・・・夕方日記・・・ -14ページ目

Rathbone



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お茶@実家、その2。


紅茶茶碗は、1812年から1835年まで存在していた

Samuel & John Rathboneという窯のものだそうです。

ケーキ皿はスポードのブルーイタリアンです

藍色で植木鉢(花かご?)と花の絵が描かれていて

その輪郭をとるように金彩が施されています。


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ふちだけでなく、カップの内側まで

絵柄そのものにしっかり金彩が参加しているのですが、

ほのぼのしたリズムがあって落ち着きます。


ふかい藍に、年月を経た金の雰囲気がいいなぁと思いました。


描かれているのは桔梗や葉蘭のようにも見えますし

余白のとりかたなど、どことなく日本風味なのもおもしろい


お菓子はホットケーキミックスで作ったタルトタタン、

ずっと前のEsseの付録に載っていたレシピ(がかなり自己流になった;)お菓子で

10分足らずでできるため、急に誰かいらして何もないというときに

ほんとにありがたいです。

できたてにアイスクリームを添えてもおいしい

お手玉


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母トチーと一緒にお手玉を作りました

布を裁ち、一つ縫ったところで行き倒れました←ヲイ!


チビ子ちゃんのクラスで、「むかしのあそびがはやっている」そうで

小さいころに祖母が作ってくれたぶんがとてもやりやすかったので、

それを思い出して作りました。

初めて知りましたが、ともえ型という形のようです


布は和裁をしていた祖母がためていた端切れです。

麻の葉や手まり柄など、柄行きのかわいいところを選んで裁って

紙で作ったろうと(左手前)で小豆を入れてできあがり。


中身の小豆が少なめで、布にかなり余裕があるのが手がかりになり

子どもの手にも扱いやすかったのでした。


私は両手で二つを回すのしかできないのですが、

祖母は片手で二つ、両手だと三つ(空中に常に一個浮いてる状態)を軽々と操っていました。


「おひとーつ」と言って一つを投げ上げ

その間に畳に置いたお手玉をひとつ拾って持ったまま受けとめてまた下に置き、

「おふたーつ」で投げたら今度は二つ取って…というのや

手の甲で受けとめるのや、いろんな技をこともなげにやってくれて

すごいなぁと見ていたのを思い出します。


お手玉がのっているお皿とクロスはスペインのアンティーク、

糸切りばさみは祖母のです。

持ち運びやすいので作っている途中、このまま移動しておりました

お茶

 

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お茶@実家です。

 

1800年末ごろのブルーウィロー、

 

奥のお菓子が入っているのはお揃いのスロップボウル(湯こぼし)です。

 

ウィロー柄は右に建物+橋の上に三人いる、

 

いちばんオーソドックスなパターンです(別バージョンは )。

 

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明るめの青に、ふちの金彩+花のようになっているかたちが軽やかで

カップの内側にも模様があるのが楽しいです。蝶々が飛んでる

 

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別の日のコーヒーバージョン。

 

 

紅茶でもコーヒーでも使える形なのがありがたや。

 

焦げ茶×水色は落ち着くなぁと思います。

帰去来辞


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先月末から今月上旬にかけて、地元に帰ってまいりました。


庭の木に来ためじろさん。

ハーマンミラーのHang-It-Allみたいになっていますが、まるいのは半分に切ったりんごとみかんです;



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甥っ子チビ助くん(中1)&姪っ子チビ子ちゃん(小1)と

トランプや紙飛行機で遊んだり(チビ助くんが二階に向かって飛ばす技を身につけていてびっくり

折り紙をしたりして(チビ子ちゃん、手裏剣をもくもくと折り続けて完全マスター

のんびり過ごして帰ってきました。


ぬいぐるみのくーまんとカピバラさんも元気にしてました(折り紙で作った勲章を授与された模様


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今回は思いがけない用事がいろいろ重なって

地元のアンティークのお店に行けなかったのが心残りですが

冬のミッション、おひな様も何とか出せましたし

物理的に役に立てて、ほっとしました。


左奥のが母トチーのもので、御簾がついているのが楽しいです。


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昨年同様、お茶などは別にして少しずつ書こうと思いますので

