「不倫は本能」
衝撃的なタイトルにしてしまった。
衝動的に。
「不倫は文化だ」と言った芸能人がいたけれど、
まあ、それも意外と間違っていないのかなと、
最近は思ったりする。
不倫っていかにも悪そうな単語だけど、
似たような行為が、一夫多妻制の国では、
普通に受け止められているのでは?
そもそも、動物って、
繁殖期ごとに違う相手と繁殖行為を行うのでは?
(生物学には詳しくないので、真実をご存知ならお教えいただきたい。)
そう考えると、
人間の本能に、種の保存の為に、
色んな相手と繁殖行為を行うという、
リスクヘッジ的な部分が埋め込まれていても、
何らおかしくはない。
一夫多妻制の国では、
そういう行為をフツーと受け止めるフィルターがあるのだろうし、
一夫一妻制の国では、
そういう行為をタブーと受け止めるフィルターがあるのだろう。
とすれば、「不倫」という考え方は、
一夫一妻制の国の文化なのかもしれない。
そういう文化だからこそ、
「不倫」というカテゴリーが生み出されたのだ。
と考えれば、
「不倫は文化だ。」とも言える。
ただ根本的に、某芸能人と異なるのは、
その「不倫」に対して肯定的なのか、否定的なのか、である。
自分の考える文化は、
「不倫」という言葉を、悪い意味で捉える文化。
彼の考える文化は、
「不倫」という言葉を、悪くない意味で捉える文化。
おそらく、日本の(文化と言えるかは分からないが、)社会は、
前者であろう。
人間は社会的な動物。社会がなければ生きていけない。
本能だからと言って、肯定することはできない。
必要不可欠な社会を維持していく為には、
社会の維持を支えるルールを守っていかなくてはならない。
人間は生まれながらにしてその義務を負っているとも言える。
昨今起こっている様々な事件の話を聞くと、
どうも本能の赴くままに事を起こしてしまっている人間が多い。
そこに至るまでに受けてきた教育において、
本能と理性のバランスを取り、社会に適応していく術を、
学びきれていない感も受ける。
ただ、人にもよるが、
社会と本能のあまりの乖離に耐え切れなかった、
ということも考えられる。
社会が一人歩きし、本能を抑えることだけが善とされる。
そんな社会になってきているような気もする。
結婚するまでは貞操を守れと言うけれど、
昔の人って、女性とかだったら、10歳そこそこで結婚したりして、
今からすると、凄く若く思える時期に子どもを産んでいたりしていた。
しかも現代はどんどん情報が氾濫し、
本能を掻き立てるような情報を氾濫している。
ただひたすら本能をおさえろ、というのは実は酷なことで、
動物ではなくなれ、と言われているようなもの。
人は社会的な動物なのかもしれないが、
動物であることからは離れられない。
理性と本能のバランスをとることのできる社会こそが、
理想的な社会だと思う。
自分が10代の頃はこんなこと全く考えなかったけど、
今だからこそ、伝えたい。
「社会は君達の力でいかようにも変えられる。
しかし、変える為には、あることが必要不可欠。
それは今の社会に順応し、社会に貢献し、
社会に属する他の人間達に認められること。
だから、君達は今勉強している。」
社会に不信感を抱いている子ども達とその不信感を共有し、
共に変えていこうと訴えかけるくらいの、
熱い教師がいたらいいなと思ったりする。
社会に貢献する術はいくらでもある。
ボランティアなんかは典型的な例だろう。
でも、子ども達はあまり知らない。
だから、どんどん体験させてあげたい。
自分がサークルにいた頃に、
そういう活動を子ども達に開いてあげられなかったことは、
とても大きな心残りであったりする。
社会は変えられると皆に思ってもらう。
社会を変えようと皆に思ってもらう。
そういう希望に満ちた教育を実現できたら、
きっと社会は持続可能なものになるだろう。
アンタッチャブルさが生み出すもの
人間は同じ種である人間を殺す。
人間は他の種の動物も殺す。
人間は生きる為に不可欠であるはずの地球を壊す。
人間が本当に合理的なら、
とっくのとうに、人間は自ら滅亡の道を選んでいるはず。
人間なんて、決して100%合理的にはなれない。
でも実は、不合理・遠回りと思えるような事が、
全体最適に繋がっているような気がしないでもない。
日本人が昔から「趣深い」などと言ってきたものは、
ある種、全体最適の為には必要なアンタッチャブルさを、
言葉で概念化していたのではないか?
そうすることで、触れるべきでないものを、
触れられないままそっとしてきたのではないか?
日本の天皇家はまさにそういうもののような気がする。
現代のように平等を良しとする社会においては、
決して100%合理的な存在ではない。
もちろん、戦後に連合国が、統治の便宜上残したという歴史はあるが、
未だに続いている必要は無い。
これから天皇家が解体されてもおかしくない世の中だと思う。
しかし、決してそんな傾向は見えない。
それはなぜか?
