の、Variation in chalcononaringenin 2′-O-glucoside content in the petals of yellow carnations (Dianthus caryophyllus)、これもよくできている」

「ただ、まだ2’GT遺伝子が取れていないのが残念だ」

 

「まあ、これも提出OK」

「あとは有田くんに任すから」

 

僕と恵ちゃん、大樹はホッと胸をなでおろした。

 

「しかし、もう一つの論文、Analysis of orange color related with chalcones and anthocyanins in the petals of carnations (Dianthus caryophyllus)」

 

「完成度が今ひとつ。イントロダクションとディスカッションを手直ししてくれ」

 

「そう、期限は6月16日」

 

僕はスマホでスケジュールを確認。

 

いや、確認するまでもない。

 

「教授。僕、あの……、私用で14から16日までの三日間、日光に行く予定があって……」

 

「何? もう一度言ってみろ」

 

「はい! 私事で16日には改訂版の提出が困難で……」

 

「華厳の滝に3度落ちて来い」

 

教授は自分の決めたスケジュールに問題が抵触することを極端に嫌う。

 

「だいたい、三日連続で日光を見ずして結構と言うなかれ、なんて行く理系の四年生のバカがどこにいる」

 

アメリカ行きが決まり、しばらくゆっくりしろと言ったのはどこの誰なんだ……。

 

「何とかしろ!」

 

僕らは逃げるようにして教授室を出てきた。

 

「正くん。論文を書かずして結構と言うことなかれ」

 

恵ちゃんが笑顔で僕をおちょくる。

 

第66話

 

「正。おはよう」

 

「おはよう、皆んな」

 

朝の研究室がやけに賑やかだ。

 

大樹、義雄、恵ちゃんの他に歩ちゃんも来ている。恵ちゃんがスマホで誰かと連絡をやりとりしている。

 

「さて、これで14日の観光予定、決まりねっ!」

 

恵ちゃんが喜ぶ。

 

「何? それって」

 

「日光よ。日光へ行くの」

 

「えっ?」

 

「正、会社の内定者の集いで15日に日光に行くんだろ?」

 

「なぜ知ってるの?」

 

「教授から聞いた」

 

「それで、明石先輩や皆んなの都合のいい14日の日光行きが決まったんです」

 

歩ちゃんが、当然のことを話す過去形の口調で僕に言う。

 

「あのさ……、僕も?」

 

「そうよ」

 

「何で? 二日連続?」

 

「みどりさんも誘いました。OKです」

 

「残念ながら、こずえちゃんは14日がダメみたいで、16日なら大丈夫と言ってました」

 

「あのさ……。どうしてオケのメンバーにも連絡が……?」

 

僕は恐る恐る聞いてみる。

 

「オーケストラにもみどりちゃん経由で連絡が入ったみたい。正くんの初夏の日光観光」

 

恵ちゃんがはしゃぐ。

 

「皆んな行きたいに決まってるじゃない! しかも、教授お墨付きの植物園の案内付きよ! あ・る・く、植物図鑑」

 

「まさか……、16日も?」

 

「今、スケジュールを調整中だそうです」

 

歩ちゃんが微笑む。

 

「大丈夫。正しくんなら」

 

ポンと僕の肩を叩き、恵ちゃんが、妙な自信を僕につける。

 

「あのさ……、3日間同じところへ。なぜ? 僕が行く?」

 

「皆んな皆んな楽しみにしているんだからさ。正も楽しもうよ」

 

「大樹、シャレにならないんだぞ」

「伊豆での2連チャンもキツかったんだよ」

 

僕はため息をつく。

 

「いい思いしたじゃない。三日間とも」

「特に初日はロマンティックな夜の海。2度目の伊豆はこずえちゃんと?」

 

「あそこから……、恋のスピード早まったよね」

 

今日、あの日と同じオレンジのワンピースを着て来ている恵ちゃん。色目を使われて恵ちゃんにそう言われると、返す言葉がない……。

 

「まあ、清水の舞台から飛び降りるつもりで」

 

恵ちゃんがカラカラ笑う。

 

「それさ、言葉の使い方間違えていない? 必死の覚悟をもって物事を実行することには間違えないけど」

 

「飛び込み甲斐のある華厳の滝があるわよ。97mの岸壁を一気に落下する壮大な滝」

「今頃はたくさんのイワツバメが滝周辺を飛び回っているの」

 

恵ちゃんは、両手の指を組んでクリクリした明るく遠い眼をする。

 

「3日連続で行くのは、不可解なりだよ」

「そうそう、何より教授が許してくれないよ。伊豆は無言でごまかしたけど」

 

「あら、浅野教授、アメリカ行きの決まった正には、まずは身も心もゆっくり休んで欲しい。観光とかいろいろと、って言ってすごく機嫌が良かったわよ」

 

「あた~っ。そんなこと言ってた?」

 

「うん」

 

「しかも、正くんの内定先から教授に直々に植物園の案内役任されたのよ」

「教授の鼻も高いに決まってるでしょ!」

 

恵ちゃんのスマホにLINEの着信音。

 

「こずえちゃんと隆さん、16日OK。ただ、隆さんの彼女の里菜さんと水野さんがダメみたい。レンタカーになるわね」

 

「三人で日光に行っても面白くないよ。やはり大人数じゃなきゃ」

「よかったよ。16日は却下」

 

僕はホッと胸を撫で下ろす。

 

「こずえちゃんが1年生のバイオリンの女の子を二人誘ってOK出たみたい。全部で五人」

 

「マジで……?」

「仕方ない、流れに身を任すしかないか……」


「まあ、気持ちの整理を兼ねてこれから少し音楽練で練習してくる」

 

「た~だしくん」

 

恵ちゃんが実験室の奥に僕を誘い込む。

 

「恋はすばやく育つものに見える、でも育つのに遅いもの、それも恋なのよ。ゆっくりいこうね、お互いに」

 

息の止まるような長いキス。

 

「こずえちゃんとは、もう、こんなの出来っこないように。おまじないだよ」

 

「何だ。こずえちゃんとのキスの事故、気づいてたの?」

 

「言ったでしょ。女は、男の未来に嫉妬する。しかと覚えておいてね」

 

「恵ちゃんしかいない。恵ちゃんしか見えない。そんな世界に自分は生きてる。事故は未然に防ぐよ」

 

「ありがとう正くん。本当にいい人見つけたよ、私」

 

 

ーーーーー

 

 

「正せんぱ~い」

 

「やあ、こずえちゃん」

 

こんなに早い時間。教養課程で授業のあるはずのこずえちゃんが、珍しく音楽練にいる。

 

「私、二コマ目休講だったんです。自主練です」

「練習したら、お昼一緒に食べましょう」

 

「ああ、いいよ」

 

「日光、楽しみですね!」

 

正直、3日連続の日光。全然楽しみじゃない。こずえちゃんは満面の笑み。

 

「くんくん。正先輩、ほのかに女の香りがします。恵先輩?」

 

「……」

 

「お昼前ですよ、まだ。呆れますです」

 

「まあ、気にしないで。恋は一日中から騒ぎだから」

 

「騒いだ割に、実にならない。ですか……」

 

「何をおっしゃるうさぎさん。ちゃんと実になってるよ」

 

「先輩、確実に実にも身にもなる、18歳の生娘はいかがですか?」

 

「それこそ真昼間から女の子が言う言葉じゃないよ」

 

そうは言っても、僕は少し照れる。こずえちゃんはフフフと笑う。

 

「あるんだ、私に興味」

 

「さあね。さて、少し練習するからね」

 

話を外らせる。

 

「はい、私もします」

 

30分も経った頃、こずえちゃんが第四楽章の練習番号16から19までの愛の旋律を奏でる。こずえちゃんは演奏中は笑顔ひとつ見せない。一貫して真面目顔。その横顔。新鮮ですごく可愛い。これは世の男の子たちはすぐに落ちるわけだ。

 

僕は、隆の演奏する1番ホルンの譜面を取り出し、こずえちゃんの伴奏を奏でる。こずえちゃんは、一瞬笑顔になるが、またすぐ真面目顔。二人だけの47小節のアンサンブル。素敵な時間と空間の狭間に入り込む。

 

「いい感じでしたね」

 

こずえちゃんが満面の笑み。

 

