第120話 (第7章 最終話)

 

 

「あのさ、大樹」

 

「何?」

 

「今まで大樹的な女の子の落とし方? 聞いてきたけど、俺、それ女の子をモノ的に扱っているように思うし、相手に失礼な気がするんだけど」

 

「いや、違う。モノじゃない、品なんだ。男への贈答品」

 

「モノと品とはどう違う?」

 

「そっ、それは……」

 

「ほら、同じだろ」

 

義雄は、フン、と言った口調の投げ言葉。

 

「みゆきさん。話、面白い展開になってきそうですよ」

 

ファミレスの入り口で恵ちゃんが首を可愛らしく傾げて微笑む。

 

「起承転結の転ですね」

 

みゆきさんもすっかり会話の行く末に興味津々。店のドアを開け恵ちゃんを先に中へと手招く。

 

「大樹はさ、女の子の気持ちを無視して、自分のペースに女の子を巻き込もうとだけしていないか?」

「それって俺的な女の子との関わり方のポリシーに反する」

 

「なら、義雄言ってみろよ。義雄的な女の子の口説き論」

 

「いや、それって……。イマイチよくわからない……」

「正なら……」

 

「正? 手術したばかりでもうとっくに寝てるぞ」

 

「いや、ダメ元でLINEしてみる」

「もしかしたら、電話に出るかも……」

 

「さすが、電話は無理だろ」

 

義雄はスマホををゴソゴソ探し始める。

 

「大樹……。俺のスマホ、マジ見当たらないんだけど」

 

助手席あたりをあちこち探すが見当たらない。

 

「車止めて探すか? そうだ、お前のスマホにコールするよ」

 

「やばいですね。みゆきさん」

 

恵ちゃんとみゆきさんは息を飲む。

 

「まあいい。もうすぐ近くのコンビニで一休みするからその時探せ」

「ほら、俺のスマホでLINEしろ」

 

「ああ……」

 

「みゆきさん。もう少し、お楽しみが続きそうですよ」

 

みゆきさんは素敵に微笑む

 

 

 

 

 

 

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「さあ、お尻相撲の決勝戦です!」

 

「お~っ! が~っ!」

 

二次会の面々はどんちゃん盛り上がる。

 

「結局決勝は、初戦のこずえちゃんと谷崎じゃん」

 

「はい。こずえが積極的にお尻を突くと、どうも相手は皆、痔だったようで……」

 

「そんなバカなことないよ」

 

負けた一人の隆が笑う。

 

「いや、隆先輩は痔なんですし、そのあとの篠崎先輩も痔なんでした」

 

「俺たちは確かに次男だけど、痔なんかじゃないよ」

 

隆が言う。

 

「似たようなものです」

「苦戦したのはハミデこと尾崎くんです」

「でも尾崎くんの苦手をこずえ、知っておりましたので」

 

「苦手? 何?」

 

「ピーマンとタマニギです」

 

カーッカッカ! プープップ!

 

宴会場は笑いの渦。

 

「あのさ、タマ握りは反則だよ、こずえちゃん」

「男は皆んな苦手」

 

「いや、さすがのこずえもそんなこといたしません」

「正先輩のなら、優しく……」

 

こずえちゃんはうつむいてモジモジする。

 

「こずえちゃん、何もこんなところで恥じらわなくていいからさ」

 

「多分、尾崎くんは下付きなんだと思います。だからお尻がぶつかると同時にタマも突かれて……」

 

「そら痛くて負けるはずだ……、ってウソ」

「こずえちゃん。そんなマンガ的な解説しないでよ」

 

「尾崎くんの部屋は、けっこう絵だらけ描と灰皿だらけだそうです」

「だからタマの位置もマンガ的なのかも」

 

「それとこれとは話がちゃうでしょ」

「まあどうでもいい。決勝戦を始めよう」

 

行司の水野がこの場を仕切る。

 

水野が団扇を上げる。

 

「に~ぃしぃ~、馬のぉ~なみぃ~。ひがぁしぃ~、たからぁくじぃ~」

「ハッケヨイ、のこっ……」

 

「ちょっといいですか」

 

西の谷崎くんが待ったをかける。どうやらジーパンを脱いで短パンでガチの勝負をしたいらしい。

 

「谷崎。なんでも途中で脱ぎ出すのはお前の悪いクセだぞ」

「まあいい。短パンでね」

 

「私も脱いでいいですか?」

 

「えっ? こずえちゃん。スカート脱いでどうなるの?」

 

「私はブルマーです。昔、無料の女好き、じゃなかった、無類の女好きのおじさんたちにはたまらなかった姿です」

 

「俺たちにもたまらないよ~!」

 

外野からダミ声が飛ぶ。

 

「この勝負は勝たせてもらうからね、こずえちゃん」

 

「あら、谷崎くん。尿に自信満々ですね」

「こずえも負けません」

 

「さて、ハッケヨ~イ、のこっ……」

 

「ちょっと待ってください!」

 

「なになに、また待った? こずえちゃん」

 

「この勝負こそ、両方勝者になる危険性があります」

「谷崎くんのは品が違います。とても長いから、万が一短パンの横からはみ出て、こずえが2ミリ締めると犬のようにお尻どうしがくっついて……」

 

「どこを握り締め、いや、2ミリ締める?」

「どうやってくっつく?」

 

水野が問いかけると、

 

「それ、女の子に言わせます?」

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

「大樹。正から返信あったぞ」

 

「おっ! まだ起きてたか」

「LINEの文面、読んでみてくれ」

 

「ああ」

 

「カーネーションがオレンジ色になる際に、CHI遺伝子が完全に壊れているとして、スポンテニアスイソメラゼーション、すなわち基質が自然に有色色素への基質に異性化されることは考えられないという仮定をしてみると、全てのカーネーションの黄色花色やオレンジ花色は遺伝子レベルで説明される。色の濃淡についてもだ」

「そう書いてある」

 

「今そんな話をしているんじゃない」

「女だ、女を落とす方法」

 

「文面を変えて送ってみろ」

 

義雄が大樹との話の経緯を手短にLINEする。

 

「なんて書いてきた」

 

「何バカな話してるんだよ。こっちは痛みで眠れないんだよって」

 

「まあいい。落とす対象相手はみゆきさんだってこと書いたか?」

 

「いや……、それは……」

 

「とにかく正流の女の口説き方を聞いてみろ」

「皆んなの憧れの恵ちゃんを手に入れたんだから。参考になるだろ」

 

「恵さん。私、興味あります。素敵な恵さんをゲットした正さんの女性観」

 

「私もあらためて聞いてみたいわね。正しくん、どんな女性観を語ってくれるやら」

 

恵ちゃんとみゆきさんはドリンクバーに足を運ぶしまも惜しく、ガラガラに空いたファミレスの隅っこの席でスマホのスピーカーに耳を傾ける。

 

「読んでみろ」

 

義雄はLINEを読みあげる。

 

「女の子にモテない男の子に共通するのは、女の子の視点を理解していないから、すなわち女の子の主観的な経験を無視しているからだよ」

「そう書いてある」

 

「主観的な経験? なんだそりゃ?」

 

大樹は口を尖らせる。

 

「続けるよ」

「腹が痛くてとても辛いと書いてある」

 

「そんなところは読まなくていい。続けろ」

 

「ああ」

 

「女の子の主観的な経験は、男の主観的な経験とは全く違うんだ。その違いをしっかりと理解することから恋の準備を始めなきゃ」

 

「はいはい。それで」

 

大樹がイラつき気味に義雄に催促する。

 

「男が女の子に交際を申し込むときに、もっとも恐れるのは拒否られることと恥をかかされることだろ」

「でも女の子は、男の子と交際するときに、拒絶されることは男ほど恐れない。恐れるのは、物理的に危害を加えられることと、性的な暴行を受けるかもしれないという不安なんだ。人類の女性共通で」

 

「へぇ~。正くんの女の子への配慮、人類のもっとも原始的なレベルから始まってるんだ。私、知らなかったわ」

 

「正さん、すごい」

 

みゆきさんのコーヒーをすすりながら感心する様子がとんでもなく可愛い。恵ちゃんはその様子に少し嫉妬。

 

「おいおい。俺たち男はそんなことしないぞ」

「ナンパは性的な興味から始まることもあるけど、暴行なんてするわけない」

 

「そうだよな」

 

大樹も義雄も僕の言葉がまだ腑に落ちない。

 

「だってさ、これまでの人生で女の子を痛い目にあわせたことなんてないし、これからもありえないよ」

「正にそう打ち返せよ」

 

「分かった」

 

大樹と義雄はしばらく待つ。

 

「返事が来たよ」

 

「男の動機は正しいだろうと男たち自身は思う。大抵の男は実はきっと無害だよ。でも、肝心なことは、彼女はそのことを知らないということなんだ」

 

「なるほどね……」

 

大樹がポツンとつぶやく。

 

「じゃあどうすればいいか聞いてくれ」

 

義雄が手早くLINEを打つ。

 

「女の子を魅了するには、手段としてモノ扱いすることをやめ、彼女の視点に立つこと。素敵に生きていて、ものごとを前向きに考えることのできる、優れた感覚をもった一個人として扱うこと」

「あ~腹痛い」

 

「腹痛いはどうでもいいから続けろ」

「俺だって、女の子はモノではなく品だって思ってる」

 

「大樹よ。だから、モノと品とは一緒だって」

 

義雄が独り言のようにつぶやく。

 

大樹も何だかんだ、僕の女性観の話に引き込まれる。

 

「正さんって女性への気持ち、よく理解できてますよね」

「私も惚れちゃいそう」

 

「あら? 最初から惚れちゃってるんじゃないですか?」

 

恵ちゃんが微笑む。

 

「いいかい、彼女をモノではなく主体として扱い、受け入れ、理解し、個人的、主観的な意識を認める必要があるんだ」

「女の子の視点を理解する一番効果的な方法は何だと思う?」

 

大樹はイラつく。

 

「よくわからないから聞いているんだ。女は品だと、正に伝えろ」

 

「分かった」

 

大樹がタバコに火をつける。煙がくゆらす車内で義雄がLINEの質問を続ける。

 

「あのさ、品、すなわち商品は男の方だよ」

 

返信を聞いて大樹はいつもより早いペースでタバコをふかす。

 

「何だそれ?」

 

大樹が言うまでもなく、義雄が即返信。

 

「女の子の視点を理解する一番効果的な方法は、女の子を男の子のお客様として理解することだと思う」

「女の子は男、すなわち僕らという商品とその広告、つまり男の性格とそれを示す確たる証拠を評価して、自分の人生に価値をつけてくれるかどうかを判断する消費者側なんだ」

 

「男が品?」

 

大樹はタバコを強く消す。

 

「大樹よ。正の話、お前の逆じゃん」

「でもなんか、俺は正の言っていることにガチ共感する」

「ナンパのイロハで知るイメージと全然、女の子へのアプローチの心構えが変わる」

 

「正に、ナンパと正のアプローチ論とどっちが女を落とすに早いか聞いてみろ」

「絵に描いた餅じゃなくて、実際女をこの手に入れるスピード、結果が大事なんだから」

「女の子を大切に扱うというテーゼは変わらない」

「その後先の違いだろ?」

 

「俺はそうじゃないと思うな」

 

義雄はそうつぶやき、正に問いかける。

 

返事が返って来た。

 

「女の子をモノ扱いするのは道徳的に間違っているだけではなく、モテという目的に照らした実用的な観点からも愚かだよ」

「女の子は、秒で男性の外見だけでなく、人生がうまくいっているかどうか、一緒に楽しんで歩んでいける人かどうかまで評価できるんだ」

「ナンパって、秒で落とせるかい?」

 

「義雄。あそこにコンビニがある。一休みしよう」

「スマホもそこで探せ」

 

「あいよ」

 

「みゆきさん。二人の会話ならぬ正くんの女性感も聞けて有意義な盗聴……、じゃなくて拝聴でしたね」

 

恵ちゃんはスマホの通話を切る。

 

「はい。正さん、素敵です」

 

「明日は3人揃いますね。どんな話の展開になるやら」

「義雄くん、みゆきさんにどんなアプローチしてきますかね?」

 

「さあ、どうでしょう」

「でも、義雄さん、素敵な友達に囲まれていて幸せな男の子だと感じました」

「今日はそっけない対応をしてしまいましたが、明日は優しくしてあげようと思います」

 

恵ちゃんもみゆきさんも、お互い素敵に微笑む。

 

 

 

 

 

 

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「優勝、たから~くじ~」

 

行司の水野の軍配が東のこずえちゃんに上がる。

 

「あのさ、こずえちゃんズルしたよ」

 

谷崎くんからの物言い。

 

「ズルムケ長チンは谷崎くんの方です」

 

「それは僕への侮辱だよ」

 

「ホモ言葉です」

 

こずえちゃんと谷崎くんの会話を無視して、

 

「協議に入ります」

 

行司の水野、隆と紀香ちゃん、夕子ちゃんが協議に入る。

 

こずえちゃんが最初にお尻を合わせた際、手を使って谷崎くんの短パンをずりおろしていた疑惑が浮上。谷崎くんが負けた原因は半分ケツが見えたことによる反則負け。

 

「協議の結果を報告します」

「こずえちゃんの所作は相撲で言うまわしを取る行為とみなし、判定は覆りません」

「半ケツを出した谷崎くんの、判決負けです」

 

お~っ! やったね! こずえちゃん。

 

ワイワイ、ガヤガヤ二次会のメンバーは盛り上がる。

 

「さて、優勝者のこずえちゃん、一言どうぞ」

 

「こずえ、正先輩との防衛戦が待っておりますのでコメントは控えさせていただきます」

 

「何? 防衛戦って?」

 

「正先輩はまだ事務連絡LINEを開いておりません」

 

「何? それ?」

 

隆が気づく。

 

「あっ! あれね。どじょうすくいとひょっとこ踊りの」

 

「はい。秒で勝負です」

「LINEに動画のURLを貼り付けておいております。明日の午前10時に配信です」

「正先輩、それを開くかどうか……」

 

「あのさ、正先輩、今笑うと大変なことになるよ」

「未読なら削除しておきなよ。シャレにならないから」

 

夕子ちゃんの助言。

 

「明日、正先輩、恵先輩、大樹さんと義雄さん、そしてみゆき嬢が揃う午前10時以降、何かが起こります」

「動画見て、すったもんだ慌てなかったら正先輩の勝ちです」

「後日、こずえを優勝の品として吸った揉んださせてあげます」

 

 

 

 

 

 

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「あっ! あった」

「スマホ、助手席とコンソールの間に挟まってた」

 

「それは見つからないはずだ」

 

大樹がコンビニの駐車場で、またタバコをふかす。

 

「あれ? 通話記録」

 

「何?」

 

「いや……、恵ちゃんと……」

 

「恵ちゃんと何?」

 

「まあいいや。記録が残っているだけ。結構長いな……」

「でも会話してないから大丈夫」

 

「トイレ済ませたらすぐに出るぞ」

 

「ああ」

 

「名古屋への道はまだまだ遠い」

「みゆきさんの心にもだ」

 

「遠い……」

 

義雄もつぶやく。

 

「俺たちが受け取ってもらう品だ。女の子の主観的意識を感じ認めて、一緒にいると安心する、安心するから一緒にいたい。話していると楽しい、楽しいからもっと話がしたい。女の子にそう思ってもらうことが大切かもな」

「正の言葉を聞いて、ふと、そう思った」

 

大樹はタバコの火をゆっくりと消す。

 

「でもこれだけは確かだ。男はチャンスをつかむもの。女はチャンスをしつらえるもの」

「思いどおりにはならないが、きっとこの求愛に応えてくれる、そう思いこませるすべを心得ている男は、恋の最大の支配権を握る」

「たぶん……、いや、きっとそうじゃなきゃ男じゃない」

 

 

第119話

 

 

「女性の闘争本能ってすごいぞ。自分に勝てるような強い男を期待しつつ、弱い男が来ないように敵意も示す」

「例えば、君、可愛いね、という抽象的な言葉をかけても、ありがとう。義雄さんは普通っぽいですね。とサラッと言われて終わるパターンがあるとする」

 

「あぁ」

 

「でもな、ここで打つ手がある」

 

「打つ手?」

 

「あれっ? 義雄。なんか救急車の音しないか?」

 

「空耳だろ?」

 

大樹は耳を澄ます。人はハンドルを握るといろいろなものに敏感になる。隣であほけている義雄には聞こえない。

 

「みゆきさん。ヤバイヤバイ」

「今、近くを通っていった救急車の音が漏れたかも」

 

「ヤバいですね。大丈夫かしら?」

 

「まあ、義雄くんには聞こえなかったみたいだし大丈夫でしょう」

「しかし、大樹くんのいう打つ手ってなんでしょうね?」

 

「さあ……」

 

「まあ、大樹くんの話の大きな流れは、女の子にどうやって興味を持たれ、そして思い通りに動かすか。そんなとこでしょうかね?」

 

「はい。でも義雄さんには私へのリアルな真剣さがある分、二人の会話、微笑ましい」

 

「みゆきさん。こころ動かすのはまだ早いですよ。大樹くん、いや、男の子のほとんどは、女の子のところには一線を超えることが目的で近寄って来るから」

「女の子って、嬉しい時、悲しい時、はしゃいでいる時、ふさぎ込む時、いろんな時のしじまに止まり木になってくれるような男の子が欲しい」

「外見はイケメンは当たり前にいいし、陽気なおデブちゃんでもなんでもいい。もちろん、清潔感のクリアは大事ですけど」

 

「止まり木、ですか……」

 

「そう。こころも体も休まる男の子」

「私にとっては、一線を超えるかどうかは特にこだわらなかった。男の子が止まり木になってくれたら、私もお返しに止まり木になってあげる的な」

「体目的だけの場合は、磁石のN極とN極がくっつかないような絶対NGガードはしてきましたけど」

 

「いいか、義雄」

「三回二人きりで夕食を共にして、何もない女とはすぐに離れるんだ」

 

「いきなり何? それ」

 

「したいんだろう? お姫様と」

「遠距離恋愛にもなるし」

 

「違うよ……、大樹」

 

「ほらほら、狼の言葉が出てきましたよ」

「堪能しましょ、みゆきさん」

 

「はい……」

 

