第61話

 

「浅野教授の、余裕なんだな、には参ったな……」

「正、論文のドラフトの完成度高めなきゃ。可能な限り完璧に近く」

 

大樹と義雄がまだ、凍りついたままの顔で笑う。

 

「あのさ、笑い事じゃないよ……」

 

「それはそうと、最近正、マジに恵ちゃんとどうにかなったんだろ?」

 

大樹が僕に尋ねる。

 

「俺も少し、二人の仲がかなり怪しいものになっている感じがする」

 

義雄も勘ぐる。

 

「別に……。いや……伊豆を境に、より仲良くはなった」

 

「キスぐらいしただろ?」

 

「……」

 

「話せよ。俺たち友達だろ。恵ちゃんは俺たちにとって特別なんだから」

 

「それは……」

 

もっとすごいことをしてもらったなんて、口が裂けても言えない威圧感。

 

「やあ、皆んな」

 

有田先生が鞄を持って帰るところ。

 

「正くん。卒論実験のサンプル、随分溜まってるよ。あと、おじさんのところにカーネーションの材料をもらいに行かなきゃ」

「5月が勝負でしょ、サンプル集め。もう5月も終わりだよ」

 

有田先生がニコニコして帰宅する。

 

先生のおかげで話が逸れた。

 

「正。トリプルパンチだな」

 

「ああ、でもやらなきゃね」

 

「大樹、明日か明後日おじさんのところに走れるか?」

 

「ああいいよ。俺、誰かさんと違って比較的暇だし~」

 

「じゃあ頼む」

 

「僕は今晩、徹夜に近い覚悟でプレゼン資料や論文書きをする」

「明日は卒論の実験しなきゃ」

 

「さて、俺たちは帰るわ。なあ義雄」

 

「ああ、帰る」

 

「じゃあな。余裕の正くん」

 

「それ、アダ名みたく聞こえるからやめてよ……」

 

 

ーーーーーー

 

 

「おはよう、余裕の正くん」

 

窓を開けっ放しの研究室のベランダ越しの小鳥の声。恵ちゃんに肩をポンと叩かれ目を覚ます。

 

「どこからその言葉聞いたの?」

 

「あら、誰からも聞いていないわよ」

 

研究室の机で寝てしまった。徹夜作業ほど捗らないものはない。全然資料がまとまっていない。しっかりまとめたはずの論文も見直してみたら全然ダメ。机には、プレゼン資料や実験データのプリント用紙がただただ散らかっているだけ。

 

恵ちゃんがおにぎり二つと、ラップで包んだたくあんを目の前に置く。カップ味噌汁にお湯を注いでくれる。

 

「徹夜はダメよ。何にも捗らないから」

「しかも、伊豆で遊んできた帰りでしょ?」

 

気が利きすぎている。

 

「恵ちゃん、誰かから……?」

 

「あら、LINEのグループ見なかった?」

「大樹くんと義雄くんが教えてくれたの」

 

「だから、余裕の……」

 

「そう、余裕の正くん」

 

「さて。私は温室行くね」

「ちゃんと朝ごはん食べて、正くんも卒論の実験しなきゃ」

 

「ありがとう」

 

「おう、おはよう! よ・ゆ、ゴホン、ゴホン、正くん」

 

大樹と義雄もやってきた。よ・ゆの後に咳払いを入れて茶化す。

 

「ほら、愛情のいっぱいつまった朝ごはん食べて、実験、実験」

 

「ああ」

 

「独り占めで恵ちゃんのおにぎり食べられるなんて幸せものだぞ」

 

そう言って大樹は電子顕微鏡室へ、義雄は培養室へ向かう。

 

「さて」

 

僕も電気泳動のゲル作り。そしてスキーウエアを着て冷暗室。今日は2回泳動、1回に4時間かかる。つまり単純に8時間実験に貼り付け。

 

実験の前に、恵ちゃんのいるラン温室へ。

 

「おにぎり、ありがとう。すごく美味しかった」

 

「でしょ。愛情込めて握ったんだから」

 

両手のひらを見せて素敵に微笑む。

 

「こうしてラン温室にいると、バナナワニ園の熱帯植物温室を思い出すね」

 

「うん」

 

そうだ。あそこで事故があったんだ。こずえちゃんと。

 

「どうしたの? ボーッとして」

 

「ううん……、何でもない」

 

「さて、僕は熱帯、ラン温室とはかけ離れたマイナス10℃の世界に向かうよ」

 

「実験、頑張ってね!」

 

「お互いにねっ!」

 

朝っぱらからだけど、ここは遮光している閉鎖系温室。僕は恵ちゃんを優しくハグする。

 

「恵ちゃんの全てが欲しい……」

 

「徹夜明けで、何おバカなこと考えてるの」

「男の子は、女の子にすべてを与えてと求めるけれど、女の子がそのとおりにすべてをささげ、命さえかけて献身すると、男の人はその重荷に苦しむのよ。息苦しい恋になるの。でしょ?」

 

「お互いに求め合い、相手を所有すればするほど、とらわれの身になってしまう。より少なく所有すれば、より自由でいられる」

「一緒にいて肩の張らない、楽しい恋をしよっ!」

 

恵ちゃんはそう言って、また、素敵に微笑む。

 

 

ーーーーー

 

 

「何あくびしてんだよ、正」

 

大樹が実験室にやってくる。

 

「夜間に目を開き、昼間には目を閉じる。ランのCAM型光合成の気孔じゃあるまいし」

 

「ああ。やはり徹夜はいけないね。試験前じゃないのにね」

 

「正、俺、明日おじさんのところへ行くよ」

 

「ありがとう。助かる」

 

「サンプリングするカーネーション材料のリスト作るから確認して」

 

「了解」

 

「コーヒーブレイクしないか?」

 

「うん。そうする」

 

大樹が眠気覚ましの濃いコーヒーを入れてくれた。角砂糖二つ。甘みと苦味が丁度良い。

 

「正よ~。無理すんなよ」

「仲間がいるんだから頼ってくれ。俺も義雄もお前より暇なんだし」

 

「ああ、ありがとう」

 

「恵ちゃんのことは、俺たちバカじゃ無いんだしわかってるから」

「上手くやれよ……」

 

大樹の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。

 

「俺は歩ちゃんと少し付き合ってみようと思う。明日もおじさんのところへ一緒に行くことにした」

「義雄はあいつの性格上、まだはっきりしないけど、みどりちゃんに気を惹かれている」

 

「全てはオレンジ色のカーネーションから始まったんだ」

「3つのオレンジ色の恋だ」

 

「歩ちゃんとのランチ、牛丼はよしておきなよ」

 

「そんなこと分かってるって」

「歩ちゃんがお弁当作ってきてくれるらしい」

 

大樹は下を向いて照れ臭くしている。

 

「しかし、実は俺も義雄も、恵ちゃんのこともそうだけど、いつも正にライバル心を抱いている」

「なんて言うんだろう……、勉強も恋も。正に負けたくない」

 

「僕は皆んなに何にも感じていないよ。ライバル心なんて」

 

「そこがお前らしい」

 

「男って普通違うんだよ。正はその真の心理を分析すると男じゃ無い。闘争心がないんだ」

 

「俺が恵ちゃん奪ったらどう思う?」

 

「まあ、仕方ないと思う」

 

「義雄だったら?」

 

「それも、仕方ないと思う」

 

「俺らはそうは思わない。そこが正と違うところ」

 

「あのさ、恋をする、女の子を手に入れる。その目的のためには、男は身もこころも汗や埃でまみれるもんなんだ。何度も過ちをおかし、力が及ばない時には、影で涙することもある」

「でも勇敢に戦うんだ。恋を手に入れるために熱意を持ち、献身し、価値ある目的に全力を尽くす。たとえ失敗しても、その知恵と行動は次の恋への素晴らしい財産になる」

 

「恋は決闘だぞ。もし右を見たり左を見たりしていたら敗北だ」

「勝利も敗北も知らない臆病な男には、そう言う成果という恋の価値を知ることなんてできない」

 

「恋の価値? よくわからないけど、僕は恵ちゃんと友達として仲良くする」

 

「友達として? 今の正、もう恵ちゃんとは恋人同士だろ?」

 

「そう聞かれれば……、そう……」

 

「だろ?」

 

「でも、まだ俺らにもチャンスはあるな。まだ恋の価値や恋の闘いを知らないその弱っちい顔じゃ、まだ恵ちゃんを抱いてないな」

 

「誘導尋問か?」

 

「違うよ。俺、ナンパ師何年やってると思う? 正の顔に書いてある」

「俺は歩ちゃんをすぐに抱くよ。俺は恋の価値を知っている。酸いも甘いも嚙み分けてきた」

 

大樹のスマホが鳴る。

 

「あっ、歩ちゃん。明日さ……」

 

大樹は廊下に出る。

 

すぐに戻ってきた。

 

「こういうのを、シンクロニシティと言うんだ。意味のある偶然の一致」

「歩ちゃんの話をした途端、彼女から連絡が来る。恋の共時性というものかな」

 

大樹は鞄からポリスのCDを取り出し音楽をかける。ポリスのアルバム、シンクロニシティ。

 

「これ、学祭でやる。俺はシンクロニシティと、見つめていたいのドラムを叩く」

 

「古いな、かなり。80年代か。でも、未だに新しいよな、何かが」

 

「ああ、ポリスはいいよ。時空を超えてる。正の好きなクラシック音楽と同じさ」

 

ピンポーン。大樹のLINEに連絡が入った音。

 

「あれ? これ伊豆の海でナンパした子からだ」

 

『明日、渋谷で会えませんか?』

 

「それもシンクロニシティ、意味のある偶然の一致か?」

 

大樹は返信を打てないまま遠い目をする。誰だよ、歩ちゃんを好きになったのに恵ちゃんも諦められない。ナンパ相手にも遠い目をする。右往左往している張本人は。

 

「さて、僕はラフマニノフの交響曲第2番でも聞いて実験、実験」

「この第3楽章の甘美なメロディは、恵ちゃんと一緒に聴きたいね」

 

「さ~て、終わった、終わった」

 

恵ちゃんが息を少し荒げて温室から帰って来る。

 

「何? 二人とも実験サボって音楽?」

 

僕はイヤホンの片方を恵ちゃんの耳に優しく着ける。

 

「ラフマニノフね。私、この甘い甘美な第3楽章大好き。なんか今丁度こういう音楽、聴きたかったんだ」

 

「シンクロニシティ、かな?」

 

僕は呟く。

 

恵ちゃんは、冒頭のセンチメンタルなクラリネットのソロに引き込まれている。しっかりと僕の瞳を見つめて。

 

「あっ! 浅野教授」

 

「音楽をイチャイチャ仲良く聴きながら勉強か。時代も変わってきたな」

「恋なんてスープのようなものだ。初めの数口は熱すぎ、最後の数口は冷めてしまう」

 

意外にも浅野教授の機嫌がいい。やはり、教授は僕と恵ちゃんには優しい。

 

「正。若い時は、男ならなんでもやれ。どんとやれ」

「若さがあればできるんだ。人のできないことをやれ」

 

大樹からも言われた言葉。そう、男なら見せてやる。勉強も恋も。教授の言葉の重みに気合が入る。

 

「植物検定。楽しみにしてるぞ。特に正と恵ちゃん」

 

「はい!」

 

「女でも、なんでもドンとやります!」

 

恵ちゃんが気合とともに手をあげる。

 

義雄が研究室に戻ってきた。

 

「あっ、きょ……、教授。おはようございます」

 

「おはよう? もうお昼近いぞ。今までどこで何してた」

 

教授の機嫌が急に悪くなる。

 

「いや……、卒論。いつもの組織培養で……」

 

「卒論はできて当たり前だ。まず、カーネーションのオレンジ花色の遺伝子の解明に貪欲に立ち向かえ」

 

「かっ、体がもたないです……」

 

「いいか、明日死んでもいいように生きろ。そして、永遠に生きるがごとく学べ」

 

「はいっ!」

 

義雄は背筋を伸ばしキリッとしまった返事をする。

 

教授が研究室を出て行く。皆んなで胸を撫で下ろす。やはり大樹や義雄には厳しい、というか、ストレスの製造兼、発散場所の様。

 

「教授にハッパかけられたし、俺、これから工学部に行くね。昼は向こうで食べるから」

 

「あいよ」

 

大樹がドラムを叩く真似をして軽く聞き流す。

 

義雄は、いそいそと、しかしてほくそ笑んで工学部に向かう。みどりちゃんとの共同研究だ。きっとランチも一緒だろう。楽しくない訳がない。

 

大樹は明日のカーネーションのサンプリングリストの作成を始める。恵ちゃんは、多変量解析ソフトウエアにデータを打ち込んでいる。

 

僕は電気泳動2時間待ち。その間に論文書き。引用文献の文法を真似て、なんとか教授に見せられるレベルのものを目指す。

 

「男なら、人のできないことをやれ」

 

独り言。

 

「正くん。今、何か言った?」

 

「ううん……」

 

「気をつけてね。もし真剣に人のできないことをしたいと願ってるなら、執着しているものを捨てたり、できないときの自分を許したりすることを知らなければダメよ。余裕を持たなきゃ恋なんてできないじゃない」

 

何だ。恵ちゃん、ちゃんと聞いてた。

 

「私たちに今一番大切なのは、二人で育んでいく恋よ。こころも身体も、お互いに一番弱くてやわらいところの触れ合いが始まったの。それってたぶん……、擦れて傷つくときもあると思う」

 

「恋は誰にでもチャンスがあるとできる。でも誰にでもできるわけではないもの。それは恋する人を幸福にすること。私たち、何かに成功するために出会ったわけじゃない。お互いを幸せにするため、誠実であるために出会って恋したと思うの。勉強も大切だけれど、このこと、決して忘れないでね」

 

第60話

 

「正先輩。恵先輩とのキスとこずえとのキスのどちらが素敵ですか?」

 

「……」

 

「正先輩に喜んでもらえるなら、お節介の甲斐もあるあるというものです」

 

「おう! 正、こずえちゃん」

「皆んなどこ?」

 

水野がパチンコから帰って来た。

 

「レストランにいるよ」

 

「何で二人だけでここにいる?」

 

「それは……、まあ……」

 

「怪しい関係なんです」

 

「まあ、その冗談はいいとして」

 

「おっ、隆」

 

「おう、水野。勝ったか?」

 

隆とみどりちゃんもレストランを出てくる。

 

「いや、負けた。一万三千」

 

「最初はすぐに出たんだ。でもあっという間に飲み込まれ、その先に当たりが来ない」

「結局すられたよ」

 