「ああ、こずえちゃんの奏でるメロディ素敵だよ。とても上手だね」

 

「正先輩の伴奏は少しいけません。隆先輩の方が全然上手です」

 

「あた~っ。痛いところ突くね」

「プロオケから誘いのあるレベルの隆には敵うわけないよ」

 

二人して笑顔。

 

「でも嬉しいです。先輩と奏でられて。素敵ですよね、この愛のメロディ」

 

「うん」

 

「どうしましょう? お昼過ぎました。ランチにしますか?」

 

「ああ、そうだね」

 

「恵先輩たちは誘わなくていいんですか?」

 

「聞いてみるね」

 

LINEの返事が返って来た。

 

「もう食べてるって。カフェテリアで」

 

「あら、恵先輩、正先輩なしでですか?」

「朝っぱらからの香りは、やはりから騒ぎでしたですか」

 

「まあ、なんでもいいよ。お昼、食べに行こ」

 

「たまに、廻るお寿司がいいです。駅東の」

 

「もしかして、こずえちゃんもあそこの穴子にハマっているの?」

 

「穴子?」

 

「穴子はまだ食べたことがないです。あそこのお寿司屋さんには、まだ入学してから2回くらいしか行ってません」

「私はアワビにハマってます」

 

「嫌い? 穴子?」

 

「まあまあ好きです」

 

「あのね、きっとハマるよ」

 

「楽しみです!」

 

「正先輩も私のアワビにハマりますよ! きっと」

 

「私のアワビって……」

 

「や~だ。正先輩いやらしい。お寿司ですよ! お寿司! 真昼間から何を考えているんですか」

 

こずえちゃんは僕の背中をバシンと叩く。

 

 

ーーーーー

 

 

「正先輩と二人きりのデート。大学の外での食事もいい感じです」

 

「何から食べよう。恵ちゃんスペシャルがオススメだけど」

 

「何ですか? そのスペシャルって?」

 

「最初にとろける大トロ、次にふっかふかの暖かい穴子、そして厚くてぷりぷりの生ホタテから頼むんだ」

 

「わあ、美味しそう。それにします!」

 

「もう、身も心もトロけます。ホックホクの穴子。これ、ハマりまくりそう」

「日本に生まれてきてよかった」

 

「そうそう、僕、来年アメリカに行くことになったんだ」

 

「いきなりアメリカ? ですか」

 

「その前に、身も心もトロけさせてください。私の穴子、じゃなくてアワビで……」

 

「だ・か・ら、こずえちゃん。それ、昼間っから言う言葉じゃないって自分で言ってたでしょ」

 

「から騒ぎです」

 

18歳の爽やかな可愛らしさは武器だ。気をつけよう。

 

『正、アメリカ行くんだって? お土産楽しみにしてるよ』

 

隆からLINEが入る。

 

『正くん。いつアメリカ行くの? 青い目の彼女でもできたか?』

 

『おみや、チョコレートウエハースとマカデミアナッツチョコレートでいいからね』

 

『貧乏なのに、どうやってアメリカ行くの? 歩いて?』

 

オケのメンバーの面々から次ぎつぎと僕のLINEにアメリカ行き、アメリカ土産についての連絡が入る。

 

 

ーーーーー

 

 

「正くん。誰かにアメリカに行くこと話したの?」

 

「うん、こずえちゃんに言った」

 

「やっぱり……。正確な情報を伝えなきゃ」

 

「いや、恵ちゃん。ちゃんとこずえちゃんには、来年に、と言ったよ」

 

「それが、来年、が取れて、すぐにでも行く風に話が広まったのね」

 

「情報って怖いね」

 

「そうよ。確か、正くんがこずえちゃんのアワビを頬張ったとかも噂になってるよ。どういう意味だかわからないけど」

 

「あたぁ……。怖い怖い。まあ、じきに治るだろうけど」

 

「私たちの事、皆んなに正確に伝えようか?」

 

「もう知っているよ、皆んな」

 

「その、もう、があやふやなのよ」

 

「でも、芸能人じゃあるまいし、交際宣言なんていらないでしょ」

 

恵ちゃんは、オレンジのワンピの裾を持って、首を傾げて右足を引き、お姫様の真似をする。そして、そっと右手のひらを丸めて僕に差し出す。

 

僕は少し恥ずかしくなる。

 

「わかった」

「こずえちゃんはじめ、オケのメンバーにはきちんと話しておくよ」

 

「もちろん!」

 

「何? 恵ちゃん。正から何か貰おうとしてるの?」

 

「いいえ、別に」

 

恵ちゃんはゆっくりと右手をしまい、大樹の方を素敵に振り返る。

 

「正さ、おじさんのところから紫や鮮ピンクのカーネーションのサンプルももらって来たんだけど……」

 

「紫の色素はシアニジン3、5ジグルコシド、鮮ピンクの色素はペラルゴニジン3、5ジグルコシドと言われている」

 

「ふうん」

 

「赤のカーネがペラルゴニジン3マリルグルコシド。あれっ? シアニジン3マリルグルコシドの花色は?」

 

「それは暗赤色。黒豆にあるアントシアニンと同じ色素だよ」

 

「正、いろいろ知ってるな」

 

「この際、これら代表的な4つの色素、液クロで流して、それぞれのリテンションタイム調べてみようか? 今後のためになる」

「A液は、1.5% リン酸。B液は、1.5% リン酸に40%アセトニトリル、50%酢酸溶液のままで行こうか」

 

「ままで行こうか? の、まま、の意味は?」

 

「ピークが重なってうまく分離しなければ、リン酸の代わりにトリフルオロ酢酸かギ酸を使ってみる」

 

「すごいな、正。どこで習うんだよ、そんな事」

 

「秘密だよ。ひ・み・つ」

 

「正くんには秘密が多いからね~」

 

恵ちゃんがカラカラ笑う。

 

「まあ、恵ちゃん笑ってないで。ギ酸の方でも移動相を作っておいて。A液も、B液も1.0%で」

 

「はいはい」

 

恵ちゃんは白衣をまとう。

 

振り向きざまに、

 

「犯人がわかったわよ」

 

たまにやる科捜研の女の真似。正直、もう見慣れすぎ。でも可愛い。僕の恵ちゃん。

 

「ちゃんと手袋はめてね。マスク、ゴーグルも。ギ酸危ないからね」

 

「はいはい」

 

「実験の時は、はい、は一度でいいよ」

 

「はい」

 

「やけに素直になったじゃん。恵ちゃん」

「アレやったら変わるな。女の子は」

 

「大樹。まだこずえちゃんには秘密だよ。ひ・み・つ……」

 

こずえちゃんからLINEが届く。

 

『正先輩。晩御飯、一緒にどうですかぁ~』

 

 

ーーーーー

 

 

実験室から恵ちゃんが帰ってくる。僕は慌ててスマホを伏せる。

 

「あれ? どうしたの、正くん?」

 

「いや、その……」

 

「なあに?」

 

恵ちゃんが優しい口調で僕に問いかける。

 

「こずえちゃんから晩御飯の誘いを受けてさ……」

 

「あら? 行ってきたら」

 

「いや、僕、恵ちゃんが……」

 

「欲しくて、かな?」

 

恵ちゃんが僕に真面目顔を至近距離に近づける。

 

「男でしょ。しっかりとこずえちゃんに言っておかなきゃ。私たちのこと」

 

「そう……、なんだけど……」

 

「何? その優柔不断な言葉」

 

「まさかとは思うけど、私たちに差をつけられないと感じて、私はもちろん、こずえちゃんとも付き合ってみる」

「そして付き合った感覚で差を見つけようとする」

 

「そういうの、ダメよ」

 

恵ちゃんに、こういう風に詰め寄られるとは思いもしなかった。

 

「全然迷わないよ。僕の答えは恵ちゃんだよ」

 

「うん、知ってるよ。ありがとう」

「これまで私をずっと見つめていてきてくれたことにも感謝してる」

 

「正くん。私の過去に嫉妬してるでしょ。わかるけど安心して。元カレはダメ男だったの」

「嫉妬はね。自分で生まれて自分で育つ化け物よ。自分以外の人には関係ない」

 

「あのね、女の子は、青春で一度や二度はワルい男に間違えて恋してしまうの」

「何も考えずに、自分の1番好きな人が自分の事を好きになってくれる。たったそれっぽっちの条件で恋に落ちちゃう時代もあるんだから」

 

