第101話

 

ピンポーン。

 

恵ちゃんからのLINEだ。

 

『正くん、緊急連絡』

『色素研究会での私たちの発表が、明後日の午後から午前中に変更になったんだって』

『すなわち、正くん、私たち明日の夜には名古屋入りしないといけない』

 

『前泊よ』

 

『本当?』

 

『うん。本当』

『しかも、次の日の発表の夜には一席準備されているから、正くん、二泊三日で名古屋に来なきゃ』

 

『ああ、分かった』

『もちろん恵ちゃんも二泊三日、一緒だよね?」

 

『うん。もちろん』

『ホテルの部屋は二人とも、ダブルのシングルユースで有田先生に再予約してもらったよ』

 

『ダブル?』

 

『正くん。鈍いわね』

 

『?』

 

『私に言わせる気?』

 

『ああ、一緒に……、ふた晩過ごせるね』

 

『そういうこと』

『待ってるよ。名古屋で』

 

『恵ちゃんに会いたい。すっごく会いたいよ』

 

『私もよ』

『思い出の、お気に入りのオレンジ色のワンピース、持っていくからね』

 

「た~だし先輩」

「そろそろマーラー、始まりますよ!」

 

「まだ時間があるじゃない。急かさないでよ」

 

僕はゆっくりと楽器にベルを装着する。

 

「あれ? こずえちゃん、着替えてきたの?」

 

「はい。お股せしました」

「こずえもホルンのベルが替えられるように、ピンクのプリーツスカートにセットアップして参りました」

 

「いかがです?」

 

こずえちゃんはスカートの裾を持ち、少し首をかしげ、お嬢様挨拶をする。

 

「可愛いね」

「こずえちゃん。何を着ても可愛いから」

 

「ありがとうございます。その言葉、胸に刻んで生きていきます」

「正先輩への愛こそは、私のブラ移動です」

 

「それをいうならプライドでしょ」

「そう、こずえちゃん。僕ね、明日の夜に名古屋入りしなきゃならなくなった」

 

「えっ?」

 

「色素研究会の発表スケジュールに変更があってね、明日の夜には名古屋入りしなきゃならないんだ」

 

こずえちゃんの顔色が変わる。

 

「ひつじが一泊、ひつじが二泊……どうして……。眠れなくなります」

「私の正先輩が……」

「幸ある日々が……。羊が……」

 

「羊はよくわからないけど、二泊三日。まあ、いろいろ予定は変わるものだよ」

 

「名古屋には、恵先輩も来るんですよね?」

 

「ああ」

 

「ふた晩も一緒ですか?」

 

「うん」

 

「フカフカのベッドで愛し合う。それがふた晩も続くなんて……」

「私には考えられない。いや、考えたくない事態です」

 

「恵ちゃんと僕とは別々の部屋だよ。安心して。大したことない」

 

「正先輩。嘘を言うときはすぐ分かります。右の眉が上がります」

「体位したことない大したことをする……」

 

確かに。恵ちゃんとはふた晩、抱き合って眠ることになるだろう。なかなか嘘をつき通せない。

 

「さあ、こずえちゃん。マーラーだよ。合奏にいかなきゃ」

 

「マーラーの巨人は、青春の謳歌とも言われていますが、実は失恋交響曲です」

 

こずえちゃんがうつむき、つぶやき始める。

 

「どうしたの? 急に?」

 

「マーラーは夫のある、ウエーバー大尉の夫人のもとへ足しげく通ううちに、夫人と不倫関係に陥入りました。まさに、熱愛です」

「それなのに、この交響曲は、全体として失恋の色合い」

 

「交響曲に引用された、原曲のきっかけとなったヨハンナ・リヒター女史にしろ、ヨゼフィーネ・ポイスル女史にしろ、マーラーはけっきょく振られて、悲恋で終わっています」

「今日練習する四楽章は、深く傷ついた心の叫びの様相を示しているソナタ形式にもとづく楽章です」

 

「ああ! 私の今の心と同じです」

 

「四楽章。絶望の底からトランペットとトロンボーンによる威嚇的なファンファーレが鳴り響きます」

「まるで、私の心の様……」

 

「でも、展開部の終わりに、第1楽章の狩りのファンファーレが金管によって勇壮に吹奏されるじゃない」

「ここでほんの一瞬、あっ、と息を呑む瞬間を経て、ハ長調からニ長調に劇的に転調する瞬間がある」

 

「リセットだよ」

 

「この交響曲は、やはり青春交響曲なんだ」

「マーラー自身も、この部分をとても気に入っていて、この交響曲全体で優れた部分があるとすれば、ここであると述べていたほど」

 

「この直後、自然の響きの中では短調だった4度下降音型がニ長調になって、楽園主題として力奏される」

「そして最後の最後、僕ら、ホルン全員が起立して吹くように指示されている。曲は、ますます熱気を帯びて、喜びのうちにおわる」

 

「でしょ? こずえちゃん」

 

「正先輩のアナリーゼは合っています」

「しかして、私の心を考えてはいません」

 

「……」

 

「愛する彼が、女の人とふた晩も愛し合って、抱き合って眠るのですよ」

「どうしましょ?」

「私には耐えられない……」

 

「大学の普通の日々でも一緒じゃない」

 

「僕は恵ちゃんとほとんど一緒にいる訳だし」

 

「それと今回は別です」

「夜を明かすんです。二人きりで」

「まるで、夫婦の様に……」

 

「分かった、分かった。まずは合奏に行こう」

 

こずえちゃんは不機嫌な顔のまま演奏を始める。

 

僕は、いつもより正しく演奏している。

何だろう? 先に、青春の楽しみがあるから。

 

「ホルンパート。今日の出来は素晴らしっかったですね」

 

練習後、こずえちゃんがポツリと呟く。

 

「バイオリンもいつも通り、上手だったよ」

 

「ありがとうございます……」

 

こずえちゃんに元気がない。

 

「私、これから魔法使いの弟子もありますから」

「この辺で……」

 

僕は昼寝をする。

 

自主練習も大事だが、名古屋での発表を控えて休まなきゃいけない。

 

「ピンポンパンポーン」

 

「これより食堂で昼食です」

「皆さま、遅延なき様お集まりください」

 

みどりちゃんの館内放送。

 

「おう、正、水野。行くぞ」

 

一緒に昼寝をしていた三人衆で食堂へ向かう。

 

「さて、今日の昼食はピザの食べ放題で~す」

 

「わ~い!」

 

皆んなで拍手する。

 

「皆さん。ロシアに行くには、ビザが必要で~す」

「あっ! 違ったか」

 

「ハッ、ハッ、ハ」

 

夕子ちゃんのアナウンス。

 

こずえちゃんとはどこか面白味が違う。

 

「こずえちゃん、どうしたの~?」

 

外野が叫ぶ。

 

こずえちゃんが夕子ちゃんから渡されたマイクを握る。

 

「本日、私においては辛いことがございました」

「つきましては、本日のアナウンスは、どうぞ、夕子、夕子にお任せ願います様申し上げます」

 

「こずえちゃ~ん。選挙演説じゃないんだから」

 

「それでは、この私、櫻井こずえ、皆様のご要望通り四股入りではなく、蹲踞をやらせていただきます」

 

「蹲踞じゃないよ、選挙って言ったんだよ」

 

こずえちゃんは外野を無視し、股を開き蹲踞を披露する。

 

「正先輩は、明日からこの様に目の前で蹲踞をしてくれる女の人と一緒になるんです」

 

「何、それ~?」

「正は関係ない。俺たちは、こずえちゃんでいいよ~」

 

外野の気の気かした言葉にも、こずえちゃんの反応はない。

じっと、瞑想の様に蹲踞する。

 

「腹減った~。お昼にしよう」

 

「はい。不肖、こずえの言葉、ご唱和下さい」

 

「いた~だけません」

 

「いた~だけ……」

 

食堂がザワザワする。

みどりちゃんが、慌ててマイクを握る。

 

「それでは皆さん。いた~だきます」

 

「いた~だきます!」

 

こずえちゃんは、テーブルの席を立ち、ロビーへ向かう。

 

「正。どうしたんだよこずえ嬢」

 

「ちょっとしたハプニングがあってさ」

「僕、ちょっと行ってみてくるね」

 

ロビーでこずえちゃんは涙を流している。

 

「こずえちゃん……」

「許してよ……」

 

僕はこずえちゃんの両肩に手をのせる。

 

チュ~。

 

こずえちゃんが、いきなり僕に抱きついてキスをする。

 

「これで、まずはファーストステップ。許してあげます」

「セカンドステップは、もっと凄い事してもらいますからね」

 

こずえちゃんは元気になった。

 

「さて、正先輩。ピサ、ピサ」

 

「ピザじゃないの?」

 

「次は、この私めで、ピサの斜塔になってもらいます」

 

「?」

 

「私の前で、ピンピン、腹につくほど斜めに立たせますです」

 

こずえちゃんは、不気味に微笑む。

 

 

ーーーーー

 

 

「正。こずえちゃんと何してた?」

 

隆が僕に尋ねる。

 

「別に、何もしてないよ」

 

「いや、正の唇に口紅が付いているからさ」

 

僕は慌てて、ハンカチで唇を拭く。

 

「嘘だよ、正」

「正には恵ちゃんがいるんだから、こずえちゃんとは然るべき距離を置かなきゃ。身も、心も」

 

僕は、唇を拭いたハンカチに色が付いていないことを確認してポケットにしまう。

 

「ああ。分かってる」

 

「正くん、側からみて、こずえちゃんにいい様に遊ばれてるよ」

 

同じテーブルに座っている里奈ちゃんも僕に注意する。

 

「どうすればいいんだろうね……」

 

僕はため息をつく。

 

「キャンパスの日常生活に戻れば、恵ちゃんがいるから大丈夫だけど、この合宿の閉鎖空間の中ではね……」

 

勉強では秀才の隆も妙案が浮かばない。

 

「いっそ、合宿期間だけは、正、こずえちゃんの彼氏みたく付き合ってあげれば?」

 

投げやりの様に隆が言う。

 

「ダメよ、ダメ」

 

「それすると、いくら恵ちゃんでも、別れにはならないけど、正くんにソッポを向くよ」

「危ないから、ダメ」

 

里奈ちゃんが駄目押しする。

 

「この、最初の三日間の様に神経を使うでしょうけど、心の距離をおいて時を過ごすのが一番」

 

「うん」

 

「色素研究会がスケジュール変更で前泊になり、明日から名古屋に入らなくては行けなくなって」

 

「それでなの」

 

「何だか、ペースを崩されたこずえちゃんの気持ちはわかる」

「予定より早く正くんがいなくなって寂しくなる。慌てるよね」

 

「こずえちゃんに、何か言われた?」

 

「遠回しにだろうけど……、卑猥な感じの言葉……」

「やっぱりね」

 

「こずえちゃんは、正くんの事、急いでどうこうしたくなっているのよ」

「そう言う時こそ、正くんは、年上の男としてゆったりとした態度で、こずえちゃんの言いなりにはならないことを知らしめなきゃ」

 

「正は、それができない男なんだよな~」

 

隆が笑う。

 

「正先輩」

 

「お隣、いいですか?」

 

こずえちゃんがやってくる。

 

「ああ……」

 

水野の席だけど、水野はおかわりを取りに行ったまま帰らない。

どこかのテーブルに席を変えたんだろう。

 

「先ほどは、動物的行動と言動をしてしまい、申し訳ございませんでした」

 

こずえちゃんが、しおらしく僕に謝る。

 

「何だ、こずえちゃん、分かっているじゃない」

 

隆が、言葉と共に、安心じゃないかと言う目線を僕に送る。

 

「やはり、正攻法で正先輩を捕まえないと」

 

こずえちゃんが笑顔に変わる。

 

「やれやれ」

 

隆がつぶやく。

 

里奈ちゃんが僕に耳打ちをする。

 

「今、私たちのいる、非日常感、非現実感の強い合宿の中で、正くんは、少しでもこずえちゃんに気を許してはダメよ」

「これは、女の子が彼女のいる男の子を落とすのに、うってつけの時間と空間だから」

 

「ああ、分かった」

 

「しかも正くんは、普通以上にこずえちゃんのこと可愛いと思っている」

「事実、こずえちゃん誰から見ても可愛いから」

 

「恵ちゃんに無いものを、こずえちゃんに求めちゃ絶対ダメよ」

「こずえちゃんが誘っているだけだから、僕は悪くない。そう思い込んだら余計ダメだからね」

 

「じゃあ、どうすればいいかな……」

 

「何をヒソヒソ話しているんですか?」

「はい。正先輩、あ~ん」

 

僕は無防備な隙に口に近ずけられたピザを条件反射の様に食べる。

 

「積極的に近づいてくるし、タイミングの測り方が絶妙」

 

里奈ちゃんはため息をつく。

 

「こずえちゃん。僕には大切な彼女がいるから、こずえちゃんと変なことは絶対しないからね」

 

僕は珍しく、自分の言葉を強くこずえちゃんに言葉を投げた。

 

「はい」

 

こずえちゃんがニンマリとする。

 

里奈ちゃんが言う。

 

「こずえちゃんは、正くんが恵さんと完全に別れ、正くんと正式に付き合うまで決して体の関係を持たないわよ」

「これを破ると、こずえちゃんは永遠の正くんのセカンドラバーになり、恋人になるのが困難になるから」

 

 

ーーーーー

 

 

「さて、午後からのスケジュールの連絡です」

 

こずえちゃんが元気になった。

 

「と、その前に」

 

「4階らしいということだけで、詳しい場所はわからないのですが、男性用の育毛剤の落し物が発見されました」

「このホテルには一般客がおり、外にはクマもおりますが、まずはクマのものではなさそうです」

 

フフフと笑い声がでる。

 

「クマが育毛剤、使うかよ~」

 

OBが声を飛ばす。

 

「あと、スキンヘッドの田中くんでもなさそうですが、育毛剤は必ずしも頭に使うものだけではないかもしれませんので……」

 

メンバーから笑いが漏れる。

 

「ものがものだけに、使用箇所を含め他人には聞かれたくないしょうから、心当たりのある方は、後ほど私こと、こずえまでそろりとご連絡ください」

 

「口をガンガン滑らす、こずえちゃんへが一番言いにくいよ~」

 

「事務連絡を進めて」

 

みどりちゃんの指示。

 

「さて、午後1時から2時半まではパート練習、3時から5時まではマーラーの全楽章を、通しで練習します」

「魔法使いの弟子の方は、各自、午後は自主練習していてください」

「傍聴は可ですが、膨らませる方の膨張はダメです」

 

「はいはい」

 

外野も、こずえちゃんのこのアナウンスのパターンを把握してきた。

みどりちゃんも慣れて呆れている。

 

「魔法使いの弟子に乗る管楽器の皆様は、一、二年生がほとんどだと思いますので、3時から5時まで、昼寝はともかく、温泉には入らない様留意してください」

 

「こずえちゃん、こずえちゃん。昼寝もダメよ」

 

みどりちゃんが耳打ちする。

 

「はい。昼寝も禁止だそうです」

 

「うえ~……。四年生やってるじゃん」

 

毎晩、深夜遅くまで二次会部屋になっている401号室の一年生男子からは、かすかなうめき声が聞こえる。

 

一年生男子は、身も心もクタクタだ。

 

「また、毎度の繰り返しになりますが、男女間でのイチャイチャも禁止です」

 

「こずえちゃ~ん。そう言っているこずえちゃんが、正とイチャイチャしてるじゃない」

 

「それはそれ、これはこれです」

 

「それと、これとはどう違うの?」

 

外野の太い声。

 

「それというのは、自然に出てくる愛し合う二人の何気無い自然な仕草、OKです」

「正先輩ったら、いつも、とても犯しそうに笑うんです」

 

「これとは、無理やり愛を求めたり、貪る様な行動」

「これ、がいけません」

 

「こずえちゃ~ん」

 

「こずえちゃんの話、それもこれも一緒だよ」

 

「これ、は大丈夫です。自然に出てくる愛し合う二人の何気無い犯しそうに笑う仕草」

「それ、がいけません。無理やり愛を貪る様なわがままな行動」

 

「あれ? 話が入れ変わったじゃん」

 

OBたちから声が投げられる。

 

「まあ、それもこれも、いずれにせよ、人目をはばかればいいことなんですけど」

 

「だんだん規制が緩くなってきたね~」

 

OBからの掛け声。

 

「合宿ももう三日目。元からカップル、そして今回いくつかカップルができた、できつつある事を小股、じゃなかった、小耳に挟んでおります」

「カップルで最小限の自由を楽しむのは、悪くないことと思いまして」

 

「こずえちゃん。自分の事を正当化するのにアナウンスしているんじゃないの?」

 

「いえ。そうではありません」

「自分の事を、棚に上げて話しをしているんです」

 

「余計悪いじゃん」

 

外野から笑いを取る。

 

「こずえちゃん、話を事務連絡に戻して!」

 

みどりちゃんが耳打ちをする。

 

「はいはい」

 

「夕食はいつも通り午後6時からです」

「今日は、中華バイキングとなります」

 

「お~っ」

 

食堂が少しざわつく。

 

「みんな、中華に何か思い入れがあるんですか?」

 

「いや、丁度食べたいと思っていたところでさ」

 

「中華は、薬膳とも考えられております」

「すなわち、不老不死の薬」

 

「そもそも遥か昔からの中国の皇帝の欲、すなわち、死にたくない、子孫をたくさん残したいというところから始まっております」

「正先輩も子孫を多く残したい様です」

 

「こずえちゃ~ん。中華料理の歴史とくだらない正の話はしなくていいよ~」

 

外野の声を無視して、こずえちゃんが話を続ける。

 

「アンチエイジングの薬」

「あ~、そんな魔法の様な薬があれば何て素敵な事なんでしょう」

 

「男の子は、いつまでたっても立ってますだし、女の子も、見せばやな雄島の蜑の袖だにも、濡れにぞ濡れし色は変らず、です」

 

「こずえちゃん。それ、こずえちゃんが言いたいことと、和歌の意味全然違うよ」

 

文学部の四年生から指摘を受ける。

 

「でも、私には恋があります」

「何年、何十年経っても変わらないであろう恋」

 

「それこそ、まさにアンチエイジングの薬」

「濡れにぞ濡れし、恋心は変らず」

 

「こずえちゃん、誰への恋よ~」

 

皆んな知っててヤジを飛ばす。

 

「そうきましたか」

 

「しのぶれど、色に出でにけりわが恋は、ものや思ふと人の問ふまで」

「なんと美しい句なんでしょう」

 

「あぁ~。相手など、私の口から言わずもがなでしょう」

 

「時間、時間! 事務連絡は終わりよ」

「小夜コンの連絡は後回しねっ」

 

みどりちゃんから注意を受ける。

 

「はいはい。今日の小夜コンのスケジュールは、夕食時にお伝えしま~す」

「それでは皆様。パート練習にレッツラゴ~」

 

「レッツラゴ~!」

 

皆んなで声を合わせて拳をあげる。

 

第100話

 

「どうする? 隆。A型コンパ」

 

「俺はA型だから出るよ」

 

「水野は?」

 

「俺はO型。部屋に帰って寝る」

 

「僕も寝よ。O型だし」

 

「正せんぱ~い」

 

「何?」

 

「A型コンパ、行きましょうよっ」

 

こずえちゃんが、可愛らしく首を傾げて誘いにきた。

 

「いや、僕は部屋に帰って休むよ」

「体力を消耗しないように生活しないと。明々後日には、名古屋での色素研究会の発表があるから」

 

「そんなの、正先輩なら楽々クリアです」

 

「英語での発表だよ。原稿の棒読みだけで済ます訳にはいかない」

「伝えたい内容の部分は暗記して相手の目を見て話さなきゃ」

 

「大丈夫ですよ。正先輩なら」

「正先輩が大丈夫ってこと。ほら、自分自身、ものが立っているじゃないですか」

 

「なぜ下半身見てしゃべる? よしておくよ」

 

「しゃぶらせて下さい。行きましょうよっ! コンパ」

 

こずえちゃんが、僕の腕を引く。

 

「こずえちゃんもB型でしょ?」

 

こずえちゃんの声のトーンが急にしおらしくなる。

 

「じゃあ、私と二人、先ほど芸をしたようにお外で抱き合いますか?」

 

「あれは事故」

 

「事故を起こしたのは正先輩の方ですよ。私じゃない」

 

上目遣いで僕をみる。可愛い仕草。

 

「まあ、それはそうだけど……」

 

「じゃあ、時間制限ということでコンパに行きましょう」

「午後11時まで。1時間だけですよっ!」

 

どちらにしろ、コンパに行ったら12時までは帰れない。場合によっては昨日並みの時間まで。

 

まあ、こずえちゃんだけの相手をしているよりはいいか。

 

「はいはい」

 

僕もA型コンパに行くことにした。興味はないけど、あの日でもあるし。

 

「うお~っ!」

 

すでに会場は盛り上がっている。

 

一年生女子が早くも芸を披露し始めているらしい。

 

「はい、次の子」

 

「ブンブン、ブンブン。ヘリコプター、上空からのアナウンスです」

 

「あそこは、幕張副都心、あそこは習志野、そして稲毛海岸、遠くに見えますのは浦安、東京ディズニーランドです」

 

「どうして、そんなに口からスラスラ出てくるのですか? って」

「操縦士から、千葉知った目で見られました~」

 

「お~っ!」

 

大した面白くないが、男どもは盛り上がる。

 

「次はいりま~す」

 

グラスのコップを箸でチンチン、チンチンと二回鳴らし、丁寧にテーブルの上に、あっちでもない、こっちでもない。置き場所を探している。

 

