アメブロに引越し 1
■2008年3月30日
『好きな俳優さん』
誰かのようになりたくて演劇をはじめたのではないので、目標にしている方はいないのですが、
好きな俳優さんは、原節子さんです。
往年の美人女優ですけれど、
例えば黒澤明監督「白痴」で、早くに親を亡くし十四・五才から金持ちの愛人になった女性を演じて「私もはや怖いものなど何もございません」という風情で暖炉に札束を投げこんでも、
成瀬巳喜男監督「めし」で倦怠期の奥様を演じ「お豆腐は駅向こうのお店の方が安いんですのよ」とお隣の奥さんにお話していても、
どちらでもその女性の人生や生活観が自然と立ち上がり体現されている。なおかつ品がよく、愁いがある。
日本語って美しい、日本女性ってなんと美しいと思わせてくれる。
永遠の憧れです。
■2008年3月30日
『演技について・大根役者志願』
理想の舞台俳優の状態はどんなものかと考えると、余計な力が入っておらず、相手役の動きや言葉、お客さんの感じ、光や音の変化に敏感になっており、台本に書いてあることが一番よく伝わるようにその役・そのシーンをつとめることができる、ということではないだろうか。
アク・くせなどは無い方が良い。具体的には姿勢が悪かったら俳優はだめだと思う。絶対にどこかに無駄な力が入っているし胸で相手や客席に向うことができないから。「姿勢の悪い人」を演ずる時に曲げればいい。声が良かったり大きかったりするのも、もしその役そのシーンで不要ならばなりをひそめるべきだ。
人として尊敬する料理家・辰巳芳子さんの著書に次のような文章がある。「世に”味付け”という言葉があるが、味こそは生まれるもの、引き出すもの、組み立てるもの。つけて、つけられるものではない。」
俳優は否応無しに自分そのものが舞台の素材の一部である。持って生まれた性根・個性はもちろんあるけれども、お客様に召し上がって頂いてなんぼのものなのだから、人に賞味して頂ける程度に、あく抜き・下処理は当然しなければならない。いわしに生臭さを売りにされても困る。
にもかかわらず、プロアマ問わず日本の俳優さんは個性とかアクとかキャラクターとかを売りにしてる人が多すぎないだろうか。独特のイントネーションでしゃべる個性派または性格俳優とか言われる役者さんを見ていると、「その役を演じているその役者さん」が前面に出ていて、「その台本に書いてある人物」は後ろに追いやられてる感じがする。喜んで見る人がいるのだからそれはそれでかまわないけれども、個人的にはテレビドラマを5分以上我慢してみていられない。「何時だと思ってるの。いい加減にして!」のようなセリフを「ん何時だと思ってるの!!いひかげんにしてっっ!!!」の様に変なアクセント、つまり余計な味付けをほどこしたものを出されている気がしてならない。普通にしゃべってもらいたいのです。意味が分かりづらくなるから。
とはいえ私にもくせがあって、語尾をいい加減に投げ出すようにセリフを話してしまう。結果録音してみるとすぐ気付くけれど、セリフの内容に関わらず冷たく事務的に聞こえやすい。冷たい事務的な役をやればはまり役ということになるかもしれないが、そんなことをやりたいとは思えない。きっとすぐ飽きる。
俳優は、台本に書いてあることに自分のなにもかもを投げ出して良い、という同意をできた時、初めて仕事ができるんじゃないだろうか。無条件で同意することはたぶん凡人にはできないから、その台本にどれだけの可能性があるか、観た人にどんな影響を与えてしまう可能性があるか、可能な限り台本を解釈、推測しておき、なおかつ想定を超えたことがおきてもその結果に責任を持つ覚悟がいると思う。実は劇場にいる全ての人、観客も作家・演出家・役者・スタッフも、期待通りねらい通りのことが起きるのではなく、想像をはるかに超えた何事かが起こることを心の奥底で期待しているのではないかと思っているが、如何なものか。
集合的無意識の大海に我とわが身を浮かべたい。
下ゆでの終わった大根の如く、ほどよくアクが抜け、おでんでも鰤大根でもふろふき大根でも、向うところ敵無し料理人の腕しだい、主張しすぎないから何味の料理に使ってもよくなおかつ大根であることは必ず伝わる、というあの誠に結構な状態を目指したい。おいしい大根みたいな役者になりたい。
下ごしらえに要している時間の長さから言って、やっぱり大根か筍クラスだと思うのです、私。まだまだかかりそうですが途中で投げ出したら食えたものじゃありません。
鮮度が第一、ちぎっただけで誰にでも喜んで食べてもらえるレタスみたいな性根に生まれつかなかったことは・・・別にいいです。