「こんなところまで来て打つからだよ」

 

「いや。大学に戻ったら取り返す。いつもの店で」

 

「少し腹減った。ここ、レストランあるよね?」

 

「ああ。でも負けたんだからこずえちゃんとみどりちゃんの作ってくれた朝食の残りにしたら?」

「無駄使いはしない」

 

隆が優しく話す。

 

「いや、バナナジュースだけは飲みたい」

「ここまで来て、木で完熟した本物のバナナを口にしなくてどうする」

 

「ここまで来て、パチンコ打つ方がどうかしてる」

 

僕らは水野がバナナジュースを飲んでくるまで、また温室内を散歩。こずえちゃんが、モンステラのところでおどける。

 

「ばあっ!」

 

「何、何? こずえちゃん」

 

みどりちゃんが驚く。

 

「これ、ラテン語でモンステラと言って、英語で言うモンスター、日本語で怪物です。でも、お化けや怪物、出てくることはありません」

「ただ、恋愛事故はこういうところで、稀に起きます」

 

「こずえちゃん、何を言っているのか全然わからないよ」

 

隆にはもちろん理解不能。

 

「正先輩に聞いてください」

 

「正。このモンステラに何かあるのか」

 

「ああ、女神様が降りてくるという伝説がある」

 

「本当ですか!」

 

こずえちゃんは目を輝かせ興味津々。

 

「いや、それは嘘だよ」

 

「な~んだ……、つまんない」

 

「ただ、花言葉に、壮大な計画、深い関係、というのがある。

 

「それ! それです! 降って来たんです。どっちも」

 

「まあ、それはいいとして、そろそろ帰るか?」

「帰りに海鮮丼。正のオススメの店に行かなきゃ」

 

こずえちゃんは、まだ一人で盛り上がって、友達にモンステラの写真を入れてLINEしている。余計なことを打たなきゃいいが……。オケではいらぬ噂はすぐ広まる。

 

「あのね、みどり先輩。私、モンステラの花言葉も何も知らなかったんです。なのに、壮大な計画や深い愛が降りて来て……」

 

「よしよし。こずえちゃんにここで何かがあった、ということね」

 

みどりちゃんは、つかみどころのない話をするこずえちゃんの頭を撫でて、お姉さんらしい笑顔で軽く微笑む。

 

「そろそろ帰るとするか。どうする? 海に寄る?」

 

水野の後先を考えない皆んなへの伺い。

 

「海はパス。東京湾の海は大学からでも遠くはないから、わざわざここで行かなくても……」

 

僕がそう言うと、こずえちゃんが、

 

「私、行くです。海、行くです!」

 

「でもさ、大学に戻る時間が随分遅くなるよ」

 

隆の助け舟。

 

「そうですか……、正先輩と行きたかったのですが、諦めます」

 

僕はホッとする。恵ちゃんとの思い出の場所は聖地にしておきたい。

 

「じゃあ、藤沢に向かおうか」

「3時半頃には着くかな?」

 

僕らは車に乗り込み、藤沢へと向かう。

 

「そう、こずえちゃんとみどりちゃんの作ってくれた朝食の残り頂戴?」

 

「何、水野。これから海鮮丼食べに行くんだぞ?」

 

「大丈夫、大丈夫。俺の胃袋は宇宙だから」

 

太っちょの水野は、こずえちゃんのおにぎらずと、みどりちゃんの卵焼きなど皆んな綺麗に平らげる。

 

「まいう~っ」

 

「何か聴く?」

 

「そうだね、来るときは交響曲だけだったから、帰りは室内楽にしようか」

 

「いいね」

 

「みどりちゃん、何がいい?」

 

「ベートーベン、弦楽四重奏曲ですかね。後期の」

「後期の作品は、神への祈り。音楽となった祈りなんです」

「音楽において、バッハは神、モーツアルトは神の子、ベートーベンは神にできうるだけ近づこうとした人。神との会話をしていました」

 

「何番がいい?」

 

「そうですね、13、14、16番かな?」

 

「聴く順番は13、16、そして最後に14番がいいかな。14番はまさに神との対話です。この曲は現世のものではない。異なる世界からの啓示だと、ワーグナーも称したらしいです」

 

弦楽四重奏曲第13番が流れる。本来の終楽章の「大フーガ」は別演奏で聴く。

 

「後期のベートーベン、弦楽四重奏曲。ベートーベンは時折涙で、書き進めている譜面が見えなかったようです。もちろん耳も聞こえない……。叫びたくなるような孤独感、貧困、そして言葉じゃなく、ものでもない、神との音楽という非言語を通じての対話」

 

「同時代を生きたゲーテは、彼の後期の作品を、対話していたのは本当に神となのか? 取り返しのつかない恐怖だと言い、19世紀においては演奏することが避けられていた部分もあったみたいです」

 

「しかし、20世紀に入りストラビンスキーがベートーベンの後期弦楽四重奏を、絶対的に、永久に現代的な楽曲と支持し、日本でも宮沢賢治はベートーベンの第9交響曲以上の傑作だと褒め称えていたようです」

 

みどりちゃんはこの筋の話にとても詳しい。ベートーベンの弦楽四重奏曲は全曲弾いたことがあるらしい。

 

「さて、海鮮丼食べて、14番が終わる頃には大学に着きますね」

 

こずえちゃんが口を挟む。

 

「そこには、正先輩の、苦悩を超えて歓喜に至れ、があるでしょうか?」

 

「こずえちゃん。苦悩のきっかけはこずえちゃんだよ」

 

僕は小声でこずえちゃんの耳元で話す。

 

「あら? そうですか?」

 

こずえちゃんは、つら~っとした顔をする。

 

「歓喜はあるよ」

 

僕は、ぽつんと呟く。僕は恵ちゃんを信じているし、彼女も僕を信じている、はず。

 

「私は正先輩の何でしょう?」

 

「取り返しのつかない恐怖かな」

 

「あら、絶対的に永久的に現世的ですよ、私」

「ねっ! 正先輩」

 

「はいはい」

 

こずえちゃんの香水の香りが、自分でもわかるくらい、身にまとわりついている。大学に戻り、シャワーと着替えだ。

 

 

ーーーーー

 

 

「おかえり、正」

 

「おかえり、正くん」

 

「恵ちゃん、まだ残ってたの?」

 

「はい。正くんのお帰りをお待ちしておりました」

 

おどけた振りして研究室の机の上に三つ指をつく。こずえちゃんの予想通りだ。恵ちゃん、待ってた。恵ちゃんは先日の伊豆の夜と同じ、オレンジ色のワンピースに着替えている。

 

「くんくん。おい、正。女の子の匂い、全くしないぞ」

 

大樹と義雄が僕を舐めるように調べる。

 

「あら? どうしてかしら。車、すし詰めだったんでしょう?」

「お隣さん、誰だった?」

 

恵ちゃんが僕に聞く。

 

「みどりちゃんと、こずえちゃん……。二人に挟まれて……」

 

「あら? 変ね」

 

恵ちゃんが首をかしげる。

 

「あの……、その……。運動部のシャワー室でシャワー浴びて、着替えて来た」

 

「証拠隠滅ね」

 

「いや……、汗もかいたし」

 

「こずえちゃんの口紅だけは落ちなかったのね」

 

ズドン、と心臓に突き刺さる言葉。僕は慌てて唇を手で拭う。

 

「わかりやすいよね、正くんって。冗談よ」

 

「めっ、恵ちゃん……。まるでハイビスカスみたいだね」

 

「あら? オレンジ色のカーネーションじゃなくて?」

 

「うっ……、うん……。ハイビスカス」

 

慌てて僕は話を逸らす。

 

「私、このオレンジのワンピ、気に入ったの。伊豆の夜の海の、素敵な思い出があるから」

 

僕を焦らせるようにフフフと微笑む。

 

「ハイビスカスの花言葉知ってるわよね?」

 

「うん。私はあなたを信じます、でしょ」

 

「そう」

 

恵ちゃんは僕を実験室に招く。お互いに顔を見て、瞳を見つめて、唇を見つめ、そして軽いキス。

 

「私を信じさせてね」

 

ああ、いい空気。いつの間にか当たり前みたいに恵ちゃんが僕のそばに、僕の腕の中にいる。

 

恋することって、同じ想いはもちろんだけど、新しい価値観を互いに発見する喜び、そしてふたりで新しい世界を見つけ出そうと言う喜びを感じられることが素敵。好きだと言う気持ちだけじゃ恋は成立しない。

 

「私、こずえちゃんのことは何も心配していないからね」

「恋人に必要な絶対条件は恋心。可愛いからとか、一瞬好きだからとかで、ハイ、恋しましょ、みたいなことできないでしょ?」

「恋はレンタル、貸し借りできるものじゃないんだから」

 

「ネッ! 正くん」

 

僕らはもう一度、笑顔でハグし合う。

 

研究室に戻ると、大樹と義雄が僕たちを見て、何かものを言いたげ。僕と恵ちゃんのスキンシップに、さすがにもう気づき始めている。

 

「さて、正くん。色素研究会のプレゼン資料と書きかけの論文、目を通してみて」

 

「うん」

 

よく出来ている。さすが恵ちゃんだ。プレゼン資料は必要最低限な図表、必要最低限な文書でシンプルにまとめられている。カーネーション黄色花の色素量の連続的な分布。そして、黄色花の3つのタイプの特徴。オレンジ色花のカルコンとアントシアニンが生成され共存している機構も、蕾のステージと開花ステージの写真を載せ分かりやすくまとめている。

 

「恵ちゃん。オレンジ花色のできていく過程の写真の下にイラストを入れれば?」

 

「イラスト?」

 

「そう」

 

僕はスライドの写真の下に塗り絵のような図を入れる。黄色、赤、それが混じってオレンジ。

 

「あら、シンプルなイラストを加えるだけで随分と分かりやすくなったわね。さすが、正くん」

 

義雄が英語で書いている、黄色花とオレンジ花のカルコン及びアントシアニンの生合成遺伝子の発現機構はまだ筆の途中。

 

「正さ、スライドの英文のところ頼むよ。俺、どう書いていいかよく分からない」

 

「義雄、まずは日本語で書いておいて。英訳は僕がするから」

「恵ちゃんのプレゼン資料は分かりやすくていい出来だと思うよ」

 

「うん。私的にも上出来」

 

「もう浅野教授と有田先生に見てもらうレベルだね」

 

「うん」

 

「論文の方は?」

 

「論文は正くんにお願いよ。私、マテメソと結果のドラフト書いたけど、イントロダクション、考察含めて完成させるのは、正くんのお・し・ご・と」

 

「あた~っ」

 

「一ヶ月はかかるね」

 

「浅野教授におんぶに抱っこしてもらえば?」

 

「そうしようか。でも、最低限のドラフトだけは書かないとね」

 

「伊豆には2度行くし、夏は合宿、秋は定期演奏会。目白押しだもんね。浅野教授に頼まなきゃ」

 

恵ちゃんはクリクリした目で僕をからかう。

 

「私、そろそろ帰るね」

 

「そうそう、恵ちゃん。レッサーパンダのぬいぐるみ、買って来たよ」

 

「わあ! 嬉しい! 貧乏なのに、ありがとう」

 

「いつも言うけど、貧乏なのには余計」

 

「私、毎日、これ抱いて寝るからねっ」

 

「あっ! 浅野教授」

 

浅野教授がいきなり僕たちの研究室に入ってくる。

 

「なんだ、レッサーパンダのぬいか」

「誰かどこか遊びにでも行って来たのか?」

 

「あの、先日の果樹園芸学実習サポートの……」

 

僕は言葉に詰まる。

 

「今日伊豆に行った正くんからのプレゼントです!」

 

恵ちゃんの言葉の後、いっとき、研究室の時間が止まる。教授が天敵の、大樹と義雄の顔は凍りついている。

 

「今日? そうか、よかった。皆んな思ったより余裕なんだな」

「植物検定も楽しみだ」

 

教授は珍しく機嫌のいい笑顔を見せ、すぐに教授室に戻っていった。

 

「余裕なんだな」

 

ニコニコして恵ちゃんは教授のおうむ返しをして、そそくさとこの場を去るべく、ぬいぐるみと勉強道具をカバンに入れ家路につく準備を始める。

 

「発表資料や、植物検定。うまくいかなかったらどうする?」

 

大樹と義雄が凍りついたままの顔で笑う。

 

恵ちゃんが研究室を出る前に、皆んなに笑顔でサヨナラがわりの言葉。

 

「皆んな、失敗を恐れちゃダメよ。たとえうまくいかなくても、失敗にこそ成功の芽が潜んでいるんだから」

「青春でいちばん悔いが残るのは挑戦しないこと。新しい可能性に挑戦して失敗することじゃない。泳げない時は溺れればいいじゃないの」

 

「最初から何でもできる人はほとんどいない。できる、と言われる人の多くは、できる人に自らを変えていったんだと思う。勉強も、そして恋も」

 

第59話

 

「正せんぱ~い」

 

温室に入る直前、大声を出して農学部の1年生の大集団がやってくる。余興で僕たちがやった、アブラハムの七人の子の踊りを真似て歩いて来る陽気なヤツらもいる。

 

「あっ、こずえちゃんがいるよ! 隆先輩も、みどり先輩も!」

 

集団の中のオーケストラのメンバーの一年生3人が僕らに気づく。

 

「どうしたんですか? 正先輩達?」

 

皆んなが尋ねる。

 

「昨日、伊豆の楽しかった土産話をしたら、じゃあ、と言う風に来ることになった……」

 

「昨日の今日で?」

 

「オケではよくある流れです」

 

みどりちゃんがさらっと言って微笑む。

 

こずえちゃんに興味ありげな男の子達がこずえちゃんに声をかけてくる。

 

「青い空、海、潮の香り。温泉もいいんだよ。伊豆、最高でしょ!」

 

「はいっ!」

 

こずえちゃんが満面の笑みで答える。もう、一年生男子のナンパ班の面々は、こずえちゃんに一目惚れ。嬉しくて体中がムズムズしている様子。

 

「こずえちゃん。瞳がすごく優しいし、まつげの角度がとっても素敵。艶のある綺麗な髪のポニーテールに、バタフライのシュシュがとっても似合う。accaのシュシュなの? どう、お茶でも飲みに行かない?」

 

こいつら大樹に習ったな。生き写しのように口調がそっくりだ。

 

渡辺先生がやって来る。

 

「二班に分けて熱帯植物温室を見学するからね。ハイ、二班に分かれて」

 

