松田瓊子『七つの蕾』 | ・・・夕方日記・・・

松田瓊子『七つの蕾』

七つの蕾   七つの蕾 (国書刊行会、1985年)



松田瓊子の生前に出版された唯一の本です。


鎌倉の自然の中で七人の子どもたちが繰り広げる生活が
二学期の期末試験が終わった日から翌年の秋まで一年間、
季節を追いながら描かれています。


主人公の草場梢は15歳、「アルトの凛々とした声(p.4)」の

「元気一杯な、さっぱりした性格(p.6)」の女の子です。


四人兄妹の次女で、「小柄で白くて可愛い(p.6)」おっとりした姉の百合子(17)、
虫が大好きな弟の譲治(12)、「おはねさんだがどこか感じやすく涙もろい(p.6)」妹のナナ(11)、
言語学者の父と明るい母と一緒に、稲村ヶ崎の海辺の家で「毎日を明るく過ごしてい(p.6)」ます。


梢の親友、日高黎子は鎌倉山の邸宅に、父と妹のこのみ(7)+使用人と住んでいます。
物語の中盤で、亡き母の従妹の息子の靖彦(12)が加わり、一緒に暮らすようになります。


七人には愛称がついていて、
百合子=サユリ、梢=コッペ・コッチャン、譲治=ジョッペ、ナナ=ナコチャン、
黎子=黎ちゃん、このみ=みいみ。


慣れるまで少しややこしいのですが(特に百合子は、いっそ最初から小百合さんにしといてと思った;
四人兄妹の次女だった作者が「チイ」(小さい姉様)と呼ばれ、

妹の稔子を「とんべ」や「コチコ」と呼んでいることから
瓊子からすると自然なことで、それだけ登場人物に愛情を持っていたのでしょう。


百合子の受験があったり、黎子とこのみの父が急死したり、
近所に謎めいた婦人が引っ越してきたり、靖彦がかなり問題のある状態だったり、
いろいろなことがおこるのですが、それぞれ子どもなりに乗り越えて
少しずつ成長していく姿が愛情深くすがすがしく描かれています。


・・・・・


著者が原書で読むほど親しんでいた、海外の文学作品の影響が随所に見られます。


四人姉弟はオルコットの『若草物語』から、
日高家の姉妹は、母がすでに亡く、黎子が妹の母代わり+父が急死するところからも
『小公女』のセーラとロッティがモチーフであることは明らかですし、
靖彦に至っては作中で「セドリック第二世」と呼ばれていて

完全に『小公子』のイメージです。


ハイジにジェーン・エア、アンクルトムの小屋なども出てきますし、
近所に越してきた謎の婦人(実は靖彦のお母さん)を梢が「ブラック・レディ」と呼ぶのは
シェイクスピアのソネットのDark Ladyに由来しているのではないかと思います。


文章が簡潔ですっきりしており「欧米の少女小説を読んでいる錯覚(①p.18)」に陥るのですが
それでいてユーモアのセンスにあふれていること、

そして日本的なしっとりした空気がちゃんと残っているところがおもしろいです。


姉弟が冬の夜に自分たちだけで夕食を作る場面では、
スパニッシュ・シチューという洒落たメインの横になぜか普通に大根のぬか漬けが並び
(しかも並べた梢を百合子が「おつけもの出すなんて感心なのね(p.26)」と褒める)


食後、ハイジの話からいつかアルプスで暮らそうと盛り上がる場面では
チーズや丸窓や干し草など、洋風アイテムが出揃った最後に、
「それから、私達、羽と羽子板持って行くの忘れないでね、それに百人一首を持って行ってもいいわ、

スイスの山小屋から『淡路島、通ふ千鳥の鳴く聲に……』なんて流れて来るなんて、古風じゃない?」

(p.31)と梢が言っています。


音楽が取り入れられているのも特徴です。


瓊子の父の野村胡堂は、『銭形平次捕物控』の著者として有名ですが
別の筆名で音楽評論家としても活躍していました。


音楽がたえない家庭だったようで
日記にもピアノを弾いたり、レコードを聴いたりしている記述が多く見られます。


作中にもペール・ギュントやシューベルトの曲が登場し、
晴彦のお母さんがメッツォ・ソプラノ、叔父さんがバリトンというふうに
登場人物の声質が音楽用語で説明されているのがおもしろい。


子どもたちは自分たちをめじろや頬白といった鳥に例えます。
そして、Merry-Birds' Chorusというグループ名をつけ(略してM.B.C.最終的に旗も作ってる)

