第111話

 

「さて、皆さん。乾杯の準備はよろしいでしょうか?」

 

ホテルの食堂のステージ上には金銀のモールがたわわに飾られ、そして真ん中にはくす玉が飾られている。

 

「おいおい、急に何の祝い事なんだ?」

 

一年生男子はじめ、オケの大多数の面々は首をかしげる。

 

こずえちゃんがマイクを握る。オケでは今晩、緊急の立食パーティー。

 

「さて、今宵のパーティー、バイキング形式になっておりますが、何か食べたいものがあれば具材的に言ってください。ホテルの厨房で何とかしてもらいます」

「あと、大多数がビールだとは思いますが、民主主義に則り、数少ない焼酎派の意見も承ります」

 

ププっと笑いがもれる。

 

「そうそう、あと、カラオケ大会があります!」

「飲めや歌えや、深夜まで、夢の股胸!」

 

ハミデこと尾崎くんがこずえちゃんに質問する。

 

「こずえちゃ~ん。段取りの説明はいいからさ、まずさ、これ何のパーティーなの? 教えてよ」

 

「実は、私の性で、一人の男の人の人生を狂わせてしまったんです……」

「キスマークが引き起こした悲劇とでも申しましょうか。いえ、喜劇……」

「正先輩がこの合宿に戻ってこられなくなりました」

 

「え~っ?」

 

隆と水野はじめ、何人かが驚きの声をあげる。

 

合宿係で全てを掌握しているみどりちゃん、紀香ちゃん、夕子ちゃんは、哀しそうな眼差しで首をもたれたまま。

 

「ほらほら、しんみりしない!」

「正先輩に関しては、さよなら参加資格、また来て失格。そういう運命だったんです」

 

「何があったぁ~?」

 

水野が心配そうにこずえちゃんに聞く。

 

「私と正先輩の馴れ初めですか?」

「あれっ? 慣れハメの方? いやだ、いやらしい……」

 

「違う違う。なぜ正が合宿に戻ってこれないのかって?」

 

「わかりました。カニつまんで話しましょう」

「正先輩は実は立場無しが長いんです。一応車の運転の経験はあおりのようです」

 

「つまみすぎ。今さら正の基本情報を聞いてどうする」

 

「正先輩、優しい人なんですけど厳しい面もあって、こずえに、スキン買っては許さない、とか……」

 

「わかった、わかった。じゃあ聞くよ、こずえちゃんと正の馴れ初めって何だったんだよ?」

 

水野は仕方なく、まずこずえちゃんの話したいこと、全部話させることにした。

 

「馴れ初め。そう、太めがあったその日から、好きになってしまった正先輩」

「それから毎日、正先輩のこと日常の中でフトン思う瞬間が多くなって……」

 

「ああ、一目惚れね」

「でも正直言って、正は女の子に一目惚れさせるようなタマじゃないぞ」

 

「だから、タマじゃなくて、太めがあって……」

 

「違う違う。いや……、いいからいいから。先に進めて」

 

「はい」

「一目惚れをするのにはテクニックがあります」

 

「一目惚れする? させるテクニックじゃなくて?」

 

「はい」

 

「八つのポイントがございます」

 

「八つも?」

 

「はい。一目惚れは縁起物、七転び八起きと申しまして……」

 

「それ、違うでしょ? まあいい、何だったの正とは」

 

「一つめとしてドラマティックな出会いを演出しました」

「私がキャンパスで愛犬ペルを散歩させていて、意図的に正先輩の目の前に立ち止まり、あら? 猫糞踏んじゃった、と言ったあと、ペル!、チンチン! お触り! とできるまで唱えました」

 

「ペルのチン……んん、は立ったのですが、お触りができずにいて叱っていると人が集まってきて……。そしたら正先輩が、全く、ひとさわらせな女だなって声をかけてくれて」

「そうやって気をひくことに成功しました」

 

「あのさ、学内、犬の散歩禁止じゃない?」

 

「いいんです。印象づけができれば肉親でも使います」

「あそこで勃っているのがうちの兄です、何ていうのも手としてありでした」

 

「はいはい……」

 

水野は呆れる。

 

「二つ目は、初対面でも会話をせざるを得ない状況を作りました」

 

「何をしたの? こずえちゃん」

 

今度は紀香ちゃんと夕子ちゃんがこずえちゃんに問いかける。

 

「正先輩の授業に紛れ込みました。そして隣にちょこんと座り、正先輩、少し汗ばんでますね。はだかざわりのいいタオル、どうぞ、と」

「そうしたら、ありがとう。めちゃ毛があって、欲で来た女だね、って!」

 

「三つ目は、目があったら必ず見つめる。四つ目は、できるだけ接近です」

「こずえその後、思い切って離れてみる、みたいなアドリブも入れたんです!」

 

「はいはい。仕方がないから聞こう」

 

隆も水野も、とにかく正の近況が聞きたい。でも、ここはまず、こずえちゃんに付き合うしかない。

 

「確実に一目惚れするには瞳の魔力です。目があったら必ず相手をじっと見つめること。瞳の奥を穴があくほど覗き込むように」

「こずえ、男あさりな性格なので、これめっちゃ得意なんです!」

「効きますよぉ~。大抵の男はこれで落ちます」

 

「こずえちゃんにじっと見つめられたら……。確かに勘違いしてでも落ちるよな……」

 

こずえちゃんファンの太田くんがポツンと呟く。

 

「正先輩からも穴があくほどほどそれされて……、こずえ……、パックリと穴が開いてしまいました……」

 

「それな〜。放送禁止」

 

水野が一応釘をさす。

 

「さて、確実に一目惚れさせるため、オケでの飲み会、練習、残尿、じゃなかった残業練習など接近できる機会はフルに使います」

「押して押して、押しまくります」

「ただ、ここで注意です」

 

隆と水野が息を飲む。

 

「女は上手くいったと思いきや、グイグイ相手に近づき自分をどんどん売ろうとします。これがしつこい女、調子のいい女ととられて嫌がられてしまう原因にもなりかねません」

「相手の心が引く前に、こちらから引く手あまたな状況を作り出します」

 

「こずえちゃん。その引く手あまたって言葉の使い方、違かない?」

 

「まあ、話を聞いてください」

「正先輩とは話したんです。私達、もう泡ないほうがいいと思うの……」

「そういうと、石けん知らずだなぁお前。マゾめに考えてみろよ。先輩と交配の関係だろ? 考えが、まっ、泊まらないの? って」

 

「そんな話しになるわけないでしょ……」

 

親友とはいえ、夕子ちゃんがため息まじりに横槍を入れる。

 

「男には心の縛りと肉体の寸止めが大事です。そうすれば、どんどん愛の持続力が強く長くなっていき、女からは離れられなくなっていきます。そして、アノ快楽もより深いものへと」

 

「はいはい」

 

紀香ちゃんもため息ひとつ。

 

「五つ目はどこか1点でも、印象に残るポイントを残すこと」

 

「まだ五つ目かよ。こずえちゃん。もういいでしょ。あのさ、正、ホントどうしたの?」

 

水野がシビレを切らす。

 

こずえちゃんは水野を無視して話を進める。

 

「紀香ちゃんや夕子ちゃんと私ことこずえ、新歓合宿のとき、男の子の印象に残ってもらうため影で必死に努力していたんです」

 

「紀香ちゃんは、私、化粧なおししてくる、といいました」

「夕子ちゃんも、化粧なおししてくる、と」

「こずえは、私、化粧まわししてくる」

 

「そうやって正先輩には、新歓の四股入りで股間から瞳を逸らさないようにしたのですが、無理でした」

 

「もういい。もういい」

「こずえちゃん。ホント、正に何があった?」

 

こずえちゃんは、しなやかに胸ポケットからそっと一枚のカードらしきものを取り出す。

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

「すまないね、恵ちゃん」

「正くん、大丈夫?」

 

助手の有田先生が恵ちゃんと電話連絡。

 

「今病院にいます。正くんが電車で知り合った名聖大の女子大生のお父様の病院です」

「血液検査やレントゲン、腹部エコーの結果から間違いなく盲腸、急性虫垂炎だそうです。本人もかなり痛がっています」

 

「他に変わったことは?」

 

「あと、右首筋にうっすらとピンク色の虫刺され跡みたいなものが残ってます」

「でも、そこは痛くもかゆくもないそうです」

 

「それはよかった。ところで、これからの治療の方、どうなるの?」

 

「病院の先生のお話では、2、3日抗生物質を投与して安静にし、食事制限をして様子を見てとのことです」

 

「どう? 色素研究会の方は出られそう?」

 

「それが……」

 

「入院?」

 

「はい。まず抗生物質の点滴で一晩様子をみて,翌日,翌々日の状態で手術するかどうか判断するそうです」

「ほとんどの場合、抗生物質で症状が軽減するらしいのですが、悪化時は緊急手術になることもあるらしくて……」

「病態の経過次第です」

「痛みがあまりに強く続くようなら、いつ外科的治療を行ってもおかしくないそうです」

 

「困ったね……」

 

「はい。困りました」

 

「恵ちゃんは予定通り色素研究会に参加してね。ただ、その間正くん、どうしよう?」

 

「なんだか、知りあった名聖大生の娘さんが、2、3日であれば付き添っていただけるそうで、お言葉に甘えようと思いまして……」

 

「そうだね、いた仕方ない。そうしてもらおう。それはそうと、志賀高原で合宿中のオーケーストラへの連絡は?」

 

「正くんが保険証を持参していなかったらしく、自分で送ってもらうよう連絡を入れたようですが、そうしたら……」

 

「そしたら?」

 

「合宿担当者から保険証の譲渡条件を提示されたみたいで……」

 

「譲渡条件? 保険証でしょ? 自分の」

 

「はい……」

 

「?」

 

「これからの定演までの練習スケジュールを連ねたチケット綴りの写しが来て、これからの練習を絶対サボれないような内容になっているらしく……」

 

「仕方ないじゃない。自分でまいた種だし」

 

有田先生の声は恵ちゃんに意外に冷たく響く。

 

「はい。担当者の方からも、仕方がないじゃない。自分でまいた子種だし、と連絡があったようで」

「とにかく、練習チケットだけなら良いのですが、クーポンという形式で10枚ほど寸止めレッスンという綴りがあるらしく、それが痛みに苦しんでいる正くんには肺活量強化のための息止め練習かと思い快諾したみたいで……」

「腹部の痛みでもがき苦しんでいるので、なんでもいいから保険証と唸っていて……」

 

「まあ、オケの方はなんでもいいから正くんの方はよろしく頼むよ」

 

「はい」

 

「問題は、正くんがする予定だった英語プレゼンをどうするかだよ……」

「Abstractも配布済みだし、同業研究者からの注目度がとても高いんだ」

 

「あのぅ……」

 

「何? 恵ちゃん」

 

「私でよければ、代役いたしましょうか?」

 

「いやいや。それはいい。自分の発表だけに集中して」

「恵ちゃんの発表テーマも注目度大なんだから」

 

「義雄くんに行かせるか……」

 

「義雄くんですか?」

 

「ああ。研究室の中では彼がいちばん発表原稿を読みこんでいるんだよ。今一番のピンチヒッターかもしれない。ただ……」

 

「ただ?」

 

「正くんのような流暢な身振り手振りを交えたプレゼンはできないと思う。最初から最後まで原稿の棒読みになると思う。でも、もうそれでも構わないと思う。発表のうまい下手で研究の価値は下がることはない内容だから」

 

「ところで、義雄くん、間に合います? 発表、明日の午前中ですよ?」

 

「朝一のJR東海道本線で東京駅から熱海、熱海から豊橋。豊橋から名鉄名古屋で名鉄名古屋に行ってもらおうと思う」

「発表時間は到着にあわせて変更してもらう。緊急事態だからね」

 

「新幹線でくるんじゃないんですか?」

 

「研究室の台所事情が厳しくてね……」

「この経路だと、新幹線の半額で行けるから」

 

「仕方、ないですか……」

 

「ああ。仕方ない」

「車中の6時間半で原稿を頭に焼き付けることができるだろうから、かえっていいと思うよ」

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

「ジャカジャ~ん!」

 

こずえちゃんがくす玉の紐を引く準備。

 

「さて、こずえがこれから5秒数えます。そうしたらくす玉を割ります」

「いいですか? みんなで一緒にカウントダウ~ン!」

 

「5・4・3・2・1!」

 

こずえちゃんがみんなのカウントダウンの声を無視して、一人で勝手に数えてくす玉割り。

 

「こずえちゃん、それ、数え方が早くて1秒半くらいしか経っていないわよ。全く……」

 

このパーティーに乗り気じゃないみどりちゃんがため息をつく。

 

金銀、赤黄の紙吹雪とともに現れた垂れ幕。

 

「正先輩、病気祝いな……」

「えっ? 病気祝い?」

「なんだそれ?」

 

水野がこずえちゃんに問いかける。

 

「実は正先輩、盲腸になりましたぁ~!」

 

「それで祝い?」

 

「はい。何か変でしょうか?」

 

「あのさ、こずえちゃん。大抵のことは大目に見てあげてる。でもさ、盲腸、病で苦しんでいる正への病気祝いというのはちょっといただけないな」

 

隆が辛口の叱咤。

 

「隆先輩、水野先輩、よ~く見てください。病気祝いではなく、病気呪いと書いてあるんです」

 

水野が垂れ幕に近寄ってみる。

 

「あっ! ホントだ」

 

確かに、病気祝いではなく、病気呪いと書いてある。

 

「邪気払いです。こういう時は病気が治って、また楽しい日常が戻って来た時の正先輩を想像してひたすら明るく飲み食いしましょう!」

 

「あのさ……、だから今は違うだろ。どこでそういう発想になる?」

 

こずえちゃんは無視。

 

「それではこずえからのテンション上がりまくる、正先輩への応援ソング、まいりま~す」

「レベッカ、フレ~ンズ! 正先輩への応援歌で~す!」

 

ホテルスタッフがビールの栓を一斉に抜く音とともに、レベッカのフレンズのイントロが食堂に鳴り響く。

 

こずえちゃんが赤いカチューシャをつけ、涙を模すように紫のラメのアイシャドーを瞳からほおに散らして付ける。

 

「キスマークを、つけた日~には~」

「豚の顔、さえも~牛に見えた~」

 

「こずえちゃん。どこが悲しい?」

 

隆がつぶやく。

 

「楽しく盛り上がっているじゃん」

 

水野も同意。

 

「ポケ~ットの、ゴムあつ~め~て~」

「一つづつ、夜に~、はめていったね~」

 

「何の応援歌?」

 

「ほ〜ら、あれが勝負の、す〜んだ〜下着〜、おぉ〜!」

 

「ど~こで~、でちゃったのた~だし~!」

「なえる日には~、見つめあ~って~」

 

「ゆ~びを、からめ~たら、お~だし~」

「寸でと~めた〜、でかした~」

 

「おいおい。ここでも寸止め、執拗に語る?」

 

水野が呆れる。

 

「好き勝手歌ってるな。下ネタじゃん。どこが応援歌だよ。でも、実はこずえちゃんのさみしさの裏返し……?」

 

「そうそう、ところで正の真の目的である名古屋での予定どうなるんだろうね?」

 

水野がそういうと、こずえちゃんが満面の笑みを浮かべて、

 

「恵先輩との夜はなくなりました!」

「これがキスマークの魔法とでも言うのでしょうか」

 

全然寂しがってない。いや、嬉しがってる。

 

そしてこずえちゃんが遠い目をする。

 

「あぁ、あの星空の下誓った二人の思いが届くなんて」

「神様、仏様、お稲荷様」

 

「あのさ、お稲荷様って何?」

 

水野の言葉を無視して、こずえちゃんは話を続けようとした矢先、

 

「こずえちゃん、こずえちゃん」

 

「何ですか? みどり先輩。毛短にお願いします」

 

「今確認したら恵さんから連絡入っててね、正先輩の色素研究会の発表の代役、義雄さんになるみたいよ」

 

「へぇ〜。そうでっか」

 

「こずえちゃん。冷たくあしらわないで。大切な正先輩の代役でしょ」

「しかも義雄さん、新幹線じゃなく、普通列車で原稿覚えながら名古屋に向かうみたいよ」

「応援しようと思わない?」

 

「それ、本当かや? とろくせゃあ。おみゃ〜、男なら新幹線げな」

 

こずえちゃんは、急に名古屋弁。

 

「あら、どうして新幹線?」

 

みどりちゃんが尋ねる。

 

「よ〜け、ちんちんエキを飛ばしやりゃあ!」

 

「たくさん、熱いエキを飛ばしなさい?」

「駅を飛ばす、エキを……」

「それ……、ちんちんの使い方違うでしょ……」

 

みどりちゃんは顔を赤く染めうつむく。

 

こずえちゃんがにんまり。

 

「じゃあ、聞きますけどみどり先輩。ちんちんってどう使えばいいんですか?」

 

 

第110話

 

「This is the limited express Shinano No.16 bound for Nagoya with stops at Shiojiri, Kiso-Fukushima, Nakatsugawa, Tajimi, Chikusa and Nagoya

 

僕らの電車が松本駅を出発した。

 

ジジっ。

 

またジジっ。

 

「ちょっと失礼」

 

僕はスマホに来たLINEを開く。

 

一つは恵ちゃんから。もう一つはこずえちゃんから。

 

『正くん、今どの辺? 私、少し早めに東京駅に来た』

『暑いわよ~。気温35度に湿度70%。猛暑日よ』

『高原で避暑してた正くんに、この暑さ耐えられるかしら~?』

 

こずえちゃんからは……。

 

『おやつの時間です』

『腹が無性に空いたので、野沢菜おやきをたらふく食べます』

『なすがママにナスのおやきにしようと思いましたが、今宵、揉むとピンピンするキュウリがパパがいないのでやめました』

『正先輩は、いないならいないで、せいせいします』

 

「あら。お二人から同時にご連絡?」

 

「はい。彼女と、いわゆる天文学的に不思議な女の子、こずえちゃんからです」

 

どこがキュウリだよ。揉ませてないだろ。全く……。

 

「ちょっと失礼して返信しますね」

 

まずは恵ちゃんに。

 

『今松本を出たところだよ』

『東京暑そうだね。きっと名古屋も』

 

『うん、正くん。すっごく暑いわよ!』

『ブラームスの1番聞いてる?』

 

『実は、旅の友が出来てお喋りしてる』

 

『男の子? 女の子?』

 

『大学四年生の女の子。みゆきさんと言うんだ』

『何と、大学でポリフェノールの分析や活性、合成などを研究していて、そしてまた彼女の趣味がバイオリンを弾くこと。市民オーケストラに所属してるんだって』

『明日からの色素研究会に顔を出そうかなとも言ってる』

 

『あら! それは奇遇ね。さぞ、話も弾むでしょう』

 

『うん。でも研究や音楽の話だけでなく、少し立ち入った雑談になってるかな』

 

『立ち入った雑談?』

『珍しいわね。あまり人と雑談することが少ない正くんなのに』

 

『なんでだろう? そのみゆきさんにはどこか懐かしい雰囲気があって……』

 

『ふ~うん。元カノに似てるのかな? な~んて、正くんが元カノと言えるほどの恋をしたことなんて過去にないわよね』

『まあ、楽しくお喋りしてらっしゃい』

 

恵ちゃんとのLINEを閉じる。

 

「今のLINEは彼女さんとですか?」

 

みゆきさんが僕の顔を覗き込み問いかける。

 

「はい。そうです」

 

「いいですね~。相思相愛、以心伝心の彼女がいて」

 

「はい。いいものです」 

 

僕は微笑む。

 

ジジっ。

 

『恵先輩! 休戦中のリーベを寝取られてもいいんですか!』

『正先輩の今の放尿力なら、女の子は簡単に落ちますよ!』

 

放尿力? 包容力のことか?

