大久保利通暗殺
大久保利通は一人で明治の日本を牽引したが…
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大久保利通の幼い頃、父はお家騒動に連座して島送りにされ、飯時になると黙って西郷家の食卓に座して、飯を食っていたという。
西郷隆盛は成人後も郷中の若者の指導者として推される『陽』の人物像だが、無口な大久保利通の『陰』の性格は誤解されやすく、常に太陽である西郷隆盛の影的な存在であった。
幕府を倒し新政府を樹立するという、共通の大目的に邁進している時には、
この陰と陽がうまくかみ合っていたが、新政府の将来の方向を見据えた時には二人の方向は違っていた。
大久保利通は日本の置かれた現実を打破し、欧米列強に追いつく為には自己を捨ててかかり、実質的に明治の新政府は大久保利通一人で切り盛りした。大久保利通と不仲の木戸孝允は、長州に帰郷した奇兵隊が暴発すると処分を断行したが、西郷隆盛は薩摩を捨てきれず、不平士族を翼下に取り込んだように、公人と私人の区別が無く、大久保利通を顕官を貧る長州人の同類と判断した。
私人の大久保利通は家族を愛する人であったとされるが、公人の大久保利通は実務に徹して冷徹に対処する為、多くの敵を作っていた。
禄から解き放たれた全国の士族の不満は、大久保利通一人に集中しても、将来の日本像を見据える大久保利通は、薩摩人に珍しい忍耐力で耐えたに違いない。海音寺潮五郎の小説では、事件当日の馬車の中で、大久保利通はかつて西郷隆盛から貰った手紙を読んでいる時に襲われるという人情味を描いている。大久保利通亡き後の官界は長州藩閥が制し、現在のわれわれが直面する、金まみれの政府の下地を作ったのである。


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伊藤博文暗殺
安重根の単独犯とするには無理がある…
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日本は日露戦争にロシア艦隊を壊滅させて勝利したが、世界一のロシア陸軍は健在で、日本政府も軍部もロシアの報復を恐れていた。そうした明治42年(1909年)10月26日、伊藤博文は満州のハルビン駅頭で狙撃された。
伊藤博文は賜暇を得ての私的な旅行とされたが、ロシア蔵相ココフツォフと満州•韓国問題の非公式交渉が目的地であったことは明らかで、伊藤博文の乗った列車が午前9時にハルビン駅に着くと、貴賓車にココフツォフ蔵相が訪問し、予定に無いロシア儀仗兵の閲兵を願い出た。
伊藤博文は儀仗兵を閲兵し、各国領事らと交歓して数歩進んだ時に狙撃された。三発が命中して30分後に死亡し、随員の森秘書官、田中満鉄総裁、川上総領事も重傷を負っている。
この時、伊藤博文の直後にいた貴族院議員室田義文は、現場の状況の重要な証言を残している。
伊藤博文の受けた銃弾は、フランス騎馬銃のもので、一発は右肩から入り胸部乳下にとどまり、一発は右腕関節を抜け、臍を縫って臍下に止まり、もう一発は臍の右を縫い腹の皮を切って外部にそれていた。明らかに上から撃っており、駅の二階食堂から狙撃したものと思われる。
室田は犯人とされる安重根が、ピストルを構えて室田を狙っているのを見ており、オーバーなどに数発被弾して左手小指にかすり傷を負った。安重根のブローニング七連発に弾丸が一発残り、一人の犯行とするには無理があるのだ。
日本政府はこの事件を闇に葬る方針に決定したのか、調査も鑑定も満足にしていない。安重根とロシアの関係は明らかにされず不明である。



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浅沼稲次郎暗殺
市民も学生も右翼も、日本の将来を考えた。
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昭和20年(1945年)、日本は惨めな敗戦を迎えて、アメリカに占領された。進駐軍の豊富な物資と文化に触れた日本人はアメリカに憧れ、連合軍総司令官マッカーサーは、日本を軍備を持たない国にする方針を持っていた。
だが、北朝鮮が韓国に攻勢を仕掛け、朝鮮戦争が勃発すると、アメリカは日本を共産主義の防波堤とするため日本に再軍備を求め、自衛隊の前身である掲載予備隊を結成させた。
日本の独立ねためのサンフランシスコ平和条約は、日米安全保障条約と対になっており、昭和26年に締結し、日本は独立を得た。
日米安全保障条約は10年後に再締結されるため、昭和34年(1959年)から60年安全保障反対闘争は盛り上がり、翌年5月20日、自民とはついに衆議院に警官隊を導入し、単独で新安保条約を強行採決したのである。
当時、共産主義は理想郷建設を謳い、在日朝鮮人の人達も続々と北朝鮮に帰った。安保反対で国会へ突入した全学連ね学生達に共産主義に憧れる者は少なく無く、
警官隊との衝突で東大生 樺美智子(かんばみちこ)が死亡し、市民も参加してデモは30万に膨れ右翼団体が望外した。社会党委員長浅沼稲次郎暗殺の時代背景はこうだった。
最近の報道では、当時の首相岸信介は、毎年アメリカから大金を支援されていた事が判明し、岸を理想の祖父とする安倍晋三は、首相でありながら無責任にも政権を投げ出した。
当時、国民は真剣に日本の将来を考えた。いまや、共産主義の理想郷など信じる者は無く、靖国もんだなど戦後の後始末の悪さがのこった。