賛美歌などを一緒に歌う場面が何度も出て来ます。


これには、音楽的な素養のある家庭で育ったことに加え、
ブレイクの詩集"Songs of Innocent(無垢の歌)"のSchool Boyという詩 
(後に"Songs of Experiences"に収録)が下敷きになっているように思います。

太字は私が勝手に変えています


How can the bird that is born for joy,   喜びのために生まれた小鳥が
Sit in a cage and sing.                籠に閉じ込められてどうして歌えよう。
How can a child when fears annoy.        子どもが恐怖にわずらわされるとき、
But droop his tender wing.              そのか弱い翼を垂れ、
And forget his youthful spring.           若い春を忘れることができようか。


O! father & mother. if buds are nip'd,       おお!父さん母さん、蕾が摘み取られ
And blossoms blown away,             花が吹き飛ばされたら、
And if the tender plants are strip'd        悲しみや心配でうろたえて、
Of their joy in the springing day,          か弱い草木が芽を出す日に
By sorrow and care's dismay,            その喜びを奪われてしまったなら、


How shall the summerarise in joy,         どうして夏が喜びの中で立ち上がり、

Or the summer fruits appear?            夏の果実が姿を見せることができようか。


(『対訳 ブレイク詩集 』岩波文庫、pp.148-151)


子どもたちを the bird that is born for joy=喜びのために生まれた鳥 に例え、
夏の日に学校に閉じ込めることの無意味さを嘆いた詩です。
if buds are nip'd,=もし蕾が摘み取られたら では、自然な状態の子どもが
buds=蕾に例えられてもいます。


『七つの蕾』はもともと『つぼみ・つぼみ』という題でした。


18才の時の日記に「ブレイクの詩を少し読んだ(S9/4/4⑤p.257)」とあり、
他にもロセッティ、ロングフェロー、ワーズワースなどの英詩に
親しんでいるので、瓊子はおそらくこの詩も読んでいたのではないでしょうか。


自然の中で歌うことが大好きな子どもたちと「蕾」というイメージが
ここでつながっているように思います。


また、「一生の間、私は子どもと病人の友であろうと思う(S12/1/2⑥p.5)」と言った瓊子は
終生子どもに深い愛情を抱き、子どもの持つ純真さに価値を見出していました。
日記には以下のような記述が見られます。


大人の世界のわずらわしさから、子供の世界に入る時、

かぎりないよろこびと平和が心にあふれる。(S9/6/1⑤p.296)


「子供は単純だ」とただそれ丈けと思う人が多い。しかし、子供には

大人の想像できないようなデリケートな心がある事を忘れてはならないと思った。

そのデリカシーを育て、大切に守ってやるならその心はどんなに愛の美しい心となり、

その子の行い(?)となることだろう。それは天からさずかったものだ。

それをこわすのはこの世の私のきらいな所謂大人どもである。(S9/7/21⑤p.340)


本当に自然の児でありたい。化粧のない美しい衣をぬぎすてて、

その人その事ありのままでありたい。心を抑えつけて、わざわざみにくく曲げて、

思う事も口に出来ない大人の世界がわずらわしい。あくまで自然の児で真実な子でいたい。(S11/6/3⑤p.586)


作中で、スイスの山小屋暮らしを思い描いて楽しんだことを作文に書いて
先生に「空想もほどほどに」と諭された梢が憤慨して言った言葉には、
瓊子の子どもに対する考え方が表れています。


「私お婆さんになったって、夢を描いたり、いつも楽しい空想だの、野心だのにもえているつもりよ・・・

頭っからこんな空想やめたほうがいいなんてふみにじったような事言わないと思うわ(p.43)」

「大人の世界って随分かた苦しい、つまらないものだとつくづく思ってよ(p.43)」


「私も確かに、研究心も発展性もなくなったような大人は、子供に見習うといいと思うのよ。

・・・ブラウニングにそう言う詩があるんだってね。人間はそれは不完全だけど、

絶えず完全に向かって、進歩しているのだって(p.44)」


「そういう詩」とは、ロバート・ブラウニングのAbt. Voglerの一部を指しています。


On the earth the broken arcs; in the heaven, a perfect round.
All we have willed or hoped or dreamed of good, shall exist;


地上では欠けた弧であったものが、天上に置かれると完な円になる。
善い事について欲し、望み、夢見た全てのことはいつまでも消えることはない
 (pp.288-289)


