第58話

 

「クラシック音楽って、とてつもなく非日常的な世界へ通じる扉。心地いいよね。特に俺は後期ロマン派の大交響曲がいい」

 

「ベートーヴェンの9曲の交響曲があまりにとてつもない内容と完成度で、後の作曲家はベートーヴェンの後で交響曲をいかに書くかという命題に悩まされた」

 

「しかして、力業で交響曲の軌道を変えてしまったマーラーの交響曲には、世界がまるごと入っている」

「常識を超えた巨大編成と楽曲規模、古典的な楽曲構成と調性の約束事を完全に破ってしまうぎりぎりのところまで試される作曲技法」

 

マーラーの大ファンの水野が語る。今回の定期演奏会でも巨人の選曲の主導を握り、決めた張本人。

 

「マーラーの世界では、人間の生と死、愛と憎しみ、理性と狂気がせめぎあう」

「自然が、街の喧騒が、英雄の勝利や悲劇が、天国と地獄が、高貴なコラールと場末の酒場で奏でられる流行り歌が、そして神と悪魔が、宇宙までもが、音楽という世界共通言語を通じて僕らの意識に語りかけてくる」

「描写ではなく、そのものが聴こえてきてしまうことに、僕らは戦慄を覚えずにはいられないね」

 

僕が言うとみんなが頷く。

 

「24歳から作曲を開始し、28歳で完成させたマーラーの巨人は、青年マーラーの夢と挫折、希望がいっぱいに詰まっていますよね」

「彼の恋愛の挫折と克服が背景をなしていますし」

 

みどりちゃんもマーラーのファンだ。

 

「25歳の時にマーラーはオペラ歌手のヨハンナ・リヒターに恋をしますよね」

「金髪美女の彼女に猛アプローチをするもその恋は実らず。そんな失恋の気持ちを曲の旋律に込めた交響曲」

 

「第四楽章の175小節目からのマーラーの青い愛の旋律。これを聞いただけで、こずえなら恋に落ちちゃうな」

 

こずえちゃんが両手を祈りのように胸で組み、遠い目をする。

 

「結局ふられて、マーラー自身第三楽章を恋に敗れたのごとく葬送曲にしてしまったよね。この楽章の解釈は諸説あるけど」

「僕は個人的にはこの三楽章は実はユダヤ人であるマーラーの、反ユダヤの世界に対するアイロニカルな楽章だと思ってる」

 

「ほら、四楽章が始まるよ。楽譜の指示は、嵐のように動的に。うたた寝しているお客さんも、この冒頭の突然鳴り響くシンバルの一撃で目を覚ます」

「ロマン派好みの闘争から勝利へという構図の長大なフィナーレで、闘争的な第1主題、夢見るような第2主題を軸に、起伏に満ちた劇的な展開を繰り広げ、最後はニ長調を確立して勝利を謳歌しながら圧倒的なエンディングに至る」

 

「最後の謳歌のメロディではホルン全員の起立ですね」

 

みどりちゃんは僕の方を向いて明るい顔をする。

 

「カッコイイです~」

 

こずえちゃんがはしゃぐ。

 

「そう、定期演奏会の前プロはデュカスの魔法使いの弟子だっけ?」

 

「そうですよ。正先輩。ファンタジアの世界です!」

 

「ホルンは二、三年生が中心。みどりちゃんやこずえちゃんはバイオリンだからどっちも出るね」

 

「はい」

 

「しかし、魔法使いの弟子はクラシックやディズニーで有名だけど、詩人ゲーテが書いたものが原作ということはあまり知られていないね」

 

「そうなんですよ」

 

「ゲーテの発想は素晴らしいよね」

 

「そういえば、こずえ、正先輩の別名が瀬戸際の魔術師だと聞きました」

 

「なんでこずえちゃんがそんなこと知ってるの?」

 

「私が言ったんです。こずえちゃんに。義雄さんから聞いて」

 

みどりちゃんが微笑みながら答える。

 

「義雄さんが、正は皆んなが無理だと言っていることでも、何でも挑戦する。そして物事の帳尻を最後の最後に絶対合わせる。まるで魔術師のようだ、って」

 