アメブロに引っ越しました
アメブロにお引越ししました。今まで使っていたwindowsLiveに書いていたものを転載します。
アメブロの使い方は徐々に覚えると思いますので、よろしくお願いします。
■2008年3月30日
『みんながすなるブログというものを』
みんながすなるブログというものを、小劇場の女優兼劇場管理人兼制作もしてみようかと思って、始めます。
主に稽古日誌的なものになる予定です。自分のためにも日々稽古していることを言葉にして整理したいと思いますし、ご意見ご感想が頂ければなお嬉しいです。
演劇が好き、というような言葉をハタチ前位までは恥ずかしげも無く使っていたように思いますが、今ではもちろん恥ずかしいです。
「演劇とは何か」
「演技するって何をすることか」
といった言葉を定義しないともちろん好き嫌いは言えないわけです。
そしてこの問に対する答えは演劇をやっているひとの数だけあると思いますが、
私が所属している劇団、阿彌では、演技とは行為すること、演技者=シテ=行為する人ととらえています。
具体的に例えば「ただいま」「おかえり」というセリフがあったとします。
「ただいま」という者は帰って来たことを相手に告げ自分を受け入れてもらうこと、
「おかえり」という者は相手を受け入れることを目的に行動する、言葉を発するということをしなければなりません。
表面的には誰にでもできるあいさつですが、「おかえり」を言って相手に本当に「受け入れられた」と感じてもらうのは、実は至難の業です。現代人にとって。
声量や声質の問題ではなく、言い方や表情、しぐさの問題でもなく、目の前の相手をちゃんと受け入れる。
台本に取り組む前の基礎訓練として、また年1~2回開催しているワークショップでもたいてい1対1で向かい合って「ただいま」「おかえり」を言う、というのをやりますが、ほぼ全員できない。
これをやってから『「おかえり」って言われた感じがしましたか?』と参加者に問うとまず『あんまり・・・』と首をひねります。言った気も言われた気もしないのです。
言葉を変えて「でていけ」にしてもあまり違いはありません。
山崎哲さんが先日の演劇学校卒業公開稽古の際に話していましたが、「ここ20年本当に会話できない若者が増えた。相手の言葉を食べ物のように胃に入れて味わい、相手に言葉を返す、相手もまた味わって返す。そういうことが本当にできなくなった。普段から皆口先だけでしゃべっている」と。
まさにそういうことで、俳優でもそうじゃなくても、他者と向かい合う、対話する、コミュニケーションするということがどういうことか、私を含め今多くの人が見失っている、と思っています。
それがまさに私が演劇をやっている理由でもあって、おそらく中学生の頃からだと思いますが、自分の周りがだんだん殻で覆われていくような身体感覚があった。思ったことや感じたことを口に出来ない、人とうまく付き合えないというのは持って生まれた性質もあったと思いますが、徐々に表に表現できないのではなく、自分自身にすら自分が今嬉しいのか悲しいのか楽しいのか怒ってるのか、感じ取れなくなっていきました。自分のハラ・本心と日常生活を送っている自分とが完全に乖離している感じ。特にいじめられたわけでも心の病を発症したわけでもなく、学校にも職場にもいっていましたが、こういう自分のままでいると、死なないでいることはできても、決して幸せになることはできない感じ、正体はわからないけれど何かが胸に鬱積していく感じがあり、それが表現欲求につながっていった気がしています。
阿彌以上に他者と向き合うこと=自分と向き合うこと、に真摯に取り組んでいる劇団を今のところ知らないので、ここを自分の修練場としています。
8年程の修行の甲斐があり、先の「ただいま」「おかえり」にしてもなんとなく、言われてないこともない、位にはなって来たようです。(以前一度偶発的に「ただいま」「おかえり」がちゃんと成立したことがあり、涙が湧いてくる思いだったこともありますが。)日常でも年を重ねたことによる自然な成長ともあいまって、以前よりはるかに人と付き合うのが楽になってきました。
そういうわけで、自分のために、自分の失われた機能を回復するためのリハビリのように演劇をやっていますが、じゃあなぜそれを人に見せるのか、という問題が当然浮上してきます。
「演劇とは何か」、やり続ける以上は常にずっと問い返していかないといけないことですから、この場を使ってゆっくりじっくり書いていきたいと思います。