「三回目の夕食にありつくには、一回目の夕食がなきゃいけない」

「そうだろう?」

 

「ああ……」

 

「三回目を引き寄せるんだ。未来のために今する行動、それを引き寄せという」

「引き寄せには、女の子の感情を出会いからコントロールしなきゃいけない」

 

「はいはい。話を進めて」

 

義雄は助手席から夜空を見上げる。

 

「初対面で軽くあしらわれた可愛い、を具体化するんだ」

 

大樹がタバコに火をつける。

 

「アイラインの引き方上手だね。瞳が優しい」

「これが具体的に褒めるということだ」

 

「何度も聞いた。具体的ね」

 

義雄がペットボトルのお茶を開けて一口。

 

「そうですか。嬉しい」

「この言葉が期待にそって褒めてくれたという女の子の感情」

 

大樹はタバコの灰を落とす。

 

「次に、うん、素敵。目が。すごく可愛いよ、目が!」

「いいか義雄。これが女の子への攻撃だ。闘争本能に触していく」

「えっ? 目だけなの、もしかして私のいいところ……、と、女の子は無意識に劣等感を感じる」

 

「わけないだろ。大樹」

 

義雄はため息をつく。

 

「いやいや聞け、義雄。あくまで仮定だが劣等感を引き出したもの勝ちだ」

「その後、棒読みのセリフで、君全部可愛いよ、と平坦なトーンで冷たく話す」

「これも追加攻撃だ」

 

「どこが攻撃だよ。ナンパ師の一手法じゃん」

 

「違う。何よ、適当じゃない……、と相手は口にするか、思う」

「女の子は内心不快になる」

 

「不快にしてどうする?」

 

「不快にさせた後、ウソだよウソ。今の君の全部が素敵なんだ、僕にとって! と明るく声をかけ直す」

「これは女の子に対する救い。もう! 何、それ! とか微笑んで返ってきたら商談成立だ。救いの言葉が嬉しいというサイン」

 

「あのさ、ロジックは理解したけど、極めて不自然で現実味なくない?」

「どう聞いてもナンパの方程式に聞こえる」

 

「アドリブはいくつでも可能。大切なのは、相手の劣等感や優越感、不快、救いを刺激してあやつること。思い通りに感情をゆり動かすことなんだ」

「そして。この感情が先に話した引き寄せと共鳴する」

 

「共鳴? それ何?」

 

「あらあら、みゆきさん。話もたけなわ」

「感情と引き寄せ? 共鳴? どんな関係でしょう?」

 

また近くの幹線道路を救急車が走る。

 

恵ちゃんが、慌ててスマホのマイクを指で抑える。今度は音は届いていないらしい。

 

「引き寄せは感情に共鳴する」

「義雄もお姫様だけじゃなく、普通に欲しいものあるだろ」

 

「まあな。新しいパソコンとか」

 

「いいか、例えば欲しい。それを使えたらどんなに楽しくて、どれくらい心が満たされているのか?」 

「願望では、なりたい。なった自分は毎日何をしてどんな気持ちで過ごしているのか?」

「そして行きたい。行った先であれを食べてこれもして、美味そうだ、楽しみだ」

 

大樹はタバコをフーッと吹き出す。

 

「こんなふうにぐぐっと、願う気持ちのその先にいってみるんだ」

「多くのひとは、願いの入り口だけを眺めてため息をついている。それは空っぽのお皿をながめてお腹をすかせているようなもの」

「欲しいのまま終わってしまうと、無い状態に感情がフォーカスされてしまうから、必ずその先まで何事もなくそのまま進むんだ」

 

「なるほど」

 

義雄には、この話はわかりやすい。

 

「叶えてお前が見ている景色、それを見て心揺さぶられるのを感じる感情、それで義雄のなかにあるアンテナは感度がMAXになり、願いを叶えるために必要な情報をキャッチし共鳴してくれるようになる」

「すなわち、三回目の夕食のシーンを引き寄せる、いや、もう叶っているんだ」

「感情の揺さぶりは技術ではあるが、引き寄せと、不思議に起こる共鳴を起こし、思いを現実に変える」

 

「本当か? なるほどとも思うけど、胡散臭いな」

 

「信じることだ。俺たちみんなが持っている脳のしくみにより、他の誰でもなく自分のチカラで、きっと義雄は理想の未来を引き寄せられる」

 

「へぇ~。大樹くんって思ってたより深い思考を持っているのね」

「少し驚いたわ」

 

「私は願いの入り口だけを眺めてため息をついている。それは空っぽのお皿をながめてお腹をすかせているようなもの、かしら……」

 

みゆきさんがつぶやく。

 

「いいか義雄。今日はスペシャルディーだ。もうひとつ教えてやる」

「女の子の好奇心をくすぐる方法。会話のビタミンだ」

「知りたいか?」

 

「ここまできたら何でも聞くよ」

 

義雄がおにぎりを頬張り、お茶を飲む。

 

 

 

 

 

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「みどり先輩ったら、舌使いが荒っぽいんだから」

 

「そろそろ二次会のメインイベントを早めに済ましてと言っただけでしょ?」

「人使いを荒くしているわけじゃないのよ」

 

「はいはい」

 

男子と有る事無い事歓談してたこずえちゃんが腰をあげ、マイクを握る。

 

「さて、みなさん。二次会のメインイベント、お尻相撲を始めます」

 

お~っ! チンチン、チンチン!

 

歓声や、コップ、お皿を叩く音が部屋中に響き渡る。

 

「まずはルールを説明いたします」

「お尻相撲は男女混合です」

 

「え~? やだ~っ!」

 

女の子たちから湧き上がる、当然のシュプレヒコール。

 

「ちゃんと最後まで聞いてください。男子は尻の位置が高いので、男子、女子と相撲を取る場合は、男子は尻、女の子は胸でも構いません」

 

「なんていうルールだ?」

 

オケの連中は呆れるが、まずは最後まで話を聞くことにする。

 

「お尻相撲のルールは簡単で、お尻で押し合い、フラフープで準備した円の外に出されたほうが負けです」

「ただし、お尻の割れ目がハマり合った際は両者引き分けといたします」

 

「おいおい。どうやったら尻の割れ目がハマり合う?」

 

女の子たちが口を押さえて笑っている。

 

「万が一ですが起こり得ます」

 

「起きるわけね~だろ」

 

水野が笑い飛ばす。

 

「また、お尻がくっ付いてしまった場合には、双方勝者となります」

 

「何だそれ? くっ付く?」

 

「はい。子供の頃、おじさんの家に遊びに言った時、犬同士のお尻がくっ付いて離れないという現場に遭遇しました」

 

カーッカッカ! プーッププ! 宴会場に笑い声がこだまする。

 

「それで、どうしたのこずえちゃん?」

 

「ダライラマ~、ダライラマ~、とおじさんに帰宅した時声をかけましたが、遠くで、いったんだきま~す、という声がして子供ながらに遠慮して、これは自分で何とかせねばと」

 

「おじさん家、何してるの?」

 

「和菓子屋です。ただ子供ながらに恥ずかしかったのですが、いつも、最中、という看板をかけていて……」

「何で、エッチしていることを皆に知らしめなきゃならないのかと……」

「でも開店前からいつも仙人の行列ができている人気店でした」

 

「こずえちゃん。最中って、アノさいちゅうじゃなくて、もなかだよ」

 

「えっ! 今初めて気づきました。そうか……」

 

「まあいい。犬の方は?」

 

「水をかけてくっ付きを取ろうとしましたが取れません」

「バケツで何杯も三杯も水をかけましたが……」

 

男子連中は腹を抱えて笑う。女の子たちも軽蔑の眼差しを送りながらも笑いを隠せない。

 

「そっ、それで?」

 

水野が笑いをこらえてこずえちゃんに尋ねる。

 

「次に台所洗剤をバケツの水に混ぜて何回もかけました」

「でも離れません」

 

「そして?」

 

「その後サラダ油をかけて、接合部に石鹸も泡立てて一生懸命くっ付きを取ろうと頑張りましたが……」

 

「無理だったんでしょ?」

 

「はい」

 

「こずえちゃんさ。それ、何だったか知ってるの?」

 

「さあ……。犬同士の尻相撲かと……」

 

「それ、犬の交尾だよ。マウンティングの射精後の。知らないの?」

 

「えっ? そうなんですか? 知らなかった。そういえば、二匹の犬の眼がとても哀しげでした」

「四十八手の中にはなかった格好だったので……」

 

「もしかしてこずえちゃん。四十八手、全部知ってるの?」

 

「はい。一応。お琴、じゃなかったお床を習った頃に」

「この人にだったら、より反っていける。過去にそんな人がいましたから……」

 

「まあ、何でもいい。お尻相撲では割れ目がハマることはないし、お尻がくっ付くことはない。始めよう」

 

「谷崎先輩とならお尻がくっ付きが……」

「前おっきいが長いから……」

 

「はいはい。じゃあ、こずえちゃん。初戦、谷崎と対決しなよ」

「行司は俺がやる」

 

水野が腰を上げうちわを軍配扇子代わりにフラフープの土俵に近づく。

 

「四股名をそれぞれつけようか?」

「じゃあ谷崎は馬の並ね。アレ、馬並みだから。こずえちゃんは何にする?」

 

「そうですね、宝くじにして下さい」

 

「はいよ」

 

水野が団扇を上げる。

 

「に~ぃしぃ~、馬のぉ~なみぃ~。ひがぁしぃ~、たからぁくじぃ~」

「ハッケヨイ、のこっ……」

 

「ちょっと待って下さい。四股入りがまだです」

 

「わかった、わかった。最初だけね。こずえちゃんだけ」

 

深夜に似合わぬ宴会の盛り上がり。こずえちゃんの四股入り、得意芸が始まる。

 

 

 

 

 

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「いいか、義雄」

「引き寄せは感情に共鳴する、は教えた。いいな」

 

「ああ」

 

「最後に女の子の好奇心をくすぐる方法を伝授する」

「人には誰でも好奇心がある。義雄もそうだろ?」

 

「あぁ。でも、あらためて好奇心って何だろ?」

 

「ググってみろよ」

 

「あら! みゆきさん、やばいですね」

「義雄くんに気づかれちゃう……」

 

「あれ? 俺のスマホどこ?」

 

「どうした? 義雄」

 

「いやさ、長旅で色々助手席も物でいっぱいだから、スマホが……」

 

義雄は、コンビニのレジ袋だとか、カバンの中、ポケットなどを探る。

 

「俺の使え」

 

大樹が義雄に自分のスマホを渡す。

 

「好奇心。好奇心と」

 

「いいか。女も好奇心旺盛だ。好奇心を満たしてあげると快感になる」

「男との会話がつまんないと思われるのは、女の子の好奇心に先回りして知識を伝えてしまうからなんだ」

 

「へぇ~。話が面白くなりそうですね。みゆきさん」

 

「はい!」

 

「ウゥン」

 

大樹が咳払い。

 

「恋愛で好奇心を引き出す。男は女にとってエンターテイナーじゃなきゃいけない。ツンデレもいいが、そんなのは一部のイケメンに任せろ」

「俺たちは女の子を常に楽しませることに必死になることだ」

 

「エンターテイナー?」

 

「いいか、芸人のようにベラベラ喋って楽しませる関係になるのはまだ早い」

「はじめは自分じゃなく、相手の女の子にできるだけ話させる」

 

「どうすればいい?」

 

「例えば、俺、料理が趣味でさ、昨日カルボナーラを作ったんだ、みたいなことを初めから話してはダメだ」

「相手が聞いてもいないことをいう必要は全くない。よく男はこれでとちる」

 

「また話が面白くなってきそうですね」

「みゆきさん。もう時間も遅いですが大丈夫ですか?」

 

「はい。大丈夫です」

「でも、場所を変えましょうか? この近くにファミレスがあります」

「コーヒーで粘りましょうか?」

 

「いいですね。乗りました」

「でも義雄くんがスマホを見つけたらゲーム終了。そうじゃなきゃ11時過ぎくらいまでですかね?」

 

「はい。そうしましょう」

 

みゆきさんが優しい顔で微笑む。

 

「義雄。女の子の深層心理は、自分を知ってもらうことが好きなので、男が興味を示せば色々と話してくれるもんなんだ」

「こんなに気分よく話しができるこの人は何者? と色々こちらにも聞いてくるようになる」

 

「いい感じになるね」

 

「いいか。会話は恋のビタミンだ」

「男は女の子のエンターテイナーになるため生まれてきたんだ」

「義雄。忙しくなるぞ~」

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

「待てよ……」

 

ベッド脇のランプを点け、僕は義雄が発表した原稿を取り出す。

 

「オレンジ色になる際に、CHI遺伝子が完全に壊れているとして、スポンテニアスイソメラゼーション、すなわち基質が自然に有色色素への基質に異性化されることは考えられないという仮定をしてみる」

「あ~いてて。痛みで眠れないや」

 

吸いのみで水を一口。

 

「その仮定に立つなら、全てのカーネーションの黄色花色やオレンジ花色は遺伝子レベルで完全に説明される。色の濃淡についてもだ」

「義雄の仕事、忙しくなるかもしれない。みどりちゃんとも公私ともに仲良くタイアップしながら」

 

お尻が痛い。

 

「お尻がベッドにくっ付いたみたいだ。床ずれ? ハハハ、この若さで笑われるね」

「まずは頑張って寝よう。明日10時にみんなに会える」

 

 

第118話

 

 

恵ちゃんはピンクの文字盤のアニエス・ベーの腕時計をチラッと覗く。

 

「みゆきさん。そろそろお開きにしましょうか?」

 

「はい。そうしましょう。とても楽しかったです」

 

「はい。私も」

「ところで大樹くんと義雄くん、夜通し走ってくるのかしら?」

 

「居眠り運転とか……。心配ですよね……」

 

「ちょっと義雄くんにLINEしてみます」

 

恵ちゃんはカバンからスマホを取り出す。

 

『あのね、義雄くん。夜通し走って名古屋にくるの?』

 

ジジっ、ジジっ。

 

恵ちゃんのスマホが震える。

 

『大樹が深夜2時頃にどこかでひとっ風呂浴びて、仮眠していくと言ってる』

『深夜は大型トラックとか多いし、何より……』

 

義雄からのLINEがしばらく途絶える。

 

『何より、何?』

 

恵ちゃんの問い合わせ。

 

『あの……。男はさ……』

 

『男は?』

 

また義雄からの返事が来ない。

 

しばらくして、

 

『いや……。なんでもない……』

 

義雄からの連絡が再び途絶える。

 

「みゆきさん。店の外に出て電話にしましょう」

「義雄くん、はっきりしなくて」

 

「いいですよ」

 

みゆきさんは素敵に微笑む。

 

店内にはヴェルディの運命の力が流れはじめた。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

「もしもし、義雄くん。今どこにいるの?」

 

「今? 都内抜けたとこ。詳しくはわかんない」

 

「大樹くんは?」

 

「今コンビニで小便してる」

「切るね」

 

「ちょっ、ちょっと待ってよ」

 

恵ちゃんがそう言うと、バタン。車のドアの閉まる音。

 

「義雄、これ。おにぎりとお茶」

「長丁場だ。腹だけは満たしていこう」

 

義雄の電話口から大樹の声が聞こえる。

 

「ああ」

「今さ、恵ちゃんから電話あってさ……」

 

「おいおい? 余計なこと言わなかったろうな?」

「男は清潔感が何より大事。だからまずは風呂を浴びてヒゲを剃り、髪を整え衣類を洗濯してと」

「まさか、俺の話したアドバイス、恵ちゃんに言ってないだろうな?」

 

「う……、うん」

 

ふっ、と義雄がため息をつく音がする。

 

「みゆきさん。面白くなってきそうですよ!」

 

「えっ? 何ですか?」

 

「義雄くんがね、電話を切るの忘れてるみたい」

「スピーカーにしますね」

 

みゆきさんは目をクリクリして微笑む。ポニーテールが楽しげに夜風に揺れる。

 

「こう言う場合……、盗聴って言いませんよね?」

 

「全然、盗聴じゃないです。バンバン聞きましょう。相手の自爆行為です」

 

恵ちゃんはいたずらっ子のように目を細める。

 

「みゆきさん、あそこのベンチに座りましょう」

 

音楽館の近くの猫の額のように小さな公園。ピンク色のキョウチクトウの木の下。花葉がやさしく風に揺れている。

 

「みゆきさん。キョウチクトウの花言葉って知ってます?」

 

「いいえ。知りません」

 

「注意、危険、用心です」

 

「ウゥン。話を続けよう」

 

大樹が咳払いをする声が電話越しに聞こえる。

 

「だから、いいって大樹」

 

「だって義雄は名古屋のお姫様と仲良くなりたいんだろう?」

 

「ほら、始まった。盗聴じゃないですからね。し~っ」

「フフッ、面白そう。どんな話をするのやら」

 

恵ちゃんのテンションが上がる。

 

「確かにみゆきさんを一瞬見ただけで、運命の人? 的な感じがビビッときた」

「初めてあった気がしない。初対面と思えないくらいの存在感をヒシと感じた」

 

「それだよ、それ! インスピレーション」

「この子、俺の彼女になる、的な」

 

大樹が義雄の話に勢いをつける。

 

「何だろう? もちろん俺の一人感覚だろうけど、俺のゲノムがみゆきさんを見て共鳴したと言うか……」

「染色体レベルで体全体に震えがきたような……」

 

「どうして遺伝子レベルの例えにする?」

「もっと、あまりの美しさにつばきを飲み込んだとか、慌てて押さえるようにあそこがピンと張った、とか易しい例えがあるだろうに」

 

「それ、ナンパ時に起きる生理現象だろ? 何より、一目惚れでテント張るか?」

 

大樹は義雄の話を聞いちゃいない。

 

「一目惚れは、やはり女性の外見を重視して起きる。特に目だ」

「アイメイクしてなかったか? みゆきさん」

 

「していた……、ような気がする」

 

「だろ? つけまつげもポイントが高い。角度に惚れる」

「俺ならこう言う。まるでこころが吸い込まれそうな瞳だ。まつげの角度がとっても素敵」

 

「あのさ、ナンパ文句習ってるわけじゃないんだから」

 

「まあ聞け」

 

「聞かない」

 

「もしそのアイメイク、正さま用だった場合だが……」

 

「聞く」

 

