Creil et Motereau
実家でお茶、その2です。
トチーが蒸しケーキを焼いてくれました。
いちごソースとホイップクリームを添えていただきます。
作ってもらったお菓子&淹れてもらったお茶バンザイ
カップとお皿はフランスのクレイユ・モントローです。
1797年にパリの北側にあるクレイユという町で創業した窯で、
1840年にパリの東のモントローの窯と合併してクレイユ・モントローになりました。
クレイユ窯では、イギリスのウェッジウッドで学んだ人が持ち込んだ技法を用い、
土にカオリンを混ぜて、薄くて硬めのファイアンス焼きを作っていたのだそうです。
カップは1840~76年頃のもので、Floraというパターンです。
きれいな藍色でひいらぎが描いてあって、どことなくですが古伊万里感も。
ほかに昼顔やすずらんなどのバージョンもあって
ジャポニズムの影響で流行した柄なのだそうです。
ケーキ皿にしているスープ皿(おーい;)は1867~76年のもので
メダイユ ドールレリーフというシリーズです。
ぐるりとレリーフが施してあって、端の青い線が効いてます。
菜の花が入っているカップも同じ模様が、こちらは手描きになっています。
菜の花は咲きすぎててお寿司に入らなかったぶん;
フランスのものは詳しくなくてあまりよくわからないのですが;
イギリスとは別のベクトルのあたたかみがある気がします。
大陸感というか、お鍋的な、広がりつつ囲んでひとつにする感じ…←???;
おおどかでいながらどこかちゃんと洒落ていて
ゆったり包みこむような雰囲気がいいなぁと思いました。
パラゴンとティザニエール
お茶@実家です。
カップは1930年代頃のパラゴンです。
複雑に刳ったような形に、空色と黄色の野の花、
背景にうすいグレイでれんが塀が描かれているのがなんとも壷です。
本当はコーヒーカップなのですが、
あたたかいものを少しずつ飲めるのがありがたくて
紅茶にもよく使っておりました。
ふしぎな形のポット?はフランスのアンティーク、
1900年代の初めの頃のもので、ティザニエールというそうです。
土台とポットに分かれ、ポットがちょうど土台にはめ込めるようになっています。
もともとは土台に炭を入れて用いられ、
あたためてハーブティーなどを飲むのに使われていたそうです。
開口部が文字通り、お寺やお茶室の火灯窓(花頭窓)のような形なのが
おもしろいなと思いました。
うちでは炭の代わりにティーキャンドルを使っていました。
紅茶はウィタードのイングリッシュローズです。
ばらの香りが拡がっていとをかし。
ポットは底の凸部分まで入るので、意外と容量があって
長いこと温かい紅茶が飲めるのが
寒い日にはとてもありがたかったです。
・・・・・・・・・
そんなわけで今回、撮ってきたお茶の写真の半分以上に
ティザニエールが写っているというステキな事態になっております;
最後の方、また?みたいになるかもしれませんが何卒こらえてくださいませ(伏)
帰去来辞
先月末から今月初めにかけて、地元に帰っておりました。
みんなで動物園に行ったり
お昼に大量のホットサンドとピザを作ったり
母トチーやイモムとお茶を飲んだりして帰ってまいりました。
お皿は全部青×白ですが
アラビアのヴィンテージ+スポードのブルーイタリアン+アンティークのブルーウィローが混ざってます
甥っ子チビ助くん(中2)は背丈も足のサイズも
おじいちゃん(父)を完全に抜いていました。
話すときはきっちり首を曲げて見上げる感じに;
鳥好きの姪っ子チビ子ちゃん(小2)とは
庭の木にみかんを刺して来る鳥をながめたり(めじろさんが来訪中、
ぬいぐるみで遊んだりと楽しかったです。
帰った日の夕ごはんに母トチーが作ってくれた菜の花のちらし寿司。ありがとう~