「男にとっては、いち大事」

 

この言葉で芸が終わる。

 

ザワザワ、ザワザワ。皆んな、どこにギャグの落ちがあるのかわからない。

 

「プア~ッ、ハッハッハ~」

 

しばらくして笑いが起こる。

 

「おちんちんの位置大事、ということだ!」

 

誰かが叫ぶ。

 

「わ~っ!」

 

惜しげない拍手が送られる。会場は盛り上がる。

 

「はい、正先輩、ルービ」

 

こずえちゃんが僕のコップにビールを注ぐ。

 

「こずえちゃん。今年の一年生女子面白いね」

 

「ええ……。私の存在が霞んで見えないほど」

 

「あのね。こずえちゃんを超える面白い子、このオケどころか大学のどこにももいないと思うよ」

 

こずえちゃんは、僕の話なんぞ聞いていない。

 

「次やりま~す!」

 

こずえちゃんが手をあげる。

 

「正先輩。不肖、私、櫻井こずえもかましてきます」

 

こずえちゃんが、とことこと前にでる。

 

「ショッピングは楽しいな~」

 

洋服を選んでいる真似をする。

 

「あっ! これこれ」

「この柄素敵!」

 

「Sサイズ、Mサイズ……」

 

「店員さん! すみません!」

「この服のエロサイズありますか~」

 

「わ~っ!」

 

宴会場はもう、どんちゃん騒ぎ。かなり受けたらしく、拍手が止み終わらない。

 

こずえちゃんが戻ってくる。

 

「どうでした? 私の一発芸」

 

「どこかで前に聞いたことがあるけど、まあ、普通に面白かったよ」

 

「さて、正。そろそろ始めるぞ」

 

OBが僕に耳打ちをしにきた。

 

「あれですか?」

 

「ああ。あれ」

 

「誰です?」

 

「太田」

 

OBと四年生男子がソワソワし始める。いきなり部屋に鳴り響く叫び声。

 

「ヤダ~! 勘弁して~!」

 

太田くんが、いとも簡単に両手、両足を輩どもに掴まれる。

 

多少抵抗はしたものの、体を大の字の形にさせられ、動けなくなる。

 

「さて、これから、なすがままを始めます」

 

「お~っ」

 

一年生は、男女共、何が起きるか分からない。

 

「よ~い、ドン!」

 

5分間の時間制限だ。

 

OBが三人。ゆっくりと生贄に近づき、脇腹や首筋、股間の近くなどくすぐり始める。

 

「あひゃ! ふひゃ! やめてくれ~!」

 

太田くんの切ない叫び声。もがきたいけど、もがけない。

 

なすがまま。別称、キュウリがパパ。キュウリは何故かバイブレーターの隠語らしい。

 

体を拘束され、なすがままに、体をくまなくくすぐられる儀式。どこからか出てきたバイブも使われる。ルールは、決して陰部には触らないこと。なすがままは、ある意味、初日のスマより辛い。

 

OBには慣れたもの。男のくすぐったいツボを抑えている。

 

「いや~! 勘弁して~」

 

生贄の悲痛な叫び。OBのくすぐりは、さらにエスカレートして行く。人により、失禁する。

 

僕らの時代の水野がそうだった。

 

「はひゃ! ほひゃ! もういい、もういい!」

 

「出たぞ~!」

 

OBの雄叫びの声。太田くんが、お漏らししたらしい。

 

ここで5分間の、なすがまま終了。

 

太田くんが立ち上がると、薄茶色のズボンに丸いシミ。

 

女の子たちが、キャーキャー叫ぶ。

 

「正先輩が一年生の時は、スマもなすがままも水野先輩だったんですよね」

 

「ああ」

 

しかし、スマといい、なすがままといい、生贄をいじめて何が面白いんだろうと僕は思うが、水野曰く、選ばれしものの勲章、とまで言う。僕にはよく分からない。

 

「こずえちゃん。アレ、見たいな」

 

OBたちが、今のなすがままなど何もなかったように話す。昨日のセーラー服を脱がさないでの姿が気に入った様子。

 

「いいですよっ!」

「でも私たち……、荒れ出すと手がつけられなくなりますよっ!」

 

「いいのいいの! アレもそれも出してっ!」

 

こずえちゃんが紀香ちゃんに何か耳打ちする。

 

二人して部屋を出て行く。

 

しばらくすると、昨日のように、セーラー服に着替えたこずえちゃん、紀香ちゃん、そして部屋にいた夕子ちゃんも連れて、昨日のようにラジカセを持ってコンパ部屋に入ってくる。

 

歌は、おニャン子クラブのじゃあね。

 

センターはこずえちゃん。二人が両サイドの後ろに立つ。

 

「春はお別れ~の、季節で~す」

 

女の子ってすごいと思う。曲を歌だけでなく、振りも一緒に憶えたり、アレンジしたりする能力に長けている。

 

「あ~わい、ピンクの桜。花び~らも、お祝いしてくれます」

 

外野からは、ヒューヒューという口笛や歓声。男の子は、大喜び。

 

二日連続のセーラー服姿のこずえちゃん達の出し物。

 

「今年の合宿は最高だな」

 

OBがつぶやく。

 

僕がOBに話す。

 

「本来、オケの合宿って、お互いの音楽に対する考え方や意見を共有したり、ぶつけ合い、論議したりする場でしょ?」

「互いの信頼関係ができれば、そのあと普通の生活に戻っても、メンバー同士でスムーズにコミュニケーションが取れたり、お互いにサポートし合えたりするようになるし」

 

「なんか、今回の合宿は、のっけから宴会だけで、どんちゃん騒ぎだけみたくて……」

「オケとはどうあるべきか、といった高い視点から意見を交わせるような話もしなきゃならないと思うんですが」

 

OBが言う。

 

「今、まさに皆んなで楽しんで、信頼関係を構築している時だろ」

「楽しむこと。皆んなで時間を共有して楽しむこと。一緒に寝泊まりして、互いについて分かり合うこと」

 

「二、三日すれば分かる」

 

「慌てない慌てない。自然と練習や合奏で、自分の演奏だけに捉われず、周りと協調した演奏ができるようになる」

「皆んなの耳はメンバーの音を聞く耳になり、皆んなの目は、メンバーの一挙一動を察知する目になる」

 

「互いに腹を割って真の性格を知った中、コミュニケーションが取れ、お互いにサポートし合えたりするようになる」

「そして楽曲が出来上がっていく。音楽を楽しむことができるようになる」

 

「今回は、宴会から始まるコミュニケーションの合宿だ」

「間違いなく、お前たちの音楽が変わっていくよ」

 

「今を楽しむんだ」

 

 

ーーーーー

 

 

「おはよう。こずえちゃん」

 

「おはようございます。正先輩」

 

二人だけ。

 

エレベーターで乗り合わせになった。

 

「どうしたの?」

 

こずえちゃんの頬に、涙がツーッと一筋流れ落ちる。

 

「明後日と明々後日。正先輩がここにいないと思うと……」

 

「な~んだ。そう言うこと?」

「一泊二日で戻ってくるじゃない」

 

「私にとって、この合宿はとても大切な時間なんです」

「1秒でも長く、正先輩を目に、心に焼き付けておきたくて……」

 

「ありがと」

 

「さあ、食堂に行こう。朝ごはんでしょ」

「こずえちゃん、司会もあるし」

 

「正先輩が名古屋行き、やめてくれれば元気になります」

 

「そんな無茶言わない」

「さあ、行くよ」

 

僕はこずえちゃんの頭をポンと叩き、食堂へ向かう。

 

「Good morning, Ladies and Gentlemen」

「How is everyone!」

「I’m fine, and you?」

 

「I’m fine, too, thank you」

 

一応、オケのメンバーも英語の挨拶に乗る。

 

「Now, shall we start morning meeting!」

 

「こずえちゃん、どうしちゃったの?」

「ハイテンションで、しかも英語」

 

「こずえちゃん、こずえちゃん。日本語、日本語」

 

みどりちゃんがこずえちゃんの腕をつつく。

 

「失礼しました。正先輩は明後日、名古屋で英語でのプレゼンテーションがあります」

「今朝、正先輩が私の頭を撫ぜ撫ぜしてくれたせいか、頭の中がすっかり英語になってしまいました」

 

「こずえちゃ~ん。そんな冗談はどうでもいいから連絡頂戴よ~。腹減った~」

 

「はい」

 

「朝食は、昨日と同じバイキング形式となります」

「バイキングとは、8世紀末から 11世紀中頃までの、北欧の……」

 

「だ・か・ら、それはいいって言ってるじゃない。歴史上のバイキングの話しはしなくていいよ~」

 

外野から飛んでくるシュプレヒコール。

 

「はい」

 

「今日は、8世紀から10世紀中頃……、じゃなかった、8時から10時半まで全体合奏となります」

「曲目はマーラーです」

 

「マーラーに乗らない方は、自主練習していてください」

「10時半から11時半までは、魔法使いの弟子の合奏です」

 

「昨日話した通り、曲に乗らない方は、パート練習、あるいは自主練習をガンガン行ってください」

「毎日言いますが、間違えても、彼氏彼女とイチャイチャしたり、温泉に入ったりしないように」

 

「そして、マラを……」

 

「こずえちゃん! だ・か・ら、それはいいの!」

 

一度放送で事故ったみどりちゃんが話を遮る。

 

「はい」

「さて、ホテルでの監視カメラで証拠を握られた方にはペナルティを課すこととします」

 

「な~に、こずえちゃん? ペナルティって」

 

太い声が通る。

 

「夜の宴会で、元カレや元カノの話をしてもらいます」

 

「どんなことを話せばいいの~」

 

「元カレや元カノがいない人はどうするの~」

 

「今、オケの中で付き合ってるカップルとかはどうするの~」

 

こずえちゃんが質問を遮る。

 

「例えば、私と正先輩のような場合……」

 

「分かった、分かった!」

「話がややこしくなるからもういい、もういい。腹ペコだよ」

 

「Go ahead!」

 

「はい。それでは皆さん。今日は英語でいただきますをしましょう」

 

「Are you ready?」

 

「Yeah!」

 

「Let’s eat! All-you-can-eat!」

 

こずえちゃんが、右手拳を高くあげる。

 

「Let’s eat!」

 

皆んなも高く拳をあげる。

 

「正先輩。隣、いいですか?」

 

「ああ、いいよ」

 

僕は立ち上がりこずえちゃんのイスを引いてあげる。

 

「さすが正先輩ですね。レディーファーストができてます」

 

「食べ物を取りに行くのに立ったからだよ」

 

「あら、私はついでの女ですか?」

 

「いや……。そうじゃないけど……」

 

「あら? 本心は私のこと面倒臭い女だと思っているんじゃないですか?」

 

「いや……、こずえちゃんがいると楽しいし……」

 

「わぁ! それ、最高の愛の言葉です」

 

「まあ、バイキングしに行くよ」

 

「そう、北欧のバイキングたちは、美しい妻を残して荒海へ……」

 

「こずえちゃん。冗談はさておき、こずえちゃんも一緒に取りに行こうよ」

 

隆が気を利かして声をかけてくれる。

 

「正先輩。今日は意外に普通に食べますね」

 

「ああ。朝一からマーラーの合奏だからね」

「パワー、つけなきゃ」

 

「ガッ、ハッハ!」

 

誰かが水野の多量に食べ物の盛られたプレートを見て笑う。

 

「水野、今日もかよ」

 

隆も呆れる。

 

「昨日はゆっくり寝たし、腹もペコペコ」

 

ウインナーだけで5本以上ある。カリカリベーコンの山に埋もれてよく分からないくらい。今日は、朝から超大盛りカレーに目玉焼き2つ。

 

「よく食べて、よく演奏して、よく寝る」

「これが、合宿の醍醐味だよ」

 

水野は、ガハガハ笑う。

 

水野の言うことには一理ある。一年次に、スマと、なすがままをされても大丈夫だった強い精神力。よく食べて、よく演奏して、よく寝る。大切なことだ。

 

ただ、行き過ぎは、良くないと思うけど……。

 

「あら? こずえちゃん」

 

「そんなんでいいの?」

 

こずえちゃんのプレートには、ほんの一握りのシリアル。そして牛乳、オレンジジュースとヨーグルト。そしてサイドには小さなボウルのサラダだけ。

 

「はい。炭水化物はなるべく取らないようにしてますです」

「炭水化物は消化されるとブドウ糖になってしまいます」

 

「お茶碗一杯のご飯で、250キロカロリー、糖分は角砂糖12個分になります」

 

「僕、そんなこと考えて食事なんかしないよ」

 

「正先輩の、食パンは一枚で150キロカロリー、目玉焼きを載せてあるから、プラス100キロカロリーで、ご飯一膳分と大きくは変わりませんね」

「でも、卵のアミノ酸スコアは100です」

 

「サラダもたくさんとっていますし、食事バランスは100点です!」

 

「ありがとう」

 

「あれっ? 隆も、そんなんでいいの?」

 

隆はご飯半膳、アジの開き、味噌汁と漬物。

 

「ああ。合奏が先だから、満腹だとうまく演奏できなくて」

 

食べ物のチョイス。十人十色だ。

 

「さて、私、アナウンスに向かいます」

 

しばらくして、こずえちゃんが席を立つ。

 

「皆様、食べ過ぎていないでしょうか?」

 

「合宿が終わると、3-4キロ体重が増えると言う方もいらっしゃると聞いております。バストも大きくなるようです」

「みどり先輩は昨年、急に大きくなった揉んだね。と言われたそうです」

 

「誰も言われてない!」

 

みどりちゃんが恥ずかしげに下を向く。

 

「さて、事務連絡です」

「すでに体重増加に気づいている方には、後ほど運動のジム連絡がございます」

 

フフフッと笑い声が聞こえる。

 

「こずえちゃん。そんなのないでしょ」

 

みどりちゃんの横槍が入る。

 

「さて、午後の練習ですが、1時から2時まで、自主練習」

「2時半から5時までは各々のパートでパート練習をしていただきます」

 

「商品の陳列、レジの打ち方など……」

 

「こずえちゃん。そのパートじゃないでしょ!」

 

流石にみどりちゃんがこずえちゃんを叱る。

 

「はい。違いました」

「午前中の合奏で見つけた各々のパートの問題点などをおさらいしてください」

「正先輩と私は、休憩時間に恋の問題点をおさらいします」

 

ヒュー、ヒュー。外野が騒ぐ。

 

「余計なこと言わない」

 

みどりちゃんがまた、こずえちゃんに横槍を入れる。

 

「さて、今日の小夜コンですが、初めは三年生による、ベートーベン弦楽四重奏曲、大フーガから始まります」

 

「難曲です」

「地球儀の底にある南極とは違います」

 

フフフ。これは少し笑いをとる。

 

「次は、一年生によるダンツィの木管五重奏曲 第1番 変ロ長調です」

「これは北極です」

 

フフフ、ププッと笑い声がきこえる。

 

「だ・か・ら。こずえちゃん、冗談はほどほどに」

 

「続いて、三年生によるモーツァルト、フルート四重奏曲第1番」

「最後に、四年生によるベートーベンのゼプテットより、第1、第3、第4楽章」

「ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、クラリネット、ファゴット、ホルンの7つの楽器で演奏されます」

 

「ホルンは、我がオケのエース、隆先輩です」

「正先輩になんぞ、任せるわけにはいけません」

 

「私への愛があまりに薄いから……」

「たぶん、子供時代に、親から十分な愛情を注いでもらえなかったせいでしょうか……」

 

「何の話? 違うわよ、こずえちゃん。話を前に進めて」

 

「はい」

 

「とにかく、毎晩、飲みだくれている四年生の迷いの、迷演奏をお楽しみ下さい」

 

「はいはい」

 

四年生が笑顔で返事をする。

 

実はこのゼプテットの演奏の完成度はすごい。昨年の合宿でも、当時三年時のツワモノメンバーで皆を驚かせた。今年も同じメンバー。楽しみだ。

 

「小夜コンの終了は、午後8時を予定しておりますが、場合により8時を過ぎることも考えられます」

「続いての宴会は午後8時からですが、多少時間が食い込むと思います」

「まあ、私たちの股にパンツが食い込むようなものです」

 

「それ、女の子だけでしょ~!」

 

OBのダミ声と、女の子たちのクスクスという小さな笑い声がところどころで聞こえる。

 

「さて、今日の出し物はOBによる、替え歌合戦です」

 

「え~っ? アレ、やるの~……」

 

外野のテンションが低い。

 

「皆さん。どういたしました?」

 

この芸を知らないこずえちゃんが首をかしげる。

 

「OBの伝統芸だとは聞いておりますが……」

 

「OBは今日が最終日。明日から、地上の仕事へと戻ります」

「皆さんで盛り上げていきましょう!」

 

「は~い……」

 

元気のない返事が返ってくる。

 

「赤い服、脱いでた、女のこ~」

「お~じいさんに触られて、い~っちゃ~った~」

 

芸の紹介に、OBが立ち上がって、赤い靴の替え歌のイントロを歌い出す。

 

「はい。つまらないですね」

 

こずえちゃんが、すかさずズバッと切る。

 

「OBの替え歌芸の後には、昨日、一昨日と401号室で私共が出させていただいた芸、おま……、じゃなかった、おニャン子クラブの歌などの出し物も用意してございます」

 

これには食堂の男子が大爆笑。

 

「こずえちゃん。どこから、おニャン子のおニャが、おま、って出てくる?」

 

第99話

 

「さて、今回のビンゴゲームの景品について説明いたします」

 

こずえちゃんがマイクを握る。

 

「1番目のビンゴの方は、宝くじ10枚、2番目の方は9枚、以下10番の方は1枚と、10人の方までビンゴ賞として宝くじ券が当たります」

 

「お~っ!」

 

今回の合宿係も考えたものだ。適当な景品じゃなくて宝くじ券。

 

「なお、ビンゴされた方には、この箱の中から、一枚紙を引いていただきます」

 

「何それ~、こずえちゃん?」

 

「ここに、動物の名前が書いてある紙が入っています」

「その動物を当てるのに、1分間モノマネをしていただきます」

「動物名が当たらなかった場合、景品は没収となり、次の該当者に権利が移ります」

 

「お~っ!」

「え~っ?」

 

歓喜と、嫌だと言う感じの声が混じり合う。

 

「そんなことしたら、ビンゴしても申し出ない人が出てくるじゃん」

 

「その点はご安心を。誰にでもすぐわかる動物ばかりですから」

「次に準備している、黒ひげ危機一発のペナルティ一、一発芸よりマシだと思います」

 

オケのメンバーは、まあ納得し、ゲームが始まった。

 

「リーチ!」

 

開始5分くらいで、リーチの声がかかった。

その後、あちらこちらからリーチ、ダブルリーチの声が聞こえてくる。

 

僕はくじ運がない。ビンゴゲームで、これまで景品をもらったことがない。

しかし、珍しくリーチ。

 

「ビンゴ!」

 

三年生男子の大きな声。会場は拍手に包まれる。

 

「さあ、この箱から紙を一枚取り出してください」

 

一枚紙を取り出し、ステージに登る。ウホウホしながら背を丸め手をダランとして歩き、そして次に胸を張ってボコボコ両手で叩く。

 

「ゴリラ!」

 

「正解です!」

 

「うお~!」

 

会場が盛り上がる。

 

「ビンゴ!」

 

なんと、次のビンゴは当の合宿係の夕子ちゃん。

 

紙を取り出す。両手をピンと頭の上に立て、ぴょんぴょん跳ねる。

 

「可愛い!」

 

「バニーガール!」

 

「あの、すいません。紙に書いてあるのは動物名ですから、エロい輩は言葉を慎むようにしてください」

 

「ウサギさん!」

 

皆んなで声を揃えて答える。

 

「正解です」

「夕子ちゃん、まるで秋葉原のバニーガールのようでしたね」

 

「なんだ、当のこずえちゃんが言っているじゃない」

 

「秋葉原のバニーガール達はとても寛大で、おなら可な人たちばかりです」

 

「こずえちゃん。行ったことあるの~?」

 

「やったことがあります。まあ、それはいいとして……、ビンゴを進めます」

 

3、4、5番と、順調に動物名も当たり、皆んな商品券を手にする。

 

僕のカードは、リーチ以来、なかなか穴があかない。

 

「ビンゴ!」

 

水野が手を上げた。ステージに向かう。

 

「おめでとうございます。水野先輩」

 

「おう。あと、動物真似ね」

 

「はい」

 

水野が紙を引く。

 

「あた~っ。難しいよこれ」

 

水野は頭を抱えて、ステージに登る。出すぎている腹を横にして、ダラーんと両手を脇につけ寝そべる。そしてじっと動かない。

 

「マグロ?」

 

「ブー。魚類ではありません」

 

「アザラシ?」

 

「ブー。でも、すごく近い近い!」

 

水野はただただ、動かない。

 

「トド!」

 

「正解で~す!」

 

パチパチ、パチパチ、皆んなから拍手。

 

「しかし、何もしないで横たわっているだけでトドの名が出てくるなんて、水野でしかありえない。ある意味、水野ってすごいな」

 

隆が笑う。

 

「ああ。これは腹の出た水野が引かなきゃ誰も当てられなかった」

 

「ビンゴ!」

 

次に、昨晩スマにあった谷崎くんがビンゴした。

 

「はい、紙を引いてください」

 

谷崎くんは楽勝というガッツポーズでステージに向かう。

 

「手を鼻に当て、長~く見せ、ブラブラさせて、そのあとピーンと張り上げる」

 

「オチンチン!」

 

OBたちがふざけて答える。

 