こずえちゃんから僕へのLINE。

 

ジジっ。

今度は恵ちゃんからだ。

 

『正くん。さっきね、こずえちゃんから変なLINEが入ってね』

『正先輩。キスマークは上手く消えましたか? って』

『そして私が、キスマーク? 正くんなら勉強や趣味が同じ女の子と、今楽しく電車でお喋りしているみたいよと送ると、そこでLINEが途切れてしまって……』

 

僕は一瞬、何がどうなっているのか頭が白くなる。

 

しかし、すぐにこずえちゃんが僕と恵ちゃんのLINEの送信先を間違えた可能性が浮かび上がる。

 

「何かありました?」

 

みゆきさんが僕に問いかける。

 

「いや……。LINEが混線したようで……」

 

「混線?」

 

「その……。こずえちゃんが僕に送るはずのLINEを恵ちゃんに送り、恵ちゃんに送るLINEを僕に送ったみたいで」

 

「あらあら、それは」

 

「多分、軽い事故で済むと思うんですが……」

「いや、済めばいいんですが……」

 

「いたっ!」

 

「正さん、どうしました?」

「いや、またみぞおちのあたりが少し痛んで」

「大丈夫です」

 

ジジっ。

こずえちゃんから。

 

『正先輩、毛短にお話しします』

『正先輩と恵先輩への連絡先、間違えてLINEしちゃいましたぁ~』

 

ジジっ。

続けて恵ちゃんからのLINE。

 

『あらためて聞くけど、正くん、キスマークって何?』

 

こずえちゃん。余計なことをやらかしてくれる。恵ちゃんに返信できないじゃないか……。

 

僕は自分の右首筋を撫でる。

 

「みゆきさん」

 

「はい?」

 

「ここのピンク色、何に見えます?」

 

「ほとんど目立たないですが、やっぱり虫刺され?」

 

「ですよね……」

 

僕は、自分で自分を納得させる。

他人には気づかれないか、せいぜいよく見られて虫刺されだ。

 

『キスマーク? なんだろうね?』

 

神様。僕はこれから嘘をつきます。

そういう思いとともに、恵ちゃんにLINEを送信した。

 

「なんだか、面白い話になってそうですね」

 

意外にみゆきさんも悪女的要素があるのかもしれないと、その言葉でふと感じた。

 

「それはそうと、正さん、オケの定演でやる曲は何ですか?」

 

「マーラーの交響曲第1番、巨人です」

 

「あらまあ!」

「私も巨人、春の定演で演奏したばかりですよ」

 

「それはそれは。みゆきさんの花色の研究といい、僕らの奇遇な共通点いっぱいですね」

 

「マーラーは25歳の時、オペラ歌手のヨハンナ・リヒターに恋をしましたよね。金髪美女である彼女に猛アプローチをするもその恋は実らず」

「そんな失恋の気持ちを曲の旋律に散りばめたマーラーの交響曲第1番」

 

みゆきさんは遠い目をする。

 

「静けさと燃え上がるような情熱のコントラスト。民族舞踊、葬送行進曲」

「マーラーの才能と、目の前の迫りくるオーケストラの豊潤な響き」

「私が一番好きなのは、時折現れるやりきれない、切ない恋のメロディー……」

 

「僕も好きです。恵ちゃんへの思いを込めてこの交響曲に取り組んでいます」

 

「あら、素敵」

 

みゆきさんは微笑む。

 

あっ! 僕はこれまで誰にも話さず温めていた心の内を、みゆきさんにすんなりと話してしまった。この想い、演奏が終わってから恵ちゃんに伝えようと思っていてとっておいた言葉なのに。

まあ、いいか。

 

「私ってダメですね。きらびやかな青春交響曲が、やはり悲しい音楽として切なく胸に残ってしまう……」

 

「はい。本質はそうですからね」

「マーラーは失恋という失意の中でこの曲を書いたかもしれませんが、僕には、個人的に生きていくための力強さが感じられます」

「恋って、募る想いに胸を熱くし、悲しみも苦しみも伴うものかもしれません。しかし、それらは自分のたくましさを育てていくためのステップで、哀しむためのささくれではありません」

 

「ホント。正さんの言葉って腑に落ちますね」

「悲しさ先立って、どうして私、上手く恋ができないのかしら?」

 

「何でもかんでも思い通りにはならないけれど、この恋はきっとうまくいって、きっと相手は自分の愛に応えてくれる。未来完了進行形で恋と向き合うんです」

「そのために必要なのは、自分が自分を好きであること。男の子は自分自身が好きではない女の子を好きになることはありません。僕自身も、僕が僕を好きであることで恵ちゃんが僕に恋してくれました」

 

「そうですよね……」

 

「そして恋の魔法を保ち続ける関係とは、相手を変えようとしたり自分を否定しようとしたりしない関係です」

「もしも人から、なぜ彼と恋しているの? と問われたら、それは彼が彼であるから、私が私であるからと明るく答える以外、何とも言いようがないように思います」

「恵ちゃんと僕はそういう関係です」

 

「羨ましいです。とても」

 

ジジっ。

 

「ちょっとすみません。こずえちゃんからLINEです」

 

『正先輩。小股にはさんだ話の件ですが、旅で尻合わせた女をおやつとして頬張っていないですよね?』

 

『まさか。僕がそんなことするわけないじゃない』

 

『出張のサラリーマンや夏休みの学生たちで揉み合う車内。何が起きても不思議じゃありません』

『車内が混雑しているから体位変だよね、とかいちゃついて』

 

『あのさ、女の子と楽しくおしゃべりしているだけなんでLINEひかえてもらえる。無理だとは思うけど頼むよ、こずえちゃん』

 

『おしゃぶり? 外はムシ暑いけど、車内は女子付きで快適? こずえのことなんてそっちの毛ですか。いや、あっちの毛ですか』

 

おしゃべり? 除湿機?

 

ジジっ。ジジっ。

 

「あら、正さん。どうしたんですか?」

 

「無限ループにはまり込むので、こずえちゃんからのLINEは無視です」

「あたたたたた……」

 

僕は、少し強く鈍い痛みに胃のあたりを押さえる。

 

「また、みぞおちですか?」

 

「はい。鈍痛が……」

「どうしたんだろう?」

 

「もしかして、胃の調子が悪いのではなくて盲腸じゃありません?」

 

「盲腸? ですか?」

 

「はい」

「盲腸は右下腹部の痛みを訴える人が多いのですが、人により、みぞおちから痛みを訴える人もいるみたいです」

 

「みゆきさん、詳しいですね」

 

「ええ、父が外科医をしているので。ちょっとLINEで聞いてみますね」

 

みゆきさんはお父さんとLINEを始める。細くしなやかな指先の動き。その動きに僕はしばし見惚れる。

 

「正さん。嘔気はしますか?」

 

「今のところ大丈夫ですが……」

 

「いつから痛みが?」

 

「この電車に乗ってからです」

 

またみゆきさんはLINEを打ち始める。

 

「これから発熱や食欲不振、吐き気などを感じたら、一応病院で診てもらった方がいいみたいです」

「うちの父親の病院でよければ予約しておきますけど」

 

「いや、今のところ大丈夫。正露丸で様子をみます」

「ところで、みゆきさんのお父さん、お医者さまなんですね」

 

「はい。自称ヤブ医者です」

「患者さんとの立ち話が大好きで、物事を説明するときの前置きが長いんです」

 

こずえ語を使えば、勃ち話が大好きで、情事を説明するときの前大っきいが長い……。

 

いかんいかん。脳内文字変換が、こずえ語に毒されている。

 

「正さん、どうしました?」

 

「あっ、いや……。別に」

 

「お父さんの病院は街の中心部から少し離れた、皆からは高級と言われる住宅街にあります。家も病院のすぐ近くです」

 

「あの……、つかぬ事を聞きますが、その辺りに不倫カップルが別れ話をしに行く食事処か何かありますか?」

 

「フフッ。正さん、急に何ですか」

 

「いや……、別に……」

 

「実はありますよ。密かに有名な洋食屋。食事のあとに金城ふ頭の夜を黙って散歩をするとかなりの確率で円満? に別れられるとの噂です」

 

こずえちゃん情報は本当だったんだ。是非、恵ちゃんと行ってくださいと言われた店とその後の散策場所。

 

「不倫中カップルが本気で別れようと思うのなら、相手のことよりも自分の都合を優先して別れるのが正解みたいです」

「別れたいという意思が強いことをしっかりとアピールして、スッパリと関係を終わらせることが大切とのこと」

 

「みゆきさん、やけに詳しいですね」

 

「ええ、父の大好きな立ち話でよくその話題になるそうです」

 

「しかし、なぜ食事処で?」

 

「あえて静かで人がたくさんいるところを選んで、取り乱したりケンカになったりするのを防ごう、という考えの人が多いんじゃないかしら?」

「不倫とは言っても、本気で愛した人との別れのシーン。ダメだとわかっていても、ついつい感情的になってしまうこともあるでしょうから」

 

「なるほど」

 

「しかし、さみしいものでしょうね。法律上の家族持ちには太刀打ちできない。どんなに冷めていても家族は家族、どんなにもがきあがいても世界で一番愛する他人はあくまで他人」

 

「はぁ……」

 

「不倫しやすい女の人はさみしがりの人が多いんじゃないかな?」

「現状に不満を持っていて、それを自分ではどうすることもできない場合に不倫という甘い罠にかかってしまう」

「結婚生活で旦那とうまくいってなかったり、愛されている感覚がなくなってしまったり……」

 

「えぇ……」

 

「女の人って心が満たされていないと幸せが感じられないものなんです。言ってしまえば不倫はいちばん身近な現実逃避なのかもしれませんね」

 

現実逃避。意外と美しい響きがする。僕とこずえちゃんとは現実離れ。完全にアホと間抜けの不協和音。

 

「父に言わせると、不倫って麻薬みたいなものらしいですよ」

「不倫をしている瞬間だけは一時的にいろんなことを忘れられるけど、得する事も喜ぶ人も誰もいない。バレたら離婚やら慰謝料やらの副反応……」

「当事者だけではなく、何人もの人の人生を変えてしまう可能性もある」

 

「よくわからないけど、世界で一番愛する他人という言葉が、不倫の始まりから終わりまでの全てを含んでいるように感じますね」

 

「そうそう。ところで、何でこんな話になったんでしょう?」

 

みゆきさんが座席を座り直す。

 

「すみません。僕が不倫カップルが別れ話をしに行く食事処があるかどうかについて聞いたところから」

 

「ああ、そうでしたね」

 

ジジっ。

こずえちゃんからだ。

 

『正先輩。なにか後ろめでたいことがあるんじゃないですか?』

 

『言ったでしょ。しばらくLINEは控えてよ』

 

『女の人と、手にアレ握る展開になってませんよね?』

 

『だからね、今取り込み中だから後でね』

 

『取り組み中? 女には気をつけてくださいよ。女は表には出さないブラの顔がありますから』

『人前では可愛いふりして、ブラジャー何してるかわかりません』

 

『裏の顔?』

 

『見て見ぬ不倫はこずえ許しません』

 

『あぁ……、何だろう、ちょうど今不倫の雑談になっていてね……』

 

『不倫の話? もうそこまでの展開に……』

『清らかな関係のまま、ブラ見っこなしで別れて下さい』

『気をつけないと、その女、やや欲しい話になります』

 

『話がややこしくなるから、もうこの辺でね、こずえちゃん』

 

『ブラ切りは許しませんからね。正先輩』

『正先輩の貞操を守るプロエクトが、オケの有志、OBを交え水面下で進んでいます。急がなきゃ』

 

「正さん、どうしました? 顔が少し青いですよ」

 

みゆきさんが心配そうに僕の顔を覗き込む。

 

「いや……、ブラが……、じゃなかった、裏じゃいろいろなことが起きていて……」

「あと、やはりみぞおちが痛くて、いや、少しずつ右下腹部にも違和感が……」

 

「すぐに父の病院の予約を入れておきますね」

「正さん。保険証はお持ちですよね?」

 

しまった! 保険証はまとめて合宿係が取りまとめて保管している。志賀高原に置いてきたままだ。

 

僕はかばんから合宿係の役割分担表を取り出し開く。

 

「え~っと。保険証保管担当は……」

 

「どうかしましたか?」

「正さん、さっきより顔が青くなってますよ?」

 

 

 

 

第109話

 

「みゆきさん、ご趣味は?」

 

「私?」

「さあ……、何でしょう」

「正さん。当ててみてください」

 

僕は、にこやかに上品に微笑むみゆきさんの横顔を見て推理する。

 

「う~ん。お茶とかお箏とかですかね」

 

「ぶぶ~っ、残念。全然違います」

 

愛らしく、口をすぼめて返事をする。

 

「お嬢様系の趣味ではありません」

 

「そしたら御坊ちゃま系?」

 

「フフフ。どうしてそんな言葉が出てくるんですか?」

 

みゆきさんは素敵に微笑む。

 

「ヒントです」

「もしかしたら、正さんと同じ系統の趣味かも」

 

「僕と?」

 

「はい」

 

「植物……、音楽、貧乏……」

 

僕は指折り数えて自分の趣味を唱える。

 

「フフッ。正さん、貧乏も趣味なんですか?」

 

みゆきさんがコロコロ笑う。

 

「ああ……、失礼……。それ、違いました」

 

「みんなから僕、よく、貧乏、貧乏と言われるので……」

「つい、口から出てしまって」

 

「学生は貧乏な方がいいんです」

「何事にも、若さとともに貪欲に向き合えます」

 

また、指折りを最初から。

 

「植物、音楽、読書、少しの英語……」

「普通にそんなもんですかね」

 

「その中に、ちゃんと私の趣味、ありますよ」

 

「本当ですか?」

 

「はい」

 

「何だろう……」

 

みゆきさんは、バイオリンを弾く真似をする。

 

「そうですか。ズバリ、音楽ですね」

 

「はい。そうです」

「私も、クラシック音楽が趣味なんです」

「バイオリン弾きです」

 

「それはまた奇遇ですね」

 

「はい」

 

「正さんは?」

 

「僕はホルン吹きです」

「下手なくせに、よく練習をサボるので、ホラ吹きと呼ばれることもあります」

 

「フフフ。面白い」

 

「みゆきさんはお気に入りの作曲家とかいるんですか?」

 

「そうですねえ、ロシア音楽、特にチャイコフスキー」

「彼の音楽は聴衆全体ではなく、個の人、それぞれへと心の内を語りかけてきます」

「音楽で人生の深い悲しみを語りかけてくるんです」

 

「そう。僕もチャイコの明るい旋律の中にでさえそれを感じることがあります」

 

「そうなんです。だから、チャイコの音楽は胸を打つんです。そして哀愁を心に刻んで去って行きます」

「私、きらびやかな音楽より、悲しみを感じる音楽のほうが好きみたい……」

 

「みゆきさん。ところで、今は何の楽曲の練習を?」

 

「リヒャルトシュトラウスの英雄の生涯です」

 

「英雄の生涯!」

「なんて難しい曲を……」

 

「私のいるオケでは年に4回、定期演奏会があるんです」

 

「年に4回も! ですか?」

 

「はい」

 

「大学オケで?」

 

「いや、実は私は名聖大のオーケストラの部員じゃないんです」

 「名古屋市にある、アマチュアオーケストラで演奏しています」

「音大出の人も多いから、難曲にも時折取り組んでいるんです」

 

「どうして大学オケじゃないんですか?」

 

「何でだろう……」

「一年生の夏に、大学のオーケストラを辞めたんです」

 

「夏? 入部してすぐじゃないですか」

 

僕がそう言うと、みゆきさんのその横顔は少し暗くなる。

 

「入学してしばらくは大学オケにいたのですが、好きになった男の子に面倒がられて……」

「恥ずかしい事に、それがトラウマで、それから今まで彼氏を作れていないんです」

 

「どうして? もったいないですよ、みゆきさんの様な可愛い、清楚で優しそうな女の子が男子から放って置かれるなんて」

 

「いえ……。私、見た目もダメだし、正さんの思っている様な性格じゃありません」

「私には昔から、どうやら男の人に一途になってしまう悪いクセがあって……」

 

そうだ。僕にも一年生の時に麗子ちゃんの存在があった。

 

新歓合宿から、僕に猛烈にアプローチしてきた子。彼女主導で食事をしたり、映画を見たり、コンサートにも何回か行った。日替わりの麗子ちゃんの、ワンピースの色や模様さえ覚えている。

 

麗子ちゃんは可愛い、綺麗だなとは思ったけれど、恋愛したいという感情がわいてこなかった。

 

友達として付き合うことには面倒くさいとは思わなかったけど、恋愛の対象となると、麗子ちゃんとのそれは、とたんに色々なことが面倒くさく感じるものだった。結局、体を重ねることも無かった。

 

恋愛では束縛より自由を求める。それが、その時の僕の心。

 

いや、今もその心は変わらない。恵ちゃんは僕を縛らない。爽やかな高校時代のガールフレンドの様に、僕は今、縛られない自由な恋愛ができている。

 

「みゆきさん。迷惑じゃなければお聞きしたいのですが……」

「その男性にどんな風なアプローチを?」

 

「彼がいつも通る路地で待ち伏せしたり、キャンパスでは、彼のお昼ご飯に行く姿を追っていって同じ食堂に同席させてもらったり」

「オケの練習の時話せばいい様なたわいもないこともLINEでの連絡を頻繁にしてましたし、デートの予定も、彼の空いている時間には出来るだけ入れてもらって……」

 

まるで、僕が一年生の時に遭遇した、麗子ちゃんからのアプローチにとても似ている。

 

「それは、みゆきさんが面倒な女……」

 

僕の言葉を遮り、みゆきさんが少し高いトーンの声で話す。

 

「そう。彼がそう感じたんだと思います」

 

一呼吸置いて、僕はみゆきさんに優しく説得する様に説明する。

 

「男はそうされると、時に女の子がよくわからなくなって、怖いとも感じる時があるんです」

 

「怖い? そうですよね」

「自分でも、別れを告げられる頃には薄々感じていたんですが……」

「もう、彼に夢中になってしまったら……」

 

「男は、自分が自分であるための大切な時間が奪われる」

「その怖れを持つと、時として女の子から距離を置き始めるんです」

 

「どうしたらよかったんでしょう? 全然わからなくて……。今も……」

 

「男の人って、恋人が嫌いになると逃げようとします。でも、女の子は最後まで憎さ余ってとは言い過ぎですが、手元に抑えておきたがる。これがよくないと思います」

 

みゆきさんは哀しげにうなずく。

 

「一つ僕の経験からアドバイスすることがあるとすれば、これから出会う恋では単純に、彼氏の嫌がることを続けないと決めてかかれば好かれる思います。極めてシンプルですがこれが効きます」

「それが積み重なっていけば、未来の彼にとって、みゆきさんは一緒にいて居心地のいい女の子になっていくはず」

「愛されたいのなら、愛し、愛らしくあれ、です」

 

「女の子から男の子への望みもそうですよ。やはり嫌だということはして欲しくないです。けれども……」

 

「けれども?」

 

「時として女の子は我慢しちゃうの。その嫌なことをする、というところも含めて彼のことを好きになってしまう……」

「罪の始まり……。ですかね?」

 

「みゆきさん。過去の恋を分析して後悔なんてしない。もともと恋に罪なんてないんですから」

「チャイコフスキーの音楽が残す心の傷跡みたいに、恋でも哀しい傷跡を、自分が自分自身に刻んでしまっているんじゃないですか?」

 

「……」

 

「みゆきさんは恋をしました。一度も恋したことがないより、恋して失った何かがある方がどれだけマシか。自分では分かっているでしょ?」

「うまくいかない恋は自分本位なもの。うまくいく恋は相手本位なもの」

「ただ数学的に言っても、カップルが10組あったら20通りの恋があるわけで、一概に何が良くて何が悪いのかとは言えませんけれど」

 

「あのぅ……、正さん。今の彼女さんとはどんな距離感を?」

 

みゆきさんは子猫のように無垢な表情の顔で僕に質問する。

 

「適度に健康的な距離を置いています」

「お互いに、相手の自由を縛ることが大嫌いな性格ですから」

 

「合宿先にいる、宴会芸が猛烈に上手で、聞くこと話すことギャグだらけの女の子でしたっけ」

「自由があるから、他の女の子との接触も許せる?」

「彼女さんがいるのに、その子とはどんな距離でお付き合いをしているんですか?」

 

「あの……、その子の名前はこずえちゃんと言いますが、付き合ってる訳ではありません」

「交わす言葉もデタラメです」

「正先輩は欲できた人です。こずえのこと、即バックしてもいいですよ、とか。でも、下ネタとは片付けられないこずえ語は、いやらしくなく、時として爽やかに響くんです」

 

「フフッ。束縛を即バックだなんて」

 

みゆきさんが唇に人差し指を当て隠し笑い。

 

「こずえちゃんは、恋においてはブラックホール、笑いについてはホワイトホールとでも言いましょうか」

「牛が合うと言うか、ウマが合わないと言うか……」

「すごく可愛いのに、時としてゴジラの様に怖く感じる時もある」

 

「キングコングの次はゴジラですか?」

 

みゆきさんに笑顔が戻る。

 

「あらゆる物体を吸い込み逃さないブラックホール対し、あらゆる物体を吐き出し続けるホワイトホール」

「両方の性質を併せ持つ、天文学的に不思議な女の子です」

 

「そのこずえさんに、一度会ってみたいですね」

 

「そうだ。新歓合宿でのこずえちゃんの横綱の四股入りの芸見ます?」

 

「あら? そういうものがあるんですか?」

 

僕は、iPhoneのビデオからこずえちゃんの四股入りを選択する。

 

「アハッ! ハハハッ!」

 

電車の中で、少し場違いな笑い声が響く。

みゆきさんは哀しい顔から笑顔に変わる。

 

「この子可愛い! 素敵な子ですね」

 

「その言葉、本人に伝えたら……」

 

「外見の美しさに加え、凛とした佇まい。控えめな仕草。秀でた教養を持つ私ですから」

「決まってそう返ってきます」

「まあ、こずえちゃんは笑いの宝石箱、ギャグの修学旅行です」

 

「正さんって、彼女さんがいて、面白い女の子にも好かれてる」

「正直言っていいですか?」

 

僕は首をかしげる。

 

「正さんは、自分自身をよ〜く理解していて、男として自信を持っている様に感じます。自信がもてると余裕が生まれるんですね」

「だから射止められるんですね。可愛い女の子を二人も」

 

「みゆきさん、違います」

「僕が射止めたのは彼女さん、恵ちゃん一人です」

 

「正さんの口ぶりから、私には二人に思えますね」

「さぁ〜、私も見習わなきゃ。正さんを」

「自分から、好きな自分を取り出して並べてみて、眺めてみて」

愛し、愛らしくあれ……、か」

 

みゆきさんがふっきれた様な、無邪気な顔で僕に微笑む。

 

第7章

 

第108話

 

なんとか、名古屋行きの特急しなのに間に合った。

 

OBが志賀高原から長野駅まで車で1時間もあれば楽勝、余裕と言っていたが、実にぎりぎりセーフの滑り込み。

 

危うく、電車に乗り遅れるところだった。

 

「This is the limited express Shinano number 16 bound for Nagoya」

「Cars number 6,5,4,3,2, and 1 from the front order」

「Cars number 5 snd 6 are for passengers without reservation」

 

僕のチケットは自由席なので、電車に乗った後、5、6号車の方へ向かう。

乗り込んで間もなく、電車がゆっくりと動き始める。

 

「While in the car we ask that you switch your moblie phones to silent mode」

「The next stop is Shinanoi」

「Thank you」

 

自由席は観光客やビジネスマンで比較的混んでいて、僕は、同じ年くらいの大学生みたいな感じの女の子に相席をお願いした。

 

「お隣、いいですか?」

 

「はい。どうぞ」

 

女の子は、空席に置いていたバックを膝に乗せ、僕に席を空けてくれた。

 

おっとりとした佇まいの可愛い系の顔立ちの子。顔は似ていないが恵ちゃんとオーラというのか、身を取り巻いている空気感が似ている。何か上品さの伺える育ちがいい女の子、という感じ。

 

ポニーテールがよく似合う。

 

「ぎりぎりセーフでしたね」

 

女の子は笑顔で話しかけてくる。

 

「はい。ぎりぎりセーフでした」

 

僕は少し汗をかいた。

 