「先に一班が温室内にいるときは、二班はワニやカメなど園内の自由見学」

「一班が温室を出たら、今度は二班が温室、一班は自由」

 

「何なら君達も一緒に案内しようか?」

 

「いいんですか?」

 

「ああ、いいよ」

 

僕らは一班に入れてもらい、先生から色々と熱帯植物の話を聞かせてもらうことにした。

 

「楽しいです!」

 

温室内を歩きながらこずえちゃんが大喜び。

 

「アマゾンですね! アマゾン、アマゾン」

 

「植物が五千種類もあるから、何からどう説明していいのかわからないけど、渡辺先生の話を聞き漏らしたら教えてね。説明してあげる」

 

「はい。もうたくさん聞き漏らしました」

「先輩。あのバナナに似て、ちょっと違う大きな木みたいなのは何ですか?」

 

「ああ、あれ。タビビトノキだよ。ゴクラクチョウカ科タビビトノキ属」

 

「名前がおしゃれですね」

 

「英名はTraveller's Palmで、名称の由来は葉柄に雨水を溜めるため、乾燥地帯の旅行者の飲料水供給源として利用された、らしい」

 

「あのヒスイ色の美しい宝石のような花は?」

 

「ヒスカズラ。英名ジェイドバイン。マメ科の植物だよ。花がマメ科マメ科してるでしょ?」

 

「美しい色です。こずえ、この色好き」

 

「そう、これは宇宙から見た地球を想像させるようなヒスイ色だね」

「僕らの知る範囲では、アントシアニン色素としてのマルビンと、サポナリンが1:9の割合で含まれ、青みがかるコピグメント効果が起きているんだ。表皮細胞のpHは7.9あたり」

 

「正先輩、むちゃくちゃ詳しいんですね」

 

「この花は花色が特別だから、少し詳しく知ってる」

 

「あっ! 私あれ知ってます。極楽鳥花、ストレリッチアですね」

 

「そう。すごいじゃない。よく分かったね」

「何科の植物か分かる?」

 

「何科だろう……」

 

「ヒント。タビビトノキと同じ科」

 

「ゴクラクチョウカ科?」

 

「ピンポーン。ゴクラクチョウカ科ストレリチア属」

 

隆とみどりちゃんは渡辺先生の説明をしっかり聞いて来たらしい。さて、皆んなで小休息。

 

「隆先輩。正先輩、植物にむちゃくちゃ詳しいんですよ!」

 

「知ってるよ。オケでの別名、歩く植物図鑑だから」

 

「あれ、瀬戸際の魔術師じゃなくて?」

 

「それは学部だろ」

 

皆んなで微笑む。

 

「ナズナとぺんぺん草は同じ植物の別名と言う話から、イヌナズナ、グンバイナズナの違いも教えてくれたりと雑草にも詳しいんだ。ぺんぺん草と言われる所以は、実の形が三味線のばちに似ているので、という話もしてくれる。医学部や薬学部生も正の植物の知識には全然負けるんだよ」

 

「そんなにすごくないよ」

「これからまだまだ植物を覚えなきゃならないんだ。植物検定というのがあって……」

 

「ちょうどよかったじゃん。今、ここにいて覚えられる」

 

「確かに隆のいう通りだな。プラス思考でいこう」

「こずえちゃんとみどりちゃん。ランの花の名前、教えてあげるからついておいで」

 

僕は今の出来うるだけの知識で、彼女達にランのお話をした。

 

「これ、鮮やかな黄色に赤い点々。綺麗」

 

「オドントグロッサムだね。アンデス山脈の標高の高いところが故郷。オンシジウム系の交配種だよ」

 

「シンビジューム。これは私、知ってます」

 

みどりちゃんがお気に入りらしい。

 

「実は日本の山にひっそりと咲く春蘭も同じ属のシンビジューム属だって知ってる?」

 

「そうなんですか? 初めて聞きました」

 

「胡蝶蘭は、やはり綺麗ですね!」

 

「こずえちゃん、胡蝶蘭はね、最近花屋にあるのは近縁のドリティスとの属間交配で生まれたドリテノプシスという多花性のものも多いんだ。花がやや小さくなったけど」

「また属名はファレノプシス、和名は胡蝶蘭と綺麗だけど、英名は直訳すると蛾(ガ)のラン。モス・オーキッドというんだ。あまりに素敵に響かない」

 

「ふうん。正先輩の知識がたくさんたくさん湧いてくる。すごいです! ただ看板だけの園芸学研究室にいると思って、こずえ、少しみくびってましたです」

 

「さて、お二人さん。カトレアの鉢に顔を挟んで。写真を撮るよ」

 

パシャっ。

 

「二人ともランより綺麗だ……」

 

こころから出た言葉。僕が呟くと、

 

「正さん。それ、大樹さんとあまり変わらないレベルのナンパの響きですよ」

 

みどりちゃんが素敵にはにかんで僕の撮った写真を見つめる。

 

 

ーーーーー

 

 

「じゃあね~っ」

 

一年生達は合宿所に戻っていった。

 

列の後ろのお調子者達は、アブラハムの踊りを、どうして僕たちに見せたくて、踊りながら去っていく。

 

「面白い子達だね」

 

「はい。でも、先輩方にはまだまだ負けます」

 

こずえちゃんがジャッジする。

 

「さて、今日は昼飯は藤沢で遅いコースだし、小腹減るよね」

 

隆が呟く。

 

まさか、僕がおととい食べたモノと同じパターンになりそうな予感……。

 

「グルメだよグルメ。ご当地のデザート食べよう」

 

やはり、来たか。

 

「パインボード二つに、それぞれフレッシュバナナジュース、そしてバナナパフェにしよう!」

 

おいおい、一昨日と一緒じゃないか……。

 

「まいう~っ!」

 

こずえちゃんが今風のノリで喜ぶ。

 

「うん美味しいね」

 

隆も舌鼓を打つ。

 

「美味しいです。私フルーツ大好きだから大満足です」

 

みどりちゃんも大喜び。

 

「やはりバナナワニ園で食べるのはバナナですね。正解です!」

 

「ワニは食べてみたいけど食べられませんからね。カメもここで食べるにはかわいそうですし」

 

「こずえちゃん。ここで、ワニやカメを食べるという発想が、どこから出てくる?」

 

「男の子も女の子も、子孫を残すための繁殖力が大切です」

 

レッサーパンダのぬいぐるみを買ったこずえちゃんは大満足。

 

「そうだ。僕もそのぬいぐるみ買わなきゃ」

 

「あら~っ? 誰かへのお土産ですか?」

「もしかして……、恵先輩?」

 

「でも、おととい来たばかり。欲しかったら自分で買ってるハズ……」

「いや。彼氏に買わせる」

 

「正先輩。恵先輩に何か弱み握られてません? いやらしい感じの」

 

こずえちゃんの言葉が胸にズキンとくる。

 

「その……、いやらしい、はどうして? 余計な話だと思うけど」

 

「ときめいて、ときめいて、そのあと重なっては離れ、離れては重なり、今は仲のいい友達を超え、恋人へのあと一つ、二つの調整だけが残された曲がり角……」

 

「いや。もう、正先輩、恵さんの曲がりくねった先にある心の扉に招かれている」

「正先輩が買うからこそ、そのぬいぐるみ。意味があるはず」

 

こずえちゃんは、何かいかがわしい戦略を立てている雰囲気。

 

「でも、正先輩。もう私にも招かれているんです。曲がりくねっていない真っ直ぐな私の心の扉に通ずる道」

 

「正先輩。キスしません?」

 

「何?」

 

「ちょっと、散歩しましょう」

 

こずえちゃんは、早足に僕の手を引き回し、隆とみどりちゃんをレストランに残し熱帯温室園へ。

 

「ここよ。ここです。モンステラの葉のどさくさに紛れましゅ」

「この植物、モンスターが由来の名前でしたよね」

 

「うん、サトイモ科モンステラ属。夜に見ると、その葉の形ががまるで怪獣のように見えるから」

 

「このモンステラの影でチューしましょう」

 

ちゅ~う。

 

こずえちゃんが急に僕に抱きつき、唇にキスをする。思ったより長く。

 

「こずえちゃん、何! いきなり」

 

「正先輩、上手です」

 

こずえちゃんはフフフと微笑む。

 

「大事故だよ、これ。恵ちゃんにバレたら怒られるなんてレベルの話じゃない」

 

「恵先輩にはバラしませんよ。絶対」

 

こずえちゃんが小悪魔の顔して、フフフと微笑む。

 

「その代わり……、恵先輩との伊豆の思い出、私にだけ教えてください。フィクションでも構いません」

 

 

ーーーーー

 

 

「はくしゅん!」

 

恵ちゃんはくしゃみをする。

 

「風邪?」

 

大樹が聞く。

 

「いや。風邪のはずないんだけどね。元気だから」

「さあ、まとめましょ。プレゼン資料と論文の体裁」

 

「はくしゅん! はくしゅん!」

 

「しつこいね」

 

「ところで、正には何させる?」

 

「論文のイントロダクションと考察を書かせるわよ。論文を魅力的に仕上げる、論文で一番オリジナリティの必要なところ」

「材料及び方法、いわゆるマテメソや結果は、理系論文のフォーマットにはめれば難しくない」

 

「まあ、正なら何とかするだろ」

 

「何とかしてもらうわよ」

「二日も三日も遊ぶ暇あるんだから」

 

「義雄の方のプレゼン資料は?」

 

「資料自体は俺一人で何とかする。でも、口頭発表のカンペは正に頼む」

 

「私、今日は夕飯、大学で食べる」

 

「おやおや、箱入り娘の恵ちゃん。どうしたの?」

 

大樹が下唇を突き出し、問いかける。

 

「正くんに仕事引き継ぐまで、ここにいる」

 

「そんな、無理しなくても。今日明日締め切りじゃないんだから」

 

「何だかわからないけど、今日は頑張りたいの」

 

「正の顔を見たいんじゃないの?」

 

恵ちゃんは少し照れてうつむく。

 

「はくしゅん!」

 

「風邪かな~」

 

「恋煩いじやないの?」

 

「そうかもね」

 

本当とも嘘とも聞こえる恵ちゃんの返事が、大樹も義雄の耳にも、徐々に自然に響くようになってくる。

 

「恵ちゃんさ~。マジに教えてよ。正といい仲になった?」

 

「あのね、誰しもがそのこころに、何かに向かって燃えさかるものがあるでしょ? それを見つけ、燃やし続けることが、私たちの青春そのもの。音楽も勉強も。恋もそうかな?」

 

「やっぱりか。恵ちゃん、正を選んだか……」

 

大樹がうつむき呟く。

 

「正と3年間何もなくて、急に恋人同士なの? お互いに何もかも知り尽くしている友達同士じゃないか。それ、馴れ合いの延長みたいなもんだろ?」

 

義雄も恵ちゃんに少しイラつき気味に問いかける。

 

「今ね、正くんに持っているのは馴れ合いの感情じゃないよ。恋の旅連れ。恋の旅って、昔を懐かしんだり、無理して新しい景色を探すものではないの。肩を張らずに、未来を、お互いを新鮮な目で見るようにすることなの」

 

「正の何が恵ちゃんによかったんだ?」

 

大樹がけげんそうに恵ちゃんに問いかける。

 

「まずね、人にはね、恋する技術と恋する意味があると思うの。恋する技術というのはオシャレをしたり清潔感を保つことや、笑顔や甘い言葉など恋の見える化、How toをマスターすること」

「でもね、うわべの恋のアプローチだけじゃ恋は成立しない」

 

「もうひとつの、恋する意味というのが大事。つまり自分は相手にとってどういう存在であるのか、自分ができることは何なのか、自分は相手に対して何をしてあげられるのか。そう言うことを考えていくの。それが恋する意味だと思う」

 

「両方とも完璧はないわよ。でも自分と相手の、両方の好みのバランスが整ったら、恋に落ちることって素敵で無敵」

 

「正くんは、恋する意味で悩んでいたみたいだけど、完璧などないことに気づいたみたい。今の正くんの塩梅が私に丁度いいかな?」

「あのね、恋に落ちると眠れなくなるのよ。だって、現実が夢より素敵になるんだから」

 

「恵ちゃん。ノロケはその辺まででいいよ……。何と無くわかったから」

「でも、この話。まだ恵ちゃんお得意の、いつものオトボケのようにも聞こえる」

 

義雄が場を仕切る。

 

「はくしゅん!」

 

恵ちゃんがまた可愛らしくくしゃみをする。

 

「いやだ。誰か私のこと噂しているのかしら?」

 

第58話

 

「クラシック音楽って、とてつもなく非日常的な世界へ通じる扉。心地いいよね。特に俺は後期ロマン派の大交響曲がいい」

 

「ベートーヴェンの9曲の交響曲があまりにとてつもない内容と完成度で、後の作曲家はベートーヴェンの後で交響曲をいかに書くかという命題に悩まされた」

 

「しかして、力業で交響曲の軌道を変えてしまったマーラーの交響曲には、世界がまるごと入っている」

「常識を超えた巨大編成と楽曲規模、古典的な楽曲構成と調性の約束事を完全に破ってしまうぎりぎりのところまで試される作曲技法」

 

マーラーの大ファンの水野が語る。今回の定期演奏会でも巨人の選曲の主導を握り、決めた張本人。

 

「マーラーの世界では、人間の生と死、愛と憎しみ、理性と狂気がせめぎあう」

「自然が、街の喧騒が、英雄の勝利や悲劇が、天国と地獄が、高貴なコラールと場末の酒場で奏でられる流行り歌が、そして神と悪魔が、宇宙までもが、音楽という世界共通言語を通じて僕らの意識に語りかけてくる」

「描写ではなく、そのものが聴こえてきてしまうことに、僕らは戦慄を覚えずにはいられないね」

 

僕が言うとみんなが頷く。

 

「24歳から作曲を開始し、28歳で完成させたマーラーの巨人は、青年マーラーの夢と挫折、希望がいっぱいに詰まっていますよね」

「彼の恋愛の挫折と克服が背景をなしていますし」

 

みどりちゃんもマーラーのファンだ。

 

「25歳の時にマーラーはオペラ歌手のヨハンナ・リヒターに恋をしますよね」

「金髪美女の彼女に猛アプローチをするもその恋は実らず。そんな失恋の気持ちを曲の旋律に込めた交響曲」

 

「第四楽章の175小節目からのマーラーの青い愛の旋律。これを聞いただけで、こずえなら恋に落ちちゃうな」

 

