第101話
ピンポーン。
恵ちゃんからのLINEだ。
『正くん、緊急連絡』
『色素研究会での私たちの発表が、明後日の午後から午前中に変更になったんだって』
『すなわち、正くん、私たち明日の夜には名古屋入りしないといけない』
『前泊よ』
『本当?』
『うん。本当』
『しかも、次の日の発表の夜には一席準備されているから、正くん、二泊三日で名古屋に来なきゃ』
『ああ、分かった』
『もちろん恵ちゃんも二泊三日、一緒だよね?」
『うん。もちろん』
『ホテルの部屋は二人とも、ダブルのシングルユースで有田先生に再予約してもらったよ』
『ダブル?』
『正くん。鈍いわね』
『?』
『私に言わせる気?』
『ああ、一緒に……、ふた晩過ごせるね』
『そういうこと』
『待ってるよ。名古屋で』
『恵ちゃんに会いたい。すっごく会いたいよ』
『私もよ』
『思い出の、お気に入りのオレンジ色のワンピース、持っていくからね』
「た~だし先輩」
「そろそろマーラー、始まりますよ!」
「まだ時間があるじゃない。急かさないでよ」
僕はゆっくりと楽器にベルを装着する。
「あれ? こずえちゃん、着替えてきたの?」
「はい。お股せしました」
「こずえもホルンのベルが替えられるように、ピンクのプリーツスカートにセットアップして参りました」
「いかがです?」
こずえちゃんはスカートの裾を持ち、少し首をかしげ、お嬢様挨拶をする。
「可愛いね」
「こずえちゃん。何を着ても可愛いから」
「ありがとうございます。その言葉、胸に刻んで生きていきます」
「正先輩への愛こそは、私のブラ移動です」
「それをいうならプライドでしょ」
「そう、こずえちゃん。僕ね、明日の夜に名古屋入りしなきゃならなくなった」
「えっ?」
「色素研究会の発表スケジュールに変更があってね、明日の夜には名古屋入りしなきゃならないんだ」
こずえちゃんの顔色が変わる。
「ひつじが一泊、ひつじが二泊……どうして……。眠れなくなります」
「私の正先輩が……」
「幸ある日々が……。羊が……」
「羊はよくわからないけど、二泊三日。まあ、いろいろ予定は変わるものだよ」
「名古屋には、恵先輩も来るんですよね?」
「ああ」
「ふた晩も一緒ですか?」
「うん」
「フカフカのベッドで愛し合う。それがふた晩も続くなんて……」
「私には考えられない。いや、考えたくない事態です」
「恵ちゃんと僕とは別々の部屋だよ。安心して。大したことない」
「正先輩。嘘を言うときはすぐ分かります。右の眉が上がります」
「体位したことない大したことをする……」
確かに。恵ちゃんとはふた晩、抱き合って眠ることになるだろう。なかなか嘘をつき通せない。
「さあ、こずえちゃん。マーラーだよ。合奏にいかなきゃ」
「マーラーの巨人は、青春の謳歌とも言われていますが、実は失恋交響曲です」
こずえちゃんがうつむき、つぶやき始める。
「どうしたの? 急に?」
「マーラーは夫のある、ウエーバー大尉の夫人のもとへ足しげく通ううちに、夫人と不倫関係に陥入りました。まさに、熱愛です」
「それなのに、この交響曲は、全体として失恋の色合い」
「交響曲に引用された、原曲のきっかけとなったヨハンナ・リヒター女史にしろ、ヨゼフィーネ・ポイスル女史にしろ、マーラーはけっきょく振られて、悲恋で終わっています」
「今日練習する四楽章は、深く傷ついた心の叫びの様相を示しているソナタ形式にもとづく楽章です」
「ああ! 私の今の心と同じです」
「四楽章。絶望の底からトランペットとトロンボーンによる威嚇的なファンファーレが鳴り響きます」
「まるで、私の心の様……」
「でも、展開部の終わりに、第1楽章の狩りのファンファーレが金管によって勇壮に吹奏されるじゃない」
「ここでほんの一瞬、あっ、と息を呑む瞬間を経て、ハ長調からニ長調に劇的に転調する瞬間がある」
「リセットだよ」
「この交響曲は、やはり青春交響曲なんだ」
「マーラー自身も、この部分をとても気に入っていて、この交響曲全体で優れた部分があるとすれば、ここであると述べていたほど」
「この直後、自然の響きの中では短調だった4度下降音型がニ長調になって、楽園主題として力奏される」