さすが、長野市とはいえ暑い真夏の時期。暑い。志賀高原と長野市では雲泥の差。ハンカチをカバンから取り出し、汗をふく。

 

「どちらへ向かわれるんですか?」

 

女の子が僕に話しかけてくる。

 

「名古屋です」

 

「私も」

「私、佐藤みゆきと申します」

「名聖大学の四年生なんです」

 

「ぼくは、佐藤正。東名大、同じく四年です」

「おなじ佐藤同士だから、名古屋まで下の名前で呼び合いましょうか?」

 

「はい。いいですよ」


みゆきさんは微笑む。


「正さん。どうして関東の方が長野から名古屋へ?」

 

「志賀高原でサークルのオーケストラの合宿中なんですが、明日、明後日と名古屋で、とある研究会に参加しなければならなくて」

 

「合宿中だというのに、大変ですね」

 

「ええ、まあ」

「2泊3日で、また志賀高原に向かいます」

 

「あら? それもまた大変ですね」


「暑いでしょうね、名古屋」

 

僕はみゆきさんに問いかける。

 

「暑いですよ、名古屋」

「海外の方が真夏の名古屋に来られると、ここは世界一暑い場所だとおっしゃられる方もいます」

「気温が体温越え、湿度も高く、そして街中はコンクリートジャングルの照り返しなど、猛烈な、めまいを起こす暑さを感じると言います」

 

「みゆきさんはどうして長野へ?」

 

「観光です」

「おじさんが、立山黒部アルペンルートを案内してくれて」

 

「いいですね~」

 

「黒部ダムの放水を見られましたし、沢や渓谷をわたる風は清々しく、高原の高山植物たちは短い夏を謳歌しているようでした」

「そうそう、動く展望台といわれる立山ロープウェイからの眺めは素晴らしいの一言でしたね」

 

「標高、2300mの大観峰まで行って、そして長野市に戻ってきました」

「泊まりはおじさんの家で、2泊3日のプチ旅行でした」

 

みゆきさんは、左腕に絆創膏が貼ってある。

 

僕に見られたと思ったせいか、

 

「腕。蚊か何かに刺されたんです。刺されたところが腫れちゃって」

「体質的に虫刺され、治りにくいんです」

 

僕は慌てて、右の首につけられたキスマークの跡を気にする。蚊なんて可愛いものだ。ものすごいものに刺された後先。確認したい。しかし、この場で鏡を見たりすることは出来ない……。

 

妙案に至った。試しに聞いてみよう。

 

「僕も先日、この右首筋あたりを虫に刺されて、赤く腫れたんです」

 

「あら? 全然目立たない」

「うらやましい体質ですね」

 

良かった。

 

至近距離で異性に気づかれない程、キスマークの跡は取れたみたいだ。

 

「まあ、言われてみれば、まだ少しピンク味が残ってますけど……」

 

あた~っ。

 

やっぱり、1、2日で消すのは無理だったか……。恵ちゃんにバレるのは必至だ。

 

「みゆきさん。夏休みは長いんだし、もっと休みを満喫すればよかったんじゃないですか?」

 

「実は、叔父がカーネーション農家で、夏は出荷で忙しい時なんです」

 

「カーネーション?」

 

僕は無意識に普段より一段大きめの声になり、みゆきさんに話しかけた。

 

「はい。カーネーションです」

「カーネーションって、あんなに色々な花色や花模様があるとは知りませんでした」

「初めてハウスを見せてもらってびっくりでした」

「あと私、理系なので、実験、卒論作成など、夏休みでもゆっくりできないんです」

 

誰かに聞かせてあげたい言葉。もちろん、それは僕自身に……。

 

「みゆきさん。実は僕、今まさにカーネーションの花色について、色素からその生合成の遺伝子発現まで調べている最中なんです」

 

「本当ですか?」

 

「はい」

 

「カーネーションの花色や花模様は沢山ありますが、花弁に含まれている花色素は、濃い紫のサイクリックマリルシアニジン3,5‐ジグルコシド、暗赤のシアニジン3-グルコシド、紅桃のサイクリックマリルペラルゴニジン3,5‐ジグルコシド、赤色のペラルゴニジン3-グルコシドの4つのみのアントシアニンが、それぞれ独立してカーネーションの花弁に含まれています」

 「黄色いカーネーションは、カルコンという色素、白色はフラボノールです」


「そして今、僕たちはオレンジ色のカーネーションの秘密を探っているのですが、ペラルゴニジン3グルコシドとカルコンが花弁の液胞中に共存しているこのオレンジ色のタイプにおいて、その色素と生合成遺伝子の発現様式の知見を得たところなんです」

 

「面白そうですね」

「それが正さんの卒論ですか」

 

「いや……。実は卒論は、アイソザイムから見たバラ属の化学分類、ケモタクソノミーで……」

 

「あらあら、二つも大きなテーマを抱えて」

「それはそれは大変だ事」

 

上品な仕草で、僕に同情するような口ぶりで答える。

 

「みゆきさんは、どんな研究をしているのですか?」

 

「何のめぐり合わせかしら」

「私は、ポリフェノール類の合成研究を行っています」

 

「たとえば、アントシアニン類やカテキン類には抗がん作用が、プロアントシアニジン類には抗アレルギー効果が報告されています」

「しかしながら、これらのほとんどは、未だに植物からの精製に頼っており、純粋な化合物の供給が機能研究展開のボトルネックになっているんです」

 

「その、カーネーションにも含まれている安定性の高いアシル化アントシアニンに至っては、これまで全く合成例がないんです」

「私たちは、反応経路の見直しや新規の合成法の発案により、柔軟で効率的、かつ大量合成可能な方法を開拓していくところなんです」

 

「なるほど。科学的に厳密に言うと違うけど、研究対象からして同じ穴のムジナと言って良さそうですね」

 

「はい」

 

みゆきさんは、キラキラした笑顔を魅せる。

 

「みゆきさんは、どんな研究室で研究をしているんですか?」

 

「私の研究室の名前は、情報学研究科複雑系科学研究室です」

 

「何だか……、名称からして複雑そうですね」

 

「お話した通り、研究のミッション自体はシンプルです。花色発現機構の研究を通してポリフェノールの機能を解明することです」

「ひたすらポリフェノールの合成や生理活性の研究を進めています」

 

「僕たちが行なっている、アントシアニンやカルコン、フラボノールなどの、まさに、それらポリフェノールを色素レベルの解析では終わらずに、その合成や活性の方まで研究しているんですか」

 

「はい。そうそう、ポリフェノールの一種のケルセチンには体脂肪低減効果などもあって、興味を惹く研究でもあるんですよ」

 

「そう、カーネーションの花弁にはケルセチン配糖体がありますよね。ダイエットにもいいなんて何だか興味が湧いてきます」

 

「正さんは、花色とその遺伝子発現までの研究もしているんでしょ?」

 

「はい。工学部の生命工学研究室と一緒に」

 

「凄いです。私たちは今のところ遺伝子方面の解析はしていないので、とても興味がありますね」

 

「これから、僕たちがこれまで得られた知見を名古屋で開かれる色素研究会に発表しに行くんです」

 

「色素研究会?」

 

「はい」

 

「あら。偶然ですね」

「実は、私の研究室からも二人色素研究会に出席します」

「そして今、まさに私も色素研究会に顔を出さないかと誘われてるんです」

 

「えっ? みゆきさんも?」

 

みゆきさんは、同じ研究室の友人からきたLINEを僕に見せる。

 

「長野での避暑も済んだことだし」

「東名大学のカーネーションのオレンジ色や、花色の生合成遺伝子関係の……」

「ああ、これですね」

 

みゆきさんが色素研究会の案内をググる。

 

「カーネーションにおける黄色花の発現機構及びオレンジ花色の発現機構、そしてVariation in chalcononaringenin 2′-O-glucoside content in the petals of yellow carnations (Dianthus caryophyllus)ですね」

 

「おじさんのところで綺麗なカーネーションも見たし、カーネーションのポリフェノールを研究している方にこうして出会いましたし、私も行きましょう。明日ですね」

 

みゆきさんがLINEの返信をした後、スマホのスケジューラーに予定を打ち込む。

 

「しかし、奇遇なものですね」

「同じ穴のムジナ同士の旅での出会い」

 

「はい」

 

みゆきさんは素敵に微笑む。

 

「ううっ……」

 

「あら? 正さん」

「どうかなされたんですか?」

 

「いや。一瞬だけ胃のところ、みぞおちがキュッと痛くなって」

 

「あらあら? 大丈夫ですか?」

 

「はい。大丈夫です」

 

一応僕は、常備している正露丸3粒をペットボトルのお茶で胃に流し込んだ。

 

「お昼ご飯を急いでかきこんできて、長野駅で電車を急ぎ走ってきたせいだと思います」

 

二人して笑う。

 

「そう、みゆきさんの研究室からは、どんな発表があるんですか?」

 

「アジサイの青色発色とアルミニウム耐性に関与する輸送体の研究です」

 

「それはそれは。まさに花色発現の基礎的研究ですね」

 

「はい」

 

スマホが、ジジっと震えた。僕にLINEが入る。

 

恵ちゃんからだ。

 

『今どの辺?』

 

『もう少しで松本かな』

 

『私はまだ大学にいるの』

『これから東京駅に向かうねっ!』

 

『了解』

 

『あのね、マーラーの巨人の練習ビデオ見たわよ』

 

嫌な胸騒ぎがする。夕子ちゃんの公式版か、OBが指示したハミデ撮影版か……。

 

『練習中も、ずっと首にスライスレモン貼ってたのね。何度もドアップで映っているわよ』

『厄介な虫刺されだこと』

 

やばい。極めてヤバイ。やはり恵ちゃんに送られたのは、僕撮りの裏番ハミデ版だ。

 

『もうすぐ会えるね』

 

『うん。会える』

 

『楽しみにしてるよ。正くん』

 

『うん。楽しみにしてる』

『早く恵ちゃんに会いたい』

 

『私も』

 

よかった。

 

LINEでは首のスライスレモンの事、質問されず。僕はホッとして、スマホをポケットにしまう。

 

「彼女さんか誰かからですか?」

 

みゆきさんが僕に問いかける。

 

「はい。彼女さんで、今回の色素研究会で一緒に発表する、同期の恵ちゃんという能天気なおてんば娘です」

 

「あらあら。彼女を能天気とかおてんば娘とかって紹介する人、あまりいませんよ」

 

みゆきさんは上品に笑う。

 

「私には今彼氏がいないから、正さん、彼女がいて羨ましいです」

 

「彼氏、彼女は居たら居たで厄介な時もあるんです」

「スライスレモン一つで騒がれるとか」

 

「スライスレモン?」

 

「失礼……」

「さっき、あゆみさんに見ていただいた、僕の右首筋の赤みのことです」

 

「?」

 

「いや……、その……」

 

「正さん、気にしなくても、もうすっかり首筋の赤みは引いてますよ」

 

「本当ですか?」

 

「嘘です」

 

みゆきさんと僕は二人で笑う。

 

「みゆきさんもジョークのセンスありますね」

 

「いいえ。私は、例えば宴会芸とか一つもできず、面白いジョークも話せない。つまらない女なんです」

 

「宴会芸が猛烈に上手で、聞くこと話すことギャグだらけ、放送事故率100%の女の子より全然いいと思います」

 

僕は自然と少し強めのトーンでみゆきさんに答えた。

 

「正さんて、面白い方」

 

あゆみさんは口に手を当て、フフフと微笑む。

 

「いや、僕が面白いのではなく、存在自体が面白い女の子がいるんです」

 「実在するんです」

 

「それが彼女さんですか?」

 

「いや……、そう……、僕の彼女の恵ちゃんもその気はありますが、もっと凄いやつ、例えば映画で人前にキングコングが突然現れるシーンのような、ジョーズがいきなり大口を開けて画面にアップする、そんな感じの威圧的存在」

 

「あらあら。よほどの女の子なんですね」

 

「はい」

 

「でも、愛らしい笑顔でイタズラなんて気にしない、ある意味とっても可愛い子なんです」

 

「正さんって、優しい方みたい」

 

「?」

 

「だって、女の子の紹介の仕方がとても素敵なんですもの」

 

第107話 (第6章 最終話)

 

「ホルンパートは9時半まで自主練習にするから、正はキスマーク消しに専念してていいぞ」

 

隆が僕のことを気遣ってくれる。

 

「ありがとう」

 

「どれ、スライスレモンを取って見せてみろ」

 

隆と里奈ちゃんが僕の首筋をジロジロと見つめる。

 

「すごい! 赤み、ほとんど消えたわよ。体質もあるのかしらね」

「正くん、きっと大丈夫。ラッキーよ」

 

看護学部の里奈ちゃんが言うんだから間違いない。

 

「一応、スライスレモンを食堂から何枚か持ってきたし」

「また、蒸しタオル手当した後に、馬油を塗り込んでレモンを貼っておけばいい」

 

「ありがとう、隆。助かるよ」

 

ピンポーン。

 

恵ちゃんからLINEが入る。

 

『Sun Sun Sun Sun、おはようさん』

『練習中かな?』

 

『うん。練習中』

 

『合宿中なんだから、その間は余計なことは考えずに練習に集中してね』

 

恵ちゃんは、今の僕の状況を分かっていないようだ。助かったと思う反面、実は練習ではなく、キスマーク消しに一生懸命になっている自分がいる。

 

『ああ、集中して頑張るよ』

 

嘘ではないが、ごまかさなければいけない心が苦しい。

 

『良かった』

『私、名古屋17時11分着の、のぞみで行くから』

 

『僕は、17時01分着の、しなの』

『ほとんど同じ時刻だね』

 

『ホテルじゃなくて、名古屋駅の桜通り口で待ち合わせしようか?』

 

『うん』

 

『正くんは、電車の中で何して過ごす?』

 

さすが、キスマーク消しに没頭するかも知れないなんて、口が裂けても言えない。

 

『そうだね。ブラームスの交響曲でも聞いて、明日の発表の原稿を頭に叩き込むかな』

 

『ブラームス。いいわね』

『私も聞いて行こうかな』

 

『一昨年、オケでやったブラ1でよければファイル送るよ』

 

『うん、お願い。送って』

 

『あと、合宿でやった色々な芸の動画が夕子ちゃんから送られてきているから、それも新幹線の中で観るね』

 

『あっ!』

 

しばらく恵ちゃんとのLINEの間が空く。

 

『今さっき、夕子ちゃんから写真が来ててね……』

 

『?』

 

『何で正くん、首にスライスレモンなんか貼ってるの?』

 

あた~っ。

 

やはりやられたか。

恐るべし、こずえちゃんと夕子ちゃんのコンビ。

 

『合宿の記録写真としかカキコないけど……』

 

『それね……、虫みたいのに刺されて……』

 

『本当?』

 

『ああ……』

 

『そう、確かに医者の叔父さんから聞いたことがある』

『蚊とかに刺されたかゆみ止めに、レモンやライムジュースでかゆみを止めることができるって』

 

助かった。博学の恵ちゃんで。そうじゃなきゃ、首にレモンを貼っている姿なんて、他人にどう説明すればいいやら。

 

『そうそう。僕も医学部の子達にそれ聞いてね。それで貼ってる』

 

『でも正くん、よっぽどの虫刺されでもすぐに治って、かゆみどころか赤みもすぐ引く体質じゃない』

 

『いや……、それが多分、よっぽどの強力な虫だったんだよ』

 

苦し紛れに説明する。

 

『その虫に会ってみたいわね』

 

一瞬、ドキッとする。

 

こずえちゃんだなんて、こ、の字も出せない。

 

『まあいいわ』

『それじゃ、名古屋でねっ!』

 

『うん。名古屋でね』

 

「おい正。これから合奏する四楽章の、練習番号52から最後までのところだけパート練習しておこう」

「55から59のハイトーンの旋律の、交互に休み休み入れ替わるタイミングを取るところを中心に」

 

「ああ、ちょっと待ってて」

 

キスマークの跡を鏡で深く見つめる。確かに、もう赤みはほとんど消えている。これなら、何もせずに恵ちゃんに会っても大丈夫。

 

一応念のために、スライスレモンは貼っておく。

 

「正。調子いいじゃん」

 

心がほぼ晴れたお陰か、演奏が精緻に上手くいく。

 

いきなりこずえちゃんと夕子ちゃんが練習部屋に入って来て、僕らの練習風景の写真を撮る。

 

「正。調子いいじゃん」

 

そう言って、こずえちゃんが不気味に笑う。余計なことをしなければいいけど……。

 

ピンポーン。

 

練習中にLINEの着信。恵ちゃんからだ。

 

サッとスマホをポケットから取り出し確認。

 

ただ一言だけ。

 

『正。調子いいじゃん』

 

 

ーーーーー

 

 

「よっぽど強力な虫の正体」

「恵先輩に教えてあげましょうか?」

 

こずえちゃんが、合奏の準備をしている僕のところにニヤニヤして駆け寄ってくる。

 

「なんで、その言葉知ってる?」

 

「いや、恵先輩からLINEが来て、正先輩を刺した虫に会ってみたいというから、私ですよと返信すると、それなら強力なはずだ、というコメント」

「そのあとすぐに連絡が途絶えて……」

 

だから恵ちゃんから、『調子いいじゃん』と……。

こずえちゃん、やはり余計なことをする。

 

「なんだ、もう間接的に教えたんじゃない」

「全く……」

 

「いいかい、こずえちゃん」

 

「話がややこしくなるから、恵ちゃんには、もう何も連絡しないでいておいてね」

 

「この手の話は、ややこしくなった方が面白いんです」

「単に、私のキスマーク消しプロジェクトだったという事だけでこの事件、終わらせてはつまりませんから」

 

「何で? 原因はもちろん、ホントにそのこと自身がバレちゃ困るんだよ」

 

「困った時は、お互いじゃま」

「キスマーク消しプロジェクトがバレるのは、もう時間の問題です」

「もっと面白く話を展開しないと」

 

「?」

 

「刺されたのは正先輩だけではなくて、実はこの私、こずえも刺された……」

「お互いに、刺して刺されて永遠の恋……」

「私も、刺されたトコロに再び潤いを……」

 

「いやっ! いやらしい話しになりそうです!」

 

「あのさ、勘弁してよ」

 

「恵ちゃんはその手の話は絶対信じないけど、オケや研究室中に噂が広まって、取り巻きで話しが枝葉に及ぶんだよ」

「僕にはその説明責任があるけど、恵ちゃんはこの問題についてなんら関係していない」

 

「恵ちゃんに、余計な迷惑がかかるんだよ」

 

「恵先輩が、見て見ぬ不倫、許してくれるかどうか? それが面白いんじゃないですか」

 

カラカラとこずえちゃんが笑う。

 

「もう迷惑はかかりはじめてますよっ!」

 

夕子ちゃんもトコトコやってくる。

 

「正先輩、恵先輩に先ほどのパート練習風景とともに、アップで撮った正先輩のスライスレモンが張ってある首の写真」

「ばっちりと、恵先輩に贈っておきましたよ」

 

スライスレモンが特効薬で、ほぼ赤みはとれたが、逆にその姿が皆の興味を引いて強く印象に残る格好になってしまっている。

 

「スライスレモンの写っている写真のカキコは、純愛はレモンの味、です」

 

「何が妖精のような18の乙女の心をゆり動かしたのでしょうか……?」

 

副題で、そうも書いておきました。

どこにも、キスのことなど書いておりません。

 

「あのさ……、もう、ここまでくるとキスマーク消しがバレてもいいから、皆んなこれ以上、下手に騒がずにいて頂戴よ」

「何より僕、今日、恵ちゃんに会うんだからね」

 

「正先輩ひとりで何とかなります?」

「絶対、私たちの助けが必要になりますよ?」

 

「ひとりで何とかなるよ」

 

ピンポーン。

恵ちゃんからのLINE。

 

『どうしたの?』

 

『正くん、何か艶っぽい事件に遭ったみたいだけど……』

『まあ、こずえちゃんや夕子ちゃん達に聞けばわかるか』

 

LINEはここまで。

 

「ねっ、正先輩」

「私たちの力が必要でしょ?」

 

「ああ……、仕方ない。そうなるかも……」

 

「女同士も絡まないと、この手のはなしはややこしくなるんですよっ」

 

「事件を起こして、ややこしくした張本人は誰なの?」

 

「いいかい。頼むよ」

「無理とは知っているけど頼むよ」

 

「とにかく、キスマークができたアクシデントに枝葉をつけない事」

「キスマークを消すプロジェクトについては……」

 

「プロジェクトについては?」

 

「おい、正、こずえちゃん達、合奏だよ」

 

「はいはい」

 

こずえちゃんは舌をだして、トコトコと歩いていき、バイオリンパートの自分のイスに座る。

 

「正、心配するな」

「恵ちゃんはちょっとやそっとで、突っかかってくる女史じゃない」

 

隆が僕を慰めてくれる。

 

「まあ、事件はいずれバレてしまうんだし、なるようになるさ」

 

水野は他人ごとみたいに僕をあしらう。

 

さて、第四楽章が、強烈なシンバルの響きとともに開始される。

 

「さて、終わった、終わった」

「正。今の四楽章の動画送るね」

「頭で復習しておいて」

 

隆が今さっき終わったばかりの練習の動画を僕のスマホに転送する。

 

「正の出来も良かったから、恵ちゃんにも送っておこうか?」

 

「いや。首にスライスレモン貼ったままの合奏の姿なんて見られたくないよ」

「ホルン全員で立ち上がるところ、その目立つところでも、僕、首にさ……」

 

「正先輩。上出来でしたね」

 

こずえちゃんが僕のところにやってくる。

 

「早速動画を恵先輩に送っておきました」

「ありがとうという返事でした」

 

やっぱりこずえちゃん達はやらかしてくれる。

 

「あのさ、交響曲の最後のきらめくような盛り上がり、最後に僕たちが勇ましく立つところ」

「なんで首にレモン? 誰が見てもおかしいと思うよ」

 

「私たちは、おかしいとは思いませんが……」

 

「それがもう、おかしいの始まりなんだよ」

 

まさか? と思い、急いでビデオの最後のホルン全員で起立している部分を確認する。

 

予想通り、起立している僕たちの動画のピントが、これでもかと言うくらいアップで何回も僕の首元に当てられている。

 

「誰? これ撮ったの」

 

「ハミデです」

 

「ハミデ?」

 

「尾崎くんが?」

 

「はい。本来、合宿の記録係りの紀香ちゃんだけの動画で良かったんですが、OBの命令でハミデも撮ったそうです」

 

「すなわち、今回の練習の動画は、紀香ちゃん撮影版とハミデ撮影版の二つがあります」

 

「恵ちゃんに送ったんだ……、よね……?」

 

「はい。でも、どちらの版かは、こずえ、まだ確認しておりません」

 

 

ーーーーー

 

 

「さて。楽しい楽しい昼食の時間です」

「皆さん、お手手は洗いましたでしょうか?」

 

「あれ? こずえちゃん、午後から正がいなくなるというのに明るいぞ」

 

OBが首を傾げてつぶやく。

 

「本日のランチは、特上ヒレカツ丼か特製味噌ラーメンになります」

「お好みの方をチョイスして召し上がって下さい」

「お悩みの方は、両方食べてもOKです」

 

「私こと、こずえは、丼だけ~! にします」

 

「お手、おまわりも自由です」

 

「おかわりでしょ!」

 

みどりちゃんが咳払いをする。

 

「俺は両方食べる。おかわりもする」

 

水野は張り切って答える。

 

「正先輩も水野さんのように、恵先輩とこのこずえ、両方食べてもいいんですよっ!」

 

「どこでそんな風に、公衆の面前で昼食メニューと要らないややこしい話を結びつける?」

 

僕は隆に問いかける。

 

「まあまあ、正。無視しなよ、無視」

 

隆と里奈ちゃんが微笑んで答える。

 

「事務連絡ですが、この昼食を持って、ここまで私たちを暖かく見守ってくれましたOBの方々とはお別れになります」

 

オケのメンバーが大きな拍手を贈る。

 

「OBの皆さん、立ち上がって下さい」

 

OB達が立ち上がる。

拍手の音量が高まる。

 

「どなたか代表で、私達にお別れの挨拶を」

 

「じゃあ」

 

一番長老の社会人4年生のOBが前に出てもう一つのマイクを握る。

 

「卒業してから4年間、毎年この夏合宿に参加させてもらいましたが、こんなに楽しい合宿は初めてです」

「ふんだんに、酒あり、芸あり、話題あり」

「何より、こずえ嬢の登場はセンセーショナルでした」

「彗星のごとく現れた天使、とでも形容しましょうか」

 

「あら、嫌だ」

「OBさん達は本当に感じたままの言葉をおっしゃって」

 

こずえちゃんが、持っているマイクで、フフフと上品ぶって笑う。

 

「正はこの四年生になるまでは、真面目で目立たず、普通のいい子でしたが、ここに来てこずえ嬢に遊ばれる」

「下手なパロディドラマを見るより、よっぽど面白い」

「正にとっても、嬉しい合宿になっていると思います」

 

僕は全然嬉しかない。

恵ちゃんへの、このややこしい合宿での出来事の説明責任はどうする?