こずえちゃんが両手を祈りのように胸で組み、遠い目をする。

 

「結局ふられて、マーラー自身第三楽章を恋に敗れたのごとく葬送曲にしてしまったよね。この楽章の解釈は諸説あるけど」

「僕は個人的にはこの三楽章は実はユダヤ人であるマーラーの、反ユダヤの世界に対するアイロニカルな楽章だと思ってる」

 

「ほら、四楽章が始まるよ。楽譜の指示は、嵐のように動的に。うたた寝しているお客さんも、この冒頭の突然鳴り響くシンバルの一撃で目を覚ます」

「ロマン派好みの闘争から勝利へという構図の長大なフィナーレで、闘争的な第1主題、夢見るような第2主題を軸に、起伏に満ちた劇的な展開を繰り広げ、最後はニ長調を確立して勝利を謳歌しながら圧倒的なエンディングに至る」

 

「最後の謳歌のメロディではホルン全員の起立ですね」

 

みどりちゃんは僕の方を向いて明るい顔をする。

 

「カッコイイです~」

 

こずえちゃんがはしゃぐ。

 

「そう、定期演奏会の前プロはデュカスの魔法使いの弟子だっけ?」

 

「そうですよ。正先輩。ファンタジアの世界です!」

 

「ホルンは二、三年生が中心。みどりちゃんやこずえちゃんはバイオリンだからどっちも出るね」

 

「はい」

 

「しかし、魔法使いの弟子はクラシックやディズニーで有名だけど、詩人ゲーテが書いたものが原作ということはあまり知られていないね」

 

「そうなんですよ」

 

「ゲーテの発想は素晴らしいよね」

 

「そういえば、こずえ、正先輩の別名が瀬戸際の魔術師だと聞きました」

 

「なんでこずえちゃんがそんなこと知ってるの?」

 

「私が言ったんです。こずえちゃんに。義雄さんから聞いて」

 

みどりちゃんが微笑みながら答える。

 

「義雄さんが、正は皆んなが無理だと言っていることでも、何でも挑戦する。そして物事の帳尻を最後の最後に絶対合わせる。まるで魔術師のようだ、って」

 

「あまり良い別名じゃないよ」

「魔法使い、の方がカッコイイ」

 

「どっちでもいいです。正先輩なら」

 

こずえちゃんの言葉に、皆んなが微笑む。

 

「次聴く曲、何にしようか?」

 

「ブラームスにでもしようか」

 

隆が言う。

 

「いいですね」

 

みどりちゃんはブラームスの大ファン。

 

「1番がいいかな? バーンスタインのウイーンフィル」

「一昨年やりましたね。私がまだ一年生のとき」

 

「うん。懐かしいね」

 

「待って。僕らの定演のライブ録音の演奏にしようか?  iPodに入ってる」

 

「聞きたい、聞きたい!」

 

こずえちゃんが興味津々。

 

隆が鞄からiPodを取り出し、カーナビのUSBケーブルにつなげる。

 

「一昨年の四年生、すごく上手な人が多かったからいい演奏になっているよね」

 

演奏が始まる。第一楽章。ウン・ポコ・ソステヌートという指示のついた堂々とした序奏で始まる。最初の部分では「ドン,ドン,ドン、」と叩くティンパニの確固たるリズムが印象的。

 

この上に弦楽器がジワジワと半音ずつ上昇していくような悲壮な感じのメロディを演奏し、管楽器の方は反対に下降していくメロディを演奏。何とも言えない複雑で重苦しい雰囲気がしばらく続く。

 

「ブラ1は、構想から完成までに21年も掛かっているんだ」

「恐ろしく慎重にかつ情熱を込めて作られた作品だよ」

 

「そうなんだ」

 

こずえちゃんが感心する。

 

「ブラームスはベートーヴェンの流れを汲んで古典的な構成のソナタ形式の作品を書いてきていて、交響曲が何としても書きたかった」

 

「しかし、マーラー同様、ベートーヴェンの後にいったいどんな曲を書けば良いのか? という難題が20年間に渡って突きつけられていたんだ」

 

隆が語る。

 

「そのブラームスの答えが交響曲第1番」

「マーラーはロマン派の大交響曲にその答えを出したでしょ」

 

「ブラームスの均整・調和を理想とする古典主義、マーラーは古典主義をそれほど重視しなかった感情・感覚・直感などを重視するロマン主義」

 

「すごい、すごい! 色々な音楽史が重なり、繋がっていく」

「先輩方のブラ1の演奏も上手ですね!」

 

こずえちゃんは上機嫌。

 

「いいかい、来るよ、こずえちゃん。ブラ1のクライマックス。第4楽章391小節目から」

 

「バイオリンが、まるで打楽器になるんだ。指揮者の先生もそこで革靴を指揮台に踏みつける音を出すんだ」

 

「ゾクゾクする、先輩方の演奏!」

 

「来るよ、コーダ。そして神に捧げる祈りのような荘厳なコラール」

 

「はい」

 

バイオリンが低音で力強く、弓を弦に叩きつけて松ヤニが飛び散り、馬の尾の毛がいくつか切れそうなくらいなフォルテッシモのリズムを刻む。指揮者のリズムに合わせて踏み込む靴の音も聞こえる。そして冒頭のコラールが再び登場し、曲一番の盛り上がりとなる。この交響曲の全ては、この部分のためにあるようなものと言っても過言じゃない。

 

「深刻に始まったシンフォニーなのに、自信を持ってハ長調で堂々と締めくくるんだ」

 

「ハ長調はピアノでいうと全部が白い鍵盤、つまり明朗、純白のイメージ。この曲も澄み切った、迷いのない終わり方になっているでしょ」

「ベートーベンの言った言葉を解釈すると、”苦悩に出会い、もしも君のまつげの下に涙がふくらみたまるならば、それがあふれ出ないように強い勇気をもってこらえよ”」

 

「耐えたんだ。ブラームス。20年間も」

 

「ブラームス。すご~い!」

「先輩方の演奏もすご~い」

 

こずえちゃんの笑顔での拍手がやまない。

 

「そうそう、道、混んでたけど、バナナワニ園まであと30分くらいだね」

 

「コンビニで休憩とる?」

 

僕が気を使う。

 

「ううん。行こうよ、このまま」

 

「トイレの用はないの?」

 

「大丈夫で~す」

 

皆んなで声を合わせて答える。どこだかの頻尿グループの移動とは大違い。

 

「ねえねえ、先輩方の演奏もっと聞かせてください」

 

「そうだね、去年のチャイコの5番があるかな」

「バナナワニ園に着くまでには、第2楽章くらいまでなら聴けるかな」

 

「そう、第2楽章。アンダンテカンタービレのホルンのソロは隆。完璧。もう妖艶で最高だった。演奏会に来ていたプロの先生も聞き惚れていたよ」

 

水野が隆をべた褒めする。

 

「隆、このあとプロオケにリクルートされたんだもんな」

 

「うん。もちろん、プロの世界に生きるのは厳しいから断ったけど」

 

隆の彼女の里菜ちゃんのクラリネットから始まる。冒頭のクラリネットの奏でるメロディーは暗い。

 

「そうそう、隆。どうして今日里菜ちゃんを誘わなかったの?」

 

「里奈ちゃん、今日は必須科目のある日なんだ。単に授業をサボれないだけ」

「あと、車にも乗れないでしょ。5人で満員」

 

「一人削ればよかったじゃん」

 

「誰を?」

 

水野が俺? と指を差す。

 

「そう、水野。俺らは車だけ借りればいいことだから」

 

「そんな、皆んな冷たいな~」

 

「まあ、里菜ちゃんも体格は大きい方だから。後部座席がぎゅうぎゅうになっちゃうし」

「今日でも、ちょっとキツイでしょ?」

 

「はい。私の香りが、もう正先輩に移ってます。少し多めに香水ふりかけてきましたから」

 

キラキラ笑顔でこずえちゃんが微笑む。

 

「恵先輩。気づくはずですよ。女の子は香りに敏感だから」

 

「そういう戦略も組んできたの?」

 

「はい! もちろん」

 

「でも残念だね。僕が研究室に戻る頃には、箱入り娘の恵ちゃんはきっと帰っているよ」

 

「いや。恵先輩待っていますよ」

「女ですもの、わかります」

 

「何? その座った声の、こずえちゃんの確信に近い予言」

 

「恋する女って、そうなんです」

 

「ホントかなあ……」

 

「はい」

 

こずえちゃんが真面目顔で答える。

 

「さて、何でもいいけど着いたよ。バナナワニ園」

 

僕はおととい来たばかり。ワニもレッサーパンダも可愛いが、なんか心は空虚になってる。農場助手の渡辺先生がまだ仕事をしていた。

 

「おう正くん。あれからまだ伊豆にいるのかね?」

 

「いや……。一度大学に帰って、サークルの友達とまた来ました」

 

「暇なの?」

 

「暇な訳ないですよ……」

 

「まあ、何にせよ、また来たんだからゆっくりしておいで」

 

「なあ、正」

 

「何?」

 

「俺、ちょっと回して来る」

 

「ここまで来てあれか?」

 

「ああ、さっきいい雰囲気を感じる店を通って来た」

 

水野は右手でパチンコ台のダイアルをひねる仕草をする。

 

「おいおい、ここまで来てパチンコか?」

 

隆は呆れる。

 

「すぐ出して帰るから。連絡はLINEで頂戴」

 

水野は園に入ったばかりなのに、すぐ車でパチンコ屋に向かった。

 

「まっ、先輩。温室に行きましょう。可愛いお花の名前、たくさん教えてください!」

 

こずえちゃんが満面の笑みで僕の腕を取る。

 

「私にもお願いします」

 

みどりちゃんも素敵にキラメク笑顔。

 

「うん。わかった。じゃあ温室に入るよ」

 

「こずえより可愛い花があったらどうしよう……」

 

安心して。こずえちゃんとみどりちゃん。二人とも、どんな花より可愛いよ。もちろん、恵ちゃんにかなう花もどこにもない。女の子は、よく花に例えられる。特に恋している女の子。

 

皆んなの前で咲く花は、皆んなが知ってる花になる。皆んなが知らない所で咲く花は、神が知ってる花になる。皆んなが知らない所で咲く恋心も、神は知ってる恋になる。

 

第57話

 

工学部前。皆んなで用を足して、荷物を積んで、定刻1時間遅れの午前9時に伊豆に向けて車は出発。

 

「あのさ、義雄がさ、カーネーションの黄色花のCHI遺伝子の第一エクソンにAC/DS系のトランスポゾンがあって、第二エクソンの末端にはレトロトランスポゾンのフットプリントがあることを見つけたでしょ」

 

車が動き出してすぐに僕はみどりちゃんに声をかける。

 

「はい。それ、面白い発見なんです」

 

僕の話にみどりちゃんが身を乗り出す。

 

「しかも、そのトランスポゾンはエクソンにのみ挿入する、植物界で極めて稀なトランスポゾンだった」

 

「それがすごい発見なんですよ!」

 

「何、何? そのトンプラポンって」

 

こずえちゃんが、僕とみどりちゃんの会話に無理やり入り込む。

 

「なんか、こずえちゃんが言う言葉、天ぷらポンに聞こえるね」

 

隆が笑う。

 

「こずえちゃん、動く遺伝子のことをトランスポゾンと言うんだ」

 

「動く遺伝子? 遺伝子って動くと困るじゃないですか」

 

「これから先、理科教育で習うよ」

「動く遺伝子の仕業で、個体の表現形質や形態が変わることがあるんだ」

 

教育学部の先輩の水野が学校の先生のように丁寧に話す。

 

「でも、トンプラポンでこずえの貧乳が大きくなると嬉しいです。胸でかいね、と言われて、ええ、D(で)かE(い)ですからと答えてみたいです」

 

「こずえちゃんの言う、天ぷらポンは動く遺伝子の比喩みたいに響くね。天ぷら揚げたら、ポンポンと天かす、跳ねてあちこち動くもんね」

 

水野の解釈も間違えているが、まあまあこの場では合っているようにも聞こえる。

 

「まあ、冗談はともかく、動く遺伝子には、自分で動く遺伝子と、酵素で動かされる動く遺伝子の2種類があるんだ」

「今回、カーネーションで確かめられた動く遺伝子だけど、後者の動かされる遺伝子で、非自律性のものなんだ。トランスポゼースという酵素が働かなければ遺伝子は動かない」

 

「そうなんですかあ~……

 

きっと半分以上、いや、ほとんど僕の言うことがこずえちゃんには伝わっていない。

 

「正先輩とみどり先輩。何でそんなに話が以心伝心のように合うんですか?」

 

「話すと長くなるけれど、僕たちオレンジ色のカーネーションの花色の秘密を見つけている仲間なんだ」

 

「みどり先輩も?」

 

「うん。うちの研究室の義雄がみどりちゃんにお世話になっている」

 

「義雄さん。真面目で控えめで、いい感じの方ですよね……

 

みどりちゃんの顔が少し赤らむ。

 

「それ、義雄が聞いたら大喜びするよ」

「ただ、その控えめ、がヤツの欠点だけどね」

 

「正よ、CHI遺伝子とDFR遺伝子のノーザンから何か知見が得られたか?」

 

隆が聞いてくる。

 

「ああ、カーネーションの黄色花では、やはり全部CHI遺伝子がやられていたよ。その活性は、僕たちが確かめたところ壊れ方に3パターンあった」

「DFR遺伝子は、確認した範囲においては、今のところ黄色花では全部壊されている」

 

「トランスポゾンのせいか?」

 

「ああ、多分。フットプリントの数も多い」

 

「でも、オレンジ色では黄色ができて、かつDFR遺伝子が正常に働かないとアントシアニンができないじゃないか」

 

「さすが隆。鋭いね。今、まさにその謎を探っている段階」

 

「何、何? 伊豆に遊びに行く、いきなりで私の知らない話だらけで盛り上げですか?」

 

「こずえちゃんはおしっこの話で、のっけから正とどうだこうだと話を盛り上げようとしたじゃない」

 

「それはともかく、早くおにぎらず食べましょうよ」

「お・に・ぎ・ら・ず! あ・さ・ご・は・ん!」

 

「そうだね」

 

「ついでにBGM。先輩方、いいのありますか?」

 

「定演でやるマーラーの巨人聞こうか?」

 

水野が笑みを浮かべて提案する。最近、巨人ばかり聞いている。でも、同じシンフォニーでも、指揮者の解釈や演奏するオーケストラの違い、その時代の背景や文化によって味わいが全く異なる演奏となる。そこがクラシック音楽の魅力。さて、水野は何を選ぶか。