「あのぉ、宴会中は放送禁止用語を使わぬように」

 

「だって、谷崎の長いから」

 

「いやだ~」

 

女の子たちから、軽蔑の声が飛ぶ。

 

「ゾウさん!」

 

「はい。正解です」

 

谷崎くんが、ブラブラした鼻を模した手と、そのあと再び腕をピーンと張り上げる格好を再現してステージを降りる。

 

女の子たちからは軽蔑の目。

 

「ダブルリーチ、トリプルリーチ!」

 

会場の皆んなも残り少ない宝くじ券を貰おうと意気込んでいる。

 

「はい、ビンゴ」

 

珍しい。僕がビンゴした。

 

こずえちゃんが、ニコニコしている。

 

「やったね!」

 

隆ともハイタッチ。

 

「さて、正先輩に紙を引いていただきます」

 

さて、紙には……。

 

これはある意味水野よりも難しい。仕方ない、僕はこずえちゃんの手を取り、ステージに連れ出した。

 

やりたきゃないけど、こずえちゃんと向かい合い、腰の距離をおきながらも、こずえちゃんの細い腰に手を回した。

 

「セックス!」

 

OBにからかわれる。

 

まあ、仕方がない。戦略を変える。こずえちゃんの頭から、足までの輪郭を、どこにも触れずに丁寧に手でなぞる。

 

「正よ。わかんないぞ」

「ムラな努力はしなくていいよ。はい、景品没収」

 

「人間?」

 

どこかで女の子がポツリとつぶやく。

 

こずえちゃんがステージを勢いよく降り、マイクを握る。

 

「大正解です!」

 

「いつも正先輩がしてくれる、毛がやらしい前戯の模倣なので難問でしたが、すんなりと答えが出ました」

 

「このジェスチャーの答えの前提は、人間である自分を指差せばいいことだけだったんですが、深層心理とは恐ろしいものです」

 

「恋している人と愛の儀式で協力し、答えを導き出す」

「いつものように、よがれ! と思ってしたことでしょう……」

 

「これで、やっと正先輩の本当が出ましたね」

 

会場は、やんや、やんやと盛り上がる。

 

ビンゴ大会は9、10番とも順調に動物名も当てられ、盛大に幕を閉じた。

 

「それでは、ビンゴ大会を終了いたします」

「しばらく、ご歓談の方を」

 

「正先輩、大衆の面前でこずえちゃんの腰に手をまわしたのは失策でしたよ~」

「自分で蒔いたタネです。どう刈りましょうか?」

 

紀香ちゃんが、カラカラ笑って僕に話す。

 

「でも、安心してください。この動画は、恵先輩には送りませんから」

 

「ありがとう」

 

「夕子ちゃんにも口止めしておきます」

 

「ああ、よろしく頼むよ」

 

「一番厄介なのは……」

 

「厄介なのは……?」

 

「当の本人の、こずえちゃんから情報が流される事です」

「どんなコメント付きで流されるか……」

 

「されたら参るけど……。まあ、なるようになるさ」

 

「正せんぱ~い!」

 

こずえちゃんだ。

 

「今のビンゴゲームで、恵先輩から、正くんと楽しくやっているのね、というLINEが送られてきました」

 

僕のLINEには恵ちゃんから連絡がこない……。

 

 

ーーーーー

 

 

『恵ちゃん。こんばんは』

 

僕の方からLINEを打つ。

 

しばらくして、返信が来る。

 

『100人もいる大衆の面前でアレはね……。チョット……』

 

『行き過ぎだったかな?』

 

僕は素早く返信を打つ。

 

『ゴメン。恵ちゃん』

 

『こずえちゃんの腰に手をまわして、何を表現したかったの?』


『人間、という問いだから、愛……、だと思って』

 

『?』

 

『いや……、その……、愛の表現っていろんな形があると思うけど……』

 

『正くんにとっての、人間の愛を表す方法が、抱き合う事だったんだ』

 

『まあ……。その時は、そういう事かな』

 

『フフフ。正くんらしい』

 

『何が?』

 

『マ・ジ・メ』

『大丈夫よ、私なら』

 

どうやら、恵ちゃんは、僕のことを許してくれているようだ。

 

『ありがとう、恵ちゃん』

 

『どういたしまして』

 

『次は名古屋で、私にいろんな形があるという正くんの愛を見せてね。楽しみにしてるから』

『好きだから』

 

『うん』

 

恵ちゃんが優しい。

 

つい、四年生になる頃までオテンバ娘で通っていたのに、僕が付き合うようになってから、随分大人びた。

 

僕の性格は変わらない。マイペース。ただ、自分の生き方に自信を持つことができるようになった。恵ちゃんを手に入れてから。

 

女の子の力ってすごい。男を、強くもするし、ダメにもする。

 

恵ちゃんは、あげまんだ。

 

常に笑顔を絶やさない。恵ちゃんがいつも笑顔でいるから、自分の気持ちも明るく楽しくなる。恵ちゃんは、ポジティブ思考で自分に自信がある。自己否定もしない。もちろん、自己中でもない。等身大の僕がいて、周りの人も受け入れる。

 

今回みたいにいろいろな事件があっても、『大丈夫。私なら』という女の子。

グチグチ、グダグダと女の子特有の愚痴を聞かされることもない。

 

聞き上手だし、カラッとした『好き』を僕に届ける爽やかで前向きな愛。芯が強くて素直だし、僕にオシャレな褒め言葉を告げて、そして見返りを求めない。

 

早く会いたい。恵ちゃんに。

 

さて、こずえちゃんのアナウンスが入る。こずえちゃんも可愛いけど、やっぱり恵ちゃんは違う。

 

腹に落ちた。やっぱり恵ちゃんじゃなきゃ、僕はダメだ。

 

「さて、これから黒ひげ危機一発ゲームを始めます」

 

「お~っ!」

 

皆の歓声とともに、タンバリンや鈴、ホイッスルの音が宴会場に響き渡る。

 

「ルールを簡単に説明致します」

 

「6つのテーブルにそれぞれ黒ひげさんの入った樽がございます」

「穴は、24個開いております」

「どこかの穴がビンゴ。すなわち、黒ひげさんの飛び出る穴です」

 

「テーブル一回りして飛び出さなかった場合には、確率は非常に高くなりますが、もう一周して頂きます」

「飛び出た時、剣を刺した方がこのステージ脇にありますテープで囲んだペナルティエリアに入っていただきます」

 

「黒ひげさんが飛び出た時点で、その剣を刺した方々がここに集合することになります」

「つまり6人」

 

「その6人に、自己紹介と一発芸を披露していただきます」

 

また、タンバリンだのホイッスルだの、やんや、やんや皆んなが盛り上がる。

 

「さあ! 開始!」

 

僕のテーブルにいる隆、水野はセーフ。僕もセーフだった。隆の彼女、里奈ちゃんが刺した剣がビンゴ。そのあとに控えていたテーブルのメンバーはホッとする。

 

あちらこちらのテーブルで、静かに、またざわめきながら剣刺しのゲームが行われていく。

 

「わ~っ!」と盛り上がるテーブル。

 

生贄が捧げられる瞬間の歓喜。こずえちゃんがマイクを握る。

 

「さて。穴に刺して出すのは男の子が得意だと思うんですが、意外や意外。今回、6人中ビンゴの5人が女の子です」

 

「お~っ!」と会場は盛り上がる。

 

「こずえちゃん、いやらしい~」

 

OBの太い声も、会場を行き渡る。

 

さて、ペナルティエリアには6人。5人の女の子たちは、皆んな恥ずかしそうにしている。

 

「看護学部4年、高橋里奈です」

 

「お~っ!」

 

会場は盛り上がる。

 

「自己紹介……。好きなのはネコ。家で二匹飼ってます」

「趣味は、やはり音楽です」

 

「つまんね~よ、里奈ちゃん」

 

「彼氏の隆のテクニックはどうなのよ?」

 

OBのいやらしい質問。

 

「演奏と同じく……、私、隆くんのテクニックに満足してます」

 

会場は、最高のタンバリンの音量、笛、太鼓。これには大いに盛り上がる。さすがの隆も目を伏せる。

 

「じゃあ、隆の友達の正のテクニックはどう思う」

 

なんで僕を巻き込む?

 

「ホルンは上手くありませんが、女の勘として、あっちの方は凄いと思います」

 

「ガッハッハ!」

 

皆んなが、予期せぬ、普段清楚な里奈ちゃんの言葉に盛り上がる。下手な一発芸を見るより、言葉のやり取りの方が面白い。

 

「まあ、落ち着きましょう。正先輩のは、後ほど私が確かめます」

 

こずえちゃんが冷静にアナウンスをする。

 

「はい、次の方」

 

「医学部三年、佐藤真弓です」

 

「お~っ!」

 

相変わらずのバックの盛り上げ。ドンチャンちゃん。

 

「自分は、お弁当作りが趣味です」

 

「いいね~」

 

男子が声を揃える。

 

「解剖学の実習の次の日とかは、肉類を入れるの、控えますが……」

 

「分かる分かる」

 

何にもわからないOBが、妙な納得をする。

 

あと4人。盛り下がらず、盛り上がらず、無難な自己紹介を済ませる。

 

「さて、一発芸です」

 

「順番に、里奈さんから!」

 

「シェ~!」

 

おそ松くんの作中でイヤミがする、シェー、を披露する。

 

「わ~っ!」

 

皆んなに受ける。

 

「おい、隆」

「里奈ちゃん、あんなことする子だったっけ?」

 

「いや、俺も初めてみた」

 

でも、一発芸として盛り上がった。

 

次に佐藤さん。人体解剖の真似をする。

 

「メス」

 

「先生、この人はオスですが……」

 

「お~っ!」

 

医学部の才女は、何をやっても許される。これもまた、みんなに受ける。

 

黒ひげビンゴ、唯一の男子に回ってくる。

 

「経済学部一年、小坂成行です」

「趣味は、特段ありません」

 

「ブー、ブー、ブー!」

 

一人だけ男なのを知っていて、皆んながわざとブーイングをする。

 

おとなしそうな子。芸なんかできるのだろうか。

 

ステージにうつ伏せになり、

 

「クロール」

 

クロールで泳ぐふりをする。

 

「ブー、ブー、ブー」

 

「平泳ぎ」

 

「ブー、ブー、ブー」

 

「背泳ぎ」

 

「ブー、ブー、ブー」

 

なかなか、観客のOKが出ない。

 

次に、何と、立ち上がって背を反らし、男性のアレを空中に向け、腰を上下に激しく振りだす。

 

「立ち、泳ぎ!」

 

「バッ、ハッハッハ!」

 

これが受けた。

 

下ネタ系の通づる宴会ならでは。

 

こずえちゃんは相変わらず平坦な口調でアナウンス。

 

「さて、これで、黒ひげ危機一発ゲームを終了します」

「皆さん、お疲れ様でした~」

 

「お疲れ様でした~!」

 

「なお、そろそろ宴会も終了時刻となりました」

 

「この後は、401号室、一年生男子部屋での血液型、A型コンパとなります」

「ちなみに、私、櫻井こずえはB型ですが、ブラがAなので参加させていただきます」

「皆様も血液型にとらわれず、どうぞ、ブラっとお寄りください!」

 

「お~っ!」

 

あっという間の、楽しかった2時間の宴会の幕が降りる。

 

第98話

 

「宴もたけなわなことと思いますが、もうすぐ夕食の終了時間です」

「引き続き、ここ食堂で小夜コンを行います」

 

「舞台はピアノの置いてある、暗幕側がステージとなります」

「今回の小夜コンは、このステージのリニューアルこけら落としとなります!」

 

「わ~っ!」

 

皆んなで盛り上がる。

ホテルのスタッフも一斉にお辞儀をする。

 

「小夜コンのこけし……、じゃなかった、こけら落しは……」

 

「こずえちゃ~ん。こけし持ってるの?」

 

OBがふざけて、口が転んだこずえちゃんに質問する。

 

「はい。伝統こけしを持っております」

 

食堂から、ププッという笑いや、ハハハッという笑いが聞こえてくる。

 

「こずえちゃん。でんどうなの?」

 

「はい。でんとうです」

「当時、臨時挿入があったので買いました」

 

「ガーッハッハ! ウッホッホ!」

 

食堂中に響き渡る笑い声が飛ぶ。

 

「伝統こけし。何か、面白かったでしょうか?」

 

こずえちゃんは首をかしげる。

 

「もういい、もういい、それ以上言わなくていい」

 

OBや男子たちはお腹を抱えるほど受けているが、女の子たちはしらけている。

 

「嬉しい限りです。こけしひとつで、こんな私でも人の欲に立てるなんて」

 

「もういいの!」

 

みどりちゃんが、こずえちゃんの腕をつつく。

 

「まあ、いいでしょう」

「さて、小夜コンの始まり始まり~」

 

みどりちゃんがバイオリンを片手にピアノの前に立つ。

 

「えっ!」

 

オケのメンバーは驚く。

 

こずえちゃんがピアノに近づき椅子に座る。なんと、ピアノ伴奏はこずえちゃんだ。そして譜めくりは夕子ちゃん。合宿係の女の子、三人衆でのこけら落としだ。

 

これは誰も知らなかった。サプライズの演出。

 

「それでは、モーツァルト、ヴァイオリン協奏曲第3番 ト長調 ケッヘル216より、第1楽章をお楽しみください」

 

こずえちゃんはマイクをピアノに置き伴奏を始める。

 

二人とも上手い!

 

みどりちゃんの演奏はもとより、こずえちゃんの柔らかなタッチからくるピアノ伴奏が優しい。

 

小夜コンの時間は自由時間だが、このこけら落としの時ばかりはオケの皆んなが食い入るように演奏を聴いている。

 

そして、男子たちは観てもいる。

 

「みどりちゃんの腰使い。本当にいいな」

 

「憧れる」

 

「あんな風にさ~、艶かしい腰使いを見せられると……」

 

水野がにやけて僕につぶやく。

 

「演奏、演奏を聞こうよ。すごく美しいでしょ」

 

曲はカデンツァに入る。

 

「みどりちゃんの選んだカデンツァいいね」

 

「ツィンマーマンのかな?」

「単純でありながらも味わい深いね」

 

「もし、モーツァルトが生きていたらば、自らバイオリンを奏でたモーツァルトもこのように弾いたのではないかと思いたくなるくらいだね」

 

「しかし、みどりちゃん上手いね」

「来年は、コンサートミストレスかな?」

 

僕が言うと、

 

「研究や卒論が忙しいから、コンミスにはならないんだって」

 

同じ生命工学研究室の先輩である隆が言う。

 

「もったいないよね」

 

「でも、仕方ないかな」

「義雄と、二人三脚で進めなきゃならない研究もあるし」

 

「ああ、カーネーションのオレンジ色の秘密だね」

 

「まだ謎は、少なくとも三つ残っている」

「来年は、大学院に残る恵ちゃんと義雄、そしてみどりちゃんで、その解明を進めてもらわなきゃ」

 

演奏が終わる。

 

皆んなで、パチパチと拍手喝采。

 

「アンコール! アンコール!」

 

OBからアンコールの声が飛ぶ。

 

「皆様、小夜コンではアンコールは準備しておりませんが……」

 

「こずえちゃん、何か弾いて!」

 

「ただいま局部の緊張に襲われてますが、合宿係、不肖、私こと櫻井こずえ、ショパンのノクターン第2番を少し早めのテンポで演奏させていただきます」

 

笑い声と共に、パチパチ、パチパチと大きな拍手。

 

「ショパンの夜想曲。小夜コンにピッタシのイメージだね」

 

水野が腕を組み、椅子の背に深くもたれる。暗赤の暗幕を背にしたこずえちゃんの演奏。

 

高原のひんやりとした澄んでいて乾いた空気の中、ピアノの音とこずえちゃんが輝いて見える。いつものこずえちゃんじゃない。

 

バイオリンを弾く時、そして今、ピアノを弾いている時。音楽の中に入ると、こずえちゃんは変わる。言い過ぎかもしれないが、小さな可愛い天使の様。その指の動きは、なめらかで美しく優しい。

 

「上手いね~、こずえちゃん。ビックリだよ」

 

隆がつぶやく。

 

「こずえちゃん、音楽科の子達並み、いや、表現力はそれ以上かもね」

 

こずえちゃんと同じ教育学部の水野もうなずく。

 

「お~っ!」

 

4分ほどの曲が終わると、歓声と共に、大きな拍手。このリニューアルした食堂のステージのこけら落としに、ホテル側のスタッフも笑顔で拍手している。

 

こずえちゃんがマイクを持つ。

 

「さて、こけし……、じゃなかった、こけら落としが始まりました」

「それでは、小夜コンの時間は短いので、宴会の開始時間に支障をきたさぬ様、食べ放題をしたしゃぶしゃぶの様に、ガンガン演奏を進めちゃいましょう」

 

「こずえちゃん、言葉、言葉……」

 

みどりちゃんから注意される。

 

こずえちゃんは、首を傾げてペロリと舌を出す。

 

また、いつものこずえちゃんに戻った。

 

 

ーーーーー

 

 

小夜コンのクラリネットパートの演奏が始まる。ベートーベンのピアノソナタ、第8番、悲愴から第二楽章。クラリネット8重奏へのアレンジ版だ。

 

クラ7本に、バスクラリネット1本。これも、こずえちゃんのノクターンと同じ、夜のムードにぴったり。心くつろぐ。

 

携帯に電話が入る。

 

「わんばんこ」

 

「わんばんこ」

「こずえちゃん、ピアノ上手ね」

 

恵ちゃんから。

 

「ちょっと待ってね」

 

僕は食堂からホテルの外に出る。

 

空には天の川や無数の星が輝き、地上にはホタル。自然が織り成す光の競演。新鮮な空気を、胸一杯に吸い込む。

 

「うん。こずえちゃんのピアノ。天使の奏でる音楽の様だったよ」

 

紀香ちゃんから恵ちゃんに、こずえちゃんの小夜コンの動画が入ったらしい。

 

「私もピアノ弾くの知ってた?」

 

「恵ちゃんも?」

 

「うん。三歳の時から習ってた。ピアノとフルート」

「あと、お床……、じゃなくてお琴」

 

「お嬢様だね」

 

「そう。お嬢様よ」

 

電話口で、恵ちゃんがフフフと笑う。

 

「そう言えば恵ちゃん、高校のオーケストラでフルート吹いていたんだもんね」

 

「うん」

 

「何で大学でオケに入らなかったの?」

 

「何でだろう……、見学には行ったよ。でも植物同好会入りしちゃった」

「花や植物の方が興味あったからかな?」

 

「恵ちゃんがオケにいたら、僕たち今、どうなっていたんだろうね」

「僕は一年生の時から恵ちゃんが好きだったけど……」

 

「私、きっと正くんの事、普通に無視していたよ」

「正くん、面白い男の子だったけど、どこか抜けている、足りない人だったから」

「一年生の時はね」

 

「何か抜けていたのは、自分でも認めるよ」

 

「でも、本当にそれだけ?」

 

「実はね……」

 

「実は……? 何?」

 

「言うね」

 

「うん。聞くね」

 

「私たちが一年生の時、四年生のパーカッションでとんでもなくマリンバの上手な先輩がいたでしょ? 覚えてる?」

 

「うん。片柳先輩」

 

「片手にマレットを2本、3本、両手で4本、6本持って演奏するのを聞いた」

「あの演奏、人間技じゃないよ。凄かった」

 

「私、惚れてたの。彼は音楽家の家系で、両親は音楽大学の教授」

「真面目で素直な人だったし」

 

「3年上だから学校で一緒の時は無かったけど、私の高校の先輩よ」

 

「もしかして、恵ちゃんの初めての人って片柳先輩?」

 

「さあ、どうだか」

 

恵ちゃんが電話口でクスクス笑う。

 

「そうだったらどうなの?」

 

「何だろう。妬けちゃうね」

 

「私、アプローチしたよ。今のこずえちゃんが正くんにしている様に」

「こずえちゃんほどは積極的じゃなかったけど」

 

「それで?」

 

「先輩も私のこと可愛がってくれたよ。どこまでかは、ヒ・ミ・ツ」

 

「意味深だね」

 

「でも、同じパーカッションに彼女がいたの」

「だから、オケに入らなかった」

 

「そうだったんだ」

 

「女の意地?」

 

「ううん。そう言うものではないの」

「新世界を求めたのかな。恋の代わりに」

 

「こずえちゃんもそうなるかな?」

 

「ならないわよ、こずえちゃんは。稀に見る天然だもの」

 

「恵ちゃんも天然じゃない」

 

「フフッ。そうかしら?」

 

「こずえちゃんはね、恋の代わりも恋を求めるタイプ。正くんにつれなくされても、さらに正くんを求めるタイプよ」

 

「困ったな。僕、どうすりゃいい?」

 

「恋には、終わりが当たり前の様にくることに気付くまで待たなきゃね」

「今のこずえちゃんは若くて、そして気の向くまま恋してる」

 

「そう言う恵ちゃんも若いでしょ。今の僕と、気の向くままの恋じゃないの?」

 

「あのね、私も大学院出たら24でしょ」

「品定めしたわよ、正くんに」

 

「正くん、優しいし面白いし。何より、一緒にいて楽しいし」

「今の私を賭けていいと思ってる」

 

「でも恵ちゃん。僕は、なんて言うのかな……、僕の事が恵ちゃんの迷惑にならないかって事だけ心配してる」

 

「正くんの言う迷惑は、私の迷惑じゃないよ」

「正くんが私のそばにいてくれる。それが嬉しいの」

 

「実は強がりの私が、弱虫だって事に気づかせてくれる。心から素直になれる恋なの」

 

