吉村広野のブログ -74ページ目

アメブロに引越し 4

2008624
『演劇をやる理由』
こういうことを公表するのはどんなもんだろうと逡巡したけれど、自分に発破をかけるために書きます。

 稽古を重ねて、どうしても成立させられない3行程のセリフがある。
だんだんはっきりしてきた事は、それを相手にちゃんと言えないのは、相手との距離をなくすというか、相手の中に突進していかないと成立しないセリフだからだ。
 相手とある距離をもった対話は、常にある程度成立させられるようになった。

 そのセリフを言おうとすると、体にブレーキがかかる。そこを怒鳴ったり叫んだり力ずくで押して押して押し切ろうとしてきたけれど、どうしても相手に届かない。昨日ははっきりと胸がつかえて、吐きはしないがものすごくえずいた。
 
 いつの頃からなのか、胸に閉じたままの重い扉が存在している。どうやらそれを、開けるよりほかないようだ。
 どうしてそんなものがあるのか、原因はわからない。わからないけれどおそらく、かつて生きていくために閉ざさなければならなかった扉だろう。

 冷静で落ち着いていて少し引っ込み思案ぎみな女で生きていってもいいじゃないかと現状の自分を肯定したがる自分がいる。一方で、その扉を突破しようとしないなら演劇なんか今すぐやめちまえ!と思う自分がいる。

 16歳から演劇をやめようと思った事が一度もない。わけのわからない欲求に動かされてきただけだけれど、説明を試みるなら自己変革的なことを望んでいなかったといえばうそになる。
 
 そして、今世の中に沢山いる愛する者を誰かに殺された人がこの芝居観に来たとして、その3行のセリフ納得させられなかったら、帰りに石を投げつけられてもしょうがないと思う。例えばそういう人の思いの代弁者になることが、俳優の仕事だと思う。
 お客さんの大部分あるいは全員そんな体験は持ってないかもしれない。しかし他の人はどうなのか知らないけれど自分は、テレビで例えば戦争体験を語る人、夫を強盗に殺された人のドキュメンタリーをやっていたら見る。胸を打たれて。それにどんな意味があるかないかわからなくても。
 
 自分が劇場に足を運んで腹が立つのは、やってる人のやってる理由がわからない時だ。数年前に見た戦争が題材の芝居、あまりに関わっている人全員の覚悟が甘くて、腹が立って仕方なかった。私は戦争を体験してないにも関わらず。
 という体験を翻してお前はどうなのよと自分に問う。


時間はあと17日ある。
胸の閉まった重い扉に気付いている事そのものが手掛かりになる。
舞台の上で死ぬのはあまりに迷惑なのでやりたくないが、楽日の翌日死んでいても悔いがないように生きたい。

アメブロに引越し 3

2008531
『演出からのだめ出し』

昨日の稽古で、例えばこんなだめ出し。

「四国だろうが九州だろうが」というセリフで「四国が近い!」という演出からの指摘をうける。ここだけで昨日何回言ったのだろう。
セリフ中の「ここ」「私」「あなた」などの言葉がちゃんとそれらのものを指し示していると、おのずと成立してくるものがある。この場合、「四国」という言葉に必要な距離感、遠さがちゃんと言い表されていることは、私が演じている女性の尋常でない思いの丈を表現するのに必要なのだ。その後の「地の果て」という言葉を成立させるためのジャンプ台としても。
 一言一句全部強く言ったらどれも強調されないから、流して言うセリフ、ためて言うセリフ、ボソッと言った方が効果的なセリフなどなど、一番そのシーンでその人が何をやっているのか伝わる方法を稽古で探していく。必要に応じてところどころ、息を吸う所止める所が決まってきたりする。
台本は、覚えることを目的に読まない。そういう方法に対する作戦を立てるためと、この人はこのシーンで何してるのか、どうしてそう言うのか、どんな思いで相手の言葉を聞いているか、読み込むために読む。そのうち自然に覚える。

 稽古の後、帰り道で自転車で後ろを走っていた演出から「さっきの『コノヤロウ!』ちゃんと言えてなかったよ」とだめ出しされる。

(演出と途中まで帰り道が一緒の役者の皆さん、どうされてますか?)