「素直でよろしい」

「みゆきさんって愛嬌があって、可愛らしい感じだろ?」

 

「何でわかる?」

 

「特別な美人には一目惚れしにくい。男は愛嬌にやられる。明るい雰囲気とその笑顔。そして清楚さ」

 

カチッと大樹のタバコに火をつける音。

 

「とりあえずは義雄くん、みゆきさんに一目惚れしたことは容易に推察されますね」

 

「はい……」

 

「みゆきさん、アイメイク、してますよね?」

 

「はい。今日は」

 

「みゆきさん、愛嬌あるし、明るく清楚」

 

「……」

 

「言わせてもらうけど、女の子側からだって一目惚れの条件ありますよね」

「顔がイケメン、できれば高身長、勉強ができて性格が明るい。髪の毛が程よく伸びてて爽やかならさらにいい」

 

「はい。概ね。そういう男の子には興味を持つかも」

 

「義雄くんはフツメン、背は普通。勉強はそこそこ、髪の毛は天パー風」

「お世辞にも性格が明るいとは言えない」

 

「はぁ……」

 

「でも、正くんも別に女の子から一目惚れされそうなタマじゃない」

「こずえちゃんはよく、正くんには太めがあって一目惚れした、タマじゃない、とは言ってましたが……」

 

大樹が話し始める。

 

「義雄よ。お前には外見ではいいとこが一つもない」

「さっきまで話していた清潔感だ、清潔感」

 

「でも大樹よ、100%の清潔感ってあるのかよ」

 

「そこは百戦錬磨のスナイパーの俺だ。女性が求める清潔感には精通している」

 

「50発一中のヘマナンパ師だろ?」

 

「とにかく、清潔感、イコールモテるじゃない。女の子のいう清潔感は、全ての清潔に関する項目が平均点を上回っているということが大事なんだ」

「男というのは一点豪華主義が多く、他が0点でも、例えば顔だけ100点であればオーケーを出すだろ」

 

「確かに」

 

義雄があいづちを打つ。

 

「しかし、女にとっては全部の項目で平均点以上をとっている、ということが何より大切なんだ」

「つまり、男性の一部分だけを見て、清潔かどうかを判断しているわけではなく、全体を見て判断している」

 

大樹がタバコの煙を吐き出したような、かすかなフゥーっと言う音が聞こえる。

 

「へぇ~っ。大樹くんよく知ってるじゃない」

 

恵ちゃんが感心する。

 

「ところで何だろう? 50発一中って」

 

「何でしょうね?」

 

みゆきさんは首をかしげる。

 

「大樹よ。今の俺は今の俺のままでいいよ」

 

「お姫様を奪いにいくんだろう?」

「ちゃんと聞け」

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

「さて、夏合宿も残すところ、あと二股となりました」

「麻雀でいう、おっぱいの日です」

 

「こずえちゃん、それを言うならテンパイでしょ」

「じゃなかった、あと二晩だからイーシャンテン」

 

「あぁ、リーベがいないひとり寝のこずえ、貧乳で何度も目が覚め寝不足です」

「そう、夢をみました」

「アレが太めの正先輩が王子役で現れて、まず、しそうなシンデレラを探していました」

「そんな時、シンデレラ役のこずえが、正先輩。どうかしましたか? と聞くと、突然正先輩はこずえの肩を抱いて……」

 

こずえちゃんは自分の腕で自分の肩を抱く。

 

「こずえ、おとぎ話ではお決まりのしぐさで正先輩の手をやさしく振り払うと、いいだろ? 別に吸った揉んだしても体はフェロモンじゃあるまいし、と言われて……」

 

「こずえちゃん。そんなバカな夢の話はいいからさっさと二次会、始めようよ!」

 

「みなさん。こんな楽しい夜は二度とこないんです。好きにさせてください」

 

「はいはい。いつものね。どうぞ」

 

みんなはビールの入ったコップ片手に、乾杯までの間をこずえ話に預ける。

 

「こずえ、実はSで感触餅なんです、と言うと、正先輩は僕は実はMでよく山にしばかれに行っているんだいいました」

「ムチ、ムチしている女がいい、イジメられることが好きだって事は、ほらここ、ものがたっている、と……」

「そしてものが張った股間を押さえて、今の言葉ゴメン、僕は棒化しているんだ、と謝ってきて……」

 

こずえちゃんは両手を握りしめ天を仰ぐ。

 

「でも、あぁ……、こずえの一言が正先輩を怒らせた」

「みなしご役の正先輩に、ハハに会いたい、チチもみたいでしょ? 胸の内、しゃぶってもいいのよと言ったばかりに……」

 

「言ったばかりに、どうした?」

 

水野がこずえちゃんに問いかける。

 

「俺の目はふしだらと思うなよ。吸え? 恐ろしいシンデレラだな」

「本性は見抜いてる。俺に逆らったらこのスマホで、どういうフォトになるかわかってるんだろう? と脅しもされて……」

 

カーッ、カッカ。プーッ、プップ。

 

オケの面々には相変わらず受ける。乾杯を待たずにビールを飲みだす輩もいる。正の盲腸の経過の話や見舞いの感などひとかけらもない。

 

「みなさん。お酒はまだです!」

「そう、正先輩はお酒を飲んでアレ出すと手がつけられないみたいで……」

 

「こずえちゃん。そんなくだらないことはいいから早く早く、乾杯!」

 

「そうですね、毛根な時間だ……」

「皆様の気持ちいいを考えて乾杯といたします」

 

「かんぱ~い!」

 

「かんぱ~い!」

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

「いいか、義雄。清潔感で注意しなければいけないのは、10のうち、9の項目で全て100点であっても、1項目が0点の場合、恋愛対象から外されるんだ」

 

「えっ? どういうこと」

 

「だから聞け。女の判断基準というのは、容姿などは顔が平均以下でも、背が高くなくても、多少デブでも、それ以外の項目で平均点以上取ればプラスマイナスしてくれるが、清潔感に関してだけは1項目だけでも0点があればダメなんだ」

「全部完璧なのに髪の毛ベタベタ、全部完璧なのに歯が虫歯だらけ、嫌な体臭、口臭がするとか」

「女に第一印象で清潔感のどれかの項目で0点を感じさせたら挽回は不可能だ」

 

「あのさ、それ人によるよね?」

 

「ああ。もちろん女性によって清潔感の判断基準が変わる。しかし、全部完璧なのにたった1つ許せないポイントがある、というだけで恋愛対象から外されることはごく普通にある」

「運命の人と出会ったかもしれないんだ。その運命のためにも、できるだけカッコよくあるべき」

「あとで風呂を浴びるときに詳しく教えてやる」

 

タバコの煙を吹く、フーッという音。

 

「大樹くん、なかなか知ってるじゃない」

 

「私が知る限り、大樹くんも義雄くんも普段通りで清潔感はクリアしているのに、風呂にまで行ってさらに話すこと、何かあるのかしら?」

 

恵ちゃんが首をかしげると、

 

「さぁ……」

 

みゆきさんも首をかしげる。

 

「さて、一次面接がオーケーなら、再度女心の感情の揺さぶりだ」

 

「だからいいって。初対面から相手の感情を操作しようなんて無理無理。大樹にできても俺にはできない」

 

「できない? だからチェリーちゃんなんだよ」

「のっけから俺の女になれ! 的な心意気でいかなきゃならん」

「一花咲かせろ!」

 

「愛とは一種の花。種子が風に吹かれ、落ちたところで開花するもの」

「大樹くんなかなかいいこと言うじゃない。ねぇ、みゆきさん?」

 

「はい……」

 

みゆきさんはなんだか、少しずつ大樹と義雄に興味を持ちはじめたそぶり。キョウチクトウの花を見上げる。

 

「俺は正が恵ちゃんを射止めたように、じっくりと相手を思いやり、乙女心を優しく包み込んでいくような恋をしたい」

 

「みどりちゃんと、それできてないだろ?」

「空振りで好き過ぎることは、好きじゃないのと同じ、いやそれ以下なんだ」

 

「そうそう。大樹くんさすがだわ」

 

恵ちゃんが感心する。

 

「運命の人が目の前に現れたんだ。最初のひと目で恋を感じたんだ、恋の存在価値そのもの。過去の自分を書き換えろ」

「男は過去の恋をフォルダに残し、女は過去の恋を今の恋に上書き保存する」

「大樹、女に見習え。過去の恋を一目惚れで上書き保存するんだ。いまがそのとき、ためらうな」

 

「上書き……」

 

「義雄。言葉を巧みに使うんだ。自分の言葉は自由に使える」

「その言葉で相手の感情を動かすんだ。その言葉で相手の行動が変わる」

 

「みゆきさん。これから大樹くんの本丸から出る言葉が聞けますよ」

 

「はい。でもいいんでしょうか? やはり盗聴している気がして、少し悪い気がするんですが……」

 

「いいの、いいの。二人って中性的な正くんとは違い、まさに男って感じよ。きっと面白いよ。二人の会話」

 

「ウウン。話すぞ」

 

「ああ、聞くぞ」

 

義雄もナンパでもなんでもいいから、女の子を手にする手法に興味を持ち始める。

 

「相手の安心、不安を利用して感情を揺さぶる方法は先に話した通りだ」

 

「あた~っ。それ聞きたかったですよね、みゆきさん」

 

「はぁ」

 

「感情の次は、相手の欲望を刺激していく」

「相手の欲望とは、行きたいところや食べたいもの、欲しいもの、そして相手がなりたい自分など。それらを知ることが必要だ」

 

「そんなん、時間がかかるじゃない」

 

「当たり前だ、義雄。ただ、先回りして、お姫様が未来に求めているであろう欲望を初対面の時から察するんだ」

「例えば、相手のなりたい自分、スマートな恋をしたい、あるいは情熱的な恋をしたいなど、会話のしじまから感じ取る。言葉にできない想いを察するんだ」

 

「それ、ものすごい上級テクニックじゃない。俺にはできないよ、ナンパ師さん」

 

「これはナンパじゃない。ナンパはアバンチュールだ。その時だけ楽しければいい」

「今話しているのは、恋人同士になるためのステップだ。よく聞け」

 

「はいはい。50回に一回できたナンパ師さん」

 

「みゆきさん! 50発一中の意味わかりましたよ」

「大樹くんのナンパの成功率です!」

 

みゆきさんも、話が面白くなってきてキラキラ笑う。

 

「例えば、みゆきさんって考え方や行動がスマートで無駄がないよね。正の体調の異変から、入院、看護と慌てずスムーズに事を運んでくれて。マジ尊敬するよ。とか言う」

「ここの、考え方や行動がスマートで無駄がないを、そんな恋をしてみたいかもしれない相手の欲望を先取りする」

 

「みゆきさん。考え方や行動がスマートで無駄がない恋をして見たいですか?」

 

「私、やはり情熱的な恋をしてみたい。でも、今までそれで失敗してるし

……」

 

「深層心理では、軽やかでスマートな恋をしてみたい的なとこ、あるんじゃないですか?」

 

「恵さんの恋を羨ましく思うのは……、そうなのかもしれません。ただきっかけが……」

 

「きっかけは今かも」

 

恵ちゃんが素敵に微笑む。

 

「いいか義雄。みゆきさんへの禁句は、可愛いね、綺麗だねなどの抽象言葉だ」

「ほめ言葉は、具体的に言う」

「先に言ったように、ネイルをしてたら、その爪、鏡のように綺麗な白だね、とかそのシュシュ、みゆきさんの為に作られたみたい。ジーンズとよく合う青だよね、とか」

 

「大樹よ。それお世辞に聞こえる」

 

「相手にお世辞だと思われる言葉は確かにご法度だ」

「息をするくらい、自然に軽く空気に言葉をのせる」

 

「あ~あ。やっぱ無理だわ。俺には」

「大樹よ。俺、あきらめるかな~」

 

「いいか義雄。次のステージだ」

「女にも闘争本能があるんだ。それをくすぐる事でお世辞言葉をお世辞じゃなく受け取ってもらう方法がある」

「すごい秘技だぞ。知りたくないか?」

 

「あらあら。話が面白い方向に展開していきますね。みゆきさん」

 

「男の子の話って、みんなこうなんですかね? 私には新鮮で……」

 

「新鮮で興味ある。でしょ?」

「電話がこのまま繋がってますように!」

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

看護師さんがベッドについているナースコールのランプを優しく消す。

 

「どうしました? 佐藤さん。眠れないんですか?」

 

「はい。縫い口が引きつるようにとても痛くて」

「切った腸のあたりもとても痛い……」

 

「みんなそうですよ。オペして間もないんですから」

「明日、朝10時からお友達と面会できますが、くれぐれもお腹が痛むような笑い話や笑える人、物の類からは距離をおいてくださいね」

 

「はい」

 

笑える人は志賀高原に張り付けられてる。全然安心だ。

 

「はい、これ。お預かりしていたスマホ」

「心落ち着く音楽でも聞いてゆっくり休んでください」

「くれぐれも、患部を刺激するようなコンテンツは避けるように」

 

「はい」

 

「じゃあ、電気消しますね」

 

看護師さんは部屋の電気を消して詰所に戻る。

 

LINEを開く。両親から二件、研究室グループと大樹から一件ずつ。そして、こずえちゃんから、事務連絡一件……。

 

第117話

 

「もしもし……。はい……」

 

恵ちゃんがスマホで正の術後の経過を受ける。

 

「みゆきさん。正くんのオペ、上手くいったそうですよ」

「今ICUにいて、すぐ出てこられそうです」

 

恵ちゃんの満面の笑み。

 

「よかったですね。あとはゆっくりと病室で穏やかな時間を過ごすことが大切ですね。お互い、間違えても正さんを笑わせたりしないように気をつけましょうね」

「術後に笑うと、地獄のような痛みに苦しむみたいですよ。筋肉を切開しましたからね」

 

「はい。一抹の不安要素はありますけど……」

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

「テイクワンとテイクツー、甲乙けつかたいですね」

 

こずえちゃん自身が迷うほど、島根どじょうすくいと日向ひょっとこ踊りの出来栄えがいい。

 

「ガッハッハ! 両方送れば」

 

水野がビデオを見て、涙と鼻水が同時に出るほど爆笑する。

 

「これやばいよ。どじょうすくいのこずえちゃんのメイクと腰の動き。ひょっとこ踊りのキビキビとした踊り」

「これで笑わない奴はいない。正とて例外じゃない」

 

隆も割れんばかりにお腹を抱えて笑う。

 

「泡踊りも撮りますですか?」

「地中海の楽園、イビザ島仕込みですが……」

 

「いい。いい。もういい! これで十分過ぎる」

 

水野と隆は笑いでお腹がつったらしい。健常者でさえ盲腸に近い痛みを得るほど辛い笑いの痛み。

 

「ホント、こずえちゃん笑わせの天才だわ。血筋かしらね?」

 

紀香ちゃんと夕子ちゃんが、なんだかんだ言いながら感心する。

 

「こずえの家庭は貧乏でしたが、両親はこずえには裸婦させよう、裸婦させようと汗水たらして必死に働いていました」

「そうして扶養少女だったこずえは、ぬぐぬぐと育っていきました」

「母親は、やっぱりこずえはやったらできた子! と、励ましてくれて」

 

「それ聞いた。そして間違えるほど成長したんでしょ」

 

「そうなんです。そして今、こうしてこずえを理解してくれている友達に囲まれ、しわ寄せいっぱいなんです」

「これまでのご迷惑、無礼、どうぞ股間便ください」

 

「あのね。こずえちゃんの生い立ち、よく考えたら詳しく知らないの」

 

紀香ちゃんが興味津々な目でこずえちゃんの瞳を覗く。

 

「そういえば私も……」

 

夕子ちゃんも、横に曲げた人差し指を下唇に当て考え込むポーズをとる。

 

「総入れ歯、こずえも詳しくは話をしていなかったですね」

「では、たまあらってお話ししましょう」

 

こずえちゃんは力士のように、股を割るようにゆっくり腰を下ろして座りこむ。

 

「こずえは、小学生の時からすでに、もう毛話をしていました」

「父が務めていた小さな会社の社長から、おめぇ半年、と告知され、猫の額ほどの畑を駐車場として貸しながら細々とした生活を営んでおりました」

「当時のこずえには注射の意味がわかりませんでしたが、注射券と書いた回数券の裏には、股のお腰をお願いします、と……」

「乗るなら飲むな、飲むならノーブラ、という券も」

「お客さんとの夜のあいさつは、ほんばんは、と言うんだよと教えられて」

 

こずえちゃんは、紙芝居の語り部のように話を続ける。

 

「父は、生きているだけでもうケモノというのが口癖で、母親は、今晩のおかずは足の開きだけで勘弁してね、という日々が続き、夫婦の部屋からは毎晩あまぎごえが聞こえて……」

 

「そういう話はいいから。こずえちゃん自身の成長過程を知りたいの」

 

夕子ちゃんが話しが逸れそうなこずえちゃんに声をかける。

 

「はい。こずえは、みにこいアフロの子でした」

「胸が大きくなってからも、ろくな下着など買えず、ノーブラランドというブラをつけたりつけなかったり」

 

「こずえちゃん。ノーブランドとノーブラ、ややこしく説明しない」

 

紀香ちゃんが横槍を入れる。

 

「でも、ブラをつける年頃になると、こずえちゃん、そのブラ、よくにおってるよ、と駐車場のお客さんからは好評で、部屋中にブラの匂いが、十万したこともありました」

 

「こずえちゃん、売ってたの! ブラ!」

 

「いいえ……。いや……、秘密です」

「一度しかつけていない下着が頭部用に売れた時期も……。いや、この話は聞かなかったことに」

 

水野と隆が興味深く話に食い入る。

 

「そんな生活をしていたら、こずえ、毛のほどこしようがない女の子になっていって……」

「気がつくと、男の人を、素っ気ないしゃぶりで引き寄せるぺロフェッショナルにまでなっていきました。接待では隠し毛を披露したり」

 

「それ、犯罪よ。売春でしょ?」

 

「いいえ。こずえ、売春行為はしておりませんでした」

「欲しがりません客間では、というのがぺロフェッショナルのモットーで、タイミングの良いときのお客さんだけには、客間はだめでも居間なら大丈夫、と気だけを引いていたことも」

「デリバリー未遂もありました。待ち合わせは、あの有名な渋谷の……」

 