 

「正とこずえ嬢の行く先を最後まで見届けたかったのですが、致し方ない」

「ここで我々は、いざ、さらば」

 

「OBの皆様、ご安心ください」

「大丈夫ですよ」

 

「私と正先輩の合宿での行く末は、随時記録係の夕子が責任持ってOBの皆様に配信して参ります」

「ハミデさんにも協力してもらいます」

 

おいおい、そんな事までする?

いつ決まった?

 

記録が配信されるとすれば、下手をすると、併せて恵ちゃんにも僕らの珍事が配信される。大樹や義雄、歩ちゃんにも拡散する。

 

「さて、ただのお別れのご挨拶だけでは何か物足りないものがあります」

「ここでお別れ芸として、OB様達に歌をお願いいたします」

 

「歌? 俺たちの持ち芸の替え歌か?」

 

「いいえ、違います」

 

「知床旅情です」

「実はこの歌は、正先輩達の持ち芸として、伊豆にて初演されました」

「すなわち、歌に踊り子が付きます」

 

「この踊りの振り付けを知っている、私こずえ、夕子ちゃん、紀香ちゃんのスペシャルメンバーでOBの先輩方の歌に合わせ、バックで踊らせていただきます」

 

「そして、正先輩にも、ここで踊っていただくことになります」

 

ホテルの従業員が、カラオケマシーンのスイッチを入れる。

 

「なんで僕?」

 

僕はイスにふんぞり返る。

 

「さあ、昼食時間がなくなりますよ」

「正先輩、早く! 早く!」

 

記録係のハミデがもうビデオカメラを回している。

 

「もう、撮影は始まっているんですよ」

「正先輩! 早く!」

 

仕方ない。

 

僕は重い腰を上げ、前に出る。

知床旅情のイントロが大ボリュームで食堂に流れる。

 

「それではまいります、知床旅情!」

 

こずえちゃんはマイクを置き、踊り子を演じ始める。

仕方ない。僕も位置につく。

 

「しが~こうげんの頂きに~、ハマナス~の咲く頃~」

 

OB達のこぶしの効いた力強い歌い出し。

こずえちゃんは、両手を丸め頰に当てハマナスの真似をする。

夕子ちゃんと紀香ちゃんが満面の笑みで僕らの輪に入る。

 

僕らは精一杯、キラキラとこずえちゃんに向かって手のひらを動かす。

 

「おも~いだ~しておくれ~、俺たちのこ~とを」

 

今度は皆でOBに向かって手のひらを、キラキラ動かす。

 

「飲んでさわ~い~で~、宴会で踊れば~」

 

オケのメンバー達にこの余興が受ける。

こずえちゃんのコミカルな動きに、笑い声が混じる。

 

「忘れちゃ嫌だ~よ~、気まぐれメンバーさ~ん」

 

「私を~泣か~すな~」

 

「赤いキスマークよ~、赤いキスマークよ~」

 

こずえちゃんが、キスマークを付ける振りをしてコミカルに宙を舞う踊り。

曲が終わると食堂はもう拍手喝采の嵐。

 

「こずえ、目が売る売るしてきました」

 

「こずえちゃんなら、俺たち買うよ~!」

 

OB達も、この予定だにしていなかったサプライズ芸に入ることができて大満足。

 

僕にとっては、また恵ちゃんに知らされる余計な記録が増えただけ。

 

 

ーーーーー

 

 

「さて。今日の昼食はいかがでしょうか?」

「この後、練習を二日半もサボる輩がおりますが、そんな正先輩はさておいて、良い子の皆様への午後のスケジュールの連絡です」

 

「実名を出すなって」

 

僕は一人つぶやく。

 

「午後1時半から3時までは、マーラーの1、2、3楽章の合奏と、アンコールのチャイコフスキー、花のワルツの合奏です」

「本合宿では、ハープのエキストラさんが来られないため、ハープ抜きで練習します」

 

「うまい具合に正先輩はアンコールでは降り番ですので、足を引っ張るプレーヤーも抜きで練習します」

 

一年生のバイオリンの子たちの席で、ププッという笑い声が聞こえる。

 

「そこまで言う」

 

また僕は、一人でつぶやく。

 

「そう、隆先輩のホルンが奏でる美しい旋律が楽しみですね」

 

「その後、午後3時半から4時半まではマーラーの4楽章の合奏、4時半から5時半までは、魔法使いの弟子の合奏です」

 

「小夜コンはいつも通りの7時から」

「はじめにチェロパートによるサン=サーンス、白鳥など」

「次に、金管五重奏、情熱大陸のテーマ曲など」

 

「情熱大陸では、特にチューバの音の動きにご注目ください」

「すごいですよっ!」

 

「最後は小編成オケによる、ストラビンスキーの兵士の物語です」

「朗読音楽劇です。お楽しみください」

 

「こういう、見て聞いて演奏して、お互いの技量を高め合う素晴らしい小夜コンのある日なのに、一番それを聞いて勉強しなければいけないはずの輩がおりません」

「普段のキャンパスでの練習のように、ズラかるのだけが得意です」

 

「フフフ」

 

あちこちで笑いが起きる。

 

「後、OBのお見送りですが、この後すぐ、11時50分、ホテル玄関前集合です」

「ズラかる輩もどさくさに紛れて車に同乗するらしいです」

 

「おいおい。正はもう他人事かよ」

 

隆も水野も笑う。

 

「あかねさす紫野行き標野行き……野守は見ずや君が袖振る」

 

「ああ……。実は、そのズラかる輩が私のリーベだなんて……」

「こずえ、何という波乱にまみれた人生なんでしょう……」

 

「やっぱ、正の話が始まるか」

 

水野が腕を組む。

 

「紫草の生えた野を行き、標野を行きながら……、見張りが見やしないか、いや、見てしまうでしょう」

「あなたが、あっちへ行きこっちへ行きながら私に袖を振るのを」

「歌を詠んだ、額田王の気持ちがよく分かります」

 

「今は恵先輩と付き合っているけれど、正先輩は、実は私に気があって、袖を振って好きだと伝えてくるわ」

「そんなあちこちで私に袖を振っていたら、見張りの人がこれをみて、秘めた恋がばれてしまうじゃない……」

 

「あのさ、こずえちゃんの解釈逆じゃねえ?」

 

隆がつぶやく。

 

「二人の男性の狭間で揺れ動く一人の女性の心の歌だろ?」

「一人の男に二人の女が関係する歌じゃない」

 

「さて、僕は荷物を取ってくるよ」

「名古屋行きの電車に乗り遅れちゃ困るからね」

 

OBも僕と一緒に部屋に向かい、玄関に止めた3台の車に、めいめいの荷物を積み込む。

 

「?」

 

ハミデこと尾崎くんと森本くんが、急いで二年生部屋に駆け込んで行く。


ホテルの玄関前は、オケのほぼ全員のメンバーで埋め尽くされている。ホテルの従業員も見送りに参加してくれる。

 

こずえちゃんが、メガホンを手に持ちアナウンスを始める。

 

「それでは皆さん。お世話になったOBの方々を拍手で見送りましょう!」

 

みんなは拍手喝采。

口笛も、ピューピュー飛んでいる。

 

いきなり、ハミデと森本くんが、メンバーの山をかいくぐって登場する。例の銀色の上下、Tバック水着で僕たちの車の前に立つ。

 

その後、ラジカセの大音量。

ピンクレディーの透明人間のイントロが始まる。

 

「タタタタタタタタター。タタタタタタタタター」

 

「タタタタタタタタ、タタタタタタタタター」

 

「まさかと思っているのでしょ~うが~」

 

「実は実は正は、透明人間、な~の~です~」

 

何で僕の名前?

 

「世間をさわがす不思議なこと~は~」

 

「すべては透明人間なのです~」

 

二人のコミカルな踊りが上手い。


オケのみんなも手拍子、足拍子しながら盛り上げている。

 

「これ、正への嫌がらせの歌じゃねぇ?」

 

隆がつぶやく。

 

「と~め~にんげ~ん、あらわるあらわる~」

 

「と~め~にんげ~ん、あらわるあらわる~」

 

「うそ~を言っては困りますぅ~」

 

「あらわれないのが、と~め~にんげ~んですぅ~」

 

「消えますよ~」

 

「消えますよ~」

 

「消えます! 消えます消えます! 消えます……」

 

OBを乗せた先頭の車が動き出す。

 OB達は、皆んなに手を振る。

 

こずえちゃんは、2番の歌詞をメガフォンで歌い出す。


夕子ちゃんはビデオでこの風景をしっかりと記録している。

 

「と~め~にんげ~ん、あらわるあらわる~」

 

「と~め~にんげ~ん、あらわるあらわる~」

 

「むちゃ~を言っては困りますぅ~」

 

「捕まらないのが、と~め~にんげ~んですぅ~」

 

「消えますよ~」

 

「消えますよ~」

 

「消えます! 消えます消えます! 消えます!」

 

2台目の車と、僕を乗せた車もホテルを後にする。

 

振り向けばオケの皆んなは僕たちに、見えなくなるまで、ちぎれるほど手を振る。

 

 

第106話

 

「さっ! 正先輩。また宴会に戻りましょ!」

「ただその前に、キスマークのところに、また新しく絆創膏貼っておきますね」

 

こずえちゃんがニコニコして僕に言う。

 

「誰にどこで気づかれるか分かりませんから……」

 

「ああ……、分かった」

 

僕は右の首筋を出し、こずえちゃんに絆創膏を貼ってもらう。

 

「よう、正」

「首、どうした?」

「絆創膏なんて貼っちゃって」

 

やばい。OBが僕に問いかける。

 

「いや……、ちょっと、外で虫に刺されて」

 

「こずえちゃんに刺されたんじゃないのか?」

 

僕は一瞬、ドキンとする。

 

「まあ、違うわな」

「刺すのは男、正の方だもんな」

 

OBはカラカラ笑う。

 

「いや~、実は……」

 

こずえちゃんがため息混じりに話し始める。

 

「正先輩に、外で刺されまして……」

 

「え~っ!  外でか? 生でか?」

 

OBたちは、まさかと言うような顔をして目をまん丸くする。

 

「正も何だかんだ言ってやる時、やる事やるんじゃないか」

「本当にこずえちゃんを刺したんか?」

 

「するはずないでしょ。常識で外でなんか」

「中ならともかく……」

 

OBは酔っ払っている。

 

「何? 中に出した?」

 

大きく勘違いして僕の言葉を解釈する。

 

「オイオイ、それ。大ニュースだぞ!」

 

「あの……、そんなことしませんって」

 

「わかるでしょ?」

「違うよね、こずえちゃん?」

 

僕は、してはいけないと思いながら、こずえちゃんに確認をとる。

 

「私の上の口からは何も言えません……」

 

「きっとお酒のせいでしょうか……」

「正先輩に、前後深く、にされました」

「恥骨に寄ってきたから、いいでしょ? と」

 

こずえちゃんは、意味深な顔をしてうつむく。

 

「近くに寄ってきたのは、こずえちゃんの方でしょ?」

 

後悔先に立たず。こずえちゃんに聞かなきゃ良かった。OBたちは、余計僕らに興味を持つ。

 

「おい正。絆創膏に書いてある矢印の下のところ、薄く赤くなってるぞ」

 

「えっ?」

 

「何だ……、そのキスマークみたいなの……」

 

「いや、それは……、何でしょう……?」

 

僕はボケてみせる。

 

「絆創膏、剥がしてみろ」

 

仕方ない。僕はOBの言う通り、矢印付きの絆創膏を剥がす。OBがマジマジと僕の首をみる。

 

「絆創膏の貼ってあったところは何ともなっていないぞ」

「貼ってあったところの下側が赤いんだ」

 

僕はこずえちゃんの顔を見る。

こずえちゃんはニンマリと、してやったりという顔をしている。

 

やられた。

 

「正よ。刺したか刺されたか分からないけど、コレはこずえ嬢と何も無かった訳じゃないな」

「まあ、話を聞かしてくれ」

 

ああ……。こずえちゃんにハメられた。

 

「一から話しますか? 十だけ話しますか?」

 

「十だけでいい」

 

OBが僕たちに笑みをこぼす。

 

「コレは……、こっ、こずえちゃんのキスマークです……」

 

「お~っ!」

 

宴会に残っている、一年生男子を含めた20人くらいが僕とこずえちゃんに拍手をする。

 

こずえちゃんは余計なことに、深々とお辞儀をする。

 

「あのさ~正」

「明日からモノホンの彼女と会うというのに、何てザマなんだ?」

 

OB達が少し僕に同情してくれる。

 

「おう、皆んな」

「正のキスマークを明日の午後までに消すプロジェクトを始めようじゃないか!」

 

時計の針は深夜1時近い。

 

皆んな、特に一年生男子は眠たくてしょうがない。しかし、OBには逆らえない。

 

「医学部、森本」

 

「はい」

 

さっきUFOの芸を披露した森本くん。

 

「キスマークの消し方ググれ」

 

「冷やしたらいいのか、温めたらいいのか全く分からん」

 

医学部の森本くんはさすが医学部、まずはググらずに話し始める。

 

「コレは軽い内出血ですから、冷やさずに、まずは血液の循環をよくするため、蒸しタオルなどで温めるのがいいです」

「運良く、キスマークが薄い、すなわち内出血の程度が軽いので、十分に温まった後にゆっくりと揉めばかなり消えるかもしれません」

 

「あと、ググると、馬油、あるいは馬油を含んだクリームを赤みのところに塗り込めば、劇的な変化で消えることも考えられます」

 

「よし! 分かった」

 

OBが納得する。

 

「ナースは? ナース」

 

「里奈ちゃんが看護学部ですが、さっき隆と部屋を出て帰りました」

「一、二年生女子部屋の看護学部の子は、もう寝ています」

 

僕がOBに答える。

 

「まあ、誰でもいい」

 

「一年生。誰でもいいから蒸しタオルを準備してこい」

 

まだ部屋に残っていた夕子ちゃんが席を立つ。

 

「こずえちゃん。こずえちゃんもよっ」

 

夕子ちゃんがこずえちゃんに話しかける。

 

「はいはい」

 

こずえちゃんは、この問題の張本人なのに、面倒臭そうに返事をする。

 

「誰か、馬油持ってないか?」 


「あの……、正先輩は馬並持っていると聞いてますが……」

 

誰もこずえちゃんの話を聞かず、部屋はシーンとする。

 

「おい、ハミデ」

 

先のUFOの芸で、大事な袋が水着からはみ出ていて、あだ名を命名されたばかりの尾崎くんがOBに声をかけられる。

 

「はいっ!」

 

「下の毛と違い、頭の毛が薄いようだが、何か髪や頭皮の為に使っているリキッドかなんかないか?」

 

「一応、使っているものがありますが……」

 

「調べてみろ」

 

「はい……」

 

尾崎くんは頭皮用のリキッドの内容成分を見つめる。

 

「残念ながら、馬油成分は、含まれていないようです」

 

「そうか……」

 

「あっ! そうだ!」

 

「小原先輩が、確か頭皮に馬油成分の含まれているリキッドみたいのを持っているはずです」

「僕、紹介されたことがあります」

 

「確かに、小原、生え際が薄いからな」

「起こしてこい」

 

「えっ! 今からですか?」

 

「ああ、今だ」

「今じゃなくて、いつやる?」

 

OBが尾崎くんに指示する。

 

尾崎くんは、渋々隣の二年生男子部屋に向かう。

 

尾崎くんと入れ替わりで、夕子ちゃんとこずえちゃんが、洗面所の熱湯で、蒸しタオルを準備してきた。早速、夕子ちゃんが僕の首に蒸しタオルをつける。

 

「正先輩。このことは恵先輩には内緒にしておきますからね」

 

僕に優しく耳打ちする。

 

「ああ、ありがとう」

 

「患部が十分に温まってきたら、少し強めに揉むといいですよ」

 

医学部の森本くんがアドバイスをくれる。

 

「キスマークは患部ですか?」

 

こずえちゃんがふくれっ面をする。

 

「寝る前に、メディナースHP軟膏を塗りましょう」

「救急箱に入っていますから」

 

尾崎くんが戻ってくる。

 

「先輩、小原先輩から、馬油入りリキッド借りてきました」

 

「ハミデ。でかした」

 

「じゃあ、蒸しタオルで赤みを取り、その馬油リキッドを十分塗り込んだら、その上からメディナースHP軟膏を塗ろう」

 

「ああ、私のリーベが……、私をみるとすぐに腹の下を伸ばしてしまうリーベが、元の姿に戻ってしまう……」

 

「誰が、こずえちゃん見て鼻の下を伸ばしてる?」

「僕じゃないよ」

 

僕は少し、こずえちゃんに辛く当たる。

 

「こずえ、この恋に成功だけしたいわけじゃないの。今の瞬間を楽しみたいだけ」

 

「恋することは苦しむこと……。苦しみたくないなら、恋をしてはいけない」

「でもそうすると、恋をしていないことでまた苦しむことになる」

 

「ああこずえ、どうすればいいのでしょう?」

 

「今のこずえ、戸惑えば戸惑うほど、それは正先輩に恋しているということの証を……」

 

OBが笑う。

 

「こずえちゃん。正への恋のマイブーム」

「おおよそマイブームって時代遅れになるものだよ」

「まあ、時間が解決するさ」

 

僕の首が十分に温まってきた。

 

「はい、正先輩、これ手鏡」

 

夕子ちゃんが手鏡を渡してくれる。

 

赤くなっている部分を、少し強めに揉む。

しかし、時計の針はもう深夜1時過ぎ。正直眠い。

 

「あと一回、蒸しタオルで温めてマッサージしたら、馬油のリキッドを塗り込んで、軟膏塗って僕寝ますよ」

 

「正先輩、寝るんですか?」

 

「ああ。もう深夜だよ。当たり前」

 

「こずえは寝ないです」

 

「どうして?」

「眠くないの?」

 

「現実が夢より素敵なんです。恋に落ちると眠るのは損です」

 

 

ーーーーー

 

 

「何だか赤みが引いてきたな」

 

OBがまじまじと僕の首筋をみて話す。

 

「この患部なら、うまくいけば明日中に消えることも考えられますね」

 

森本君は医学部生に似合う言葉と仕草でうなずく。

 

「あの……、患部という言葉はちょっと違和感あります」

 

こずえちゃんが小声で不服を唱える。

 

「こずえちゃん、タコのように思いっきり長い間、正の首に吸いついた訳じゃないでしょ?」

 

森本くんが問いただす。

 

「さあ……。覚えておりません」

「ただ、口づけよりも短かったことだけは確かです」

 

「キスもしたのかよ? なあ、正」

 

OBが僕に確認する。

 

「そんなことしてませんよ」

「こずえちゃん。ちゃんと説明し直して」

 

「はい……」

 

「正先輩とは、キスよりすごい事もしました」

「あの時の声の大きさを思い出すと、相当揉んでいました」

「酔いに任せて、チューと半端なエッチをして……」

 

「これでいいですか?」

 

「中途半端に揉めていたんでしょ。嘘はダメ」

「何もしていないでしょ? 僕たち」

 

