吉村広野のブログ -72ページ目

カミングアウト-修行の山を登る

先日の稽古ドロップアウト。とあるシーンのとあるセリフを口にすることに体が拒否反応を示す。咳き込み、嘔吐を催して逃げ出し、しばし泣く。
口にもしたくない、耳にもしたくない。

題材が宮崎勤なのはずいぶん前から知っていた。別に何か問題あるとは思ってなかった。

前回の舞台でめまいを経験しているが、今夢を使ったセラピーの本を読んでいるのだけど、内面的にその後の人生を大きく変えていくような、何か大きな気付きや変革があった場合に、一時的に体にも変調をきたす事があるという。恐らくそれだったのだ。

何が起きたのか自覚はできていなかった。何となく、以前より夜道を怖く感ずるようになったなという感じくらいはあった。

内的な地殻変動をおこした事で・・・幼少期のはっきりとしたトラウマをどうやら掘り出してしまったようだ。家族にも話せず少女期から思春期にかけ、叩き潰し押し込め重いふたをして塗り固め、決して動かないように自分を脅かす事のないように、七転八倒して封じ込めた記憶を。

そういうトラウマがあること自体は、作演出の岡村も他の劇団メンバーも知っていた。でも上演するにあたって何か問題になるとは思われていなかった。私自身も知らなかったのだ、こんなに乗り越えていないなんて。

劇団制度には良いところと悪いところがある。主宰が書いた台本を読んでから出演するとかしないとか、劇団員に決定する事はできない。今私が降りたら公演が中止になる。スタッフさん初め関係者に多大な迷惑をかける。フリーの役者だったら、出演しなければすむ話だ。

血へドを吐く思いをするかもしれないが、終演する8月30日までこの台本と題材と役に、向かい合うより他にするべき事はない。何も。
台本を読んで、参考文献を読んで、稽古する。

宮崎勤を知る地元の人が、口を揃えて「優しい子だったんですよ」と言うそうだ。何度そんなことを聞かされても、そんな事は殺された四歳の女の子達にとって何の関係もないと思う。

台本の解釈・役との距離感、何らかの了解をする事ができて演じきった時、私個人にとっても大きな課題をクリアすることになるのかもしれない。

阿彌という場が修行の山に見えている。お客様も演出家も神様じゃない。共に山を構成している一要素だ。一人で登る。
ずっと、人生は一本道で上り坂だと思っている。

『神なき夜に・・・』-現代犯罪フィールドhttp://www.h7.dion.ne.jp/~babylon/black_23.htm
という演劇祭参加作だけど、他にも犯罪被害者で参加している方、いるだろうか。私ごとき軽犯罪でこのくらい、重犯罪にあわれて生きている方の苦しみは想像を絶する。
軽とか重とか決めてあるのはおかしいとも思う。



この旅路の先に、好きな男の子供を身籠るとか、女に生まれて良かったと目の眩むような幸福感に浸るような、ネガティブな体験を完全に覆すポジティブな体験をする機会を、神様が用意しておいてくれるなら、人生ってダイナミックで不可思議で、神様ってなかなか粋なはからいをする方だと思う。(今の所この人の子供が欲しいと思ったことはない)
でも神様って、「こいつまだまだ大丈夫そうだな、もうちょっと深い谷に突き落としてみよう」と考えるやつなのかもしれない。

台本が完成しました

8月公演の台本が出来ました。

役者にとって一番最初に、自分の役も知らずに台本を読むのは、お客様に最も近い視点でホンを体験できる貴重な一回限りのチャンスなので、携帯を切りトイレに行き、状態を整えて昨日深夜に一読。


読後感を書き留めておく。


宮崎勤、らしき男の独白。佐世保小6女児同級生殺害事件の加害女児、らしき女の独白。

しかし、加害被害の関係や血の匂いはしない。
事件を掘り下げたというよりは・・・



灰色にうごめく全人類が滅亡した後の、レクイエムのようだ。

白日に鳥の声が響く。空気は澄み渡り、静かだ。



最近つれづれに、人柱という言葉が浮かぶ。
体が澄み切っていく感覚がある時がある。
(何のことはない、排便して掃除して窓を開け放って風を通し、お茶など飲んでいるとき)

