第61話
「浅野教授の、余裕なんだな、には参ったな……」
「正、論文のドラフトの完成度高めなきゃ。可能な限り完璧に近く」
大樹と義雄がまだ、凍りついたままの顔で笑う。
「あのさ、笑い事じゃないよ……」
「それはそうと、最近正、マジに恵ちゃんとどうにかなったんだろ?」
大樹が僕に尋ねる。
「俺も少し、二人の仲がかなり怪しいものになっている感じがする」
義雄も勘ぐる。
「別に……。いや……伊豆を境に、より仲良くはなった」
「キスぐらいしただろ?」
「……」
「話せよ。俺たち友達だろ。恵ちゃんは俺たちにとって特別なんだから」
「それは……」
もっとすごいことをしてもらったなんて、口が裂けても言えない威圧感。
「やあ、皆んな」
有田先生が鞄を持って帰るところ。
「正くん。卒論実験のサンプル、随分溜まってるよ。あと、おじさんのところにカーネーションの材料をもらいに行かなきゃ」
「5月が勝負でしょ、サンプル集め。もう5月も終わりだよ」
有田先生がニコニコして帰宅する。
先生のおかげで話が逸れた。
「正。トリプルパンチだな」
「ああ、でもやらなきゃね」
「大樹、明日か明後日おじさんのところに走れるか?」
「ああいいよ。俺、誰かさんと違って比較的暇だし~」
「じゃあ頼む」
「僕は今晩、徹夜に近い覚悟でプレゼン資料や論文書きをする」
「明日は卒論の実験しなきゃ」
「さて、俺たちは帰るわ。なあ義雄」
「ああ、帰る」
「じゃあな。余裕の正くん」
「それ、アダ名みたく聞こえるからやめてよ……」
ーーーーーー
「おはよう、余裕の正くん」
窓を開けっ放しの研究室のベランダ越しの小鳥の声。恵ちゃんに肩をポンと叩かれ目を覚ます。
「どこからその言葉聞いたの?」
「あら、誰からも聞いていないわよ」
研究室の机で寝てしまった。徹夜作業ほど捗らないものはない。全然資料がまとまっていない。しっかりまとめたはずの論文も見直してみたら全然ダメ。机には、プレゼン資料や実験データのプリント用紙がただただ散らかっているだけ。
恵ちゃんがおにぎり二つと、ラップで包んだたくあんを目の前に置く。カップ味噌汁にお湯を注いでくれる。
「徹夜はダメよ。何にも捗らないから」
「しかも、伊豆で遊んできた帰りでしょ?」
気が利きすぎている。
「恵ちゃん、誰かから……?」
「あら、LINEのグループ見なかった?」
「大樹くんと義雄くんが教えてくれたの」
「だから、余裕の……」
「そう、余裕の正くん」
「さて。私は温室行くね」
「ちゃんと朝ごはん食べて、正くんも卒論の実験しなきゃ」
「ありがとう」
「おう、おはよう! よ・ゆ、ゴホン、ゴホン、正くん」
大樹と義雄もやってきた。よ・ゆの後に咳払いを入れて茶化す。
「ほら、愛情のいっぱいつまった朝ごはん食べて、実験、実験」
「ああ」
「独り占めで恵ちゃんのおにぎり食べられるなんて幸せものだぞ」
そう言って大樹は電子顕微鏡室へ、義雄は培養室へ向かう。
「さて」
僕も電気泳動のゲル作り。そしてスキーウエアを着て冷暗室。今日は2回泳動、1回に4時間かかる。つまり単純に8時間実験に貼り付け。
実験の前に、恵ちゃんのいるラン温室へ。
「おにぎり、ありがとう。すごく美味しかった」
「でしょ。愛情込めて握ったんだから」
両手のひらを見せて素敵に微笑む。
「こうしてラン温室にいると、バナナワニ園の熱帯植物温室を思い出すね」
「うん」
そうだ。あそこで事故があったんだ。こずえちゃんと。
「どうしたの? ボーッとして」
「ううん……、何でもない」
「さて、僕は熱帯、ラン温室とはかけ離れたマイナス10℃の世界に向かうよ」
「実験、頑張ってね!」
「お互いにねっ!」
朝っぱらからだけど、ここは遮光している閉鎖系温室。僕は恵ちゃんを優しくハグする。
「恵ちゃんの全てが欲しい……」
「徹夜明けで、何おバカなこと考えてるの」
「男の子は、女の子にすべてを与えてと求めるけれど、女の子がそのとおりにすべてをささげ、命さえかけて献身すると、男の人はその重荷に苦しむのよ。息苦しい恋になるの。でしょ?」