ブレイクやワーズワースが、「自然」な状態の子どもの無垢を賛美し

経験によってそれが歪められていくと考えていたのに対し、

瓊子はそこからさらに進んで、子どもを大人へ成長していく動的な存在と捉えた上で

それでも子どもに内在する純真さや生への向日性に価値を見出しているようにも取れます。

こうした考え方は、当時の日本ではかなり先進的だったと思われます。


瓊子は敬虔なクリスチャンでした。

『七つの蕾』の子どもたちも全員そうで、キリスト教信仰が物語の基幹となっていますが

なじみのない人(私;)にも自然に読める書き方で取り入れてあります。


英米の児童文学作品のようなからりとした雰囲気と
「をかし」や「もののあはれ」につながる日本的な細やかさが

ふしぎなバランスで共存しているのが、本当に見事だと思います。


19歳で初めて書いた長編小説ということもあって
後に書かれた作品と較べると未完成な部分もあるのですが
それを差し引いても、生きることの美しさと静かな強さが感じられて

文字を追うときれいな空気を吸い込んだようになるのでした。


何より「このお話を書くよろこびは本当に深いものであった。
こんなにたのしい想いをいだいて書いたものはない位、
一緒になって泣き一緒になって心から笑いしてきた(S11/3/30⑤p.503)」と述べているとおり、

心から楽しんで書いたのが伝わってきて
私は松田瓊子の作品の中で、これがいちばん好きです。


・・・・・・・・・


作者の松田瓊子(けいこ)は、1916(大正5)年3月19日、

四人兄妹の次女として東京の小石川で生まれました。


父の野村胡堂(胡堂は筆名、本名は長一)は報知新聞の記者を経て作家として活躍する一方、

「あらえびす」という筆名で音楽評論家としても有名でした。


母のハナは胡堂と同じ岩手出身、クリスチャンで、

日本女子大教育学部を卒業しており、瓊子が小さい頃は付属の女学校で教えていました。


四つ上に姉の淳子(あつこ)、二つ上に兄の一彦(長一の「一」+出身地彦部村の「彦」、

四つ下に妹の稔子(としこ)がいました。


和やかに暮らしていた一家でしたが、

1927(昭和2)年の夏、姉の淳子は肺結核にかかり、16歳で亡くなってしまいます。


翌年には兄の一彦が腎臓結核を発症し、療養のため
29(昭和4)年3月、一家は鎌倉の稲村ヶ崎に引っ越しました。
当時、結核には確実な治療法がなく、転地療法が一般的でした


瓊子は鎌倉高等女学校に編入し、13歳から15歳の三年間を鎌倉で過ごしました。
創作を始めたのはこの頃からで

妹や親戚など、周りの小さな女の子たちが喜んで読んでいたようです。


32(昭和7)年3月に世田谷区砧に戻り、4月には日本女子大学英文学科に進学します。
兄の影響で、キリスト教無教会派の伝道者、金沢常雄の聖書研究会に通うようになり、
ここで終生の友人となる前田(後の神谷)美恵子と親しくなりました。


金沢常雄は美恵子の叔父にあたります。
美恵子はこの叔父と多磨全生園(ハンセン病患者のための療養所)を訪れたことがきっかけで、

後に医師を志すようになります


また、美恵子の兄の陽一と瓊子の兄の一彦、後に瓊子の夫となる松田智雄は
成城学園の音楽部の同級生で、とても仲がよかったそうです。


その後、三家族とも軽井沢に別荘を建て(前田家と野村家は隣どうし、ちょっと離れて松田家)
そちらでも行き来するほど、家族ぐるみのつきあいでした。


父前田多聞の仕事の都合で、三年間ジュネーブに住んでいた美恵子は

洋書を贈ったり、心のこもった手紙を書き送ったりと
細やかな愛情で瓊子を支え続けます。


瓊子の二つ年上で、瓊子にとっては姉のような存在でした。
日記には「こんなに心からお話し出来る方は一生に何人あるかわからない(S9/2/22⑤p.237)」
「みみ〔姉注:美恵子の愛称〕は誰より誰よりどんな人より最もよいやさしいお姉ちゃま(S9/8/5⑤p.359)」
とあります。


『七つの蕾』の百合子のモデルは、美恵子でした。


「サユリが、津田英学塾を受験して、失敗したかと思って押し入れに隠れていたら、

本当は一番だったという件は、実際に私の身に起きたことを瓊子さんが題材にされた(別p.56)」と

本人が語っていたそうです。


また、一彦も美恵子の兄の陽一から「妹は試験は両方とも受かりました。
津田は一番、東京女子大は二番だったそうです(②p.160)」という手紙をもらっています。
「東京女子大の方は問題があまりやさしかったので外の人も出来たので、
そうでなかったらこれも一番になれる筈だったとミミは言って居た(②p.168)」由。
卒業するときも一番で答辞を読みました。