「正せんぱ~い」

 

「あっ、恵ちゃん。こずえちゃんが来た」

 

「切るね」

 

「うん。じゃあまた」

 

「正先輩、こんなところで油を売ってましたね~」

「こずえの三つ上。いい腰して、全く何やってんだか」

 

「それを言うなら、いい年でしょ?」

 

「満天の星の下、愛だの恋だの恵先輩と話してたんでしょ?」

「予定なお世話かもしれませんが、どうせ終わりは来るんだから。まあ、良しとしましょう」

 

恵ちゃんもこずえちゃんも、どこか性格が似ている。

 

「トランペット吹きの繁忙日、面白かったですよ」

「どんどん曲がエスカレートし、吹く格好がだらしなくなってきて、最後には皆んな疲れた格好で仰向けで寝っ転がって演奏」

 

「そろそろ一年生の演奏も終わりですよ」

「宴会に行きましょ!」

 

「こずえちゃん、弱虫?」

 

「はあ?」

 

「私は強虫です」

 

「そっ……、そう。それには、弱賛成」

 

こずえちゃんは満面の笑顔で僕の腕を取りホテルに入る。

 

「おう、正。なんだかんだいって、こずえ嬢とやる事やってるじゃない」

 

運が悪い。

 

小夜コンが終わり、皆んながゾロゾロとロビーを通過する時間とかち合った。

 

「もう、正先輩ったら、星空の下、私に愛だの恋だの……」

「欲ある質問されてましたです」

 

ここで僕が何を言おうとも、オケのメンバーは信用してくれないだろう。

 

「正。俺たちは分かっているから。早よ、宴会場に行こう」

 

隆と水野が助け舟を出してくれる。

 

「あのね、正先輩、私に弱虫か? って聞くのよ」

 

こずえちゃんは一年生女子に、有る事無い事、ペラペラペラペラと喋りまくる。

 

「これって、ものすごく心を優しく包み込んでくれる言葉。本当の恋の始まりかしら」

「ああ! なんていう素敵な響きの言霊!」

 

「あのね、私、言ったの」

「そんなこと、聞かなくても分かるでしょ……、って」

 

「そしたら、ホント、やや欲しい女だなって頭を撫でられて」

 

「こずえちゃん、盛り上がっているな」

「俺たちもかばえなくなるぞ」

 

隆と水野が、僕を引きずる様に宴会場に連れて行く。

 

 

ーーーーー

 

 

「さて皆さん、初夜を終え、二日目の夜に入りました~」

 

「こずえちゃん。毎回どこから初夜なんて言葉出て来る?」

 

いつものOBたちからの笑い声。

 

「昨日は初めての夜。すなわち初夜です」

 

「違うだろ~」

 

「私の初夜は、今晩になりそうです」

 

「何だ。ちゃんと初夜の意味、知ってるじゃん」

 

「私事ですが、先ほど外で、遠回しにコクられ……」

 

「また、正かよ~。何された?」

 

「恋が一歩全身しました」

 

こずえちゃんは、満面の笑みをこぼす。

 

「さて、二日目の出し物は、二年生女子のモノボケから始まります」

「準備がございますので、しばらくご歓談の方を」

 

二年生男子とホテルの従業員が、ステージにある机の上にモノボケ用の道具の準備をする。

 

「さて、始めます!」

 

赤いランドセルを背負った子。

 

「先生、おはようございます」

 

バックルを止めておらず、深いお辞儀とともにカバーが開き、中からこけしが出て来る。

 

「ヤダ~。趣味がバレちゃう」

 

「ハ~ッ、ハッハ!」

「いきなり下ネタかよ~。それ電動なの?」

 

次の子はカツラを取り出し、自分の脇に当てる。

 

「そろそろ剃らなきゃ」

 

「俺が剃ってやるよ~」

 

外野から太い声が飛ぶ。

 

次の子は、今度はヒシャクを脇に当てる。

 

「永久脱毛」

 

二連発で笑いを取る。

 

ギターを持ち出してきた子。

 

「音が出なくなっちゃった」

 

トイレが詰まった時用のバキュームをギターの穴に当てて、吸引と押し下げで音がつまっていることを表現する。

 

これも受ける。

 

次にモップの柄を徐々に深く股に挟んでいく子。

 

「上がれ! 上がれ! 私を頂点に導いて!」

「ハリー!」

 

「導くよ~! モップの柄にになりてぇ~」

 

OBの嘆願する様な叫び声が飛ぶ。

 

次のグッヅはマシンガンのおもちゃ。女の子は床にうつ伏せになる。マシンガンを手を伸ばし頭の上に据えて、カエルの様な足、腰の動きをする。

 

「豊胸前進」

 

「俺の上でも匍匐前進して~」

 

OBや男の子の反応がいい。

 

「面白いじゃん。今年の二年生の女の子のモノボケ」

 

「ああ。レベル高いね。卑猥だけど」

 

モノボケの芸は続く。

 

「正せんぱ~い」

「ビールを注ぎに参りました」

 

「ああ、ありがと」

 

「モノボケ、面白いね」

 

「はい。彼女たち、下ネタ系の芸が輩たちには受けることを知っています」

 

「まあ、あまりいい傾向じゃないけど……。まあ、楽しいからいいか」

 

「あら? ペースが早いですね。また、注ぎますね」

 

「ああ」

 

「さて、最後の芸になりま~す」

 

バトミントンのラケットを二つ。

 

女の子が、ネットの部分を両胸に当てる。

 

「ヤダ~、このブラ透けて見えるじゃない」

 

「見たい! 見たい!」

 

外野の男どもが笑う。

 

二年生女子の芸に大拍手。いい余興になった。

 

「さて、芸も終わりました」

 

「シメに、合宿係として私も一発かましてきます」

 

こずえちゃんは僕にそういうと、ステージの方へ小走りに向かう。

 

こずえちゃんは、いきなりジーンズの上に、二年生男子が芸で使っていた男性用の競泳パンツをはく。

 

がに股になり、両手で器用に股への斜め動きの動作をする。

 

「コマネチ!」

 

たけしの十八番の真似をする。

 

オケの皆んなは大爆笑。

 

「こずえちゃ~ん。今度は土俵入りじゃなくてコマネチかよ」

 

男どもが、やんやと叫ぶ。こずえちゃんは、みんなの声援に応える。

 

「コマネチ!」

 

また同じ動作を繰り返した。

 

そしてパンツを脱ぐと歌うように物語を語る口調。

 

「ぼか~しぼかし、あるところに……。げんこつ山の、ん抜きさん。おっぱいもんで、ねんねして~、だっこして、愛撫して、また出した!」

 

「こずえちゃん! 面白すぎるよ!」

 

しばらく宴会場は笑いの渦に巻き込まれる。

 

笑いがひと段落したところで、こずえちゃんはアナウンスを始める。

 

「いかがだったでしょうか? 二年生女子のモノボケでした~!」

 

「こずえちゃんの寸劇も面白かったよ~!」

 

チンチン、チンチン。ヒュー、ヒュー。コップを箸で鳴らす音や、口笛や声援で宴会場は賑やか。

 

「次に、ビンゴゲームを行いますので、しばらくの間ご歓談下さい」

 

ワイワイ、ガヤガヤ、宴会は盛り上がる。

 

「正先輩」

 

みどりちゃんが僕にビールを注ぎにくる。

 

「しかし、こずえちゃんの正先輩好きには参りますね」

 

みどりちゃんが微笑んでいる。

 

「ああ。合宿ののっけからだからね」

「調子狂うよ」

 

「フフフ」

 

「正先輩は、実は面白い人だから、二、三年生の女子にも人気があるんですよ」

「だから、こずえちゃんが正先輩をいじって、その反応を見るのが楽しみなんです」

「でも安心してください。正先輩には学部に彼女がいる事、もう皆んな知っていますよ」

 

「そうだ。みどりちゃん、恵ちゃんにLINEしてくれてるんだって?」

 

「はい。恵先輩も、正先輩は間違いないことを知りつつも、やはりこずえちゃんと行き過ぎたことをしないかどうか、少し不安だと思っているんです」

「もちろん、一部始終とはいかないまでも、女友達としてLINEしてます」

 

「紀香ちゃんも、こずえちゃんのピアノ演奏送ったりしてるみたいだね」

 

「あら? それは知りませんでした」

 

「こずえちゃん、夕子ちゃん、紀香ちゃんは仲良し三人トリオですから、こずえちゃんのいいところを恵先輩に見せつけたんだと思います」

「正先輩、ある意味で身も心も無防備だから」

「恵先輩、少しこずえちゃんにヤキモチ妬いたんじゃないかしら?」

 

「うん。電話で、なんかそういう風だった」

 

「じゃあ私、脳天気さが出た、こずえちゃんのコマネチの芸、恵先輩に送りますね」

 

「いや。それはいいよ」

「逆に、それがこずえちゃんの宣伝になると怖いから」

 

ピンポーン。

 

携帯に恵ちゃんからLINEが入った。

 

『見たわよ』

『ノクターンの名演奏を弾いたかと思うと、次はコマネチ。そして、げんこつ山のたぬきさん……』

 

『ホント、つわものね。こずえちゃん』

 

第97話

 

「皆様、ランチ、お楽しみでしょうか?」

 

「は~い!」

 

黄色い笑い声と、太い声の返事が混ざる。

 

「私はスイーツに、恋心とでもいうのでしょうか、ため息を乗せて粛々といただきました」

 

「こずえちゃ~ん。何をおっしゃる」

「ガブガブと笑顔で、すごい勢いでスイーツをいくつもぺろぺろ平らげていたじゃない」

「ヨダレもティッシュでふきふきしながら」

 

オケのメンバー達が茶化す。

 

「ため息の出ちゃうような恋……。その苦しみの分だけ、スイーツを頂いたという訳でしょうか……」

「ティッシュは、ちり紙股間でいただいたもの。いつも股間でたくさん貰いますです」

 

「ガーッ、ハッハッハ!」

 

これは男女問わず、オケのみんなから大爆笑。

 

「こずえちゃん。連絡、連絡」

 

みどりちゃんがこずえちゃんに肘をついて急かす。

 

「はい」

 

「午後1時半から2時半までは、201号室で魔法使いの弟子の合奏となります」

 

「ちなみに、正先輩のあだ名は瀬戸際の魔術師」

「どんなことでも、最終的に辻褄があうように、物事を器用に済ませる」

「たぐいまれなる才能です」

 

「だからこずえちゃん、正のことはいいって」

 

四年生男子とOBが笑ってシュプレヒコールを浴びせる。

 

「さて、魔法使いの弟子に乗らない方は、マーラーの自主練習となります」

「練習場所は、各々、パートリーダーの指示に従ってください」

「間違えても、温泉になんぞ入らぬように」

 

「お風呂で出すのはマラですが、その練習ではありません」

 

同性の女の子達から、このアナウンスは、ヤダ~と軽蔑を受ける。

 

しかして、男連中はやんや、やんやと笑いでどっと盛り上がる。

 

「まさに、こずえ嬢からしか聞けないアナウンスだな」

「マラって、おちんちんの隠語だろ?」

「これ、最強の放送事故だよ。歴史に残るぞ!」

 

「ううんっ! さて、お静かに。事務連絡を続けます」

 

こずえちゃんは、盛り上がっている外野をよそに、平坦な口調でアナウンスを続ける。

 

「午後3時から5時までは、同じく、201号室でマーラーの巨人の合奏です」

「第二楽章と第三楽章の練習を行います」

「マーラーに乗らない方は自主練習となります」

 

「瀬戸際の魔術師……、じゃなかった、魔法使いの弟子の個人練習をしていて下さい」

「マーラーの練習を傍聴していても構いません」

「ただし、温泉につかりマラを膨張、つまり膨らんだり膨らませるのは厳禁です」

 

「ダハ~っ!」

「ガハ~っ!」

 

「風呂に入るたび、このアナウンス思い出しちゃうじゃん」

「これ思い出してニヤニヤしながら銭湯とかに入ったら、他人から変人に見られるよ」

 

オケの面々が、爆笑の渦に飲まれる。

 

「おい。合宿史上、こんなに面白いアナウンスあるか?」

 

「ない! ない!」

 

男性陣は、ほとんどが腹を抱えて大受けしている。

 

まだ、食堂はザワザワしているが、事務連絡が終わった。

隆、水野、そして僕は午後3時まで個人練習、というか完全に昼休みモード。

 

「俺、寝るから」

 

水野は、押し入れから枕を取り出して昼寝を始める。

 

「フフ、フフフ」

 

さっきのアナウンスの思い出し笑いをしたかと思うと、スースーとすぐに寝息をし始める。

 

「正。外に散歩にでも行こうか?」

 

隆が僕を散歩に誘う。

 

「ああ」

 

「里奈ちゃんも誘っていいかな」

 

「いいよ」

 

隆がLINEで彼女の里奈ちゃんを呼び出す。三人して、爽やかな夏の志賀高原のお散歩。

 

「正くん、本当に天然キャラのこずえ嬢に好かれちゃったね」

 

里奈ちゃんがニコニコして僕につぶやく。

 

「うん」

 

「里奈ちゃん。女の子から見て、こずえちゃんってどう?」

 

「類い希なるタレント性の持ち主よ。可愛らしいオーラと人格」

「性格はあっさりしていて、根に持たない」

 

「誰にでも平等で、わがままも言わない」

「まあ、正くんにだけは平等じゃないけどね」

 

里奈ちゃんはクスクス笑っている。

 

「何?」

 

「しかし、こずえちゃんの正くん好きには笑えるよね」

 

「里奈ちゃん、他人事じゃないよ」

 

「でも、迷惑じゃないでしょ?」

 

「迷惑じゃ……、ないけど……」

 

「ほら、本音が出た」

「正くんのいいところ。素直ね」

 

「私も、一年生の頃から正くん、好きだったのよ」

「気づいてたでしょ?」

 

「ああ、なんとなくは……」

 

「でも、ブサイクだけど陽気で、ホルンの上手な隆くんを彼氏にした」

 

「里奈ちゃん。ブサイクだけは余計だよ」

 

隆が笑う。

 

「昔の正くんは、ある意味、男性版のこずえちゃんだったよね」

 

「里奈ちゃん。僕とこずえちゃんを一緒にしないでよ」

 

「はいはい。もちろん違うよ」

「でも、面白い人という意味では、同じ範疇に入るかな?」

 

「正くん、やることなすこと生活感が無くって不思議な男の子だったよ」

「アパートの部屋も全然生活感なかったし」

 

「里奈ちゃん。それ、正が貧乏だったから」

 

隆が口を挟む。

 

「いや、それとはまた一味違う雰囲気」

「今も、日常で使うものが全然なくて、無駄な物も一切もっていない」

「テレビでさえ無いもんね」

 

「でも、物でもなく、言葉でも無い、なんだか大切なものを持っているのよね、正くんは」

「今、恵ちゃんとこずえちゃんに好かれている理由がよくわかる」

「すなわち、一緒にいて何か面白いのよ、正くん」

 

「生き方に自信を持っていて、余裕が生まれてる」

「面白いというところで、こずえちゃんと似た者同士のくくりになるの」

「どっちもおっかしくて」

 

里奈ちゃんは、フフフと笑う。

 

「だから、オケの皆んなも、こずえちゃんと正くんを全然許してしまう」

「特に、こずえちゃんは遠慮を知らない若さだから余計にね」

 

僕らは、爽やかな夏の草原、志賀高原のスキーのゲレンデを何周かしてホテルに帰ってきた。

 

「ピンポンパンポーン」

 

「オケの皆様にご連絡です」

「この後、午後3時より201号室でマーラーの巨人の合奏を行います」

 

みどりちゃんの館内放送。夏の草原に似合う、素敵に透る声。

 

「マーラーに乗られる方は、皆様、時間厳守でお集まりください」

 

「なお、傍聴……」

 

ここで、珍しく、ププッとみどりちゃんの笑い声が入る。


思い出し笑い。笑いをこらえた、高いトーンでつまりながら、

 

「傍聴……、される方……も、時間……通りに、に……、お集まりください」

「ププ、ププッ」

 

笑いをこらえた声とともに、マイクが、ボッッと突然切れる。

 

「ポンポンポンポーン」

 

「みどり嬢も事故ったか」

 

隆と僕と里奈ちゃん、三人で見合って微笑む。

 

 

ーーーーー

 

 

第2楽章。

Kraftigbewegt、doch nicht zu schnell『力強く動いて、けれどもあまりはやくならないように』

 

三部形式のスケルツォ。モラビア地方の農民舞曲で中間部はワルツ。

エネルギーがあふれ、体が勝手に動き出す。そんな若者を表現してるような音楽。

 

低音の弦楽器で力強いオスティナート、すなわち、同じ高さの音が何度も出てくる旋律が奏され始まるが、この音型も4度下降。そして木管楽器に主題が出てくる。歯切れのいい旋律。中間部のトリオは、うってかわってやさしく甘い旋律のワルツ風の音楽。ワルツが終わるともう一度最初の部分に戻る。

 

ここは第1部の単純な再現ではなくて、簡潔に終わる。その終わり方も、速度を速めながら管楽器が長いトリルで盛り上げて力強い和音で終える。

 

やや唐突な終わり方だが、次の楽章との対比を際立たせるという意味で効果満点。

 

第3楽章。

Feierlich und gemessen, ohne zu schlippen『儀式のような荘重さと威厳をもって、決して引きづるように緩慢にならぬように』

 

最初、マーラー自身が、カロ風の葬送行進曲と名づけた音楽。

 

カロというのはフランスの銅版画家で、猟師の死体を獣たちが担いで、踊りながら墓地に進むという画からヒントを得たらしいが、標題は取り消された。

 

しかしこの葬送行進曲という呼び方は、この楽章のイメージとしてぴったりのものであることは間違いない。この楽章も、三部形式。

 

ティンパニーが4度下降の音型をピアニッシモで2小節打ったところで、コントラバスのソロが、この楽器としては高音域で主題を奏する。足を引きずるような、哀愁極まりないテーマの異様な登場の仕方である。

カノン風にいろんな楽器に引き継がれた後、オーボエが悲しげな、それでいてユーモラスなテーマを吹く。

 

中間部は『ひじょうに飾気なく、素朴に民謡風に』という指定のある、柔和で明るい気分の音楽で、その主題は、『さすらう若人の歌』の第4曲からとられたもの。

 

甘いそのメロディーは、ロマンチストのマーラーの恋心の表現なのかも知れない。そして最初のテーマに戻って、静かに消えるようにこの楽章を終え、息つく間もなくそのまま第4楽章に流れ込んでいく。

 

今日の練習はここまで。

 

マーラーの合奏が終わり、こずえちゃんが近づいてくる。僕は、いつも通り楽器を丁寧に拭いてケースにしまう。

 

「私もそんな風に、丁寧に正先輩に拭かれたいです」

 

「そう。でも、その後しまっちゃうよ」

 

「しまわれてもいい。正先輩のそばにいられるなら」

 

僕は話半分、上の空で聞きながら、次にマウスピースをブラシで洗う。

 

「私も、そのマウスピースになりたい」

「毎日、正先輩に……。やだ! 口付けされて」

 

「こずえ……、下の口にでもいいですよ」

 

「はいはい」

 

僕とこずえちゃんのくだらない会話を聞いて、近くにいたバイオリン一年連中の女の子達がクスクスと笑う。

 

「やはり合宿での練習は違いますね~」

「下界とは隔離された天空での時間と空間」

「身も心も引き締まり、音楽作りに精が出ますね」

 

「正先輩。今宵、身も心も引き締めて、二人して愛の情事、Love Affair にも精をだしましょうか?」

 

「あのさ、間違えてもそんな詭弁、他の人に言っちゃだめだよ」

 

「あら、もう夕子ちゃんや紀香ちゃん、バイオリンの何人かの女の子たちに言っちゃいました」

「場所はどこでするの? とも聞かれました」

 

「また、余計なことを……」

「ややこしい話しになっちゃうな……」

 

「大丈夫ですよ。実際、アレをするわけじゃありませんから」

 

「あたり前だよ」

 

「あくまで、情事ですから」

 

「情事と、アレと、どう違うの?」

 

「う~ん……」

「よく考えると一緒ですね」

 

「まあいいや。いき過ぎた冗談は、皆んな、かえって信じないから」

 

「いや、紀香ちゃんは、私ならやりかねないと言っていました」

「夕子ちゃんは、昨日、もうすでに篠崎先輩とよろしくやったと言ってましたし」

 

「えっ、どこで?」

 

「1階のスキー板の乾燥室です」

 

「そこは夏場にはもちろんスキー板は無く、しかして隠れるところが多いので、カップルには最高の情事の場となっているようです」

「チュッ・チュ、ピチャッと。まあ、真夏の夜の代々木公園のベンチ状態というところでしょうか」

 

「その例えは分かりやすいけど、ここでは皆んな知り合い同士だよ」

 

「公園で見る、アカの他人の情事とは全然違うよ」

「すぐにばれて、噂が広まっちゃうじゃない」

 

「そこが正先輩の考えの浅はかなところです」

 

「そういうところで出会ったカップル達は、逆に互いの情報を決して他には漏らしません」

「あんなことや、そんなことをしても、チクるどころか、互いにそれを見て余計に盛り上がります」

 

「そしてお互いのカップル同士、どんどんとすることがエスカレートしていきます」

 

こずえちゃんの声が、徐々に大きくなっていく。

 

「はいはい。クレッシェンドはそこまで」

 

「でも夕子ちゃんは、こずえちゃんに自分の痴話、漏らしたじゃない」

 