「お互いに求め合い、相手を所有すればするほど、とらわれの身になってしまう。より少なく所有すれば、より自由でいられる」
「一緒にいて肩の張らない、楽しい恋をしよっ!」
恵ちゃんはそう言って、また、素敵に微笑む。
ーーーーー
「何あくびしてんだよ、正」
大樹が実験室にやってくる。
「夜間に目を開き、昼間には目を閉じる。ランのCAM型光合成の気孔じゃあるまいし」
「ああ。やはり徹夜はいけないね。試験前じゃないのにね」
「正、俺、明日おじさんのところへ行くよ」
「ありがとう。助かる」
「サンプリングするカーネーション材料のリスト作るから確認して」
「了解」
「コーヒーブレイクしないか?」
「うん。そうする」
大樹が眠気覚ましの濃いコーヒーを入れてくれた。角砂糖二つ。甘みと苦味が丁度良い。
「正よ~。無理すんなよ」
「仲間がいるんだから頼ってくれ。俺も義雄もお前より暇なんだし」
「ああ、ありがとう」
「恵ちゃんのことは、俺たちバカじゃ無いんだしわかってるから」
「上手くやれよ……」
大樹の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。
「俺は歩ちゃんと少し付き合ってみようと思う。明日もおじさんのところへ一緒に行くことにした」
「義雄はあいつの性格上、まだはっきりしないけど、みどりちゃんに気を惹かれている」
「全てはオレンジ色のカーネーションから始まったんだ」
「3つのオレンジ色の恋だ」
「歩ちゃんとのランチ、牛丼はよしておきなよ」
「そんなこと分かってるって」
「歩ちゃんがお弁当作ってきてくれるらしい」
大樹は下を向いて照れ臭くしている。
「しかし、実は俺も義雄も、恵ちゃんのこともそうだけど、いつも正にライバル心を抱いている」
「なんて言うんだろう……、勉強も恋も。正に負けたくない」
「僕は皆んなに何にも感じていないよ。ライバル心なんて」
「そこがお前らしい」
「男って普通違うんだよ。正はその真の心理を分析すると男じゃ無い。闘争心がないんだ」
「俺が恵ちゃん奪ったらどう思う?」
「まあ、仕方ないと思う」
「義雄だったら?」
「それも、仕方ないと思う」
「俺らはそうは思わない。そこが正と違うところ」
「あのさ、恋をする、女の子を手に入れる。その目的のためには、男は身もこころも汗や埃でまみれるもんなんだ。何度も過ちをおかし、力が及ばない時には、影で涙することもある」
「でも勇敢に戦うんだ。恋を手に入れるために熱意を持ち、献身し、価値ある目的に全力を尽くす。たとえ失敗しても、その知恵と行動は次の恋への素晴らしい財産になる」
「恋は決闘だぞ。もし右を見たり左を見たりしていたら敗北だ」
「勝利も敗北も知らない臆病な男には、そう言う成果という恋の価値を知ることなんてできない」
「恋の価値? よくわからないけど、僕は恵ちゃんと友達として仲良くする」
「友達として? 今の正、もう恵ちゃんとは恋人同士だろ?」
「そう聞かれれば……、そう……」
「だろ?」
「でも、まだ俺らにもチャンスはあるな。まだ恋の価値や恋の闘いを知らないその弱っちい顔じゃ、まだ恵ちゃんを抱いてないな」
「誘導尋問か?」
「違うよ。俺、ナンパ師何年やってると思う? 正の顔に書いてある」
「俺は歩ちゃんをすぐに抱くよ。俺は恋の価値を知っている。酸いも甘いも嚙み分けてきた」
大樹のスマホが鳴る。
「あっ、歩ちゃん。明日さ……」
大樹は廊下に出る。
すぐに戻ってきた。
「こういうのを、シンクロニシティと言うんだ。意味のある偶然の一致」
「歩ちゃんの話をした途端、彼女から連絡が来る。恋の共時性というものかな」
大樹は鞄からポリスのCDを取り出し音楽をかける。ポリスのアルバム、シンクロニシティ。
「これ、学祭でやる。俺はシンクロニシティと、見つめていたいのドラムを叩く」
「古いな、かなり。80年代か。でも、未だに新しいよな、何かが」