「ハチ公前で?」

 

「はい。相手には、渋谷の八個前で待ってますと告げ、すなわち新橋のSL広場で待っていました」

「ただ、みんなそう、待ち合わせ場所を渋谷のハチ公前と勘違いしていたらしく、結局誰とも会えませんでした……」

 

「あのね、聞くけど、こずえちゃんいつ勉強してたの?」

 

夕子ちゃんが尋ねる。

 

「勉強はできたはず。じゃなきゃうちの大学なんて受かりっこない」

 

紀香ちゃんもこずえちゃんの勉強事情を知りたがる。

 

「こずえ、勉強はできました」

「こずえは、ハメられて伸びるタイプだったみたいで、中高と、シリ、モモ狂いで勉強しました」

「高校生になると、あいつ、安産が得意で、よくデキるんだ、と男の子には噂さされて」

 

「そういえば、こずえちゃん数学得意だもんね」

 

「国語もよくできました。静けさや~、いまにシミ~ズ、セミヌード」

「でも、勉強はできても体は弱くて、よく、くどい恥部くらいの熱を出してしまい……」

 

「はいはい。それで?」

 

「絵を描くのも得意でした。校内ではよく、しゃせい、を手伝っていて、いつもすげええっちブックを小股にはさんでいました」

 

「まっ……まぁ、教育学部だもんね。総合的に教科はできないと」

「でも、勉強はもういいから、趣味とかは何だったの? 好きな歌とか」

 

「フリンセズ・フリンセズのSMが好きでした」

「いつも一緒に~、痛かった~。となりで縄って、痛かった~」

 

「プリプリのMでしょ? はいはい、そこまで。歌はなくてもいいから」

 

夕子ちゃんはこずえちゃんの話を止める。

 

「生い立ちの話とこずえちゃんの今の姿と全然重なり合わないじゃない」

「どうせみんな作り話。嘘八百、でしょ?」

 

紀香ちゃんのするどい突っ込み。

 

「バレましたか。習志野ごんべいのこずえ、市川出直します」

 

こずえちゃんはいつものいたずらっ子のようにペロリと舌を出す。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

「男慣れのしていない女の子。落とし方教えようか?」

 

大樹が前の車のテールランプ色の顔をしてにやける。

 

「大樹よ。お前1年の時から自称ナンパ師と騒いでいるけど、成功率、かなり低かったんじゃない?」

 

義雄が受け答えする。

 

「何をおっしゃるうさぎさん。50発一中くらいの成功率の高さだった」

 

「俺にはそれが高いんだか低いんだかわからない」

 

「100発一中よりは高い」

「まあまあ、義雄。よく聞け。教えてやる」

 

信号が青に変わり大樹はアクセルをふかす。

 

「男慣れしていない女は、厳しい家庭に育ったか、家族に大切に育てられてきたか、ほぼ80%はこのどちらかだ」

「幼少から厳しい家庭で育った女の子は、関わる男性はこのような人でなければいけないと、親から決められていた条件を満たす男性でしか関わりがない可能性がある」

「周りの人間関係や環境まで整えるくらい女の子を大切にしている家庭なら、男性との接触は極力避けられていた可能性が高い」

 

「なるほど」

 

義雄は素っ気なく受け答える。

 

「幼少期から男性と関わる機会が少ない、男の子とどのように対応すれば良いのか戸惑ってしまうような女の子が美味しい」

 

「美味しい? どういう意味だよ」

 

「まあまあ、待て。下の意味じゃない」

 

大樹は胸ポケットからタバコを取り出し、火をつける。

 

「男慣れしていない女の子は男性と関わる機会が少なかったから、恋愛経験が少ない傾向にある」

「だから、そんな女の子が男性と会話している時や、気になる男性と一緒に過ごしているとき、誤解を与えてしまうような行動をとることがある」

 

「誤解? 何だそれ」

 

「ああ。説明する」

 

大樹は煙を吐き出し、ふぅっとひと息つける。

 

「男慣れしていない女の子は、ピュアなリアクションをすることが多い。すなわちスレていない」

「特に、男性との接点が今まで少なかった分、男性の好きなものや興味があるものがわからないという女の子が多く、男性の話をとても純粋に聞いてしまうんだ」

「ここが狙い所だ」

 

「おい大樹。ピュアな女の子を遊び目的で落とす話じゃないんだからな」

 

「わかってる。名古屋においてきたピュアなお姫様とお友達になるための二分の一の魔法を教えているだけだ」

「ピュア。純粋な美しさって凄いぞ。人間の様々なアクセサリー、財産、地位、権力、才能も、無条件に心を揺さぶる純粋な美しさの前では何の力にもならない」

「女の子として一番大切なもの、純粋な美しさって、それ自体、比類なき純粋な価値なんだ」

 

正の病室での、一瞬垣間見たみゆきさんの笑顔とポニーテールとシュシュの後ろ姿が義雄の脳裏をよぎる。

 

「あのさ、大樹よ。何で二分の一?」

 

「ああ半分。残りは俺たちが名古屋に着くまで義雄自身が見つけているはず。一目惚れを信じることだ」

「話、続けるぞ」

 

「ああ……」

 

「女の子の美しさって何だと思う?」

 

「何って、清潔感とか仕草とか、ファッション、香り……」

「いや、一番は性格だ」

 

「いわゆる普通の男の子だな、義雄」

「女の子の美しさって、無駄とも思えるほどの努力の積み重ねの結晶なんだ。好きな理由が分からずに自分にとって運命の女性だと直感的に感じた瞬間、その美しさの結晶の輝く光が弾けて、走馬灯のように脳内を駆け巡る」

 

「おいおい。それ、ナンパの時の言葉? 俺、信用してないけど、ちゃんと大樹の話聞いてるんだからな」

 

「美しさの結晶、それは女の子が自分の技量に気づいた時、格別だ」

「その子の瞳に吸い込まれ、体が絃楽器の弦のように震える。魂の目が見る美しさだ」

「しかし、美しさを自らのステイタスとして自信を持たれた場合には、その技量は鼻持ちならなくなる。これは童貞くんには難しいからあとで話そう」

 

大樹はまたタバコをふかす。

 

「男慣れしていない女の子の話に戻ろう」

「男慣れしていない女の子は、かなり長い期間男性に対して敬語を使うことが多い。なぜなら、男慣れしていない女の子の中では、男性は親しい人という枠に入っていないからだ」

 

「なるほど」

 

義雄がペットボトルを手にし、一口喉に流し込む。

 

「また、そういう女の子は同性とはスムーズな会話を楽しめるが、男性となると緊張してしまい、思うように会話が進まない」

「男性と関わる機会が少なく、どのように接すればよいのかわからなくなってしまい、緊張してこわばってしまうことが多いからだ」

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

ジジっ。ジジっ。

 

恵ちゃんのスマホにLINEの着信。

 

「あら、大樹くんと義雄くん。今、車で名古屋に向かっているんですって」

 

「えっ? 義雄さん?」

「今日帰っていったばかりでしょ。キャンパスに」

 

「フフフ。うちの研究室の得意技、ノリですよ。正くんのお見舞いという建前だけど、義雄くん、何か忘れものでもあったんじゃないかな~」

 

恵ちゃんは驚いたようなみゆきさんの瞳を覗き込んで微笑む。

 

「義雄さん。緊張してこわばっていて、何か、どこにでもいる普通の男の子って感じの人でした。私には……」

 

「正しくん、大樹くん、義雄くんと比べると、義雄くんが、女の子の前ではいちばんもじもじする照れ屋かな。会話も下手くそだし」

「みどりちゃんという好きな子、失礼、今時点はわからないけど好きな子がいても、何にも起きないまま」

「みどりちゃんは気にはなっているけど、特に告白を待っているという風でもなく」

「想っているだけで何もしないんじゃ、愛してないのと同じなのわかんないのかなぁ~」

 

「あた~っ。それ、私にも痛い言葉ですね」

「私にとっては、愛しすぎることもたぶん、愛していないことと同じ……」

 

みゆきさんが恥じらうようにうつむきかげんに話しはじめる。

 

「義雄さん、恥ずかしがり屋さんなんですね。わかります。私も男の子の前となるとそうだから」

「感情を動かされると、最初は楽しいのだけれど、話がかみ合わなくなると、お互いが負のスパイラル、互いが互いに振り回されるような状況になったりして……」

 

「それには危機管理が大切です。そういう場面でいかに冷静になれるか。冷静に立ち振る舞うのではなく、感情を穏やかにできるかどうかが大事です」

「男の子って、根は怖くはないけど意外と策士ですから」

 

みゆきさんはウンウンとうなずく。

 

「義雄くんの話に戻りましょう。彼は、感情の操作などといった大樹くんが得意とする言動はしない子ですから安心していいですよ」

「義雄くんはね、一番の照れ屋さんだけど、何かに立ち向かう際には、勇気を振るい立たせるタイプなんです」

 

「そうですね。今回の天才肌の正さんの代役という大役を引き受けて成功させるほどですものね」

 

「あのね、みゆきさん。勇気がある人というのは無条件で誰かを愛することができる才能のある人なんです」

 

「でも、失礼かも知れませんが、義雄さん、初見ではなんかおどおどと頼りなさそうな印象をうけてしまいましたが……」

 

「みゆきさんて、もしかして完璧主義じゃないですか? 完璧だからその人を愛するんじゃなくて、完璧ではないにも関わらず相手を愛するのが恋ですよ」

「言ったでしょ。愛って気づいてもらうことに失敗するより、気づかないほうが罪深いんだって」

「義雄くん、おすすめだけどな~」

 

「恵さん、私が正さんに気を向けないようにあてがうんですか? 義雄さんを」

 

みゆきさんがフフフと微笑む。

 

 

 

 

ーーーーーーーーー

 

 

 

 

「いいかい、義雄。ピュアな女の子であれ、スレた女の子であれ、相手の心を自在に動かすことができればこっちのもんだ」

 

「いいよ、いいよ。ナンパ師のテクなんて習わなくても」

 

「違う違う。恋愛にとって大切なことを話すんだからよく聞け」

「無理やり女の子のことを振り向かせるなんてお前の器量じゃ不可能なことだ。まずは、相手の感情を揺さ振るんだ。感情が揺れたら行動が変わる」

 

「具体的にどうするんだよ。50発一中さん」

 

「ちゃんと名前で呼べ」

 

「はいはい」

 

「感情はとても複雑で繊細だ。デタラメに相手の感情を動かしても何にもならない」

「まずは、相手の安心を引き出すために、不安の感情をよく見定めるんだ」

 

「安心のための不安の見定め?」

 

「そう。相手にいくつかの提案をして、不安な表情や仕草をした時に、それを取り除いてあげる話の流れに持っていく。まず、相手の不安がるものとは何なのかの情報を集めるんだ」

 

「なるほど。そうすれば安心要因だけの会話ができる」

 

「だから青いんだよ。義雄は」

「その後、相手に不安を与える」

 

「何? それ?」

 

「女の子って特にピュアだと、男の子はちょっぴり怖いけど、実は私にだけは優しいものと思ってる子がほとんど」

「安心要因をたっぷり与える」

 

大樹はタバコの火を消す。

 

「そして、安心から不安にけ落とす感情の操作に入る」

 

「あのさ、俺、そんなナンパの詐欺師みたいなことしたくないよ」

 

「いいから聞け! 少し不安にさせてみるだけだ。相手には彼氏が手にはいる過程なんだからよしとしてもらう」

「たっぷり優しくした後冷たくしてみる。例えば、LINEが来ても、それまで即返をしていたのを急にやめてみるとか、いい感じになって来た時に、いてもいなくても元カノへの思いがぬぐいきれない素振りを見せるとか」

 

「そんなん、すぐバイバイされて終わりだろ」

 

「いやいや。間髪入れず、またLINEの即答で話を盛り上げたり、冷たくした後には、また安心の園で、十二分に優しく接してあげる」

「そして時間をかけてその繰り返し、相手の安心と不安をたくさん知って、それからは義雄が勇気を持って、その子の不安からその子をしっかりと守ってあげる男になる」

 

「あぁ……。大樹にしてはうまい話のくくりだな」

 

「義雄よ。女の子のネイルを褒めるときどう言う?」

 

「かわいいね、そのネイル。似合ってるね。とか言うかな」

 

「俺ならこう言う。君の爪、鏡になりそうなくらい綺麗な白だね。その10個の鏡に、君の素敵な瞳が映り込むんだ、とか」

「そうして、今度は女の子の求める欲望と自分の欲望を重ねる作業に入る」

「この説明は長くなる」

 

「あのさ。作業という時点で、もうナンパの講習なんだけど……」

 

大樹は何やら昔を思い出したような表情でまたタバコに火をつける。大樹の顔には前の車のウインカーの光が映っては消える。

 

「相手の心の動かし方を少しかじったから、再度男慣れしていない女の子の話に戻ろう」

 

「いいよ大樹。もう」

「しかしさ~、正はみゆきさんの存在、どう感じているのかな?」

 

「気になるか? 正はお嬢様から好かれるタイプだからな」

「でも正は恵ちゃんしか見えない。逆にみゆきさんが正のこと、どう思っているかが気がかりだな」

 

「……」

 

義雄はペットボトルを握りつぶすように持ち上げ一気に飲み干す。

 

「それが答えだ。少し急ごう」

 

大樹は勢いよく車のアクセルを踏み込む。

 

第116話

 

 

「始まりましたね。前奏曲と愛の死」

 

音楽館に来ている人たちの手や動きが一瞬止まる。とうとう来たか、と言いたげな、かすかに硬質な空気の囁き。

 

この美しい音の波にいつまでも溺れていたい。求めてもないのに究極の愛を体感してしまう。トリスタンとイゾルデにはそんな魔力がある。

 

平然とした装いをしながら、コーヒーカップを持つ手が震えている老人がいる。自分の顔を無邪気に見上げている子供をよそに、遠い瞳で音楽に浸る若い母親がいる。

 

前代未聞のエロスティックな音楽。全曲約4時間のうちの大部分が、主人公であるトリスタンとイゾルデの心理的駆け引きと性愛の場面に費やされる。音楽は二人の心理状態や愛の行為が、これでもかと言わんばかりに深くそして執拗に表現されていく。

 

この楽劇の魅力が凝縮された前奏曲、約12分間。終止和音なしの愛欲の旋律が連なり何度も繰り返され、トリスタンとイゾルデの飽くことなき愛の憧憬と張りつめた心理状態が表現される。冒頭に流れるのは愛の憧憬の動機、刷り込まれるくらい聴かされるのは愛のまなざしの動機。

 

前奏曲が終わるとマスターは沈黙の間をおき、そっと愛の死をかける。

 

トリスタンは死んでいる……。

 

「おだやかに静かに彼が微笑んでいるのが、優しく目を開いているのが……。みなさん、見えますか? 見えないのですか?」

「次第に明るく、輝きを増しながら、星の光に包まれて高くのぼっていくのが……。見えないのですか?」

 

「彼の心が力強く盛り上がって、豊かに気高く、胸の中に満ちているのが。口元からは幸せに満ちておだやかに、心地よい息が安らかにかよっているのが……。みなさん、見てください!」

「感じられないのですか? 見えないのですか?」

 

「私にはこのように聞こえるのです」

「これほど素晴らしく、静かに、喜びを訴え、すべてを語り、優しくなだめながら、彼から響き出て、私の中にしみ込み、高くのぼり、優美な音で私のまわりに響いているのは、より明るい響きで、私のまわりに漂っているのは、柔らかなそよ風の波なのでしょうか?」

 

「それは幸せな香りの大きな波、それが盛り上がり、私のまわりでざわめくのを私は息で吸えばいいのでしょうか? 耳をすませばいいのでしょうか? すすり飲めばいいのでしょうか?」

「香りの中で心地よく息を引き取ればいいのでしょうか?」

 

「うねるような大きな波の中に、響きわたる音の中に、息のかよう天地万有の中に……」

「溺れ、」

「沈み、」

「意識もなく、」

 

「ああ! この上のない喜び!」

 

そしてイゾルテも天に召していく。

 

7分間の珠玉の演奏。これを聞くたび、我々は人生の一部分の7分間を切り取って見たとき、果たしてそれは愛に真摯に生きている瞬間なのだろうかと考えさせられる。

 

「みゆきさん。恋した時言えなかった言葉たちは今どこにいます?」

 

「えっ……。どこ……?」

 

みゆきさんは静かに沈黙。

 

恵ちゃんはコーヒーにブラウンシュガーを丁寧に加え、そして混ぜる。

 

「すごいですよね、トリスタンを弔う、いや想うイゾルデの言葉」

「愛の死ではなくて、愛の昇華ですよね。愛って深い。まだ若い私達にはわかりっこないかな?」

 

恵ちゃんがそう言うと、みゆきさんがコックリとうなずく。

 

「もしかしてみゆきさん、恋愛をこの愛の死のような言葉たちにたどり着くものだと思ってません?」

 

みゆきさんがゆっくりと口を開く。

 

「こんな風に相手を愛したいです。そして、愛して欲しいです」

 

恵ちゃんが微笑む。

 

「おとぎ話、いや……失礼。至高の愛の妄想、トリスタンとイゾルデの恋愛を自分の心のテキストにしちゃダメですよ」

「ねえ、お腹すいたから回転寿司でも食べに行かない?」

「ありがとう。今日は楽しかったね!」

「そんな簡単な恋愛関係でいいんです。はじめから愛と真摯に向き合う? フフフ。なんてダメですよ」

 

「はぁ……。私、恋愛には初めから深い心の交わりを求めるクセがあって……」

 

「楽に楽に。等身大の自分自身を愛して、お相手とともにお気楽に。でもね、それだけで満足しちゃダメなんですよ」

「人の魅力って自分で見つける事より、相手から引き出してくれることの方が何倍も多いんだから」

 

「そうなんですか? そんな体験したことないです」

「等身大の自分なんてどこにいってしまうやら。無駄な時間、お金、動きをくるくる使う日々が続くだけ。全くの無駄ばかり……」

「彼はこんな私の努力を知ってるの? これって、どこからが恋なんだろう? なんてクヨクヨ考えたりして」

 

「恋愛に無駄なものなんてないはずです」

「時がたてば、イゾルテが口にしたような言葉たちがみゆきさんにも生まれてくるかも」

 