「でも、だからこそ、イイ男に出会ったとき、こころから感謝する気持ちになれるのよ」

「それが正くん。私たちには互いに3年間の見定める期間もあったんだから」

 

「うん」

 

「いい。恋と可愛いから好きとは違うよ」

 

「恋は不思議よね。形も重さもない。大きさも深さも測れない。その正体を誰もみたことがないのに確かにある」

 

「こずえちゃんとはそういうものある?」

 

第65話

 

僕らはみどりちゃんから、カーネーションのCHI遺伝子、DFR遺伝子など遺伝子のクローニング、すなわちDNAの中から目的のタンパク質の情報を持った部分を特定し、その部分だけを単離し増幅する方法を優しく学んだ。

 

「みどりちゃんのおかげで、植物からどうやって目的の遺伝子を取り出すのか、改めてよくわかったよ。ありがとう」

 

「いいえ。実はこれ、意外に力仕事なんですよ」

「えいっ! って感じのひらめきを元に、作業作業です」

 

「目的の遺伝子部分の特定。これが結構難しいですね」

 

「隆は褒めてたよ。みどりちゃんは稀に見る遺伝子取りの達人だって」

 

「そんなことないです。隆先輩はすごいです」

 

「隆先輩の研究テーマは生物化学においての天然物化学、酵素、そしてゲノム編集を含む遺伝子工学と幅広いのに、全部楽々とこなしています。天才です」

 

「うちの正も、研究分野が幅広いのに、いろいろ楽々とこなしているんですよ~。凡才ですけど」

 

「恵ちゃん! 余計なこと言わない」

「まずは、みどりちゃんの話を最後まで聞こうよ」

 

みどりちゃんが話を続ける。

 

「天然物化学の目的は有用な物質を発見し、それが本当に有用であるかを確認し、もし有用ならば、その供給法を確立することにあります」

「天然物の単離、構造決定、そして合成です」

 

「なんだ、隆の研究、僕らの一連の色素の研究にそっくりだね。僕らには合成の研究はないけれど」

 

「ある意味、皆さんの研究は私たちの研究にとても近いんです」

「私たちの生命工学研究室の目的は、工学的に、例えばタンク培養などで目的物の合成を行う」

 

「皆さんの研究は遺伝子を見つけて植物に組み込む、あるいはその情報を基に育種をすることで、植物自身で、例えば色素の合成を行わせる、というところが少し異なります」

「私たちの研究は、研究の過程で発見される酵素利用、目的物を合成するための遺伝子利用、そしてその合成の工学的手法、そんな風に研究が繋がっていきます」

 

「正先輩方は、園芸学から少し離れた自由研究の中で天然物科学、遺伝子の研究をやっているからすごいと思います」

「正先輩や恵先輩の色素研究、義雄先輩の遺伝子研究。うまく繋がって、スムーズにことが運んでいると思います」

 

「いや、僕らの研究は大部分がみどりちゃんのおかげ」

 

義雄が照れ臭そうに答える。

 

「みどりちゃん。元々はね、どこかのおてんばさんが、カーネーションのオレンジ色の秘密を解明したいと言ったことから始まって……」

 

「繰り返しますが、うちにもいろいろな仕事を、スムーズにこなす凡才たちがいるんです」

 

恵ちゃんは、ニコニコしてみどりちゃんに話す。

 

みどりちゃんも微笑む。

 

「恵ちゃん、僕ら、楽々ではないよ」

「恵ちゃんのためだよ、全く……」

 

「そう、実は正しくん、目が回るほど忙しくて、でも、伊豆から帰ってきてまた再び伊豆に行く余裕があるんです」

「ただ、ご存知の通り貧乏です」

 

みどりちゃんが、大きめの笑い声でフフフと笑う。

 

「貧乏は余計だよ。二度目の伊豆はねぇ、みどりちゃんもよくご存知で」

 

「あのね、こういう句があるのよ、みどりちゃん」

「正くんに、つるべ取られてもらい貧乏」

 

「誰? そんな句を読んだのは?」

 

「さあ……?」

 

「朝顔や、つるべ取られてもらい水、でしょ?」

 

「句の意味は、ある朝、井戸に水を汲みに行ったらつるべに朝顔のツルが巻きついていて、水を汲むには、その朝顔を取らなければいけない」

「でも、あまりにもキレイな朝顔なので取ってしまうのはあまりに惜しいから、このままにして隣へ水をもらいにいきましょう」

 

「そういう意味だよ」

 

「どこから、つるべ取られてもらい貧乏、という発想が生まれる?」

 

「アメリカ行っても、1年間、庭師の給料だけだから、貧乏、しばらく続きそうだしね~」

 

恵ちゃんは、カラカラ笑う。

 

みどりちゃんも大きく笑う。

 

「何より、誰がアメリカ行き、僕に決めたんだよ?」

 

「あら? 誰だっけ?」

「もう流れができているし」

 

確かに、僕がアメリカ行きの流れに乗せられている。

 

「お祝いに、滅多に行かないけど、バーガーショップに行こうか?」

 

恵ちゃんが、急に思いついたように話し出す。

 

「カフェテリアの2階の、喫茶ラ・ヴァルスの奥隣」

「なんて言ったっけ?」

 

「トムズドックです」

 

みどりちゃんが答える。

 

「そうそう、トムズドック」

「確かアメリカンドックみたいのがあったと思う」

 

「あります! あります! 思い出しました」

 

「じゃあ、大樹くんはいないけど、みんなでお祝いね!」

 

みんなで、きゃっきゃ、きゃっきゃ盛り上がっている。

 

「アメリカンドック? あの、僕さ……、まだ……」

 

僕は実験室の方へ、恵ちゃんの手を引き連れ出す。

 

「あのさ、僕。1年間、恵ちゃんを抱けないなんて耐えられないよ」

 

「そうきたか……」

 

「下半身で答えないでよ正くん。正くんには賢い頭があるでしょうが」

「まだ6月よ。下の方は9ヶ月もたっぷりやれるじゃない」

 

可愛らしく首を傾げて、恵ちゃんが優しく微笑む。

 

 

ーーーーー

 

 

「さて、植物検定の答え合わせをするよ」

 

6月に入ってすぐの植物検定。有田先生が音頭をとる。

 

「実物テストの第1問目の答えは、スマイラックス。和名はクサナギカズラ。ユリ科シオデ属の多年草。南アフリカ原産。茎はごく細いつる状で、先のとがった卵円形の仮葉が互生するのが最大の特徴だよ。それだけでスマイラックスだと分かる」

 

「ラテン語のスペリングはSmilax」

「四人とも正解だね」

 

「第二問目の答えは、コノテガシワ。ヒノキ科の植物。コノテガシワ属唯一の現生種。枝が直立する様子が、子供が手を上げる様子に似ていることからコノテガシワの名がある」

「ラテン語属名は、Platycladus 」

 

「これもみんな正解ね」

 

「実物3問目はアカシア。大樹くんが間違えたね。まあ、葉だけだから仕方ないけど」

「ニセアカシアをアカシアと呼んでいた時代もある」

 

「アカシアは、マメ科アカシア属、ラテン語名Acacia。葉はご存知の羽状複葉。アカシアの仲間が日本に輸入されるようになり、区別するためにニセアカシアと呼ぶようになって、今でも混同されることが多い。本来のアカシアの花は放射相称の形状で黄色く、ニセアカシアの白い蝶形花とは全く異なる」

 

「四問目、これは正しくんと恵ちゃん以外不正解。簡単なのにどうした二人?」

 

「クェルカス。オークで、ブナ科、コナラ属、学名はQuercus。落葉樹であるナラの総称」

 

とにかく、採点が進む。200点満点で、160点取らないと資格はもらえない。

 

「今日、みんなが受けているのが3級。一番簡単なやつ」

 

実物テスト100点、植物の属する科名が30点、属名が70点ラテン語記述。そう、2級からは新しい植物が追加される。2級では、今回の3級の問題からは5%くらいしか出なくなる。レベルが上がるよ。

 

「さて、まずは採点してくるよ。1時間くらい待ってて」

 

有田先生は一旦自分の研究室に戻る。

 

 

ーーーーー

 

 

「どうだった?」

 