「まあ今更いい。その話はどうでも」

 

OBが僕らの話を遮る。

 

「また、蒸しタオル準備してきてくれ」

 

OBが夕子ちゃんに蒸しタオルを頼む。

 

キスマークを消すプロジェクト。皆んなの面白味と真剣味が僕に伝わる。まあ、僕にとっては怪我の功名というかありがたい。

 

ただこずえちゃんだけは、残念そうな顔をして夕子ちゃんについていき、蒸しタオルを持って帰ってくる。

 

時計の針が1時半を指す。

 

「正の二度目の処置が終わったらお開きにするか」

 

「その……、処置という言葉もちょっと違和感あります」

 

こずえちゃんがまた小声で不服を言う。

 

温めては揉み、揉んでは温める。

 

「おい、随分赤みが薄らいできたぞ」

 

OBが僕の首筋をじっと見つめる。

 

「そろそろ馬油のリキッド塗り込みましょう」

 

森本くんが優しい手つきで、キスマーク の赤みのところにリキッドを塗りこむ。そしてその後、メディナースHP軟膏を塗ってくれる。

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

何とか十分な処置をしてくれた。

 

今できる、最大限の処置。

 

「さて、お開きにするか」

 

OBの声を聞き、一年生男子はホッとして布団を敷きはじめる。

 

「おやすみ」

 

「おやすみなさい」

 

こだまのように部屋で声が交わされる。

 

僕は自分の部屋に戻る廊下で、こずえちゃんと夕子ちゃんに呼び止められる。

 

「キスマーク 時の濃いめの赤みの写真、撮っておけば良かったですね」

「もう随分と赤みが目立たないくらい薄くなりました」

 

「写真がなくて結構だったよ」

 

「まだ遅くないです」

「今の状況、撮りますか?」

 

「勘弁してよ。万が一、恵ちゃんに送られないとは限らないんだから」

 

「あら? 私たちそんな姑息な真似、しませんよ」

 

「じゃあ、何に使うの? その写真」

 

「合宿係の記念写真の一つとして」

「真夏の夜の夢、消えていくキスマーク……」

「時計の針がちょうど虹(2時)を指す、とか表題をつけて」

 

「それしたら、遅かれ早かれ、完璧に恵ちゃんにバレるじゃない」

 

「それはそうですけど……」

「面白いから」

 

こずえちゃんも夕子ちゃんもカフフッと笑う。

 

「あのさ。余計なことして、余計な手間かけて、そして余計な記録取るわけ?」

 

「仕事ですから」

 

僕も、まともに相手をしていられない。

 

「じゃあ、寝るからね。おやすみ」

 

「おやすみなさい」

 

僕はようやく眠りについた。

 

 

ーーーーー

 

 

僕は朝一でトイレの鏡を覗きにいく。

 

ラッキーだ。キスマークの跡は、ほとんど目立たない。

 

自分の生まれ持った体質から、内出血やあざなどが引くのが早い。これなら恵ちゃんにも、仮にバレても虫刺されだと説明できるレベル。

 

いや。でも、油断大敵。

 

自分の目が赤み度合いに慣れたのかもしれない。

僕はキスマーク に馬油リキッドを再び塗り込み、その上で軟膏をつける。

 

「皆様、おはようございます!」

 

「おはようございます!」

 

こずえちゃんが、朝食前の朝礼のマイクを握る。

 

「昨晩はゆっくりとお休みいただけましたでしょうか」

「私ことこずえは、正先輩のとある事故の処置で深夜遅くまで介抱しておりました」

 

「そのため、少し、おネムです」

「びっくり、まんチョコを食べていたのに、おま毛を見る暇もありませんでした……」

 

どこの口からそんな嘘八百の言葉が出てくる?

何より、オケのメンバー全員にアナウンスしなくていい出来事なのに。

 

「事故ってな~に?」

 

知っててOBがこずえちゃんに聞く。

 

皆んなじっと構えてこずえちゃんの反応を伺う。

 

「正先輩が草にかぶれたようです」

「でも、その草はとても愛らしく優しい、妖精のような正先輩思いの草です」

 

「なんていう草?」

 

OBがまたからかう。

 

「草の名前……、ですか……」

 

「そうそう。なんていうの?」

 

「その草の名前は、恋草」

 

「恋の思いが激しく燃え上がる、その心に生い茂っている草」

「世界中の草の葉が舌であっても、こずえの想い、語り尽くすことはできません」

 

ヒュー、ヒュー。

 

こずえちゃんの反応に、口笛と拍手が飛ぶ。

 

「こずえ嬢、朝から飛ばしてくれるな」

 

隆と水野も面白がる。

 

「ああ、愛しき私のリーベ」

「正先輩は、その恋草の印を首にまとい、今日の午後から名古屋へと旅立ちます」

 

「瀬を早み、岩にせかるる滝川の、われても末に逢はむとぞ思ふ」

「川瀬の流れが速いので、岩にせきとめられる滝川の水が、いったん分かれてもまた一つの流れになるように、今二人が別れても、また未来にきっと会おうと思うよ」

 

「ああ、なんて素晴らしい和歌」

「われても末に逢はむとぞ思ふ……」

 

こずえちゃんが不意に下を向く。頰につたう、ポロリ、ポロリと大きな涙。

 

本当に心から出ている言葉なんだ……。

 

 

ーーーーー

 

 

「泣くな、泣くなこずえちゃん」

 

「正のように、蚊に刺されたくらいの内出血で騒ぐ肝っ玉の小さい男は無視しちゃえ」

 

OBが変な言い方でこずえちゃんを慰める。

 

「金たまの小さい男……、ですか?」

 

こずえちゃんは、肝っ玉と金たまを聞き間違えてる。

 

「プハーッ! ガハハハハ!」

 

食堂は、笑いの渦に巻き込まれる。

ホテルのスタッフも大笑いしている。

 

「私、泣いてるんですよ?」

 

「もういい、もういい!」

 

「こずえちゃん。今はとにかく喋らないで」

「こずえちゃんの声を聞くと、お腹がよじれる」

 

OBたちは、笑ってはいけないと知りながらも、大声で笑う。

 

こずえちゃんが、落ち着いた小さな声で僕に問いかける。

 

「あの……、正先輩、馬並なのに金たま小さいんですかぁ?」

 

「頼むよ! もう喋るな! 何も……プハーッ! ハハハ!」

 

みどりちゃんが、慌ててマイクをこずえちゃんから奪う。

 

「さて、皆さん。朝の事務連絡は食事中に行います」

 

みどりちゃんの澄んだ声を聞いて、食堂は一旦静かになるが、所々で、ププッという笑いの根は残っている。

 

「まずは朝食です」

「今日の朝食もいつもと同じバイキング形式です」

 

「今日のバイキングとは……」

 

「何? みどりちゃんも、バイキングとは、北欧の、から始まるの?」

 

OBがニコニコして問いかける。

 

「いえ、違います」

 

「今日は洋風バイキングとなります。和食派の方のために、ご飯、お味噌汁、漬物はございますが、それ以外は全て洋食のバイキングとなります」

 

「パンの種類が豊富にあります」

「クロワッサンがオススメだそうです」

 

「皆さん、いただきますをして楽しく食べましょう」

「いた~だきます」

 

「いた~だきます!」

 

「正。ずいぶん赤みが取れたな」

「もうそれ、キスマークだなんて誰も思わないよ」

 

隆が、フォークとナイフで器用に朝食のプレートをつつきながら僕に話す。

 

「そう? 良かった」

 

「昨晩、隆たちが帰ってから、僕のキスマーク を消すプロジェクトができて、一時間ほど、森本くんや皆んなに世話になったんだ」

 

「ああ、医学部の森本くんね」

 

「そうだ、朝食終わったら、同じ医学部の真弓ちゃんにも見てもらったら?」

「三年生で、知識も豊富だろうし」

 

「ああ。そうするよ」

 

「本当に、驚くほど赤みが取れたね」

「うまくいけば、午後過ぎまでに取れるかも」

 

水野がのしのしやって来る。

 

「水野、クロワッサン6個も持ってきてどうするんだよ?」

 

隆が水野を心配する。

 

「大丈夫。大丈夫。食えるよ」

 

「そうじゃなくてカロリー」

「それだけで、1,000キロカロリーはあるよ」

 

「ビックマックセットに匹敵する」

 

「いいのいいの。確か、クロワッサンは糖質が少ない」

「ガッツリ食べるよ」

 

クロワッサンと共に、高カロリーなウインナーやベーコン、アソートチーズなど美味しそうに頬張る。

 

「知らないからね、若いとは言っても中性脂肪とか糖尿病とか」

 

隆は半ば、呆れている。

 

「正先輩、おはようございます」

 

真弓ちゃんが僕のところにやってきた。

 

「里奈さんから聞きました」

「災難でしたね」

 

「何が災難なんですか?」

 

こずえちゃんが僕らの間に入り込んできた。

 

隆がおかわりをしていく間に、僕の隣にチョコンと座る。

 

「正先輩。患部には馬油もいいですけど、スライスレモンを貼っておくと、劇的に赤みが引く場合があるそうです」

「バイキングのところに、スライスレモンが置いてあったので持ってきましょうか?」

 

「ああ、頼むよ」

 

「なんでもいいから消えてくれという、藁にもすがる思いだよ」

 

「はい」

 

真弓ちゃんはスライスレモンを取りに行く。

 

「正先輩。真剣にキスマークを消すつもりですね」

 

こずえちゃんがつぶやく。

 

「冗談で消さないことにはならないでしょ」

 

「ホント、面倒なことになりましたね……」

 

「なんで、こんな面倒なことになったか、こずえちゃん自身が一番わかるでしょ?」

 

「こずえ、分かりません」

「自分の蒔いた種は、自分で刈らなければいけません」

 

「あのさ、これ、こずえちゃんが蒔いた種だよ?」

 

「愛する彼氏なら、キスマークの一つや二つ背おって生きている方が、女は男らしいと思います」

「姑息な手段をとってそれを消すなんて、金たまの小さい男、女の腐ったヤツみたいです」

 

「はいはい。でも僕には恵ちゃんしか見えないんだからしょうがないでしょ?」

 

「ズキ~ン!」

 

「朝の早よからのろけですか?」

「私に言ってはいけないNGワード。恵ちゃんしか見えない……」

 

「普通に恋人同士が会うんだかから、大したことないでしょ?」

 

「今日、その人に何日かぶりで会って、体位したことのない体位で抱き合う……」

「ああ……、神様……」

 

真弓ちゃんが席に戻ってくる。

 

「はい、正先輩。これ、スライスレモン」

「患部に貼ってあげますよ」

 

「だ・か・ら。なんで皆んな患部というんでしょうかね?」

「私は虫ですか?」

 

こずえちゃんがふくれる。

 

「ヒンヤリして気持ちいいね」

「ありがとう真弓ちゃん」

 

「いいえ」

 

「あと、また蒸しタオルとかで患部を温めて揉むことはしたほうがいいですよ」

 

「午前中の練習前に、馬油を塗り込んで、その後演奏中は温湿布もありますし、スライスレモンが良ければそれを貼るとかして対処しましょう」

「もう、この程度の内出血なら、半日くらいで赤みが完全に消えるかもしれません」

 

医学部三年生の言葉は心強い。なんだか、ほぼ完全に消えるような気がしてきた。

 

こずえちゃんは何を思ったか、僕の左肩にチョコンと首をのせる。

性格上、僕は振り払うことはできない。僕は固まる。

 

「正先輩。左の首にもキスマークつけましょうか?」

 

小悪魔の囁き。

 

「こずえちゃん、こずえちゃん!」

「早く事務連絡!」

 

みどりちゃんがこずえちゃんを呼びにきた。

 

助かった。

 

「はい、事務連絡を始めます」

「午前8時半から9時半までは、自主練習とパート練習」

「午前10時から11時半までは、マーラーの第四楽章の合奏です」

 

「今日は、個人練習やパート練習時に、首にタオルを当てたり揉んだりする輩」

「そして一見、頭がおかしくなっているような、首にレモンを貼って演奏したりする奇妙な輩が出現するかもしれません」

 

「ただ、その輩……」

 

「竿はともかく、金たまの小さい男のやる事ですから、皆んなで暖かく見守ってあげましょう」

 

「だから、それを言うなら肝っ玉でしょ……」

 

みどりちゃんが隣で赤らんでうつむく。

 

第105話

 

「た~だし先輩っ!」

 

こずえちゃんが僕にすりすり寄って来る。

 

「B型コンパ、来ますよね?」

 

こずえちゃんの上目遣い。

 

「どうしようかな? また、温泉にも浸かりたいし」

 

「ダメですよ! お酒の後の温泉なんて」

「事故が起きたら、ハトの祭りです」


「それ、お祝いごとみたいじゃない」

 

そうは言っても、確かにこずえちゃんのいう通り。ほんの少しの居眠りで、溺れたりしたらシャレにならない。

 

「まあ、明日は午後から名古屋への移動だけだけど……」

「僕はO型だし、B型コンパはOB……、なんか気が乗らなくって」

 

「じゃあ私に乗ります?」

 

「それもなんか……」

 

「アァ言えば挿入。ただし先輩の悪いくせです」

 

「誰も今までそんなことしてないじゃない。分かった、顔だけ出すよ」

 

「そう来なくっちゃ!」

 

こずえちゃんは、僕の手を引き、401号室に向かう。

 

「おう、正。いい身分じゃないか」

 

OB達が、こずえちゃんと僕が腕を組んでいるのを見てからかう。

 

「あれ? B型コンパ。集まりが悪いですね」

 

こずえちゃんがつぶやく。

 

確かに、初日、二日目と比べると集まりが少ない。あのせいだ。

 

「天真爛漫なB型らしからぬ集まりの悪さ……」

「401号室の場所は、B型の多い、二、三年女子部屋の毛と穴の先……」

 

「それをいうなら目と鼻の先でしょ」

「逆にB型だから、自由気ままで、皆んなどこかでブラブラしてるんじゃないの」

 

「そうかも知れません」

「どうしましょ……」

 

「太田」

 

「はいっ!」

 

「谷崎」

 

「はいっ!」

 

「誰でもいいから、人を集めてこい」

 

OBからの要望。断るわけにはいかない。二人とも、そそくさと部屋を出て行く。

 

10分くらいして、太田くんと谷崎くんが戻って来る。一年生の女の子達を数名連れて来た。

 

「でかした」

 

OBたちはご満悦。男や二、三年女子が集まって来ても、面白くないらしい。

 

「さて、皆様お待ちかねの、替え歌芸だぴょ~ん!」

 

OBが叫ぶ。

 

一応義理で、皆んな手を叩く。OBが三人並び、しんみりとした顔を作ろう。

 

「赤い靴、は~いてた、お~んな~のこ~」

「お~じさんにさ~わられ~て、いっ、ちゃっ、た~」

 

来たか、毎度毎度の下ネタ芸。正直、僕らも聞くのは辛い。四年間、合宿以外の宴でも何回も聞いている。

 

しかし、社会人三年生や五年生のOBたちには逆らえない。

 

「赤い靴 は~いてた お~んな~の~こ~」

「お~じさんにぬ~がされて、いっ、ちゃっ、た~」

 

「そこは首、そこは首、そ~こ~は~く~び~」

「もっと下、もっと下、も~っと~し~た~」

 

基本、誰も聞いちゃいない。でも、シーンと張り詰めた空気を保たなければいけない。手拍子もダメ。

 

OB芸は、僕らにとって辛い時間帯。

 

「そこは溝、そこは溝、そ~こ~は~み~ぞ~」

「もっと上、もっと上、も~っとうえ~」

 

「そこよそこ、そこよそこ、そ~こ~よ~そ~こ~」

 

歌はまだまだ続く。

 

「赤い靴 は~いてた お~んな~のこ~」

「お~じさんにさ~わられ~て、いっ、ちゃっ、た~」

 

「そこはへそ、そこはへそ、そ~こ~は~へ~そ~」

 

「もっとした~、もっとした~、も~っと~し~た~」

 

OB達は辛そうな声で歌っているが、聞いている方がもっと辛い。

 

「そこはもも、そこはもも、そ~こ~は~も~も~」

「もっと上、もっとうえ~え、も~っと~う~え~」

 

こずえちゃんが僕の耳元でつぶやく。

 

「目は閉じることはできても、耳は閉じることが出来ない……」

 

「そこよそこ~、そこよそこ~、そ~こ~よ~そ~こ~」

「もっとして~、もっとして~、も~っと~して~」

 

いやらしいところのフレーズを最後に、替え歌芸が終わる。仕方ない。義理で皆んなは拍手。

 

さすがのこずえちゃんも、義理拍手。

 

「正先輩。皆んなのいう通り、OBの替え歌芸、よくありませんね」

「股タタク間に酔いがさめてしまいます」

 

「ああ。分かってくれる?」

 

「分かります。毎年……、ですか……?」

 

「次、始まるよ」

 

「えっ? まだ、あるんですか?」

 

「ああ。お座敷小唄の替え歌。千葉県版」

 

「ズッチャ、ズズズチャッチャ、ズッチャ、ズズズチャッチャ」

 

「せがれ館山、毛は茂原~」

「いやよ、ちょいとと佐原せて~」

 

「千葉の女に銚子づき~」

「イエィ! その子は、安産が得意でよくデキルんだ!」

 

「できた子供は……、鎌ヶヤかまし~!」

 

「次、二番!」

 

「ズッチャ、ズズズチャッチャ、ズッチャ、ズズズチャッチャ」

 

こずえちゃんが僕のTシャツを引っ張り、廊下に出る。

 

「ゲスで下品だし、地名をギャグにしようなんてつまらないです」

 

「分かるでしょ。替え歌芸が不評だってこと」

 

部屋に戻ると、OBの替え歌芸は、皆んなのしらけムードの内終わっている。しかして、OB達はご満悦。僕らは皆んなホッとする。

 

「何か出し物ないか~」

 

OBが次の出し物をねだる。

 

「私、やりますよっ!」

「この澱んだ空気を変えるのは、アレしかないですます」

 

「待っててくださ~い! 練馬も惜しんで頑張りま~す!」

 

誰だよ、地名をギャグにしようなんてつまらないといった子。

 

「じゃあイキますね」

 

僕にそう言うと、こずえちゃんは席を立ち、一年生の女の子達のところへ行って何やらヒソヒソ打ち合わせ。

 

隆と里奈ちゃんが部屋に入って来る。

 

「終わった?」

 

「ああ、終わったよ」

 

二人ともOB芸を避けて会場に来た。女の子の打ち合わせも終わり、一人の女の子がラジカセを取って戻って来る。

 

スイッチオン。音楽が鳴り始める。

 

一年生女子、6人がボーリングのピンのように並ぶ。センターはまた、踊りの上手な夕子ちゃん。

 

「チャン、チャン、ワン・ツー・スリー・フォー!」

 

「I want you! I need you! I love you! 頭の中」

「ガンガン鳴ってるMusic! へビ~イ、ロ~テ~ション!」

 

AKBのヘビーローテーションだ。今度は皆んなも、満面の笑みで手拍子を始める。

 

やっぱり初々しい、一年生女子の歌と踊りは心地いい。さっきまでの空気を、木っ端微塵に打ち飛ばす。

 

「I want you! I need you! I love you! ハ~ト~の~お~く」

「じゃんじゃん溢れる愛しさは! へビ~イ、ロ~テ~ション!」

 

「もう、俺たちもローションプレイ、大好きだよ~! 一緒にしよう〜!」

 

OBたちは酔いすぎてローテーションとローションの聞き間違い。最高にノッている。隆と里奈ちゃんも、楽しげに大拍手。

 

いいよな……、隆と里奈ちゃんは、うまくOB芸を避けて来て。

 

「目は閉じることはできても、耳は閉じることが出来ないからね」

 

誰かさんと同じ言葉を、隆がつぶやく。

 

 

ーーーーー

 

 

「正先輩、どうでした?」

 

こずえちゃんが、芸を終えて、楽しそうに帰って来る。

 

「ありがとう。重苦しかった部屋の空気が、スキッと明るい雰囲気に変わったよ」

 

「でしょ?」

「ついでに窓も開けちゃいましょ」

 

真夏なのに少し肌寒い空気が部屋に入り込んで来る。

 

こずえちゃんは窓枠に手をかけ、じっと夜空を見つめている。

 

「正先輩」

 

「何?」

 

「一緒に外、行きませんか?」

 

「ああ、別にいいよ」

 

僕はこずえちゃんの後について部屋を出る。

 

「ああ! 素敵」

「お星様、いっぱいですね」

 

「うん。綺麗だ」

 

「星の数って、いくつくらいあるんでしょうね?」


「僕らの太陽系を含む銀河系には二千億個の星があると言われている」

「そして、僕らのいる銀河系のような大きな銀河系は、一千億個あると言われてる」

 

「単純に、ザックリとその掛け算だね」

 

「すごい、多いです」

 

「今、僕らのいる地球から見られる星は、確か4千五百個くらいだよ」

 

「そうなんですか~」

 

星空を見上げているこずえちゃん。瞳が綺麗。活気のある子だし、とても可愛い。

 

僕なんかにくっ付いていても仕方ない。早く、楽しい彼氏を作ればいいのに。

 

「正先輩、行っちゃうんですよね?」

 

「ああ、名古屋だね」

 

「そうじゃなくて、アメリカ」

 

「アメリカ?」

 

「そう、来年、アメリカですよね」

 

「うん」

 

「どうしましょ?」

 

こずえちゃんが、いきなり僕に抱きついて来る。

 

仕方ない。僕はゆるりと、こずえちゃんの腰に手をまわす。

 

「こずえ、どうしたらいいのか分かりません」

 

「何が?」

 

「私、留学しようかしら?」

 

「アメリカに?」

 

「はい」

 

困った会話になった。下手なことを言うと、こずえちゃん、本当にアメリカについてきちゃうかもしれない。

 

「今、私を抱いている、熱い胸の人が遠くに行ってしまうなんて……」

 

「まあまあ、まだ半年ちょっとあるし、今、そんな話をしなくてもいいじゃない」

 

「一番大事なものが、遠くに行ってしまう……」

「いや、こうして近くにいてさえ、その心は別な人のものなの……」

 

「現在と近未来。どちらにせよ、こずえ、辛いです」

 

下手なことは言えない。

 

僕は沈黙する。

 

「そう、正先輩」

 

「何?」

 

「ネットの占いで、アバンチュールが叶いそうだと書いてありました」

 

「?」

 

「B型、乙女座のです」

 

「こずえちゃん、来月19になるんだ」

 

「はい」

 

「18歳の最後の記念に、今こうして好きな人と……」

「今宵、一晩限りのアバンチュール。私とお願いできますか?」

 

僕は、こずえちゃんの腰にまわした手を離す。

 

「無理だよ。僕には恵ちゃんがいる。アメリカにも行く」

 

僕はこずえちゃんにささやくように話した。

 

「正先輩。右手をお借りしてもいいですか?」

 

「ああ……、いいよ」

 

僕は右手の力を抜きぶらんと降ろす。

 

「目をつむって下さい」

 

言われた通り、目をつむる。

 

「私利私欲がなくて、器用貧乏で、心に余裕があって、そして誰にでも優しい」

「私、そんな正先輩が大好きなんです」

 

こずえちゃんはそう言うと、僕の力を抜いた右手を、ブラウスの胸に強く当てる。

 

「ブラウスの中。触ってもいいんですよ」

 

「そんなこと、できないよ」

 

「じゃあ、どんなことならできるんですか?」

 

クリクリとした瞳が僕に語りかける。

 

「おまじないをしますです」

「あっ! ブラ、片ブラ!」

 

訳の分からない言葉とともに、こずえちゃんはいきなり僕に抱きつき、首元に長いキスをする。なまめかしい濡れた唇の感覚。

 

「もうやめよう、こずえちゃん」

 

「はい」

 

意外にあっさり僕の言うことを聞く。

 

僕らはひんやりとした空気を背に、ホテルへと入る。

 

「正! こずえ嬢と何してたんだよ!」

 

「クマに食われたかと思ったぞ」

 

OB達から罵声を浴びる。

 

401号室では、まだ宴会が続いている。

 

夕子ちゃんと谷崎くんが、おさかな天国を歌い踊っている。部屋は、手拍子とグラスを箸でチンチン叩く音が鳴り響く。深夜だと言うのにどんちゃん騒ぎ。

 

隆が僕の側に来る。

 

「こずえちゃんと何してた?」

 

「うん……。星見てた」

 

「それだけか?」

 

「ああ……、それだけ」

 

里奈ちゃんが僕の顔をまじまじと見つめる。

 

「里奈ちゃん、僕の顔に何かついてる?」

 

「いや、何もついていないけど、違和感があって……」

 

「あっ! 正くん。鏡を見てきて」

「あのね、首にキスマークみたいのがついてるよ」

 

「えっ?」

 

僕はトイレに駆け込み、鏡を見る。こずえちゃんがチューをした右の首に、うっすらと赤いキスマークが……。

 

どうしよう?