その「コノヤロウ!」は、稽古中に増えて台本に書き込んだセリフなんだけれど、漢字で「この野郎!」と書いといた方が、自分にとっては意識を明確にして相手に言えるかもしれない。流すべきじゃないのに流れてしまっている。
次はちゃんと相手の顔をこの野郎として見て「この野郎!」と言おう。



2008515

『演技の基礎準備』

阿彌の日々の稽古の基礎訓練のことを少し。

稽古の前に体を準備します。
まず、30分位走る。息がはあはあいうのを利用して、呼吸を深くするのが目的ですが、むろん体力もつきます。
それからストレッチのようなもの。ヨガの要素が少し入っていて、体のゆがみ・こりなどを取りながら、体を日常的なものから開放してゆきます。ずっと深呼吸。息を吐ききっていっぱいに吸う。自分の体に気持ち良いか聞きながら。
それから出したい声を出します。あーとかハッとか、出して気持ちの良い声、気持ち良く声が出せるところを探していきます。
特に女性は日常的に胸で呼吸していることが多いので、湯船につかったおっさんのごとく野太いため息を意図的に何度かつきます。子宮から地面に叩きつけるような声、壁に刺さるような声なども出してみます。
体がどこかつまっていたりこっていたりすると、声がだしづらいので、声を出してつまっていることに気が付いたら、またほぐしたりゆすぶったりします。
そうして、声や体のストッパーをはずすというか、どこまででも体が動き声が出る可動域が広い状態、ハラと呼吸がつながっている状態に持っていってから、稽古に入ります。
呼吸が深くなっていると相手と向いやすく、集中力が持続しやすくなります。

以前胸に何かがずっと詰まっていた時は、肩を後ろに落として胸を開き、みぞおちから天井に吊られている様に上体を後ろにそらしてあーと言うのをやると、それだけでうぇっとなったり咳き込んだりしました。体は心です。物理的に体を変えると心の在り方も変わります。役者かどうかに関わらず、自信が持てない方は姿勢をよくすると後から自信がついてきます。参考までに。


アメブロに引越し 2

2008412
『今回の舞台について』

今回の舞台について、稽古を重ねながら漠然と感じていること。

題材は、1992年高校教諭が息子を刺殺した事件である。

自分の役だけに集中していくと全体は見えなくなっていくことがあるのだけど・・・
この舞台はお客さんの心に素手で触れてしまうのではないか。

実際に子供の家庭内暴力に苦しんでいる人が見たらどう思うのか。親に手をあげられたことのある人が見たらどう思うのか。

取り越し苦労かもしれないが、もしこの公演を観て、カウンセリングが必要なような状態になってしまうお客さんがいたら、終演後、自分の持っているだけの「聞く力」を全開にして話に耳を傾けるよりほかないと、覚悟し始めている。

3
年前同じ台本で取り組んだ仮面実験劇「Watashi Wa Inko」の時には、どんなに心を寄せよう寄せようとしても他人事だった。それから社会も自分も変化したのだろう、家庭内殺人が連日連夜起き、今は少なくとも自分と地続きのところにある題材だと思う。
そんなことはカウンセラーか精神科医かお坊さん・神父さんかに任せればいいと言う人もあるだろう。しかし、とりあえず今のところ自分は健康で、人の心に何らかの働きかけをして動かすことをしようとするのだから、身の丈でできることはしなければと思う。
演劇で社会を変えてやると言った人も60年代70年代にはいたと聞く。演劇で社会は変わらないだろう。けれども、人ひとりの心に刺さったとげ一本ぬくこと、石のようなしこりひとつどけること位、なんとかしてできないのかと、そう思っている。
神戸の少年Aの事件があった後、「自分も一皮向けばなにをするかわからない。人を傷つける前に」と言って自殺した中学生がいた。その子がどんな闇を抱えていたか知ることはできないけれども、その子に「人は心に鬼を飼うことはあるんだよ。それでもいいんだよ。その鬼が実際に外に出てしまうかどうかは、確かに紙一重なんだけれども、うまく付き合って一生外へ出さない方法ってあるんだよ」と、同じ時代に生きている芸術家の誰も伝えることができなかったのかと思うと、無念でならない。

劇場は、非日常ですようそですよという約束事の上、安全にくさいもののフタを開けて中身を出し、そっとまたフタをする為の場所である。