浅沼稲次郎暗殺
市民も学生も右翼も、日本の将来を考えた。
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昭和20年(1945年)、日本は惨めな敗戦を迎えて、アメリカに占領された。進駐軍の豊富な物資と文化に触れた日本人はアメリカに憧れ、連合軍総司令官マッカーサーは、日本を軍備を持たない国にする方針を持っていた。
だが、北朝鮮が韓国に攻勢を仕掛け、朝鮮戦争が勃発すると、アメリカは日本を共産主義の防波堤とするため日本に再軍備を求め、自衛隊の前身である掲載予備隊を結成させた。
日本の独立ねためのサンフランシスコ平和条約は、日米安全保障条約と対になっており、昭和26年に締結し、日本は独立を得た。
日米安全保障条約は10年後に再締結されるため、昭和34年(1959年)から60年安全保障反対闘争は盛り上がり、翌年5月20日、自民とはついに衆議院に警官隊を導入し、単独で新安保条約を強行採決したのである。
当時、共産主義は理想郷建設を謳い、在日朝鮮人の人達も続々と北朝鮮に帰った。安保反対で国会へ突入した全学連ね学生達に共産主義に憧れる者は少なく無く、
警官隊との衝突で東大生 樺美智子(かんばみちこ)が死亡し、市民も参加してデモは30万に膨れ右翼団体が望外した。社会党委員長浅沼稲次郎暗殺の時代背景はこうだった。
最近の報道では、当時の首相岸信介は、毎年アメリカから大金を支援されていた事が判明し、岸を理想の祖父とする安倍晋三は、首相でありながら無責任にも政権を投げ出した。
当時、国民は真剣に日本の将来を考えた。いまや、共産主義の理想郷など信じる者は無く、靖国もんだなど戦後の後始末の悪さがのこった。


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