 

「俺的に20世紀最高の名演奏。世界最高の巨人。1983年、ショルティ指揮、シカゴ交響楽団」

「当時のホルンの主席は、史上最高のホルン奏者ディル・クレベンジャー、トランペットはアドルフ・ハーセス」

 

「1970年代以降のシカゴ交響楽団の黄金期だね。そして歴史的なマーラー全曲録音を残したチクルスの」

 

「うん史上最高の出来栄えの名演だ」

 

隆もうなずく。

 

「コンサートマスターはサミュエル・マガドですね!」

 

意外や意外。こずえちゃんもこの方面では若いのに詳しい。こずえちゃんが皆んなにおにぎらずを配る。

 

「大きさ、まちまちだね」

 

水野が運転しながら横目で呟く。

 

「はい。こずえ特性おにぎらずです。形は男の子のアレのようにまちまちですが……

 

このこずえちゃんの何気ない言葉に、皆んなで大爆笑。

 

「アレって、男の子のこころの事ですよ。先輩方、いやらしいこと想像しました?」

 

「うん。まずは美味しい!」

 

「それ、桜えびおかかチーズです。美味しいです」

 

隆も頬張る。

 

「これも美味しい。シーフードサラダとしらす入りだね」

 

「海鮮風、コールスローサラダです」

 

「こずえちゃん、料理上手だね」

 

「コンビニで買った具をご飯に混ぜ混ぜして、海苔で挟んで切るだけです」

 

「なるほどね……。美味しいはずだ」

 

僕らは納得した。でもコンビニのおにぎりよりは手作り感があってずっと嬉しいし美味しい。

 

「みどりちゃんの卵焼き。甘さもしっとり感も最高だね。ネギも入っているし」

 

「三温糖と白砂糖のバランスが直秘伝なんです。牛乳も少し入れます」

 

「牛乳を? お嫁さんに欲しいね。毎日これが食べられるなら」

 

「あら、正先輩。今の言葉、恵先輩に伝えてもいいですか?」

 

僕はどさくさに紛れて、義雄にみどりちゃん卵焼きの写真とレシピをLINEで送信。

 

『羨ましい』

 

ただ一言。義雄からのシンプルな返信。

 

「さて、巨人。第一楽章の終盤ですよ」

 

こずえちゃんが、おにぎらずを頬張りながら場を盛り上げる。

 

みどりちゃんの、バター風味ウインナーとゆで卵の燻製、チーズ in カレードッグ。どれもとんでもなく美味。

 

「さすがショルティ、シカゴ!」

 

水野が運転をしながらも指揮をする素振りをして盛り上がる。僕は交響曲よりも二人の女の子の優しい、心のこもった朝ごはんに盛り上がる。

 

「正先輩。美味しいですか?」

 

「ああ。美味しいよ」

 

「こずえも、美味しいですよ! 貧乳と、いやだ……、口に出せないところのバランスが直秘伝なんです」

 

……

 

僕は少し呆れる顔をした。こずえちゃんが僕の表情に気づいたのかどうか、話題を変える。

 

「好きって不思議で、どんなに頑張ってもダメそうな恋でも、好きという思いはなくなることはないんです。相手に恋人ができても、その気持ちは変わりません」

 

そうだ。僕は念願の恵ちゃんを手に入れたけど、ずっと見つめていただけの3年間。例えばその間に恵ちゃんに彼氏ができていたとしても、変わらず僕は恵ちゃんを好きでい続けただろう。

 

「周りから見て、どんなに情けなくて、みっともなくても、こずえは一途に正先輩を追いかけて行く所存です」

 

「こずえちゃん。とっても可愛いし、皆んなからすごくモテるのに、なんで僕?」

 

「恋に2秒で落ちました。スで1秒、キで1秒。すなわち一目惚れです。その後、正先輩の人となりを知れば知るほど、好きがさらに深まっていきました。好きになってしまったものしょうがないんです。そしてそれが自分自身の幸せなんです」

「叶わぬ恋に悩み、ストレスを抱えて頑張ったり、物に執着して離れられなくなったり。そんな人には、こずえ、なりたくありません」

 

「こずえにとって最も大事なことは人生を楽しむこと、幸せを感じること、笑顔でいること。それが全てなんです」

 

「まずは告白が大事。打たないシュートは100%外れるし、真の恋のチャンスは、こころの扉を二度はたたいてくれない」

「恋って素直に、考えずに感じ、飾らぬ言葉で相手に伝えることが大切。幸せになれるかどうかは自分自身が幸せになっているかどうか次第なんです」

 

「こずえちゃん。失恋したことないの?」

 

こずえちゃんは、急にふくれっ面になる。

 

「ありますです。あ~あ……、まだお尻の軽い季節に。思い出したくない……

 

「何? その、お尻が軽い季節って?」

 

「あっ! 間違えました。お尻が青い季節でした。修正します」

 

「あのさ。それも分からない。お尻の青い季節って?」

 

こずえワールドに入っているこずえちゃんは、僕の質問を無視してどんどん話を進める。

 

「その時悟ったんです。人生で自分の向上を心がけている者は、失恋などする暇がないはずだと。おまけに、失恋の結果、不機嫌になったり自制心を失ったりすることを思えば、いよいよ失恋はできなくなる」

 

「正先輩。世の人は、誰かさんと誰かさんが失恋してしまったことには実は興味はないんです。そこから、どう立ち上がるかということに関心があるんです」

 

「それで、大学に来たら、恋に落ちたら、一生ものの恋をしようと思って」

「略奪愛でもなんでもいい。もし結果さえ良ければ、こずえに浴びせられる非難など全く問題じゃない。でも、結果が悪ければ、たとえ百人の天使が世界中の森の木の葉を舌にして私を弁護してくれたところで、何の役にも立ちはしない……

 

「恋とは命がけなんです。甘いものじゃない……

 

珍しくこずえちゃんが真面目顔。恋に関しては、ただの脳天気な子ではなさそう。ちゃんと自分なりの哲学を持っていそうだ。

 

「まあ、ウンチクはもういいでしょう。爽やかにいきましょう!」

 

こずえちゃんがいつもの笑顔に戻る。

 

「恋って、いつもこころに太陽を持って、相手に幸せな気持ちいっぱいで立ち向かっていき、自分も相手も幸せにする。そういうものです」

「今日の正先輩はこずえのもの! お互い幸せになりましょう」

 

「はいはい」

 

僕はこずえちゃんの話に終止符を打つため適当に相槌を打っておく。しかし、女の子ってホント不思議。笑顔、ふくれっ面、真面目顔、そしてまた笑顔。女の子って一人でも色々な女の子なんだ。

 

第56話

 

「正先輩達、面白いですぅ~」

 

ビールを飲みながら、伊豆の合宿所での僕らの余興を見て、こずえちゃん含め皆んなでウケてる。

 

「こずえちゃんの新入生自己紹介、横綱の四股入りの方が面白かったよ」

 

僕がそう言うと、

 

「見ます?」

 

「えっ? それも動画であるの?」

 

「あります!」

 

新歓合宿のこずえちゃんの自己紹介。四股入りの芸をあらためて見せてもらう。

 

「そんな可愛い顔して、なんで相撲の四股入り?」

 

「これ、意外に頑張ったんですよ」

 

「きっとそうだろうね。女の子で大股を開いた四股入りとは、誰も予想できなかったよ」

 

「こずえ、皆んなを楽しませることが大好きなんです」

 

「あのさ、色々あるだろうけど、女の子がする楽しませ方っていうのは……

 

僕の話をさえぎって、こずえちゃんが話を進める。

 

「知床旅情の恵先輩。とても可愛いですぅ~」

 

皆んなで再度僕らの余興の動画を見る。

 

「満面の笑顔でハマナスになったり、腰をいやらしくくねらせて出てくるところ。ゆっくり登っては緩やかに消えゆく月、そしてコミカルに飛ぶ白いかもめ」

「これ、なかなか普通の女子にはできませんよ」

 

こずえちゃんが感心する。

 

「相撲の四股入りが普通の女の子にできる?」

 

「そうそう、正先輩。やっぱり女の匂いがするです」

「これは女子の、首やうなじに触れた時に付く匂いです」

 

僕はおしぼりで自分の首あたりを拭う。どこに匂いがついた? 僕は匂いに鈍感?

 

「まあ、火遊びのようなきつい匂いじゃないから良しとしましょう」

 

こずえちゃんが、不満げな顔をしながらも自己完結する。

 

「浮気をする男性は、二人の女子に同じ香水をプレゼントしたりするらしいですよ。匂いでバレないように」

 

「へえ~」

 

「私も恵先輩と同じ香水つけようかしら?」

 

「それは話が違うでしょ。浮気する男じゃなくて、こずえちゃんの戦略じゃない」

 

「違う香りがしたら困るもの。ねっ! 正先輩!」

 

「あのさ、違う香りで恵ちゃんに怒られて仲を引き裂く、というのが悪女の工作じゃないの?」

 

「ほら、引っかかった」

 

「やっぱり正先輩。恵先輩と何かあったんだ」

 

こずえちゃんはフフフと不気味に笑う。

 

「正。伊豆面白かったか?」

 

隆が話を切り替える。

 

「バナナワニ園とか。帰りに鎌倉の大仏さまに寄ったり、藤沢で最高に美味しい海鮮丼も食べてきた」

 

「いいね」

 

「ああ。楽しかったよ」

 

「じゃあ、行こうか?」

 

「えっ?」

 

「ちょっと待って」

 

隆が何人かにLINEしている。

 

「よし。水野はOK。ついでにみどりちゃんもOK」

 

「こずえちゃんは?」

 

「ええっと……。明日ですね。教養二コマか……。必修じゃないから、代返頼んでサボれますです」

 

「じゃあ、明日にしよう」

 

「おいおい、待ってよ……。明日って何?」

 

「皆んなで伊豆に行くんだよ。決まってるだろ」

 

「あのさ、僕は昨日の今日だよ。パス」

 

「歩く植物図鑑の正がいないと、バナナワニ園、誰が案内する? 大仏さまもたまに拝みたい。藤沢の美味しい海鮮丼屋の場所も俺たち知らないし」

 

「勘弁してよ……

 

「よし、決まり。今、明日伊豆行きということで皆んなにLINEした。集合は朝8時に工学部本館前ね」

 

「あのさ……

 

 

ーーーーー

 

 

「おはよう! 正くん」

 

「おはよう、恵ちゃん」

 

「恵ちゃんさ。正のバカの今日の予定知ってる?」

 

大樹が呆れた口調で恵ちゃんに話す。

 

「何? 私に愛の告白でもするの?」

 

「正、また伊豆に行くんだって」

 

「今日?」

 

恵ちゃんも高めの呆れ声。

 

「昨日オケの面子で飲んでいて、話の流れでそうなったらしい」

 

「全く、困った人ね……

 

「困っているのは僕なんだよ……

 

「もしかして、こずえちゃんも行くの?」

 

「うん」

 

「あ~あ……

 

恵ちゃんはため息をつく。

 

「実はさ……、みどりちゃんも行く」

 

「みどりちゃんも?」

 

それを聞いて義雄が右の眉をあげる。

 

恵ちゃんが三毛にゃんをデニムのエプロンポケットに入れて右手を上げさせる。

 

「困ったにゃん」

 

「いやあ……。こうなった経緯の話は長くなるんだけど……

 

「その場のノリで決まった。だけでしょ?」

 

「そう……

 

「まあ、行ってらっしゃいよ。その場の雰囲気に弱い正くん。夜の海もそうだったし」

 

僕は少し照れる。

 

「あれ? やけに恵ちゃん優しいじゃん」

 

大樹が不思議がる。

 

「あら、私いつでも優しいわよ」

 

「そうそう。昨日の正、恵ちゃんの香りがしたんだけど何かあった?」

 

「浮気がバレないように、こずえちゃんが私と同じ香水つけているんじゃない?」

 

「あのさ、それ時系列が逆なんだけど……

 

大樹が苦笑いする。

 

「まあ、行ってくる」

 

「お土産はレッサーパンダのぬいぐるみでいいからねっ!」

 

「おいおい、どうしたんだ? 恵ちゃん。本当に正に優しいぞ」

 

僕が研究室を出ようとすると、

 

「ちょっと待って!」

 

恵ちゃんが内ポケットから穴の空いたパイン飴を取り出す。

 

「はい。これ」

 

思い出の右手のひらにおいて僕に差し出す。僕はまた照れる。やはり僕は恵ちゃんに征服されてる。

 

 

ーーーーー

 

 

「おはよう」

 

「おはようございま~す」

 

こずえちゃんの黄色い声。

 

「何? その荷物?」

 

「お手製の、おにぎらずで~す」

 

「私はおかず係。卵焼きとウインナーくらいですけど」

 

みどりちゃんも何やら荷物を抱えている。

 

「しかし、水野のやつ遅いな。もう9時近くになるぞ」

 

教育学部の水野。隆と僕と、ホルン四年生の名物3人組。仲の良さはオケで評判。隆と僕は真面目な性格で通っているが、水野は太っちょでお調子者。そして部類のパチンコ好き。

 

「水野の車が来ないと話にならん」

 

隆が水野に電話をかける。

 

「水野、もうすぐ来るって」

「四年時の必須取得科目の事務手続きに遅れた理由を教授に説明しているらしい」

 

「あいつらしいね」

 

「これから伊豆に行くから急ぎたいなんて、とても言えない状況らしい」

 

「僕だって似たようなものだよ。今朝教授に会ってたら、伊豆の、いの字も言えなかった」

 

「すまん、すまん」

 

水野がようやく工学部前に到着。笑顔で車から降りてくる。

 

「1時間も遅刻だぞ。全く……

「伊豆までの道路が混む時間帯になったし、こずえちゃんとみどりちゃんの作ってきてくれた朝ごはんもまだ食べていないんだ」

 

「まあまあ、まずは席割りしよう。隆は助手席。180cmの大型体型だからな」

「正とみどりちゃん、そしてこずえちゃんは後ろ。小さめ3人だからね」

 

「私、正先輩の隣がいいです!」

 

こずえちゃんが微笑む。

 

「ああ。好きにして」

 

僕はもうどうでもいい。何で連日伊豆に行くんだ? 席割りは、僕が女の子二人に挟まれる格好に決まり。

 

「まず僕、トイレに行ってくるよ」

「おしっこもぐしたら困るから」

 

「何だ? そのもぐすって」

 

「うちの研究室の大樹の北海道弁で、漏らすことを言うらしい。僕も方言が移っちゃったよ」

 