「それは、私が無二の親友で、かつ、合宿の風紀係だからです」

「一応の情事の情報は、私の耳に入るようになっております」

 

「スパイみたいだね。それ、さっきの話と矛盾してない?」

「情報は、決して漏れないっていう」

 

「私にだけは、特別情報が入ります」

「女性側は夕子ちゃんと紀香ちゃん。男側の情報は、谷崎と太田に任せてあります」

 

こずえちゃんに気のある二人か。どうせ、こずえちゃんに色気のえさをまかれて、アゴでこき使われているんだろうが。

 

「あとさ、風紀係のこずえちゃんが、仮に僕とエッチな事したらオケのメンバーに示しがつかないでしょ?」

 

「それと、これとは別問題です」

「風紀係の私、こずえも女です」

「笑顔が素敵だし、身も心も敏感な女の子」

 

「18の乙女心に刻む思い出。満天の星の下、真夏の夜の夢を、それを求めて、辛くて、欲しくて……」

 

「はいはい」

「僕は部屋に戻るよ」

 

「正先輩。夕食はお隣同士で仲良く一緒に食べましょうよ」

 

「今晩はしゃぶしゃぶ御膳。食べ放題です」

「ついでに今宵は、私の食べ放題もつけちゃいます!」

「場合によっては、こずえ、みんなに内緒でノーパンでいてもいいですよ」

 

こずえちゃんは僕にウインク。

 

「そうだ!」

 

僕は、自分で思ったより大きな声を出した。

 

「どうしました? 正先輩。ビックリしますです」

 

「今宵、すなわち今日の晩は、合宿二日目の夜だよね」

 

「はい。もちろんです」

 

「今日だ。スマと同等、いや、人によってはスマよりつらい日」

 

「何があるんですか?」

 

「一般通称、なすがままの日」

「人により、キュウリがパパの日と言う人もいる」

 

「なすがまま? キュウリがパパ?」

 

「何か、意味深な行事ですね」

 

「全然くだらない二日目の夜の恒例行事なんだけど、一応そう呼ばれている」

「多分、生贄は太田だな。お漏らししなきゃいいけど……」

 

「お漏らしって、何をですか?」

 

 

ーーーーー

 

 

「正先輩。ホテルの売店に行きません?」

 

こずえちゃんが楽しげに僕を誘う。

 

「ああ。いいよ」

 

夕食まであと30分。特にやることもないし、隆も水野も見あたらない。こずえ嬢に付き合うことにした。

 

「わあ! おみやげ物、いっぱいです」

 

「熊さんやフクロウ。学部の友達にキーホルダー買ってあげるです」

「なぜか、パンダもありますね?」

 

「志賀高原とパンダ……」

「どこから、こう言う発想が生まれるのでしょう」

「私の普通の脳みそからは思いもつきません」

 

「こずえちゃんの脳みそなら、志賀高原に桃色の象さんがあってもおかしくないよ」

 

こずえちゃんは聞いちゃいない。

 

「あっ! パンとおやき」

「アンパン、ジャムパン、クリームパン。そしてウグイスパン」

 

「ウグイスパンは、パンの中に、野鳥のウグイスが入っているんですかね?」

 

「こずえちゃん。それマジで聞いてる?」

 

「冗談です」

 

「安心した。ならいいよ」

 

「おやき。美味しそうです」

「野沢菜のおやき、一つ頂きます」

 

「晩御飯前なのに?」

 

「ニラ饅頭、おやき、スイーツは別腹です」

 

こずえちゃんは、ホックホクのおやきを一つ買う。

 

「正先輩。半分っこしましょう」

 

僕におやきを半分くれる。

 

「ああっ! 美味しい! 腰が砕ける」

「正先輩、どうですか?」

 

「うん。美味しいね」

 

「なんだか幸せです。二人して一つのおやきで結ばれるなんて」

 

「何が結ばれるの?」

 

「腰が砕けるくらい愛し合う愛です」

 

「はいはい」

 

僕は軽くこずえちゃんをあしらう。

 

「こずえちゃん。もうすぐ夕食だから、食堂に行こうか」

 

「はいっ!」

 

 

ーーーーー

 

 

午後6時。こずえちゃんがマイクを握る。

 

「さて、これから夕食です」

「しゃぶしゃぶ御膳。お肉はケチってバラ肉ですが、食べ放題です」

 

「こずえちゃん。ケチっては余計よ」

 

みどりちゃんからのお小言。

 

「はい」

 

「時間は小夜コンまでの1時間しかありませんので、おしゃべりなどせずに、自己最速のペースでガツガツ食ってください」

 

「こずえちゃ~ん。言葉遣いが汚いよ~」

 

太い男子の声が飛ぶ。

 

「さて、食べ放題の時間が減ると困りますので、即、夕食に入りたいと思います」

 

「いた~だきます」

 

「いた~だきます!」

 

皆んなで、ワイワイガヤガヤしゃぶしゃぶを食べる。

 

「水野、すごい勢いだな」

「開始5分。もう10皿も食べたの?」

 

一皿には、豚のバラ肉4切れが入っている。

つまり、5分で40枚のバラ肉を食べた。

 

「このゴマだれ、最高だね! まいう〜」

 

こずえちゃんの言う通り、オケの皆んなは、言葉少なくガツガツ食べ始める。

夕食開始から30分ほど経った。

 

「皆様。食べ放題も順調に進んでいる事と思いますが、ここで聴き放題の事務連絡です」

 

食べ放題の時に、聴き放題という言葉を聞いて、フフフ、プッと所々で笑い声が起こる。

 

「このあと7時からは、ここ食堂で小夜コン」

「みどり先輩の、モーツアルトバイオリン協奏曲第3番がございます」

 

「その腰の動き。最高の、ディナー後の余興です」

 

「ううんっ! 余興じゃなくて演奏でしょ」

 

みどりちゃんは恥ずかしげに下を向く。

 

「失礼いたしました」

 

「あと、クラリネットパート、トランペットパート、一年生の木管五重奏がございます」

「宴会は昨日と同じく、午後8時から10時まで202号室の宴会場で行います」

 

「今日の出し物は、二年生女子のモノボケ。そしてビンゴ大会」

「時間があれば、黒ひげ危機一発ゲームを致します」

 

「なあに~。黒ひげ危機一発ゲームって」

 

知っているOBが太い声で質問する。

 

「ルールは単純」

 

「ナイフを刺し、黒ひげが飛び出た方には、そこで1分以内の一発芸をして頂きます」

「例年、飛び出た黒ひげを股間に当てて、陰毛、と言う輩がおりますが、それはNGワードと致します」

 

「了解で~す」

 

「さて、宴会の後、午後10時からは血液型コンパです」

「今日はA型コンパ、明日はB型、明後日はC型……」

 

「こずえちゃ~ん。その冗談はもう聞いたよ~」

 

「はい。失礼致しました」

「今日はA型コンパですが、これは名目で、血液型とブラのサイズは何型でも構いません」

「皆さん、お誘いの上こぞってお越しください」

 

「なお、昨晩は通称スマのアクシデントがございました」

「谷崎君は相当おちんこでたらしいですが……」

 

「違うでしょ……」

 

みどりちゃんが、顔を赤らめて注意する。

 

「あっ! 相当落ち込んでいたらしいですが……」

「朝立ちの顔をみたら、大丈夫そうでした」

 

「だから、違う! 違うでしょ……」

 

みどりちゃんが慌てる。

 

「そうでした」

「朝立ちではなく、朝の顔立ちはよく、皆んなで安心しております」

 

食堂が爆笑の渦に巻き込まれる。

 

「こずえ嬢、何笑かしてくれるんだよ!」

 

さすがの水野も箸を置かざるを得ず、腹を抱えて笑っている。

 

「別な意味で、食べ放題できないじゃん」

 

隆も里奈ちゃんと一緒に大笑い。

 

「毎日が、合宿史上に残るアナウンスだ」

 

誰もがみんな、明るく楽しい顔。食堂全体が素的に華やいだ空気に包まれる。

 

第96話

 

「食事中ですが、皆様に本日の小夜コンサートについてご連絡いたします」

 

こずえちゃんがマイクを握る。

 

「小夜コンサート、通称小夜コンは、毎日午後7時から8時まで、ここ食堂で行われます」

「本日の出し物は……」

 

「こずえちゃん。芸じゃないんだから」

「出し物じゃなくて、演奏でしょ?」

 

「失礼いたしました」

 

みどりちゃんがこずえちゃんに耳打ちをする。

 

「本日の演奏は、クラリネットパートによるベートーベンのピアノ協奏曲、悲愴をクラリネット8重奏にアレンジした素敵なアンサンブル」

「そして、トランペットパートによる、トランペット吹きの休日に、様々なトランペットの名曲メロディを盛り込み編曲した、トランペット吹きの繁忙日」

 

「一年生からは、本日は木管5重奏、毎年定番のハイドンのディヴェルティメントです」

 

「アレグロの第1楽章、アンダンテの第2楽章、メヌエットの第3楽章、ロンドの第4楽章で、各々、フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットのメンバーが入れ替わります」

 

「なお、小夜コンの時間帯は皆様の自由時間でもありますので、部屋でのんびり過ごしたい方、温泉を堪能したい方、遊び相手と遊びたい方、彼氏、彼女とイチャイチャしたい方などは、小夜コンなど聞かずにご自由にどうぞ」

 

「う、うんっ!」

 

みどりちゃんが喉でこずえちゃんに余計なことは言わないようにと咳払いをする。

 

「麻雀部屋も夜10時まで解放されています」

「正先輩は、昨年リャンソウを振り、トリプルロンをされてハコテンになったという情報も入って来ています」

「普段の練習をサボっている罰でしょう」

 

「こずえちゃん。それも余計、余計……」

 

みどりちゃんが話を遮る。

 

「こずえちゃ~ん。正の話はいいから、話を進めて~」

 

外野からの声が響く。

 

「はい。失礼いたしました」

 

「なお、本日の小夜コンは、ウエルカム小夜コン、食堂にある舞台のリニューアルこけら落しとして、最初に、我が合宿係の長であるみどり先輩の、モーツアルトバイオリン協奏曲第3番の第一楽章の演奏がございます」

 

「みどり先輩の演奏中の、アノ本番さながらの腰の大胆な動き、細かい動き、息づかいなどにもご注目ください」

 

「やだ……、こずえちゃん。そんな余計なことまで……」

 

みどりちゃんが恥ずかしげに下を向き注意する。

 

「こずえちゃん。そんな風に宣伝したら、みどりちゃん観に男子は全員来るよ~!」

 

わ~い、わ~い。やんや、やんやの歓声と、四年生、OB男子の太くて楽しげな声。朝っぱらから、こずえちゃんの脳天気なアナウンスでオケの皆んなが盛り上がる。

 

食事を終えたメンバーたちが、ゾロゾロと食堂を出始める。

 

「しかし、こずえ嬢の合宿係。最高だね」

 

隆が僕に向かって微笑む。

 

「ああ。間違いなく末代まで語り継がれるよ」

 

水野も笑う。

 

「正も合宿の時だけくらい、こずえちゃんのいい人になれば?」

「別に無理してエッチなことはしなくてもいいんだから」

 

「10日間だけの小さな恋人。キスくらいまではいいだろ?」

「まずは、こずえちゃんと腕でも組んで、頭を撫でて、仲良くしてあげれば」

 

「水野よ。そんな無責任なこと言うなよ」

「それだけで、恵ちゃんにどんなデタラメなコメント送られるか」

 

「正せんぱ~い」

 

こずえちゃんが僕にとっとっとっと、と近づいて来る。いきなり、がっしりと右手で僕の左腕を抱きしめる。

 

こずえちゃんの胸が、僕の体に強く押し付けられる。こずえちゃんのぬくもりを感じる。

 

「はい、ピース!」

 

こずえちゃんが左手でピースをする。

夕子ちゃんが、スマホで僕たち二人の写真を撮った。

 

「失礼しました~」

 

「合宿係の、合宿中の記録写真撮影でした~」

 

こずえちゃんと夕子ちゃんは、カラカラ笑って食堂のほうに戻る。

 

「ほら。言ったこっちゃない」

「水野が余計なことを言うから。言霊が動いた」

 

ピンポーン。

 

「ほら、来た……」

 

恵ちゃんからのLINE。

 

『正くん。楽しそうね、夏合宿』

 

『まあ……。まだ始まったばかりだから何とも……』

 

『こずえちゃんも元気そうじゃない』

 

恵ちゃんの遠回りな話し方。絶対に、さっきの写真は恵ちゃんに送られている。

 

僕は焦る。

 

『ああ、元気そうだよ……』

 

『安心して。みどりちゃんからも私にLINEが来てるから』

『正くん。こずえちゃんの籠の中の鳥状態ね』

 

『ああ……』

 

『大丈夫?』

 

『全然大丈夫だよ』

 

しかして、こずえちゃんと一緒にいるところの居心地もいいと思ってしまってきている自分もいる。

 

『どうだか』

 

『男の人は、可愛い女の子がいたら、彼女がいても離れた世界。気を緩めて手を出すこともあるんだから』

 

確かに、恵ちゃんをいつでも腕の中にする事ができるときには知ることもなかった、一緒に24時間生活する僕を好きでいてくれるこずえちゃんからの魅力的なフェロモン。

 

不思議な錯覚。好かれていて、嬉しくて安心できる籠の中の鳥。籠からうまく逃げられるだろうか? 

 

まあ、知っている。情に流されれば、きっと堕落の一途をたどるだけ。こずえちゃんの手玉に取られ、恵ちゃんともギクシャクする。

 

『恵ちゃん?』

 

『うん?』

 

『こずえちゃんにはね、僕に嫌われるかもしれない、嫌われたらつらい。僕の言うとおりにしないと、少し困ったことになる』

『そうして、何か問題が起きたときには、その時だけは助けてあげる』

 

『こずえちゃんにとっては、僕が恋愛関係のない、あくまでそう言う立場の男だと教え込ませようと思って』

 

『それ、ヤバイよ』

 

『どうして? 常に一定の男女の距離が保てるじゃない』

 

『こずえちゃん、勘違いするよ』

 

『何を?』

 

『そこまでいう男が何もしないというのは、女の子を落とすためのテクニックと取られるの』

『実は好きでいることを、じらされているものと勘違いする』

『別に、君と付き合えなくても、僕は困らないよと、一見そういう雰囲気になる訳だけど……』

 

『なる訳だけど……?』

 

『しかし、正しくんはこずえちゃんに、私がいても、本当は内心、そんな風にこずえちゃんと付き合い続けたい、とも取られる』

『いや、間違いなくそう取られるよ』

 

『じゃあ、どうすれば……』

 

「おい、正行くぞ。パート練習」

 

「はいよ~」

 

『じゃあ、これから練習だからこの辺で』

 

『うん。頑張ってね』

『私たちは、卒論頑張るから』

 

『あた~っ。それキツイ言葉』

 

『フフフ。じゃあねぇ~』

 

トークの後に、恵ちゃんのピースした自撮りの笑顔の写真が送られてくる。

とても可愛い。僕は廊下で一人見つめて、嬉しくて微笑む。

 

「ピンポンパンポーン」

 

「テス、テス、テス」

 

館内放送がかかる。

 

「皆様、これからパート練習に入ります」

 

「先ほど廊下で一人、スマホを見てニヤニヤしていた男子、ううんっ! 今回だけは実名報道いたしますが、正先輩を見かけたという情報が入りました」

「ほ~ら、練習に遅刻しております」

 

「皆様はそういうふらちなヤツの真似をせず、時間厳守で練習に参加してください」

「大体、練習に遅刻するのを知っててスマホを見て、一人でにやけている男にロクなものはおりません」

 

「合宿係として、そういう者は私が手助け足助けをして差し上げますので、皆様はご心配なさらぬようお願い申し上げます」

「どうしてもダメなら、ホテルの外に出してお仕置きします」

 

「お庭~外。ふくわ~術」

 

「こずえちゃん!」

 

みどりちゃんが放送室に駆け込んでくる。

 

「俺も手助け、足助けしてくれ~、とか、管楽器パートが笑いで息づかいが出来ないとか、パートリーダー達からたくさん苦情の連絡がきているわよ」

 

「こずえちゃんも余計な放送していて遅刻でしょ」

「早く、パート練習に来て」

 

 

ーーーーー

 

 

「やっぱり、合宿での練習は一味も二味も違うね」

 

「ああ。一日中曲作りと宴会だけに集中できる」

「練習の成果に納得できるね」

 

隆と水野が何だか満足げ。

 

「正の逃げ場もないし」

 

ホルンパートの後輩たちが笑う。

 

「ピンポンパンポーン」

 

「オケの皆様にご連絡です」

「この後、午前9時半から11時半まで合奏となります」

「場所は2階、201号室です」

「皆様、遅延なきようお集まりください」

 

「ポンポンポンポーン」

 

みどりちゃんのアナウンス。放送事故の確率はほぼない。

 

「放送事故率100%のこずえ嬢はどうした?」

 

もう、合宿では、皆んなこずえちゃんのアナウンスを聞くのを心待ちにしている。

 

「合宿係のアナウンス担当から降ろされたんじゃない?」

 

水野が笑う。

 

「だって、正の事ならまだしも、小夜コンの、みどりちゃんの演奏の腰の動きに注目して欲しいとのアナウンスは行き過ぎな発言だったよ」

 

「でも、面白い子じゃん。こずえ嬢」

 

「ほら、遅れるぞ」

 

「さて、行くか」

 

ホルンパートの8名で、楽器、楽譜、譜面台を持ち、201号室に向かう。

 

「た~だし、せんぱい!」

 

「ほら来た。こずえ嬢だぞ」

 

「さて、今回は何の事故かな?」

 

隆がニヤニヤして僕を見つめる。

 

「正先輩。私、放送係から、放送係と風紀係の兼務へと変更となりました」

 

「2日目から?」

「合宿、まだ始まったばかりだよ?」

 

「はい」

 

「これ、自分で言っていいのかな……? 出世なんです」

 

こずえちゃんは、胸を張って僕らに得意げに話す。

 

「放送係よりも難しい風紀係を任されたんですよ」

 

「放送係を降ろされた、という方が正確な言葉じゃないの?」

 

「あら、正先輩、冷たい言い方ですね」

「ご安心くだされ」

 

「食堂等での事務連絡は僭越ではありますが、これまで通り、櫻井こずえ、私が執り行います」

 

「まあ、館内放送に限って、被害をホテル全体に及ぼさないようにとのみどりちゃんの配慮だね」

「マイクのスイッチのオンオフ間違え事件もあったし」

 

「そんなことより正先輩、遅れますよ」

「合奏、合奏!」

 

マーラー交響曲第1番『巨人』、第一楽章。

 

Langsam, schleppend。緩やかに、重々しくと楽譜の最初に記されている。

 

序奏部を持ったソナタ形式。

 

序奏部。

独創的な開始である。弦楽器群がハーモニクス奏法で延々と引き延ばすAの音で始まる冒頭から、超自然的な世界を感じる。この、爽やかで乾燥した天空の楽園、志賀高原のひんやりとした空気とも重なるところがある。

 

オーボエとファゴットが4度下降の動機をのんびりと演奏し始める。鳥の声がそこに介入し、舞台裏のトランペットがファンファーレを奏で、さまざまな楽想の断片が、いつしか集積しながらゆっくりと巨大な生命が目覚めるように音楽が動き始める。

 

広々とした田園風景、さえずる鳥たち。

そんなのどかな春のように、青年の心が飛び跳ねるような躍動感あふれる、青春の息吹が感じられる。

 

提示部。

主部に入ると、チェロに第1主題が出てくるが、これも4度下降の音型で始まる。

 

第2主題は木管楽器で細かい動きをしていく。

展開部は、提示部に出てきたいろんなテーマを展開し、また新しい活気にあふれたテーマを加えながら、ピアニッシモからフォルテシモへと駆け上る。

 

そして、第1主題にもどって再現部に入る。

再現部は比較的短く、簡単に主題を再現して最後のコーダに向かい、アッチェレランドしてこの楽章を閉じる。

 

「はい。午前の合奏はここまでです」

 

こずえちゃんがマイクを握る。

 

「この後、12時からは食堂で昼食となります」

「例年、昼食までの30分とお昼休みの間に、時間を見計い、温泉につかる輩がいるみたいですが……」

 

「……こずえちゃん。輩はダメ。言葉を選んで」

 

みどりちゃんの耳打ち。

 

「はい」

 

「温泉に入られる方もおられるようですが、昼食時には連絡事項がございます」

「また、午後からも練習が続きますので、なるべくであればお控え下さい」

 

「……こずえちゃん。禁止よ、禁止。」

 

「入浴はダメ」

 

「はい」

 

「入浴は禁止と致しますが、にゅ~よ~くに、行きたいか~!」

 

いきなり大声で、こずえちゃんが古いギャグネタをぶちかます。

 

「お~っ!」

 

OBが太い声で右手拳を上げてこずえちゃんのギャグに乗る。

 

「やはり、こずえ嬢、こうじゃなきゃ」

 

隆も水野も笑っている。オケのメンバーもクスクス、ザワザワとしている。

 

こずえちゃんは、ギャグがうけたことを無視して冷静にアナウンスを続ける。

 

「さて、昼食もバイキングになります」

「今日は、デザートワゴンも準備されております」

「私も自分へのご褒美に、スイーツをたらふく食べさせていただきます」

 

「だから、……。こずえちゃん。言葉を選んで……」

 

みどりちゃんの耳打ち。

 

「はい」

 

「スイーツを……」

 

「みどり先輩? こういう時は、どんな言葉を使えばいいんでしょう?」

 

「そうね……。たらふく……?」

 