しばらく実家の記事が続きますが、

お時間のあるときに、ゆるゆる遊びに来て頂けると幸いです。


「まだ書いてるの?;」みたいになってしまったら本当に申し訳ありません(伏


山川彌千枝『薔薇は生きてる』

薔薇は生きてる  薔薇は生きてる


16歳で亡くなった少女の遺稿集です。


8歳から没するまでの間に書いた作文や短歌、日記、絵や手紙などが収められています。


 私は大喜びで外へ出た。真白な雪、あたり一面まっ白。

日のあたってる所は、美しく日の光の色に輝やいている。日陰はまるでこわくなるくらいに陰気である。

 私はこれから本屋に行く、新雑誌を買いに。

 雪の中を私はあるく、ざっくりざっくり足が雪の表面につき、ざっくりと雪がへこむとき、

たまらないいい気持ちがする。

(中略)

私はかけ出した。ピチャピチャはねかえしながらつるーすべってみた。面白い事。

私はかけ出してすべる。つめたい風が顔にあたる。暖かい日が顔にあたる。(14歳、p.43-44)


彌千枝は12歳の時に肺結核にかかり、一度治りますが14歳で再び発病、

そのまま病の床につきます。


ほとんどが闘病中に書かれたものですが

厭世的だったり自棄になったり愚痴っぽくなったりするところがまるでなく、

感じるのはむしろすべてを肯定する生命力と、生きることへの圧倒的な向日性です。


鋭い感受性を備えた少女の、生きた素直な言葉が息づいています。


帳面は私の友達 夕方 字を書くの、なんてうれしいこと


ベッドを窓ぎわに寄せて空を見た、私は空の大きいのを忘れていた


美しいばらさわって見る、つやつやとつめたかった、ばらは生きてる


この歌が本のタイトルになりました。


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同年代の友人から遅れることや、ずっと寝たきりなのを悲しく思い


私の病気いつなおるの?

ほんとに、きっとなおります?

ねている事はあきちゃった。こんなにならぬその前、どうしてなおしてくれなかった?

(1933年1月9日、16歳。p.200)


と、時折くじけそうになりながらも

友達への手紙で「聖書読むのは、気を落ちつける為よ(1932年9月6日付、p.228)」と言い切っていたり

お見舞いの人の言葉に「それで人をなぐさめてると思ってるのかしら、

人がせいぜい明るい顔して応対してるのに(1933年3月1日、p.210)」とばっさりやっていたり、

持ち前のあかるさで自分を奮い立たせながら、日々を過ごしています。


風が吹く。明日は愉快な日が来るように。

人に親切で、気に入らぬ事があっても、怒らぬように。

(1932(昭和7)年4月25日の日記(15歳)p.175)


とにかく本をたくさん読んでいて、自分が中学生のころを思うと改めてびっくりします。

シェイクスピアにスコット、オースティン、ゾラ、

ドストエフスキーにチェーホフ、ゴーゴリにイプセン、紫式部日記に芥川、藤村、

友達への手紙には「夏目漱石の『坊っちゃん』読んで?とても面白くてよ(1932年7月8日付、p.224)」

と書き送っています。


新聞やラジオも愛読していて、オリンピックや選挙の結果に一喜一憂していたり

「この頃ラジオ体操のレコードの時、勇ましい物ばかりやる。

今朝は満州のと、軍艦行進曲(1932年1月21日、p,157)」と

うっすら軍国主義に突き進んでいる空気を敏感に感じ取っていたりもします。


昭和初期の山の手の家庭の様子がわかるのも興味深いです。

少女雑誌の全盛期で、お正月もクリスマスも祝い、

出てくる食事もおさつに野菜梨入り白和えから杏ジャムをつけた焼きパン、

コロンバンのお菓子にチョコレートで包んだアイスクリームまで、

戦前の豊かな生活が垣間見られておもしろい。



いい意味で子どもらしい、素直な伸び伸びした文章がとても清々しくて

読むと森の中で深呼吸したような氣持ちになれる本です。



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山川彌千枝は、1918(大正7)年1月8日、東京の小石川で生まれました。