「あまり良い別名じゃないよ」

「魔法使い、の方がカッコイイ」

 

「どっちでもいいです。正先輩なら」

 

こずえちゃんの言葉に、皆んなが微笑む。

 

「次聴く曲、何にしようか?」

 

「ブラームスにでもしようか」

 

隆が言う。

 

「いいですね」

 

みどりちゃんはブラームスの大ファン。

 

「1番がいいかな? バーンスタインのウイーンフィル」

「一昨年やりましたね。私がまだ一年生のとき」

 

「うん。懐かしいね」

 

「待って。僕らの定演のライブ録音の演奏にしようか?  iPodに入ってる」

 

「聞きたい、聞きたい!」

 

こずえちゃんが興味津々。

 

隆が鞄からiPodを取り出し、カーナビのUSBケーブルにつなげる。

 

「一昨年の四年生、すごく上手な人が多かったからいい演奏になっているよね」

 

演奏が始まる。第一楽章。ウン・ポコ・ソステヌートという指示のついた堂々とした序奏で始まる。最初の部分では「ドン,ドン,ドン、」と叩くティンパニの確固たるリズムが印象的。

 

この上に弦楽器がジワジワと半音ずつ上昇していくような悲壮な感じのメロディを演奏し、管楽器の方は反対に下降していくメロディを演奏。何とも言えない複雑で重苦しい雰囲気がしばらく続く。

 

「ブラ1は、構想から完成までに21年も掛かっているんだ」

「恐ろしく慎重にかつ情熱を込めて作られた作品だよ」

 

「そうなんだ」

 

こずえちゃんが感心する。

 

「ブラームスはベートーヴェンの流れを汲んで古典的な構成のソナタ形式の作品を書いてきていて、交響曲が何としても書きたかった」

 

「しかし、マーラー同様、ベートーヴェンの後にいったいどんな曲を書けば良いのか? という難題が20年間に渡って突きつけられていたんだ」

 

隆が語る。

 

「そのブラームスの答えが交響曲第1番」

「マーラーはロマン派の大交響曲にその答えを出したでしょ」

 

「ブラームスの均整・調和を理想とする古典主義、マーラーは古典主義をそれほど重視しなかった感情・感覚・直感などを重視するロマン主義」

 

「すごい、すごい! 色々な音楽史が重なり、繋がっていく」

「先輩方のブラ1の演奏も上手ですね!」

 

こずえちゃんは上機嫌。

 

「いいかい、来るよ、こずえちゃん。ブラ1のクライマックス。第4楽章391小節目から」

 

「バイオリンが、まるで打楽器になるんだ。指揮者の先生もそこで革靴を指揮台に踏みつける音を出すんだ」

 

「ゾクゾクする、先輩方の演奏!」

 

「来るよ、コーダ。そして神に捧げる祈りのような荘厳なコラール」

 

「はい」

 

バイオリンが低音で力強く、弓を弦に叩きつけて松ヤニが飛び散り、馬の尾の毛がいくつか切れそうなくらいなフォルテッシモのリズムを刻む。指揮者のリズムに合わせて踏み込む靴の音も聞こえる。そして冒頭のコラールが再び登場し、曲一番の盛り上がりとなる。この交響曲の全ては、この部分のためにあるようなものと言っても過言じゃない。

 

「深刻に始まったシンフォニーなのに、自信を持ってハ長調で堂々と締めくくるんだ」

 

「ハ長調はピアノでいうと全部が白い鍵盤、つまり明朗、純白のイメージ。この曲も澄み切った、迷いのない終わり方になっているでしょ」

「ベートーベンの言った言葉を解釈すると、”苦悩に出会い、もしも君のまつげの下に涙がふくらみたまるならば、それがあふれ出ないように強い勇気をもってこらえよ”」

 

「耐えたんだ。ブラームス。20年間も」

 

「ブラームス。すご~い!」

「先輩方の演奏もすご~い」

 

こずえちゃんの笑顔での拍手がやまない。

 

「そうそう、道、混んでたけど、バナナワニ園まであと30分くらいだね」

 

「コンビニで休憩とる?」

 

僕が気を使う。

 

「ううん。行こうよ、このまま」

 