「まあ、正だけじゃなく、皆んな用を済ませてから行こう」

 

「はいっ。こずえも行くです。おしっこ、もぐさないように」

「でもこずえ、もぐしても、正先輩が介抱してくれるなら、それはそれでいいんですけど……

 

「何で僕?」

 

僕はこずえちゃんに怪訝そうに尋ねる。

 

「朝っぱらから要らぬ妄想させる際どいこと言うね。こずえちゃん」

 

水野が笑う。

 

「こうして今、正先輩の隣にいることは運命のしるし。正先輩はこずえに悲しい思いはさせないし、恥ずかしい思いもさせないはず」

「下(しも)の事情でも、こずえも正先輩なら心許せるし。もう、好きだけじゃこの気持ち表せない……

 

「あのさ、こずえちゃん。今これから単に伊豆に遊びに行くところだよ。おしっこして行くかどうかひとつだけで引っ張って、皆んなに何を訴えたい?」

 

「実は昨日の正先輩についていた恵先輩の残り香が、こずえを狂わせました。もう、そんな仲になっていたなんて……。そして、恵先輩はどんどん可愛らしくなっている……

 

「それで。何?」

 

「あのですね、恋をすると女の子はどんどん綺麗になっていきます。でも、男の子はカッコ悪くなっていくんです。さっきの正先輩のこずえに吐き捨てた言葉……。それが男としてカッコ悪くて……

 

「ごく普通の言葉だったと思うけど……

 

「もし、恵先輩に言われたらどうしました?」

 

僕は言葉につまる。

 

「ほ~ら、正先輩。今日だけは本気でこずえと向き合おうと思ってみてください。こずえの、この恋心を真剣に受け止めようとしてみてください」

「恵先輩じゃなく、こずえが正先輩を一生幸せにしてくれる女の子かもしれないって考えてみましょう。今日はこずえが正先輩の恋人です」

 

こずえちゃんはニコニコ顔。僕は場の雰囲気に押し切られる気持ち。恵ちゃんという恋人がいるのに……。こずえちゃん。確かに若くて可愛い……

 

「正先輩。恋に下手なルールは作らない方がいいですよ」

 

僕と恵ちゃんのキスのルールを昨日決めたばかりを見透かすよう。

 

「恋人ってなるとルールとか決めて、ああじゃない、こうじゃない、それ私キライなの。こうしよう。なんてダメ!」

 

こずえちゃんが、カラカラ笑う。

 

「やりたいことやって、自由に生きなきゃ、恋だけじゃなくて人生損じゃないですか」

 

「正先輩。絶対にふられることのない相手に恋をするのって、とても楽チンですよ! お試しあれ!」

 

第4章

 

第55話

 

「じゃあね。さようなら! 楽しかったね!」

「バイバイ!」

 

「バイバイ!」

 

箱入り娘の恵ちゃんが、ちぎれるほど手をふって帰っていく。箱入り娘。でも、開けてみたら、爽やかで、異性を素敵に受け入れてくれる。本当に可愛い爛漫な女の子。カルコン色のワンピースが坂道を小さくなっていく。

 

「さあ皆んな、どうする?」

 

大樹が腕を組み呟く。

 

「何が?」

 

「色々と」

 

「順序としては、まずは来週の植物検定に向けて、猛烈に暗記作業に励む」

 

皆んなでうんうん頷く。

 

「恵ちゃんは植物同好会出身だし、暗記力も高いから150属の3級は簡単に取れる。場合により、いきなり300属の2級もありうる」

 

「正は、恵ちゃんほど植物には詳しくないけど暗記力は抜群。科名とラテン語属名くらいすぐ暗記する」

 

「問題は、俺と義雄だ……

 

「二人とも3級は大丈夫だよ。八ヶ岳に行ったときも、二人の植物の詳しさには正直驚いたよ」

 

「いやいや、ラテン語属名の暗記の方だ。そこは話が違う。スペリングのミスもダメらしい」

 

「そんなに厳しいの?」

 

「ああ、有田先生が言っていた」

 

「僕は実物テストが心配だよ」

 

「実物テストは、農場と温室に名札のあるものから持って来るらしい」

「和名、科名、属名の看板がついてあるものからしか出ない」

 

「そうそう、ラン科だけは別。名札も何もついていないものも覚えなくちゃならない」

 

「ランは恵ちゃんに分がありそうだな」

 

「ああ」

 

「ところで、何だか恵ちゃんの匂いしないか?」

 

大樹が突然言い出した。

 

「そんな香り、するね」

 

義雄も同意する。

 

「僕は何も感じないよ。残り香じゃない、恵ちゃんの」

 

「いや、残り香じゃなんかない」

 

二人して僕に冷ややかな視線を浴びせる。

 

「これは、恵ちゃんの肌か服についている香水が衣に移った香りだ」

 

「そんなこと無いって」

 

「僕はあわてて席を立ち、コーヒーを入れに行く」

 

「ほら! 正が遠ざかると恵ちゃんの香りがしない」

 

僕は、大さじ一杯のスプーンを持つ手が震え、コーヒー粉をこぼす。

 

「そうそう、……、車で隣だったし、大仏さまの中に入る時、服が擦れ合ったりしたから」

 

コーヒーを入れ、適当に誤魔化すように二人と離れた机の椅子に座る。

 

「正。そのまま、そのままだぞ! 動くなよ!」

 

二人が近寄り、僕の首筋や頬のあたりを舐めあげるかのように、顔を近づけクンクンと匂いを嗅ぐ。

 

「やっぱり正だ」

 

「何してるんですか? 男同士で?」

 

有田先生が微笑んで研究室に入って来る。

 

「あっ、先生。正から、甘く危険な香りがするんです」

 

「まあ、そんなのはどうでもいいとして、植物検定だけど、教授が来週と来月を間違えたようで、来月すなわち6月からとのことだよ。中旬でも下旬でもいいらしい」

 

「よかった」

 

3人して胸を撫で下ろす。

 

「その代わりに注文があって、カーネーションの黄色花、オレンジ花に関する研究、まとまり次第論文化せよ、とのこと」

「これは面白い! 帰国後の第一声だったよ」

 

「論文はもちろん英文。秋の学会発表前に、つまり7月末までにどこでもいいから海外雑誌に投稿せよとのこと。うまく書けなければ俺が書くと浅野教授が言っていたよ」

 

「先生。物事の力の入れようの順番、どうしましょうかね?」

 

僕が有田先生に尋ねる。

 

「全部大事だね」

 

「え~え。それ、答えになって無いですよ、先生……

 

「ペーパーの投稿の件については、教授から直接指示を受けてね」

「あと、色素研究会の原稿締め切りは6月末、秋の学会の原稿締め切りは7月末だから。よろしく」

 

有田先生が、いつもの人差し指でこめかみを擦る癖を見せながら、いそいそと自分の研究室に帰っていく。

 

「まあ、いずれにせよ忙しいことに変わりはない」

 

僕の言葉に二人頷く。

 

「俺、気分転換にサークル行ってドラム叩いて来る」

 

「そう、大樹、学校祭に出るんだもんな。無理するなよ」

 

「正には言われたく無いよ。正のオケよりマシだろ」

 

「そうなんだよ、8月には合宿もあるし……

 

「まあ、8月でよかったじゃないか。7月末まで、皆んなで地獄を味わおう」

「ところで、残り香の件だけどよ、正」

 

「その話は、お・わ・り」

 

「いやいや、終わらない。俺と義雄で、恵ちゃんを正から守る」

 

「何を守る?」

 

「貞操を」

 

「僕がそんなことする訳ないじゃない」

 

心とは全然違う言葉が口から出てしまう。神様……。僕は嘘をつきました……

 

「まあ、大樹よ、僕もオケの部室に行くから一緒に行こう。音楽練のお向かい同士」

 

「義雄は?」

 

「俺、ここで勉強してる。CHI 遺伝子とDFR遺伝子のノーザンのスライドなど、タイプごとに綺麗に分かりやすくまとめておくよ」

「それ以外にもやることあるし」

 

「工学部にでも顔出せば?」

 

「ああ……、それもありかな」

 

研究室を出たところ、

 

「あっ! 歩ちゃん」

 

「こんにちは」

 

「ごめんね。これから僕たちサークルなんだ」

 

「余裕ありますね。伊豆旅行の後はサークルですか」

 

「いや……、あの……、余裕なんて全然無いんだ。だからサークルに向かう的な……

 

「大樹さんたちの余興の動画見ました。仲のいい後輩が送ってくれて」

「ほんと、抱腹絶倒ですね。皆んな面白い。明石さんにも大受けしてましたよ」

 

フフフ、と上品に微笑む。

 

「動画が撮られてたの! 怖い世の中だね。悪いことできないね」

 

「なあ正。影で悪いことできないんだよ。恵ちゃんとも」

 

「私……、大樹さんのドラム叩くところ、見に行っていいですか?」

 

「えっ? あの……。いいけど……

 

「動画撮るかも……

 

だんだん歩ちゃんも誰かさんに似て小悪魔的になって来た。

 

「まあ、行こうか」

 

3人してサークル練に向かう。オケの部室の外に隆、こずえちゃん達がいる。

 

「やあ、こずえちゃん」

 

「あっ、正先輩!」

 

「正。今晩、晩飯がてら飲みに行かないか?」

 

隆の誘い。

 

「飲みに行かないか?」

 

こずえちゃんのおうむ返し。

 

「こずえちゃんも行くの?」

 

「行くです。伊豆の動画見ました」

 

満面の笑みのこずえちゃん。こずえちゃんが僕に近づいて来る。

 

「くんくん。クンクン。女の匂いがするです」

 

あた~っ。ほんと、表でも影でも悪いことはできない。神様も友達も見抜き見通しだ。恋の情事は、している本人達には隠せていると思っていても、最初に神様にわかる。次に友達にもわかる。やがて、皆んなに……

 

「正先輩。恵先輩との恋はあきらめたほうがいいですよ」

 

「こずえちゃん。どうして?」

 

「こころにずっと期待していた恋が入ってくると、その代償にこれまで光り輝いていた、大切な理性や知恵が出て行きます。男の人って、そういう女の子に恋したとなると、その女の子のためなら何だってするようになるから」

「でもこずえ、そういうパターンの恋の未来がわかるんです。たった一つすることのできないもの。それはいつまでもその恋を続けるってことです」

 

「正先輩の真面目さは恋においては結構です。しかしあまり真面目すぎては困りますです。それは恋が重荷になり、快楽でなくなるから」

 

「正先輩。こずえと恋しましょう。ラブストーリーは突然がいいです。期待なしに落ちた恋だけが、本当の恋の味を知り、味わえます。理性や知恵も失わないし、軽やかな健全な恋を楽しめます」

 

こずえちゃんの小悪魔的な誘い。あのね、僕は念願の恋が叶ったばかりなんだよ。その過程も有意義な恋だったんだ。誰にも負けはしない。この恋だけは。

 

第54話(第3章 最終話)

 

「あのさ、大仏さんを見に行く前に、銭洗弁天に行かないか」

 

大樹がカーナビを見つめて僕らに伺いをたてる。

 

「いいね。銭洗弁財天宇賀福神社は、お金を洗うと何倍にも増えて戻ってくるといわれる霊水の銭洗水が湧く神社」

「平安末期、鎌倉で災害が続き貧困にあえぐ庶民のために、源頼朝が世の救済を祈願したところでもあるらしい」

 

義雄がググって即座に調べる。

 

「行こう、行こう!」

 

「銭洗弁天は貧乏な正を救済してくれるかもしれない」

 

「かもね」

 

恵ちゃんも真剣に首を縦に振る。

 

大樹は車を銭洗弁天に向けて走らせる。

 

 

ーーーーー

 

 

「まずは、奥宮への入り口の洞窟前の社」

「お参りしましょ」

 

皆んなで二礼二拍手一拝。

 

「わあ、タイムトンネルの様なトンネルをくぐるのね」

 

奥宮、宇賀神と弁財天が祀られている洞窟。

 

「霊水の銭洗水でお金を清めると、心の不浄も清められるのね」

「大樹くん。よかったじゃない」

 

「恵ちゃん。お・だ・ま・り」

 

皆んな、それぞれの財布からお札や硬貨を出し霊水をかける。

 

「三千二百四十円。正、それが全部か?」

 

大樹は呆れる。恵ちゃんと義雄は先に弁財天を拝んでいる。

 

「ああ。少なく持って大切に使う。これが僕の主義」

 

「俺は万札3枚」

 

大樹が丁寧に水をかける。

 

「洗ったお金は使わずに大切にとっておく」

 

「さあ、大仏さんに行きましょ!」

 

車で15分くらい。曲がりくねった狭い生活道路。城下町らしい鎌倉の道。

 

「大仏さん、大きいね」

 

「うん。大きい」

 

僕らは大仏さまに向かいお辞儀をして合掌する。

 

「畏敬の念、だね」

 

恵ちゃんが小声で呟く。

 

「うん」

 

「神仏などの目には見えない力や働き。自然に合掌しちゃうよね。僕たちがどれだけ奢っているかを戒める様」

 

「本来の私たちの姿は、すべては当たり前ではなく、目には見えない働きかけにより、生かされている」

「神仏を目の前にすると、感謝、尊さ、申し訳なさの思いが湧き起こり、これらの思いが自然と合掌になる」

 

そう語る恵ちゃんの瞳が綺麗。

 

「僕たちの日常生活の中で手を合わせる場面を想像してみると、どの場合でもこれらの思いがあてはまるね」

 

「目には見えない畏敬の念への感謝の体現か……」

 

恵ちゃんは合掌したまま、遠い目で大仏を見上げる。

 

「自分と向き合うのよ。自分のこころの定規を神仏に当ててみたら、皆んな何かかしら狂いがあるんだから」

「それを感じて理を頂く。それが合掌」

 

「ねえねえ、正くん。大仏さんの中に入りましょうよ」

 

恵ちゃんは僕と腕を組み歩き出す。

 

「おいおい何? その仲の良さは? 正と恵ちゃん、本当にデキたみたいだぞ」

 

大樹が声を上ずらせる。

 

「無視よ。無視しよう」

 

恵ちゃんが小声で僕の耳元に囁く。そのくすぐったさがとても嬉しい。

 

「仏像内部の拝観料と。あら? 細かいのが無いわ……」

「正くん。20円頂戴!」

 

恵ちゃんは右手のひらを僕に差し出す。

 

「はい、恵ちゃん」

 

僕は思い出の恵ちゃんの手のひらに20円を置く。

 