「ああ、ポリスはいいよ。時空を超えてる。正の好きなクラシック音楽と同じさ」
ピンポーン。大樹のLINEに連絡が入った音。
「あれ? これ伊豆の海でナンパした子からだ」
『明日、渋谷で会えませんか?』
「それもシンクロニシティ、意味のある偶然の一致か?」
大樹は返信を打てないまま遠い目をする。誰だよ、歩ちゃんを好きになったのに恵ちゃんも諦められない。ナンパ相手にも遠い目をする。右往左往している張本人は。
「さて、僕はラフマニノフの交響曲第2番でも聞いて実験、実験」
「この第3楽章の甘美なメロディは、恵ちゃんと一緒に聴きたいね」
「さ~て、終わった、終わった」
恵ちゃんが息を少し荒げて温室から帰って来る。
「何? 二人とも実験サボって音楽?」
僕はイヤホンの片方を恵ちゃんの耳に優しく着ける。
「ラフマニノフね。私、この甘い甘美な第3楽章大好き。なんか今丁度こういう音楽、聴きたかったんだ」
「シンクロニシティ、かな?」
僕は呟く。
恵ちゃんは、冒頭のセンチメンタルなクラリネットのソロに引き込まれている。しっかりと僕の瞳を見つめて。
「あっ! 浅野教授」
「音楽をイチャイチャ仲良く聴きながら勉強か。時代も変わってきたな」
「恋なんてスープのようなものだ。初めの数口は熱すぎ、最後の数口は冷めてしまう」
意外にも浅野教授の機嫌がいい。やはり、教授は僕と恵ちゃんには優しい。
「正。若い時は、男ならなんでもやれ。どんとやれ」
「若さがあればできるんだ。人のできないことをやれ」
大樹からも言われた言葉。そう、男なら見せてやる。勉強も恋も。教授の言葉の重みに気合が入る。
「植物検定。楽しみにしてるぞ。特に正と恵ちゃん」
「はい!」
「女でも、なんでもドンとやります!」
恵ちゃんが気合とともに手をあげる。
義雄が研究室に戻ってきた。
「あっ、きょ……、教授。おはようございます」
「おはよう? もうお昼近いぞ。今までどこで何してた」
教授の機嫌が急に悪くなる。
「いや……、卒論。いつもの組織培養で……」
「卒論はできて当たり前だ。まず、カーネーションのオレンジ花色の遺伝子の解明に貪欲に立ち向かえ」
「かっ、体がもたないです……」
「いいか、明日死んでもいいように生きろ。そして、永遠に生きるがごとく学べ」
「はいっ!」
義雄は背筋を伸ばしキリッとしまった返事をする。
教授が研究室を出て行く。皆んなで胸を撫で下ろす。やはり大樹や義雄には厳しい、というか、ストレスの製造兼、発散場所の様。
「教授にハッパかけられたし、俺、これから工学部に行くね。昼は向こうで食べるから」
「あいよ」
大樹がドラムを叩く真似をして軽く聞き流す。
義雄は、いそいそと、しかしてほくそ笑んで工学部に向かう。みどりちゃんとの共同研究だ。きっとランチも一緒だろう。楽しくない訳がない。
大樹は明日のカーネーションのサンプリングリストの作成を始める。恵ちゃんは、多変量解析ソフトウエアにデータを打ち込んでいる。
僕は電気泳動2時間待ち。その間に論文書き。引用文献の文法を真似て、なんとか教授に見せられるレベルのものを目指す。
「男なら、人のできないことをやれ」
独り言。
「正くん。今、何か言った?」
「ううん……」
「気をつけてね。もし真剣に人のできないことをしたいと願ってるなら、執着しているものを捨てたり、できないときの自分を許したりすることを知らなければダメよ。余裕を持たなきゃ恋なんてできないじゃない」
何だ。恵ちゃん、ちゃんと聞いてた。
「私たちに今一番大切なのは、二人で育んでいく恋よ。こころも身体も、お互いに一番弱くてやわらいところの触れ合いが始まったの。それってたぶん……、擦れて傷つくときもあると思う」
「恋は誰にでもチャンスがあるとできる。でも誰にでもできるわけではないもの。それは恋する人を幸福にすること。私たち、何かに成功するために出会ったわけじゃない。お互いを幸せにするため、誠実であるために出会って恋したと思うの。勉強も大切だけれど、このこと、決して忘れないでね」