美恵子からあたたかい手紙を受けとった瓊子が

「可憐なサユリよ(S11/2/28⑤p.465)」と呼びかけている箇所もあります。


目が印象的だったらしく「小鳩のような目(p.179③)」や

「あのやさしい輝いた眼(S9/8/5⑤p.360)」という表現が見られるのですが、
『七つの蕾』の「百合子の小鳩のような眼が熱心に輝いた(p.45)」という記述や
最後の一文「百合子の小鳩のような眼も、この夜は、星のように奇しく輝いているーー
梢は一人心にそう思った。(p.263)」と呼応しているようにも思います。


一彦は東大(音楽美学専攻)に進学しますが、病状は回復しませんでした。


隣の部屋で瓊子が辞書を引く音が障るようになってしまうほどで、
34(昭和9)年のはじめに、瓊子は物置を改造してマイ屋根裏部屋を作っています。


妹の稔子は「『これでりんごを持って行ってかじったらジョーのようね』と
嬉しがってい(S9/1/7⑤p.214)」ます。
以降、瓊子はここで物語を書くことに熱中するようになりました。
しかしこの20日後、六年間の闘病の末に一彦は21歳で亡くなります。


悲しみに沈む瓊子に寄り添ってくれたのが、美恵子と

一彦の友人で、瓊子が8歳の頃から親交のあった松田智雄でした。

二月の末に瓊子は智雄と婚約します。


同じ頃に買ってもらった自転車で、自然に恵まれた武蔵野を乗り回し

(日記を読む限り、砧周辺から富士山が普通に見えてる!)

幸せに元気に過ごしていたのですが、6月7日、咳がひどくて大学を休みます。


気管支カタルとの診断でしたが、肺結核でした。
8月12日に療養先の軽井沢で喀血、

9月22日には母ハナが大学に退学届を出していることから、その深刻さが窺えます。


10月20日から翌年の9月まで、瓊子は家族と離れ、

かつて住んでいた鎌倉の家で療養生活を送ることになりました。


1935(昭和10)年(19歳)の日記は残っていないのですが、

十日に一度程の割合で母か稔子か智雄が来る以外は

看護婦さんとお手伝いさんと三人だけの単調な生活だったようです。


(神谷美恵子もこの年と翌年の二回、肺結核を患って、軽井沢で療養していました。

二回目の療養中に独学でギリシア語を習得し、

マルクス・アウレーリウスの『自省録』 を原文で読んでいます)


胡堂が送ってくれるレコードを聴いたり、景色を見たりして過ごしていますが

しきりに家に帰りたいと書き送っています。


また、この頃から和歌を本格的に作り始めたそうです。

ワーズワースではないけれど、emotions recollected in tranquility、

静かな中で思い起こされた感情を表すのに和歌が有効だったのではないかという気がします。


そしておそらく、この療養生活の間に

瓊子はかつて元気だった頃に家族で過ごした鎌倉での日々を思い出し、

それに力づけられたことが多かったのだろうと思います。


翌36(昭和11)年、砧の家に離れが増築され、9月に瓊子は家に帰ることができました。
瓊子は離れを好きな青でまとめて「ブルー・ベル」と名付け、

体調のいいときに本格的に物語を書き始めます。


鎌倉を舞台にした『七つの蕾』はこの年の11月頃から書き始められ、

翌37(昭和12)年3月30日に書き上げられました。

全15章(戦後にヒマワリ社から出たものは巻末に雑誌「蕾」の記事がついて16章)です。


英学塾在学中の美恵子から「長い長い実に御丁寧な英学塾の事をかいたお手紙」をもらい

「早速みみから教わった事を入れてサユリの寮舎からの便り(S11/1/13⑤p.406)」を書いていたり、
1月の日記には、筆がのると一日で二、三十枚も

「ぐんぐん書いて行く(S11/1/22⑤p.416)」様子が見受けられます。


瓊子の物語は、妹の稔子や友人の美恵子など、周りの少女達を喜ばせていました。
2月12日には母が「泣きつ笑いつもう夢中になって読んで(S11/2/12⑤p.446」いるのを見て、
「私のまごころからほとばしり出たお話が愛する方々のほほえみと涙につつまれるこのよろこび!