最初の写真は近所(歩いて行ける距離;)の池です。
水面の小さな点みたいなのが小ガモ、たくさんいました。
しばらくLa maison de 田舎な話が続きますが、のんびり見ていただけると幸いです。
ハットスタンド
アンティークのハットスタンドです。
木のまるいところに帽子を置いて(のせて?)おく仕組み。
オークでできていて、イギリスの1930年頃のものだそうです。
ずっと前、家の壁に釘が打てなかった頃に、たまたま見つけて
絶対使えると思って買ってきました。
なんてことはないのですが、
放り出している感じにならず、帽子がインテリアの一部になるところが
ほんとにスバラシイ。
帽子を置くところのまるみが絶妙で、どの帽子でも型崩れしないで納まるのも
すごいなぁと思っています。
母が帽子好きで、おでかけのときは母と妹と私の帽子が三つ玄関に出ていたので
今でも何だか帽子をかぶると出先がどうであれ
前向きにさあ出かけるぞという気になります。
トチーの帽子の一部、黒いのはもともとオーガンジーのリボンがついていました
服が同じでも、帽子が違うと何となくごまかせる(気がする)のがありがたや(←間違い。
私が持っているのはベレーとキャスケットと麦わら帽子が多いです。
ヴィンテージのぼうし、左からGREVI、赤いのはBorsalinoで銀色の箱に入っていました、
Christian Dior、右端はフランスのものです。
真ん中の黒いのは色のバランスを取るために参加したマーガレットハウエルです。
これがないとなぜか赤がピンクに写る;
分解できます。
車で旅行に行くときに、ときどき積んでいきます。妙におもしろい
<おまけ>
帽子というと『わたしのぼうし』
やムーミン
のシルクハットも思い出すのですが
いちばんは小学生の頃に読んだメアリー・ポピンズ です。
メアリー・ポピンズが「銀のボタンのついた青い上着をきて、
それにあう青い帽子(『風にのってきたメアリー・ポピンズ』p.41)」をかぶっている場面を皮切りに、
「青いリボンのついた、新しい黒い帽子(『とびらをあける~』p.51)」
「まっかなチューリップをふちにつけた新しい帽子(『公園の~』p.6)」といったふうに、
帽子の描写がよくでてくるのです。
夏は麦わら帽子、冬になるとフェルトの帽子、ぐらいにしか思っていなかったので
服とお揃いになるようにコーディネートするんだということに初めて気づいて、
子ども心に目からウロコでした。
春の帽子をどうするかとか、手持ちの帽子をリメイクして作りかえようと思っているとか
流行の形がどうだとか、洋服と同じくらい帽子に関する記述があって
並々ならぬこだわりを感じます。
森田たま『きもの随筆』
森田たまの随筆です。
タイトルが以前から気になっていた+函が片口 と似てると思って買いました。
が、家に帰って並べて見るとそんなにまったく似てなかった…(ありがち;
昭和29年に出版されており、装丁は作者の森田たまが手がけています。
大戦中の18年に出た『はるなつあきふゆ』 に較べると
紙質も作りもぐんとしっかりしていて、その頃の時間の経過を改めて感じました。
着物の周辺のことがらが多く取り上げられており、
表紙になっている紺絣は、染付と同じように日常生活になくてはならないもので
人を「ひきよせる色である(p.16)」と書かれています。
次に、「見る者にも着る人にも淸潔な美しさを與へる」(p.25)銘仙。
東京の女学生が着ていると聞いたことから
「紫のかすりの銘仙(p.21)」に憧れていたたまは、
17歳のときに「紅地にねずみのしやれた色で匹田を雲形においためりんすの帯と、
紫のかすり銘仙(p.22)」を手に入れて