常に「お上」意識が心の片隅にあることで、
愛国心、謙虚さ・・・様々なものを生み出せるからかもしれない。
(そういう意味では、合理性があるとも言えるが、決して100%ではない。)
本当にアンタッチャブルなものはそうそう存在しない。
漫才コンビのアンタッチャブルもそう。決してアンタッチャブルではない。
作られたアンタッチャブルさは世の中に蔓延している。
それが今の世の中にとって本当に必要なのかどうか、
常に確認しなければならないのは確かだ。
しかし、既に存在するアンタッチャブルさは、
有用性があるからこそ生み出されたはずだ。
その有用性を見逃すことがあってはならない。
人間そのものが100%合理的な存在ではないのだから、
全てのものが合理的である必要は無い。
アンタッチャブルさは深遠さを生み出し、
深遠さは人々の心に謙虚さを生み出す。
自分は、天皇家はもはや日本の文化であると思うし、
天皇家が無くなるというのは、
日本を支えている1つのアンタッチャブルさの喪失だと思う。
日本がある限り、天皇家はあって欲しい。
ただ、その威厳が全くなくなるのでは意味がない。
イギリス王室みたいなスキャンダルまみれでは、
アンタッチャブルたりえず、意味が無い。
なので、最近よく報道される、天皇家関連の噂話は、
日本という国の将来にとっては良くない気がする。
日本の存続も1つの選択肢に過ぎないと考えているなら良いが、
そういう訳でもなさそうだ。
必要なアンタッチャブルさを破壊しようとし、
必要でないアンタッチャブルさを破壊しない。
これが現代の世の中、特にマスコミ関連はそういう風に見える。
人間が生きていく為には、ある程度の体制の維持は必要で、
体制の維持の為には、ある種のアンタッチャブルさは必要だと思う。
必要なアンタッチャブルさを維持し、
必要でないアンタッチャブルさを破壊する。
この姿勢が必要だと思う。
国や社会全体に限らず、会社などの組織でもそう。
その為には、常に周りのものに対して、
疑念と敬意を払うこと。
それが必要とされているのだと思う。
ただ。自分も含め人間は100%合理的にはなれない。
上に書いたような考え方を100%出来るか?と言われると、
出来ないのかもしれないと答えるだろう。
でも、最初から出来ないと思えば、全く前に進めないが、
少しでも近づこうと思えば、何も思わない時より前に進めるだろう。
自分の合理性の無さを嘆く暇があったら、
その現状を認識した上で、前に進もうとすべきだよな、自分。
そう肝に銘じて、歩んでいこうよ、自分。
「幸せ」の共有の難しさ
自分の幸せはもちろん良い。
他人の幸せは自分も幸せな気分になれるので良い。
幸せって良いことだらけだな…
果たしてそうか?
自分が、自分の周りの人間が「幸せ」を得ることで、
「不幸せ」を得ている人間がいないだろうか?
例えば。
ある人が交通事故に遭い、怪我をした。
その人は痛みを感じ、不幸せに思える。
その親や子、周りの人も、不幸せな気分になる。
では、その事故で「幸せ」を得ている人はいないだろうか?
その交通事故で車が壊れた人は車を買い換える。
すると、自動車会社は儲かる。
その金のおかげで飯を食べられる。
「幸せ」が生み出されているとも言える。
どんな幸せにも裏に不幸せがある可能性はある。
どんな不幸せにも裏に幸せがある可能性はある。
幸せと不幸せのゼロサム・ゲームとも言える状態が、
自分が幸せや不幸せを感じる度に、
生じているのかもしれない。
「幸せ」を生み出すというのは、
ゼロから作り出すというよりは、
自分や他の人が感じている「幸せ」を、
分けてあげるようなものなのかもしれない。
だが、その分ける作業がとても難しい。
まず、精神的な壁がある。
自分が本当に幸せを感じている時に、
その内の10%でも良いから分けてあげようなんてなかなか思えない。
あるいは、物理的な壁もある。
相手に幸せを分ける作業自体が分かりにくい。
でも、その壁を乗り越える為にトライしなくてはならない。
一部分に幸せの皺寄せがいっているような状態では、
社会は持続可能たりえない。
必ず崩壊につながる。それは歴史が証明している。
ある人の幸せ度は100%だが、別の人の幸せ度は20%、という社会ではなく、
みんなの幸せ度が80%の社会こそが、理想的な社会ではないだろうか?
とても、ゲーム理論的な結論のような気もする。
そう考えると、
「まず自分の周りの人を幸せにしたい」という願望は、
方法を間違えると、
自分の周りの人は100%、でも自分の周りにいない人は20%、
という状況を作りかねない。そういう危険性も考えられる。
「全員を幸せにしたい」
そう考えているのなら、
まず「自分の周りの人を幸せに」する以外の方法にも、
目を向けておく必要があるのかもしれない。
自分が幸せを感じている時。
自分が他の人の幸せを生み出していると感じられる時。
そういう時こそ、
他の場所での不幸せを生み出してしまったのではないか?
と考える余裕を持てる人間になりたい。