生きていかれなかったら死ねばいい。
私が生きた事など記憶されなくても良い。
あとを濁すのはいやだから、さっとひと拭きしていかれたら良いのだけど。


いえ、死にたいわけではないので、ご心配なく。

アメブロに引越し 8

アメブロにお引越ししました。今まで使っていたwindowsLiveに書いていたものを転載します。

アメブロの使い方は徐々に覚えると思いますので、よろしくお願いします。




2009512
『神戸の少年Aと同居している夢』


8
月末の公演の台本が上がるのを待っている。題材宮崎勤。
待っている間に参考になりそうな文献は読んでおこうかと、神戸の少年A、酒鬼薔薇聖斗に関する本を寝る前に少し読んだところ、
神奈川の実家で彼と家族として同居している夢を見た。詳しい内容は覚えてないけど、私の部屋の押入れに布団が敷いてあり、まくると二つ年下のいとこが怯えて震えていた。


少し気をつけなければならないかもしれない。
十代前半ゆっくりと周囲から心を閉ざしていったのは、何か理由があったはず。閉ざした扉を開けるため、演劇という手段で七転八倒してきて今やっと扉が開き始めている。危険を伴うのは承知だけれど・・・演ずるとは精神の人体実験である。


2009310
『公演を終えて―再生』


無事公演終了致しました。スタッフの皆様、ご来場の皆様、たくさんたくさんもらうものがありました。有難うございました。

無事とは言ったものの、3ステージ目から、めまいに襲われている。貧血を疑って鉄分を補給したけど一向におさまらない。じっと5分以上椅子に座っているところから始まるんだけど、真っ直ぐ座れているのか心許なく、思わず、ひいお祖母ちゃん助けて下さい、両お祖父ちゃん助けて下さい、観世栄夫先生守って下さい、どうか倒れませんように公演中断させませんようにと、助けてくれそうな死者にすがる。
芝居も若干情緒に流れがちになっていたので、意図的にしっかり事実を伝えていくということを心がける。全体の場の成熟もあって、後半の舞台の方が概ね好評だったようだ。

午後の診察が始まるのを待って病院には行くつもりだけど、何となく原因ははっきりしないんじゃないかなという気がする。
共演者の村山と話したのだけど、俺達はあまりに人と向き合わずに生きて来過ぎているんだよ、今向かい合うようになって、体がそれについてきてないんじゃないかなと。そうかもしれない。
自覚している範囲ではそんなに疲労もストレスも感じていないけど、体と心の深い変動期なのは間違いなさそうだ。

休まったら、お墓参りに行こう。お礼参り。

少なくとも体で実感したことがある。魂の入った芝居でしたねと言ってくれた方があるけど、魂は、公演直前に気合いだとか入魂だとか叫んでみてもしょうがない。
例えば、劇場隅々まで掃除するということ。衣装を汚さないため足袋の裏が真っ黒にならないためだけど、そういうことが場を作り、心をいざなう。にんじん一本を大事に使うこと、セリフ一行を大切にすること、同じことだ。日常の手を動かすことが、自ずと心の修練。大切にすることが習慣にならないと、大切に思うことがどういうことかわからない。

出演者が帰った後の楽屋を見れば、大体そのカンパニーのレベルがわかる、というベテラン制作者の方のお言葉も聞いたことがある。おそろしや。



2009228
『修行僧のごとき大根役者』


以前去年の3月頃書いたことなのですが、役者は変なアクとかクセとか無い方が良いと思っています。
あると、何やってもその人だよねという風にしか見えないし、台本に書いてあることを伝えるということがおろそかになる気がするし。

私が身につけていたクセは、内容に関わらず、語尾を投げ出すことだった。私が言ってることなんか聞いても聞かなくてもどっちでもいいです、というような話し方で声も小さかった。そういう風になってしまったのが何歳位からなのか、良くわからないけど…人に何かを伝えようとする事が、私にとってはリハビリみたいな作業で、しかしそれが出来るようにならなかったら絶対に幸せになれないという確信があって、続けて来たところがあります。