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摂政の宮暗殺未遂
生き地獄のような社会背景が犯行を促した

少し前まで、学生運動を経験した人達を主として、皇族嫌いの人は多かった。天皇を頂点とする皇族は、労働もしないで、何を以って極上の生活を保障されているのか?差別の根元の貴種など不要という怒りだったように思う。

ロシアで興った共産思想が、大正時代に日本に入ってきたが、その革命をわかり易くする為、絶対権力を持ったロシア皇帝を封建大名や天皇になぞらえ、虐げられたロシアの農奴を日本の農民に例をとって説明している。

戦前の帝国憲法下でも、天皇に国家を動かす権力は無く、天皇を輔弼する軍部の、特に参謀本部が組織の都合だけで独走し、天皇の名で命令していたと言うことは、現在では常識だ。

天皇の側近くに仕える者が、大きな権力を行使するには、天皇の権威を高める必要があり、教育勅語を奉読し間違えただけで自殺を遂げた小学校校長があったほど、天皇の権威を異常に拡大させていた。また貧しい生活の者は、社会に不満を持つのは当然で、社会主義・アナーキズムに走るのもあり得る事である。

病弱な大正天皇に代わって、皇太子裕仁親王が摂政となっていたが、第一次世界大戦後の不況の時代で、都会の労働者が郷里に帰るにも、交通費が無く歩いて帰ったとされ、その上関東大震災に見舞われ、警察権力はこれを機に不満分子を抹殺しようとした。こうした生き地獄ねような時代に『虎ノ門事件』は起こっている。

犯人の難波大助に、大した考えがあったように思えず、政治家が社会を明るくさせる為の政治をしなかった事が問題なのであろう!

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昭和34年(1959ねん)、東急グループ総帥の五島慶太が波乱万丈の人生を終えた。西武グループ総帥の堤康次郎は、その五島慶太の死にこう述べたと言う。
『あんな悪人が死んで、世の中にこんな明るい事はない』
2人は一代でくにをも動かす巨万のと躬を築いたが、ともに交通•百貨店•不動産を主な事業とし、
年齢が近く、地方出身であり、さらには五島慶太は東大、堤康次郎は早大と互いの学閥も手伝って、激しい敵愾心を剥き出して覇を争った。



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昭和33年(1958年)、横井は暴力的な乗っ取りや借金の踏み倒しを重ね、四方八方から恨みを買っており、ついにはこの年、安藤組の組員に狙撃される。なんとか一命は取り留めたが、弾丸は体内から摘出できずに残ったままになってしまった。横井はこの弾丸をさして、後年、買収したホテルニュージャパンの従業を前にこう言った。
『俺はお前らよりタマが一つ多い』






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昭和53年(1978年)に山口組三代目の田岡一雄は、抗争中だった組織の幹部に京都で狙撃された。銃弾は田岡の頸動脈近くを貫通し、後1センチ深く食い込んでいたら即死していた。だが田岡は平然とした顔つきで、自分を殺そうとした人間に命の取り方をこう教えた。
『わしを狙うなんてえらいやっちゃなあ。しかしなあ、自分が助かる気で撃つから失敗するんや。自分が死ぬ気で、もっと近くへ寄って、もっと狙って撃つべきやった』

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昭和12年(1937年)に稲川角二(聖城)は、同じ組の対立関係にあった勢力に闇討ちされ瀕死の重傷を負った。これは、その時稲川の兄貴分の横山新次郎が、入院中の稲川に送った言葉である。
『強いものに油断はあっても、弱いものに油断はない』
以後、稲川は何度もこの言葉を胸の中で繰り返し、自分を戒めた。


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昭和33年(1958年)、日米安全保障条約の改定を進める岸信介首相は、内閣記者団との会見で、盛り上がる『安保反対運動』を指してこう言った。
『私は国民の¨声なき声¨に耳を傾けている』
¨声なき声¨とは、条約の改定に反対の声を上げる国民の一方で、声は上げないが改定を支持している国民の無言の声のことである。

因みに弟は『佐藤栄作』、娘婿は『安倍晋太郎』、孫は『安倍晋三』である。



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昭和39年(1964年)、田中角栄蔵相に頼まれ、70億円の負債を抱える日本電研を引き受けた国際興業社主の小佐野賢治は、赤坂の山王ホテルに労働組合の幹部を集めた際、ふいにこう一言発した。
『俺には品とか、道徳とか、社会的善悪とか、一切関係者ねぇ』
労組幹部一同はそね迫力に押された。



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