とにかくお話を書くほど楽しい事はない位だ(S11/3/6⑤p.472)」と喜んでいます。


3月9日にはプロの作家である父に読んでもらいました。
厳しい言葉を予想していたのに反し「天下の野村胡堂」に褒められた喜びと
父の的確なアドバイスが書かれており、それに従って加筆修正をしています。


6月12日、胡堂は長谷川時雨の紹介(二人とも佐佐木信綱門下)で

村岡花子に『七つの蕾』の話をしました。


瓊子と同じくクリスチャンの花子は「少女の友」の編集や翻訳などに関わり、
「当時の少女文化界におけるもっとも有力な指導者(別・上p.8)」で

「彼女の世話でこの作品は出版されるに至った(別・上p.8)」そうです。


大正から昭和前期にかけてのこの時期は、少年少女向けの雑誌の黄金期でした。

海外の児童文学が紹介されたり、川端康成や菊池寛など大家が執筆することもあった一方で、

雰囲気重視の感傷的な美文調少女小説も多く見られました。

そうした状況に対し、瓊子は厳しい言葉を述べています。


今の子どもの小説はあまりセンチか、さもなければあまり内容にとぼしいことがかなしい。(S7/12/31⑤p.204)


吉屋信子「花物語」(少女クラブのふろく)を見て、あきれる。

どうしてこれが女学生にそんなに騒がれるか。あきれもし、又なさけなくなった。(S9/7/10⑤p.329)


少女雑誌をのぞいてまたも一人で慨嘆する。なげかざるを得ない、あまりに粗雑で。

これに満足させられている少女たちの心を思って何かおそろしくさえ思った。

あまりに実がなさ過ぎる、空虚だ。この頃は、いつも不愉快になるので、

少女雑誌はもって来られても見むきもしないのだけれど。

日本のスピリよ、日本のバーネットよ、出ぬか出ぬか!(S11/4/13⑤p.525)


翌1937(昭和12)年1月8日、村岡花子から<七つの蕾の作者へ>という序文が届きます。


 新しい昭和十二年の最初の読みものがあなたの『七つの蕾』でございました。

ありがとう!ありがとう!ありがとう!私は何度あなたにお礼を言ったら満足が行くことでしょう。

自分のために、それから、やがてこの本を手にする大勢の少女たちのために、

私はあなたにお礼を申上げるのです。
 (中略)
私たちの娘時代よりもはるかに透徹した眼で周囲を見ることが出来、

ずっとずっと自由に想像の翼をかけらせることの出来るあなたの筆に成ったこの物語から

私は今まで読んだどの少女小説からも感じられなかった溌剌さと、生命の躍動とを掴んだのでした。
 『七つの蕾』はさらに純真な、美しい物語です。微笑と涙と哄笑と、そして最後に残る敬虔な気持、

こんな貴重な収穫を読者に与える物語は、真実子供を愛し、

子供の世界に溶け込んでいる人でなければ書けません。

 この国の少年少女の読み物の中に欠けていた要素をあなたは立派に

『七つの蕾』に依って満たして下さいました。
 (中略)
 あなたこそ将来私どものためのオルコット女史となり、バーネット夫人となって下さる方です。

どうぞ御自重下さいませ。(pp.282-283)


最後の一文は、瓊子の「日本のバーネットよ、出ぬか出ぬか!」という願いに対する

なんとも嬉しい答えになっていました。

瓊子は当日の日記に、以下のように記しています。


今日は一入強く強く「勉強しよう!」との叫びが絶えず心にみちていた。

それは今まで以上につよいものだった。村岡小母さまに大いに力づけられたのだが、

「書こう!」ではなく「勉強しよう!」だった。(S12/1/8⑥p.19)


1月19日、村岡花子の序文をそえて『少女への物語 七つの蕾』が教材社から出版されます。

瓊子は21歳でした。
体調もほぼ回復し、月末には野村家&松田家&前田家で、全快祝いの食事会が開かれています。


本は好評を博しました。

東京市議会の推薦図書にもなり、一クラス全員が購入した学校もあったそうです。
日記には、様々な方面から寄せられた嬉しい言葉が記してあります。


版元品切れになったらしく、当時都市部の女学生に大人気だった雑誌

「少女の友」の主筆内村基(日記では内村恭一となっているのですが、

当時の主筆は基だと思います。出版元の実業之日本社社長の増田義一と変に混ざった?)が

手に入れられず、村岡花子に借りたことが書かれています(S12/3/11⑥p.98)。


10月6日、瓊子は松田智雄と佐藤振興生活館(今の山の上ホテル)で結婚式を挙げました。

時局柄(7月に日中戦争勃発)披露宴は紅茶とケーキだけでしたが、

鎌倉に一週間新婚旅行に行き、渋谷区で新しい生活を始めました。


結婚後も執筆を続けますが、38(昭和13)年の春頃から不調に陥ります。

10月、美恵子は両親とともにアメリカへ出発しました。


39(昭和14)年4月に瓊子は再び喀血します。
闘病しながら書き続けるものの、10月頃には物語を書く気力もなくなり、

日記には祈りながら必死に苦しみに耐えている記述が並んでいます。


12月14日を最後に日記が途切れ、翌40(昭和15)年1月13日、23歳10ヶ月で瓊子は亡くなりました。


瓊子の死の二年後、1942(昭和17)年9月21日の日記に、

東京女子医専に在学中だった神谷美恵子は以下のように記しています。


瓊ちゃんのように長病みの人には、恐らく、生きるということの喜びが、

病と死を背景にスポットライトを浴びたように照りかがやいたのであろう。

 (中略)