 

ーーーーー

 

 

「水野、それ、焼きそば大盛りすぎるだろ」

「あとピラフ、それも大盛り過ぎ」

「炭水化物ばかり取ってどうする?」

 

隆が水野のプレートを見てつぶやく。

 

「いいんだ、いいんだ」

「俺は、食べたいものを食べたい時、食べられるだけ食べる。それがポリシーだ」

 

「だからそんなに腹が出るんだろ。健康にもよくないよ」

 

「サラダバーで野菜も取ってきな。ほら、正のように」

「ウサギのように、サラダ食ってるだろ」

 

僕は部類のサラダ好き。健康のためというより、好きなものだからサラダをたくさん食べる。その辺のポリシーはある意味、水野に似たり寄ったり。

 

「正は貧乏育ちだから、ウサギのように野菜ばかり食べるんだよ」

「俺みたいな金持ちは好きなものを食う」

 

「でも、水野の両親は糖尿病じゃなかったっけ?」

 

「隆、よく憶えてるな。そうだよ」

 

「前に、水野の家に泊りに行った時に、お父さんとお母さんから聞いたよ」

「食べ物、若い時から注意しなきゃ」

 

「実は、血液検査で、もう既に血糖値が高いことが分かった」

 

「なら、尚更だよ」

「食生活、注意しな」

 

「美味しいですか? ウサギさん?」

 

こずえちゃんが、僕の隣の席に座る。

 

「ウサギ?」

 

「野菜をニコニコ美味しそうにモリモリ食べていて、正先輩、ウサギさんのようです」

 

「ああ、そういう事ね」

 

「あと、グリーンのTシャツも凄く似合ってます」

 

「ありがと」

 

「グリーンが似合うのは、カエルと正先輩くらいです」

 

「それ、褒め言葉に聞こえない」

 

「まあまあ、何をおっしゃるウサギさん」

 

僕はこずえちゃんを無視する。

 

「ウサギ先輩、奢っちゃダメですよ」

 

「手の速いウサギと遅いカメが競争をし、ウサギが余裕をカマして昼寝をしたり道草を食っていたら、コツコツと前進していたカメに追い抜かれて負けてしまう」

「そうして、ウサギさんは好きな女の子をカメに奪われてしまうという物語があります」

 

「あのさ、手の早いウサギじゃなくて、足の早いウサギでしょ?」

「どこで、ウサギとカメの物語の結末をそんな風にアレンジする?」

 

「私の脳みそです」

 

「こずえちゃん。教育学部でしょ? ちゃんと子供には正しい物語を教えるんだよ」

 

「はい。手の早い正先輩」

 

「だ・か・ら、僕のどこが手が早いの?」

 

「恵先輩という彼女がおりながら、合宿の初日から、不肖、私、櫻井こずえに気を向けるとか」

 

「向けてない、向けてない」

 

「あら? 私の錯覚かしら?」

「なんだか正先輩、恵先輩がいても、本当は内心、私とも付き合い続けたい」

「そんな風なオーラが見えますです」

 

確かに。恵ちゃんから言われた通りだ。

 

実は好きでいることを、じらされているものと勘違いする。先の恵ちゃんとのLINEを読み返す。

 

「何しているんですか?」

 

こずえちゃんが後ろから体を僕の背中に乗せて、LINEを覗き見する。軽い。そして華奢なのに、柔らかい体。

 

恵ちゃんとは違う艶かしい感触。

 

「見ちゃダメ」

 

「はいはい」

 

すぐ身を離す。

 

なんだろう? 今の感覚がまた欲しい。

 

「フフフ」

 

こずえちゃんが微笑む。

 

「何?」

 

「正先輩、今、いやらしい事考えてたでしょ?」

 

「いや……、別に」

 

「後ろから前から、どうぞ~」

 

「何? その歌」

 

「私の十八番の一つです」

「1980年代の曲」

 

「いやらしい内容の歌ですが、実は作詞は、教科書にも乗っている四季の歌を作詞した方です」

「知りたいのは正先輩の、優しさの中に隠している、熱い野生です」

「束の間の愛欲に溺れてしまうのもいい経験ですよ」

 

「はいはい」

 

僕は席を立つ。

 

「正先輩、どこへ?」

 

「スイーツを、たらふく食べるよ」

 

「私も行くです」

 

「食べるのは、スイーツだけじゃないですよ」

「正先輩の、心も食べるです」

 

こずえちゃんは、何か戦略を立てたのだろうか? 不気味に微笑む。

 

第95話

 

「さて、皆さん。午前0時をまわりました」

 

みどりちゃんがアナウンス。

 

「合宿初日の二次会はこれをもって終了します」

「なお、この後、ここでエンドレスのテゲコが引き続き行われるようです」

 

テゲコとは、低弦コンパの略。チェロ、コントラバスパートの面々のコンパ。

 

「え~っ……」

 

分かっていても、一年生男子から不満たらたらの声。

 

当たり前。この部屋の初日はほとんど寝ることができない。メンバーは半分くらいに減るが、20人近くはこのコンパに残る。

 

テゲコには、その大きい楽器の特性からか、比較的体格のいい男子が多い。男子が圧倒的に多いが、テゲコに残る女の子もいる。

 

「隆、水野。部屋に帰るぞ」

 

「ああ」

 

三人して部屋に帰る準備をする。

 

「私、テゲコに出るです」

 

こずえちゃんが僕の腕を引っぱる。

 

「こずえちゃん。夜更かししたら、お肌にも美容にも良くないよ」

 

僕が言うと、

 

「あれ? 正先輩。私の吸い付くようなモチ肌を知らないから言うんじゃありません?」

「一度、お試しあれ」

 

「吸い付いたモチ肌の、その手の感触は、きっと先輩を虜にするでしょう」

「攻め手ものお願いですぅ~」

 

「あのさ……。まあいいや」

 

返事をよす。

 

恵ちゃんに余計なことを言われたら、また面倒なことになる。

 

「隆、水野よ。僕、少しテゲコで飲んでから帰るわ」

 

「おう。じゃあ、付き合うよ」

 

「しかし、今日の初日、笑えたな」

「まず、のっけから、こずえちゃんのマイク事件」

「オンとオフを間違えて、原稿じゃなく、頭に浮かんだ方の言葉をそのままアナウンス」

 

「正がこずえちゃんの誘いを考えておくとも言ってたな」

「前代未聞だよ」

 

フフフ。笑い声がどこからかわき出てくる。

 

「あと、これもこずえちゃんと正の事件」

「こずえちゃんのブラのパッドを揉んだとか、ブラを見せてもらったとか」

 

「おいおい、僕はそんなことしてないよ」

 

「それに近いことはしてました」

「まさか、乙女の肌に、デリケートな部分に直接触れるものを……」

 

こずえちゃんが話に割り込んでくる。

 

「でもよかった。こずえ、正先輩への恩を肌で返します」

 

こずえちゃんがニコニコして、話をまた面倒な方向に持っていく。

 

「風呂上がりの落し物を拾っただけでしょ。もうパッド関係の話を展開するのはパッと諦めて」

 

僕は念を押す。

 

「こずえ、諦めませんよ。Never 恥部 アップ!」

 

「あと、夕子ちゃん、篠崎と完全に出来たね」

 

うまい具合に、水野が話を逸らしてくれる。

 

テゲコに来ているチェロの夕子ちゃんが、赤く頬を染める。

 

「宴会途中で二人してどこか行ったでしょ?」

「何してたのかな~?」

 

次の話題はスマへ。

 

「そうそう、スマ」

「谷崎、意外に帰ってくる時間が長かったな」

 

「谷崎くん、腰がバンバンじゃなかったんです」

 

「こずえちゃん。何? それ?」

 

「合宿も、電車で長野駅まで、その後バスで志賀高原までと、腰が痛いと辛そうでした」

 

「スマも、他の女の子たちが何もしないから、私がまず、足と腰の部分の帯の紐を解いてあげました」

「そしたら、自由になった腰をフリフリして悶え苦しんでいたんですけど、長続きしませんでした」

 

「全然バンバンじゃないです」

「こずえが、一つ、二つ、三つ、と数えていくと、谷崎くん、腰痛! と言いました。そのあと、こずえ、五つ〜、と」

 

「こずえちゃんさ。生贄をいたぶって料理していたの?」

 

「はい。どうやら、腰バンバンは、やはり正先輩の方が全然良さそうです。私で試して欲しいです」

「したくなったら、前持って……、イヤだ! 恥ずかし! 知らせてください」

 

こずえちゃんが僕にはにかんで話す。

 

「だ・か・ら、こずえちゃん、話がややこしくなる発言はよしてよ」

 

僕はこずえちゃんの言葉を遮る。

 

「そう、そして徐々に、上の方へ帯の紐を解いていきました」

「縛り方が上手だったせいか、腕がなかなか抜けなかったらしくて……」

「その腕を締めている最後の命綱を残して、私は二次会へ帰ってきました」

 

「?」

 

「えっ? 最後の紐、解かなかったの? 誰が解いた?」

 

「おう、谷崎」

「最後、誰が助けてくれた?」

 

谷崎くん自身も分からないらしい。

 

ビデオ判定。

 

スマの一部始終を撮ったiPhoneの動画を見る。

 

「ガッ、ガ、ハハハハハ!」

 

今年はスマにするときに、のっけからアレが写っている。女の子は目をそらす。

 

「ここは、後でモザイク処理を入れるから」

 

谷崎くんが女子部屋に運ばれていく。しばらくの間、女の子たちの悲鳴。

 

こずえちゃんが部屋にやってくる。話してくれた通りの行動。のっし、のっしと途中で帰る。

 

「こずえちゃん。すっごく冷たいね」

 

「なんだか、面白くて」

 

画像を見て、フフフと微笑む。

 

画面を見ると、すぐに誰かがスマに近づいてくる。紀香ちゃんだ。

 

紀香ちゃんが、最後の帯の紐を、まるでひどく汚いものを手にするように、恐る恐る解いてくれていた。

 

「紀香ちゃんだったんだ」

「優しいね」

 

「わ~っ!」

 

谷崎くんの叫び声。

 

お尻丸出し。撮影は後を追う。こずえちゃんの二次会部屋到着とともに、谷崎くんは部屋に飛び込んでくる。

 

「なるほど」

 

これで、スマの一部始終が分かった。

 

「なあ、なんか余興ないか?」

 

「もう、時計は1時をまわっている」

「もう〆ようよ、テゲコ」

 

僕が言うと、

 

「もう一つか二つ。芸が見たいな」

 

四年生の低弦男子の太い声が聞こえる。

 

ここ、宴会の一年生部屋の一年生男子はビビる。

 

「おい! 誰か。一発芸!」

 

もう眠気まなこをしている一年生男子が二人出て来てヒソヒソ話。

 

「ジャカジャン、ジャカジャン」

 

売れているお笑い芸人の芸の入り方のまね。二人して、腰を90度に曲げ、お尻同士をくっつける。

 

「犬の交尾」

 

「ジャカジャン、ジャカジャン」

 

「それ、さっき二年生がやっただろ!」

 

今度は、同じ姿勢で片方が相方に馬乗りに。

 

「ヒトの交尾」

 

「いやらし~」

 

部屋に残っている女の子たちは目を伏せる。

 

「ジャカジャカジャ~ン」

「一発芸でした」

 

一応、拍手はもらう。

 

「あとは無いか?」

 

こずえちゃんが、紀香ちゃんと夕子ちゃんを呼んでヒソヒソ話。

 

「みなさん。5分ほどお待ちください」

 

3人して部屋を出ていく。

 

「タッタッタッタラー、タッタッタッタリー、タッタッタッタラー、タッタッタッタリー」

 

セーラー服を脱がせないでのイントロだ。ラジカセ持って、高校時代のセーラー服に着替えて来たこずえちゃんたちが踊り始める。

 

皆んなとても可愛い。目にしただけで、心にズキンとくる。本当に現役の高校生みたい。まあ、実際高校4年生といってもいい子達。

 

「せえら~服を、ぬがさ~ないで」

「今はダメ~よ、我慢なさ~って~」

 

「我慢できないよ!」

 

手拍子とともに、外野から太い男の声が飛ぶ。

 

「全てをあげ~てし~まうのは~、もったいないから~、もったいないから~、もったいないか~ら~、あげないっ!」

 

これは深夜の芸じゃない。網膜に鮮明に残る。強烈だ。

 

「どうでした? 正先輩」

 

ミニスカートで制服姿のこずえちゃん。僕に優しくビールを注ぐ。

 

言葉がすぐに見つからない。

 

「準備して来たの? 制服」

 

「はい。一発芸用。正先輩に見せたくて」

 

こずえちゃんは酔って踊った疲れもあって、僕の肩にチョコンと首を乗せてくる。

 

甘くて素敵な香り。恵ちゃんのスイレンの香りとは違うバラの香り。

 

寝息のような息が耳元でスースーと聞こえる。

 

可愛い……。ヤバイヤバイ。

 

「さて、テゲコ終了」

「皆、2時半には寝ること!」

 

一年生男子が、安堵の顔でようやく布団を敷き出す。

 

「じゃあ、こずえちゃん。また明日ね」

 

「正先輩。おやすみなさ~い」

 

「明日もこずえ、芸するかもしれません」

「股、見てくださいねっ」

 

僕も部屋に帰り、歯を磨いたあと布団に入る。こずえちゃんの制服姿。

 

短い時間に見た強烈なものは、長く艶やかに脳裏に焼きつく。

 

今夜はすぐに寝られそうもない。

 

 

ーーーーー

 

 

「皆さん、おはようございます」

「昨晩はゆっくりとお休みになられたでしょうか?」

 

合宿初日。ゆっくり寝られる訳が無い。深夜1時過ぎに、制服姿でおニャン子クラブの踊りをしていたこずえちゃんの言葉に重みはない。

 

しかし、生き生きしているハリのある声、ツヤのある肌。僕らも若いが、やはり一年生は格別。とんでもなく若い。

 

朝7時。外は、朝靄がかかっている。空気は乾燥していて、ひんやりと気持ちいい。しかし、新鮮な空気を吸いながらも、多くのメンバーがあくびをしている。

 

「朝食はバイキングとなります」

「バイキングとは、北欧の海賊からその名が取られ……」

 

「こずえちゃん。その説明はいいの」

 

みどりちゃんに耳打ちされる。

 

「まあ、好きなものを好きなだけ食べてください。As you like」

「私を好きなだけ自由に食べていいのは、正先輩だけですけど……」

 

「話を早く進めて」

 

みどりちゃんの催促。

 

「はい。午前・午後と、今日のスケジュールは、宴もたけなわになった頃、連絡いたします」

 

「こずえちゃん。それは今説明しなきゃダメよ」

「あと、日本語の使い方、違うよ」

 

「こずえちゃ~ん。腹減った~。早く連絡済ませて~」

 

四年生男子とOBからシュプレヒコールが起こる。

 

「はいっ」

 

「まず、8時からはパート練習」

「パート練習の部屋割りは、パートリーダーの指示に従って下さい」

 「その後、午前9時半から11時半まで合奏です」

 

「午前の合奏はマーラーだけですので、魔法使いの弟子にのみに出られる方は練習を見学していて下さい」

 

「合奏の場所は、2階の宴会室201号室です」

「午後は12時から宴会……、じゃなかった昼食」

「午後1時半から2時半まで、魔法使いの弟子の合奏」

 

「午後3時から5時までは、マーラーの巨人の合奏です」

「夕食は午後6時からとなります」

 

「こずえちゃ~ん。宴会の予定は?」

 

メンバーが、朝っぱらから宴会のスケジュールをねだる。

 

しかし、待ってましたとの勢いで、こずえちゃんのトーンが上がる。

 

「オケの普通の宴会は昨日と同じく、午後8時から10時まで202号室の宴会場で行います」

 

「そして今日から四日間は血液型コンパデーです」

「今日はA型コンパ、明日はB型、明後日はC型コンパ……」

 

「こずえちゃん、違うでしょ?」

 

「はい。失礼しました。すいません」

 

「明後日はO型、明々後日は正先輩が何とかの研究会の発表で名古屋へ行く日です……」

 

「こずえちゃ~ん。誰も、正の予定なんか聞いてないよ~」

 

「私事を挟んでしまい、失礼いたしました」

「たまあらって言うことではありませんが、私、正先輩のことが……」

 

OBたちは爆笑している。クスクスと女の子の笑い声も聞こえる。

 

「明々後日はAB型コンパです」

「全て、夜10時から。場所は一年生男子部屋、401号室です」

 

「え~っ……」

 

一年生男子のうめき声が聞こえる。

 

「もう、スマはありませんので、その点にはご安心ください」

 

「こずえちゃ~ん。腹減ったよ~」

 

「じゃあ、この辺で」

「皆さん、いただきますをしましょう」

 

「いた~だきます!」

 

「いた~だきます!」

  

「おい、水野」

「朝っぱらから、そんなに食うのか?」

 

「ああ」

 

トースト2枚に、スクランブルエッグ山盛り、目玉焼き二つ。カリカリベーコン山盛り、ウインナー……、何本ある? 10本近い。フレンチポテトも山盛り。そして、小ライスとはいえ、カレーライスも。

 

水野は、僕を見てにやける。

 

「食べ盛りだ。これくらい食うよ」

 

「その口が物語る腹の出具合、よく分かる気がする」

 

「正は、貧乏な割に少食だな」

「こういう時に、ガツガツいかないと」

 

水野が僕のプレートを見て話す。

 

「正は、貧乏だから少食になったとも理解できるね」

 

隆が僕を分析する。

 

「いや、僕だって、食べるときは食べるよ」

「でも朝っぱらから、ドカンとは食べられないよ」

 

僕は1枚のトーストに目玉焼きを乗せ、サイドにベーコン2枚、スクランブルエッグ少々、ウインナー1本、そして野菜サラダにコーヒーのみ。そして、フォークとナイフでそれらを食する。これが僕のスタイル。

 

ワイワイガヤガヤと朝食が進む。

 

「落し物のご連絡があります」

「昨夜の宴会場、201号室で、男性ものとみられる靴下が片方だけ落ちていました」

 

「心当たりのある方は、まず、自分の足をご確認下さい」

「今、片方が素足になっている方の人の可能性が高いです」

 

「そんなやついるかよ」

 

どっど笑いが起きる。

 

「あと、男性階の洗面所に、紫の頭髪ブラシが落ちていました」

「持ち主が見つからない場合、隆先輩とみどり先輩とで後日DNA鑑定をしてもらう予定です」

 

「誰がそんな事までする?」

「オケの男子、全員の髪の毛からもDNA抽出しなきゃならないでしょ」

 

隆が物言いをつける。

 

「あっ! そのブラシ僕のです」

 

一年生の、こずえちゃんに気のある太田くんが手を上げる。

 

「一応、真偽のため、本当かどうか陰毛も含めてDNA鑑定に……」

 

「百均のブラシだよ。いいって、いいって」

 

「まあ、落し物には気をつけましょう」

 

「私も昨日……、大切なブラの……」

「あぁ。正先輩には見て見ぬふぐりをして欲しかった……」

 

皆んな大笑い。

 

「それはもういいの、こずえちゃん。蒸し返さないで」

 

みどりちゃんが注意する。

 

さてさて。今日はどんなハプニングが起こるやら。

 

第94話

 

チャルメラの音。

浜本くんが客席に向かってお尻を突き出す。

 

「プッ・プッ・プッ、ブリッ!」

 

「すんません。時報でしたが、フンも出ました」

「時報だけに、分」

 

「面白くね~」

 

聴衆は冷ややか。

 

フォローのため、小原くんが、浜本くんのお尻の匂いを顔をつけて嗅ぐ。

 

「乾燥しました。尻嗅げる。シリカゲル」

 

男子がグラスを適当にチンチン叩いて、まずまずという反応する。

 

次はチャルメラの音じゃない

 

「チャーン、チャーン、チャンチャン、チャチャチャチャン」

 

重低音のシンセサイザーサウンドとシンバルの音。浜本くんがサッと服とズボンを脱ぎ、競泳パンツ一枚姿になる。

 

はだか芸は不気味な踊りから入る。

 

「あれか?」

 

「あれだ」

 

「さ~! さ~! さ~さ~さ~さ~」

 

「営業決まったよっ!」

「北海道の雪まつり」

「下手すりゃ死んじゃうよ!」

「でも、そんなの関係ねえ! そんなの関係ねえ! そんなの関係ねえ!」

 

「はい。オッパッピー」

 

次に間髪入れず、小原くんが浴衣を羽織って、ギター侍の真似。

 

「ジャン、ジャジャーン」

 

ギターをつまびく音。

 

「俺は、ひ~らい、け~ん」

「堅、堅、堅堅、平井堅」

「俺は今日もバラード唄い、そして拍手に包まれる……、っていうじゃなあ~い?」

 

「あんたを包み込んでいるのは……、ヒゲだけですから~!」

「残念~っ!」

 

「お~おきな、ノッポの平井堅」

「ひげ、切る~っ!」

 

続けざまに、二人揃ってテツandトモのモノマネ。

 

浜本くんの滑稽な動きと、そのまんまギター役の小原くん。

 

「なんでだろう~、なんでだろ~。なんでだ、なんでだろ~」

 

「まあ、二年生。そこそこ成長したじゃない」

 

隆が言う。

 

「ああ。この一年間で場慣れも十分しただろうし」

 

「後輩にも負けておれない」

 

水野も相槌をうつ。

 

「先輩方。二年生女子のモノボケも面白いって噂ですよ」

 

「今日やるの?」

 

僕がこずえちゃんに尋ねる。

 

「はい。この後始まります」

 