「銘仙はあたたかく人をつつむと思(p.22)」います。
それから、函の縞は「ふだん着の甲斐甲斐しさと、客の前に坐つたときのしとやかさと、
兩方かねそなへてゐて、粋にも上品にも使はれる。(p.28)」
いつの時代も変わらず、飽きがこない柄で、
「縞はふだん着で、さうして客の前にも着て出られる。
昔の女の日常生活に一ばん親しい、ほんたうの着物(p.28)」だと絶賛されていました。
祖母が縞の着物が好きで、よく着ていました。
似合っていたし、おばあちゃんは縞が好きなんだとずっと思っていたけれど
こういう理由もあったのかなと今にして気付かされました。
とにかく着物の描写がたくさん出てくるのが楽しいです。
たまが東京の女子学院に入学した妹さんにあつらえたのは
「羽織と着物と、對の紫の銘仙を着せ、えび茶の袴」。
「大きな百合の花のもやうを油繪風に織つたもので、
それはまるで妹のためにつくられたのかと思ふほど、彼女によく似合つた」(p.23)そうです。
また、宇野千代が展示会に出品した「古代ぎれといまのしぼりをはぎあわせ、
それに新しく刺繍をおいた朱のふり袖(p.94)」にうっとりなっていたり
ある会で知り合いになって「大へん可愛がつてもらつた(p.163)」長沼せき
(=高村光太郎夫人の智恵子の妹さん)に、
お揃い(たまの方が「一トまわりこまかい」)「えんじと黑のこまかい格子縞」の「紬の着物」(p.99)
を買ってもらっていたり。
『はるなつあきふゆ』に、のちに夫となる青年と一緒に高村家を訪問する話が載っているのですが、
この妹さん経由で知遇を得たのだそうです。
圧巻は、たまのお母さんがお正月に着物を新調し
「小紋ちりめんの二枚重ね」に「朱珍の丸帯を形よく結んで、もちろんおはしよりなどはせず、
ながながと裾をひいて座敷へあらはれた時は、わが母ながら美しいと思つた」というエピソードです。
「おはしよりを着物のアクセントの一つのやうに云ふ人があるけれど、
明治時代の奥さんは、あらたまつた席では裾をひき、ふだんは働くためにおはしよりをしたので、
はじめから裾をひかないときまつてゐるいまの着物なら、
つゐ丈にしても一向さしつかへない筈である(p.45)」とあるのにはなるほどなぁと思いました。
なるほどその2は
かるた會などに招ばれた玄關先きで、紅紫入り亂れ、
花が咲いたやうなはきものがならんでゐるのは、いかにも華やかな心地がする。
その一つ一つから、はいてきた人の人柄まで偲ばれて床しい。
靴にはない感覚で、日本の下駄、草履にだけ見られる風景である。(p.55)
確かに、日本のはきものは
脱いで並べたところから美しいんだなぁと思いました。
「ゐろり端に紺絣のちひさな座布団を敷いた(p.17)」藤田嗣治画伯とか
「村岡花子さんの譯した女王物語(p.43)」とか
数奇な経緯?で記者にもらった「菊池寛の自筆の履歴書(p.145)」とかも出てきますし、
伊藤深水の画室を訪ねて帯に絵を描いてもらったりもしていて、
ほんとに興味深かったです。
小さい頃は、お正月に家族全員が着物を着ることになっていて、
子ども心にとても楽しみでした。
ふだんは洋服の祖母は、暮れになるとみんなより一足早く着物になりました。
きりりとたすきを掛けて、いつもの倍速でいたるところに出没し、たまに何か焦がしつつ
大掃除に障子貼り、おせち作りの陣頭指揮を執っていたのを思い出します。
いつか着物をふつうに着るような生活をしたいなとひそかに願いつつ、
「どんな色でも着てみる事です。さうすれば自から自分の色を見出す事ができるでせう。(p.73)」
にしみじみ頭を垂れつつ、
どこかなつかしい気持ちであかるく読める本です。
<おまけ>
別枠でおもしろかったのが「代作物語」という随筆!
