A MAN IN SUSTAINABLE SOCIETY -40ページ目

「不倫は本能」

衝撃的なタイトルにしてしまった。

衝動的に。


「不倫は文化だ」と言った芸能人がいたけれど、

まあ、それも意外と間違っていないのかなと、

最近は思ったりする。


不倫っていかにも悪そうな単語だけど、

似たような行為が、一夫多妻制の国では、

普通に受け止められているのでは?


そもそも、動物って、

繁殖期ごとに違う相手と繁殖行為を行うのでは?

(生物学には詳しくないので、真実をご存知ならお教えいただきたい。)


そう考えると、

人間の本能に、種の保存の為に、

色んな相手と繁殖行為を行うという、

リスクヘッジ的な部分が埋め込まれていても、

何らおかしくはない。


一夫多妻制の国では、

そういう行為をフツーと受け止めるフィルターがあるのだろうし、

一夫一妻制の国では、

そういう行為をタブーと受け止めるフィルターがあるのだろう。


とすれば、「不倫」という考え方は、

一夫一妻制の国の文化なのかもしれない。

そういう文化だからこそ、

「不倫」というカテゴリーが生み出されたのだ。


と考えれば、

「不倫は文化だ。」とも言える。



ただ根本的に、某芸能人と異なるのは、

その「不倫」に対して肯定的なのか、否定的なのか、である。


自分の考える文化は、

「不倫」という言葉を、悪い意味で捉える文化。


彼の考える文化は、

「不倫」という言葉を、悪くない意味で捉える文化。


おそらく、日本の(文化と言えるかは分からないが、)社会は、

前者であろう。



人間は社会的な動物。社会がなければ生きていけない。

本能だからと言って、肯定することはできない。

必要不可欠な社会を維持していく為には、

社会の維持を支えるルールを守っていかなくてはならない。

人間は生まれながらにしてその義務を負っているとも言える。


昨今起こっている様々な事件の話を聞くと、

どうも本能の赴くままに事を起こしてしまっている人間が多い。

そこに至るまでに受けてきた教育において、

本能と理性のバランスを取り、社会に適応していく術を、

学びきれていない感も受ける。



ただ、人にもよるが、

社会と本能のあまりの乖離に耐え切れなかった、

ということも考えられる。


社会が一人歩きし、本能を抑えることだけが善とされる。

そんな社会になってきているような気もする。


結婚するまでは貞操を守れと言うけれど、

昔の人って、女性とかだったら、10歳そこそこで結婚したりして、

今からすると、凄く若く思える時期に子どもを産んでいたりしていた。


しかも現代はどんどん情報が氾濫し、

本能を掻き立てるような情報を氾濫している。


ただひたすら本能をおさえろ、というのは実は酷なことで、

動物ではなくなれ、と言われているようなもの。

人は社会的な動物なのかもしれないが、

動物であることからは離れられない。


理性と本能のバランスをとることのできる社会こそが、

理想的な社会だと思う。



自分が10代の頃はこんなこと全く考えなかったけど、

今だからこそ、伝えたい。


社会は君達の力でいかようにも変えられる。

しかし、変える為には、あることが必要不可欠。

それは今の社会に順応し、社会に貢献し、

社会に属する他の人間達に認められること。

だから、君達は今勉強している。


社会に不信感を抱いている子ども達とその不信感を共有し、

共に変えていこうと訴えかけるくらいの、

熱い教師がいたらいいなと思ったりする。


社会に貢献する術はいくらでもある。

ボランティアなんかは典型的な例だろう。

でも、子ども達はあまり知らない。

だから、どんどん体験させてあげたい。


自分がサークルにいた頃に、

そういう活動を子ども達に開いてあげられなかったことは、

とても大きな心残りであったりする。



社会は変えられると皆に思ってもらう。

社会を変えようと皆に思ってもらう。

そういう希望に満ちた教育を実現できたら、

きっと社会は持続可能なものになるだろう。

アンタッチャブルさが生み出すもの

人間は同じ種である人間を殺す。

人間は他の種の動物も殺す。

人間は生きる為に不可欠であるはずの地球を壊す。


人間が本当に合理的なら、

とっくのとうに、人間は自ら滅亡の道を選んでいるはず。


人間なんて、決して100%合理的にはなれない。



でも実は、不合理・遠回りと思えるような事が、

全体最適に繋がっているような気がしないでもない。


日本人が昔から「趣深い」などと言ってきたものは、

ある種、全体最適の為には必要なアンタッチャブルさを、

言葉で概念化していたのではないか?

そうすることで、触れるべきでないものを、

触れられないままそっとしてきたのではないか?


日本の天皇家はまさにそういうもののような気がする。

現代のように平等を良しとする社会においては、

決して100%合理的な存在ではない。


もちろん、戦後に連合国が、統治の便宜上残したという歴史はあるが、

未だに続いている必要は無い。

これから天皇家が解体されてもおかしくない世の中だと思う。

しかし、決してそんな傾向は見えない。


それはなぜか?