 

まずは部屋に戻る。

 

こずえちゃんは、紀香ちゃんのところで、キャラキャラ何やら油を売っている。確信犯なのに、楽しそうな雰囲気。

 

「里奈ちゃん。これ、目立つかな?」

 

「目立たないけど、じ~っと見る人にはわかるわよ」

「明日、恵ちゃんと会うんでしょ?」

 

「ああ」

 

「他人様だとよく見られても、ごく軽いアザか虫刺されくらいとしか見えないけど、恵ちゃんには絶対にバレるよ。これ」

 

「どうしたらいい……?」

 

「里奈ちゃんが、キスマークの消し方をググる」

 

「キスマークのところを蒸しタオルか何かで温めるとか……」

「歯ブラシで軽くこすって血行を良くするとか……」

「とにかく、内出血の軽いものだから、血行を良くしなきゃ」

 

「あと、レモン汁や馬油か何かつけると取れるみたい」

「ただ、今日の明日じゃね~」

 

「里奈ちゃん、どうしよう……」

 

「お酒の後だけど、温泉に入って、首の血行良くしてきたら?」

「揉むようにその部分を温めて」

 

「後、馬油が売店で売っていたから、明日買って塗りこむとかね」

 

「困ったな……」

 

「そうそう、コンシーラーとファンデは私持っているから、明日の昼まで消えない時にははそれ塗って」

「匂いはしないから安心よ」

 

「ありがとう」

 

「いざとなったら、絆創膏という手もあるよ」

 

隆も心配してくれる。

 

「虫に刺されたとか、言い訳つけてさ」

 

「ああ」

 

「まあ、薄いから明日には取れてるかもしれないよ」

 

里奈ちゃんが優しい言葉をかけてくれる。

 

「正! こっちに来い!」

 

グテングテンに酔っ払ったOBが僕を呼ぶ。

 

「何ですか?」

 

「こずえ嬢! こずえ嬢!」

「こずえ嬢みたいないい子は、半世紀に一人くらいしか出てこない」

「大事にするんだぞ」

 

「あの……」

 

「何だ?」

 

「僕はこずえちゃんの彼氏じゃなくて、大切にと言ってもどうすればいいのか……」

 

「正、来年も合宿に来い」

「お前も、常連OBの仲間に入れてやる」

「正がいると、こずえ嬢が生き生きとする」

 

「実は来年の今頃、僕はアメリカで仕事をしているんですが……」

 

「夏合宿だけは来い」

 

「そんな無茶な……」

 

押し問答をしている時に、こずえちゃんが僕たちのところへくる。

 

「夜のあいさつ、本番は~」

「楽しそうに何のお話ですかぁ~?」

 

僕の顔、目線は首筋、そしてキラキラと笑う。

 

「ほら。こずえ嬢は、正がいると生き生きしてる」

 

OBがガハガハ笑う。

 

「だって、私の生きがいですもの」

 

こずえちゃんはお嬢様笑い。フフフと手を口に当てて笑う。

 

全然楽しかなんてない。とにかくOBからは、こずえちゃんマターでいらぬ説教を受ける。はいはいと適当に答えて、何とかこずえちゃんをOBのところに張り付けにする。

 

僕は隆と里奈ちゃんのところへ戻ってくる。

 

「正くん、バレなかったね」

 

「何が?」

 

「キスマーク」

 

「すっかり忘れてた」

 

「OB達は気付かなかったみたいね」

 

「もしかすると、明日には虫刺され程度に赤みも引いているかもね」

 

里奈ちゃんが優しくつぶやく。

 

「そうだ! 温泉、温泉」

 

「行ってらっしゃ~い」

 

隆と里奈ちゃんが僕に手をふる。

 

僕は自分の部屋に戻り、温泉に入る準備をする。部屋を出るとこずえちゃんが立っている。

 

「ブ~ッ!」

 

唇をタコのような形にして僕に言う。

 

「合宿係からです」

 

「夜10時以降の入浴は禁止です。しかもお酒飲んだでしょ」

「速やかに、宴会場に戻りましょう」

 

「もうすぐ、午前0時だよ」

「昨日のことはリセットされる」

 

「合宿係さん、宴会の方も、そろそろ終わりにしないとダメでしょ」

 

「中締めの夜です」

「正先輩なら、ついでに私の中、締めてもいいですよ」

 

「はいはい……」

 

「明日、正先輩は名古屋のしっぽりの夜です」

「今日はそんなことできないように、夜通し飲み明かしましょう」

 

「はいはい」

 

僕は温泉を諦め、再び宴会場へと向かう。

 

「はい。これ」

 

こずえちゃんが、絆創膏を僕に手渡す。

 

「確信犯だね」

 

僕がそう言うと、

 

「バレましたか」

 

こずえちゃんが舌見せて笑う。

 

 

ーーーーー

 

 

時計の針は、午前0時をまわった。

 

「もう出し物はないのか?」

 

OBたちは皆んな元気だ。毎晩飲み明かしていても、眠たそうな顔一つしない。

 

「また、UFOが見たいな……」

 

OBの一人がつぶやく。

 

一年生男子は、毎晩部屋を宴会場に使われて気力も体力も限界。OBから聞こえてくる一声一声にビビる。

 

「尾崎、森本。UFOやれ」

 

二人ともえ~っと言う顔をする。

 

「着替えてこい」

 

初日にやった、ピンクレディーのUFOのリクエスト。二人は、OBに反駁しても無駄なことを知っている。

 

そそくさとカバンから水着と帽子を取り出し、トイレに向かう。シルバーのTバック上下水着姿、頭にはシルバーのコイルがついた帽子。

 

二人は部屋に戻ってくる。

 

「わ~っ!」

 

男の子の反応。

 

「気持ち悪い~」

 

女の子の反応。

 

宴会場のステージにいたときの芸は気持ち悪さもひどくはなかったが、狭い部屋でまじかで見ると、二人のTバック姿は、直視できるものではない。お尻も丸見えだ。

 

「尾崎、またはみ出してるぞ」

 

尾崎くんのパンツの前の方、大切な袋の一部が水着からはみ出していた。OBがもうこれ以上ないほどの大声を出して笑う。

 

「ガーッ! ハッハッハ!」

 

一方、会場の女の子たちは一斉に目を伏せる。

 

「今日からお前のあだ名は正式にハミデだ」

 

OBが尾崎くんのあだ名を命名する。

 

「ハミデ! ハミデ!」

 

会場の男たちが、手拍子とともにシュプレヒコール。

 

尾崎くんが、ちゃんとモノを丁寧に水着に入れ直している途中にもかかわらず、無情にもUFOのイントロが流れ始める。

 

モノがしっかり収まりきらないうちに、ラジカセのボタンを押したのはこずえちゃんだ。

 

いたずらっ子の様に笑っている。

 

そんなこんなで仕方なく、ピンクレディーのモノマネ芸がスタートする。

 

「ユ~フォ~」

 

「タララ、ラッタッタ、タララ、ラッタッタ」

 

「て~を、合わせて、見つめるだけ~で」

 

ガニ股姿で、両手をクルクル回す。キモい男同士、見つめ合って手を合わせる。近くで見ると、ホント、薄気味悪い。アレは少し、はみ出たまま。

 

OBたちはノッている。女の子たちの何人かは、疲れと呆れもあって部屋を出始める。

 

「おやすみ~!」

 

去っていく子達に、OBは声を張り上げる。

 

芸を見て、部屋の様子も見て、十分過ぎるほど酔っているのにOBたちの目配りはすごい。

 

「そろそろ僕も寝ようかな」

 

「ああ、俺たちも部屋に戻るよ」

 

僕は、隆と里奈ちゃんと一緒に席を立つ。

 

「正くん、蒸しタオルでキスマーク少し温めておけば」

「トイレに温水が出る蛇口があるじゃない」

 

「ああ、そうするよ」

 

余計なことで寝る時間が限られるが、まあ、仕方ない。

 

「ブーッ」

 

「正先輩だけ、部屋を出ていくのは禁止です」

 

こずえちゃんが両手を広げて、僕をさえぎる。

 

「どうして?」

 

「こずえちゃんがつけた、キスマークみたいなのも消さなきゃいけないし」

「もう休ませてよ」

 

「ダメです。明日から二泊三日で名古屋にズラかる輩に、今宵、好き勝手な行動は認めません」

 

「まぁ~……」

 

「じゃあ、後30分ね」

「ただ、首に蒸しタオル、巻いてきてもいいかな?」

 

「キスマークは、自然と落ちる過程にドラマがあります」

 

「あのさ……」

「そんなドラマ、全然作って欲しくなかったんだけど……」

 

こずえちゃんは、フフフと笑う。

 

「女は素晴らしい楽器なんですよっ!」

 

「恋がその弓で、男がその演奏者」

「今は正先輩は恵先輩に夢中ですけど、その恋の弓が、いつか私を弾くようになるかも」

 

「私、自分自身で言うのもなんですが……、アレしたら……」

「良く鳴りますよっ!」

 

「そう、今の私は、自分を愛してくれる人よりも無視する人の方に好感を抱くのが賢明です。それは、私を愛してくれている人なら、いつか、私を愛さなくなってしまうかもしれない……」

「でも、今、私を無視している人は、いつか私を愛するようになるかもしれない……」

 

「二泊三日中残るであろうキスマークには、それがどちらに転ぶかのメッセージが込められています」

「お互いに素敵な恋人同士になるために必要な、大切なレッスン」

 

こずえちゃんは両手を胸の前で組んで、カラカラ笑う。

 

「あのさ、コレ、単なる恵ちゃんへの嫌がらせだよ」

「まあ、少なくとも恵ちゃんには、誤解をまず解いて、こずえちゃんのイタズラだと受け取ってもらうよう努力するけど……」

 

「しかし、また、なんでまた計画的に名古屋に行く前の夜にする?」

 

「逆に正先輩に伺いますが、今日の夜以外に適当なタイミングの時ってあります?」

 

第104話

 

こずえちゃんがいつの間に着替えて、ピンクのトレーナーにブルマー姿でいる。

一人、ゆっくりとステージ上に上がっていく。

 

「こずえちゃん、すっごく可愛い!」

 

会場からこずえちゃんにお声がかかる。

 

「はい。お金に困った時、ぬぐぬぐと育ってきたこずえ。苦労してきたので可愛いのは当たり前です」

 

「なのに、正先輩は……」

「しごくとまともな人なのに……」

 

「どうも性格が、お互いまるでせいはんざいのようで……」

 

「正とのどうでもいい話はいいから、先に進めて~」

 

OBからのダミ声。

 

「はい。さて、これから一年生女子の歌と踊りの出し物です」

「私たちの芸を、観たいか~!」

 

「お~っ!」

 

「ハイかイエスで答えてくれ~!」

 

こずえちゃんは右手の拳をあげる。

 

「ハイもイエスも一緒だよ~!」

 

OBたちが、笑いながらこずえちゃんに負けじと大きな声を張り上げる。

 

音楽が流れてくるとともに、こずえちゃんと同じ格好をした一年生女子が宴会場の扉から、ステージへと駆け込んでくる。初日の低弦コンパで披露した、おニャン子クラブの曲だ。

 

「タッタッタッタラー、タッタッタッタリー、タッタッタッタラー、タッタッタッタリー」

 

セーラー服を脱がせないでのイントロと同時に、ブルマー姿のこずえちゃんと夕子ちゃん、紀香ちゃんの3人がセンターで並ぶ。

 

お揃いのようなピンクのトレーナーとブルマーを着けた一年生女子、6人が、こずえちゃん達の後ろに、3人づつに分かれて左右に並ぶ。

皆んな可愛い。まさに、高校四年生のノリ。

 

「せえら~服を、ぬがさ~ないで」

「今はダメ~よ、我慢なさ~って~」

 

「我慢できないよ!」

 

手拍子とともに、OBから相変わらず太い声が飛ぶ。

 

こずえちゃん達の踊りが眩しい。

 

「週刊誌みたいなっ、エッチをしたいけど」

 

「週刊誌よりも凄い雑誌にあること、してあげるよ~!」

 

OBの元気がいい。

 

「全てをあげ~てし~まうのは~、もったいないから~、もったいないから~、もったいないか~ら~、あげないっ!」

 

「ちょうだ~い!」

 

会場はやんや、やんやと盛り上がる。こずえちゃん達の可愛い姿、歌と踊りで、会場の空気は最高潮。間髪入れずに、二番が始まる。

 

「せえら~服を、ぬがさ~ないで」

「スカートまで、まくれちゃうでしょ~」

 

「まくって! まくって! まくりまくって~!」

 

「中はつけてなくてもいいよ~!」

 

OBが口に手を当てて大声で叫ぶ。

 

「男の子はそのとき、ど~うな~るの~?」

 

「こうなるよ!」

 

OBの一人が自分の腕をピンと天井にアレを想像させる様にそそり上げる。


会場は大爆笑。

 

「ちょっぴり怖いけど、バージンじゃつまらない」

「おばんになっちゃうそ~の前に、おいしいハートを~、食べてっ!」

 

「もう、全員残らず食べちゃうよ~!」

「おばんになっても食べちゃうよ~!」

 

会場からは大拍手。

 

ぴゅーぴゅー、口笛も鳴り渡る。

 

「さて、一曲目が終わりました」

 

「続きまして、サザンオールスターズの、マンピーのGスポット!」

 

「そうきたか」

 

OBたちがつぶやく。

 

だいたい、女の子たちが、マンピーのGスポットを芸に選ぶこと自体?だ。

 

こずえちゃんたちの後ろにいたメンバーが、ステージ袖から、ひたいのところにピンク色でGという大きな文字が付けられているハゲかつらを、こずえちゃん、夕子ちゃん、紀香ちゃんに渡す。

 

「さて! いきま~す!」

 

ハゲかつらを被った三人が会場の笑いをとる。

 

イントロが流れる。こずえちゃんがマイクを握り桑田佳祐っぽく歌い始める。

 

こずえちゃん以外の子は、こずえちゃんの後ろに並び、何やら妖艶な振り付けの踊りを踊り始める。

 

「いわくあいまいな世間なんて~、無常の愛ばかり~」

 

会場では手拍子、足拍子が始まる。

 

「ミルクいっぱいのタネをまいて、しとねに狂うば~かり~」

 

「いやらしいよ! こずえちゃん!」

 

こずえちゃんは声援に手を振り、雰囲気にノリ歌い続ける。

 

「アレは! マンピーのGスポット、Gスポット、Gスポット」

 

皆んなもGスポット、Gスポットで、声を合わせて歌いだす。

 

「ソレは! マンピーのGスポット、Gスポット、Gスポット」

 

妙なステージと会場の一体感。

 

「カモン!」

 

こずえちゃんのノリがいい。ちゃんとロックの歌を歌ってる。

 

「情熱や美談なんて、ロクでもないとあなたは言う」

「たぶん、本当の未来なんてからっぽの世界」

 

こずえちゃんがマイクを夕子ちゃんに渡す。

 

「悲しい男と女が、今日も暗闇で綱渡り」

 

夕子ちゃんが紀香ちゃんにマイクを渡す。

 

「あ~、うぉ~。浮世は舞台、待ち人は来ない」

 

こずえちゃんにまたマイクが移る。

 

「やがて! マンピーはジュークボックス、ジュークボックス、ジュークボックス」

 

「赤いバラを捧げた、憂いの旅」

 

「だから! マンピーはジュークボックス、ジュークボックス、ジュークボックス」

 

「君と濡れた貝を拾う、灼熱の恋のメロディー」

 

曲が終わると、会場から大拍手。

 

「さて、ここで私たちの出し物を終わりま~す」

 

さらに、やんや、やんやの大拍手。

 

自然と沸き起こる、アンコールの声。

 

「アンコール! アンコール!」

 

アンコールが来るのは織り込み済み。こずえちゃんたちは、一曲目と同じ並びに戻る。

 

「ありがとうございます」

 

「それでは、アンコールは、うしろゆびさされ組の、バナナのなみだ~」

 

「また、微妙にいやらしい雰囲気の曲を選ぶね」

 

すぐに曲が始まる。

 

「バナナんぼ~、バナナんぼ~」

 

「男の子の気持ち は・て・な。わ~からないの~」

「男の子の気持ち は・て・な。ふ~しぎね~、変なの~」

 

「男はアレすることしか考えてないよ~」

 

こずえちゃんたちの踊りは、またセーラー服を脱がさないでの様に、幼稚園のお遊戯会みたいに可愛くまとめられている。

 

「ア然! バ~ナ~ナ~のな~みだ~、瞳にキラリと光る」

「バ~ナ~ナ~のな~みだ~、責めてるのね」

 

「責めまくってあげるよ~、僕のバナナで!」

「大きさはウインナー並みだけど、なみだは馬並みに出るんだよ~」

 

OBが大声を投げかける。

 

ハッハッハ! これは観客にも受ける。

 

「女の子の気持ち、ビ・ミョウ・ウ」

「どうしましょ~お?」

 

「女の子の気持ち、ビ・ミョウ・ウ」

「あせるわ~。マイッタ!」

 

一年生女子の可愛いお遊戯。

 

まさに華だ。輝いてる。若さってすごい。

 

「うっふふ!」

 

「バ~ナ~ナ~のな~みだ~、素直でいれたらいいね」

「バ~ナ~ナ~のな~みだ~、果実のまま青いままで」

 

「俺たちのは、もう使い込んで黒いんだよ~」

 

卑猥なOBたちの投げ言葉。

 

「男の子の気持ち は・て・な、な~やんじゃうわ~」

「男の子の気持ち は・て・な、お~てあげ、ごめんね~」

 

アンコールが終わる。時計の針も、9時半を回る。

 

こずえちゃんがマイクを握る。

 

「それでは、次にサプライズ」

「これから三年生女子による、歌と踊りのショータイムで~す」

 

一年生女子と入れ替わりで、みどりちゃん含め三年生女子の6人がステージに登る。

 

みどりちゃんにマイクが移る。

 

「さて、三年女子、一年生の小娘なんぞには負けられませ~ん」

 

「うお~っ!」

 

会場がさらに熱気を帯びる。

 

曲が始まる。

 

「何だろう?」

 

「あっ! アレだ!」

 

モー娘のLOVEマシーンのイントロが、会場に響き渡る。

 

 

ーーーーー

 

 

三年生女子。

 

やはり一年生女子と比べると、当たり前だが、皆んなどこか大人びている。

イントロの入りから、もう少女じゃない大人の女性の香りがする。

 

鋭いビート。コミカルな踊り。

会場は、皆んな手拍子、足拍子。

 

「あんたにゃ~、も~ったいない」

「自分で、言うくらい、タダじゃない! じゃない」

 

「タダにして~」

「安くして~」

 

OBが相槌を打って叫ぶ。

 

「誰にも、わ~からない」

「恋愛っていつ火がつくのかダイナマイト! 恋はダイナマイト!」

 

会場も一体となって、曲に合わせて手を振り上げて盛り上がる。

 

「明るい、未来に、就職希望だ~わ~」

 

「ウチの会社に、就職してよ~」

 

また、OBが叫ぶ。

 

「日本の未来は」

 

「ウォウウォウウォウウォウ!」

 