父の幸雄はドイツ留学後、三高→一高でドイツ語を教え(校長が新渡戸稲造、同僚に漱石

中央大学の教授も兼任していました。

母の柳子はお茶の水高女在学中から佐佐木信綱の門下に入り、

「心の花」の同人として短歌を詠んでいる歌人でした。


彌千枝は九人きょうだいの末っ子で、四人の姉と兄がいました。


長姉京子(15歳上)は西田幾多郎門下の哲学者・教育学者で京大教授の木村素衛と結婚、

長兄幸世(14歳上)は同志社大卒業後、演出家となり
次姉百合子(13歳上)は建築家の渡辺静と結婚、

次兄駿雄(12歳上)は大阪外大を卒業して大阪商船に勤務、

(南米からのおみやげで便せんを買ってきてくれたりも)

三姉美耶子(10歳上)は文化学院美術科卒業後、小説家の丸岡明と結婚、

三兄健雄(9歳上)は辰野造園学校→造園家に、

四姉春子(7つ上)は日本女子大英文科卒業後タイピストに、

四兄益男(5つ上)は土門拳に師事し、写真家となりました。


五歳の時に父が亡くなりますが、山の手の文化的な教養あふれる家庭で

末っ子としてみんなにかわいがられ、明るく育っていたようです。


成城小学校六年の夏に、臨海学校で出かけた千葉の海岸で発病します。

休学して療養し、いったん完治して一年遅れで明星学園女学校に入学します。

楽しく学校生活を送っていましたが、5月17日、学校で催されたバザーの帰りに発熱、

結核が再発したのでした。

そのまま床につき、療養生活を続けながら書かれたものが主にこの本に収められています。


書かれたものからは、彌千枝が自宅の二階の西洋間で闘病生活に入ってからも

兄姉の誰彼が子どもを連れて遊びに来たり、

彌千枝が喜びそうなお菓子や小物を贈ってくれたり、大きくなったら何になるかと尋ねたり

みんなが彌千枝のことを気にかけ、励まそうとしていたことがよくわかります。


ですがそれでも、彌千枝の文章には

時に圧倒的な寂しさが見られます。


当時、治療法のなかった結核は命取りの病気でした。

小さな子どもと遊ぶことはできず、甥や姪と遊べないことを残念がっている記述が見られます。


感染性があるため、子どもだけでなく

女中でさえ自分の部屋に来るのを嫌がっていることに気付くなど、

自分が避けられていくのを彌千枝は敏感に察知していました。


はきたる血、目の前にして看護婦のおどろいた顔じっと見つめる(p.130)


という歌には、喀血した自分の苦しさよりも

このことを看護婦がどう感じたか、さらに遠ざけられてしまうのではないかという

懸念と諦念の方が先に表れているようで、胸を衝かれます。


十八歳で発病した松田瓊子 も、自分が結核を患っているとわかると、女中がすぐやめてしまうことを嘆いています。

おびえる女中を「大丈夫よ、こわくないから」と励ましながらごみ箱を抱えて喀血したことが日記に書かれていて

彌千枝の歌を読んだとき、これを思い出しました





九人兄弟のうち、上の八人は一~二年違いで生まれているのですが、

彌千枝はすぐ上の兄と五つ離れています。

一緒に住んでいた、一番年の近い姉の春子でさえ彌千枝の七つ上でした。


そんなふうだったので、彌千枝は同年代の友達とのおしゃべりをなにより楽しみにしていました。

一と月だけ通った明星学園でできた友達、佐々木さんの訪問を待ちわびて過ごしています。


佐々木文枝の父は俳優の佐々木孝丸で、彌千枝の次兄、幸世の友人でした。

(文枝も後に「佐々木踏絵」の名で女優になり、俳優の千秋実と結婚します。

「七人の侍」のうち映画では最初に、現実には最後に亡くなられた方です

お二人の息子さんが俳優の佐々木勝彦氏)