「まあ、3級は楽勝だね。ランも難しい種類は出ていないし」

 

「そうね。思ったより簡単だったわね」

 

「義雄は?」

 

「俺……、自信ない」

 

「大丈夫よ、義雄。何か気にかかることあったか?」

 

「実物テスト、花が出てくればほぼ大丈夫だけど、葉だけのものは正直自信ない」

「ナラ、ブナ、コナラ、カシだとか……」

 

「難しく考えるなよ、義雄」

 

「ブナの属名はFageus。ブナ科ブナ属。日本の温帯林を代表する落葉広葉樹」

「まず、それを覚える」

 

「ナラは、ブナ科コナラ属Quercus。英語名でオーク。これらの違いはわかるだろ?」

「カシというのがあるが、カシとはブナ科の常緑高木の一群の総称。これもQuercus」

 

「でも、同じブナ科でマテバシイ属のシリブカガシもカシと呼ばれ、シイ属Castanopsisも別名でクリガシ属なんだ」

「まあ、試験には出ないけど、ドングリはブナ科の木の実の総称であって、単にドングリという名前の木はないんだ。日本産のドングリの種類は20種類以上あるってところまでかな?」

 

「正、よく知ってるな」

 

「好きな人に、いいところ見せたいからだよ」

 

「あ~ら、私に? 恵ちゃんは、ほっぺたに両人差し指を当てて、ペコちゃん顔する」

 

「そうか! そういう考えに立てばいいんだ!」

 

「なんだ、今更。義雄もみどりちゃんに植物教えたいだろ?」

 

「ペチュニア、ケイトウ、ベゴニア、ヒマワリ、キバナコスモス、その他色々、普通の花壇のお花の名前もいいけど、学問としての植物。園芸、”植物を園に植える”芸、を伝えるんだ」

 

「悩んだ時は、植物を覚えるんじゃなくて、植物に覚えてもらう。そういう心構えがいいよ」

 

「僕らの名前を、覚えて欲しい」

「植物にも、心があるんだ」

 

「こころが伝われば、覚えてくれる」

 

 

ーーーーー

 

 

「はい。結果出たよ」

 

有田先生が、証書も準備して持ってくる。

 

「植物検定3級合格、櫻井恵殿。あなたは園芸学研究室における植物検定3級に合格したので、よってそれを称します」

「あと、佐藤正くん、林大樹くん。以下同文」

 

「あれっ? 義雄は落ちたんですか?」

 

「あと少し足りなかった。実物テストがね……」

 

「科名、属名のラテン語記載は、カーネーション、Dianthusだの、バラ Rosaだのキクだの、トルコギキョウ、シクラメン、ベコニアなどなど主に市場に流通してものから出題したから、皆ほぼ満点」

「義雄くんも、次は大丈夫と思うよ。いきなり2級からの受験でもいいし」

 

「いざやってみると、植物検定って面白いわね」

 

「うん。これまで頑張ってきて覚えた知識がぐっと引き締まるね」

「ラテン語属名を覚えることで、世界に通用する植物名を覚えることになるし」

 

「さすが、浅野教授のアイディアだね」

 

「恋人と行く如く心うれしく、自然と共にわれは歩まん」

「恵ちゃんへの、今の僕の心だよ」

 

恵ちゃんは嬉しそう。自分のお腹を優しくさする。

 

あれっ? そうだ。今日で僕の……、が恵ちゃんのお腹から居なくなる日。

 

確認。僕が恵ちゃんに手のひらを出す。恵ちゃんは優しく、手のひらに○を描く。いいわよ、の意味。恵ちゃんは目でも僕に返事をしている。

 

「何、何? それ?」

 

外野がうるさい。

 

「僕、一旦外出するから」

 

「大樹くん、義雄くん。じゃあね。私は帰る」

 

恵ちゃんは僕に関係なく別に帰宅するフリ。

 

「正と恵ちゃん、完全にできちゃったな大樹」

 

「ああ。どうする」

 

「見守る。俺も歩ちゃんとなんとかして、エッチする」

 

「そう……。俺はみどりちゃんと、まずは友達から。仲良くする」

 

「やはり、正にはかなわなかったか。貧乏じゃない以外……」

「正、男からみてもいいやつだもんな」

 

 

ーーーーー

 

 

僕は一度果てる。

 

「こんなに可愛い顔して、素敵なからだ。過去に誰かが抱いていたなんて、考えるととても悔しいよ」

 

「あら、正くん、嫉妬深くて意外に小心者なのね」

「もっと、心広く、おおらかかと思った」

 

「しかし、アメリカ行き、僕が行きますと返事した時の正くん、ワイルドで格好よかったな」

 

「なかなか即断できないよ。内定もパーになるし」

 

「うん。ただ教授の言う、文化としての園芸を世界の場で学びたくなって」

「花色分析や遺伝子研究も確かにいいけど、それらの知見を生かした上での園芸や、さらには育種、やってみたい」

 

「うん。正くんの進む方向性、いいと思う」

「私好きよ。そう言う貪欲な正くん」

 

「もう一度、してくれる?」

 

「うん」

 

「私への貪欲さも好き」

 

 

ーーーーー

 

 

「正! 正はいるか?」

 

「浅野教授、どうしたんですか?」

 

大樹と義雄がビビる。

 

「鼻くそみたいなお前たちじゃなくて、正に用事がある」

 

浅野教授は鼻息を荒くしている。

 

「正は今、一時外出をしていて、もうすぐ戻ると思いますけど……」

 

「女なんかとイチャイチャしているんじゃないんだろうな?」

 

「それも、あるかもしれません……」

 

「真昼間からか?」

 

「教授。もう夕方です」

 

大樹と義雄が冗談なしに真面目に教授と受け答えする。ひと言いい間違えただけでトラブルになる危険性のある二人。教授との会話にはとても気を使う。

 

「正が帰ってきたら、すぐに教授室に来るよう伝えておいてくれ」

「何時まででもいる」

 

教授の気が荒い。

 

教授室に黙って戻るかと思いきや、思い出したように、

 

「そうだ、義雄。なんて無様だ」

「来月の植物検定3級落ちたら、工学部の大学院行きは無しにするぞ」

 

「教授、それはご勘弁を……」

 

ブツブツ言いながら、教授は自分の部屋に戻る。まさに、熊が出て、熊が去った。そんな獣くさい空気が研究室に流れる。

 

「正に何の話だろうな?」

 

「アメリカ行きについてかな」

 

「多分そうだろ」

 

「でも、息が荒いわりには、悪い話じゃなさそうな雰囲気だったな」

 

「確かに」

 

大樹がコーヒーを入れる。

 

「大樹、これ濃すぎるぞ」

 

義雄が文句をつける。

 

「すまんすまん。砂糖でごまかしてくれ」

 

「砂糖でごまかすか……」

「荒い中にも甘みがあるか」

 

「ただいま」

 

「おう正。何してきた?」

 

「うん? いや……、その……」

 

「だいたい分かっているから、すぐ教授室に行きな」

「浅野教授。正にすごく大事な用事があるらしい」

 

「何だろ?」

 

「まずはシャワーでも浴びて来いよ」

「恵ちゃんの、女の香りがするから」

 

大樹が言う。

 

「いや、このままですぐに行く」

「シャワーを浴びて来ました、なんて言ったら、教授どうなる?」

 

「確かに……」

 

 

ーーーーー

 

 

「教授。入ります」

 

「おう、正。まずは座れ」

 

教授直々にコーヒーを入れてくれる。とんでもなく濃くてまずい。南米の教授お気に入りのコーヒーらしいが。

 

「正の内定先の会社と連絡を取ったんだが、内定を取り消すどころか、社員になってもらった上で、是非アメリカの植物園で研修して来てほしいと言う先方からの意向だ」

 

「えっ! 本当ですか?」

 

「ああ。今の時代、グローバルな時代感覚を持った研究者の卵が欲しいらしい」

「よかったな」

 

「はい! みんな、教授のおかげです」

 

「今月の15日には、内定者の集いで、日光観光があるらしい」

「植物園では、正を案内人としたいとのことだ」

 

「えっ? 僕が……、ですか?」

 

「ああ。俺の生徒なら間違えないと言っていた」

「詳しいことはまた後でな」

 

「はい、それでは失礼します」

 