きょう病理で腎臓結核の標本を見せられた。

敵の骸を見るような目つきで私はそれを眺めた。(⑦p.41)


(1942(昭和17)年、智雄は妹の稔子と再婚しました)


・・・・・・・・・・・


病に倒れ、若くして亡くなっていることから

儚げな印象でひとくくりにしたくなるのですが、日記には
風の激しい晩に「神様、風がサフランの花を傷めませんように(S12/3/4⑤p.90)」と祈っていたり、
智雄からの手紙が届かず(注:二日前に会ってる)

「悲しみと寂しさにとざされて昼食の味は全く失せてしまった(S12/3/3⑤p.88)」りする反面、


大学の試験で「学校の考えには同意できないし先生は極自由に書けとおっしゃったから、
自由に書きまくって六枚か七枚書いてしまった。

あれで実倫落第なら本望だ(S9/3/1⑤p.243)」と言い放っていたり、
二・二六事件に関して「何と云う馬鹿ものどもであろう!(S11/2/27⑤p.464)」と

書いていたりする箇所もあります。


金沢常雄が瓊子のことを「激しい性格の反面において快活で、明るく、

そしてユーモアに富んでいた(別p.120)」と評しているとおり

感じやすく繊細な面と、自分の考えを強く持ち、阿らない面との両方が見受けられます。


後に、夫であった智雄は瓊子について「『花狂さん』と冗談に呼ばれるほど好きであった。

そして美しい小さいものが好きであった。

美しい小さいものと言えば、彼女の熱愛して居たものは幼い子どもだったのである」

「楽しげな明るさと戦い、喜び、感謝と悲しみ、孤独、涙、

彼女のうちには様々なものが入り混って居る(別p.115)」と書いています。


先の見えない長い闘病生活に、ときに弱気になりながらも
「我は病床大学にて学べるなり。(中略)尊きこの二年の教えの庭、心より感謝せむ。

(S11/5/21⑤p.574)」と言いきり、パレアナや原書で読むほか、
美恵子(英学塾卒業後、コロンビア大→東京女子医専→精神科医に)に教えられた

ヒルティやデ・ラ・メアを読んだり、智雄(東大→経済学者)と歴史書を読んだり、

ミルトンからノヴァーリスから万葉集から、本当に多岐にわたって勉強を続けています。


「すべての事を希望もちて、明るき方面をのみ見むとぞ思う。

くらき方を見れば、きりもなし(S12/2/13⑥p.63)」と日記にあるとおり、

亡くなる直前まで、スピリの翻訳に取り組んでもいました。


父の胡堂は、「娘、瓊子を語る」という文章の中で以下のように述べています。


瓊子の中には、全く想像もしない『一つの光と力』があった。

作物としてはそれはまことに稚拙なもので、文壇的には恐らく縁の無いものであろうが、

少くとも日本人の書いたものでは、全く最初のものであり、読むものの心を犇(ひし)と掴んで、

不思議な感激に誘い込まずには措かない、愛と純真さを持って居るのである。

その中には世の所謂少女小説というが如き、安価な感傷に溺れたものは一つも無い。

寧ろ明るくて聡明で、諧謔味に富んで、ーー大きく言えば人間愛と素朴な信仰とが

全篇に行渡っているのである。

 (中略)
瓊子の作物の本質は、決してオルコットやスピリではない。

ましてバーネットやマローとは似もつかぬもので、もっと明るい、もっとユーモラスな、

そして更に宗教的な味の濃やかなものである。

少くとも我国の読書界ではあまり例の無かったーー親馬鹿らしい自慢を許してもらえるならばーー、

稚拙でそしてユニークなものであったと私は信じている(別p.137)

            ・・・

中学生の頃、本からかなり遠ざかった時期があります。


児童書はそろそろ卒業した方がいいのかなと思いつつ
いわゆる文学作品は、最後まで読み通せても内容が理解しきれないものが多く
(『デミアン』の印象が「よく顔に蠅がとまる」しか残らなかった←蹴、
「読むものがない」と初めて途方に暮れました。