「そして最後の最後、僕ら、ホルン全員が起立して吹くように指示されている。曲は、ますます熱気を帯びて、喜びのうちにおわる」
「でしょ? こずえちゃん」
「正先輩のアナリーゼは合っています」
「しかして、私の心を考えてはいません」
「……」
「愛する彼が、女の人とふた晩も愛し合って、抱き合って眠るのですよ」
「どうしましょ?」
「私には耐えられない……」
「大学の普通の日々でも一緒じゃない」
「僕は恵ちゃんとほとんど一緒にいる訳だし」
「それと今回は別です」
「夜を明かすんです。二人きりで」
「まるで、夫婦の様に……」
「分かった、分かった。まずは合奏に行こう」
こずえちゃんは不機嫌な顔のまま演奏を始める。
僕は、いつもより正しく演奏している。
何だろう? 先に、青春の楽しみがあるから。
「ホルンパート。今日の出来は素晴らしっかったですね」
練習後、こずえちゃんがポツリと呟く。
「バイオリンもいつも通り、上手だったよ」
「ありがとうございます……」
こずえちゃんに元気がない。
「私、これから魔法使いの弟子もありますから」
「この辺で……」
僕は昼寝をする。
自主練習も大事だが、名古屋での発表を控えて休まなきゃいけない。
「ピンポンパンポーン」
「これより食堂で昼食です」
「皆さま、遅延なき様お集まりください」
みどりちゃんの館内放送。
「おう、正、水野。行くぞ」
一緒に昼寝をしていた三人衆で食堂へ向かう。
「さて、今日の昼食はピザの食べ放題で~す」
「わ~い!」
皆んなで拍手する。
「皆さん。ロシアに行くには、ビザが必要で~す」
「あっ! 違ったか」
「ハッ、ハッ、ハ」
夕子ちゃんのアナウンス。
こずえちゃんとはどこか面白味が違う。
「こずえちゃん、どうしたの~?」
外野が叫ぶ。
こずえちゃんが夕子ちゃんから渡されたマイクを握る。
「本日、私においては辛いことがございました」
「つきましては、本日のアナウンスは、どうぞ、夕子、夕子にお任せ願います様申し上げます」
「こずえちゃ~ん。選挙演説じゃないんだから」
「それでは、この私、櫻井こずえ、皆様のご要望通り四股入りではなく、蹲踞をやらせていただきます」
「蹲踞じゃないよ、選挙って言ったんだよ」
こずえちゃんは外野を無視し、股を開き蹲踞を披露する。
「正先輩は、明日からこの様に目の前で蹲踞をしてくれる女の人と一緒になるんです」
「何、それ~?」
「正は関係ない。俺たちは、こずえちゃんでいいよ~」
外野の気の気かした言葉にも、こずえちゃんの反応はない。
じっと、瞑想の様に蹲踞する。
「腹減った~。お昼にしよう」
「はい。不肖、こずえの言葉、ご唱和下さい」
「いた~だけません」
「いた~だけ……」
食堂がザワザワする。
みどりちゃんが、慌ててマイクを握る。
「それでは皆さん。いた~だきます」
「いた~だきます!」
こずえちゃんは、テーブルの席を立ち、ロビーへ向かう。
「正。どうしたんだよこずえ嬢」
「ちょっとしたハプニングがあってさ」
「僕、ちょっと行ってみてくるね」
ロビーでこずえちゃんは涙を流している。
「こずえちゃん……」
「許してよ……」
僕はこずえちゃんの両肩に手をのせる。
チュ~。
こずえちゃんが、いきなり僕に抱きついてキスをする。
「これで、まずはファーストステップ。許してあげます」
「セカンドステップは、もっと凄い事してもらいますからね」
こずえちゃんは元気になった。
「さて、正先輩。ピサ、ピサ」
「ピザじゃないの?」
「次は、この私めで、ピサの斜塔になってもらいます」
「?」
「私の前で、ピンピン、腹につくほど斜めに立たせますです」
こずえちゃんは、不気味に微笑む。
ーーーーー
「正。こずえちゃんと何してた?」
隆が僕に尋ねる。
「別に、何もしてないよ」
「いや、正の唇に口紅が付いているからさ」
僕は慌てて、ハンカチで唇を拭く。
「嘘だよ、正」
「正には恵ちゃんがいるんだから、こずえちゃんとは然るべき距離を置かなきゃ。身も、心も」
僕は、唇を拭いたハンカチに色が付いていないことを確認してポケットにしまう。
「ああ。分かってる」
「正くん、側からみて、こずえちゃんにいい様に遊ばれてるよ」
同じテーブルに座っている里奈ちゃんも僕に注意する。
「どうすればいいんだろうね……」