恵ちゃんがそういうと、

 

「ないはずです!」

 

みゆきさんが愛らしくノリの返事をする。

 

音楽館に、マーラーの交響曲第五番、第4楽章のアダージェットが流れる。トリスタンとイゾルデの後に聞くアダージェットは新鮮でまた格別だ。このアダージェットは、マーラーが出会うなり恋に落ち、すぐに結婚した運命の女性アルマへの音楽のラブレター。そして、アダージェットが描く愛の世界は悶え。

 

「マーラーの狂おしいまでの求愛の音楽ですね」

 

「はい。至極の美しさをたたえるアダージェットは、聴く人の欲求を高めるだけ高めた上で満たす、という作曲のワザが使われていますよね」

「弦楽器で始まる愛の導入へのメロディー。音楽用語で倚音、と呼ばれる非和声音を効果的に使うことで不安定な響きが生まれ、その後に来る調和のとれた響きがより美しく聴こえるように工夫されている」

 

「はい」

 

「続いて、ハープの冒頭の音型。出だしのハープはドとラの2つの音を分散和音で奏でています。実はこのドとラは、ファラドという3和音から主音であるファを抜いた音。大事な主音を入れないことで、調性感が曖昧となり、すこしミステリアスな響きが生まれてます」

「曲の出だしを意図的にぼかすことで、聴く人の期待感を高める強烈なツカミを作り出していますね」

 

マーラーとアルマ、2人は深く愛し合った。しかしこの幸せは長く続かない。最愛の長女が4歳で病死し、マーラー自身は心臓病を発病、そして妻アルマは若い建築家と不倫の恋に……。マーラーは愛を失った。


マーラーは、妻の心が再び自分に戻ることを願いながら作曲を続けるが、50歳でこの世を去る。しかして2人の愛の証は、よき日のアダージェットの中で響き続けている。

 

「恵さんは、正さんと今のような関係になる前に失恋したことはあるんですか?」

 

「もちろん!」

「しましたよ。大小ありますけど」

 

「大小?」

 

みゆきさんがフフフと微笑む。

 

「まあ失恋すると、恋を失うわけですから、相手をはじめ、いろいろと失うものもあると思います。でも恋は心が変わるもの」

 

恵ちゃんがコーヒーを一口。

 

「恋をしている時、心の中の様々な感情の経験をしたんです」

「相手と一緒に過ごした時間の中で、様々な気持ちを感じる。その中には、初めて自分の中で抱いた気持ち、感情、行動がありました」

「みゆきさんもあったでしょ?」

 

「しっかりとした恋はしてませんが、ありました」

「楽しくて素敵な気持ちを感じましたし、何事にもポジティブに行動していましたね」

 

「それはその相手と出会って初めて知る事が出来た、新らしい自分、でしょ?」

「失恋は、失うものもあるけれど、自分自身を成長させる大きな経験でもあるわけです」

 

みゆきさんがコクリとうなずき、コーヒを一口、口にする。

 

「例えば失恋し、相手とお別れする事になったとしても、その相手から教えてもらったものもあると思います」

「相手と一緒にいられるだけでこれまで感じた事のなかった安心感や幸福感、またお互いの考えや行動、そしてその中で見えるお互いの笑顔や楽しさ」

 

「そう。そんな様々な出来事から、様々な感情が自分の中で経験として残っている……」

「そうなんです。残っているんです」

 

「失恋して、少なくとも悲しみを知った人は、同時に優しさと強さを心の中に宿していると思います」

「そしてどんな恋も、少しは幸せを感じ、そこに笑顔でポジティブな自分がいたはず」

 

みゆきさんは恵ちゃんの瞳をじっと見つめる。

 

「その新らしい自分だけは忘れないでいましょう。いつまでも自分の中に持っていたいものですし、次の恋は、その新たな自分を工夫して活かすんです」

「恋から愛へと変える事が出来る程の自分に成長している事に、いつか気づくはずですから」

 

「はい」

 

「失恋って失う事よりも、むしろ自分自身を成長させるにはプラスになることのものが多いのかもしれませんね」

 

ウンウンとみゆきさんは深くうなずく。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

「エッチニーサン、エッチネーサン、ハイ! エッチニーサン、エッチネーサン、ウフン!」

 

「こずえちゃん何? その変な体操のかけ声」

 

「テイクツー。正先輩への挑戦状その2、日向ひょっとこ踊りを撮るです。これはテイクワンの島根どじょうすくいよりも体力を使います」

「この体操で体が柔らかくなります。このかけ声はいつぞや正先輩の下半身を硬くしたようですが……」

 

「はいはい。バカなこと言ってないで撮りましょう」

 

夕子ちゃんがひょっとこのお面をかぶったこずえちゃんにカメラを向ける。

 

「夕子ちゃん、カメラ大丈夫ですか? ピンと、勃ってます?」

 

こずえちゃんが聞くと夕子ちゃんが、

 

「ピント、バッチリよ。女の子のどこが勃つの。全く、いやらしい」

 

「そうだ! その前に、こううんたいし」

「イレトに行くです」

 

「こずえちゃん。うんこしたい、のはわかるけど、女の子が男の子のように逆さ言葉、業界ズージャ語使っちゃかっこ悪いよ」

「まずは、早く用たしてきて」

 

「ケツカッチンですか」

 

「あのさ、こずえちゃん」

「言っとくけど、爆笑を誘うビデオを腹を切った正先輩に送るの、常識的にダメ、というより犯罪行為に近いよ」

 

トイレに行く前に、紀香ちゃんがマジ顔でこずえちゃんを止めにかかる。

 

「大丈夫。あの輩は、ちょっとやそっとのことで笑いません」

「新歓の季節、正先輩とキャンパスの漫才研究会の出し物を見に並んだ時ですが、先頭でおならピーのお客様、そして後に続くお客様も、おしり洗わずに順番にお入りくださいと」

 

「そんなこと言うわけないでしょ……」

 

紀香ちゃんがため息。

 

こずえちゃんは話を続ける。

 

「とにかくこずえはホモ同士の漫研ネタ、踏まれて初めての経験。笑いました。しかし、正先輩は、こずえに耳うんちして、騙すホモ悪いけど騙されるホモ悪い、とぶちぶちと冷静に分析して微笑だにしませんでした」

 

「それと今回のとは違うでしょ。どじょうすくいもひょっとこ踊りも、こずえちゃんのメイクやお面をかぶった顔、手つき腰つきの動きの全てが爆笑いを誘うの」

「なんて言うんだろ、言葉じゃなく風のように笑いが吹きかかってくる」

 

こずえちゃんは、紀香ちゃんの話を無視する。

 

「その後、エロ覚えですが、こずえちゃんって頭でっかち尻クボミ? 尻のツボミ? みたいなこと、正先輩が飢えから目線で迫ってきたので、こずえと付き合うには相当な角度が必要ですよ、と言い返しました」

「そしたら、急に確かめに行ったのか、インベンションしてくるとイレトに行ったまま帰って来ないので、いけないと思いながら工学部の男子トイレを覗くと、いつまでも小便のところを持ち続けている、輝いている正先輩がいました」

 

「あのさ、持っていたのは少年のこころでしょ」

「なんでもいいから早く行ってきて!」

 

「はいはい。じゃあイレトから戻ってきたらテイクツー撮るです」

「ヨロピクです」

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

「恵さん。正さんはどんな気持ちで恵さんと付き合っているんでしょうか?」

 

「そうね、私に会いたい時会いたいと言って会えることを、とても特別で、幸せで、当たり前じゃないと言ってくれる」

「私のことを正くん自身のことのように喜んでくれる。いつも私のことを笑顔にさせてくれるのが正くん」

 

「いいですねぇ~。笑顔にさせてもらるなんて」

 

「言っときますけど、笑いの神様、こずえちゃんが力技で人を笑かすような類のものとは違います」

「自分以上に私のことを思ってくれて、大切にしてくれて。私はその安心感から自然と笑顔になるんです」

 

「そこにはどんなふうな愛があるんでしょうか?」

 

「愛ねぇ~。風のようなものかな。相手が素顔でもお面をかぶっていても伝わってくる。愛は目で見るものでなく感じるものだから」

 

「いいなぁ~。うらやましい」

「私もそんなふうにそばにいて感じられる男の子が欲しい」

 

「理想を高く持っちゃダメですよ。自分以上に自分のことを想ってくれて、大切にしてくれる人が現れたら、その人を手放さないようにしなきゃ」

「失ったあとで気づいても遅いから」

 

「恵さんって、ホントしっかりしていますよね。私はダメ」

「私の恋は砂時計みたいなものです。こころが満たされていくにつれて頭の中は空っぽになる。思考回路が止まるんです」

「そして私は、目の前にしている恋愛のお相手よりも、自分でこころに描き出した方のお相手の像を愛してしまう」

 

「よくあることです」

「あのね、みゆきさんにアドバイス。愛って気づいてもらうことに失敗するより、気づかないほうが罪深いんですよ」

 

「えっ……?」

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

「ハックショイ!」

 

「おう、義雄。おかえり」

 

机に足を上げ、CanCamの雑誌片手に、相変わらずナンパ師気取りの大樹。歩ちゃんという彼女がちゃんとできたのに。

 

「義雄。準備しな」

 

「何?」

 

「名古屋行くぞ、名古屋」

 

「?」

 

「深夜に走れば、東名高速じゃなく、下でもスイスイいける」

 

「おいおい、俺、今名古屋から帰ってきたばかりだぞ」

 

「それな~。関係ない。いつも正をそうやって俺たちが振り回してきただろ」

「いい奴だよ、正。文句一つたれずに。手放しちゃいけない俺たちの真の友人だ」

 

「いや、ぶちぶち文句言ってたろ……」

 

義雄の言葉を無視して大樹は足を降ろしてスッと立ち上がる。

 

「見舞いに行くぞ。ついでに義雄の忘れ物も取りにな」

 

 

第115話

 

 

「大変! 大変!」

 

夕食の始まる前、紀香ちゃんと夕子ちゃんが慌てふためいている。

 

「どうしたの?」

 

午後の練習後、隆と一緒にホテルの外を散歩していた里奈ちゃんが、まあまあ落ち着いてと言わんばかりに二人に問いかける。

 

「正先輩がですね、きっ、緊急手術になるそうです!」

「開腹手術らしいですよ。あぁ、どうしよう……」

 

「あらあら、それは」

 

看護学部の里奈ちゃんは落ち着いて返事をする。

 

「腹腔鏡手術じゃなくて、開腹なの」

「きっと虫垂の根元が破れているかなんかしているのね」

 

「富士や~ま、天ぷ~ら、忍者、ハラき~り……」

 

こずえちゃんが暗く重い足取りでやってくる。

 

「こずえちゃん。何それ?」

 

「正先輩も日本人です。まさに海外の人が口ずさむ日本の印象」

「ハラき~り、です……」

 

「あのね、正先輩の盲腸の手術と海外から見た日本の印象と何の関係がある?」

「緊急事態なのよ、こずえちゃん」

 

「まあまあ、何はともあれ夕食にしましょう」

 

みどりちゃんがこの場を仕切る。

 

こずえちゃんが悲しげにマイクを握る。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

「アッ、イィッ、ウフン……」

「主人のいない夜です。ただいまバイブのテスト中」

 

「いいから、マイクのテストで壊れた色気を出すのはやめて」

「連絡はじめて」

 

みどりちゃんがこずえちゃんを急かす。

 

「はい。皆様、今日の夕食は日本海で水揚げされた新鮮な魚をふんだんに使い突き出された寿司バイキングです」

「あぁ、こずえも正先輩に水揚げされ、突き出された……」

 

「こずえちゃん。いいからいいから、早くメシ、メシ。ネタの鮮度が落ちるでしょ」

 

水野が叫ぶ。

 

「皆様に悲しいお知らせがあります」

「正先輩が、正先輩が……」

 

こずえちゃんの瞳には溢れんばかりの涙が光る。

 

「みんな聞いたよ、こずえちゃん。手術でしょ。盲腸の」

「お医者さんに全部任しておけばいいんだからって。心配しないで」

 

里奈ちゃんから情報を聞いた隆がこずえちゃんを悟す。

 

「あぁ、思い出す。元気だった頃の正先輩」

「高原を散歩していると、僕にはこずえしか見えないと犯しそうに笑ってくれた……」

「そしてこずえが不機嫌になると、ほ~ら、股ふくれた、と言って微笑んでくれた正先輩……」

 

こずえちゃんが哀しい子犬のように目を伏せる。

 

「正との思い出話はいいから、早くして」

 

こずえちゃんは外野の話を無視する。

 

「そう、お寿司と聞くと思い出す。回転寿司を食べに行った時、ナンマイダナンマイダと魚を弔うように皿を数えていた……」

「こずえが正先輩のふところ具合を察して控えめに済ましたら、ありがとう、おかねで助かったよ、と。そして、あ、たまが下がる思いだ、とも言ってくれて、なけなしのお金でおいなりさんをお土産に……」

 

「あのさ、早く食べたいんだけど」

 

「わかりました。早めに剃り上げます」

 

「こずえちゃん、何を剃るの?」

 

「正先輩は手術の前に土手を剃ります。土手は、ピストン運動の衝撃から体を保護するためのもの」

「あぁ、愛しのリーベの……」

 

「あのさ、まず土手は恥丘という。恥丘は女の子の体の部分を言うわけで、しかも開腹手術だからそんな際どいところまで剃らないよ。安心して」

 

医学部の森本くんが口を挟む。

 

「ただ……」

 

「ただ、何? こずえちゃん」

 

「お腹の毛を剃る前に、看護師さんがマスを立たせると聞いたことがあります」

「どうやって勃たせる?」

「胸でも見せるのかな? いや、顔に乗せたりして。吸わせる?」

「こずえ、無い胸は振れない。どうしよう……」

「正先輩の位置大事なのに何もできない……」

 

「あのさ~、その筋の店じゃあるまいし、何より、何でこずえちゃんがそこで出てくる?」

「自分で剃るとか聞いたよ」

 

水野がこずえちゃんに物申す。

 

「全身麻酔の腹腔鏡手術では、某看護婦の話による噂話……、勃起させてないとうまく剃れないとの事。だから、患者のマスを握って少しシコシコすると、どこかでみたことがあるです」

 

「そんなことしないよ、そっと持ち上げたりよけるようなことはするけど」

 

「いや。まだ医師免許のない森本先輩のいうことは百パーセント信じることはできません」

「だいたいの患者は、シコシコで勃起するので剃り易くなるけど、しぼんだままの場合は苦労すると聞きました。余談として、剃毛処理中も維持する為にシコシコしてあげるのですが、発射してしまう人も多いとか」

 

「どこからそんな話持ってくるの? 看護では、そんなことご法度よ」

 

里奈ちゃんが怒りっぽく答える。

 

「そうそう、思い出した。ヤッホ~痴話袋で見ました」

 

ププッ、ワハハとオケのメンバーがざわつく。

 

「こずえちゃん。早くメシにしてよ~。せっかくのお寿司バイキングなんだからさ~」

 

オケの面々からシュプレヒコール。

 

「わかりました。いた~だ……、しかしその前に……」

 

「何? こずえちゃん。その前にまだあるの?」

 

夕子ちゃんがイラつき気味に問いかける。

 

「正先輩とみゆき嬢との関係はいかに……」

「あぁ、お手手のふしとふしをあわせてふしあわせ。クワバラクワバラ」

「なんだか不潔な予感がします」

 

「それをいうなら不吉でしょ。その話は後にして」

 

「いや、今話さなくては……」

 

「じゃあ、いた~だきます!」

 

「いた~だきます!」

 

こずえちゃんを無視して夕子ちゃんがいただきますの音頭をとった。

 

「今いる病院に正先輩は堂々といられる。我輩はコネがある。名前は正。痛みを腹痛の精神で我慢している様子」

「保険証を執拗にくれとねだる。こずえからの、初診料忘るべからずとのメッセージを受けてのことか」

「正先輩。剃られる……。貧乏秘部出し……」

 

「こずえちゃん。何をぶちぶち言っているの」

 

「お寿司のネタの味がわからない……。アジもホッケもない」

 

「アジやホッケは無いわよ」

「あっちのことは恵先輩とみゆきさんに任せて」

 

「売る性やつらにですか?」

「恵先輩に恋のイロハを学ぼうとしたら、習うより舐めろと」

「正先輩とは、吸った揉んだあって結ばれたと……」

 

「たっ……、確かに。恋人になるためのステップとしては一理あるわね……」

 

この合宿で篠崎先輩と仲良くなった夕子ちゃんが照れながら口ごもる。

 

「あと、恵先輩に宇宙戦艦ヤマトは何でできている? とか、なぞなぞ出されて」

 

「何? 答えは」

 

「つまんないです」

「チリも積もれば、ヤマトなる、だって」

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

「結局オペになりましたね。明日の朝10時まで面会謝絶」

 

「まあ、治すところはしっかり治す。その方が正しくんのためにいいでしょう」

 

「恵さん。どうします夕食?」

 

「そうですね、どこか素敵な音楽の流れているお店がいいなあ」

 

「では、音楽館にしましょう。ここから歩いて10分くらいのところです」

「義雄さんはどうします? 誘います?」

 

「もう帰りました。何だか居心地が良すぎるみたいで」

 

みゆきさんがクスッと微笑む。

 

「お店、お客のリクエストのクラシック音楽をかけてくれるんですよ」

「空いていたらシンフォニーもかけていてくれますし、混んでいたら、その時は自分のリクエストがいつかかるんだろう、みんなどんな顔するだろう、って楽しいんです」

「きっと気に入ってもらえると思います」

 

「じゃあ、そこにしましょう」

 

「何の曲がいいかな~」

「恵さん、リクエストあります?」

 

「そうですねぇ……。たまにワーグナーがいいかな」

「正くんのオペがうまくいくように、正くんのiPhoneに大好きなワーグナーのタンホイザー全曲を入れてきたんです」

「好きな曲や心地よい旋律を聴くと、脳内に分泌される快感物質のドーパミンやエンドルフィンが、痛みや不安を鎮めてくれるっていうでしょ」

 

「恵さん。ちゃんと彼女してますね」

 