練習量というのはものをいいます。丁寧に丁寧にセリフを扱うようにしていたら、本当に楽に、相手にきちんと伝えられるようになりました。語尾まで神経を行き届かせて。
料理で言ったらたくわんがつながらずに均一にスパッと切れている、書道で言ったら線のリズム・勢いを最後の止め、払いに終結させている、みたいなことでしょうか。

台本という素材を、邪魔せず必要な手立てはこうじて、つまり輪切りして桂剥きして面取りして隠し包丁入れて米の磨ぎ汁でコトコト一時間、下茹での終わった大根のごとく、さ、どうぞお好みのお味つけて召し上がって下さい、と言える役者に、どうやらやっとなれたようです。長い道のりでした。9年目にして演出が初めて、良くなったね~と誉めてくれました。

珍しい素材とか変わった取り合わせだとか高級だとかいったものが良い方は、他にいくらでもあるでしょうからどうぞそちらへ行って下さい。

うちの芝居、日常会話みたいな台本だったら小津安二郎映画みたいになるのかもしれないけど、書いてある内容や関係が尋常でないのでそうはならない。
でも、最終的にどんな味にして召し上がるかはお客様が決めることだし、またそうでなければならないと、芝居が脚本家や役者の自己表現や自己実現の手段であってはならないと、思っています。(詳しくは劇団ホームページのマニフェスト「消滅する舞台」をご参照下さいhttp://www.h7.dion.ne.jp/~babylon/ami_1.htm


明日が劇場入り前最後の稽古。疲労か貧血かめまいが二、三日続いていたけど、それでも集中できる、力の入れ所抜き所もだんだん体得してきている。稽古前に鉄分補給にあさりと小松菜の酒蒸しをモリッと頂く(あさりっていうのがまた、さっきまで生きていたものを殺して食っていることがはっきりわかる食材なんだな)稽古前に呼吸を深く体を温めるために30分くらい走るんだけど、体力がつくのは集中力を保つためにも必要なんだけど、いらないダイエット効果がある。多少疲労しても大丈夫なスタミナを維持できる体重に500g位足りないのが続いてるけどどうするか。満腹は集中力落とすし、揚げ物は特に。甘い物も同じく。こちらは疲れやすくなる作用もある。煮るか焼くかした肉の増量かな。
最終調整。補給。休息。

====== 阿彌 AMI 公演情報 =======

観世栄夫追悼公演『アミナダブ』-「死の宣告」モーリス・ブランショ より

台本・演出 岡村洋次郎
出演 村山俊介・吉村ひろの・菅原みなみ・岡村洋次郎


日時:200935日(木)2000
        6日(金)2000
        7日(土)2000
        8日(日)1500

※開場は開演の30分前。全席自由。

会場:シアター・バビロンの流れのほとりにて
(アクセス・東京メトロ南北線王子神谷駅徒歩12分)

チケット:前売2,500円 当日3,000円 ペア券4,000円(予約のみ)

予約・お問合せ 東京バビロン
TEL
 03-3927-5482
MAIL
 t.babylon@r5.dion.ne.jp
HP http://www.k5.dion.ne.jp/~ami/

TPAM東京芸術見本市2009参加公演

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2009218
『命-つれづれに再考』

公演に向けて、週5日稽古している。否が応でも、命のことを考える。
どんなに考えたって、答えが出る事柄ではないけれど。


宗教はもはや何の役にもたっていない。
来世やあの世は、個人的にはあるのかもしれないと思うけど・・・。
「お天道様に顔向けできない事しちゃいけないよ」も、
「うそつくと地獄の閻魔様に舌抜かれますよ」も、
誰も言わない。
大人達が「うそついてもばれなきゃいいんだよ、上手な言い訳ができればいいんだよ」という生き方をしている、しないと仕事して生きていけない?世の中だから。

公演が終わったら、観世栄夫先生の墓参りに皆で行こう。
対象が誰であれ、手を合わす時間は、自分と素直に向き合える。

いや、生きている人間も大事にしないとな・・・。

また、辰巳芳子さんの話。
芳子さんが子供の頃、戦時中、配給の玄米をお母様の浜子さんは、毎日石臼で挽いていたという。普通のお母さんはそのまま炊く。けれど、少しでも消化が良く栄養を余すところ無く吸収できるように、子供達が喜んで食べるようにと、石臼で粉にした玄米でパンを焼いてくれていたという。毎日。
「学校から帰ると、母が毎日石臼を挽いていた。それは、祈りの姿だったと思いますね」