僕はため息をつく。
「キャンパスの日常生活に戻れば、恵ちゃんがいるから大丈夫だけど、この合宿の閉鎖空間の中ではね……」
勉強では秀才の隆も妙案が浮かばない。
「いっそ、合宿期間だけは、正、こずえちゃんの彼氏みたく付き合ってあげれば?」
投げやりの様に隆が言う。
「ダメよ、ダメ」
「それすると、いくら恵ちゃんでも、別れにはならないけど、正くんにソッポを向くよ」
「危ないから、ダメ」
里奈ちゃんが駄目押しする。
「この、最初の三日間の様に神経を使うでしょうけど、心の距離をおいて時を過ごすのが一番」
「うん」
「色素研究会がスケジュール変更で前泊になり、明日から名古屋に入らなくては行けなくなって」
「それでなの」
「何だか、ペースを崩されたこずえちゃんの気持ちはわかる」
「予定より早く正くんがいなくなって寂しくなる。慌てるよね」
「こずえちゃんに、何か言われた?」
「遠回しにだろうけど……、卑猥な感じの言葉……」
「やっぱりね」
「こずえちゃんは、正くんの事、急いでどうこうしたくなっているのよ」
「そう言う時こそ、正くんは、年上の男としてゆったりとした態度で、こずえちゃんの言いなりにはならないことを知らしめなきゃ」
「正は、それができない男なんだよな~」
隆が笑う。
「正先輩」
「お隣、いいですか?」
こずえちゃんがやってくる。
「ああ……」
水野の席だけど、水野はおかわりを取りに行ったまま帰らない。
どこかのテーブルに席を変えたんだろう。
「先ほどは、動物的行動と言動をしてしまい、申し訳ございませんでした」
こずえちゃんが、しおらしく僕に謝る。
「何だ、こずえちゃん、分かっているじゃない」
隆が、言葉と共に、安心じゃないかと言う目線を僕に送る。
「やはり、正攻法で正先輩を捕まえないと」
こずえちゃんが笑顔に変わる。
「やれやれ」
隆がつぶやく。
里奈ちゃんが僕に耳打ちをする。
「今、私たちのいる、非日常感、非現実感の強い合宿の中で、正くんは、少しでもこずえちゃんに気を許してはダメよ」
「これは、女の子が彼女のいる男の子を落とすのに、うってつけの時間と空間だから」
「ああ、分かった」
「しかも正くんは、普通以上にこずえちゃんのこと可愛いと思っている」
「事実、こずえちゃん誰から見ても可愛いから」
「恵ちゃんに無いものを、こずえちゃんに求めちゃ絶対ダメよ」
「こずえちゃんが誘っているだけだから、僕は悪くない。そう思い込んだら余計ダメだからね」
「じゃあ、どうすればいいかな……」
「何をヒソヒソ話しているんですか?」
「はい。正先輩、あ~ん」
僕は無防備な隙に口に近ずけられたピザを条件反射の様に食べる。
「積極的に近づいてくるし、タイミングの測り方が絶妙」
里奈ちゃんはため息をつく。
「こずえちゃん。僕には大切な彼女がいるから、こずえちゃんと変なことは絶対しないからね」
僕は珍しく、自分の言葉を強くこずえちゃんに言葉を投げた。
「はい」
こずえちゃんがニンマリとする。
里奈ちゃんが言う。
「こずえちゃんは、正くんが恵さんと完全に別れ、正くんと正式に付き合うまで決して体の関係を持たないわよ」
「これを破ると、こずえちゃんは永遠の正くんのセカンドラバーになり、恋人になるのが困難になるから」
ーーーーー
「さて、午後からのスケジュールの連絡です」
こずえちゃんが元気になった。
「と、その前に」
「4階らしいということだけで、詳しい場所はわからないのですが、男性用の育毛剤の落し物が発見されました」
「このホテルには一般客がおり、外にはクマもおりますが、まずはクマのものではなさそうです」
フフフと笑い声がでる。
「クマが育毛剤、使うかよ~」
OBが声を飛ばす。
「あと、スキンヘッドの田中くんでもなさそうですが、育毛剤は必ずしも頭に使うものだけではないかもしれませんので……」
メンバーから笑いが漏れる。
「ものがものだけに、使用箇所を含め他人には聞かれたくないしょうから、心当たりのある方は、後ほど私こと、こずえまでそろりとご連絡ください」
「口をガンガン滑らす、こずえちゃんへが一番言いにくいよ~」
「事務連絡を進めて」
みどりちゃんの指示。
「さて、午後1時から2時半まではパート練習、3時から5時まではマーラーの全楽章を、通しで練習します」