「ちゃんと女の子とデートするお金、あるじゃない」

 

「さっき洗ってきたお金」

 

「えっ? いいの? 早速使っちゃって」

 

「うん」

 

恵ちゃんは20円をしっかり掴み、クリクリとした瞳で嬉しそうに僕をじっと見る。

 

「おいおい、何二人でお見合いしてる。後が詰まってるぞ」

 

「はいよ」

 

「この20円ね、何倍にもなって帰ってくるよ!」 

 

恵ちゃんが意味ありげに上目遣いに微笑む。

 

 

ーーーーー

 

 

「すごい! とろけるわ! 身も心も。もう、どうにかして!」

 

「美味しいでしょ? ここ」

 

「うん、すごい美味しい!」

「こんなボリュームの海鮮大漁盛り、これで千円もしないの?」

 

「一階の魚屋さんと二階の食堂。両方で繁盛しているから安いんじゃないのかな」

 

「大学の駅東の回るお寿司屋さんも美味しいけど、ここのは遥か遥かそれ以上ね!」

 

恵ちゃんは、大満足。

 

「ああ~、幸せ。こんな幸せあるんだ~」

 

大樹も唸る。

 

「いいなあ~正。就職したら、またここに来ることあるんだろ?」

 

「うん、多分ちょくちょく」

 

「ところで正の赴任予定先、どこだっけ?」

 

「横浜か東京」

 

「なんだ、どちらにしろ大学のすぐ近くじゃん」

「恵ちゃんは大学院でしょ。義雄は決めた? 就職か大学院か」

 

「まだ迷ってる。6月末までには決めておかないといけないんだ」

 

「就職するとしたら赴任先はどこ?」

 

「宇部市の予定」

 

「山口県!」

 

「また、遠いところになるな」

 

「うん」

 

「大学院に行きなよ。工学部の。みどりちゃんとも仲良くしてさ」

 

大樹が言うと義雄が照れる。

 

「そうそう、歩ちゃんは東京の大手百貨店の宝石販売店に内々定したらしいよ」

 

恵ちゃん情報。時折あてにならないこともあるが。

 

「大樹は札幌だよね?」

 

「そう。もう決まり」

 

「おじさんの会社だっけ?」

 

「そう。うちはお金持ちの系譜だから」

 

「歩ちゃんも東京で修行を積んで、札幌にある系列店に転勤するかもね」

 

恵ちゃんが言うと今度は大樹が照れる。

 

「いいよ、今からそんなこと」

 

「場合により、歩ちゃんも大樹のおじさんの会社で採用してくれる」

 

「待ってよ、もう……」

 

大樹は照れる。

 

「さて、弁財天様と大仏さんを参ったし、美味しいものも頂いたし。満足満足」

「戻るとするか、戦いの場、いざ! 研究室に」

 

「俺たちが今いるところが、いざ! 鎌倉へ、の場所じゃないの?」

 

「まあ、なんでもいいよ。安全に帰るからね」

 

「は~い!」

 

 

ーーーーー

 

 

「私、ラン温室見て来るね」

 

恵ちゃんは帰って早速研究開始。ラン温室に小走りしていく。黄色のカルコン色のワンピース。ホント綺麗だ。恵ちゃん全部を抱きしめる時も、そう遠くではない素敵な予感。

 

「今回、一番いい思いをしたのは正だな」

 

大樹がしつこい。

 

「なんで?」

 

「いや。何となく」

 

「まあ、いい思い出はできた」

 

「恵ちゃんとか?」

 

「それもあるけど、皆んなとね」

 

「おかえり、皆んな。皆んなが頑張ってくれた夜の部。余興もコンパも大受けだったんだって?」

 

有田先生がやってきた。

 

こう言う情報は流れるのが早い。

 

「一年生達も、渡辺先生も感心してたよ」

「こんなに優秀で面白い四年生。久しぶりだって」

 

「僕らが学生の頃は君たちみたいな破天荒な人間が多かったんだけど、最近はおとなし目の学生が多いからね」

 

「時代ですよ、時代。昔はお酒にタバコ、一年生の時からなんでもありだったと聞いています」

「今は厳しいですからね。特に飲酒」

 

「有田先生。宴のあとの夜の海も一年生達、喜んでいたみたいですよ。花火とかナンパとか」

「でも想像するに、一番喜んでいたのは正なんです」

 

義雄もしつこい。

 

とにかく有田先生は、僕らからの報告にご満悦。しかし、急に顔色を変え、小声で呟く。

 

「そうそう、浅野教授、帰って来たからね」

 

「とうとう来たか……」

 

なあ、正。

 

「ああ……。とうとう……」

 

なあ、義雄。

 

「うん……」

 

「卒論、カーネーションのオレンジ色、そして植物検定。どうなることやら……」

 

恵ちゃんが温室から黄色のカトレアの切り花を持って帰って来る。

 

「さ~て。どっちが綺麗だ?」

 

自分とカトレアを並べて皆んなに見せる。しかして、皆んなのリアクションは無く固まっている。研究室の空気が重い。

 

「あれっ? 皆んなどうしたの?」

 

恵ちゃんは後ろを振り向く。

 

「あっ! 浅野教授!」

 

振り向くと、ヒグマといきなり出会ったような驚きよう。教授の格好もヒグマを連想させる作業着。

 

「おう、皆んな。久しぶり。この研究室が決まった三年次の秋以来かな」

 

いきなり、南米土産のケーナを吹き出す。南米ペール、ボリビアが発祥の縦笛。浅野教授はコンドルが飛んでいくを奏でる。

 

「誰か吹けるやついるか?」

 

高校時代クラリネットだった恵ちゃん。現役ホルン吹きの僕。コツを掴んで、なんとかすぐに先生レベルに達した。

 

大樹と義雄は全然ダメ。

 

「大樹と義雄はやはり何をやらせてもダメだな」

「来週から植物検定を始めるからよろしく頼むぞ」

 

浅野教授は皆んなにそう話して教授室に戻っていった。

 

「と、言うことです……」

 

有田先生は、少し冷や汗をかきながら、いつものこめかみを人差し指で擦るポーズ。僕らは口を開けたまま。

 

「来月からじゃなくて、来週からですか?」

 

「そうそう、ゴメン。忘れてた。恵ちゃんの方がカトレアよりずっとずっと綺麗だよ」

 

有田先生は研究室の空気を変えようと試みる。

 

「うん。恵ちゃんはどんな花より可愛いよ。ランでさえかなわない」

 

僕も心底出た言葉で、優しい目をして恵ちゃんを見つめる。

 

「ありがとう。でも大樹くんと義雄くんの目は死んでるね」

 

「恵ちゃん。ビグマの天敵なんだから、許してあげてよ」

「ウマが合うというか、ウシが合わないというか、大樹と義雄は、浅野教授の不機嫌の発散場所なんだ」

 

「正と恵ちゃんはいいよ。教授に気に入られていて幸せで」

 

大樹がボソボソ呟く。

 

「あら、幸せにはルールがあるのよ」

 

「残念ながら、誰かがあなたを幸せにすることはできない」

「あなたを幸せにしてくれるのはあなた自身なの」

 

「でしょ? 正くん?」

 

自分自身が幸せになっている恵ちゃん。いや、僕もそう。恵ちゃんを幸せにしているかどうかまだわからないけど、自分自身は幸せだ。

 

「恵ちゃん。ちょっと実験室、いい?」

 

「うん。いいよ」

 

阿吽の呼吸。アイコンタクトで会話ができる。僕らは実験室でハグをしあって、優しいキスを交わす。

 

「正くん。私の望む恋の作法は、縛り合うよりは、自由な恋が理想かな?」

「でもね。私たちの恋にルールを作ろうよ。どちらかがキスをしたいと思ったときは、3つの段階を踏んでいこう。どこかで違和感を感じたら、その時はキスしない」

 

「何? 3つの段階って」

 

「これからの正くんとの恋に無作法というのは私、嫌だなと思って……

 

女の子の口から出るは否定ではない。

 

「そう、3つのキスのルールはね、キスする前に、初めはお互いの顔を見つめ合う、2つ目はお互いの目を見つめ合う、そして3つ目はお互いの唇を見つめ合う」

「そしてそのあとは目を閉じて、今の全てを思い出す。抱きしめ合いながら」

「そして……、キスや……

 

「キスや……?」

 

「研究室に戻ろう!」

 

恵ちゃんが微笑みながら僕の腕を引っ張ってくれる。恵ちゃん大好き。恋は素敵だ。恋って見えたり聞こえたりするものじゃなく、こころで感じるものなんだ。

 

僕の全てをかけて恵ちゃんに恋しよう。何が大切なのかは後からわかってくる。未来とは今なんだ。

 

第53話

 

「おはよう、恵ちゃん。黄色のワンピース可愛いね。とても似合ってる」

 

大樹と義雄が可憐な花を観察するような真面目顔であいさつする。恵ちゃん、本当に素敵だ。これが僕のファーストレディ。僕は嬉しはずかし、こころがざわめく。

 

「恵先輩! すっごく可愛い!」

 

一年生の女の子、男の子たちからもキャッキャ、キャッキャ褒められている。

 

「これね、カルコンの黄色なのよ」

 

恵ちゃんが、スカートの裾をつまみ、お嬢様挨拶をする。

 

「カルコン?」

 

一年生はポカンと口を開ける。

 

「話すと少し長いお話になるんだけど、今、私たち、カーネーションの黄色とオレンジ花色の秘密を調べているの」

「黄色花の花色素はカルコン。オレンジ花は、カルコンとアントシアニンが共存しているのよ」

 

恵ちゃんは一年生に簡潔に説明する。

 

「へえ~。そうなんですか。花の色、ですね?」

「でも、今年の園芸学研究室の四年生の卒論には、そんなテーマがあるとは聞いていませんけど……」

 

「まあ、色々な事情があって研究しているの。この四人プラス、他の学部の仲間の助けも借りて」

 

一年生の女の子が話し始める。

 

「農学部に研究室がいくつかあるけど、今年の園芸学研究室は、一年生からの注目度が高いんですよ」

「面白い研究をしているし、面白い先輩達がいるって」

「面白い先輩はその通りでした!」

 

「一年生から研究室を決め始める人もいるからね。園芸学研究室、面白いんだけど、とっても忙しいよ」

 

僕がそう言うと、

 

「さ~、研究室を忙しくしているのは誰さんですかね~?」

 

恵ちゃんが言う。

 

僕? という顔をして、仕方ない……、自分を指差す。

 

「さて、まずは朝ごはんにしましよう」

 

今日も焼けすぎているアジの開き。目玉焼きもキミの崩れているものが多い。サラダのキュウリも太さがまちまち。とろろ昆布の味噌汁は上出来。味も、とろろの量もちょうどいい。

 

文句は言わない。皆んなで食べれば、どれもみんな美味しくなる。

 

 

ーーーーー

 

 

それではみなさん、先輩達に御礼の拍手!

 

合宿所玄関前で記念写真撮影の後、40人の一年生達に見送りをしてもらう。皆んなちぎれるほど手をふる。

 

「さて、どうする?  まっすぐ大学に帰る? それとも、どこかに寄っていく?」

 

大樹が車のエンジンをかけ、ハンドルを握りながら皆んなに問いかける。

 

「そうね……。鎌倉。久しぶりに大仏さんにでも会いたいな」

 

恵ちゃんが呟いた。

 

「俺、見たことないよ、鎌倉の大仏。義雄は?」

 

大樹が義雄に聞く。

 

「俺もない」

 

「僕は行ったことがあるよ」

 

「あら? 貧乏でデートも出来ないはずの正くん。行ったことあるんだ」

 

「恵ちゃん。貧乏でデートも出来ない、は余計」

「藤沢に、内定している会社の研究所があるんだ。僕の赴任先ではないけど。研究所見学の旅費が出たからね。一人分」

 

「なるほどね。旅費が出たから、そのついでに行けた訳ね」

「どうして私を誘ってくれなかったの? 私は自腹で構わなかったのに」

 

恵ちゃんが呟くと、

 

「その時はまだ……」

 

「正。まだ? 何だよ」

 

大樹が突っ込む。

 

「まだ、四年になったばかりの時で……」

 

「あのさ、恵ちゃんとは学部、そして研究室とずっと一緒だろ。恵ちゃんを友達として誘ってもおかしくなかったのに。変だぞ、最近の正」

 

「変だぞ、正」

 

恵ちやんが微笑んで繰り返す。

 

「そうそう、大仏を見た後は藤沢の海鮮丼屋さんに行こう」

 

僕は話題を変える。

 

「会社の人に紹介されて行ったんだけど、もう最高の味! 一度口にしたら、もう二度と忘れられない。もう、それは海鮮物の宝石箱」

 

「じゃあ、鎌倉の大仏を見たあと、少し戻って藤沢の海鮮料理店と行きますか」

 

大樹はナビをセットする。

 

「二度と忘れられない……、か……」

 

恵ちゃんが、車の窓から昨日の海を優しい瞳で見つめる。

 

「しかしよ、本当に正、なんか恵ちゃんの一挙一動におどおどしているぞ」

 

「おどおどしているぞ」

 

「どうしたんだ?」

 

「どうしたんだ?」

 

恵ちゃん。僕をおちょくらないで。逆なら良かった。

 

夜の海では恵ちゃんとキスをして、腰から秘められた柔らかな部分へと指を滑らせ主導権を握る流れを妄想していたが、甘く優しい恵ちゃんの香りに酔って、自分都合で意識が遠のいてしまい、恵ちゃんの手のひらにモノを出さざるを得なかった。

 

恵ちゃんからしたら、僕は忠犬のような立場になり、恵ちゃんは僕を征服した感じ。本当は、僕が恵ちゃんを征服しなきゃいけなかった。

 

「正くん、リュックからお茶取って。あっ、それとつぶつぶいちごポッキーもあるから出してくれる?」

「チーンっと。はい、鼻をかんだティッシュ、ゴミ箱に入れといて」

 

「はいはい」

 

「おいおい、後部座席は恵お姫様の独壇場だね。正は召使い」

 

「確かに」

 

大樹と義雄は、どうやらマジに僕らの変化を捉えている。

 

恵ちゃんの言うこと、僕は全部聞く。そういう流れになってしまった。恵ちゃんだけがこの事情分かっている。

 

「正くん、このプレッツェル、ハートの形してるのよ」

 

「本当だ。初めて見たよ」

 

「キュンとする可愛い見た目、そして甘酸っぱいイチゴ味」

「誰かさんみたいでしょ? 正くん?」

 

