吉村広野のブログ -70ページ目

公演を終えて

昨日公演終了致しました。ご来場のお客様、スタッフさん、関係者の皆様、厚く御礼申しあげます。

今いつになく心身ともに疲労もなく、平静な気持ちです。終わったら焼き肉食べたい温泉行きたい岡村洋次郎なんか顔も見たくない一旦休団したいと思うかと思っていたのだが…そうでもない。

達成感はない。望んでいたことは起こらなかったと思う。かといって空しくもない。スタッフさん達の真摯な情熱に今回はとても助けられた。芝居は自分のものではない。誰のものでもない。だからこそ、一人一人がどこまでやるか責任もつか、バランスが大事。(手抜きも暴走もいけません)

打ち上げ後、帰宅してさして酔ってもいない私は、なにげなしに「かもめのジョナサン」を手に取りちょっと読む。食べることも身の安全確保も忘れ、限界を超えることに生きる意味を見いだしたジョナサンが周りから追放されたのは、十代後半の私でも理解できたが、今ならむろんもっとよくわかる。

ゴーギャンの「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処に行くのか」でしたっけ、今確かどこかで見られると思うのだけど、そういうタイトルの絵がこの世にあるなら見なければなるまい。

犯罪について考え続ける日々の中、悪いことしたやつには天罰がくだるとか地獄に落ちるとか、何か人間を越えた存在が信じられていたということは、何と救いだったことだろうと思った。子供が神隠しにあったというような言い方も、犯人を捕まえて調べあげるより、おそらく悲しみを受け止めやすい。悲しみに憎悪をプラスするのは、賢いやり方じゃないのではないかな。

しかし神は死んだものは死んだのだ。アウシュビッツで骨と皮の死体の山をブルドーザーで寄せ集めてしまった時、広島と長崎に種類の違う原子爆弾が落とされた時、人間はただの物質に成り下がっていて、今でもかわらない。

来年の東京バビロン演劇祭のテーマは戦争です。

お花やお菓子を贈ってくれた方、吉村さん他でもやったほうが良いよと発破かけてくれた方、ありがとうございます。このまま、地続きにつながっている道を、てくてく歩もうと思います。

本日初日―弔い

いよいよ今日初日の幕があく。

芝居の神様がいるのいないのという話があるが、スタッフ・役者、総力をあげてその芝居を良い方へ良い方へと押していくと、ある瞬間から作り手を離れて、誰も想定していないところまでいってしまうことがあるからだろう。

各シーンを細かく作りこんでいくので、全体を通して経験するのは本番直前の数回になるのだが、今日ふと、宮崎勤の葬儀をしているような感じがした。葬式で亡くなった人に寄せられる弔辞の数々を聞いていると、死者の人となりが改めてわかってくる時があるが、そんな感じで。

彼の死刑執行のニュースを、劇団員全員で行った彼の家近くの御岳山のみやげ物屋で、偶然観た。そこのおかみさんが彼と彼の母親をよく知っている人で…その晩、作演出の岡村が宮崎勤に『僕のこと、うまく書いてね』と肩をたたかれた気がしたところから、この公演は端を発している。


その後数々の猟奇的な不可解な事件はあったのに、彼が印象に残る犯罪者なのはなぜなのだろう。

彼の裁判を全て傍聴した某評論家の方にも招待を出したら観に来てくれるという。どんな話ができるか楽しみだ。

芝居は基本的に、静かに粛々と進んで行きます。観ようか迷っている方は、ぜひ立ち合ってみる方向でご検討を。

役者とエゴ―我を離れる

芝居の題材:宮崎勤について理解を深めようと参考文献を読み進め、結果具合が悪くなって稽古できない状態に至り、演出から「もう読まないほうがいいんじゃないの」と、いわばドクターストップがかかる。

ドクターだったら話は別だけど、これは前人未到の人体実験だから、何があっても自分で責任取れる位置に常にいなくてはいけない。

どうしても被害者側から理解しようという姿勢になる。性犯罪の裁判員裁判は、一般男性が裁判員をつとめることで被害者に心的二次被害が出るから対策を検討してほしいと訴えている市民団体があると、ちらっとニュースで見たのだけど、何犯罪でも裁判員裁判でなくても、裁判による二次被害は容易に想像できた。

被告が罪を受け入れるように、被害者や遺族の心が癒されるように、事が運んだ裁判が、果たしてどれだけあるだろう。裁判の目的は、世論だの弁護士の勝ち負けへのこだわりだの、色んな個々人の勝手な思惑がさし挟まって、おそらくしばしば見失われる。法律は人の心というぐらぐらなものの上に立っている。人が人を裁くこと自体に無理があると思う。

宮崎勤を弁護する弁護士、共感を抱いて文通したいと思う一般人、あることないこと書くマスコミその他、何度どれだけ神経を逆撫でされ心を切り裂かれねばならなかったことだろう。
 
被害者及び遺族にとって、なぜ?への答えを求める思いは切実だろう。けど、おそらくどんなに犯人への理解が進んでも・・・赦しには至らない。死刑で解決にもならない。
憎悪に人生を捧げない為に、どうすればいいのか。



私がやっているのはサイコドラマではない。だから、自分からも事実からも離れる事にする。舞台はうそだから良いのだ。仮に、シャーマンに徹することにする。今までも、そういう方向へ行こうとする気持ちはあった。今回必要にせまられて、はっきりそっちへ向う事になったようだ。

役を演ずるのに体験していないと気持ちがわからないから色んな体験をしておく、という役者がいるが、体験した気持ちを役に使うとおそらく生臭くて見ていられない。表現したものを一方的にお客さんに押し付ける演技になるだろう。第一殺人犯人やキリストやガンジーや、体験しようのない人を演ずる時はどうするのか。

サイコドラマを芝居ですといってお金とっているのも観た事あるが、私は嫌ではなかったけど、ダメなお客さんもいただろうな。


本当に、魂を鎮めたいのです。
死者も生者も。
自分をもおさまるカタルシスを経験できたらどんなに良いかと思うけど、それは結果であって、決して目的にしてはいけない。

そのすじの人が言うに、作演出の岡村は前世で大量殺人をやっていて、その罪滅ぼしの為に今世を生きている、という説がある。
真偽は定かでないが・・・そうだとしてなぜ私はそれに付き合っているのだろう。今回の2時間弱の芝居に、被害者側の言葉は一言も出てこない。だからこそ、たぶん私はこの場にいる必要がある。