「魔法使いの弟子の方は、各自、午後は自主練習していてください」
「傍聴は可ですが、膨らませる方の膨張はダメです」
「はいはい」
外野も、こずえちゃんのこのアナウンスのパターンを把握してきた。
みどりちゃんも慣れて呆れている。
「魔法使いの弟子に乗る管楽器の皆様は、一、二年生がほとんどだと思いますので、3時から5時まで、昼寝はともかく、温泉には入らない様留意してください」
「こずえちゃん、こずえちゃん。昼寝もダメよ」
みどりちゃんが耳打ちする。
「はい。昼寝も禁止だそうです」
「うえ~……。四年生やってるじゃん」
毎晩、深夜遅くまで二次会部屋になっている401号室の一年生男子からは、かすかなうめき声が聞こえる。
一年生男子は、身も心もクタクタだ。
「また、毎度の繰り返しになりますが、男女間でのイチャイチャも禁止です」
「こずえちゃ~ん。そう言っているこずえちゃんが、正とイチャイチャしてるじゃない」
「それはそれ、これはこれです」
「それと、これとはどう違うの?」
外野の太い声。
「それというのは、自然に出てくる愛し合う二人の何気無い自然な仕草、OKです」
「正先輩ったら、いつも、とても犯しそうに笑うんです」
「これとは、無理やり愛を求めたり、貪る様な行動」
「これ、がいけません」
「こずえちゃ~ん」
「こずえちゃんの話、それもこれも一緒だよ」
「これ、は大丈夫です。自然に出てくる愛し合う二人の何気無い犯しそうに笑う仕草」
「それ、がいけません。無理やり愛を貪る様なわがままな行動」
「あれ? 話が入れ変わったじゃん」
OBたちから声が投げられる。
「まあ、それもこれも、いずれにせよ、人目をはばかればいいことなんですけど」
「だんだん規制が緩くなってきたね~」
OBからの掛け声。
「合宿ももう三日目。元からカップル、そして今回いくつかカップルができた、できつつある事を小股、じゃなかった、小耳に挟んでおります」
「カップルで最小限の自由を楽しむのは、悪くないことと思いまして」
「こずえちゃん。自分の事を正当化するのにアナウンスしているんじゃないの?」
「いえ。そうではありません」
「自分の事を、棚に上げて話しをしているんです」
「余計悪いじゃん」
外野から笑いを取る。
「こずえちゃん、話を事務連絡に戻して!」
みどりちゃんが耳打ちをする。
「はいはい」
「夕食はいつも通り午後6時からです」
「今日は、中華バイキングとなります」
「お~っ」
食堂が少しざわつく。
「みんな、中華に何か思い入れがあるんですか?」
「いや、丁度食べたいと思っていたところでさ」
「中華は、薬膳とも考えられております」
「すなわち、不老不死の薬」
「そもそも遥か昔からの中国の皇帝の欲、すなわち、死にたくない、子孫をたくさん残したいというところから始まっております」
「正先輩も子孫を多く残したい様です」
「こずえちゃ~ん。中華料理の歴史とくだらない正の話はしなくていいよ~」
外野の声を無視して、こずえちゃんが話を続ける。
「アンチエイジングの薬」
「あ~、そんな魔法の様な薬があれば何て素敵な事なんでしょう」
「男の子は、いつまでたっても立ってますだし、女の子も、見せばやな雄島の蜑の袖だにも、濡れにぞ濡れし色は変らず、です」
「こずえちゃん。それ、こずえちゃんが言いたいことと、和歌の意味全然違うよ」
文学部の四年生から指摘を受ける。
「でも、私には恋があります」
「何年、何十年経っても変わらないであろう恋」
「それこそ、まさにアンチエイジングの薬」
「濡れにぞ濡れし、恋心は変らず」
「こずえちゃん、誰への恋よ~」
皆んな知っててヤジを飛ばす。
「そうきましたか」
「しのぶれど、色に出でにけりわが恋は、ものや思ふと人の問ふまで」
「なんと美しい句なんでしょう」
「あぁ~。相手など、私の口から言わずもがなでしょう」
「時間、時間! 事務連絡は終わりよ」
「小夜コンの連絡は後回しねっ」
みどりちゃんから注意を受ける。
「はいはい。今日の小夜コンのスケジュールは、夕食時にお伝えしま~す」
「それでは皆様。パート練習にレッツラゴ~」
「レッツラゴ~!」
皆んなで声を合わせて拳をあげる。