彌千枝の日記から、ほとんど唯一、

定期的にお見舞いに来てくれている友達であることがわかります。


今日のような日がなければ、私は、きっとぺしゃぺしゃになるだろう。(中略)

私は佐々木さんと話してる時こそ、病気でない、大人でない、ほんとに、どんなに楽しいでしょう。

仲のよい人と話すのは。(1933年2月5日、p,206)


お見舞い自体が敬遠されたり(本人が行きたくても親が止める場合が多々ありました、

座る位置まで学校で指導されたりする(病人と直角に座る。真正面は×)ような時代に

「フランクな陽性の少女(①p.357)」だった佐々木文枝は、

彌千枝が元気だった頃と一切態度を変えず

出されたお菓子まで完食しながら楽しく過ごし、ひどく彌千枝を喜ばせました。


最後に収録されているのは書きかけの文枝への手紙で、

彌千枝は嬉しそうに兄弟雑誌のことを話しています。


亡くなる二週間ほど前、山川家では兄弟で雑誌を作ろうという計画を立てており、

おそらくほかの兄弟の計らいでしょうが、彌千枝が編集長的な立場に就任?していました。


表紙は彌千枝の絵、巻頭の言葉は母の柳子、

エッセイや和歌や映画批評、料理メモに、甥っ子や姪っ子が描いた絵などが載っているそう。

長姉百合子の夫、大学教授の木村素衛まで四千字あまりのエッセイを書いていて

(プロの学者がこの長さの文章を寄せるというのはすごいことだと思う)

彌千枝が周りの家族から本当に愛されていたことが偲ばれます。


そしてその手紙を出すことなく、彌千枝は亡くなりました。


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母の柳子は、「火の鳥」という同人雑誌のメンバーでした。


1928(昭和3)年、女性だけの文芸雑誌が二つ創刊されました。


ひとつは長谷川時雨が創刊した「女人藝術」です。

無名の詩人だった林芙美子 はこの雑誌で世に出て、

後に『放浪記』を連載→改造社から出た単行本が大ヒットしました。

最初『歌日記』だったタイトルを、この方が受けると『放浪記』に変えるよう助言したのが

時雨の夫で流行作家だった三上於兎吉でした。


同じ年に、渡邊とめ子は「火の鳥」を創刊しました。

伯爵夫人で未亡人となっていたとめ子に

「せっかくお金がおありなんですから、何か文化的な仕事をなさったら(②p.207)」と

刊行を薦めたのは村岡花子 の東洋英和の先輩、アイルランド文学の翻訳者だった片山廣子です。

彼女自身、日銀の理事だった夫に先立たれた未亡人でした


とめ子と廣子は佐佐木信綱の「心の花」の同人で、竹柏会に所属していました。

竹柏会つながりで声をかけ、雑誌を創刊することにします。

竹柏会に所属していた彌千枝の母の柳子も仲間に入りました。


高見順によると「女人藝術」からは「華々しく」「騒々しい感じ」、

「火の鳥」からは「何か清潔な高踏的な印象(②p.205)」を受けたそうです。

ただ、佐多稲子や村岡花子など、両方に書いている人も多く、

雑誌のカラーは多少違っても、女性に発表・勉強の場を設けようとした根幹は同じ気がします。

そもそも片山廣子自身、『女人藝術』の創刊号に翻訳を載せてる。

森田たま も「火の鳥」に寄稿しています。


「火の鳥」について、村岡花子は以下のように書いています。


雑誌の経済方面は殆ど渡邊さんが引き受けていて下さったので、

私たちは一心に勉強さえすればよい事になっていた。

(中略)

