歴史を活かせる親になる
この本は1年ほど前に読んだ本だが、
ふと思い出したので、記しておこう。
筆者の結論は、「衰退したとは言えない」というものだった気がする。
核家族化が進んで、子育てを一緒にやっていた祖父母はいなくなり、
地域コミュニティの存在感が薄れ、周りの他の大人もいなくなった。
結果、親が子どもを育てることについての責任を一身に背負うことになった。
親とは言え、子どもを育てることに関しては「新人」。
例えば、会社に入ってすぐ1ヶ月くらいで、1人で仕事やってねと言われるようなもの。
周りがやっているのを何となく見ていたので、何とか取り繕うとするが、
やっぱりボロは出る。
だからこそ、「既に経験した者」の存在が重要になってくるわけだ。
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」
既に経験した者の経験は、新人の親にとっては学ぶべき歴史である。
しかし、その歴史を学びにくい環境になっている現代では、
親は自らの経験に学ぶしかできなくなり、必然的に愚者とされる。
しかし、そういう状況にあることを悔いていても仕方が無い。
そういう状況の中で、自分に課された責任を果たさなくてはならない。
現代の親の多くは、その中でもがき苦しんでいるように見える。
だからこそ、自分が親になる時は、
子どもの為にも、自分の為にも、
謙虚に貪欲に、自分の親、相手の親、周りの経験者の経験を、
活かしていくよう、必要以上に心がけなければならない。
自分はそういう親になることが出来るのだろうか?
不安が一杯だ。
国にそれほどこだわりの無い自分
日本という国は好きです。
日本という国は今でも一番安全な国だと思っています。
日本という国の歴史と伝統には誇りを持っています。
しかし、自分は、
そこまで日本という国自体の存続に固執はしません。
もちろん、存続するなら存続して欲しいし、
その為に自分が何か出来ることを見つけたらやろうとは思います。
かと言って、存続に固執はしません。
結局、国というシステム自体が、
人間が生きていく上で生み出した便利ツールだと思っているし、
実際に現状はとても便利だと思う。
特に日本だからそう思うのかもしれない。
でも、あくまで便利ツール。
それ以上に素晴らしいシステムが出来るのなら、
そのシステムに乗り換えるべきだと思う。
その素晴らしさの評価方法は色々あると思う。
まあ、国レベルになると、なかなか難しい気はするが。
坂本竜馬は、幕末期に、
「自分は日本人だ」と言って、みんなに笑われた。
当時は、所属すると考えられていたのが藩だったから。
では、今なら?
amissは、平成期に、
「自分は地球人だ」(「自分は宇宙人だ」)と言って、みんなに笑われた。
当時は、所属すると考えられていたのが国だったから。
そんな事があってもおかしくないと思う。
だからと言って、国を捨てて良いと言っているわけではない。
ただ、
今は「国」が最も有用な概念だから、みんなそれを用いている、
という風に考えてみることも必要なんじゃないかと。
それが我々の乗っかっているパラダイムなのでは?
と考えてみる姿勢も必要なんじゃないかと。
そういう姿勢は世界で現れ始めていると思う。EUとかね。
アジア全体としても、
まずそういう考えを持つことから始めて、
お互いが歩み寄り、だんだん行動へとシフトしていかないといけないのでは?
そんな思いがあったりします。
そうやって持続可能な社会を生み出していく。
その為に自分が何を出来るのか?
日々考えていかないといけないなと改めて感じます。
傲慢と謙虚と卑屈に悩み苦しんだ日々
謙虚と卑屈の間を彷徨っているamissです。
おそらく1年くらい前までは、
「謙虚」という名の卑屈さが自分にはあった。
その頃は常に自分にこう言い聞かせていた。
「傲慢になるな。謙虚になれ」と。
むやみに謙虚であろうとした。
「自分は出来ない人間だから」と自分に言い聞かせた。
なぜなら、自分が本当はとても傲慢な人間だと思っていたから。
いや、今でもそう思ったりする。
でも、なるべくそう思わないようにしている。
自分で自分を評価することはとても愚かな行為だ。
自分に一番近い自分は、
自分に対して主観的にしかなれない。
なぜならそれは主観そのものだから。
自分を傲慢だと思っても、
それはとても主観に過ぎないし、それを妄信する必要はない。
傲慢さと謙虚さは正反対だから、どちらかと言うと気付きやすい。
卑屈さと謙虚さはわりと近いから、実は気付きにくい。
だから、最近は自分にこう言い聞かせるようにしている。
「卑屈になるな。謙虚になれ」 と。