「人の脳は、より複雑なもの、難解なものを理解したときに快感を得るので、クラシック音楽を聴くことは高次機能を司る部分を刺激して、進化の喜び、とでも言うべき強い幸福感を引き起こしてくれる。素敵ですよね」

 

「愛の幸福感もそうなのかしら?」

 

「そうですよ、みゆきさん」

 

「タンホイザー。騎士の1人であるタンホイザーは、テューリンゲンの領主の親族にあたるエリーザベトと清き愛で結ばれていた」

「しかし、ふとしたことから官能の愛を望むようになり、そして愛欲の女神ヴェーヌスが棲んでいるという異界ヴェーヌスベルクに赴き、そこで肉欲の世界に溺れていく」

「愛と愛欲はどう違うんでしょう?」

「男の人が求めているものがよくわからなくて……」

 

「そっ……、それは私もよくわからないです……。ハィ……」

 

恵ちゃんは少し照れて小さくなる。

 

「恵さん。トリスタンとイゾルデにしませんか。前奏曲と愛の死」

「天才、ワーグナー自身が、あらゆる夢の中で最も麗しい夢への記念碑と語っている。この作品は愛の究極的な賛美であるとともに、その一方で、感情的な体験を超えて形而上的な救済を見いだそうとするもの」

 

みゆきさんは美しく遠い目をする。

 

「えっ? そんなのお店で流していいんですか?」

 

「いいんです。何でもありのお店です。この曲、リクエストしたことはないけど」

「着きましたよ。ここです」

 

音楽館。洋風な建物と思いきや、大正時代を思わせるような店構え。山田耕筰と北原白秋が店の中でコーヒーでも飲んでいる様が目に浮かぶ。

 

店に入ると、カンテラに灯る裸電球の熱を帯びた鉄の香りがかすかに漂う。白髪、白髭の初老の細身で小顔なマスターがお出迎え。

 

「マスター。トリスタンとイゾルデお願い。前奏曲と愛の死」

 

「みゆきさん、いらっしゃい。いいですよ。トリスタン和音。ヘ-ロ-嬰ニ-嬰ト……、でしたっけ」

「ワーグナーの生涯最大の不倫から生まれた自身の芸術の最高峰。このオペラが音楽というもの全ての頂点に位置しているということを彼の口から言わしめた最高傑作」

「聴く前から鳥肌が立ちますね。今日のお客さん、きっと目を丸くしますよ」

 

マスターは眼尻にしわを寄せて微笑む。

 

「混んでますね」

 

「ええ。さて、恵さんから死ぬ前に、愛にたどり着く魔法を教わろうかしら」

 

「さっき、私は人の脳は、より複雑なもの、難解なものを理解したときに快感を得ると言いましたよね」

 

「はい」

 

「それと恋を得ることは違いますよ。恋愛は多くの言葉で愛を語るのではなく、少しの言葉で愛の多くを語らなきゃいけません」

「そう、トリスタン和音のように」

 

みゆきさんはキツネにつままれたような顔をする。

 

「そして、相手の多くのどうでも良い情報に惑わされるのではなく、一つの役に立つ情報を手にする」

「わかります?」

 

「わかりません……」

 

「恋したら、すぐに恋から離れたところに行くんです。距離でもいいし、心理的にでもいい。恋がチリ程小さく見えるところ」

「そうすれば、その恋の全体像がよく眺められるようになる」

 

「えっ? よくわかりません」

 

「すぐに恋に落ちる愛の媚薬なんてないんです。トリスタンとイゾルデが飲まされたような」

「でも、やはり恋というのは毒みたいなもの。のめり込めばのめり込むほど中毒になる」

「恋を無毒にするには、その服用量のさじ加減を身につけることが大事です」

 

「はぁ……」

 

「みゆきさん、理想と現実の違いを、研究成果と研究とに置き換えてみてください」

「理想、すなわち果実を得るためには、地道な失敗が必要でしょ?」

 

「そうです。勉強には答えがあるけど、研究には答えがない。いつも失敗ばかり」

 

「でもですね、失敗って発見なんです。百のうち99うまくいかなくても、それは99の失敗を発見したことになるんです」

「大発見です!」

 

「なるほど」

 

「誰しもが恋に失敗するんです。恋は実らないものという発見をしていくんです」

「試薬の配合のようにゆっくりとさじ加減を調整したら、恋は実るものという自分史に記すべき大発見をするかもしれない」

 

「恵さんの話を聞いたら、なんだか嬉しくなってくる」

「どうしてだろう?」

 

「いいですか、愛と向かい合う現実がみゆきさんを幸せにしてくれるのではなく、愛を幸せと感じられるこころがみゆきさんを幸せにしてくれるんです」

「本来、誰もが、もちろんみゆきさんも幸せなのが当たり前」

「ただ、その邪魔をしてるのは自分自身です。そのままの自分をみゆきさん自身が愛してあげること。失敗を発見にすること。そしてさじ加減、大切ですよ」

 

 みゆきさんは運ばれてきたコーヒーに、微笑みながら、慎重にブラウンシュガーを加えていく。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

「義雄くん、もう帰ってくるの? ちゃんと一泊分のホテル代渡したじゃない」

 

有田先生が、義雄が帰路に向かっていることを知り不思議がる。

 

「どうせヘマでもしたんじゃない」

 

カッカッカッ、と研究室でお留守番の大樹がドラムを叩く真似をして笑い飛ばす。

 

「ホテル代は恵ちゃんにもう一泊できるよう渡してきました。正、手術になったから」

 

「美しい友情に聞こえるけど、何かあった? 色素研究会で」

 

有田先生がそう聞くと、

 

「何もありませんでしたよ、色素研究会は。ただ……」

 

「ただ? どうしたの?」

 

「いや、何もありませんでした。やることないから帰るだけで」

 

「なるほど。何かやることがあったんだ」

 

「ないですって!」

 

有田先生が優しい声で義雄に答える。

 

「あったんだ。そこから遠ざかってチリ程小さくして見てみたいもの」

 

 

第114話

 

「み……、痛っ、みっ、みゆきさんのオケの定演で演奏する英雄の生涯の出来のレベルは、あたた……、いっ、いかがなんですか?」

 

「正さん。無理しないでくださいね」

「私は好きでここにいるだけですから、話なんてしなくてもいいですよ。お邪魔なら帰りますし」

 

「だっ、大丈夫です。いちちっ」

 

「そう、長大かつ超絶技巧を要求されるバイオリン独奏が必要で、各楽器のソリスティックな能力、 オケ全体の最高水準のアンサンブル力が英雄の生涯を演奏する前提として当然のように求められてますよね」

 

「えっ……、ええ……。あったった!」

 

「アマチュアとはいえ、運良く私の市民オケでは大学オケの首席レベルが集まっている感があって、それなりに曲にはなっていると思います」

「しかし、難曲です。スケールの大きな音楽、サウンド。この曲の壮大さ、深さを表すことができているかと問われたら全然まだまだです」

 

「ふ~う~っ」

 

僕は大きくため息。

 

「どうかしました?」

 

「痛みが少し治りました」

 

「よかった」

「ところで英雄の生涯の英雄はリヒャルト・シュトラウス本人という説が一般的ですが、本当のところ、どうなんでしょうね?」

 

「英雄の生涯はシュトラウスの自画像、自叙伝だ、と当時批判を受け、現在も英雄の生涯はそう世に通っていますよね。でも、僕は疑ってかかっています」

「英雄の生涯は英雄の死までを描いています。交響詩シリーズの最後であるこの曲は彼がまだ35歳の作品で、これからオペラの時代に入って85歳まで生きるわけです」

「この曲の第5部までノンフィクション自叙伝を貫いて、第6部から英雄の死、急にフィクションの世界になるのが腑に落ちない」

 

「なるほど……、ですね」

 

「また原題のEINは不定冠詞で、とある、と訳せるので、EIN HELDENLEBEN は、ある英雄の生涯と言えます」

 

「この曲を聴く上では、英雄はシュトラウス自身、伴侶は妻パウリーネ、敵は批評家、業績はシュトラウスの作品と捉えた方が理解しやすいから、自叙伝として扱われている……」

 

みゆきさんは口をすぼめ少し難しい顔をする。でもその口すぼめの顔が可愛い。恵ちゃんとはまた違う女の子の魅力。

 

「僕は、シュトラウスは自らの自己顕示欲のために単なる自画像、自叙伝としてこの作品を書いたのではなく、自身の交響詩シリーズの最後を飾る作品として、英雄像、すなわち誰もがなれるヒロイズムを描こうとしたんだと思います。もちろん、彼自身の経験も織り込みながら」

 

また少し痛みが襲ってきた。

 

「シュトラウスが音楽に込めた英雄像とは一体何なのかを考えて聞くと、いたた……、この曲が格段に新鮮に面白く聞こえると思いますよ」

 

「正さん。英雄ってどんな人なんでしょうね?」

 

「答えは簡単です。英雄とは、自分のできることをした人だと思います。対して凡人とは自分のできることをしないで、できもしないことをしようとする人」

 

「なるほど」

 

みゆきさんはうなずく。

 

「あと、助けて、と言える人。そう言える対象がいる人は、それだけで十分強い」

 

「恋もそうですね。自分ができる愛をした人には愛が生まれるみたい」

「そう、自分のできる範囲の愛を育んでいる人がヒーロー、ヒロイン。私のような凡人は、できもしないような愛を得ようとする……」

「そのくせ人に頼らない。そして物事をじっくり準備するヒマがないくせに、後悔するヒマならいくらでもある」

「ダメ女……。恋に転んでばかり……」

 

僕はみゆきさんに微かに微笑む。

 

「転ぶことが恥ずかしいことじゃないですよ。起き上がれないことが恥ずかしいことなんです」

 

「でも、聞いてください!」

「私は本当に進歩できない女なんです。いつでもどこでも、うまくいきそうと思っていても、私の恋は結局逆戻り……」

 

「進歩していなきゃ逆戻りなんてできないでしょ?」
「逆戻りとは、自分が進歩している証であって、目標に着実に近づいているからこそ経験できる試練なんじゃないかな?」

「恋したことに失敗がないと、恋することを失敗しますよ」

 

みゆきさんが唇を噛みしめる。

 

「あ~いてて」

 

僕はまた油汗をかきはじめる。鼻水も出始めた。ティッシュが切れている。

 

カバンの中をゴソゴソ探ると、こずえちゃんがくれたポケットティッシュ。確か、こずえ、ちり紙股間でもらいました、と言って渡されたやつ。

 

「私のどこがいけないんでしょう……。よくわからなくて……」

 

「みゆきさん、実は恋に振り回されているのではなく、恋の理想がしっかりしすぎていて、周りを振り回してだまされまいとしているんじゃないですか?」

 

「はぁ……」

 

「だまされまいとしている人は夢を見ることができないですよ」

「理想の愛で苦しむよりも、だまされている愛のほうが幸せなときがあります」

 

みゆきさんが歯がゆそうな複雑な顔をする。

 

「可愛い女の子って自分ファーストで、恋愛だけじゃなく、色々なものに欲張りで生きてるわけです」

「私なんか、と思ってなくて、私だから、で生きている。相手は関係なく、全部自分次第」

「そして、愛される女の子はいつもご機嫌。輝いてる。自分なら何でもできるといつもハッピー」

 

あれ? 話しててなぜかこずえちゃんの顔が目に浮かぶ。取り払わなきゃ。話を現実に戻そう。

 

「そろそろ義雄の発表が終わった時間ですね」

 

僕は鼻をかみながら、病室の時計を見上げる。

 

「もうそんな時間ですか?」

 

みゆきさんも僕と同じ方向を向いてつぶやく。

 

「時計は時を知らせてくれるけど、正さんは時を忘れさせてくれる……」

 

「?」

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

「そういえば……、恵先輩が言うには、義雄先輩から私が担当した部分の論文の表現があまりに工学的で園芸学的じゃなさすぎた、みたいな少しきつい言葉があったみたい」

「義雄先輩と知り合ってから、そんな風な言葉を使われるの初めて」

「でもこずえちゃん、それがどうかした?」

 

みどりちゃんがこずえちゃんに問いかける。

 

「ほ~ら、あなたのダメ、が出た。浮気の開始合図です」

「面白くなってきそうですね! 名古屋場所」

 

「何、こずえちゃん、名古屋場所って?」

 

夕子ちゃんがこずえちゃんに問いかける。

 

「正先輩の三股か、はたまた義雄先輩の初の浮気か」

 

「急に何を言ってるの。どっちもこずえちゃんの頭の中で妄想していることでしょ。理解不可能」

「あえて聞くけど、どちらがこずえちゃん的に興味あるの?」

 

「どっちも、どすこいどすこいです」

 

こずえちゃんは、すり足、張り手の真似をする。

 

「こずえちゃん。正先輩に三股、いや、こずえちゃんは抜きにして二股されたら困るじゃない?」

 

紀香ちゃんがこずえちゃんの自虐ともいえる妄想の火に油をそそぐ。

 

「正先輩は大丈夫。出会ってからこれまで、ずっとこずえの尻に惹かれっぱなしだから」

「こずえが叱ったら、ゴメン、勃ったの1度だけなんだ、と言わせて終わりにします」

「あぁ~、女はティーパックみたいなもの。熱湯につけられて、初めてその強さに気づく」

「正先輩も言ってた、こずえのTバックみたいな、もう!って……」

 

「はいはい。でもさ~、こずえちゃん。正先輩はちょっとやそっとで恵先輩以外の女の子に浮気なんてしないよ~」

 

「正先輩も男。男は安定すると浮気する。そして女は不安定になると浮気する」

「正先輩、意外にグッチっぽい女に弱いんです」

「お金持ちのお嬢様系の女の子の毛だけな姿に感動して、その子のいいけつを守るようになる」

 

「そんなことないわよ~。正先輩は」

 

夕子ちゃんが反論する。

 

「確かに面倒くさいみゆき嬢とやらからの求愛ですが、But! そこに義雄先輩の浮気心が絡んできた!」

「あぁ、正先輩と義雄先輩。一人の女狐に魔法をかけられた。なんて数奇な運命のクラスメイド」

 

「こずえちゃんが面白おかしく物語を作っているんじゃない。あ~バカらしい」

 

「恵先輩から、どうやら正先輩とみゆきさんの関係がちょっぴりおかしい気がする。そして義雄先輩の様子もおかしくなってる」

「そんな連絡はあったけど……」

 

みどりちゃんが口を挟む。

 

「ほ~ら。みどり先輩の言う通り。三角関係の構図が描かれてきている」

「ホント、みゆき嬢とはどんな子? ちょっとわき毛ありの女かもしれない」

 

こずえちゃんは眉間にしわを寄せ、

 

「早く正先輩に伝えなきゃ。男の子にとってはほんの少しの浮気心にすぎないものに、女の子は自分の全てを賭けることがある」

「みゆき嬢にリーベがいるかどうかはわからないけど、女の子の浮気は怖い。女の子の浮気は浮気じゃない。それは次の相手探し……」

「どうしましょ、こずえのことないがしろにされたら……」

「オケの面々にも失恋した女として冷ややかな目で見られる……。四面楚歌……」

 

こずえちゃんはうつむき、少し涙目。

 

「こずえちゃん。正先輩なら大丈夫よ。安心しな」

「こずえちゃんのところにまた帰ってくるって」

「何より、こずえちゃんは、みんなのこずえちゃん。愛されているんだよ」

 

夕子ちゃんが凹みそうなこずえちゃんにはっぱをかける。

 

「あぁ! そう。こずえは唯一無二の存在。この世界にいなければならない存在」

「存在しているだけで、周りの人の欲に立っているし、存在することに意味がある」

「こずえの存在は、とても価値あるもので、こずえがいなければ世界は存在しない」

 

「あらあら、何の話が始まった?」

 

紀香ちゃんと夕子ちゃんが目を合わせる。



「だけど、それを認めるのが怖くて、こずえなんて、どうせダメなんだ、愛されていない、大したことない」

「そう思って真実の自分の素晴らしさに許可ができない……」

 

こずえちゃんは天を見上げる。

 

「こずえは素晴らしい、こずえは価値ある存在、こずえは愛されている」

「そう思っているのに、そうじゃない現実が目の前に現れたら、ひどく傷ついてしまいそうで……」

 

次に、こずえちゃんは大きく一つため息をつく。



「でも、本当は、真実は……、こずえは愛されているということ。こずえは存在することに大きな意味があるということ」

「こずえの代わりは誰もいないということ。こずえはこずえでいることが、一番周りにとっての幸せになるということ」

「そう! こずえが素晴らしいこと、こずえの価値は誰かに証明するものではなくて、自分自身で知っていることが大切なんだ!」

「愛されていないと感じるときは、相手が自分でいっぱいいっぱいなだけ。浮気なんかじゃない……」

 

「あのね、こずえちゃん。だから、正先輩は今盲腸との戦いでいっぱいいっぱいなの。わかる?」



「あぁ、こずえは最初から素晴らしくて、価値ある女の子で、愛されているんだ」

「日々を振り返って、ホッとした瞬間、気持ちが楽になった瞬間、こずえ自身のホントの気持ちを感じた瞬間、美味しいものを食べたとき、季節を感じたとき、温もりを感じたとき、ふとんの中で棒としている時……」

 

「何々? その、棒としている時って?」



「失礼。ぼ~っとしている時、そんな時々を思い出そう」

「つらい時は一瞬だけど、それ以外は、きっと幸せな時間なんだ」

 

「こずえちゃん。そろそろ合奏よ。準備して」

 

みどり先輩が、優しくポンとこずえちゃんの肩をたたく。

 

「こずえ、真実のメガネをかけるです」

 

こずえちゃんはバックから伊達メガネを取り出した。

 

「天使からもらったこのメガネ。真実は何でも見えてしまうんです」

「みどり先輩はもちろん、気の許せる仲間、大自然だとか」

「でも不誠実は何も見えない。嘘つく人とか、浮気している人だとか」

 

「あらあら、素敵なメガネね」

 

みどり先輩が唇に手を当てて微笑む。

 

「しかし、このメガネは便利であって不便でもありますです」

「歩くたび、不誠実にぶち当たる。そう、それが見えないから」

「なんてこの世は生きにくい、いつも何かにぶつかってばかり……」

 

「ほら早く」

「行くわよ」

 

紀香ちゃんと夕子ちゃんがこずえちゃんの手を引く。

 

