今回は、以前の記事で寛容さの話をしている時にふと気付いたお話です。
皆さんは寛容さってどうやったら身につくと思いますか?
メンタリティ的な意味での器の大きさ?相手を許す慈悲の心?はたまたある種の鈍感さでしょうか。
今挙げたそれぞれの例ももちろん大切な要素だとは思いますが、今回あえてお伝えしたいのは自分と他人の境界線という観点です。
「自分と他人」普通に考えれば違うのが当たり前、と感じる方がほとんどかと思われます。
しかし、世の中の人間関係のトラブルは意外とこの自分と他人の境界線の認識のズレが要因になっていることが多いのです。
これもまた少し前に私の中でマイブームになっていた境界線の曖昧さのお話になってくるので、興味がある方は復習がてら読んでみてください。
さて、まず初めに自分と他人の境界線を語る上で大事なのは、そもそも自我や自己という認識は後天的に形成されるものであるという認識です。
日常生活でこういった事を考える機会などそうある物ではないですし、いわゆる「自己」という認識が形成されはじめるのはごく幼少期であるため、認識から抜け落ちてしまいがちなのですが、そもそも生まれたばかりの人間には自分と他人の境界線は無いのです。
生まれたばかりの頃はそもそも自分という概念はなく、成長して認知機能が上がってきた時に、自分の思い通りに動く手足を認識する事からはじまり、まずは自分の出来る事を身体を動かす事で学び、また、自分の思い通りに動かない物を認識するようになる事で、徐々に自分とそれ以外という様な概念を形成していきます。
この辺りの自己の認識の形成に関しては、本格的に学ぶとなると大変ですが、とりあえずこの記事で理解しておいてもらいたいのは、後天的である以上自己と他者の境界線の基準も人によって基準が違うという事です。
しかし、物理的な身体と身体の境界線に関してはある程度明確な境界があると言えるため「自分と他人の区別などしっかりついている」という誤認はかなり起こりやすいのです。
そして、不寛容が原因で起こるトラブルはそういった身体的な境界線ではなく、常識や、共感性の様な精神というか認識の境界線のズレで起こるんですね。
例えば過去の記事に書いた名古屋市長のメダル噛みつき事件等も、一種の境界線のズレの問題とも言えるのです。
メダル噛みつき事件に関して私はあれを明確な人権問題だと捉えていますが、河村たかし氏に攻撃や悪意があったかというと、それは違うだろうと思っています。
あれは、要するに自分の常識や欲求のみ認識していて、それに対する他者の不快感や尊厳という物を認識出来ていない状態なのです。
これは、自分という認識が強すぎて他者という物が認識出来ていない状況ですが、逆のパターンもあります。
教育に熱心な親に育てられた子供が、自分の成績に固執したり、良い点が取れなかった時に絶望するという様な話も良く聞くと思いますが、これは親の願望を強く受け過ぎて、自分の願望と親の願望の境界が無くなってしまっている場合がよくあるのです。
こういった自分と他者の境界線が曖昧になっている状況は、なんだかんだ両者の思いが揃っていれば顕在化はしないため見落としがちなのですが、その分問題が起きた時に強いストレスがかかります。
自分の一部であるために思い通りになると思っていたものが、その通りにならない為、ものすごい認知不協和が起こるのです。
これはいわばコンフォートゾーン=自分の安全地帯を侵犯された状態とも言える為、怒りや悲しみ、攻撃性などがコントロール不能なレベルで発露してしまうんですね。
こういった境界線のズレによる感情の発露であるならば、対処はある意味で簡単で、他人は自分の思い通りに動かないという事を認識に上げ、境界線を正しく引き直す様にすれば良いのです。
簡単に言えば「自分は自分、他人は他人」という事実の再確認ですね。
何かトラブルが起きた時、他者に対しての感情がコントロールできなくなった時は、一度この境界線を整理する事を考えてみてください。
解決の糸口を見つけられるかもしれませんよ。