祈るとは具体的なことだ。

役者には何ができるだろうか。
与えられた役、与えられたセリフを、丁寧に丁寧に言ってみる。命のことを話しているのだ。不遜なことはできないから。
少しずつ、形になってきた。



2008126
『素の自分』

人が読んで分かる文章になるかわからないけど、自分のための覚書も兼ねて書いておきます。

昨日の稽古。

死んだ姉の伝言のようなものを男に伝えるところ5行位のセリフ。
私の怠惰で妹をどの様に演じるかプランが立っていないので、ほんというと稽古のしようがない。演出もそれを承知した上で、そうは言っても稽古を止めてもなんにもならないので、一方的に相手に言うセリフなんだけど会話になるように、相手の反応を確かめながら丁寧に言っていく、むしろ言い終わった後に、無言の相手の反応を大事に聞いていくということをやっていたら、

ものすごく裸の状態で、立っていた。
そして、長い間鎧に身を包んで生きてきた私の場合、その裸の状態は、今にも泣き出しそうな叱られた子供みたいな状態である。
少し声が小さくなり、震えが混じる。

そうすると、相手にとても良く伝わる。リアルに具体的に。黙って立っている相手が揺らいでいるのが良く見える。

しかし、これは危険である。
まただ、と思う。

前回の7月公演の稽古中、3月末頃、その裸になれている状態が自分が相手と向かい合えている時なのだという捉え方をしたため、そのままの状態で相手を問い詰めていくシーンをやろうとして、挫折している。
稽古場で手足が冷たくなり、声もでない。他のシーンの稽古をしてほしいと演出に頼む。ギブアップだった。何でそんな風に追い詰められたのか自分も演出も誰もわからない。その日は稽古が中止になった。

次の日にたまたま、演劇関係者でもない初対面の人と話す機会があり、客観的に自分のやろうとしている芝居の話をできたことで、態勢を立て直せたことは本当に幸運だった。そうでなければ危なかった。真っ暗闇を手探りで進まねばならない恐怖の時間を長く過ごしたことだろう。

そういう経験が教えてくれることは、その裸の状態、何も無しで相手と向かい合うことができるのを捉まえた上で、特に私の場合は、強固な役の仮面を形成しなければならない、ということだ。

そして、それがまさに阿彌のやろうとしている演技の核心なんだと演出・岡村も言い、他のメンバーも同意していた。

岡村が30代頃いた竹内演劇研究所で起きていたのは、そういった裸の状態の人間が舞台上にゴロゴロしていたということのようだ。そうすると観客にとってはものすごく生々しい、ショッキングな舞台に立ち会わされることになったらしい。それはそれでその場の一つの成果だけれど、継続することはできないし、芝居ではなくなっていく。
直感的に岡村がその場をやめ、飛び込んだのがお能だった。一切の自己表現を禁止される厳しい型の世界。