「待て、正」

 

「はいっ?」

 

「青春だな」

「シャワーでも浴びてこい」

 

教授が穏やかな口調で、珍しく素敵な笑顔を見せる。

 

第64話

 

「じゃあ、正、義雄、恵ちゃん。おじさんのところへ、カーネーションのサンプリングに行くね。歩ちゃんと」

 

「おう、気をつけてな」

 

「ああ、今日はあいにく小雨混じりの天気だし」

 

歩ちゃんが研究室にひょっこり顔を出す。

 

「おはようございます」

 

「おはよう、歩ちゃん。相変わらず可愛いね」

 

「あら? 正しくん。そういえば最近私には言ってくれなくなったわね。可愛いって」

 

おいおい、そんなこと言うより、もっともっとすごいことしてるじゃないか。ねえ、恵ちゃん。

 

口に出さず、目で念を送った。

 

「女の子はね……、いつでも可愛いとか好きとか言われたいものなのよ」

 

「あの、皆さんにクッキー焼いてきました」

「お茶の時にでも食べてください」

 

「ありがとう、歩ちゃん」

 

「したっけ、出かけるね」

 

「おう、じゃあね!」

 

「歩ちゃん、大樹にお昼ご飯作ってきてくれたんだって」

 

「大樹。恥ずかしさを隠して行ったな」

「いいなあ」

 

義雄が羨ましがる。

 

「ところで、大樹はしたっけっ、てたまに使うけど何?」

 

「そしたら。じゃあね。みたいな北海道の方言らしい」

「歩ちゃんと一緒に出かけて緊張してて、ついつい方言が出たんじゃないか?」

 

「何だか、正には悔しいけど恵ちゃんがいるし、大樹には歩ちゃんがいる」

 

「おいおい、義雄にもみどりちゃんがいるだろ?」

「この前2度目の伊豆に行った時、みどりちゃん、義雄の名前が出た途端、顔を赤らめて照れていたぞ」

 

「うそ! マジか、それ!」

 

「ああ、本当だ」

 

「全然、脈なしだと思っていたんだけど」

 

「全然、とんでも脈ありだよ」

 

「そうだ、みどりちゃんを農学部に呼んでみようか?」

 

恵ちゃんの提案。

 

「何だ。なんでこれまでそんな簡単なことに気づかなかったんだろう」

「義雄が工学部に行くだけだったもんな」

 

「こっちへ来てみて、みどりちゃんの義雄くんに対する反応がわかるわよ」

 

「義雄の黄色のCHI遺伝子、オレンジ色に関わるDFR遺伝子、動く遺伝子。プレゼン資料もまとまってきたし。皆んなで打ち合わせしよう。みどりちゃんを呼んで」

「お茶菓子のクッキーもある」

 

「呼んでみる?」

 

恵ちゃんが乗り気。

 

「ああ……、いいよ」

 

義雄は、少し不安げ。

 

僕はみどりちゃんにLINEを打つ。

 

「大丈夫みたい。これから来るって」

 

「みどりちゃん、きっと僕らの2Fの研究室はわからないだろうから、僕と恵ちゃんで農学部の正面玄関に迎えに行くよ」

 

ピンクの傘がやって来る。みどりちゃんだ。

 

「こんにちは、みどりちゃん。相変わらず可愛いね」

 

「だから、正しくん、私には最近……」

 

だからすごい関係になったんだよね。恵ちゃんとは。ねっ! と改めて視線を送りつつ、

 

「恵ちゃんも可愛いし、みどりちゃんも可愛い」

「嬉しい研究室になったね、みんな」

 

まあ、この場をまとめる。

 

「さて、クッキー食べようか」

 

「ハーブティーにしよう。この前とは違うわよ!」

「セージ・ミント・レモン風味のハーブティにしましょう」

 

恵ちゃんは、小雨の中、セージの葉、ペパーミントの葉、レモンバームの葉を農場に取りに行く。

 

セージの葉、2-3枚、ペパーミントの葉2-3枚。

レモンバームの葉4-5枚。、ハートの形の角砂糖一つ。

 

「すっきりした香りでリラックス、カフェインなしのハーブティー。そのまま飲んでもよし、お好みの甘味料を加えてもよし」

「セージは強い抗菌・抗ウイルス作用を持ったハーブなのよ」

 

「いいですね」

「工学部ではこんなの飲めませんよ、というより、ハーブティーが頂ける環境じゃない」

 

「それはそうだろう。僕らの研究室に、工学部にあるロボットで入れるコーヒーマシンーが無いように」

 

「クッキーもすごく美味しい、サック、さっく。しっとり感もある。」

「恵先輩、作ですか?」

 

「これ、歩ちゃんが作って来たの」

 

「素敵な味です」

 

みどりちゃんが、優しく微笑む。

 

 

ーーーーー

 

 

「園芸学研究室の部屋って、鉢物のお花や、観葉植物がいっぱいあると思ってました」

 

みどりちゃんが植物が何も無い、殺風景な部屋を眺めて気になったらしい。

 

「植物は、できるだけ本来居るべき環境に置いておく。これが教授のポリシーなの」

「だから植物は、外に地植えしたり、鉢植えして温室に置いたり、熱帯温室に置いたり」

 

「切り花以外は部屋には置かないの」

 

恵ちゃんが説明する。

 

「部屋に植物を置いて、枯らしたりなんかしたら研究室の沽券に関わるから。そう思っていた」

 

義雄が呟く。

 

「それも無いとは言えないけど、やはり自生地に環境が似ている居心地のいいところにある植物が、一番生き生きしてる」

「本来のあるべき姿。それを発揮する環境に置かないと。植物も人もそうだよ」

 

「正くんのいう通りね」

「恋をするのも相手、もの、場所は、本来の生き生きする環境に抱かれていないとね」

 

「私は美しい切り花みたいなものだから、どこにいても可愛いけど」

 

「それはそうと、みどりちゃんのおかげで、カーネーションの黄色花の秘密や、オレンジ色になる秘密が遺伝子レベルで解明されてきて助かるよ」

 

「いいえ、義雄さんの熱意の賜物です。エクソンにのみ特異的に挿入されるとても珍しいトランスポゾンを見つけたり」

「今は、カルコンを配糖化する遺伝子、すなわち、黄色花でカルコノナリンゲニン2’-O-グルコシドを生成するGT遺伝子も探し始めているんです」

 

「それ、大事だよね。とても」

 

僕は身を乗り出す。

 

「まず、黄色花の蕾中の花弁から全てのRNAを抽出してmRNAを調製し、cDNA、つまりmRNAから逆転写酵素を用いた逆転写反応によって合成された二本鎖DNAを準備しました」

「カルコノナリンゲニン2’-O-グルコシドを生成する遺伝子、GT遺伝子の候補となるcDNAは、縮重プライマーによる PCRスクリーニングという方法で単離、得られたPCR産物をベクターに導入した後、シークエンス解析を行ないました」

 

「そして、遺伝子の相同性からGTをコードすると思われるcDNAを二十数種類単離したところなんです」

 

「なるほど、細胞から全てのmRNAを抽出し、逆転写酵素を使って、DNAを作り、そこからcDNAを合成すると、もともと細胞内にあったすべての種類のmRNAがまるごと安定したcDNAに写し取られることになる」

「そこから、他の植物などのGT遺伝子に似ているものを選択したんだ」

 

「そうだよね?」

 

「そうなんです。今、まだその段階ですけど、義雄さんに手伝っていただいているので、思ったより今後の進展が早そうです」

 

「これからどんなことをするの?」

 

「これから二十数種類のGTをコードすると思われるcDNAの全長を5’および3’RACEによって単離。そしてこれらをベクターにクローニングした後、大腸菌に導入し培養した後、ホモジナイザーで破砕。これを遠心し、上澄み液を酵素液として活性の測定に用います」

「その際の反応基質としてはアントシアニンの生合成経路の中間代謝産物などを用います。この酵素液について、TLC分析、HPLCおよび14CUDP-グルコースを用いた液体シンチレーターによる分析を行います」

 

「難しくて分からないこともあるけど、何だか遺伝子取り、上手くいきそうだね」

 

「それはまだわかりません」

「カルコノナリンゲニンを基質とし、カルコノナリンゲニン2’-O-グルコシドを生成する遺伝子が拾えればいいんですが……」

 