「トイレの用はないの?」

 

「大丈夫で~す」

 

皆んなで声を合わせて答える。どこだかの頻尿グループの移動とは大違い。

 

「ねえねえ、先輩方の演奏もっと聞かせてください」

 

「そうだね、去年のチャイコの5番があるかな」

「バナナワニ園に着くまでには、第2楽章くらいまでなら聴けるかな」

 

「そう、第2楽章。アンダンテカンタービレのホルンのソロは隆。完璧。もう妖艶で最高だった。演奏会に来ていたプロの先生も聞き惚れていたよ」

 

水野が隆をべた褒めする。

 

「隆、このあとプロオケにリクルートされたんだもんな」

 

「うん。もちろん、プロの世界に生きるのは厳しいから断ったけど」

 

隆の彼女の里菜ちゃんのクラリネットから始まる。冒頭のクラリネットの奏でるメロディーは暗い。

 

「そうそう、隆。どうして今日里菜ちゃんを誘わなかったの?」

 

「里奈ちゃん、今日は必須科目のある日なんだ。単に授業をサボれないだけ」

「あと、車にも乗れないでしょ。5人で満員」

 

「一人削ればよかったじゃん」

 

「誰を?」

 

水野が俺? と指を差す。

 

「そう、水野。俺らは車だけ借りればいいことだから」

 

「そんな、皆んな冷たいな~」

 

「まあ、里菜ちゃんも体格は大きい方だから。後部座席がぎゅうぎゅうになっちゃうし」

「今日でも、ちょっとキツイでしょ?」

 

「はい。私の香りが、もう正先輩に移ってます。少し多めに香水ふりかけてきましたから」

 

キラキラ笑顔でこずえちゃんが微笑む。

 

「恵先輩。気づくはずですよ。女の子は香りに敏感だから」

 

「そういう戦略も組んできたの?」

 

「はい! もちろん」

 

「でも残念だね。僕が研究室に戻る頃には、箱入り娘の恵ちゃんはきっと帰っているよ」

 

「いや。恵先輩待っていますよ」

「女ですもの、わかります」

 

「何? その座った声の、こずえちゃんの確信に近い予言」

 

「恋する女って、そうなんです」

 

「ホントかなあ……」

 

「はい」

 

こずえちゃんが真面目顔で答える。

 

「さて、何でもいいけど着いたよ。バナナワニ園」

 

僕はおととい来たばかり。ワニもレッサーパンダも可愛いが、なんか心は空虚になってる。農場助手の渡辺先生がまだ仕事をしていた。

 

「おう正くん。あれからまだ伊豆にいるのかね?」

 

「いや……。一度大学に帰って、サークルの友達とまた来ました」

 

「暇なの?」

 

「暇な訳ないですよ……」

 

「まあ、何にせよ、また来たんだからゆっくりしておいで」

 

「なあ、正」

 

「何?」

 

「俺、ちょっと回して来る」

 

「ここまで来てあれか?」

 

「ああ、さっきいい雰囲気を感じる店を通って来た」

 

水野は右手でパチンコ台のダイアルをひねる仕草をする。

 

「おいおい、ここまで来てパチンコか?」

 

隆は呆れる。

 

「すぐ出して帰るから。連絡はLINEで頂戴」

 

水野は園に入ったばかりなのに、すぐ車でパチンコ屋に向かった。

 

「まっ、先輩。温室に行きましょう。可愛いお花の名前、たくさん教えてください!」

 

こずえちゃんが満面の笑みで僕の腕を取る。

 

「私にもお願いします」

 

みどりちゃんも素敵にキラメク笑顔。

 

「うん。わかった。じゃあ温室に入るよ」

 

「こずえより可愛い花があったらどうしよう……」

 

安心して。こずえちゃんとみどりちゃん。二人とも、どんな花より可愛いよ。もちろん、恵ちゃんにかなう花もどこにもない。女の子は、よく花に例えられる。特に恋している女の子。

 

皆んなの前で咲く花は、皆んなが知ってる花になる。皆んなが知らない所で咲く花は、神が知ってる花になる。皆んなが知らない所で咲く恋心も、神は知ってる恋になる。