「でもさ、そうしたら、宴会、きっと10時過ぎちゃうよ」

 

「あら! もう、そんな時間ですか」

 

「こずえちゃん、合宿係でしょ?」

 

「ちゃんと宴会の進行しなきゃ」

 

「みどりちゃんのところに行って、時間調整しておいで」

 

「はい。分かりました」

 

みどりちゃん。二年生の榊原と金子の男子二人。こずえちゃんと夕子ちゃん。5人の合宿係が集まり、ひそひそと相談している。

 

ホテル側のスタッフもいる。

 

「皆様。宴もたけなわですが、本日のWellcomeパーティーをそろそろ、サクっと締めたいと思います」

 

こずえちゃんのアナウンス。

 

「さて、酔いが足りない方のために、私、下のヘアをそっております」

 

これには皆んなで大爆笑。

 

「こずえちゃん! どんな芸より面白いよ~!」

 

OBのダミ声が飛ぶ。

 

「上の部屋をとってあるでしょ! 落ち着いて!」

 

こずえちゃんがみどりちゃんに叱られる。

 

「はい。おちち、つきました」

 

ズレたブラのパッドを元に戻す仕草。

 

「プファー! プププ!」

 

また、皆んなから笑いが漏れる。

 

「老若男女問わず、一年生の男子部屋、401号室にお集まり下さい」

「楽しいゲームの時間も準備しております」

 

「なお、夜10時以降は401号室以外での飲酒は厳禁と致します」

 

「また、合宿の最初にお話した通り、昼夜問わず、男子の女子部屋への入室は固くお断りいたします」

「彼氏、彼女と、そんなことや、あんなことがしたい方は、互いに携帯で連絡をとるなどして、自己責任でホテル内のどっかでイチャイチャして下さい」

 

「こずえちゃん! 余計なこと言わない」

 

みどりちゃんが、こずえちゃんに肘をつけて耳打ちする。

 

「はいっ」

 

「失礼しました」

「あんなことや、こんなこと……。ああ! 私、いとしの人と、そんなことは夢の股、胸……」

 

「だから、こずえちゃん。余計な話はいいのっ!」

 

アナウンスが、こずえちゃんからみどりちゃんに代わる。

 

「それでは、初日のパーティー。締めと参りましょう」

「明日からも、二年生女子のモノボケ芸やビンゴゲーム、黒ヒゲ危機一髪ゲームなど、楽しい余興を取り揃えております」

 

「わ~っ!」

 

「ドンドン、チンチン」

 

宴会場は鳴り物や小太鼓の音も混じり盛り上がる。

 

「本日の中締めの音頭は、僭越ながら、合宿係の私、浜野みどりが務めさせていただきます」

 

「ピー! ピュー! パチパチ、パチパチ」

 

部屋いっぱいに拍手と口笛、歓声が飛びかう。

 

「さて、皆さま。お手を拝借! 関東一本締め」

「よ~おっ!」

 

「パン!」

 

パチパチ、パチパチと明るい拍手が宴会場に響く。

 

「さて。二次会だ」

 

こんなにも楽しい日々が10日間も続く。皆んな、ゆっくりと心を許しあえる仲になる。合宿の醍醐味。

 

「そうそう、こずえちゃん。二次会の留意事項。まだ言い忘れていることがあるわよ」

 

「そうだっ!」

 

「皆様。この後の401号室での二次会ですが、深夜0時を持って締めることと致します。そのあとはエンドレスです」

「例年、この規則が守られていないようなので、よろしくお願い致します」

 

「どこが規則だよ~……」

 

一年生男子が悲鳴に似た叫び。

 

「なお、ホテル内には一般客、外には野生のクマがおりますので、ホテル内外、ウロウロしないよう留意して下さい」

 

「あのね、こずえちゃん」

「その留意事項は、一般客とクマを交えて一文にしない。別々よ」

 

「はい」

 

「さて、行くか」

 

隆と水野、そして僕が腰をあげる。

スマ候補の、太田くんと谷崎くんは、もうお酒で出来上がっている。

 

「谷崎だってよ」

 

すれ違いざま四年の同級生男子が、僕らに耳打ちをしていく。

 

「了解」

 

隆と水野の顔がにやける。

 

「あのさ。こんなくだらない伝統やめようよ」

 

僕がいうと、

 

「やられた方も、まんざらじゃないんだよ。選ばれし者、って感じかな」

「やって大丈夫なヤツしかしない」

 

経験者の水野の言葉は軽い。

 

「ハイハイ」

 

僕は、軽く鼻であしらう。

 

「正先輩。二次会、私も行きますぅ~」

 

こずえちゃんが駆け寄ってくる。ほぼ完全に出来上がっている状態。紀香ちゃんも一緒。

 

「ハイハイ」

 

「あれ? 夕子ちゃんは」

 

「もう、もはや篠崎先輩とラブラブで~す」

 

「なるほどね。きっとロビーかどこかでよろしくやっているよ」

 

「よろしくやっているって、何ですかぁ~」

 

「まあ……、それは……」

「仲良くやってるっ、て意味かな」

 

「じゃあ、正先輩と私も、よろしくやっているんですね」

 

こずえちゃんは、いきなり携帯を取り出しLINEを打つ。

 

「まさか、恵ちゃんに何か打ったんじゃないだろうね?」

 

「その、まさかです」

 

こずえちゃんが、僕に満面の笑み。

 

ピンポーン。

 

恵ちゃんから、LINEが入る。

 

 

ーーーーー

 

 

『どう? 飲み会』

 

恵ちゃんからのLINE。

 

『楽しくやってるよ』

 

『こずえちゃんと、よろしくやっているんじゃないの?』

 

『えっ? いや、・・・、してないよ』

 

『何? そのてん・てん・てん』

 

どうやら、こずえちゃんは恵ちゃんにLINEを打っていなかったらしい。

 

『そう、無性に恵ちゃんに会いたいよ』

 

僕は話を素直な自分の気持ちに振る。

 

『私も。何だか、いつも毎日普通に会えると思うと何とも思わないんだけど、離れてみると……、ねっ』

 

『うん』

 

『正くんが卒業後アメリカに行くときになったら、私、どうなるんだろう?』

 

『僕も今の僕じゃ耐えられそうにないよ』

 

少しの合間。

 

『まあ、飲みすぎないでね』

 

『うん。名古屋でね!』

 

『うん。名古屋でね』

 

 

ーーーーー

 

 

「やめてくれ~!」

 

401号室の谷崎くんの悲鳴。

 

二次会に入ってすぐのスマ。こういう儀式は間髪入れず、早い時間に行うのが恒例。

 

谷崎くんは悲痛な叫びをあげるが、しかして、スマの捧げものとなった自分の立場をよく理解している。Tシャツ、ジャージのズボン姿のシンプルな服装。スマにするには、さほど時間を要しない、あまりに絶好の格好。

 

四年生男子、OB数人で十分な料理。僕は手を出さない。やはり、スマは可愛そうだから。

 

谷崎くんは素っ裸にされ、顔だけ出して毛布にぐるぐると巻かれる。そして浴衣の帯をつなげて、四箇所で手足が動けない様に縛られる。スマホで、その一部始終が録画される。

 

「行くぞ~」

 

毛布でくるまれた谷崎くんは、一年生の女子部屋へ8人の四年生、OBで丁寧に運ばれる。

 

「よい、しょっ!」

 

そして禁断の一年生女子の部屋に無造作に投げ込まれる。

 

夜10時半。

 

401号室の女の子は心の準備はしていたものの、現実に遭遇した時の叫び声。

 

「キャー! キャッ、キャー!」

 

部屋にいる女の子たちが叫ぶのは当たり前。素っ裸の毛布に包まれた男子が投げ込まれてくる。OBはスマホで一部始終を録画。

 

谷崎くんは一年生女子部屋に置き去られる。

 

「そうだ。今回の合宿のショケコン何?」

 

谷崎くんを投げ込んだ後、隆が水野に問いかける。

 

「おいおい。スマで苦しんでいる谷崎くんを放っておいて、よくすぐに普通の会話に戻れるね。閉じた口がふさがらないよ」

 

僕がそういうと、

 

「スマはスマ。これはこれだよ」

 

「そうそう、ショケコン、ベートーベンの運命らしい」

 

ショケコンとは、初見コンサートの事。練習も何もしない。夏合宿で譜面をいきなり配られ、三、四年生が初見で演奏する。合宿7日目の夜に演奏する。一、二年生を楽しませる余興みたいなもの。

 

「いいねえ。運命」

 

「僕らが一年生の時の定期演奏会の曲だ。懐かしいね」

 

隆がつぶやく。

 

「そうだ。ところで明日の小夜コンサートは何だ?」

 

「クラリネットとトランペットパート、そして一年生の出し物らしい」

 

合宿では、二日目からは毎晩7時から8時までの夕食後に、食堂のステージで、パートごとや木管、金管奏重奏などの出し物がある。

 

「クラリネットパートはベートーベンのピアノ協奏曲、悲愴をアレンジしたアンサンブルなどよく耳にするクラシックのアレンジもの」

「トランペットパートは、トランペット吹きの休日をベースにアレンジした、トランペット吹きの繁忙日らしい」

 

「一年生は、木管5重奏。ハイドンのディヴェルティメント」

 

「ああ。定番だね」

 

「そういえば隆、秋の卒業演奏会の曲は何にした?」

 

「俺は、リヒャルトシュトラウスの1番」

 

「さすが隆だね」

 

水野がうなずく。

 

「俺はモーツアルトのホルンコンチェルト第3番」

「正は?」

 

「俺はキャンセル」

 

「それは無しだよ」

 

隆が僕に言う。

 

「勘弁してよ。卒論とかが忙しくってさ……。定演出るだけで、精一杯なんだから」

 

「ベートーベンのゼプテットはどう?」

「ソロじゃないから大丈夫だろ?」

 

隆と水野が口を揃える。

 

「いや……。まあ、考えておくよ」

 

「しかし、今年のスマは長いな」

「ああ。俺、ちょっと見てくる」

 

隆がそう言うや否や、谷崎くんが「あ~、あ~」と半泣きで叫びながら、部屋に股を両手で隠して駆け込んでくる。

 

駆け込んできた宴会部屋、401号部屋に残っている女の子たちもその姿を見てキャーキャー叫ぶ。谷崎くんが、服を急いで身につける。

 

こずえちゃんが、のっしのっしと宴会部屋に戻ってくる。

 

「正先輩。私が縄をほどいて差し上げました。いやいや、今年の一年生女子は中々奥手で……」

「誰も禁断の縄に触れようとしませんでした」

 

「それ、奥手だとか、禁断だとか、使う言葉間違えちゃいない?」

 

水野がこずえちゃんに言う。

 

「そういえば、私はこれまで奥手だったし、禁断の果実でした」

 

「自分で言う、それ?」

 

隆がこずえちゃんをからかう。

 

「そして今、私は正先輩のクラスメイドのような関係なんです」

 

「あのさ、こずえちゃん。とにかく、周りが勘違いする言葉は謹んでね」

 

僕がそう言うと、お酒で赤らめたほほ、首を傾げて可愛らしく微笑む。

 

恵ちゃんがいなかったら、マジでこずえちゃんに心を奪われるかも。こずえちゃんのほろ酔いの様、可愛らしさを感じて、チョッピリそんな気持ちにさせる夜。

 

危ない、危ない。僕は、換気も兼ねて部屋の窓を大きく開ける。深夜0時、澄んだ高原の空気が素敵に部屋に入り込む。

 

深呼吸。恋ってよくわからないけど、こずえちゃんに好かれるのも悪くない。不思議な気分。

 

第93話

 

「これからWellcomeパーティーを開催しま~す」

 

爽やかなみどりちゃんの一声で、みんな拍手や、皿をチンチン叩くなど、やんややんや騒ぎ出す。

 

「ご静粛に!」

 

「皆さん。注意事項がございます」

「成年者の未成年に行う、アルコール類の強制的な提供は固く禁止致します」

「なお、未成年者の方の万が一の飲酒については、自己責任で対処してください」

 

「は~い!」

 

自由にお酒の飲める三、四年生のオケのメンバーたちが、ニヤニヤして一、二年生の代返をする。

 

「かんぱ~い!」

 

チーン。カチーン。

 

あちらこちらでグラスを交わし合う音。

 

「あのさ。しかし、初日からこずえちゃんと正は話題を提供してくれるよな」

 

「全く。面白いコンビ」

 

同期の連中が、僕にすり寄る。

 

「こずえ嬢、稀に見る脳天気娘だね」

「面白い子だ」

 

「ああ。確かに面白い子だよ」

 

僕は一杯目のグラスのビールを飲みほす。

 

「おい、皆んな。聞こえてるか?」

 

いきなり、恋するフォーチュンクッキーのイントロが鳴り始める。

 

太田くんがマイクを握り、DJの話し方を真似はじめる。

 

「最近オケは元気ないって?」

 

「イェー!」

 

皆んなが反応する。

 

「金が無い? 単位を落とした?」

 

「イェー!」

 

「イマイチなニュースばかり」

 

「イェー……」

 

「クヨクヨしちゃいけないよ」

 

「イェー!」

 

「今は立ち上がって踊るのさ!」

「オケのキュンキュンした一年生の女の子達から、皆んなのテンション盛り上がる最高の曲をプレゼント」

 

「恋する、フォーチュンクッキー!」

「踊れ! 皆んな! 踊り狂っちゃえ!」

 

「イェー!」

 

「ターリラリラ。ターリラリラ」

 

大音量になった曲の伴奏が流れると同時に、6人の一年生の女の子達が席を立って小走りに舞台に上がる。

 

「お~っ!」

 

皆んなが女の子達にエールを贈る。

 

センターはフルートの紀香ちゃん。その2列目の斜め後ろにこずえちゃんと夕子ちゃん。3列目には、こずえちゃんと仲良しのバイオリンパートの三人の女の子。

 

ボーリングのピンのように並んで踊り出す。

 

「あ~なたのことが、す~きなのに」

「わ~たしにまるで、きょ~うみない」

「な~んどめかの、し~つれんのじゅんび。イェーイイェーイェー」

 

宴会場は手拍子、足拍子。一気に盛り上がる。OBも、何人か立ち上がって、一緒に踊りを踊り始める。

 

紀香ちゃん、センターになるだけある。踊りがとても上手。こずえちゃんも、夕子ちゃんも、とても可愛らしく踊っている。

 

「正さ。こずえちゃん、踊りもできるんだ」

 

隆が僕のグラスにビールをついで話しかける。

 

「可愛いよな。若い女の子の踊っている姿」

 

「ああ。初々しい」

 

「あら、正先輩。私達だって若いんですよ」

 

みどりちゃんが、ウーロン茶片手に僕らの席にやってきた。

 

「ああ。もちろん」

 

「でも、18、19の女の子と、20過ぎの女の子では何かが違うんですよね~」

「私達、女性自身が感じるんです」

 

「まあ、一、二年生は高校四年生みたいな感じだけど、突然20歳くらいで変わるよね」

 

「何ででしょうね~?」

 

「何でかな?」

 

「生活の乱れが重なってきて、色々と身も心もストレスが加わっていくからかな?」

「あと、恋愛の価値観も変わってきますかね~」

 

「ボーイフレンドじゃなくて、恋人みたいな人が欲しくなります」

 

みどりちゃんが自己分析をしている。

 

「うちの義雄はどうなの? 恋人候補」

 

みどりちゃんが少し恥ずかしげにうつむく。

 

「いい人なんですけど……」

 

「いい人なんだけど、何?」

 

「なんだろう? こころは本当に影法師。追おうとすると逃げて行く。こちらが逃げれば追ってきて、また、こちらが追えば逃げて行く」

 

「義雄がだんだんダメ男になっていっている訳が良くわかるよ。生活は不規則で、勉強の段取りも前より悪くなってきたし」

「恋をすると女の子は綺麗になっていくっていうけど、ダメだな義雄……。男はかっこ悪くなるばかり」

 

「はぁ……」

「でも……。ダメではないです」

 

「じゃあ僕、人肌、脱ごうか?」

 

「それ、こずえちゃんと同じレベルのギャグですよ」

 

みどりちゃんはクスッと笑う。 

 

「あ~なたと、どこかで、あいしあえる、よ~かん」

「タッ、タッタ~ラ。ふうっつ!」

 

一年生女子の芸が終わる。

 

盛大な拍手。可愛らしくて面白かった。

 

こずえちゃんの踊りの締めの姿がいい。新歓の春合宿でやった横綱の四股入りを、またしている。

 

いつだかこずえちゃんが言っていた。自分では四股入りがハマりの持ち芸。ビートたけしのコマネチ感覚らしい。

 

「楽しめました?」

 

こずえちゃんが額にうっすらと汗をかき僕の隣に来て座る。

 

「みんなすごく練習したんですよ。レベルもどすこいどすこいだったでしょ?」

 

「あのさ、相撲じゃないんだから」

 

「こずえちゃん、ビールいく?」

 

「先輩。合宿の注意事項にあったじゃないですか。こずえ未成年ですよっ」

「自分で注ぎます。触らぬムスコに勃たりなしです!」

 

「ハイハイ。僕はこずえちゃんといる時が、一番冷や汗なんだ」

 

「そんなに幸せなんですか? 私といると」

 

「勘違いしないでよ」

「そう、恵ちゃんにLINEしたんだって?」

 

こずえちゃんが、口に含んだビールをプッと吹き出しそうになる。

 

「あら。もうバレました?」

 

「余計なことはしないでね」

 

「まあ、さっきの事故は、こずえちゃん自身から連絡して、ある意味良かったけど」

「他人様から恵ちゃんが耳にしたら、ややこしいことになっていたよ」

 

「合宿初日から、交配する後輩との男女の痴情の話ですか?」

 

「だ・か・ら、そういう考えが頭にあるから、恵ちゃんが勘違いするLINEになったんでしょ?」

「注意してね」

 

「ハイハイ」

 

「さて、次は一年生男子による、ピンクレディーのサウスポーです!」

「肌を最大限露出した、特別な衣装にもご期待ください!」

 

「さあ、先輩。仲良く見ましょう」

 

シルバーのキラキラビキニ水着上下のTバック姿。紙で作った自作のピンクの野球帽も被っている。

 

そんな男子、6人が宴会場の扉からゾロゾロ入ってくる。

 

「キャ~! 気持ち悪い~」

 

「おいおい! 男から見ても気持ち悪いぞ」

「陰毛がはみ出てる~!」

 

しかして、曲は始まる。

 

「ター、ター、ターターターター」

 

のっけから結構機敏な踊り。

 

「面白そうじゃん」

 

隆と水野が手拍子を始める。

 

 

ーーーーー

 

 

「アンコール! アンコール!」

 

一年生男子の芸に、アンコールの声が飛ぶ。それは彼らも織り込み済み。

 

男子達がピンクの紙で作った帽子を脱ぎ捨てると、ぐるぐる巻きになったコイルの先に、鬼太郎の目玉のおやじみたいな宇宙人の目を思わせる目を付けた被り物をしていた。

 

「ターター、ターター、タタタタ、タタタタ、タータータータ」

 

今度は、ピンクレディのUFOのイントロが流れる。

 

「そうきたか」

 

「奴らのシルバーの水着。UFO用だったんだ」

 

隆がつぶやく。

 

「ゆ~ふぉ~」

 

「タララ、タッタッタ、タララ、タッタッタ」

 

手のひらを、頭の後ろから器用に出す。

 

「手を合わせて見つめるだけ~で」

 

2人の男が両手のひらを合わせ、きわどいシルバーのTバック衣装で互いに見つめ合う振り付け。気持ち悪い。

 

そして、がに股を閉じたり開いたり、両手をガッツポーズのように振り上げて回したり。

 

「おいおい! 玉袋がはみ出たぞ~!」

 

「今日から、お前のあだ名はハミデだあ~!」

 

やんややんや、宴会は盛り上がる。これも手拍子、足拍子。

 

「いや~、一年生も新歓合宿の時と比べて成長したね~。表現力豊か」

 

「確かに。ラッスンゴレライとかして、すべっていたもんな、春の合宿は」

 

水野がつぶやく。

 

「あのさ、芸の表現がどうこうより演奏の表現面で成長しなきゃダメなんじゃない?」

 

「誰も、正に言われる筋合いはないよ」

 

「はいはい……」

 

僕は、すぐ、口に出た言葉を撤回する。

 

女子に負けず、一年男子の芸もあっぱれ。大拍手で舞台を終える。

 

みどりちゃんのアナウンス。

 

「さて、一年生女子、男子の芸が終わりました」

 

「後ほど、今度は二年生男子による出し物がございますので、それまでご歓談下さい」

 

「いや~。今年の夏合宿は初日から盛り上がるね」

 

「ああ。去年の一年生、つまり今の二年生の余興は今ひとつだったからな」

 

楽しい時間はあっという間に過ぎる。もう時計の針は9時を回った。

 

「おい、夕子ちゃんと二年生のイケメンのチェロの篠崎。怪しいぞ」

 

隆が水野に耳打ちする。

 

「ああ、確かに。2人して並んで楽しそうに飲んでる」

 

「ほら! 夕子ちゃん笑った」

「あの笑いは、女性フェロモンたっぷりな笑いだ」

「新カップル誕生か?」

 

「だいたいの、お決まりのパターンがあるよね」

 

僕が話す。

 

「これまでいいな~と思っていた二人が、昼夜一緒に過ごすことの出来る合宿になって意気投合する」

「これから10日間の長い間、一緒にいられる安心感が芽生えるよね」

 

「さてと、二人で席を立ったぞ」

「これは、外に出るな」

 