「義雄は、何だか面白い研究や、みどりちゃんもいて今後、明るい未来が開けてるね」

 

「自分でも、目の前が明るく、色々な研究が面白くなって来たんだ」

「みどりちゃんのおかげだよ……」

 

義雄は恥ずかしげに答える。みどりちゃんも恥ずかしげ。

 

「カルコノナリンゲニン2’-O-グルコシドを生成する遺伝子については、今作成している二つの論文には、まだ含めることはできないね」

「でも、さらに近未来の論文がまた一つ増えた」

 

「おう、皆んな」

 

「はいっ! 浅野教授」

 

「大樹はどこだ?」

 

「今日はおじさんのところにカーネーションの花のサンプリングに行ってます」

 

「そうか……」

 

「アメリカ行き、候補は決まったか?」

 

「あの、たっ……、た・だ……」

 

僕は恵ちゃんの口をふさぐ。

 

「いや、昨日の今日では……」

 

「俺がアメリカに人を送りたい理由は、園芸とは何か、すなわちHorticultureの真髄を知ってもらう若者を育てたい、そしてその後、後輩を育てて欲しいんだ」

 

「園芸の芸とは”植える”こと、つまり園芸は”植物を園に植える”という意味なんだ」

「文化的な園芸とは、植物を絶対的な素材とした美的文化、芸術。園芸は武道や詩歌、音楽などの諸芸道と同等の存在として列する」

 

「もちろん、文化としての観賞園芸だけでなく、産業としての生産園芸もある」

「今ここで誰かに、園芸、それが何かを学んで来て欲しいと思っている」

「そして、その場所を準備した」

 

僕は少しこの言葉に心がなびいた。園芸。文化としての園芸。素敵な響きだ。

 

「花色研究、遺伝子工学も、生命工学もいい」

「ただ、真の園芸を身につけた、それらの研究に当たる資質の人間が必要なんだ」

 

「園芸あっての花色、遺伝子の研究」

「花色、遺伝子の研究のための園芸じゃないんだ」

 

浅野教授はそう言うと、そそくさと教授室に去っていく。

 

「すごい勢いの教授がおられるんですね」

 

みどりちゃんはヒグマのような教授の話しかたに圧倒されて少し驚いたらしい。

 

「アメリカ……、誰か行かれるんですか?」

 

「実はね。もう決まっているのよ」

 

恵ちゃんがまた僕の分身のいる下腹をさすりながらそう呟くと、皆んなの視線が僕に集まる。

 

第63話

 

「皆んな、ちょっと来い」

 

浅野教授が渋い顔で、教授室に僕たち四人を呼ぶ。

 

唐突に、

 

「アメリカに行きたいやつ、いないか?」

 

僕らはきょとんとする。

 

「一人でいいんだ。一人」

「男、女は関係ない」

 

浅野教授の話には期間がない。僕が聞き役の雰囲気になる。恐る恐る尋ねる。

 

「どのくらい? ですか?」

 

「卒業後すぐ、1年間。1年でいい。いや、希望すれば1年以上でもいい」

 

「留学? ですか」

 

「いいや、留学じゃない。植物園で働いてもらう」

 

「働く?」

 

小さく震えた皆んなの声が揃う。

 

「ああ、庭師みたいな仕事だ。旅費、住宅、高熱費はタダ。自炊。多くはないが、それなりの給料は出る」

 

「僕と大樹は来春の内定が決まっています」

「恵ちゃんは大学院、多分義雄も大学院……、だよな?」

 

「いや、まだ未定だけど……」

 

教授室が静まり返る。

 

「誰かが行く代わりに、相手先からも人が来る」

 

「交換留学みたいなものですか?」

 

「それとは違う。まあ、お互いボランティアに近いイメージだ」

「向こうから来るのは、34-5歳の男の庭師の予定だ。もちろん、英語しか話せない」

「研究室だけでなく、学部の国際化にも一役買ってくれるだろう」

 

教授は、マイアミにある植物園のパンフを皆に配る。しんと静まる時間が流れる。

 

「即答は無理ですよ……」

 

僕が場の雰囲気を読みながら返答する。

 

「ああ、戻っていい。ただ、君たちのうちの誰かに頼みたい。それだけだ」

 

僕らは教授室を後にする。

 

「アメリカだって。そして植物園。しかも研究ではなく労働」

「教授の狙いは何なんだろうね?」

 

「実学を通じてグローバル感覚を研ぎ澄ますためかな?」

 

「それはありうるな」

 

「庭師は大変な仕事だよ。花木の植え替えや、植物園の植物の手入れなど」

「時に、かなりの肉体労働を強いられるよね」

 

「でも、男女構わないと言ったから、恵ちゃんも候補ということだよね」

 

「そうね……」

 

「内定組の僕と大樹は無理だね」

「僕は解禁日の10月1日には、東京ディズニーランドに丸一日軟禁される」

 

「俺は札幌でゴルフ」

「義雄の内定先は?」

 

「横浜港クルージング」

 

「皆んな色々あるのね。就職戦線、内定組」

 

「私、行こうかしら?」

 

「えっ?」

 

「うん。アメリカ」

「大学院はアメリカから帰って来てからでもいいし、海外、興味ある」

 

僕はこの言葉に驚いた。恵ちゃんが、青い目をしたイケメンのボーイフレンドに取られたらどうしよう。そうではなくて、心を繋げておいても、体は異国。恋の進展が確かめられるのか?

 

「恵ちゃん? 本気?」

 

「いや、冗談よ」

 

僕はホッとする。恵ちゃんには社会に出ても、いつでも会える距離にいたい。

 

「そうなると、義雄……、か?」

 

話の流れで義雄が三択を責められる。就職か、大学院か、あるいはアメリカか。

 

浅野教授がまた僕らの研究室に来る、別件だ。

 

「お前たちの論文。二つに分けよう」

 

「黄色花の発現機構があって、オレンジ色の発現機構がある。もちろん遺伝子の話も織り交ぜられる」

 

「論理はできている。ただ、ストーリーにすると3つも、4つも流れができる」

「よほどの達人じゃなきゃ、この2つ、3つの発見のストーリーを1つの論文に織り交ぜて説明できない」

 

「1つの論理で、1つか2つのストーリー」

「そうまとめて欲しい」

 

「黄色花の色素パターン、カルコンの構造決定、そして発現機構でペーパーを一つ、オレンジ花は推察の部分が多いから、これまでの知見をノートにして一つ」

「二つの科学論文に仕上げてくれ」

 

「正、お前の腕の見せ所だろ?」

 

「は……、い……」

 

浅野教授には逆らえない。

 

「腕の見せ所だろ?」

 

そうおうむ返しして恵ちゃんは、僕の腕を実験室まで引っ張って行く。

 

「もし私、万が一アメリカ行ったらどうする?」

 

「遠距離恋愛……、かな?」

 

「まだしっかり恋愛していないじゃない」

 

「うん……」

 

「私、いい会社で平サラリーマン研究員から、出世して優秀な研究員になって活躍していく正くんを見たいよ」

「でも、アメリカ行きの件、私、正くんが一番向いているな~と思って」

 

「えっ?」

 

「私の体でも何でもあげる。挑戦してみない? アメリカ」

 

そう言って僕に長いキスをする。息がつまるほど。

 

「ランのコーナーには蝶々、ハチドリが舞う温室。夢のような世界よきっと」

「園内には、温帯植物、熱帯植物が混在してる。庭師の腕の見せ所」

「しっかり言うね。私、正くんに行って欲しいの。アメリカに」

 

恵ちゃんの言葉。心が揺れる。

 

「今日の帰り……、正くんのアパートに寄っていい?」

 

「ああ。汚くしてるけど……、いいよ」

 

「シャワー、ある?」

 

「うん。ある」

 

「じゃあ、今日夕方6時頃、一緒に帰ろ」

 

「うん」

 

「私たちは1つの論理で、1つのストーリー」

「単純に行きましょ」

 

「今はまだ、無垢な恋だから」

 

 

ーーーーー

 

 

「ありがとう」

 

「こちらこそ、ありがとう」

 

僕は恵ちゃんの秘部を、優しくティッシュで拭いてあげる。

 

「恵ちゃん……」

 

「何?」

 

「素敵に乱れるんだね」

 