「ああ、恵ちゃんの様だよ」

 

「正。義理で言っている感じじゃない。ガチだ。マジで言っているぞ」

 

「いるぞ」

 

恵ちゃんがおうむ返しして微笑む。

 

「夜の海。やはり恵ちゃんと何かあったか?」

 

義雄がしつこい。

 

「だ・か・ら、手をつないでさ……」

「一緒に歩いてさ……」

 

「はい、そこまで」

 

大樹が仕切る。

 

「だいたい考えてみろよ。いくら夜の海とはいえ、できることは限られる」

「せいぜいキスするくらい」

 

「正の弱っちい性格じゃ、恵ちゃんにキスなんてできる訳がない」

 

「だから、言っただろ大樹。海で恵ちゃんにキスなんてしてないよ」

 

「してないよ。そのあとにね、キスは海じゃなくてね……」

 

恵ちゃんが、これは面白いとばかりに話の流れに身を乗り出す。そのあとにね、は大樹と義雄に聞こえていなかったようだ。

 

「手をつないだことぐらい許してやれよ、なあ、義雄」

 

「まあな……」

 

「でも素人は怖いからな」

 

「何?」

 

恵ちゃんが大樹に問う。

 

「二人して夜の海初体験。満天の星空。夜の海の得も言えぬ神秘。心地よい潮風に、こころとからだの開放感、闇が作り出す遮蔽感」

「俺の経験上、そういう異空間に投げ出された素人男女はハメを外すことがある」

 

「何、何?」

 

「まあ、見ている人がいても、見ぬふりをするから別段構わないけど、ペッティングやら、ときには本番など大胆な行動に出るカップルもいるんだ」

 

「あらあら、困った人たちがいるのね……」

 

なんで恵ちゃん、真面目顔でそんなこと言える? 僕は猛烈に恥ずかしくてたまらない。

 

「でも、私と正くん、夜の海で、より一層仲良くなったよ」

「なんだろう……、論理とストーリーが出来上がっていく感じ?」

 

「材料が二人でしょ、方法がいくつかあって。そして素敵な結果」

 

「そんな科学論文を書くような話にしないでよ」

 

大樹がいらだつ。

 

「なんなら考察まで書けるわよ」

「正くんの考察はね……」

 

「何?」

 

「僕が恋の主導権を握るはずだったのに、私に主導権を握られた可能性が考えられる。そのため、この恋は私が優位に立つことになるかもしれない」

「まあ、そんなとこかな」

 

図星じゃないか。僕ははっきり言って恥ずかしい。でも、僕のこころをしっかり受け止めてくれた恵ちゃんに感謝。

 

「まあ、正。手をつなぐことしか出来なかったんだろ。気にするな。旅の恥はかき捨てだ」

 

大樹、いいやつだ。

 

「かき捨てだ」

 

恵ちゃんが僕に微笑む。

 

確かにかき捨てしたのは僕。恥もアレも……。でも本当に気持ちのいい女の子だ。恵ちゃん。本当に恵ちゃんとなら、いい恋をしていけそう。恋というのは、もともと理性でコントロールできるものではないから、良心や世間体、友達さえを気にをしても尚やめられないからこそ楽しいんだ。なんだかいい。この爽快なこころの感じ。

 

「正くん。足元にゴミ落ちた。拾って」

 

「はいはい」

 

忠犬だ。僕は左手を伸ばし、不安定な体制でゴミを拾った。しかして、そのときに、期せずして右手で恵ちゃんのお尻をしっかり触ってしまった。

 

「正くん。そこは……、今度のお楽しみ」

 

恵ちゃんの呟きが大樹に聞こえたらしい。

 

「何、何? 恵ちゃん。今度のお楽しみって?」

 

「なんでもない。今度とお化けは出たことないから」

 

恵ちゃんはカラカラ笑う。僕も笑う。ひとつひとつ、二人で笑い話ができるネタをつくってくれる恵ちゃんへの好きが増える。

 

「あ~あ。後部座席は楽しそう。義雄じゃなく、恵ちゃんを助手席にすればよかった」

 

「あら? 歩ちゃん専用席に私を座らせる訳?」

 

「そ……、そんなんじゃないよ……」

 

大樹は言葉を詰まらせる。

 

「いとしい人がいなくて寂しくない人間なんていないのよ。 隠せる人が多いだけ。皆んな、恋したら心に空いた穴を仕事や勉強とか、体を動かす忙しさで埋めてるの。悩みとか切なさとかで埋めているような恋はうまくいかないよ」

 

「それは、ついこの間までの僕だね」

 

僕は恵ちゃんの耳元で呟く。

 

「そう。正くん。悩みと切なさに埋れていたけど、これからが勉強の忙しさの本番になるわね」

 

また恵ちゃんが笑う。そして恵ちゃんも僕の耳元でささやく。

 

「後でゆっくりキスをしよう。思いっきり笑い、頑張っていく正くんのこころを癒すことなら、私、どんなことでもしてあげる」

 

「恵ちゃん。ありがとう」

 

「おいおい、正と恵ちゃん。何二人してコソコソ話ししてるんだよ」

「早く大仏さんに手を合わせて、あらぬ煩悩を無くしてもらえ」

 

「あら? 大樹くんに言われるとは思わなかったわ。煩悩の塊の」

 

「もう……、恵ちゃん。お・だ・ま・り」

 

大樹は国道134方向にハンドルを切る。遠くに江ノ島が見えてきた。鎌倉まではもうすぐだ。

 

僕は恵ちゃんとの恋だけは遠慮しない。恋心を真剣に受け止めて、本気で恵ちゃんと同じ方向を見つめていく。恋は盲目。もしかしたら僕を一生幸せにしてくれるかもしれないという妄想を、この恋が続く限り消しはしない。それが人から煩悩と言われようとも。

 

第52話

 

「ただいま……」

 

僕と恵ちゃんは、少し小さくなって合宿所に帰ってきた。

 

「おい、どこへ行ってたんだ? 正と恵ちゃん」

 

義雄が僕らを問い詰める。大樹はまだナンパから帰ってきていないらしい。

 

「いや、フランスの象徴派の詩人の話をしていた。ボードレール、ヴェルレーヌ、そしてランボー。悪の華、そして地獄の季節だよ」

 

「ウソ言え。顔にウソだぴょ~ん、と書いてある」

「下手な言い訳は、黙っているより悪いんだぞ」

 

「いいえ、ちゃんと正くんに聞いたわよ。永遠って、何か」

「また見つかった。何が? 永遠が。海と溶け合う太陽が」

 

「恵ちゃん。ちょっと違ったんだけど、その和訳もあり……」

 

義雄が僕の話をさえぎる。

 

「海と溶け合う太陽ね。それは夕暮れ時のオレンジ色の空と海と太陽だろ」

「怪しいな~。恵ちゃんはおしゃれなオレンジ色のワンピース……」

「正と二人。深夜の浜辺で実は何してた?」

 

「実は……、デートしてた」

 

「それで?」

 

「手をつないだ……」

 

「それで?」

 

「義雄、そこらへんまででいいだろ」

 

「キスした?」

 

「あら? そういえばキスはしてないね。もっとすごいことしたけど」

 

「恵ちゃん。お・だ・ま・り」

 

恵ちゃんは僕の顔を覗き、肩をすくめて小さく微笑む。

 

「あのね、実は二人して浜辺を散歩して、正くんが彼女を作らない秘密を教えてくれてたの」

 

「何? それ?」

 

義雄がぶっきらぼうな不満げな顔で問いかける。

 

「貧乏でお金がなく、デートもできず、服も買えないからなんだって」

 

恵ちゃんが楽しげに話す。

 

「でもね、もう内定も決まったし、将来の稼ぎの算段がついたからね、これから女、つくるらしいよ」

 

「わかった。わかったよ。正と恵ちゃんは、夜のお散歩ね」

 

「そうなの」

 

恵ちゃんが平然とした顔で答える。

 

「もう、全く色気ない」

 

恵ちゃんが僕にお椀型の右手のひらを差し出して、ペロンと舌出し、小さく笑う。

 

「おう、皆んな。帰ってきたぞ!」

 

「凱旋帰国か、大樹」

 

「大漁、大漁。なっ! 皆んな」

 

「はい。大樹先輩のおかげです」

 

「大樹よ~。ナンパで後輩に恩売ってどうする?」

 

「いや~、よかった。有名女子大の子たち。5人全員まとめていただきました!」

 「キスは無理だったけど、手を握ったり、肩抱きながら海岸を散歩した」

 

「おいおい? そんなレベルでよかったのか?」

 

「何、それ? 正の考えているレベルって?」

 

「いや、それは……、あの……」

 

恵ちゃんがクスッと微笑む。

 

「アバンチュールは無理だったけど、LINEもちゃんと繋げてきたし、収穫、収穫。なあ、皆んな!」

 

「はい! 先輩」

 

「あのさ、一夜のタイミングで落とすのがナンパだろ。LINEつないだり電話番号聞いても、街に戻って昼間になったら、あら? これね。どうでもいいや、消しちゃおう。になるだろ」

 

「そう、大樹先輩。夜の海でナンパして、後日会ってくれる人の確率は2%しかいないという話もあるらしいです」


ナンパに行った一年生男子のひとりがつぶやく。

 

「そんなこと書いてある雑誌の記事は無視しましょう」

 

「ところで恵ちゃん。そのオレンジ色のワンピース、すごく素敵だね」

 

「でしょ。最近買ったの、来たる夏に向けて。黄色のワンピも買ったのよ。明日着る」

「カーネーションの黄色花と、オレンジ花の秘密解明。験担ぎもした」

 

「恵ちゃんの心のオレンジ色の秘密。俺、解きたいよ」

 

「あら、正くんに聞いてみたら?」

 

恵ちゃんが自信ありげに僕の方に振り向く。

 

「なんで正?」

 

僕は照れる。恵ちゃんに、なんだか弱みを握られたやさ男のよう。

 

「ねえ皆んな、飴食べる?」

 

恵ちゃんが場の空気を変えるように、ポケットから穴あきリング型のオレンジ色の飴を三つ取り出す。

 

「はいっ、どうぞ」

 

恵ちゃんは、大樹と義雄に誇らしげに差し出すよう、右手のひらに飴を載せる。

 

「穴が開いているから、この飴は女の子よっ!」

 

「いいね。ナメ放題だね!」

 

凱旋帰国したばかりの大樹のテンションが高い。

 

「大樹くん、いやらしい。私、そんなつもりで言ったんじゃないわよ……」

 

「じゃあ、どんなつもりで?」

 

恵ちゃんもテンションが高かった。自分で言った言葉に照れてうつむいている。別な意味での場の空気が変わる。

 

「まあまあ、お二人とも落ち着いて」

 

「女の子が男に意味深とも取れる言葉を使うのは、一緒に楽しく話をするため。男が下ネタに誘導するのはエッチな妄想を楽しむため。女の子と男の脳みそは違うんだよ」

 

義雄が間を仕切る。

 

「そういえば、男が女に話しかけるのはベッドを共にしたいからで、女が男とベッドを共にするのは一緒に話をしたいからだと聞いたことがある」

 

「大樹も知ってるじゃん。そういう分野の知識」

 

「まあな」

 

「もう、研究の分野の知識もそうスラスラ出てくるぐらい勉強してて欲しいわね」

 

恵ちゃんが義雄と大樹の会話にチャチャを入れる。

 

「もともと妄想の扉を開いたのは恵ちゃんの言葉からだよ。何かあったの?」

 

大樹が恵ちゃんに問いかける。

 

「大樹よ。実はさ、正と恵ちゃん何だか変なんだよ。二人して夜の浜辺を散歩してきたらしくてさ」

 

「えっ! えっ! 何それ? 二人きりで? キスした?」

 

「そうよ。二人で。でも、キスなんてしていないわよ。ただの夜の浜辺のお散歩」

 

恵ちゃんが真面目顔になる。

 

「私言ったの。誰にでも優しいところが正くんの好きなところで嫌いなところ。私、皆んなの女の子じゃなくて、正くんの大事な女の子になってもいいよ~って」

 

「それで?」

 

大樹と義雄が身を乗り出す。

 

「私にだって、辛いことや寂しいことがある。そして言ったの。恋人というのは、中々どうして凄いものよ。一人じゃ足を踏み出せない時でも 二人なら勇気を出せる時がある。辛くて泣いてしまいそうな時でも支えてくれる恋人がいれば耐えられる。何げない一言で、こころ救われる」

 

「そんな話もしたかな~?」

 

うそ八百。恵ちゃんもすました顔してなかなかの役者だ。

 

「それって、恵ちゃんから正への告白じゃん。それで正はどう答えたんだ?」

 

僕はうそをつけない。

 

「恵ちゃんが、ちょっとオケのこずえちゃんにヤキモチ焼いたんじゃないかな? 大樹も義雄も知ってるでしょ? こずえちゃん」

 

「ああ、こずえちゃんね。まあ、ロマンティックな夜の浜辺を散歩したら恵ちゃんも女の子だし、そんな言葉も出てきても仕方ないか~」

 

大樹は自分も今さっきナンパをして、散々甘い言葉を使ってきたところ。妙な脳みその回路で納得する。

 

「まあ、いいや。正と恵ちゃんは何もなかった」

 

「なかった」

 

恵ちゃんが素敵な笑顔でおうむ返し。

 

「では皆んな。もう遅いから寝るとしようか?」

 

「うん」

 

恵ちゃんが満面の笑みで答える。大樹と義雄は2階の寝室に向かって階段を上がっていった。

 

「正くん、ちょっといい?」

 

恵ちゃんが僕の手を引き、内ばきのサンダルのまま外に出る。そして、合宿所の庭のソテツの影に隠れ抱き合い、温かいキス。

 

「これ、忘れてたよね!」

 

「実はね、私、ドキドキしているのよ。この恋。始まりは夢によく似た妄想と、そして根拠のない自信だけだったから」

 

「僕は自分の欠点が邪魔をして恵ちゃんへの恋、前進できないのではないかと取り越し苦労してた。僕らは神さまの創造物で、体は完全なはずだけど、こころは完全じゃなくて……」

「でも、相手への思いやりのこころを大切に持ち続ければ、どんな夢でもかなうものだと、この恋で折にふれて思い出すようにする。自分は飛べると思ったら本当に飛べる、みたいなくらい。こころに思い描いていることを恵ちゃんとの恋の青写真にする」

 

「うん。ありがと。いい恋しようね!」

 

玄関先で恵ちゃんは僕に素敵にバイバイして、2階への階段を駆け上っていった。