その当時のグルウプは今日、なお切っても切れない親しい交わりを結んで、

喜びをも悲しみをも分かちあっている。

(中略)

私たち誰もが年齢のへだたりや社会的の地位の相違・・・などを全く度外において、

姉妹のごとく近親のごとく心を開いて語り合うことができる。

(中略)

勝手なことを話し合い、自由討論に花を咲かせている私たちを、

渡邊さんはいつもにこやかに眺めている(③pp.214-215)。


そして、山川柳子の末娘、彌千枝の訃報を聞いて


全誌面を唯一人の少女の綴方に提供するという英断(?)を行ったのは、

渡邊とめ子さんであり、彼女は『火の鳥』の創設者であった(③p.214)。


とめ子の父は陸軍大将の大山巌で、夫は伯爵の渡邊千春でした。


とめ子の長姉の信子は、徳冨蘆花の小説『不如帰』(1898-99)のヒロイン、

浪子のモデルだと言われています。


浪子は海軍少尉と結婚しますが肺結核に冒され、

夫の留守中に、婚家先の母親によって離婚させられてしまいます。

帰ってきた夫は母の仕業に憤るのですが、日清戦争で出征することになり

その間に浪子は悲嘆に暮れつつ亡くなってしまうという物語です。


実際には信子が結婚したのは、子爵の三島彌太郎でした。

そして、離縁を申し入れてきたのは彼の母親だけでなく、夫である彼自身もでした。



『不如帰』では作者の徳冨蘆花が脚色して、ヒロインの浪子が

意地悪な継母からひどい扱いを受けて苦労するふうに書かれているのですが、

実際には信子ととめ子の母が亡き後、後妻として大山家に嫁いでいた継母の捨松は

11歳で官費留学生として津田梅子らと渡米し、日本で最初にアメリカの大学を卒業した女性です。

英語と仏語を操り、鹿鳴館の華と呼ばれ、前妻の子どもたちとも仲良く穏やかに暮らしていました。

帰された信子のために離れを建てて、懸命に看病します。

この経緯を見かねて、三島家に抗議に行ったのが親友の津田梅子でした。


今ならとても考えられませんが、新聞に連載されたこの小説が悲恋物語として大ヒットしたということは

当時、結核というのはそうされても仕方のない病気だという

コンセンサスがあったということなのだろうと思います。


お茶の水高女で同級で、しかも同じ病気で姉を亡くしたとめ子には、

柳子の悲しみがいっそうよくわかったのでしょう。


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昭和8年6月1日、「火の鳥」六月号(七巻六号)が刊行されました。


いつもは誌名だけの表紙に「山川彌千枝遺稿集」とあり、

表紙は彌千枝の三姉、文化学院を出た丸山美耶子が描いています。


巻頭に竹嶋きみ子(発行人の渡邊とめ子の筆名)が見開き2ページで序詞を寄せているほかは、

彌千枝の作品(+母の柳子の日記とあとがき)で一冊埋め尽くされていて、

「火の鳥」の同人の方々の無言の気持ちが伝わってくるようでした。


彌千枝の文章→短歌→日記→最後に母の柳子の日記の順に収録され、

作った人形などの写真も数点収められています。


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最後に収録されている柳子の日記が、その後の単行本とやや異なります。


彌千枝が最期を迎えるころ、柳子の兄の病気が悪化して入院、亡くなっており

そのお見舞いやいろいろで、本当に忙しく大変そうな日々を送っていることがわかります。


単行本になると、こうした柳子の側の事柄はほとんど削除されているのですが

心身ともに辛い日々を送っている最中に彌千枝を失ってしまったことは

本当に計り知れないくらい辛かっただろうと思いました。



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この「火の鳥」六月号が出ると、好意的な評が多く寄せられました。