部活動が忙しかった事もあって、新潮文庫のモンゴメリにたどり着くまで
まんがしか読まずに過ごしました。


瓊子の病気が癒えていれば、胡堂の言葉通り、
おそらく子どもの世界や感性を忘れないまま、いい意味で大人になっていきながら
「少女への物語」を書き続けたのだろうと思います。


そうして書いたであろう物語を、もっと読みたかったな、
そして自分も中学生ぐらいの頃に松田瓊子の本を読んどきたかったなと、本当に思います。


・・・・・・・・・・・・・・・



・・・夕方日記・・・-1


手元にあるもう一冊は、昭和15年12月28日20刷のものです。
表紙は一度外れたらしく、くっつけ直されています。


(最初のは、戦後、昭和24年にひまわり社から中原淳一の表紙で再版されたものを

さらに昭和60年に国書刊行会が再版した本です。

いろんな版があると知らずに神田ローラー作戦に出た結果、二冊あります;)


・・・夕方日記・・・-5   

標題紙にはメアリーローズのような濃いピンクでタイトルと名前が。
瓊子が「『挿絵を描く人は、稔ちゃんじゃなきゃ嫌』と言った(別p.56)」そうで、
装丁は当時16歳だった妹の稔子が手がけています。


『七つの蕾』は1937(昭和12)年1月19日に、
野村瓊子名義で出版されました(初版は千五百部のはずが、印税が二千冊ぶん来て

「村岡小母様の序文で勇気を出したのかしらと笑う(S12/1/15⑥p.29)」記述があります)。

初版本は大阪国際児童文学館に所蔵されており、(こちら )で見ることができます。


19日は亡き一彦の誕生日で、野村家にとっては「忘れがたい楽しいなつかしい日で」した。

日記には「青い本、かわいい女の子、ピンクと金の字。

私の思ったより青がこかったが、いかにも愛らしい本が出来た。(S12/1/19⑤p.36)」とあります。


・・・夕方日記・・・-4


手元にあるこの本の初刷りが昭和12年11月20日なのは

おそらく瓊子が松田姓に変わったことを受けて刷り直したものかと思います。
三年の間に20も版を重ねているところからも、この本が人気だったのが窺えます。



・・・夕方日記・・・-6   ・・・夕方日記・・・-7


初版と較べると、表紙と本文は同じに見えますが、カラーの口絵が変わっています。

新京の叔父が帰国して、みんなにお土産を持って来てくれる場面です。
本文にもこの場面をよく読んだ形跡があるので、人気のシーンだったのでしょうか。


裏見返しに鉛筆で二行、書き込みがされていたのを消し去った跡があり

一行目は「東洋永和女學校 小學校」と読めます。


・・・夕方日記・・・-8


  わかりにくくてすみません;

  洋のさんずい、永の点と中央+左のはらい、和の口の右上、女のく が見つけやすいです


東洋英和女学校の小學科は、1941(昭和16)年に

校名を「東洋永和女學校付属初等學校」と改称したそうです。

(45年には法人名も「東洋永和女學院」と改称、47年に元の英和表記に戻ります)


1939(昭和14)年9月に英仏などの連合軍がナチスドイツに宣戦布告し

第二次世界大戦が始まると、翌40年、日本は日独伊3国同盟を締結して

連合国側とは敵の関係になります。


英語は敵国語と見なされました。

小学校の校庭で「『英語の国のご本』(⑧p.265)」が燃やされたり、外来語を使うことが禁じられたりして

花子も庭に洋書を埋めて隠したそうです。

(この頃小学生だった祖母も、私と妹の服を縫ってくれるとき、ポケットをつける段になると

ポケットでなくて「物入れ袋」と言わないと叱られたという話をよくしてくれていました)


すでに、瓊子が存命中だった37(昭和12)年12月8日の時点で、日記には

金沢常雄が出していた冊子(おそらくキリスト教系と思われます)が発禁になったことが書かれ、

「日本の民が、だんだんにファッショにかたまって、頭も石のように単純化して行くような気がして、

ものがなしくあわれ深く思った。(⑥p.129)」とあります。


キリスト教に対する風当たりも強まり、

38(昭和13)年には聖書に由来した校訓の上にご真影が掲げられ

キリスト教と英語中心から、軍国的なものへと教育内容も変わらざるをえませんでした。


(国際情勢が悪化する中、カナダに帰国する婦人宣教師ミス・ショーから

「いつか平和が訪れたら訳してください」と花子が託されたのが"Anne of Green Gables"です。

サンフランシスコ講和条約が発効された52(昭和27)年に『赤毛のアン』の題で出版されました)