会場の全員で叫ぶ。

 

「世界がうらやむ」

 

「イエイイエイイエイイエイ!」

 

「恋をしようじゃないか!」

 

「ウォウウォウウォウウォウ!」

 

「ダンス! ダンシング、オールオブザナイト」

 

歌も踊りも皆んな上手だ。

 

盛り上がりは絶好調。

 

「そんなの、不自然だ~って、恋のインサイダー」

「それでも、上手にされちゃ、あ~ら~わ~」

 

「俺、上手だよ~!」

 

また、OBが叫ぶ。

 

「幸せ、く~る日も」

「キャンセル待ち~、な~の~」

 

女の子たちは、会場の皆に色目使いをする。

 

「皆んな! 待たなくていい! 俺たちいつでも空いてるよ~!」

 

OBのダミ声が響く。

 

「あんたの笑顔は」

 

「ウォウウォウウォウウォウ!」

 

「世界がうらやむ」

 

「イエイイエイイエイイエイ!」

 

「夢があるんじゃないか!」

 

「ウォウウォウウォウウォウ!」

 

「ダンス! ダンシング、オールオブザナイト!」

 

大盛況のうちに、一曲目の出し物が終わる。

 

「さて、皆さん。お楽しみいただいておりますでしょうか?」

 

みどりちゃんが、マイクを握る。

 

「もう、最高だよ!」

「一年生も三年生も、皆んなあとで残らず食べちゃうからねっ!」

 

OB達は、かなり宴会と酒に酔っている。

 

「さて、二曲目も一年生には負けてられません」

「私たちも可愛らしく、Eガールズの、おどるポンポコリン!」

 

「わ~っ!」

 

会場が盛り上がる。

 

「あっ……」

 

スマホに電話が入る。

僕は会場の外に出る。

 

「わんばんこ。正くん」

 

「わんばんこ。恵ちゃん」

 

「あのね。明後日の口頭発表原稿なんだけど、正くん、持ってるよね?」

 

「ああ、もちろん」

 

「有田先生がね、手元に2種類の酷似した原稿があって、どちらが本物か分からなくなったみたい」

 

「何でこんな時間に?」

 

「私、まだ研究室にいるのよ」

 

「?」

 

「卒論が大変で」

 

「あた~っ。それ、今の僕に言う」

 

「言うわよ」

 

フフフと電話口で、いつもの様に笑う。

 

「ウソよ」

 

「もう、家に帰ってる。さっきメールが来たの。有田先生から」

「正くんに転送するね」

「確認して有田先生に送って、私にもC.C.しておいて」

 

「何で、僕に直に送ってこなかったんだろうね?」

 

「何でだろ……」

「今の時間、酔っ払いに連絡しても無駄だと思ったのかな?」

 

「あた~っ。その言葉もキツイ」

 

「今、宴会?」

 

「そう。一年生女子と三年生女子の出し物」

「会場は、もう大盛況だよ」

 

「いいなぁ~。楽しそうで」

 

「まあ、楽しいといえば楽しいけど……」

「このひんやりとした清々しい空気の中で、側に、恵ちゃんがいればね……、もっと……」

 

「もっと……、何……?」

 

恵ちゃんの、色っぽい声……。

 

「あっ!」

 

恵ちゃんが、いきなり叫ぶ。

 

「どうしたの?」

 

「夕子ちゃんからね、一年生女子の芸の動画、送られて来た」

「私、これから観るね」

 

プーッ。プーッ。

 

恵ちゃんから一方的に電話を切られる。

 

会場に戻ると、三年生女子にアンコールのシュプレヒコール。

アンコールの曲が流れてくる。

 

アレだ。聞き慣れた童謡のリズム。

 

「ズッチャ、ズッチャ、ズッチャ、ズッチャ」

 

「アブラハムに~は七人の子。一人はノッポであとはチビ」

「み~んな、仲良く暮らしてる」

 

「さあ、踊りましょう~」

 

「みぎ~て」

 

「みぎ~て」

 

「ズッチャ、ズッチャ、ズッチャ、ズッチャ」

 

OB達が、僕と隆、水野のところにやって来る。

 

「おい、行くぞ」

 

僕らの手を引き、ステージ上に上がる。

 

三年生女子6人と、OBと僕たち6人がそれぞれペアで並んで踊る。

 

「アブラハムに~は七人の子。一人はノッポであとはチビ」

「み~んな、仲良く暮らしてる」

 

「さあ、踊りましょう」

 

「みぎ~て、ひだ~りて、みぎあし」

 

「みぎ~て、ひだ~りて、みぎあし」

 

もう、OBは酒の入りすぎで、バランスが取れずふらふらしている。

 

「ズッチャ、ズッチャ、ズッチャ、ズッチャ」

 

「アブラハムに~は七人の子。一人はノッポであとはチビ」

「み~んな、仲良く暮らしてる」

 

「さあ、踊りましょう」

 

「みぎ~て、ひだ~りて、みぎあし、ひだりあし、あたま」

 

「みぎ~て、ひだ~りて、みぎあし、ひだりあし、あたま」

 

もうOBはただの酔っ払い。奇妙なタコの様な動きをする。一緒に踊っている三年生女子も笑っている。会場の皆んなにも大受け。

 

「ズッチャ、ズッチャ、ズッチャ、ズッチャ」

 

「アブラハムに~は七人の子。一人はノッポであとはチビ」

 

「み~んな、仲良く暮らしてる」

 

「さあ、踊りましょう」

 

「みぎ~て、ひだ~りて、みぎあし、ひだりあし、あたま、おしり、まわって!」

 

「みぎ~て、ひだ~りて、みぎあし、ひだりあし、あたま、おしり、まわって!」

 

ここでOB二人がダウン。ステージの床の上に寝そべる。

 

アブラハムの子の芸が終わる。

 

「面白かったですか~!」

 

みどりちゃんがマイクを会場の皆んなに向ける。

 

「面白かったよ~!」

 

「それではこれで、今日の宴会を閉じたいと思いま~す!」

 

「わ~っ!」

 

会場は大拍手。

 

「さて、こずえちゃんから事務連絡があります」

 

マイクが、こずえちゃんに移る。

 

こずえちゃんは、サザンの曲で使った、ひたいにGの文字が貼ってあるハゲのカツラを再び被る。

 

「ハハッ、ハハハ!」

 

また、それだけで皆んなの笑いを取る。

 

「さて、先ほど大盛況の宴会場を離れて、一人、ラブラブコールをしていた輩がおります」

 

「また、正かよ~」

 

「はい。その通り」

 

「集団行動にうまく適応できない正先輩を、どうにかしてあげようと言う私の思いも届かず、やはり自分勝手な行動に……」


「理由をちぶさに申し上げますと、正、優しい漢字の人なんですが、心の方の正しさはちょっと……」

 「私との恋は毛抜き工事……、この愛らしい、もみたてのこずえを頬張るかと思いきや、君もちつこい女だなと突っぱねられたり……」

 

「こずえちゃん。いらない事はいいから話を進めて!」

 

「はい。みどり先輩」

 

「さて、今日の二次会はB型コンパです」

「会場はいつもの一年生男子部屋、性域の401号室です」

「聞きたくはないですが、OBによる替え歌芸も取り行われます」

 

「聞きたくないは、余計だよ~」

 

OBが不満タラタラな口調で答える。

 

「さて、そろそろ締めです」

「この宴会は、私の四股入りで宴を閉じたいと思います」

 

こずえちゃんは蹲踞し、パチン、パチンと手を打ち、最初に右手を高く上げる。

そして左手を上げ四股。

 

「ヨイショ!」

 

皆んなで声を出し、拍手をする。

 

もう一度同じ動作。

 

「ヨイショ!」

 

また、声を揃え、そして盛大な拍手。

最後に夕子ちゃんが拍子木を叩く。

 

「?」

 

こずえちゃんが、また股を開く。

 

「蒸すんで、開いて、股開いて、蒸すんで」

 

こずえちゃんの独り言のような童謡の替え歌への笑い声に包まれて、会場の皆んなの拍手とともに普通ではない、普通の宴会を締める。

 

第103話

 

中華料理の味がとても良く、皆んな食がどんどん進む。

 

「これ食べると、日光にある美味しい中華料理店、思い出すね」

 

僕がつぶやくと、

 

「ああ、あそこは美味かった」

 

水野がうなずく。

 

「ここはここで美味。高原の空気の中だからかな?」

 

同じテーブルで食事していたこずえちゃんがスッと席を立つ。

 

「さて私、アナウンスに行ってくるますです」

 

「それ、どう言う日本語?」

 

こずえちゃんがアナウンスに向かう。

 

「さ~て」

「今夜の小夜コンと宴会の紹介で~す!」

 

みどりちゃんもゆっくりとこずえちゃんの隣に立つ。

 

「さて、今夜の小夜コンですが、三年生による、ベートーベン弦楽四重奏曲、大フーガから始まります」

 

「大フーガ、難曲です」

「地球儀の底にあります」

 

「こずえちゃ~ん。その冗談もう聞いた聞いた」

 

それでも、フフフと笑いが漏れる。

 

「はい」

 

「これはベートーベンの異色の大傑作です」

「ベートーヴェンは古典派、ホモフォニーを極めた作曲家でしたが……」

「もちろん、ベートーベンはホモではありません」

 

「正先輩には、その気はあります」

 

「知ってるよ皆んなホモフォニー、和声音楽でしょ」

「正はもう、モホじゃないし」

 

「はい。失礼いたしました」

「先ほど天使のように可愛いとホモゴロシされましたので、つい」


僕はそんなことは言ってない。

 

ハッハッハッ、と笑い声が聞こえる。

 

「ベートーベンは後期になると、和声音楽はやり尽くしたとでも言うように、フーガのようなポリフォニー、すなわち多声音楽に傾倒しだしました」

「我々が演奏するマーラー。後期ロマン派にも通づる、まさにポリフォニーへの先がけです」

 

「多声楽、特にフーガになると、どうしても和声という点からは外れる音が出てきます」

「オケでいう、正先輩の音のようです」

 

ププッと笑いが漏れる。

 

「しかし、この大フーガはもはや協和音や不協和音といった概念を超えてしまった、ベートーヴェンにおけるポリフォニーの極みです」

 

「楽しみだねぇ~」

 

会場から声が漏れる。

 

「次は、一年生によるダンツィの木管五重奏曲 第1番 変ロ長調です」

「難曲に続き、これは北極です」

 

「それも聞いた」

 

しかし、また、フフフ、ププッと笑いをとる。

 

「ダンツィは、ヨーロッパの演奏会の歴史において重要な時期を過ごした音楽家のひとりです」

「経歴は、後期古典派音楽から初期ロマン派音楽へと作曲様式の過渡期に広がっていて、今日あるクラシック音楽の聴取層の誕生と時を同じくしています」

「ダンツィは青年時代にモーツァルトを知って敬意を抱き、ベートーヴェンと同時代の人でした」

 

「そして、ベートーヴェンの音楽については賛否相半ばする強烈な感情を寄せていました」

「ベートーベン、ダンツィ、そしてマーラーへと音楽史が展開していきます」

「今回の合宿や小夜コンで、そんな音楽の変遷の歴史も感じ取られたならと思います」

 

「おう。珍しくこずえちゃんにしてはまともなアナウンスだね」

 

OBがつぶやく。

 

「続いて、三年生によるモーツァルト、フルート四重奏曲第1番」

「最後に、四年生によるベートーベンのセプテットより、第1、第3、第4楽章」

 

「ホルンは、我らのオケのエース、隆先輩で~す!」

「楽しみです!」

 

「まあ、小夜コンはともかく、大事な宴会の出し物に変更がございます」

 

「こずえちゃん。小夜コンはともかくと言う言葉はダメよ」

「出演者は皆んな、一生懸命なんだから、ともかくはないでしょ?」

 

みどりちゃんからのダメ出し。

 

「はい、失礼しました」

 

「小夜コンはさておいて、宴会ですが……」

 

「さておいてもダメ」

「とにかく小夜コンを接頭詞から外して」

 

「はい」

 

「さて、あらためて宴会のスケジュールについてですが、股上が合っていないパンツがデリケートゾーンに食い込むように、今夜の小夜コンは宴会開始時間に少し食い込みそうです」


「こずえちゃん、いつも言ってるけど、余計な比喩は省いて」

 

みどりちゃんが注意する。

 

「はいはい」

「股間はつまるところ、いつも一緒。目にアナル状況になります」

 

「それも余計!」

 

今度はみどりちゃんが顔を赤らめる。

 

「つきましては、宴会開始を午後8時15分とし、人気の無いOBの替え歌芸を、本日の二次会、すなわちB型コンパに押し込もうと思います」

 

「オイオイ? 何で俺たちの替え歌芸が……」

 

OBから不満タラタラの声。

 

「私たち、フレッシュな一年生女子の歌と踊りに敵いますか?」

「あと、ネタバレですが、飛び入りで三年生女子の歌と踊りもありますよ?」

 

「……」

 

OBもこのこずえちゃんの言葉には沈黙。

 

「じゃあ、多数決を取りましょう」

 

「ココのケツではありません」

 

こずえちゃんは自分の尻を突き出し指を差す。

 

「はい。宴会でOB歌芸の見たい方」

 

パラパラと手は上がる。一年生男子とか、四年生男子とか。

 

OBが、手を上げていない男子の顔をまじまじと見つめる。上げている男子は、いわゆる、義理で上げている。

 

「一年生女子の芸を見たい方」

 

大多数のメンバーの手が上がる。四年生男子は二度上げしている。

 

「はい、宴会の芸はそのように変更いたします」

「では、もうしばらご歓談ください。速やかに小夜コンへとご案内いたします」

 

こずえちゃんがテーブルに戻ってきた。

 

「た~だし先輩」

 

こずえちゃんが、ポンと僕の肩を叩く。

 

「今日は名古屋に行く前の日だし、小夜コン、ちゃんと聞きますよね~?」

 

「えっ? え~っと……」

 

「温泉ですか? 麻雀ですか?」

「それとも、ラブラブ電話ですか~?」

 

「多分。いや……、まず温泉」

 

「ダメですよ。今日は隆先輩の出るセプテットもあるんだから」

「聞かなきゃダメです」

 

「ハイハイ」

 

まあ、今ここでこずえちゃんの言うことに無理に逆らっても仕方ない。温泉には入って、隆の演奏するセプテットまでには戻ってこよう。

 

僕が席を立つと、こずえちゃんがいきなり僕の右手を取り、手のひらに眉墨で大きく二重丸を描いた。

 

「こずえちゃん。何? これ?」

 

「正先輩がお風呂に入るとこれが消えます」

 

「こっ、こずえちゃん。策士だね」

 

「ええ」

「人は裏切るもの、社会は思い通りにならないもの……」

「恋愛も信じては裏切られ……、裏切られてはまた信じての繰り返し……」

 

「この世の中、怖いものはお化けやお金じゃないんです。人、人なんです」

「人間って皆んな……、十人トイレ」

 

「そう、十人十色。そんないい話と、この手のひらの丸とは何か関係してるん?」

 

「ああ……、人は怖い。でも人を信じるってとっても素敵」

「過去にはこずえも弱って微熱を出して、半日、水知らずの男と寝込んでしまったこともありました……」

 

「信じることができない人は、心から信じてもらうことも難しいでしょう」

「まさに、今の私と正先輩との、超えるべきハードルの様……」

 

「あのね、恋愛において悩んだり疑い深すぎるのは、かえって良くない印象を与えるよ」

 

「えっ! やっぱり私は恋愛の対象なんですか?」

 

「いや……、そう言う意味じゃなくて……」

 

「策士の性格は、決してプラスにはならないからね」

「人を縛らず、人に縛られず」

「恋愛って、僕的にはそう言う関係を求める」

 

僕はトイレに行くふりをして食堂を去り、右手のひらを上げながら温泉につかる。

 

 

ーーーーー

 

 

「た~だし先輩」

「両手を見せてください」

 

隆の出るセプテットの前に、こずえちゃんが僕に近づいてくる。

 

「はい。これ」

 

ちゃんと右手のひらには、眉墨で書かれた二重丸。

 

「アウトです」

「罰として、おでこにバッテンを書くです」

 

こずえちゃんは、また眉墨をバックから取り出し、僕のおでこにバッテンと何かを書く。

 

「どうして?」

「ちゃんと二重丸残っているじゃない」

 

「私を甘く見ないでください」

「左手の二重丸が消えています」

「温泉に入った証拠です」

 

「こずえちゃん。左手には……、書かなかったでしょ?」

 

「ほ~ら、引っかかった」

 

「左手には……と、しどろもどろ答えるところで、右手を湯につけずに温泉に入ったと言う答えが導かれます」

 

「まあ……」

 

「客席の一番前に正先輩の席を確保してありますので、そこで演奏を聞いてください」

 

パチパチ、パチパチ。拍手とともに、隆たち、セプテットのメンバーがステージに上がる。

 

「?」

 

なんだか演奏の前に、演奏者が僕を見てクスクス笑っている。

 

ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの弦楽器は笑いを我慢して演奏できるけどけど、管楽器のクラリネット、ファゴット、ホルンの管楽器のメンバーは無理。

 

何かが面白くて、楽器が吹けないらしい。みどりちゃんはその訳を知りたがる。

 

「こずえちゃん。皆んなどうしちゃったんだろうね?」

 

「さあ……?」

 

まだ、曲が始まらない。みどりちゃんは不思議がる。

 

ホルンの隆と、クラリネットの里奈ちゃんは咳払いをして落ち着き始めたが、ファゴットのメンバーの笑いが止まらない。

 

「こずえちゃん! 正さんのおでこ、おでこ!」

「いたずらしたでしょ?」

 

「はい」

 

「バッテンと、ダメ正、と言う文字」

「最前列の正さんのそれを見て、管楽器の人が噴き出しそうで演奏できないのよ」

 

「はあ……?」

 

「はあ、じゃなくて!」

「正さんのおでこの眉墨、落としてきてあげなさい」

 

「わかりました」

 

こずえちゃんに手を引かれ僕が席を立ち、後ろを振り向くと、オケのメンバーにも大受けする。

 

小夜コンの高貴な空気が、一気に笑いの空気に染まる。

 

「ダメ正! ダメ正!」

 

オケの皆んなからのシュプレヒコールが起こる。

 

「ガハ! ハハハ、ハハハ!」

 

僕は、こずえちゃんにメイク落としでおでこを綺麗に拭いてもらう。しかして、ザワザワした笑いが残る。僕は、この場の空気上、最後尾の席に座る。

 

ようやくセプテットは始まる。

 

「さすが四年生の演奏だね」

 

「隆はやっぱり上手いな~。プロ並みだよ」

「ああ。二、三度プロのトレーナーの先生から、プロテストの誘いを受けているからな」

 

「里奈ちゃんも上手」

 

「うん。里奈ちゃんも玄人はだしだ」

 

「バイオリンはコンサートマスター、ビオラ、チェロもパートのトップ」

「セプテットの完成度、半端なく高いね」

 

高原の園、ベートーベンの姿が降臨してきそうな空気さえ感じられる演奏。

盛大な拍手をもって演奏が終わる。

 

元々今日の小夜コンが長引くのが予想された上、僕のおでこ事件もあり、予想通り予定より10分程時間がオーバーした。

 

皆んな、ゾロゾロ宴会場へ向かう。僕の脇には、みどりちゃんとこずえちゃん。

 

「ほら、私が予想していた通り、10分くらい宴会開始が遅れたでしょ?」

 

こずえちゃんが、してやったりみたいな顔をする。

 

「おでこ事件がなければ、ほぼ定時に終わっていたよ」

 

「はぁ……」

 

みどりちゃんは、僕に同意してため息をついてうなずく。

 

「ただし~。勘弁してよ」

 

隆と里奈ちゃんと、ファゴットのメンバーが僕らに駆け寄る。

 

「あれ見せられて、俺たち吹けないところだったよ」

「まあ、何とか笑いを我慢して最後まで吹いたけど」

「下手な罰ゲームより辛かったぞ」

 

「すまんすまん。僕が何故あやまらなきゃならないのかは、イマイチ不明だけど」

「とにかく謝るよ」

 

当の事件を起こした本人のこずえちゃんは、何やら宴会芸のおさらいをしているように、ひょうひょうとして踊りながら歩いていく。

 

「どうする? 隆」

「温泉に浸かってから宴会出るか?」

「ああ、そうしよう」

 

「ダメです! 先輩方!」

「男子は宴会開始時間厳守!」

 

「でも、一年生女子の出し物は、どうせ9時ちょっと前になるでしょ?」

「当の女の子たちも、温泉に入ってから集まり出すだろうし」

 

「それはそうですけど……」

 

「ねっ。話は早い」

 

「では、不肖、こずえも、宴会開始宣言直後に、すぐ温泉に参ります」

 

「それはどうぞご自由に」

「僕と一緒に入るわけじゃないんだから」

 

「あら! 正先輩エッチです!」

「18の乙女に、お風呂に一緒に入るだなんて想像させて……」

 

「どの頭が、そんな風に言葉を解釈する?」

 

「正先輩ってこずえと知り合ってから結構勃つのに、手も握ってくれない……」

「あぁ……、僕と一緒に。その言霊は、いずれ本当の現実になるかも……」

 

「頭の中で、妄想が膨らみます」

「正先輩も想像してください」

 

「正先輩も膨らみますよね? 頭だけじゃなくて……」

「サヤの下は善タマキンと悪タマキンのどちらなんでしゅかね?」

 

「ほら、正。行くぞ~」

 

隆と水野が温泉に向かう声。

 

「じゃあ、こずえちゃん。その話はこの辺で」

 

「一旦、SMですか?」

 

「そんな、テレビドラマじゃないんだから」

 

 

ーーーーー

 

 

「こんばんわ。ダメ正さん」

 

恵ちゃんのウキウキした口調で会話が始まる。

 

「どうしてそれ、恵ちゃん知ってるの?」

 

「なんでだろうね~」

 

恵ちゃんは電話口でフフフと笑う。

 

「正くん。相変わらずいいように遊ばれてるね」

 

「ああ……」

 