「ああ、こうして私を不誠実から守ってくれるリーベがそばにいてくれたら……」

 

「はいはい。行くよ」

 

「ある日、正先輩が見えなくなったらどうしよう……」

「それは正先輩が不誠実な男になった証」

 

ホテルの廊下を歩きながらも、こずえちゃんはウンチクを語り続ける。

 

「そういうとき、そっとメガネを外してみるの」

「そこには知らない女と並んでいる正先輩の姿が……」

 

「いいわこずえ。我慢してやる」

「正先輩にメガネをかけさせ、こずえの姿もぼんやり見えなくしてやる……」

 

「ほら、早く楽器を出して」

 

紀香ちゃんがこずえちゃんに楽器ケースを差し出す。

 

「遅れるわよ、合奏に」

 

「ローマにある真実の口。真実のメガネをかけた、このこずえの口」

「どちらも不貞を喰いちぎるんだわ」

 

「もういい、もういいから。はい、譜面台」

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

「何だかね、義雄くんの様子がおかしかったのよ」

「発表後、ここの部分はもう少し園芸学的な優しい表現がよかったのに、とか、急に天井を見上げて深くため息をついたりとか」

「いつもの義雄くんじゃなかった」

 

恵ちゃんと義雄が色素研究会の発表を終え、病院にやってきた。義雄はお手洗い中。みゆきさんはちょっと大学で用を足してくると出かけたまま。

 

「義雄くんに何かあった? 色素研究会に来る前に」

 

「みゆきさんに一目惚れしたかな」

 

「えっ? それホント?」

 

「ああ。四年も同じカマドのメシを食って暮らしてきた義雄のこころ。すぐにわかったよ」

「トイレからなかなか帰ってこないのも、わかるよね」

 

「あらあら、それはそれは」

「だからか~、みどりちゃんに急にもの申したくなったのね」

「みどりちゃんも、少し凹んでた」

 

「何、それ?」

 

「あのね、こずえちゃん経由で、いや、みどりちゃんに義雄くんの様子がおかしいこと電話したんだ」

「何だか、みどりちゃんの担当した発表原稿の文面にぶちぶち文句らしきものを言い出したから」

 

「それさ、余計なことした」

 

「あら、どうして?」

 

「恵ちゃん。わかるでしょ。こずえちゃん、あのこずえちゃんがいるんだよ、オケには」

「またどんな戦術で僕らにいらぬこと構ってくるかわからない」

 

「大丈夫よ。些細なことだも」

 

「些細なことを、とてつもなく大きな問題にでっち上げて、周りを巻き込んで嵐を呼ぶのがこずえちゃん」

 

「そうそう、みどり先輩が話していたんだけど、オケの有志でTHE盲腸基金という、正くんの病院代を全額カンパで集めるプロジェクトが動いているみたい」

 

「?」

 

「正くん、尿道……、じゃなかった、ノドから手が出るほどお金欲しいだろうからって」

 

「それはそうと、僕の保険証、どうなってる? いてて……」

 

「こずえちゃんに電話してみるね。ワコール? で出ればいいけど」

 

恵ちゃんはスピーカーをオンにする。

 

ピロリピロリン。

 

「もしもし、こずえちゃん?」

 

「いかにも。こずえでござる」

「大きな声は出せないでござる。練習中でござる」

 

「はいはい。あのね、正くんがお願いしていた保険証、送ってくれた?」

 

「即勃つ、で送りました」

 

「よかった。でも保険証って書留で送るものでしょ?」

 

「即勃つで送ったのは、寸止め券10枚つづりです。保険証はまだこちらにあります」

 

「えっ? どうして? 何より保険証じゃない、こずえちゃん」

 

「正先輩の分身のような気がして、なかなか手放せません」

 

「すぐに送ってよね。書留で」

 

「だから、掻き止め、すなわち寸止め券は送りましたが……」

「まあ、正先輩が近いうちに牛丼デートをする約束をしてくれれば送ります」

 

「あのね、今、その牛丼デートの話をするタイミング? 盲腸で苦しんでいるのよ、正くん」

 

「正先輩はいつも吉野家しか連れていってくれません。どうやら、好きや、というのが恥ずかしいようで」

「こずえは、待つや、と小声でささやくのが精一杯で……」

「正先輩は、どっちもどえっちだな、と微笑んでくれる」

「忘れられない、正先輩の肉盛り……」

 

「あのね、こずえちゃんが肉球、じゃなかった、憎くて言っているわけじゃないのよ。牛丼の前に保険証。わかった?」

 

「わかりました。練習後に送ります」

「伝えておいてください。正先輩におきましては、早漏無料です」

 

 

第113話

 

「こうして、高原の花の花びらを、ちぎっては投げ、ちぎって鼻毛……」

 

「どうしたの? こずえちゃん。朝早くから姿が見えないと思ったら、外にいたの」

 

夕子ちゃんが朝一の合宿係のミーティングにこずえちゃんが来ないのでホテルの外まで探しにきた。

 

「こずえ、うっふんがたまって、たまって……」

「ふぅ~。気を静めて恋の呪文を唱えましょう。あっ、ブラ片ブラ。アブナカッタブラ……」

 

「危なかったブラ? 朝から下っぽい話に持っていこうとしない」

「昨日の夜の元気はどうしたの?」

「こずえちゃんは正先輩しか眼中にないだろうけど、オケにはこずえちゃんを好きな男の子、たくさんいるんだからね。少し遊んであげれば?」

 

「こずえ、男の子には5回されやすいタイプで……」

 

「はいはい。なんでもいいから早くおいで。ミーティングに入るわよ」

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

こずえちゃんが、うつむき加減にマイクを握る。

 

「みなさん。病院じゃナースがママです。正先輩はキュウリ付きなのでパパです……」

「すぐそばには、猫かぶった、きっとSの犬のようなお嬢と、いつもライオンがトラぶっている恵先輩もおります……」

「でも、風の噂よると、どうやら彼女たち2人の考えにはレズがあるようで、まずは、敵の寝方を伺うしかない状況……」

 

「どうしたの~。こずえちゃん元気がないよ~」

 

水野が心配して声をかける。

 

「今日の朝食はシンプルなコンチネンタルブレックファーストになります……」

「トーストは毛ずね色に焼かれております……」

「コーヒーはうまさひかえ目……」

「生ジュースのワンドングリ付きです……」

 

「ホントどうしたの? 昨日の夜の元気はどこにいった?」

 

「あぁ、初行為の人正先輩……。そこの毛に明るい正先輩……」

 

こずえちゃんは、やや涙目。

 

「やっぱり、正先輩のいない夜は辛かったのよね~」

 

紀香ちゃんがつぶやく。

 

「そういえば、こずえちゃん。夜中じゅう、うなされていたわよ」

 

隣の布団で寝ていた夕子ちゃんもつぶやく。

 

「そう……、こずえ、夜中に夢で、おさかんな、くわえたドラネコがやってきて、ネコとでウンウンうなっておりました」

「あっ! ブラ汗もかいてました。太ももには、いいわ感を覚えて……」

 

「そうこなくっちゃ! こずえちゃん」

 

オケの面々が元気づけにこずえちゃんに拍手を送る。

 

「正先輩に想いを伝えるすべが見つからない」

「ラブレターの文字一つ書けない」

「きっとこずえは頭が悪いんだ……」

 

「何? 急にどうしてそんなこと言うの? こずえちゃんだって、こうして皆んなと一緒、いい大学に入った頭があるじゃない。誰もこずえちゃんのこと、頭悪いなんて思ってないよ」

 

夕子ちゃんが優しく声をかける。

 

「確かに。母親からは、子供の頃から机に向かうといつも言われておりました」

「おまえは、やったらできた子なんだから、と……」

 

男性陣は両手を叩いて大笑い。女性陣もププッと笑い声を吹き出している。

 

「その母親も、今となっては、ブラ下がり、倦怠期の毎日で……」

 

「それな〜、ぶら下がり健康器でしょ。もういい、もういい。聡明なこずえちゃん、もういいよ」

 

水野が腹を抱えて笑う。

 

「そう、女の子とは聡明で、問題の解決策は自分が持っていることが多い」

「ただ、気持ちがついていかないだけ……」

 

「おいおい、こずえちゃん何を語り始める? 早くメシ食いて~」

 

「論理とストーリーは頭ではできている。ただ、ラブレターひとつ書けない、行動できないだけ……」

「そう、こずえ、感情の整理ができていないんだ」

 

「まあ、こずえちゃんの話が終わるまでメシ、お預けだな」

「女の子の話は、止めずに聞く」

 

隆がオケのみんなを悟す。

 

「あ~、そうか! なるほど」

「そんな風にこずえ自身感じていたの? 傷つくよね、辛いよね」

「こずえが欲しいのは寄り添ってもらうことなんだね」

「何もいらない。ただ寄り添っていさせてくれさえすればいい……」

 

みんな真剣に聞き入りはじめる。

 

「あぁ~、リーベ。幸せホルモン!」

 

「はいはい……」

 

この言葉でオケの面々の緊張はゆるみ、話が終わるのを今か今かと待ち受ける。

 

「話したら大抵の女の子は元気になるものなの」

「アウトプットをそっとみていて欲しいだけなの……」

「恋の勉強って、実にはならない耳年増……」

 

こずえちゃんがいきなり向きを変えお尻を見せる。

 

「あ! うんとプ~ット出ました~! 便秘気味でした〜。便、今日しま~す!」

 

やんややんや。こずえちゃんが、元のこずえちゃんに戻ってオケのメンバーは一安心。

 

「さて、いただきますと参りましょう!」

 

「せぇ~の!」

 

「いた~だきます!」

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

「いいかい。ラブレターを語るんだよ。ラブレター」

 

「正。何、それ?」

 

義雄が色素研究会の発表の前に病院にやってきた。やはり原稿の棒読みだけでいいと言われたものの不安が募っているらしい。

 

「論文は研究の集大成。それを口頭で手短に話すには、ラブレターの文面のような謳い文句で相手に伝わるように」

「義雄も、ラブレターの一つや二つ、書いたことがあるだろ?」

 

「いや……、俺……。書いたことない」

「好きな子ができても、感情の整理ができなくて……」

 

「まあ、いいや」

 

僕は油汗をウエットティッシュで拭き取り、痛みをこらえて義雄の惰性をあしらう。

 

「恵ちゃんが羨ましい……」

「ラブレターを語っているみたい。ラブレターを」

 

「言葉を返すよ。義雄。何、それ?」

 

「なんか思わない? プレゼンの練習でも、正は確かにうまかったけど、恵ちゃんの発表の方がなんだか訴えてくる力が強かった」

「俺はそう感じた」

 

「僕もそう感じたよ。女の子って違うんだ」

 

「ラブレターの語り方?」

 

「そう」

「恋愛に対する男女の恋の因子が異なっているから、女の子って語り、うまくできるんだと思う」

 

「恋の因子?」

 

「ああ、恋の因子。おぉ~、痛てて……」

 

少し激しい痛みがやってきた。

 

「大丈夫か? 正」

 

「大丈夫じゃないから、今こうして病院のベッドで点滴を打ち横たわっている」

「それはそうと、女の子の恋には、自己拡大、充足的気分、拘束感、他者評価の上昇といったポジティブな因子がたくさん恋心に関連しているんだ」

「それに対し、男の子の恋は一概にはいえないけど、主として充足的気分のみがほとんど。もちろん人にはよるけど」

 

「俺はどうかな?」

 

「今の義雄には、恋の充足的気分など見つからないね」

「まあいい。Abstract、見せてごらん?」

 

義雄はカバンから、くしゃくしゃになって端が折れた論文のドラフトを取り出した。

 

「ほ~ら。これが義雄の恋の扱い。恋なんかできやしない」

 

僕は丁寧に、ゆっくりと、その折り曲がった端やシワを優しく元に近くもどす。

 

「ダメだよ、義雄。ラブレターをぞんざいに扱っちゃ」

 

Abstract

 

Chalcononaringenin 2′-O-glucoside (Ch2′G) was found to be the major pigment molecule in the petals of carnations bearing yellow flowers. The concentration of this pigment varied from 5.5 to 100.0% (relative value with amounts in the line ‘7154-03’ assumed to be 100%) in 31 carnation genotypes investigated. The transcription of both phenylalanine ammonia-lyase (PAL) and chalcone synthase (CHS) genes was active in the petals of both yellow carnation flowers and a cyanic control cultivar. The transcripts derived from the chalcone–flavanone isomerase (CHI) gene in the petals of yellow carnation flowers were below the level detectable by Northern blot analysis, but could be detected by RT-PCR. This is possible to produce subtle amounts of CHI protein translated from suspicious amounts of the mRNA to catalyze chalcone, resulting in the variation of the concentration of Ch2′G. Other probable factors caused to the variation include the amount of substrates supplying the flavonoid biosynthetic pathway, spontaneous isomerization flowing over the CHI step producing flavonol derivatives, and chalcone 2′-glucosyltransferase (CHGT) activity.

 

「義雄さ、The transcription of both phenylalanine ammonia-lyase (PAL) and chalcone synthase (CHS) genes was active in the petals of both yellow carnation flowers and a cyanic control cultivar. The transcripts derived from the chalcone–flavanone isomerase (CHI) gene in the petals of yellow carnation flowers were below the level detectable by Northern blot analysis, but could be detected by RT-PCR.」

「フェニルアラニンアンモニアリアーゼ(PAL)とカルコンシンターゼ(CHS)遺伝子の両方の転写は、黄色カーネーションの花と有色の対照品種の両方の花弁で活発であった。黄色カーネーションの花の花弁のカルコン-フラバノンイソメラーゼ(CHI)遺伝子に由来する転写産物は、ノーザンブロット分析で検出可能なレベルを下回ったが、RT-PCRでは検出できた」

「これ、誰やった?」

 

「俺とみどりちゃん……」

「いや……、みどりちゃんと俺」

 

「二人で書いたラブレター。だろ?」

「義雄、みどりちゃんが好きだから一生懸命実験して、時に徹夜までして資料をまとめてたよな」

 

「ああ……」

 

「みどりちゃんと一緒にいれば、どんな日も全て特別な日だったんだ」

「論文作業の全てを終えた後なお、まだ義雄の心に残っているものがあるだろう」

 

「何?」

 

「みどりちゃんへの恋」

「どう。想いを込めて語れるだろ? みどりちゃんへのラブレター」

 

「でも俺、みどりちゃんにどうも好かれているとは思えなくてさ……」

 

「いいかい、恋されることが幸せではないんだ。恋することこそ幸せなんだ」

「こんなことをしたら嫌われるのではないのかな? と、何もしないヤツが一番嫌われる」

「わかるかい?」

 

「あら、正さん。お友達?」

 

みゆきさんがうっすら汗をかいて病室に入ってきた。白いドレス風のワンピースが夏によく合う。白いドエスの女で~す。あ~辛い。天敵の言葉が脳裏に残って重なる。

 

「点滴中は肉、魚抜きの制限食。つまらないでしょ?」

「トマトゼリー買ってきたから食べて。これ、意外にいけるのよ」

 

「こんにちは」

 

義雄がハッとした面持ちでみゆきさんに挨拶する。

 

「あっ、そう。正さんの代わりに色素研究会で発表してくれるお友達ね」

「こんにちは。佐藤みゆきと申します」

 

「義雄です」

 

「何、義雄、恥ずかしがっているんだよ」

 

「おっ、俺……、恥ずかしがってないよ」

 

「今回の研究では遺伝子解析の担当をしてもらったんだ」

 

「へぇ~。遺伝子解析ですか」

「私の研究室でも遺伝子解析をしたいのですが、人、物、金のうち、人がいなくて」

「義雄さんに来春、大学院にでも来て頂こうかしら?」

 

「えっ? 俺? 全然ダメですよ。研究の実態は後輩にあたる工学部生命工学の女の子におんぶに抱っこされていて……」

 

「あらあら、それはそれは」

「プライベートではその女の子、お礼に抱っこしてあげているんですか?」

 

みゆきさんは実はS? 言葉のツッコミがまさにSだ。白いドエス……。昨日までのみゆきさんと違う。何があった?