41(昭和16)年に「英」が「永」に変わっているのは、

強制されたのか自発的になのかはわかりませんが

おそらく「英」の字を使用することすら厳しい時勢を慮った結果なのだろうと思います。


改行して名前らしき跡が残っているのですが、読み取れません。
名字3文字、名前の方はくずしてありますが「蘭子」かな…という感じです。
写真の左下に草かんむりの横棒がかすかに見えるの、わかるでしょうか?;



  ・・・夕方日記・・・-2   ・・・夕方日記・・・-3


校名が「永」に変わる前年に刷られたこの本を手に入れ、名前を書いたのが

出版に力を貸した村岡花子の後輩にあたる女の子だということが

とても感慨深いです。


キリスト教的な考えが根底に流れている『七つの蕾』は

この時期、表立っては読んでいると言いにくい種類の本だったのかもしれません。


それでも、そうした思想や社会情勢を超えたところの普遍的なもの、

人間のみずみずしさや生活の美しさ、子どもの持つ力が描き出されているこの本を

表紙が外れるまで、何度も読んだであろう蘭子ちゃん(推定)のことを思うと、

本とはどうあるべきものなのか、

好きに本が読めるというのはどういうことか、根源的なことを考えさせられるのでした。



<参考文献>


『松田瓊子全集』全六巻+別巻(大空社、1997年)(五巻=⑤・六巻=⑥・別巻=別)

 上笙一郞「松田瓊子=忘れられた少女小説家」(全集別巻・資料編、pp.3-18)

 住川碧「松田瓊子の愛した人びと」(同上、pp19-98)

 野村胡堂「娘、瓊子を語る(『紫苑の園』ヒマワリ社版)」(同上、pp125-127)

 松田智雄「朝にはよろこびうたわん(金沢常雄主筆「信望愛」松田瓊子追悼特集号所収)」

 (同上、pp.112-117)

 松田智雄・とし子「あとがき(『紫苑の園』ヒマワリ社版)」(同上、pp.167-173)

『少女の友』創刊100周年記念号 明治・大正・昭和ベストセレクション (実業之日本社、2009年)

遠藤寛子『少女小説名作集2(少年小説大系25) 』(三一書房、1992年)
遠藤寛子『『少女の友』とその時代―編集者の勇気 内山基 』(本の泉社、2004年)

太田愛人『野村胡堂・あらえびすとその時代 』 (教文館、2003年)

神谷美恵子『神谷美恵子著作集(5) 旅の手帖より 』(みすず書房、1981年)

神谷美恵子『神谷美恵子著作集 (9) 遍歴 』(みすず書房、1981年)

神谷美恵子『神谷美恵子著作集 (10)日記・書簡集 』(みすず書房、1982年)

神谷美恵子『神谷美恵子著作集 (補巻 1)若き日の日記 』(みすず書房、1984年)⑦

神谷美恵子『神谷美恵子日記 』(角川書店、2002年)

管聡子『「少女小説」ワンダーランド―明治から平成まで 』(明治書院、2008年) ①

野村一彦『会うことは目で愛し合うこと、会わずにいることは魂で愛し合うこと。—神谷美恵子との日々

(港の人、2002年) ②

 松田瓊子「兄妹ものがたり<断片録>」(同上、pp.173-223)③

野村胡堂『胡堂百話 』(中央公論新社、1981年)
藤倉四郎『バッハから銭形平次―野村胡堂・あらえびすの一生 』(青蛙房、2005年)

藤倉四郎『カタクリの群れ咲く頃の―野村胡堂・あらえびす夫人ハナ 』(青蛙房、1999年)

吉屋信子『三つの花(吉屋信子少女小説選 (4)) 』(ゆまに書房、2003年)④

村岡恵理『アンのゆりかご―村岡花子の生涯 (新潮文庫) 』(新潮社、2011年)⑧


アンのゆりかご―村岡花子の生涯 (新潮文庫)

アンの翻訳者、村岡花子さんの生涯をお孫さんが書かれた本です。

生い立ちや第二次大戦を経てアンが世に出るまでを、本当に興味深く読みました。

東洋英和の寄宿舎で親交が深かったのが柳原燁子(後の白蓮)だったり、

芥川龍之介が『或阿呆の一生』で「才力の上に格闘できる女」と呼んだ

片山廣子に英文学の本を貸してもらっていたり、

亡き息子の名を冠した子ども図書館、道雄文庫の手伝いをしていたのが

当時慶応の学生だった渡辺茂男(『エルマーのぼうけん 』の翻訳者)だったり、

友人だった林芙美子 の色紙が書斎に掛かっていたり、登場人物もスバラシイ。