隆のつぶやき。

 

「ああ。出る」

 

水野も相槌を打つ。

 

「ひんやりと澄んだ空気の中。満天の星空。ハグしてキスくらいするだろう」

 

「多分ね」

 

「そう言えば、正は三年間彼女を作らなかったよね?」

「どうしてだ? モテないわけではなかったのに」

 

隆が言う。

 

「そうそう、美咲ちゃんがいたじゃない」

 

水野も興味津々。

 

「春の新歓合宿から、正に猛烈にアプローチしてきた子」

 

「ああ……」

 

僕はうつむいてつぶやく。

 

「どうした? 美咲ちゃんは」

 

「オケも、一年生の夏合宿を最後にやめちゃったし」

 

「映画見たり、食事したり、コンサートに行ったりくらいはしたよ」

「彼女、塩辛いものが苦手だった……」

「僕のアパートにも、遊びに来たがっていたけど……」

 

「なのにどうして?」

 

隆が僕に問いかける。

 

「学部に恵ちゃんがいたから……、かな?」

 

「ウソ言え。そんなに恵ちゃんが好きだったのに、付き合い始めは四年生からだろ?」

 

「言い訳に聞こえる」

「何してた? 正」

 

「それなりに、美咲ちゃんはかわいい、綺麗とは思ったけれど、恋愛したいという感情がわいてこなかったんだ」

「友達として付き合うことには面倒くさいなんて思わなかったけど、恋愛の対象となると、とたんに色々なことが面倒くさく感じてね」

 

「恋愛より、自由を求めたってところかな」

 

「でも正、高校時代に彼女はいたんだろ?」

 

「ああ。ガールフレンドね」

「その子は僕を縛らなかったから」

 

「美咲ちゃんは、僕がいつも乗る電車を調べて同席したり、買ってきた化粧品の良し悪しを細かく聞いてきたり、LINEの連絡なんて四六時中」

「デートの予定も、ガンガン入れてくる」

「そして、バイトや勉強する暇も割かなきゃならなくなったり」

 

「つまり、面倒な女、そう感じたのか」

 

隆が僕のグラスにビールを注ぐ。

 

「いや。そうじゃなくて。女の子がよくわからなくなって、少し怖いと感じ始めた」

 

「正がか?」

 

「ああ。自分が自分であるための大切な時間が奪われる。そんな怖れ」

 

「でも、それもお付き合いのうちだろ?」

 

「度合いがあるんだよ、隆」

「美咲ちゃんは、強烈だった」

 

「正よ、お前、女性に対する理想が高かったんじゃないか?」

「俺の里奈ちゃんも、結構面倒な部類に入っているよ」

 

「女の子が皆、大和撫子のような女性ばかりだと考えている男性は、実際の色々なタイプの女性の姿をみてがっかりして女嫌いになる場合がある」

 

「女嫌い……。確かに、そう言う風になっていたのかも知れない」

 

「正は男から見て、男としてどこか物足りない。淡白に感じてたよ」

 

隆が自分のグラスにビールを注ぎつぶやく。

 

「でもさ、そんな正、よく恵ちゃんを射止めたな」

 

「ああ」

 

「人は、自分自身を理解することで初めて自信がもてるようになる。自信がもてると余裕が生まれる。余裕が生まれると、周囲のことを考えて行動できるようになる」

 

「そうすることで自然と人として感謝されるようになり、信頼感もついてくる。素敵な女性を射止める準備が整う」

「言うまでもなく、僕にとって素敵な女性とは恵ちゃんだよ」

 

「でも、そんなこんなしている間に、恵ちゃんの初夜は誰か知らない男に取られちゃったんだろ?」

 

「ああ、そうみたい。自分の準備まで三年かかったからね」

「その間は、ある男が恵ちゃんにとって素敵な男性だっただろうからしょうがない」

 

「正。男が出来ているな」

「あっぱれだよ」

 

「何があっぱれなんですか?」

 

いろんな席を飲み歩いてきたこずえちゃんが、酔っぱらって僕らの席に戻ってくる。

 

「いや、こずえちゃんが大和撫子みたい。美しく、凛として、教養がある」

「正とそんな話し、していたんだよ」

 

「やっぱり分かる人には分かるんですね~」

「さすが大学屈指の天才と秀才のコンビのお二人さん」

「でも、いくら褒めても、ない胸は振れませんよ~」

 

こずえちゃんはカラカラ笑う。

 

「だから隆。話がややこしくなるから余計な事言うなよ」

 

僕は隆を叱る。

 

「はいはい」

 

「先輩方、二年生の芸が始まりますよっ」

 

「タラリーララ。タリララララー」

 

トランペットで、チャルメラの音が奏でられる。舞台の上を、あたふた駆け回って男二人がセンターに並ぶ。

 

「は~い。経済学部の二年。トロンボーン浜本で~す」

 

「同じく二年の薬学部、パーカッション小原で~す」

 

「わ~っ!」

 

外野の声援と共に、タンバリンと鈴、小太鼓の賑やかな音が鳴り響く。

 

「ハイ! わんばんこ~!」

 

「ちぎってはなげ、ちぎっては、鼻毛」

 

二人して大げさに鼻毛を抜く仕草で入りの挨拶。まあまあ受ける。

 

しかし、浜本くん、小原くんとも背が高く、相変わらずガリガリな体だ。

 

遠くからトランペットのチャルメラの音。

 

浜本くんが足を揃え気をつけをする。

小原くんが浜本くんの真後ろに重ね立ち、両手を水平に伸ばす。

 

「数字の十」

 

ハッハッハッと、少し笑いが漏れる。

 

「珍しいですね。すぐに芸に入りました」

「いつも二人はゲイで、前おっきいが長いのに」

 

酔っ払いのこずえちゃんがつぶやく。

 

そしてまたトランペットのチャルメラの音。

どうやら、一発芸が始まる時に鳴らすようだ。

 

浜本くんが一人で高くあげた手のひらを縦にして交差させ、カニのハサミのように器用に動かす。

 

「剪定バサミ」

 

フフフ。笑いが漏れるもそれほど面白くない。

 

チャルメラの音。

次に二人が腰を90度水平に曲げて、互いにお尻をくっつける。

 

「犬の交尾」

 

これは、男衆からやんややんやと笑いを取る。

 

女の子は、

 

「いやらし~」

 

軽蔑の声がバンバン飛ぶ。

 

「手に、アレ握る展開になってきましたね!」

 

女の子の中で、こずえちゃんだけが喜ぶ。

 

「そうそう、正先輩。ちょっと小股に挟んだんですが、スマの標的、谷崎くんですって?」

 

「小股? 僕は知らないよ。いつどこでそんなこと聞いた?」

 

 

第92話

 

「さて、本日から夏合宿が始まります!」

「皆さん、練習に、そして……」

 

「そして何? こずえちゃん」

 

食事前のアナウンスに言葉詰まったこずえちゃんに、405号部屋のOBが笑みをこぼし問いかける。

 

「練習に、そして初夜……。イヤっ! 恥ずかしい!」

「まあ、色々と頑張りましょう」

 

こずえちゃんのひとり上手。

 

「そんなこんなで、初夜の夕食はカツカレーです」

「勝つ、カレー。ということで縁起がいいです」

 

「こずえちゃんさ~。何に勝つの?」

 

こずえちゃんは、いじりもするけど、いじられもしやすいキャラ。外野がやんやと声をかける。

 

「めぐ……、さんに……。いや……、私事はよしましょう」

 

「私事って何? 正との関係?」

 

外野が笑いながらこずえちゃんをからかう。

 

「108人もいるメンバーの前で恥ずかしいことは言えません」

 

「108人もいる前で、裏アナウンスしたじゃない」

 

どこからか、フフフという笑い声が漏れる。

 

こずえちゃんは、さっきの放送事故の事はすっかり忘れているらしい。いや、放送事故自体を良く分かっちゃいない。

 

みどりちゃんが、こずえちゃんに何やら耳打ちする。

 

「はい。はいっ……」

 

みどりちゃんからの言付けを受けて、今度はこずえちゃんがみどりちゃんに耳打ち。

 

「どうしたのぉ~」

「俺ら、腹減ってるんだからさ~。早く夕飯にしてよ」

 

外野からのシュプレヒコール。

 

「いま取り組み中なんであとにしてもらえますか」

 

「あのさ、相撲じゃないんだから」

 

どうやら、こずえちゃんとみどりちゃんの打ち合わせが終わったようだ。

 

「さて、まずは皆様でいただきますをしましょう」

 

「いた~だきます!」

 

「いた~だきます!」

 

皆んなで声と手を合わせて夕食を開始する。

 

食事が進む。スプーンと皿の打ち合う音、ザワザワする会話たち。

 

「おい、まずは、のルービは無いのか?」

「いつものポン酒は?」

 

OB達がブチブチ騒ぐ。

 

ここで、合宿係の出番。

 

「皆様への大切なご連絡です。先ほどの中入り後の結果です」

 

何人かが、プッと米粒を吹き出す。

 

「この1階の食堂での飲酒は、今回の合宿より禁止させて頂くことになりました」

「未成年もいる中での食事。法令遵守のため夕食時の飲酒は禁止と致します」

「なお、各宴会部屋での飲食についても、20センチ未満の方はお断りです」

 

ププッ、ぷぷっ。あちらこちらで笑いが漏れる。

 

「おい、笑かしてくれるなよ。飯食えないじゃないか」

 

こずえちゃんが話し始めると、みどりちゃんが慌てて腕をつつき、こずえちゃんに耳打ちをする。

 

「余計な事は言わないで、ねっ」

 

「はい」

 

「各宴会部屋での飲食は、それなりに……」

 

「それなりにどうするの? こずえちゃ~ん」

 

「法令遵守。お酒は肌着を脱いでから、です」

 

「お酒はハタチを超えてからでしょ。最高だよ! こずえちゃん」

 

OBがワイワイ騒ぐ。

 

「そうそう、話は変わりますが、綱紀粛正のため、昼夜問わず、合宿期間中の女子部屋への男子の来室は固く禁止致します」

 

こずえちゃんが上手く言葉を塞ぐ。

 

「そう。今年のスマの餌食は誰なんだ?」

 

405号室の四年、OBの部屋の男たちが興味深げに話し出す。

 

「太田か? 谷崎か?」

 

どちらもこずえちゃんファンらしい一年生男子。スマは可哀想な気がする。

 

食事を終えて、こずえちゃんが僕のところへ来る。

 

「正先輩。小耳に挟んだんですが、スマってなんですか?」

 

「素股の略。今晩分かるよ」

 

「え~。何々。教えてくださ~い」

 

夕子ちゃんも、紀香ちゃんも興味津々。みどりちゃんは恥ずかしげに下を向いている。

 

「じゃあ、ここだけの話だけど教えるよ」

 

「初日の夜の飲み会の途中に、一年生の男子の誰かが素っ裸にされて毛布に包まれて浴衣の帯で縛られ、一年生の女子部屋に投げ込まれるんだ」

 

「うわ~。面白そう! その後、どうなるんですかぁ~?」

 

「面白そうって表立って言うの、こずえちゃんだけだよ」

 

「裏だって言う人、いるんですか?」

 

「まあ、表や裏はともかく、可哀想でしょ?」

 

「はい。可哀想です」

「正先輩の時代は誰だったんですか?」

 

「水野だよ。水野」

 

「水野先輩?」

 

「ああ」

 

「どうなるんですか? 女子部屋に投げ込まれた後」

 

「しばらくは、女子にキャーキャー言われながら遠目で観察される」

「少し時間経つと、哀れに感じた女の子が帯をほどいてくれる」

「自由になった男は、周りの気配を伺う」

 

「そして縛られていた毛布から抜け出して、股間を両手で覆い、自分の部屋までつっ走って帰るんだ」

 

「それって、ある意味、未成年の飲酒よりダメじゃありません?」

 

夕子ちゃんがつぶやく。

 

「なんだろう? 伝統だからね」

 

「そして2日目は……」

 

「2日目もスマ、あるんですか?」

 

こずえちゃんが興味ありげに問いかける。

 

「2日目は……。ある意味、スマより可哀想……」

 

 

ーーーーー

 

 

みどりちゃん、こずえちゃん達が合宿係の任に戻る。

 

「さて、皆様、ご夕食はお済みでしょうか?」

 

みどりちゃんのアナウンス。

 

「この後、午後7時からは入浴時間。8時からは2階の宴会室202号室で、オケ全体のWellcomeパーティーを催します」

「その後、午後10時に解散」

 

「ただし、飲み足りない方は、4階の401号室、一年生の男子部屋で引き続きエンドレスの小宴会を催しますのでよろしくお願い致します」

 

食堂がざわつく。

 

「えっ? 俺らの部屋で宴会?」

「寝れないの?」

 

一年男子の部屋は不夜城。OB、OGなんぞ、練習に加わらないから好き放題。この合宿の定めだからしょうがない。

 

「なお、明日の朝食はこの場所で午前7時から、そして8時からはパート練習」

「部屋割りは、それぞれ、パートリーダーの指示に従って下さい」

 

「その後、午前9時半から11時半まで合奏です」

「合奏の場所は、2階の宴会室201号室です」

 

 

ーーーーー

 

 

「正。風呂に行くか」

 

「ああ」

 

隆が僕をお風呂に誘う。

 

「始まったな、夏合宿」

 

「今年はどんなハプニングがあることやら」

 

もう、こずえちゃんの初日のマイクのオンオフ間違えで十分なハプニング。しかし、それを超える何かが起こるのが夏の合宿。

 

ピンポーン。

 

僕の携帯のLINEが鳴る。

 

『わんばんこ。どう? 夕食終わった? 涼しい気候の高原にて、さぞ楽しい楽しい合宿でしょ』

『こっちは相変わらずの灼熱地獄よ』

『まあ、体とこずえちゃんには気をつけて過ごしてね~』

 

恵ちゃんから。

 

『り』

 

僕は恵ちゃんに了解の返信をする。

 

「なあ正」

 

「何?」

 

「俺の里奈ちゃんも正に興味があるんだ」

「正に何がある? 女に好かれる。顔立ちも特別いいわけじゃないし、男には分からん」

 

「僕にだって分からないよ。ただ、学部の友達には、お前は中性的だって言われたことが何度もある」

 

「男にも女にも属しない」

「それで、女の子は無防備になるとか……」

 

「僕は、今まで男らしいと言われたことが一度も無いんだ」

「ある意味、不名誉な評価でもあるけど」

 

「まあ、それは言えるな。性別関わらず誰にでも柔らかな対応で優しいもん、正は」

「でも、恵ちゃんの前では男らしいんだろ?」

 

「さあ、どうだか……」

 

「何をおっしゃるウサギさん。やることやってるくせに」

 

「おう! 俺も風呂に行く」

 

水野が小走りで僕らについてきた。

 

「今年のスマ、誰にする? スマホで、一部始終撮られるぞ」

「俺の時は、アソコが写っていなくてラッキーだったけど」

 

水野がニコニコして話す。

 

「まあ、大きい方を選ぶかな?」

 

「お風呂で確認しよう」

 

隆が話に乗る。

 

やはり、どうやら太田くんと谷崎くんの二択になっているらしい。

 

「もう、スマの伝統はやめたほうがいいと思うんだけど……」

 

僕がそう言うと、

 

「こんなに面白い合宿のこけら落とし、やめるわけにいかないよ」

 

まあ、隆も水野も、何を楽しみにしているんだか……。

 

「正せんぱ~い!」

 

「やあ、こずえちゃん」

 

「広くて心も体も暖まる温泉。最高でした!」

「湯上りたての濡れた黒髪、真っ先に正先輩にお見せです!」

 

「何か感じません?」

 

「いや、別に」

 

「あら? 湯上りの女の子の濡れた髪。色っぽくて楽しみじゃないんですか?」

 

「普段見慣れているから」

 

「あら! 嫌だ! のろけですか? 恵先輩との」

 

「そういうわけじゃ無いけど……」

 

「ここは東京から遥か300Km離れた天空の園」

「恵先輩も、見て見ぬ不倫。許してくれます」

 

「どこからそんな言葉が出てくる?」

 

「私の夢と希望に満ち足りた、正先輩を想う脳ミソからです」

 

「お風呂に入る前に恵ちゃんからLINEあったよ」

 

「あら?」

 

「こずえちゃんには……」

 

「私には、何ですか?」

 

「いや、何でも無い」

 

「気になります」

 

「ねえ、こずえちゃん! 行くわよ!」

 

一年生のバイオリンの女の子たちが、道草を食っているこずえちゃんに声をかける。

 

「正先輩、それではまた後ほど宴会場で!」

 

こずえちゃんは、スキップを踏んで友達のところへ向かう。

 

「正よ。こずえちゃん、何か? 落として行ったぞ」

 

隆が僕に声をかける。僕は物を手にする。

 

「これ、ブラのパッドじゃない?」

 

「どうする?」

 

「正。届けろよ。まだあそこにこずえちゃんいるぞ」

 

「こずえちゃ~ん」

 

僕はこずえちゃんを呼び止める。

 

「何ですか~」

 

遠くから僕に返事。

 

「ちょっと、こっち来て~」

 

「これ……」

 

さすがの僕も恥ずかしい。こずえちゃんにモノを渡す。

 

「あら。私と言うレディがしたこととは……」

 

こずえちゃんも少し恥ずかしげ。

 

「こずえちゃん。珍しく、表情がパッドしてないね」

 

「それ、ダジャレですか? 寒いから着けていたんです」

 

「寒い? これつけると暖かくなるの?」

 

「ウソです」

「レディに聞くのはそこまでにしましょう」

 

「ありがとうございます。正先輩」

「私には、誰にも知られたくない、もう一つのブラの顔があるんです」

 

「明日の朝の食事の前のミーティングで、落し物で公表されたら大変な参事でした」

 

「私たち、清らかな関係のまま、この場はブラ見っこなしで別れましょ」

「ブラ切り行為は許しませんよ」

 

「いつかどこかで、正先輩とまた出会うでしょう」

 

「このパッドと?」

 

「はい。今日の勝負ブラは、パッド込みで合うサイズなんです」

「正先輩と今晩また会う。そういうお印だと思います」

 

「今晩?」

 

こずえちゃんは小走りで友達のところへ向かう。

 

友達にもカラカラ、バカにされるように笑われている。こずえちゃんは、ペロリと舌を出す。隆も水野も、僕の横で微笑んでいる。

 

朝のミーティングで、誰のか分からないまま公表されたほうがマシだったはず。

無視すればいいだけだから。

 

しかして、この手の事件はすぐに広まる。

 

男の間で、

 

「こずえちゃんさ~、ブラのパッド正に触らせたんだって」

 

「正もモノを触るなんて、羊の振りして、やっぱ、男だねぇ~」

 

「いやいや、俺は正がこずえちゃんに勝負ブラを見せてもらったと聞いたよ」

 

女子では、

 

「あのさ、こずえちゃん、ワザとパッド落としたみたい。正先輩を誘惑するのに」

 

「すごい手口よね!」

 

とにもかくにも、ブラのパッド一つ、僕を巻き込む余計な大惨事になった。

恵ちゃんの耳に届かなければいいけど……。

 

 

ーーーーー

 

 

『正くん、こずえちゃんの胸か何か触ったんだって?』

 

デジタル時代の情報流出は早い。LINEじゃなくて、電話する。

 

「もしもし、恵ちゃん?」

 

「今晩は。正くん」

 

「誰から連絡受けた?」

 

「張本人のこずえちゃんよ。何だか、しどろもどろに遠まわしな表現で」

 

「あのね。信じるよね」

「僕はそんなことしてないよ」

 

「うん……。分かっているけど……」

 

「なんて言えばいいのかな……」

「火の無いところに煙は立たないでしょ?」

 

恵ちゃんは疑心暗鬼。

 

「信じてよ。僕、こずえちゃんがお風呂上がりに、廊下に落としたブラのパッド拾っただけなんだから」

 

「そうだったんだ」

 

「うん。そう」

 

「それを、間接的に胸を触られた風にも取れるように私に伝えてきたのね」

 

「安心した」

 

恵ちゃんの明るい声。

 

「何だか、こずえちゃんが今晩のスマ? って言うの?」

「エキサイティングな夜になりそうとも言ってたよ」

 

「まったく。余計なことを」

 

「正くん。スマって何?」

 

恵ちゃんに説明する以前に馬鹿げている慣習。僕は口をつぐんだ。

 

「まあ、いいわ。まずは楽しくやっているのね」

 

「うん。でも早く名古屋に行きたいよ」

「恵ちゃんに会いたいから」

 

「フフフッ。まだまだ。今日、合宿始まったばかりじゃない」

 

「ああ。じゃあ、これから飲み会に行くね」

 

「うん。賑やかになりそうね、初日のパーティー」

「存分に楽しんできてね」

 

恵ちゃんとの電話が終わるとすぐに、こずえちゃんがのっし、のっしとやってくる。

 

「恵先輩ですか?」

 

「うん」

 

「あ~あ。こずえのことなんてそっちの毛ですね」

「こういう場合、ロウ垂らしたらいいんですかね……」

 

「どうしたらも、こうしたらもないよ。ほっといてよ」

 

「あらっ、ほっといてとは……。正先輩のこころがそんなにうす汚れていたなんて……。あぁ、石けん様に顔向けできない……」

「どうです? 今夜。お互い、泡ない方が気持ちいいかも」

 

「何言ってんだか」

「ほら、行くよ、Wellcomeパーティー。じゃあ、手でもつないでいこうか?」

 

「やっぱり正先輩優しいです! ほっと胸を舐めおろしました」

「一緒に楽しく、エッチ前カニを食べましょう!」