菊池寛は東京朝日新聞で「天才的なひらめきが、至る所に見える」(①p.306)と述べ、

木村毅は東京日日新聞で「この一冊を世に送り出した事は、こういっては失礼だろうけれど、

『火の鳥』二ヶ年半の全功績と匹敵する程だ(①p.307)」と言い切っています(おーい;

どちらも昭和八年、木村は十月。日付は調べきれませんでした、すみません


中でも川端康成は、数回にわたって絶賛しました。


「新潮」昭和八年七月號(出版は6月)の文藝時評で

「子供の作文を、私は殊の外愛讀する。一口に言へば、幼児の片言に似た不細工さのうちに、

子どもの生命を感じるのである」と述べた上で

「山川彌千枝遺稿集」を「私が常に机邊から離したくない本である」と紹介、

昭和8年7月1日付の讀賣新聞「文藝時評」欄↓では

「確に新鮮な生命が溢れてゐるのである」と書いています。


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そして、ついに自分の小説にも使ってしまうのだ!


昭和8年7月発行の「改造」に発表された『禽獣』という小説です。

彌千枝の遺稿集が出た翌月ですので、読んですぐに構想を練ったのだろうと思います。


『禽獣』は「初期の川端文学の代表作(②p.216)」だそうですが、

正直私にはかなり難しく、理解しきれないところが多々あります;

以下、自分なりに考えたことを書きますがてんで見当違いかもしれません。すみません;