「まあ、いいじゃない」

「何も起きない、面白くない合宿より」

 

「僕は、何事もなく、落ち着いた感じの合宿の方が全然いいよ」

「今年はこずえちゃんの登場があって、朝から晩まで、笑いの絶えない日々になってる」

 

「こずえちゃん、アナウンスが上手なんだって?」

 

「どこの誰がそんなこと言う?」

 

「夕子ちゃんよ、夕子ちゃん」

 

なるほど、ダメ正の件も夕子ちゃん経由の情報か。

 

「こずえちゃんは放送事故率100%だよ」

「あれ、アナウンスじゃなくて、芸、お笑いの芸だよ」

 

「こずえちゃんらしいね」

 

「そうそう、恵ちゃん、何時に名古屋入りする?」

 

「うん?」

 

「正くんに合わせようと思って」

「新幹線の時間は選び放題だし」

 

「そう」

 

「僕は、夕方5時ころ名古屋に着くよ」

 

「うん。分かった」

「じゃあ、私もそのころに着く新幹線で行くね」

 

「待ち合わせは駅じゃなくてホテルでいいよね?」

 

「うん。ホテルでいいわよ」

 

「正くん、名古屋での夕食、食事処か居酒屋か、何処か美味しい店知ってる?」

 

「いや。僕、あまり名古屋に詳しくないんだ。いとこの結婚式に泊まりで行ったことがあるくらい」

「あと、名古屋城、日帰り見学したくらいかな」

 

「そうなんだ……。実は私もあまり名古屋に詳しくないの」

 

「東京から、日帰りで行き来できる街だからね」

「いつも観光もせずにスルー」

 

「そうだ。オケのメンバーなら、だれか名古屋、少なくとも愛知県出身のメンバーがいると思う」

「そうではなくても、名古屋に詳しい人とか」

「おすすめの食べ物や、ディナーやデートにいい店なんか紹介してくれるかもしれないね」

 

「そうね。お願い」

 

「会えるね。明日」

 

「うん。会える」

 

「恵先輩とラブラブ電話ですか、正先輩……」

 

こずえちゃんが、お風呂道具を手に持って僕のそばにやってくる。

 

「デートか何かの打ち合わせですか……」

 

「じゃあ、こずえちゃんが来たから切るね」

 

「うん。じゃあ、明日!」

 

「私が来たから切る……」

「それ、とても冷酷な言葉です」

 

「怪物扱いです」

「邪魔っ気にしているでしょ。私のこと、二人とも」

 

「いや……、そういうことは全然ないよ」

 

「まあ、いいです」

「不肖こずえ、名古屋にはめちゃくちゃ詳しいですよ」

 

「あれ、こずえちゃんの出身は千葉県でしょ?」

 

「何処だっけ……、あの……」

「そう。習志野」

 

「はい。習志野ごんべえです」

 

「そうそう、それ」

 

「どうしてこずえちゃん名古屋に詳しい?」

 

「カップルで乗ると、かなりの確率で別れに至るという、栄の観覧車にまず乗ってください」

 

「のっけから、何でそんな縁起の悪いことしなきゃならない?」

 

「恋の運気を下げてから、夕食に向かいます」

「密会の夕食場所ですが……」

 

「どうして、密会という言葉になる?」

「普通の晩ご飯の場所探しだよ」

 

「今、正先輩の存在意義と心はここ、志賀高原にあります」

「すなわち、名古屋に行くというのは、恋人を残して浮気に行くようなものです」

 

この言葉に、僕は一瞬なんだか頭が白くなる。

 

まあ、すぐに正気に戻る。

 

「こずえちゃん、別れさせ屋みたいな話の進め方はやめてよ」

 

「いや、仮定ですが、このこずえとの始まったばかりの恋をはぐくむため、名古屋で恋を精算する準備を開始しなければならないかもしれない」

「あくまで、かもしれない……、という推測の域を越えませんが……」

 

「恋とは、出会い、愛、そして別れでできている」

「そして、正先輩は、また志賀高原に戻ってくる」

「欲でできているストーリーです」

 

「そうそう、浮気や別れ話によく使われる食事処は、中心街からは少し離れています」

「高級住宅街に囲まれている処なのですが……」

 

「いいよ、いいよ、別に。庶民的な店で全然いいんだから」

 

こずえちゃんは話を続ける。

 

「夕食後の締めは、金城ふ頭付近の夜の散策」

「とても有名な心霊スポット」

「13番岸壁が特にやばいらしいです……」

 

「分かった、分かった、もういいよ」

 

「こずえ、リーベが一時、目の前から消えても脇舐めない」

 

「はいはい」

 

「そうだ! 正先輩!」

 

「何? 急に大きな声」

 

こずえちゃんが、思い出したような大きな声を出す。

 

「太田くんが愛知県出身ですよ」

「確か、実家が豊橋だったはず」

 

「そう。ありがとう」

「じゃあ、太田くんに名古屋のこと聞いてみるよ」

 

「なんだ、初めからそうすれば良かったのに」

 

こずえちゃんは、バシッと僕の背中を叩き、カラカラと笑う。

 

「詳しいからと、色々言い出したのはこずえちゃんの方だよ」

 

「じゃあ、正先輩、お先に温泉いってきま~す」

 

こずえちゃんはトコトコ、お風呂場に向かっていった。

 

「太田くん。ちょっといいかな?」

 

宴会場にいた太田くんをつかまえる。

 

「はい、何でしょう? 正先輩」

 

「太田くん、愛知県出身だよね」

 

「はい。豊橋です」

 

「名古屋の名物をさ、手軽に色々食べ尽くせるようなお店ある?」

 

「豊橋でですか?」

 

「いや、名古屋市内で」

 

「名古屋市内ですか……」

 

「そうですね、名古屋メシを少量ずつ、万遍なく美味しく食べるなら、名古屋駅の桜通り口から数分歩くんですけど、いいお店がありますよ」

「そこ、お酒も美味しいですし」

 

僕は、太田くんから、おすすめの店のURLをもらい、それを恵ちゃんにLINEで転送する。

 

「もしもし、正くん」

「美味しそうなお店ね」

 

「うん。期待できるね」

 

「ホテルからも、そんなに遠くないし」

「地元の人が太鼓判を押していてくれている店」

 

「楽しみね」

 

「うん」

 

「じゃあ、僕、温泉に入ってくるから」

「また夜にでも、LINEするよ」

 

「うん。分かった」

 

「じゃあね」

 

「じゃあね」

 

「正先輩、何してるんですか?」

 

こずえちゃんが温泉からあがってきた。

 

「お風呂まだですかぁ?」

「早く温泉に入らなかったら、猿に先に入られちゃいますよ」

 

「はい」

 

「猿は毛だらけですよ~」

 

「はいはい」

 

「正先輩、灰だらけになりますよ」

 

「僕は猫かい?」

 

「まあ、どうでもいいから急いでください。9時から、私たちの出し物があります」

「男子の皆んな、悩殺しちゃいますからね~。オー、イヤン、ヒーヒーさせます」

 

フフフと不気味な笑いをしながら、こずえちゃんは宴会場に向かっていった。

 

第102話

 

「正。そこのCの音、音程合わなくないか?」

 

「そう?」

 

「指は何でとってる?」

 

「B♭管の1番で」

 

「だからか、低いの……」

 

「そこは、F管の開放にして」

 

ホルンは複雑な楽器だ。

 

僕の楽器は、B♭管、F管、HighF管を持つトリプルホルン。モダンホルンは、何種類もの長さの管の集合体。一つの目的の音を出すのに、何通りかの指使いがある。

 

そしてさらに、ひとつの指使いで16個以上の自然倍音がある。演奏者は、16個以上の自然倍音の中から一つを選んで演奏する。

 

ホルンは、ギネスブックで、最も演奏の難しい楽器として認定されている。思った音を出すためには、人間の動き、すなわち、唇の使い方、肺や横隔膜、腹筋の働きそのものをコントロールする。

 

注意しないと、時折、目的の音ではない倍音が出る。つまり音を転ばせてしまう。これは、プロでさえたまに起きる事象。

 

「はい。もう一度」

「第四楽章、最初から」

 

ホルンパートでのマーラーの練習は主として隆がリーダーとなり進めている。

隆がいないときは次に上手い水野がリーダー。

 

僕は、何て言うんだろう? 音の出る付録? みたいな役割。

 

大学に戻れば、ホルンパートでは月1位でプロの先生に来ていただき、トレーナーとなって指導してもらっている。

 

「いいねえ~」

「正。そのCは絶対にF管の開放ね」

 

「ああ、分かった」

 

僕は楽譜のCの音に、ここはF開とメモをする。

 

「はい。次は、第一楽章、練習番号25から10小節目のタカタカタ、タータ、タータ、タカタタータ、タカタタータ、タカタタカタタカタタカタ、タッタタカタ、タッタタカタタン」

 

僕ら8人とも、この簡単ではないフレーズを歯切れ良くカッチリと吹きこなす。

 

「よし、ばっちり。気持ちいいね」

 

隆がご機嫌。

 

「次、練習番号26小節のアーフタクトから27まで」

「タラララ、タラララ、タラララ」

 

ウルトラセブンのテーマに出てくる様なフレーズ。

 

「よし。これも良し」

 

「さて、あとは譜面で見よう」

「最終チェックだよ」

 

「第二楽章、練習番号15番からの上のハイEの音」

「この一瞬芸の音、皆んな外さないでね、目立つから」

「高音の得意な正は、HighF管で確実に当てて。任せたよ」

 

「あと、第四楽章、練習番号55から59小節目まで」

「ここは全員で吹かないで、1stアシスタントもいれて、ひとフレーズづつ上二人、オクターブ下二人、四人づつで吹く」

「そうじゃなきゃ、HighDの音を連続で吹いたら、皆んなのアンブシャが最後までもたない」

 

「ただし、分ける分、皆んなフォルテッシシモだよ。音が割れない様に、しかして最大限の音量で」

 

「練習番号56、aufstenhen。起立の指示はその通り起立する」

「この起立も合わせようね」

 

「さて、合奏まで30分間、休憩に入ろう」

 

隆と水野と三人でホテルのロビーに向かい、ソファに座る。

 

「今日は通し練習だから、5時から6時までの自由時間、録画したビデオをしっかり観て、皆んなで問題点を抽出しよう」

「正は明日から二泊三日でいなくなるし」

 

「済まんな、みんな……」

 

「まあ、仕方ないよ」

 

隆も水野も僕の件は折り込み済み。

 

「今日がマーラーの通し練習なのが、ラッキーだったね」

 

ホルンパートの面々は皆優しい。

 

「仕方なくありません」

 

白のドレス風の服に着替えたこずえちゃんが夕子ちゃんと紀香ちゃんと一緒に、のっし、のっしとロビーにやってくる。

 

「こっ……、こずえちゃん。どっ……、ドレスかわいいね」

 

「ええ。白いドエスの女です」

「ホモゴロシは結構です」

 

「二晩もリーベを寝取られてご覧なさい?」

「その心の苦痛たるもの、計り知れないところです」

 

「恵先輩を肉踏んでも肉踏み足りない」

「個人的なハラミはありませんが……」

 

僕らを見るなり、のっけからブウブウ文句。隆と水野は笑っている。

 

「誰が誰のリーベなの?」

 

僕は意図は分かっていて、ぼそっとつぶやく。

 

「でも、こずえちゃん。元気にそういう事を言えることは、こずえちゃんの気持ちの中では、その問題は解決済みということなんでしょ?」

 

隆がこずえちゃんに問いかける。

 

「いいえ。ホルンパートの練習、そしてオケの全体練習にまで迷惑を広げ被らせる」

「弦楽器は、大勢で弾くので、一人二人、止むを得ず抜けても大丈夫ですが、管楽器は……」

 

「ホルンは一人一譜面。すなわち、オケから正先輩の楽譜の音が丸々穴が空きます」

「女の子ならもともと穴が空いているので良いですが、交響曲に穴が空いてはいけません」

 

「まあ、それはともかく、事情が事情でしょ?」

 

「いえ。正先輩の、きわめて個人的な用事での穴あけですから、許せません」

 

「こずえちゃんさ、前泊はついたけど、元々皆んな知ってたし」

 

「個人的事情というより、正や恵ちゃん、そして義雄くん大樹くんや、そしてまた、みどりちゃんの、カーネーションのオレンジ色の発現機構についての研究成果の発表じゃない」

 

隆が助け舟を出してくれる。

 

「それは、分かります」

 

「海外からのお客さんも来るみたいだし」

 

「農学部内では、十分成果の噂が広まったらしいけど、ウチの教授が工学部でも植物色素合成系遺伝子、制御遺伝子に関する極めて重要な知見、発見の一つとして宣伝して回っているよ」

「遺伝子については、特許も出すし」

 

よく知っている隆からのさらに駄目押しの言葉。

 

「それも分かります」

 

「じゃあ、こずえちゃん何が分からない?」

 

「恵先輩との夜が分かりませんから……」

「血の気がなくなり、貧乳で夜何度も目を覚ましそうです」

 

「よう! 正」

 

OB達がロビーにやって来た。

 

正の肩を叩く。

 

「明日の昼食が終わったら俺たち帰るから、ここから長野駅まで車で送ってやるよ」

 

「本当ですか?」

 

「ああ」

 

「ありがとうございます」

 

「長野から名古屋までは特急一本だよな? 午後2時頃発車の」

 

「はい」

 

「何発してくるんだ?」

 

「二泊ですよ」

 

「あっちでは、モノホンの彼女が待っているんだろう?」

 

「ええ……、まあ」

 

「いいなあ、正」

「恋の穴が埋められる」

 

「正、ホルンの腕はそこそこだけど、指使いは上手いからな」

 

OBが、卑猥な指使いを見せる。

 

「彼女も喜ぶよ」

 

カラカラ笑って、OB達は去っていく。

 

「いいなあ、正……」

「恋の穴が埋められる……」

「私の穴はあんぐりとあけられたまま……」

 

こずえちゃんが、今度は寂しい口調でOBと同じ言葉を繰り返し、震える瞳を伏せた。

 

「ちょっと野望用思い出したので一旦部屋に帰ります……」

 

 

ーーーーー

 

 

「何だろう? 各管楽器パート、それぞれ自身は間違えていないんだけど、合奏となるとゴチャゴチャして聞こえるところがあるね」

 

僕ら、ホルンパート8人が、今さっき終わった通しの合奏のビデオを分析する。

 

「例えば第一楽章、練習番号25から」

 

「ああ。トランペットや木管楽器とどこか上手くハマっていない」

「アーティキュレーションの取り方の違いだね」

 

隆が言う。

 

時折ビデオを早回ししながら、僕らのパートに関係する部分をチョイスして演奏を分析する。

 

「四楽章の管楽器のいくつかのユニゾンとかもそう。ゴチャゴチャ感がうかがえるね」

「アクセントとか、スタッカートの取扱い方にどこかパート間で感覚的な違いがあるんだ」

 

水野も隆と同じようなことを言う。

 

「明日の午前中はパート練習だけど、管楽器合奏に変更して、皆んなでゴチャゴチャしている部分をスッキリさせようか」

 

「まずは、管楽器パート間でのアーティキュレーションの統一だね」

「それが出来れば、かなりいい演奏になるはず」

 

「そうだね」

 

ホルンパートの皆んなで同意する。

 

「さて、夕メシ食いにに行こうか」

 

「ああ、行こう」

 

 

ーーーーー

 

 

「あ~、彼が去る! よそに行く! 遠くの彼女の元に行く!」

「おら、こんな合宿嫌だ~、おら、こんなオケ嫌だ~、名古屋へ~ついてくだ~」

 

こずえちゃんのテンションが高い。

 

「さあ~皆んな! 中華だよ! バイキングだよ! オラの胃の中、満腹にするだ!」

 

さっきまでしおらしくしていたこずえちゃんが、右拳をあげマイクを持ち陽気に叫ぶ。

 

「お~っ!」

 

こずえ節のアナウンスには皆、もう慣れたもの。下手な芸より面白い。

 

オケの皆んなはこずえちゃんに乗る。

 

「さて、私、こずえは負けられません」

 

「おちんこ出る……、じゃなかった、おちこんでなんていられません!」

 

「おい、正。こずえちゃんなにかあったのか?」

 

OBが僕に聞く。

 

「さっきのロビーで……」

 

「ああ、正が明日から彼女のところに行って、しっぽりしてくると言う話か」

 

「はい」

 

「女の子って、泣いて、笑って、泣いて、そしてまた笑う」

「側にいて、側にいて、そして離れて、また側にくる」

「愛すべきものだよ」

 

「単なる恋のから騒ぎだって」

 

「はい」

 

「正、彼女もこずえちゃんも大切にしな」

 

「さて、中華料理は薬膳とも考えられまして……」

 

「こずえちゃ~ん、朝、言ったでしょ? 中華の説明はもういいよ~」

 

「はい。了解です」

 

「では、バイキングとは、8世紀末から11世紀中頃までの……」

 

「北欧のどうのこうのもいいから、早くメシ食わせてよ~」

 

「わかりました」

 

「さて、事務連絡は後回しにするとして」

「風紀係として一言だけ」

 

「合宿も中盤にさしかかり、男女間のイチャイチャ度がかなり目立ってきております」

「明日から三日間を風紀強化期間といたしまして、風紀の乱れ、私、こずえが厳しくチェックして参ります」

 

「ずるいよ。こずえちゃん」

 

外野からブーブー文句が出る。

 

「正がいなくなるからってさ、私事を風紀強化に変えないでよ」

 

「まあ、恋はいつでも大騒ぎ、と言うところですか」

「切なく素敵な恋が遠くに行く」

 

「一人の夜は寂しいものです」

 

「心だけでも、つかまえて、追いかけて。そして私の本当が見つけられる……はず……」

 

「わかった、もうその話はいいから」

「メシだ! メシ!」

 

「はい」

 

「皆様、それでは、いた~だきます!」

 

「いた~だきます!」

 

「正さん。お隣いいですか?」

 

「ああ、みどりちゃん。いいよ」

 

「いよいよ発表ですね」

 

「ああ」

 

「Excision of Transposable Elements from the Chalcone Isomerase and Dihydroflavonol 4-Reductase Genes May Contribute to the Variegation of the Yellow-Flowered Carnation」

 

「みどりちゃんの貢献度、ものすごく高いよ。論文化したら、みどりちゃん、ファーストオーサーだね」

「うちの義雄も頑張ったみたいだけど」

 

「そう。義雄さんからLINEがきました」

 

「おや? 何かの用事?」

 

「カーネーションにおいて花色が黄色を呈する要因の一つとしてトランスポゾンの挿入によるCHI 、すなわちchalcone isomerase、およびDFR 、dihydroflavonol 4-reductase 遺伝子の発現量の減少が見いだされた訳ですよね」

 

「この二つの遺伝子がブロックされることによって中間産物が CHGT 、つまりchalcone 2’-glucosyltransferaseにより配糖体化され、chalcone 2’-glucosideが蓄積し、黄色を呈することが考えらている」

 

「義雄さん、このCHGTが7つほどあることを改めて確かめたんです」

 

「うん。それで?」

 

「CHGTcDNA をクローニングし、その基質特異性をまた確認しました」

 

「黄色およびオレンジ色花色カーネーションにおけるそれらの遺伝子発現様式について解析を行った結果、カーネーションの花弁におけるCHGTの発現は、他のアントシアニン合成酵素と比べて低いことが見い出された」

「そしてカーネーションのオレンジ花色花はCHGT とDFR の微妙な発現時期の違いによる、chalcone 2’-glucosideとアントシアニンの共存により発色していることが見いだされた」

 

「そんなこと、私に確認の意味を含めてわざわざ連絡してきたんです」

 

「義雄のやつ、なんで僕に連絡よこさずに、みどりちゃんにだけ連絡したんだろ?」

 

「正さんには、発表頑張ってくれと伝えてくれ、みたいな事言ってありました」

 

「他に何か、みどりちゃんへは?」

「合宿どう? とか 高原の園での暮らしどう? とか」

 

「そう言うことは、何にも……」

 

「相変わらず色気ないな、義雄は」

 

「いや……、ただ、私に……」

 

「みどりちゃんに?」

 

「私がいなくて寂しいって……」

 

「いいじゃない! 義雄の本音だよ。好きな人がそばにいないと寂しいんだよ」

「みどりちゃん、返信した?」

 

「いいえ、まだ……」

「何と返信したらいいやら……」

 

「み~どり先輩っ! 何に変身するんですか?」

 

こずえちゃんが、僕らの側に寄ってくる。

 

「ウルトラマンですか~?」

「仮面ライダーですか~?」

 

「どうしたの、こずえちゃん。ますます壊れちゃったの?」

 

「盗み聞きしました。私の言うとおりですよっ!」

「切なく素敵な恋が遠くにある。一人の夜は寂しいものです」

 

「その気持ち、ジョンレノンが合いますです」

 

「Woman, I can hardly express~」

 

こずえちゃんが歌い出す。

 

「愛する人よ、僕は自分の感情を伝えるのが下手だし」

 

「My mixed emotions at my thoughtlessness~」

「気持ちをどう伝えて良いか分からず、戸惑う時もあるけど」

 

「そう、きっと義雄さんです、これ」

 

「And woman I will try to express~」

「僕は自分の感情を素直に伝えられる様にするよ」

「My inner feelings and thankfulness」

「だって、心の中では何時だって君に感謝してるんだからね」

 

「いいですね! 愛だの恋だのじゃなくて、感謝です」

 

こずえちゃんが和訳を挟み挟み歌い続ける。

 

「For showing me the meaning of success~」

「それに、君は僕に気持ちを伝える大切さを教えてくれた」

「And woman hold me close to your heart~」

「そして、君、僕を抱いてくれ。君の心の側にいつまでも」

「However distant don't keep us apart~~」

「離れる事無くいつまでも、ずっと……」

 

「でしょ?」

「ね~。み~どり先輩」

 

「こずえと正先輩のように、義雄先輩の心と、恋のアーティキュレーション合わせなきゃ!」

 

こずえちゃんが、カラカラ笑ってみどりちゃんの背中をポンと叩く。