昭和8年、たまが師事していた森田草平の代わりに小説を書いたエピソードです。
森田草平は漱石の門下生でした。
森鷗外の「夏目漱石論」によると「門下生と云ふやうな関係で僕の知つているのは、
森田草平君一人である。師弟の間は情誼が極めて濃厚であると思ふ(①p.407)」だそうです
前年に中央公論に随筆がひとつ載っただけで、作家として身を立てようと
震災後移り住んだ関西から東京に戻ってきたばかりのたまに、
森田草平は自分の名前で小説を書いてみないかと勧めます。
依頼元の雑誌は老大家の特集号(森田草平は当時57歳)で、
ほかのメンバーは徳田秋声や泉鏡花、正宗白鳥といった錚錚たる方々でした。
気が咎めつつも、たまは代作を引き受けます。
原稿料は五十枚で百圓、「文字どほりのその日暮し(p.169)」だったたまには
「ありがたい収入(p.171)」でした
「うまくつても困るし、まずくつても困る。
何とか批評家の眼にとまらないぐらいでやつてもらいたいな。」(p.170)という森田草平の注文に応えて
たまは、夫の長兄をモデルに、道楽者だった彼が芸者を落籍させた話を素材にして書いたところ、
「先生は大へん氣にいつて、二三ヶ所文章に手を入れて發表された(p.171)」。
駄菓子菓子。
これがしっかり「批評家の眼にとま」ってしまうのです。
目にとめたのは川端康成でした(ひゃっほう。
彼は昭和8年7月7日(金)の讀賣新聞の「文藝時評」欄で、
「老大家は何を持つかーー島崎、正宗、上司、森田、泉、徳田、近松氏等」 というタイトルで
「老大家諸氏」の作品について批評しています。
これは、7月1、4、5、7、8日の5回にわたって連載された書評のうちの4回目にあたります。
7月1日の1回目では、川端は冒頭で山川彌千枝の遺稿集
に言及し、
「確に新鮮な生命が溢れてゐた(②p.124)」と賞賛しています。
ひと月前の6月に「新潮(昭和8年7月号)」に書いた「文藝時評」でも
徳田秋声の作品を「あきれるばかり不細工な文章」と批判したのに対し、
彌千枝をはじめ「早熟の少年少女の文集」を挙げ、
「子供の作文を、私は殊の外愛讀する。一口に言えば、
幼兒の片言に似た不細工さのうちに、子供の生命を感じる(②p.114)」と述べており、
自然な感覚から生まれた素直な作品をとても好意的に評価していました。
(「禽獣」を発表したのがちょうどこの時期です。)
この流れで、年配の「老大家」の作品が批評されるとなると
どう考えても分が悪い気がしますが、やっぱりかなり辛口です。
今だとむしろ川端康成がいちばん「老大家」というイメージが強い気がしますが;
川端はこのとき34歳です。
(25歳で帝大を卒業、「文芸時代」創刊=新感覚派誕生→27歳で『伊豆の踊子』を発表。
『雪国』の出版は38歳なので、この時点ではまだ。
以下、かっこ内は当時のみなさんの年齢です)
島崎藤村(61)の「夜明け前」には、連載中なので批評は控えると言いつつ
「遠くに耳傾けるやうな作者の態度が
時代の歩みを影繪にしはしないかと疑はれる(②p.130)」とやり
泉鏡花(59)には「ただいたづらに文面が煩はしい(②p.130)」とばっさり(怖いよママン←誰。
正宗白鳥(54)や徳田秋声(61)ほか2名のみなさんは、前の二人ほどではないものの
「いづれも相變はらずの私小説である(②p.131)」とやや突き放し気味なトーン。
そんな中で唯一、きちんとほめられているのが
森田草平(57)森田たま(39)の「鰌」(どぜう)なのです。
藝者母娘とその男達を描いて、かういふ世界の女のはかなく寂しいやうな生き方に
「鰌」みたいなねばりを與えてゐるのは、老巧である。
肉軀の匂ひも甚だしいが、それが成熟してゐるところ、さすがである。
少し大袈裟に云へば、西鶴などを思はせて面白い(②p.130-131)。
たま、井原西鶴と並んでる!!!
他の人と較べると、マイナスのことは一切書かれておらず、手放しで絶賛という印象です。
代作して以来「片付かない奇妙な気持」で過ごしていたたまが
森田草平の家に行ったところ、「やはり奇妙な表情」をした彼に、
読んでごらんと渡された新聞がこれでした。
たまは「ほめられてゐる。」とびっくり。複雑な気持ちで
「胸がわくわくし、同時に何ともいへぬ悲しみのやうなものがこみあげてくる気持で、
うるんできた眼をかくすやうにして下にお(p.171)」きます。
そんなたまを見て、森田草平は
自分でもたまでもなく、モデルの兄貴がほめられたんだよ、と言って
「まるで童兒のように、照れくささうに笑はれた(p.172)」と結んでありました。
「鰌」は単行本には収録されておらず、森田草平の全集も行き倒れている(のかな?;
40年ほど前にとびとびの巻数で3冊出たまま、その後出てない)ようなので
できる範囲で探したのですがいまだに読んだことがありません;戦前の雑誌は厳しい…
いつか読みたいなと思っています。
<参考文献>
①森林太郎『鷗外全集 第二十六巻』(岩波書店、1973年)
②『川端康成全集第三十一巻』(新潮社、1982年)