三島由紀夫が解説を書いてくれてるのですが、高尚すぎてますますわからな以下略←だめ人間


「四十近い独身男」の「彼」(職業は不明ですが、「ある音楽雑誌に月々金を出(④p.142)」していたことや

鳥の買いかたや女中を置いていることなどから、生活には余裕がありそう)が、

千花子という踊り子の舞台を見に行くため、タクシーに乗っている場面から始まります。

千花子は、かつて彼に自分を売った女性です。


冒頭は「小鳥の鳴声に、彼の白日夢は破れた(④p.128)」。

六月の夜の七時頃で、彼の乗ったタクシーはいつの間にか

お葬いの自動車の列に入っていました。


彼の趣味は、小鳥を飼うことです。

ただそれは、動物好きの人が普通するように名前をつけてかわいがるのとは異なり、

コレクション的な「子どもが新しいおもちゃをいじるよう(④p.133)」な感覚での蒐集です。


人間どうしのつきあいを鬱陶しく感じ

「世のなかの家族達をさげすみながら、自らの孤独も嘲(④p.144)」っている彼は、

「自由な傲慢を寂しみたい(④p.147)」と思って動物相手に暮らしているのでした。

それでも「新しい鳥の来た二三日は、全く生活がみずみずしい思いに満たされ(④p.132)」、

「生きる喜びをいっぱいに見せてい(④p.133)」る小鳥を、彼は「楽しい慰め(④p.150)」としていました。


劇場について舞台を見ると、千花子の踊りは昔とは比べものにならず

ひどく堕落していました。


会いたいと言われ、休憩時間に控え室をのぞくと、千花子は若い男に化粧をさせているところでした。

「自分を相手に任せきった風に、じっと動かない真白な顔」は「命のない人形」のよう、

「まるで死顔のように見え(④p.152)」ました。


とっさにドアの陰に隠れた彼は、十年ほど前、千花子と心中しようとした時のことを思い出します。


本気で死ぬつもりはなかったものの、そのとき千花子がすんなり「無心に目を閉じ」て

合掌したのを見て彼は「虚無のありがたさ」に打たれ、

「たといどんなことがあろうと、この女をありがたく思いつづけねばならないと、

そのとき心の底に響いたの(④p.153)」でした。


化粧をさせている千花子を見て、彼はそのときの彼女の顔を思い出します。

小説の冒頭で出てきた、「自動車に乗るとすぐ浮かんだ白日夢は、これであった。

たとい夜でもあの千花子を思い出す度に、

真夏の白日の眩しさにつつまれているような錯覚を感じる(④p.153)」のでした。


その後千花子は伴奏引きの男と結婚し、子どもをもうけました。


声をかけることなく引き返す途中で、彼は千花子と結婚した伴奏引きの男に

親しげに声をかけられ、離婚したと言われます。


それに続く最後の場面に彌千枝の遺稿集が登場します。


ラスト一行で、川端は彌千枝の母の日記をひいているのです。


 彼は自分も何か甘いものを見つけなければと、なぜだか胸苦しくあわてた。すると、一つの文句が浮かんできた。

 ちょうど彼は、十六で死んだ少女の遺稿集を懐に持っていた。少年少女の文章を読むことが、この頃の彼はなにより楽しかった。十六の少女の母は、死に顔を化粧してやったらしく、娘の死の日の日記の終りに書いている、その文句は、

 「生まれて初めて化粧したる顔、花嫁の如し(④p.154)」


小鳥をただ雄雌揃えて所有することが趣味で、生けるものや生きることに対する姿勢が

どこかゆがんでしまっている状態の「彼」にとって

生きることへの迷いのない意志のようなものの象徴が小鳥であり、

それが清々しく描き出されているのが「少年少女の日記」、

「十六で死んだ少女の遺稿集」つまりはこの「火の鳥」だったのではないかと思います。


小説の季節は、遺稿集が出たばかりの6月に設定されており、

踊り子の名前の「千花子」も彌千枝から一文字「千」を取って、「枝」~「花」で微妙に連想できますし

冒頭でタクシーが迷い込んだ葬列や、人形のような顔に化粧をする場面は

そのまま日記の光景を想起させます。


柳子が書いた最後の一行では

少女と、成人女性を思わせる「初めて」の「化粧」、

死と、これから新しい生命が生まれることが予想される「花嫁」が暗に対比されており、

彌千枝の人生が絶たれてしまったことに対する母親の胸中が推し量られるのですが

ここではそれにもうひとつ意味を持たされて、

やりきれない悲しみと同時に、一種の神々しさと一周回って生命力が示されているようにも思いました。


そしてそれまでの得体の知れない不気味な閉塞感(動物好きには読むのがほんときつい;)に

窓を開けて終わる感じを受けて、それが印象的でした。


  ただ、遺稿集がすでに亡くなった少女のものであること、「彼」が過去に心中を考えていた人間であることなどから、

  絶望的ですが最終的な安らかさというのはいっそ

  あの世方面に行くことでしか得られないという意味も含まれているのかな、

  のちの川端の自殺にもどこかつながる気もしていろいろ謎が多いです(このあたりが私の限界でした;orz


さらに二年後、「文藝春秋」昭和十年十二月號(第十三巻第十二號)の「文藝時評」ではこんな感じに。


 薔薇は生きてゐる、アンドレ・ジイドは死んでゐると、山峡の溫泉に浸りながら、

繰り返し呟いてゐると、私はなにか心樂しいものがあつた。

さほど深い意味があるわけではない。多分口調の面白さのせゐだらう。

それから、日本の一少女によつて、世界の大文豪をやつつけたやうな氣持ちのせゐだらう。

(中略)

この少女文集に就ては改めて書く折もあらう。(⑤p.p378-9)


彌千枝、ジッドに勝ってる!!!(おちつきなさい


「生きる喜びをいっぱいに見せてい(④p.133)」る彌千枝の作品は、

川端の心を本当に大きく揺さぶったんだろうなと思います。


「改めて書く」と述べているとおり、二年後、川端は再び『薔薇は生きてる』を自作の中に登場させます。

字数制限で引っかかったので、別の記事にします(逃げないでー



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こうして注目を集めた彌千枝の遺稿集は

昭和10年、沙羅書店から『薔薇は生きてる』という題で単行本として出版されました。


装丁は遺稿集の表紙を描いた姉の美耶子が手がけました。

グレイの函に濃い赤で、タイトルが書いてあり

引き出すと中は白地に赤の水玉模様になっています。


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初めて見たとき(松田瓊子の本を探しているときに見つけました)