常に「お上」意識が心の片隅にあることで、

愛国心、謙虚さ・・・様々なものを生み出せるからかもしれない。

(そういう意味では、合理性があるとも言えるが、決して100%ではない。)



本当にアンタッチャブルなものはそうそう存在しない。

漫才コンビのアンタッチャブルもそう。決してアンタッチャブルではない。


作られたアンタッチャブルさは世の中に蔓延している。

それが今の世の中にとって本当に必要なのかどうか、

常に確認しなければならないのは確かだ。


しかし、既に存在するアンタッチャブルさは、

有用性があるからこそ生み出されたはずだ。

その有用性を見逃すことがあってはならない。


人間そのものが100%合理的な存在ではないのだから、

全てのものが合理的である必要は無い。

アンタッチャブルさは深遠さを生み出し、

深遠さは人々の心に謙虚さを生み出す。



自分は、天皇家はもはや日本の文化であると思うし、

天皇家が無くなるというのは、

日本を支えている1つのアンタッチャブルさの喪失だと思う。


日本がある限り、天皇家はあって欲しい。

ただ、その威厳が全くなくなるのでは意味がない。

イギリス王室みたいなスキャンダルまみれでは、

アンタッチャブルたりえず、意味が無い。


なので、最近よく報道される、天皇家関連の噂話は、

日本という国の将来にとっては良くない気がする。

日本の存続も1つの選択肢に過ぎないと考えているなら良いが、

そういう訳でもなさそうだ。



必要なアンタッチャブルさを破壊しようとし、

必要でないアンタッチャブルさを破壊しない。

これが現代の世の中、特にマスコミ関連はそういう風に見える。



人間が生きていく為には、ある程度の体制の維持は必要で、

体制の維持の為には、ある種のアンタッチャブルさは必要だと思う。


必要なアンタッチャブルさを維持し、

必要でないアンタッチャブルさを破壊する。

この姿勢が必要だと思う。

国や社会全体に限らず、会社などの組織でもそう。


その為には、常に周りのものに対して、

疑念と敬意を払うこと。


それが必要とされているのだと思う。



ただ。自分も含め人間は100%合理的にはなれない。

上に書いたような考え方を100%出来るか?と言われると、

出来ないのかもしれないと答えるだろう。


でも、最初から出来ないと思えば、全く前に進めないが、

少しでも近づこうと思えば、何も思わない時より前に進めるだろう。


自分の合理性の無さを嘆く暇があったら、

その現状を認識した上で、前に進もうとすべきだよな、自分。

そう肝に銘じて、歩んでいこうよ、自分。

「幸せ」の共有の難しさ

自分の幸せはもちろん良い。

他人の幸せは自分も幸せな気分になれるので良い。

幸せって良いことだらけだな…



果たしてそうか?


自分が、自分の周りの人間が「幸せ」を得ることで、

「不幸せ」を得ている人間がいないだろうか?



例えば。

ある人が交通事故に遭い、怪我をした。

その人は痛みを感じ、不幸せに思える。

その親や子、周りの人も、不幸せな気分になる。


では、その事故で「幸せ」を得ている人はいないだろうか?


その交通事故で車が壊れた人は車を買い換える。

すると、自動車会社は儲かる。

その金のおかげで飯を食べられる。

「幸せ」が生み出されているとも言える。



どんな幸せにも裏に不幸せがある可能性はある。

どんな不幸せにも裏に幸せがある可能性はある。

幸せと不幸せのゼロサム・ゲームとも言える状態が、

自分が幸せや不幸せを感じる度に、

生じているのかもしれない。



「幸せ」を生み出すというのは、

ゼロから作り出すというよりは、

自分や他の人が感じている「幸せ」を、

分けてあげるようなものなのかもしれない。



だが、その分ける作業がとても難しい。


まず、精神的な壁がある。

自分が本当に幸せを感じている時に、

その内の10%でも良いから分けてあげようなんてなかなか思えない。


あるいは、物理的な壁もある。

相手に幸せを分ける作業自体が分かりにくい。



でも、その壁を乗り越える為にトライしなくてはならない。

一部分に幸せの皺寄せがいっているような状態では、

社会は持続可能たりえない。

必ず崩壊につながる。それは歴史が証明している。


ある人の幸せ度は100%だが、別の人の幸せ度は20%、という社会ではなく、

みんなの幸せ度が80%の社会こそが、理想的な社会ではないだろうか?

とても、ゲーム理論的な結論のような気もする。


そう考えると、

「まず自分の周りの人を幸せにしたい」という願望は、

方法を間違えると、

自分の周りの人は100%、でも自分の周りにいない人は20%、

という状況を作りかねない。そういう危険性も考えられる。


「全員を幸せにしたい」

そう考えているのなら、

まず「自分の周りの人を幸せに」する以外の方法にも、

目を向けておく必要があるのかもしれない。



自分が幸せを感じている時。

自分が他の人の幸せを生み出していると感じられる時。

そういう時こそ、

他の場所での不幸せを生み出してしまったのではないか?

と考える余裕を持てる人間になりたい。