「あら、いやらし言い方」

 

「いや、その……」

「もしかしたら、初めてかもしれないと思っていて……」

 

「そうよ、女の子はいつでも初めてよ」

 

僕は少し俯く。

 

「あら? 嫉妬?」

 

「うん……」

 

僕はポツリと呟く。

 

「男の子って女の子の過去に嫉妬するんだよ。きっと」

「こんな素敵な恵ちゃんを抱いた人がいたなんて……」

 

「フフフ。正くんらしく無いよ。独占欲からくる、不可逆的な後悔」

「あっさりしてないね」

 

「でもね、女の子は男の子の未来に嫉妬するの」

「今、私、正くんに抱かれて、何だかちょっぴりそんな気分」

 

恵ちゃんはテキパキと服を身にまとう。そして、ニコニコしてポンポンと軽くお腹を叩く。

 

「どうしたの?」

 

「うん? ここに正しくんのものが生きているんだな~って」

「精子は3日くらい寿命があるらしいよ。最長で7日とかも言われてるし」

 

「そうなんだ。知らなかったよ」

 

「女の子には大切な知識よ」

「今日もちゃんと基礎体温計ってきているし」

 

「正くんの分身が、私の中で3日は一緒にいると言うこと」

 

「なんだか、僕は嬉しいね」

 

「私もよ」

 

「さて、帰りますか」

 

「駅まで送るよ。箱入り娘さん」

 

「うん」

 

「入る箱がもう一箇所増えちゃったね」

 

恵ちゃんが素敵に笑う。

 

 

ーーーーー

 

 

「おはよう」

 

「おはよう、正」

 

大樹と義雄がモーニングコーヒーを飲んでいる。

 

「アメリカ行きの話をしてたんだ」

「どうする?」

 

「何も、すぐ答えを出さなくてもいいんじゃないの?」

 

「浅野教授が即答を求める派なの、正もよく知っているじゃないか」

 

「ああ、まあな」

 

「今二人で話してたんだけどさ、アメリカ行き、正が一番向いているんじゃないかって」

 

「何で?」

 

「英語もできるし、フレキシブルな頭もある」

「いろいろな変化に柔軟に対応できる」

 

「皆んなだってそうだろ?」

 

「いや、俺はあまり重荷を背負わないで、楽に人生を生きていきたいタイプ」

「だから、就職もおじさんの会社にした」

 

「義雄は、まだ進路を決めていないが、柔軟性に欠ける性格」

「もちろん、培養や遺伝子研究などには卓越した能力を発揮する研究者タイプだけど、植物園の管理に関わるような玉じゃない」

 

義雄も話し出す。

 

「俺は、就職をやめて工学部の大学院に行きたい。今強くそう思っている」

「内定を断ることは怖いけど……」

 

「なあ、こう言う優柔不断なところが義雄にもあるし」

 

「正だよ、正」

 

「おはよう」

 

恵ちゃんが研究室に入ってくる。カルコン色、お気に入りになった黄色の素敵なワンピ姿。

 

恵ちゃんは僕にウインクして、お腹をポンポン叩く。

 

「おいおい、今の何? 正を見つめての恵ちゃんのその仕草」

 

大樹が問う。

 

「うん? 朝ごはんを少し多めに食べてきた、とでも言いましょうか」

 

僕は嬉しくて下を向き、ほくそ笑む。

 

「朝から何だか会議のようね」

「私も入っていい?」

 

「ああ、いいよ」

 

「アメリカ行き。正しかいないんじゃないかと皆で言っていたんだ」

 

「実は私もそう思うの。チャンスよチャンス。若い時に世界を見るのよ」

 

「あのさ、でも庭師だよ。1年後の保証は何もないし」

「何より、今内定している会社に申し訳ないよ……」

 

「誰も行けない。これも僕らの答えじゃないかな?」

 

「おはよう、皆んな」

 

有田先生がこめかみを人差し指で擦り擦りやってくる。

 

「いや、困ったよ……」

 

「どうしたんですか?」

 

「教授がアメリカの植物園との交換留学生ではないけど、交流のためにあちらから一人招き、こちらから一人送ると言う約束を何処かとしたみたいで」

 

「知ってますよ。僕ら皆、昨日教授室に行って聞きました」

 

「最悪誰も行けなかったら、僕に行けと言われて……」

「返事は、3日以内らしいんだ」

 

「3日!」

 

研究室に沈黙の時。

 

3日と聞いて、恵ちゃんは、僕のいる自分のお腹を優しく撫で、微笑む。

 

「正くんが行きます」

 

「めっ、恵ちゃん……」

 

僕は慌てる。

 

「若い時の時間は限られているのよ。安定か冒険か。何を選択するかどうか考えるよりも、降ってきたチャンスを生かすことが大事」

「正くんならアメリカを選ぶ。アメリカで仕事だけじゃなくて自由を学ぶ。FreedomとLibertyを」

 

「自分を取り囲む外の世界のことではなく、自分の心から発して自分から追究する自由がFreedom。仕事も恋も」

「Libertyは差別、抑圧、束縛などから解放されて勝ち得た自由。世界中で、おびただしい人々の血もたくさん流れた。自分を取り囲む世界において、法律、ルールを遵守した上での社会での自由」

 

「私、今、何だか正くんが育んでいく二つの自由を一緒に抱いている気分」

「こころが言うのよ。まずはやれ。話はそれから」

 

僕は柔らかな、僕の分身のいる恵ちゃんのお腹を見つめてこころから思う。

 

この子、本当に好き。男としての自信と、勇気をくれるこの子が。

 

第62話

 

静かなお昼前の陽だまりの研究室の中、三毛にゃんがニャーニャー言って餌を欲しがり、僕の足元にすり寄って来る。

 

「あら、最近私のところへは来ないのね」

 

恵ちゃんがポツリと呟く。

 

「自分はメスだということに意識し始めたからだろ?」

 

大樹が鼻で笑うように答える。

 

「そんなことあるわけないじゃない。ただの気まぐれよ」

 

もう、固形のエサも大丈夫。もちろん厳選したエサをあげている。強力な人工防腐剤のないもの。着色料の無いもの。カサ増しのビートパルプの無いものを選んでいる。

 

三毛にゃんが美味しそうにカリカリとエサを食べている時、有田先生がやって来る。

 

「皆んな。薬学部で三年生が精製してきたカルコンとペラルゴニジン3グルコシドの99.99%の純品持ってきたよ。数ミリグラムしかないけど。二次元NMRのデータもある」

「黄色のカルコン色素は、カルコノナリンゲニン2’-O-グルコシド、赤色のアントシアニンは、ペラルゴニジン3マリルグルコシド、つまり、ペラルゴニジン3グルコシドにリンゴ酸が付いている色素」

 

「いろいろな論文を見てみると、カーネーションのアントシアニンには、特異的にリンゴ酸が付いているらしいね。マリル、がリンゴ酸のこと」

 

「アントシアニンに付く有機酸は、カーネーションではリンゴ酸、キクではマロン酸、アサガオにはカフェ酸など、植物によりアントシアニン色素に着く特異的な有機酸が決まっているらしい」

「ペラルゴニジン3マリルグルコシドは既知のものなのでともかく、カーネーションの黄色色素が、カルコノナリンゲニン2’-グルコシドではなく、カルコノナリンゲニン2’-O-グルコシドであると構造決定したのは僕らが初めてだよ」

「これまでは、カルコン2’グルコシドである、というところで研究を終えていたから」

 

「論文、急がなきゃね」

 

「急がなきゃね」

 

恵ちゃんが相変わらずの先生の言葉のおうむ返し。

 

「さて、正、恵ちゃん。まずはランチだ。何にする」

「今日の生協のA定はスープカレー。B定は鮭フライのハニーマスタードソースみたい」

 

大樹が僕と恵ちゃんに伺いをたてる。

 

「B定、美味しそうね」

 

恵ちゃんが反応する。

 

「僕はスープカレーかな? 大樹は」

 

「今日はア・ラ・カルトにする。定食はいいや」

 

「生協で決まりね」

 

僕は内心ホッとする。

 

こずえちゃんはカフェテリアが大のお気に入り。生協に来ることはまずありえない。

 

時間が経てばなんとも感じなくなるだろうが、昨日の今日でカフェテリアでこずえちゃんに出くわすのは避けたい。事故とはいえキスをした。バナナワニ園のモンステラの陰で。

 

生協のレストランが少し混んでいる。

 

「正せんぱ~い」

 

えっ? なんでここにこずえちゃんがいる?