ずいぶん洒落た本だなぁと思いました。


背表紙は布張りで、見返しも同じ濃い赤、最初に彌千枝の写真と略歴があって

あとは「火の鳥」と同じく、彌千枝の文章→短歌→日記→

最後に母の山川柳子の日記が収録されています。


  沙羅書店は昭和十年に石塚友二が興した出版社です

  (この頃出版社に勤務しており、のちに俳人となりました)。

  命名は彼が師事していた横光利一でした。


  経営は厳しかったらしく、重版がかかったのが『薔薇は生きてる』だけだったそうです。

  三年後には彼は甲鳥書林の嘱託になり、

  昭和14年12月31日に『薔薇は生きてる』は甲鳥書林から出版されます。

  こちらの装丁も姉の美耶子が手がけています。


  確認できた範囲で、昭和17年に59刷ですので

  おそらく一般に流通したのは甲鳥書林版が多かったのではないかと思います。古本もよく見つかる

  その後、『薔薇は生きてる』は少しずつ内容を変えながら

  さまざまな出版社から刊行されました。

  最初の画像の、2008年に出た創英社版が十冊目になります。



遺稿集から変わっている点は、前述した母柳子の日記の削除部分と

彌千枝のほうは小品数点と作った人形などの写真がなくなって

おそらくあとで見つかったと思われる小品が追加されています。


ふしぎなのが、短歌の並び順です。

収録されている歌は同じなのですが、現在販売されている創英社版では

なぜか短歌の順番がかなり入れ替わっているのです。


確認できた範囲だと、創樹社版までは初版と同じで、2008年の創英社版で変更されたようです。

俳句や短歌は歌一首ずつのみならず、並び順まで含めて一つの作品だと思うので

歌人である母の柳子が決めたであろう初版の順番を替える必要があったのか、少し疑問が残ります。



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沙羅書店版の『薔薇は生きてる』を、「火の鳥」の同人だった村岡花子が

「少女の友」で連載していた「少女ブックレヴュー」で取り上げています。

連載一回目の最初の一冊が松田瓊子の『七つの蕾』!


これは並はずれて鋭い感覚を持って生れた少女の十六年の心の生活なのです。

(中略)

かわいらしい眼で周囲のすべてを観察し、蕾のような口から鋭い批評を吐く利発な近代少女が

この一冊の中に踊っています。

 あなた方が読むだけでなく、お母様にもぜひ読ませて上げたい本でございます。

(「少女の友」1938(昭和13)年2月号)(③p.145)



和歌も散文も、のびのびした日記もユーモアいっぱいの手紙も、

そして絵も本当に上手ですし、

元気で大きくなっていたら、どんな方向にでも伸びて行けただろうにと思います。


病気の女の子が書いているということを忘れるくらい、

するどい感覚が星のように光っているような

いきいきしたしなやかな本です。




<参考文献>


岩橋邦枝『評伝 長谷川時雨 』(講談社、1999年)

遠藤寛子『少女の友』とその時代―編集者の勇気 内山基 』(本の泉社、2004年)

川端康成「禽獣」(『伊豆の踊子 』所収)、(新潮社、1950年)④

川端康成全集第三十一巻(新潮社、1982年)⑤

『少女の友』創刊100周年記念号 明治・大正・昭和ベストセレクション (実業之日本社、2009年)

高見順『昭和文学盛衰史 』(文藝春秋、1987年)②

村岡花子「少女ブックレビュー」「『火の鳥』の時代」

(『村岡花子と赤毛のアンの世界 』所収)(河出書房新社、2013年)③

村沢夏風『石塚友二の世界 』(梅里書房、1989年)

山川彌千枝『定本 薔薇は生きてる 』(創樹社、1987年)①
山下武『夭折の天才群像―神に召された少年少女たち 』(本の友社、2004年)