裸の状態は、人それぞれだ。直視に耐えない人もいる。
阿彌を去っていった人々がどれだけ自覚していたかわからないけれど。


台本を読み込まねばならない。書いてあることの輪郭をくっきりと描けるように。山への登頂口がまだ見つかっていないのだ。時間は限られているのに。

透明な水を湛えた強固な器、が役者がなるべきもの。
覗き込んだお客様の心が映ればよい。役者の心は関係ない。
役と自分との距離も、近くても遠くてもどっちでも良い。


その揺らぎ震えは、怖いことでもあるだろうけど喜びに変わる可能性があると岡村が言う。それはそうだ。心が震えているのだから。


そういえばいつの間にか、着古しの鎧は着ていない・・・。



20081111
『生きていくこと死んでゆくこと』

昨日の稽古は、結局稽古しなかった。時折あるんだけれど、話をしただけ。

そして、気が付いたことがある。
自分はなぜ、今回の舞台に出演するのか。


劇団というものに詳しくない方のために説明すると、小劇場で公演されている舞台の大部分が、チケットの売上で製作費をまかなう事ができない。
赤字分は、チケットノルマや団費で、劇団員が埋め合わせている。
劇団員が、実質代表者1人の場合は、1人で埋め合わせている。
そのため、1人劇団員が増えるとか減るとかすることは、財政上の大問題なのです。
その結果、例えば本当は二人芝居がやりたいんだけれど、出演者二人だけの芝居は経済的に打てない、ということがある。無理矢理劇団員全員が出演する脚本を書くか選ぶかしなければならない。そうやっていくと、何か表現したいことがあって芝居をやっているはずなのに、公演を打ち続けることと集客数を伸ばすこと、劇団を存続させることが、いつの間にか目的になってしまうことが、よくある。


阿彌という劇団に在籍してまもなく9年。劇団員数現在4名。現状だと誰か1人欠けたら、公演が打てない。なので、次の公演の話をする時には、自動的に全員が出演することが決まっている。今回出るか出ないかとか、今回の芝居に自分の役はあるのかとか、確認する機会は、ない。

だからこそ、「自分はなぜ、今回の舞台に出演するのか。」という問いを、手放さないことにしている。考えるのをやめてしまうと、周囲の状況に自分を合わせているだけのイエスマンだ。役を金で買っているとも言える。自立した表現者ではない。

主宰・岡村洋次郎の書いた台本を最初に読んで、即座にぜひ出演したい!とかこの役がどうしてもやりたい!とか思ったことは、実は一度も無い。

なぜ、と考え続けると深刻な葛藤を生む可能性も充分あるし、答えが出ないまま舞台に立つ可能性もあるけれど、問いを無視して、お客さんからお金取るんだから頑張らなくちゃとか、何か外からの理由を持ってきてモジベーションを上げようとしないようにしている。

家庭内暴力に苦しんで、息子を殺した両親の話。
統合失調症(精神分裂病)の少年の話。
平たく言って明るい題材ではない。目を背けていたいことに目を向け続けなければならない抵抗感も、正直に言ってあった。

今回の『アミナダブ』という台本。明記していないが癌と思われる病と壮絶な戦いの末、死んだ女が一夜蘇って男と話をする。
岡村の台本の中では、異色な作品と思っていた。そして、何をどうやりたいのかは、ずっとぼんやりしていた。
しかし、昨日話していて、納得がいったことがある。

私の役は、その女を看護している妹の役なのですが、

死を受け入れること。
死んでいく人間に添い、見続けること。

この役目を務めることが、自分の中に眠っていた問いと、合ってきた。

人は必ず死ぬ。そのことに目を背けても背けなくても。人生成功したとか失敗したとか、子供を残したとか残さなかったとか、何か成し遂げたとか裏切られたとか幸せだったとか不幸だったとか、何もかも関係なく。地球も宇宙も、いつかは消滅する。
だから、人生は無意味だと、悟ると、何もかもどうでもよくなり努力しなくなり自暴自棄になり自殺したくなるかというと、どうやらそうではないらしい。

死とは何か。
命とは何か。
全人類の永遠の命題だ。

数々の死にゆく人と語り、臨終を看取っていくお医者さん・お坊さんは、死の恐怖と闘う人に添って佇み、その恐怖や苦しみを少しでも軽くしてあげることが役割だと思うんだけれど、どうなんだろう。あらゆる優れた哲学も宗教も、不必要になったわけではないのに、その役割を果たしてないんじゃないだろうか。

私もいつか死ぬ。大切な人も。今日かもしれないし、50年後かもしれない。そして、絶対にやってくるのに、それについて何も知らない。決して知る事ができない。
死ぬまでに果たして受け入れることができるだろうか。

岡村に「岡村さんにとっての幸せってなんですか」と最近ふと聞いてみた。「自分が死ぬって言う事を受け入れられたら幸せでしょうね」という答えが返ってきた。

どうして自分がこの脚本家・演出家とだけ仕事し、他の舞台に出演したいと思わずに来たのか、だんだんわかってきた。

死んでいくということをどれだけ、どのように受け入れているかが、どのようにこの役を演ずるか、ということだ。


命について、死について、愛について、学べと色々な事が私に告げているような気がする。