 

「いや……、まだ、手さえも……」

 

義雄はおどおどと、何だかみゆきさんにはいつもの女の子に対する態度と違う。珍しい、あまりこういう義雄を見たことがない。

 

「正……。そろそろ俺、色素研究会に行ってくる」

 

「えっ? もう行くの」

 

「頑張って来てくださいね」

 

みゆきさんは素敵に微笑む。

 

「研究会の帰りにまた寄るから……」

 

義雄はみゆきさんの声を無視して、そそくさと病室を出て行く。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

「そのままの自分を自分自身が愛してあげること」

「正先輩に愛される自分になるんじゃなくて、楽な自分でいることが正先輩に愛される」

 

「こずえちゃん、どうにかした?」

 

夕子ちゃんが、こずえちゃんの顔の前で手をフリフリする。

 

「ど・れ・い・に・し・よ・う・か・な? 最後の一皿」

 

こずえちゃんは、ランチに並んでいるバイキングの料理を眺めて独り言。

 

「かっこいいこと言って、ど・れ・い・に・し・よ・う? 結局正先輩を力ずくでなんとかしようとしているんじゃない」

 

「さ~て。あっ、ブラっぽいものは股にしとこう」

 

ピンポーン。ピンポーン。

 

「あら? まっ、恥部見せ画面に恵先輩からのLINEバナー」

 

『こずえちゃん。みどりちゃんいる? 義雄くん、少しおかしいの』

 

こずえちゃんは、スマホをポケットにしまう。

 

「どうして、こずえちゃん無視するの? すぐにみどり先輩に連絡よ」

 

夕子ちゃんがこずえちゃんを急かす。

 

「あのね〜、こずえちゃん」

 

ピロリピロリン。ピロリピロリン。

 

「ほら、こずえちゃん出なよ。急用だよきっと」

 

「今のはメリーさんからの非通知です。無視します」

「正先輩からの交尾の電話ならいいのですが、恵先輩からの抗議の電話には出たくありません」

 

「全く。わかった。みどり先輩、放送室で電波の届かないところにいるから連絡してくるね」

 

夕子ちゃんは駆け足で放送室に向かう。

 

「恵先輩。ごめんなさい」

「いつも電話にはワコールで出るんですが、今日は違うの付けてて」

「みどり先輩は、今こずえの悲しい恋の物語のバストシーンで号泣しているところで」

 

「こずえちゃん。ごめんなさい」

「今、みどりちゃんとつながったから」

 

プーッ。プーッ。

 

「あっ、そうだ。便、今日するんだった!」

 

「こずえちゃん、こずえちゃん。みどり先輩につなげたわよ」

 

夕子ちゃんが帰って来た。

 

「女の勘が働くですます」

 

「?」

 

「誰かが浮気をしはじめているに違いない。もちろんリーベではないハズ。もしや義雄先輩?」

「浮気をするものの決まり文句。全ては、あなたのだめ」

 

「何? その占い師のような語り口」

 

「こずえちゃん。ありがとう」

 

みどり先輩が戻って来た。

 

「みどり先輩、後背位のこずえが助けてあげますからね」

 

こずえちゃんはいつもの不気味な笑みを浮かべる。

 

「何のこと? こずえちゃん」

 

「義雄さんから、何かダメ出しもらいませんでしたか?」

 

 

 

第112話

 

「あいたたたた!」

 

もうすぐ深夜22時。みゆきさんのお父さんの計らいで、お見舞い時間を今日に限って2時間延ばしてもらった。

 

「正さん、大丈夫ですか?」

 

みゆきさんが心配そうに僕に声をかける。

 

恵ちゃんとみゆきさんの手前、猛烈な痛みを感じているが派手に痛がるわけにはいかない。

 

「はい……、何とか……」

 

しかし、油汗が止まらない。

 

「正くん、盲腸の痛みの他にどこかおかしいところない?」

 

「大丈夫よ、恵ちゃん。ありがと。うんっ……」

 

「ならいいけど……」

 

わけの分からない悪寒が走るが、これは色素研究会の発表の善後策についての詳細把握や、やらかすべきことはキチンとやらかす、オケの一部の面々の動きが気になるからだろう。

 

「あたた……」

 

「点滴、効きが悪いのかしら?」

「お父さんに伝えてきますね。そのままベッドで安静にしていてください」

 

みゆきさんが病室から出て行く。

 

点滴と聞くと志賀高原にいる天敵、こずえちゃんを思い出す。余計なことをしていない、いや、これからもしないことをただただ祈るばかり。

 

「正くん。私たち、もうそろそろ帰るからね。そうだ、こずえちゃんから私にLINEあったわよ」

「一応見せとく」

 

「何て?」

 

「これ」

 

恵ちゃんが僕にスマホを差し出す。

 

『オケは今、正先輩の病の一報を受け、盆と正月と花火大会がいっぺんに来たような粛清ムードが漂っています』

 

おい、それ。どんなムードだよ。

 

『病院のベッドはいかがですか? 正先輩のうちの煎餅布団よりは寝心地いいでしょ? ネル友のこずえにはわかります』

『いつだったか、体臭欲情から帰ってからの狭いアパート、僕と一緒にここで相撲って。あの時の言葉、決して忘れません』

 

いつ一緒に風呂行った? 誰がそんなこと言う?

 

『そうそう、もし暇があったら総合案内の女性に声をかけてくださいね。病院内なら、案外してくれますよ』

 

どこに暇がある。何をしてくれる?

 

『痛みを大袈裟に表現しないでくださいね。男の股間にかかわる問題になりますから』

 

コケン? 痛いものは痛い。盲腸だよ、盲腸。

 

「恵ちゃん。もういいからLINE閉じて」

「軽いめまいがしてきた。目の前がマクラになってくる」

 

「正くん、苦しい中で出る言葉も洗脳されてきているのね、こずえちゃんに」

「あら? またLINE」

 

「いいよ、いいよ」

 

「大体まともよ。ほら」

 

『痛いの痛いの、どんだけ~!』

『病院では看護師さんの言うこと、ちゃんと聞いてくださいねっ』

『正先輩のこと、大好きですからね。心からの無事を祈ってま~す!』

 

「あらあら。こずえちゃん、実はちゃんと普通の女の子じゃない」

「お見舞い、ちゃんとできるじゃない」

 

恵ちゃんが微笑んでスマホを打つ。

 

『こずえちゃん。正くんのどこが好き?』

 

「こんな時に余計な返信しないでよ、恵ちゃん」

 

「だって~。素の時に聞きたいんだもん」

 

「あのさ……。そんなに僕を早死にさせたい?」

 

ジジっ。

 

「どれどれ……」

 

恵ちゃんがスマホをのぞき込む。

 

『病院では看護師さんのやりたい包帯にされますが我慢してください。イヤよイヤよも好きなムチです』

『そうそう、正先輩のこと、前部好きです! おしり毛もなく裸の心伝えます』

 

「ほ~ら。言ったこっちゃない」

 

僕は恵ちゃんに冷ややかな視線を送る。

 

『こずえちゃん。正くんは私とみゆきさんで面倒みるから安心してね』

『じゃあね』

 

恵ちゃんが送信してLINEを閉じる。

 

みゆきさんがお父さんのところから戻って来た。

 

「正さん、恵さん。点滴は今、病状に最善なものを使用しているから安心してくださいとのことです」

「恵さん。私たち、もうそろそろ帰らないと」

 

「そうですね」

「じゃあ、正くん。病気なりに体、大事にしててね。頑張ってよ」

「私、明日の午前中に発表。ランチタイムには一度病院に顔見せるから」

 

「わかった」

 

ジジっ、ジジっ、ジジっ、

 

「あら、こずえちゃんから電話」

「もしもし……」

 

「音をスピーカーにして下さい」

 

「えっ? ええ、いいけど……」

 

「みなさん! こずえ、声をDAIGOにして言いたい!」

 

「何、何? こずえちゃん」

 

恵ちゃんがあまりの声の大きさに、ボリュームを慌てて下げる。

 

「KKDIです!」

 

「KKDI?」

「正くん知ってる?」

 

「いや……。あ~っ、痛っ!」

 

「私、知ってますよ。確かDAIGO言葉で健康第一」

 

みゆきさんが答える。

 

「違います! KKDI、こずえの心、どうしたらいいの? です!」

「太くていい多数の男と経験のある二人の女狐が正先輩の面胴をみる?」

「あぁ……、しごくとまともな正先輩は、目にアナルほどの恥ずかしい扱いを受ける」

 

「女狐だなんて。私はともかく、みゆきさんは名門、名聖大学のお嬢様よ」

 

「きっとブラ移動が高い女なんでしょ? レ・ミセルブラとか読んでいて」

「いや? もしや? 名聖大にブラ口入学した可能性もある……」

「あぁ~怖っ。ま、しよう、の女……」

 

「こずえちゃん。先づは落ち着いて」

 

恵ちゃんがゆっくりとした口調でこずえちゃんをなだめる。

 

「こずえ、こういう場合ロウ垂らしたらいいのでしょうか?」

「心が追い込まれて、曲芸状態に陥ったら……」

 

ピ〜ヒャラ、ピ〜ヒャラ、ぱっぱパラパ、

 

「次、こずえちゃんの芸だよ~」

 

「?」

 

電話からこずえちゃんを呼ぶ、水野のダミ声が聞こえる。

 

「芸? いま、オケで何が起こってる?」

 

「さぁ……」

 

恵ちゃんが首をかしげる。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

「ここですか……」

 

「はい。不倫カップルが別れるため、断腸の思いで食欲を満たす洋食屋」

 

おとぎ話に出てくるヨーロッパの古城を思わせるようなオシャレな建物。周りの高級住宅街の街並みによく似合う。

 

「変わった名前のお店ですね。MADANAI……、ですか」

 

「はい。シェフが大の猫好きで、MADANAIは夏目漱石の我輩は猫であるの、名前はまだない、からとったみたいです」

 

「はぁ……。まだない……」

 

「不倫で別れゆく人たちは、何もなかった関係に戻るには、まだ遅くない。だからまだない。友人同士では、長居するのに、まだな、いいだろ、でまだない」

「一部、微妙な恋人達からは、女の子の日がまだないを打ち明ける場所……、なんてMADANAIの店名は色々な解釈がされているようです」

「とにかく入りましょう」

 

店のほぼ中央のテーブル席。壁際や中央からはよく見えない店の奥のテーブル席には不倫カップルらしき男女が2、3組。

 

「恵さん。何にします? 私は好物のラタトゥイユにします」

 

「そうですね……。私はカポナータにします」

 

「お互い似ていて微妙に違う。私たちの性格もそうなのかしら?」

 

「?」

 

「どちらも玉ねぎやナス、ピーマン、ズッキーニ、トマトなどの夏野菜を使うのが特徴。材料は同じ。でも調理工程が違う。きっと恋の工程もそう」

「ラタトゥイユは材料を一度にまとめて炒め煮にするけど、カポナータは食材を一つずつ丁寧に加えながら炒めていく。また、カポナータはパプリカやナスなどを別に素揚げして加えるから、煮込みによりさらにコクが加わる」

「私の恋は、いつもごった煮……」

 

「はぁ……」

 

「恵さん。私、恋愛する工程がよくわからなくて……」

 

「工程? ですか……」

 

「恵さんは一目会った時から感じました。私と違う。爽やかで軽やか」

「男の子は放っておかない。正さんと、いや、誰とでもうまくやっていけるオーラがあります」

 

「みゆきさん。恋するのに、工程だとかマニュアルだとかなんてありませんよ」

「あの、大人の恋と子供の恋の違いってわかります?」

 

「年齢が関係……、してますか?」

 

「違いますよ。年は関係ありません。心持ちの違いで、子供か、大人かです」

 

「?」

 

「子どもの恋は、相手から何かをしてもらうことを期待したり、自分中心で物事を考えたりすること。言い換えれば、求める恋といえます」

「大人の恋は、相手のために何かしてあげたいというように、相手の状況を思いやったり、相手のために行動できる与える恋です」

 

「私も与える恋をこれまで実践してきたつもりですけれど……」

 

「与える恋。自分が自分で満たされていて、その上で与えられた恋ですか?」

 

「自分が自分に自信や余裕があったかと聞かれたら……」

 

「大人の恋は、自立という言葉がキーワード。子どもの恋は余裕がなく、相手に見放されたくないあまりに依存してしまいます」

 

「相手に依存……」

 

「子どもの恋は、恋人の存在を自分の存在価値にしてしまうこともしばしば」

「そして、恋愛を最優先にしてしまう。だから、恋以外、周りが見えなくなり、破滅的な行動をしてしまう恐れもあるんです」

 

「ストーカーまがいな行為とか?」

 

「それもそうです。精神的に参ってしまうことも稀ではありません」

 

テーブル席に、安らぎの夜コーヒーという名の食前のコーヒーが置かれる。この店のメニューには全てセットでついている。

 

「この夜のコーヒーは、適量であれば眠りにとてもいいんです」

 

みゆきさんがゆっくりとした口調で恵ちゃんに語りかける。

 

「へぇ、そうなんですか」

 

「はい。ただし、ホットであること、ミルクをたくさん入れること、そしてゆっくり飲むことが大切です」

「実はコーヒーに含まれるピラジンという香り成分が、眠る前に気持ちを落ち着かせリラックスさせてくれるんですよね」

「淹れたてのコーヒーの匂いがリラックスしている時に出る脳波、α波を活性化させてくれます」

 

みゆきさんは、コーヒーに多めのミルクを入れる。

 

「ここの夜コーヒーの分量は100mlと決まっているんです。カフェインの量が60mg。睡眠を妨げる100mg以下になるように」

 

「そうなんですか」

 

「ミルクはたっぷりと。ミルクには睡眠ホルモンのセロトニンの原料であるトリプトファンがたくさん含まれていますから」

 

「さすが、名門大のリケジョですね。論理とストーリーがわかりやすい」

 

コーヒーをひと口含んだ後、みゆきさんは深いため息をつく。

 

「どうしたら恵さんのような素敵な恋ができるんでしょう……」

 

「みゆきさん。あらためて大人の恋とはどういう意味なのか、端的に説明しますね」

 

「はい……」

 

「一言で表すと、お互いを尊重できることが、大人の恋です」

「大人の恋をするには、お互いが自立していて、依存していない関係が大切になります」

「相手の気持ちが気になって、自分勝手な駆け引きをしたり、相手を試すようなことを決してしたりはしません」

 

「私は、これまで自分勝手な駆け引きが多くて」

「でも、初めは男の子、いちゃついてくれるんですよ」

 

「だいたい男の子って、恋人候補とは思わない女の子を構っていちゃついて、男の子といちゃつかない女の子を恋人に選ぶものです」

 

「はぁ……」

 

「仕方ありません。若い時は、誰もがそれ経験します」

「大人の恋って、パートナーとの信頼関係の上に成り立っているんです。他の女の子に気を向けてるんじゃと疑ったり、彼の自分への気持ちが離れていないか不安になって常に相手のことが頭から離れなかったり、意気消沈したりということがありません」

「だから、勉強の時は勉強、自分の時間は自分の時間、というように自分のペースで生活することができます。お互いを信頼することで、気持ちに余裕ができるので、生活のさまざまな部分がうまく回るんです」

 

「恵さん。私、そんな経験一度もしたことありません。好きになって寄り添って、共に過ごす時間だけを大切にして、そして嫌がられて。その繰り返し……」

 

「お互いの生活スタイルを尊重して、相手の状態に寄り添ってあげられるのが大人の恋。つまり、束縛などはもってのほか」

「連絡の頻度と愛情の度合いは比例しないということを、しかと知らなければなりません」

 

「私、恋に対して何か基本的なものが欠けているんですね、きっと」

 

「深刻に考えない。気を楽にしてください」

 

恵ちゃんは、ゆっくりとコーヒーを口にする。

 

「大人の恋をするためには四つの心構えを実践していけばうまくいくと思いますよ。みゆきさんの器量なら大抵の男ならすぐ振り向きますから」

 

「四つ?」

 

「はい。一つ目は感謝の気持ちを伝えること。これは態度だけでなく、言葉が大事です」

「二つ目は相手を束縛しない。三つ目は自分に素直な気持ちになる。そう、一緒にいられる限られた時間を大切にするために、素直な気持ちを伝えることが一番効果的なんです」

「分かりにくい駆け引きで時間や気持ちを無駄にしないために、素直な気持ちを伝えて心の距離を縮めます」

 

「それ、難しそう……」

 

「あのね、みゆきさんには、次の四つ目がかけているからじゃないですか?」

「四つ目は、相手に執着しないよう、恋愛以外に集中する時間を持つこと」

 

「実は、私は趣味も恋愛なんです。バイオリンとか弾いていますし、勉強も大好きなのですが、その最中もいつも頭に好きな人がいて……」

 

「身を削るだけの恋をするのなら、さっさとやめたほうがいいですよ」

 

「……」

 

「ところで、今、みゆきさん、好きな人はいるんですか?」

 

「はい。市民オーケストラの中に……」

「でも、これまでの恋のトラウマがあって、告れなくて片思い中です」

 

「みゆきさん。いっそ同時に二人以上の男の子に恋したらどうですか?」

「恋愛が趣味ならいっぺんにたくさんして、冷静にそれぞれの恋を客観的に比較評価する。科学的に。フフっ、面白いかもしれないですよ」

 

恵ちゃんは、笑みで開いた口を手で押さえる。

 

「ある意味、恋の対象スイッチの切り替えで気持ちがリフレッシュできるし、自分に余裕が生まれるんじゃないかな?」

 

「それ、面白いかもしれないです! 何で今まで気づかなかったんだろう」

「自分の時間を一人の男の子だけに費やさなくて済む事でスキマ時間ができるし。異なった視点からそれぞれの男の子たちを観察できるかも知れないし」

 

「やってみましょうよ!」

 

「まずは、二人目か……」

「正さん……、じゃまずいですよね?」

 

みゆきさんが恵ちゃんの顔を覗き込む。

 

「フフフ。いきなり略奪愛狙いですか。試してみてください。応援しますよ」

 

「いいんですか?」

 

「ライバルに不安を抱いたら、女は負けですから」

 

「恵さんて、たくましい方」

「じゃあ、正さんにとって3つ目の恋をさせますよ」

 

みゆきさんは無邪気に微笑む。

 

「あら、2つ目の恋って? 相手、誰でしたっけ?」

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

「全く。フンだったりケツだったりよ」

「あ~落ち着かない。小便してこようっかな。カニ食えば〜、オナラがアナルアナル、放尿時〜」

 

「何よ、その俳句? こずえちゃん。カニカマ食って、何ヤケクソになってるの?」

 

「リーベに二人もライバルが現れるなんて……。不安で不安で」

「あぁ、正先輩とのこれまでの楽しい思い出が相撲ローションで脳裏に映る……」

 

「こずえちゃん。恵先輩はれっきとした彼女でしょ。みゆきさんはただの旅友達。いらぬ妄想はもうよしなよ」

 

紀香ちゃんがこずえちゃんを悟す。

 

「そうよ。恋だライバルだ言う前に、正先輩の盲腸が治ることを祈るのが何より先でしょ」

 

夕子ちゃんもこずえちゃんを説得する。

 

「女の勘っていうの? みゆきさんは恋に一途で、口のうまい男に、また、されるタイプ。正先輩もお嬢様が好き。穴取ってかかる可能性がある」

 

「こずえちゃ~ん。11時だよ。そろそろパーティ締めようよ」

 

水野はもう眠い。

 

合宿係は集合し、何やら打ち合わせ。

 

「さて、みなさん。パンティー、じゃなかった、パーティーの中締めをキュッ、とする前に、素敵なこじらせがあります」

 

「何、何? こずえちゃん。正の容体かなんか?」

 

隆と水野は耳をそばだてる。

 

「プロジェクトを立ち上げます。その名も、THE盲腸基金!」

「正先輩の盲腸にかかる医療費全額をみんなでカンパしましょう!」

「カネ、尿道から手がでるほど欲しいはず」

 

「あら、こずえちゃん。たまにはいいこと言うじゃない!」

 

パラパラ、パチパチパチと、オケの面々に拍手の輪が広がっていく。

 

「ただし……、アメとムチ。正先輩……」

 

「こずえちゃん。ただし……、正先輩を、何?」

 

「不可能を全て官能にする正先輩に、上納金と共に、とある挑戦状を送りつけます」

 

「?」

 

こずえちゃんが、フフフと不気味に微笑む。