 

オケの1年生達と一緒だ。大学では、意外に学部の友達より、サークルの友達との付き合いのほうが深くなる。

 

「先輩、何食べるんですかぁ~」

 

「ああ、A定だよ」

 

「私も同じです! 運命ですぅ~。シンクロニシティーですぅ~」

 

「あら。こずえちゃん、こんにちは」

 

「こんにちは、恵先輩」

 

どうしてこういう状況が起きる? 教員と学生。1万人規模の大きなキャンパス。カフェテリア含め、食事処は数多い。統計的には、こずえちゃんに会うなんてなかなかありえない確率。

 

「一緒の席でもいいですか~?」

 

「いや。僕らは今書いている論文とかの話があるから別のテーブルで……」

 

「あら。残念ですぅ」

 

「いいわよ、こずえちゃん」

「お昼ご飯に勉強は持ち込まない」

 

「でしょ?」

 

恵ちゃんは僕に横目で合図する。

 

「さて、一緒にランチしましょう」

 

 

ーーーーー

 

 

「そうなんですか、正先輩忙しいですか……」

 

「だから、ホントは伊豆に行ったりする暇なんかなかったんだよ」

 

「でも、おととい、伊豆で思いっきり楽しい踊り、してたじゃないですか」

 

「まあ……、それはそれで別な話で……」

 

「農学部、もちろん理系ですよね」

「理系の人は、理学部、工学部とか卒論で忙しいと聞いてます」

 

「正先輩も大変なんですよね?」

 

卒論、色素研究会、学会発表、そして論文。大変なんてもんじゃ無い。もちろん、定期演奏会も。恵ちゃんに聞いてもらうための、僕の音楽に込める青春の集大成……。

 

「教育学部一年次は今の所忙しくないです」

 

「ただ、二年生からは、教育インターシップ、教育実習など入ってきますし、三年生からは小学校の教育実習、四年次は特殊支援学校実習など実習で忙しいです」

 

「僕もあと教育実習の単位を取れば、高校の教員免許をもらえるんだよ」

 

「そうなんですか!」

 

「うん。今、こずえちゃんの受けている児童心理学の単位も取ったしね」

「でも、必須の教育実習には行ける見込みがない、というより申請しなかった」

 

「もったいないです」

「先々、何かの役に立つかもしれないのに……」

 

「就職も内定したし、三年間、塾の講師をしてきたからね。それで、もうなんだか満足」

 

「そう、正くん塾の英語の先生してたもんね」

 

恵ちゃんが思い出したかのように話す。

 

「正くんの先生ぶり、見てみたかったなあ~」

 

「こずえちゃん。例えばさあ、現在完了形は現在から見て、現在と関係する過去の出来事を述べる。過去完了形は過去の一点から見て、その過去と関係するそれ以前の出来事を述べる」

「過去完了進行形。過去の出来事の動作が続いていることを表す。未来進行形は、未来のある時点で進行中の動作を表す」

 

「これをhave、had、と過去形や過去分詞、現在形、willでの未来完了形を交え普通の中学生に教えてごらん」

 

「塾の生徒に例文を書いて、図示もして、どんなに分かりやすく頑張って教えても、2割くらいしか完璧に覚えてくれないんだ」

「中には、完了形で出てくるbeって何? be動詞って何? という英語の根本から理解していない子もいることも分かってくる」

 

「そうなんですかぁ~」

 

こずえちゃんが、ポカリと口を開ける。

 

「こずえちゃん。教えるって根気のいる仕事なんだ」

「相手がなぜ分からないかを分かるようになること。それが大切だよ」

 

「ただ、同時に、分かってもらうという押しの気持ちも大事、いわゆる熱意、というのかな?」

「そして何より相手に好かれること。これ、一番大事だよ」

 

「私、先輩のこと好いてます」

 

「それは……、ねえ、恵ちゃん。話が逸れてるよね……」

 

「いいえ、逸れてないわよ。勉強も恋も、熱意って伝えるものだし、伝わるものなの」

「好きになることは好かれること」

 

「まあまあ、まずはご飯にしようよ」

 

大樹が焦れる。

 

「そうそう、こずえちゃん、あとひとつ」

「教育で大切なことは、褒める時はみんなの前で。叱るときは誰もいないところで」

「子供の気持って繊細なんだ」

 

「あら、女の子の気持ちも繊細よ」

「幸せを振りまく時はみんなの前で。言い争う時は誰もいないところで」

「でも正くん、誰もいないところでは言葉の前に口封じするからね~。最近」

 

恵ちゃんはこずえちやんの方を向いて笑みを浮かべる。

 

「何、何ですか? その余裕こいてる意味深な言葉」

 

こずえちゃんは眉をしかめる。

 

恵ちゃんのこずえちゃんへの何気ない一撃。すごい。

 

「私だって、モンスターの葉の陰で、正先輩と……」

 

「正くんと? 何?」

 

恵ちゃんが、怪訝な顔でこずえちゃんに問いかける。

 

「男の人が本当に好きなものは二つ。危険と遊びなんです。男の人にとっては今日一日だけの浮気心にすぎないものにさえ、女の子はその一生を賭ける時がある」

「こずえ、正先輩に……、賭けました」

 

「こずえちゃん。過去に彼氏がいたんでしょ? なぜその彼に一生をかけなかったの?」

 

僕はこれ以上恵ちゃんが何かこずえちゃんに問いかけないよう、慌てて質問をする。

 

「恋は何度もやってきます。恋は全て初恋なんです。相手が違うから」

 

「あれ? こずえちゃんは僕に、大学に来たら一生ものの恋をするって言ってたじゃない」

 

「はい。正先輩となら、です」

「こずえ、正先輩の身もこころも満足させたい。男の人の初恋を満足させられるのは、女の子の最後の恋だけだから」

 

「誰の何が初恋?」

 

僕がそう言うと、大樹が助け舟を出してくれる。

 

「こずえちゃんさ、今、正は恵ちゃんに夢中なんだよ。こずえちゃんがどんなに可愛くて気持ちのいいこころを持っていても、少なくとも今は正にアプローチする時期じゃない」

 

「他人から見たら、どんなに情けなくてもみっともなくても、正先輩を想うこの気持ち……。その気持ち、たったひとつが、明るい私の宝物なんです」

 

「こずえの恋の遍歴は、自分の一番好きな人が自分のことをすぐ好きになってくれていた。ただその繰り返しでした。しかし、正先輩だけはこの条件に合わない……」

「いつでもテレビやネットや雑誌の中では、恋は楽しくて、幸せそうな色をして並んでいるのに、今回のこのこずえの初恋は、どうしてこんなに重くて、こころにまとわりついて、いやらしいんだろう……」

 

「こずえちゃん。初恋じゃないでしょ?」

 

僕がそう言うと、こずえちゃんが哀しい仔犬のように目を伏せる。

 

「でもいいんです。実った時の恋の喜びはいつも、不安の大きさに比例するだろうから。今回経験しますです。正先輩との恋を成就させる秘訣は、きっと粘り強さにあるはず。これこそまさに初恋の醍醐味です!」

 

そう言うと、こずえちゃんは背筋を伸ばし、いつものような可愛いキラキラした瞳に戻る。

 

「こずえちゃん。まずはランチにしましょ。恋は自由の申し子だけど、彼女のいる相手のこころを変えてまで支配していこうと言うことなんか考えてちゃダメよ」

「恋の魔法を保ち続ける関係とは、相手を変えようとしたり、女を武器にしたりしない関係なの」

 

「それ、恵先輩の口から言われるとは思ってもみなかったです」

 

「恵先輩。初恋と最後の恋の違いをご存じですか? 初恋はこれが最後の恋だと思うし、最後の恋はこれこそ初恋だと思うもの」

「初恋は人を盲目にするけれど、最後の恋は視力を戻してくれるんです」

 

「こずえにとって正先輩は初恋の相手で、そして最後の恋の相手でもある」

 

「こずえ、負けません。恵先輩はライバルです。ライバルに勝てない不安を感じたら、自分の中にいる女は負けなんです」