本日は旧暦4月18日ですが、延喜五年(905年)四月十八日は紀貫之らが最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の編纂を開始した日です。
※改暦は何度もありましたので単純に旧暦でみています。

 

序文からは、編纂を開始したとも、あるいは奏上したともとれるようなのですが、この延喜五年に完成したのは間違いないようで、この延喜五年の和歌もあることから追加編纂がされたともいわれています。

 

この時は醍醐天皇の御代で、この二年前に大宰府に左遷された菅原道真が亡くなっていました。

 

つまり、古今和歌集は醍醐天皇勅命の和歌集です。二十巻からなり、「万葉集」に選ばれなかった古い時代の歌からも選ばれました。撰者は紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の四人で、いずれも三十六歌仙(平安時代の和歌の名人)と呼ばれる歌人です。

 

「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」の紀貫之の言葉で始まる序文は有名です。

 

そしてこの中に我が国の国歌「君が代」の原型が収録されていました。巻七の賀歌に記載されていたのです。賀歌とは祝宴の歌とされ、酒席で歌われるお祝いの歌のことをいいます。

 

 

この時は、まだ現在の君が代の形ではありませんが、これが今に伝わる「君が代」の始まりです。

 

我が君は千代に八千代に
さざれ石の巌となりて苔のむすまで

 

これが少しずつ形を変え、現在の形へと変わっていったのです。

 

実は、君が代は人気の題材で、君が代の和歌は沢山あります。

 

和歌は、当時の教養であるとともに娯楽でもありました。上は天皇から下は庶民まで、いい歌であれば誰の歌でも選ばれて編纂されたのが「古今和歌集」で、これは万葉集と同じです。そして明治時代まで和歌を学ぶ基本として「古今和歌集」は存在していました。その「古今和歌集」に載っていたということは、「君が代」は当時人気の歌であったということになります。

 

その「古今和歌集」からおよそ百年後、長和二年(1013年)頃編纂の「和漢朗詠集」にも「君が代」は載っています。つまり、百年後も、「君が代」は人気があったということになります。

 

その間に、歌の冒頭が「我が君は」から「君が代は」に変わり、他にも写本により言葉が少しずつ変わっているバージョンがいくつもあります。それは、この歌がそれだけ人気のあったことの証でもあります。


そうした君が代をたくさん紹介し、その移り変わりを解説までしているのが『君が代の歴史』です。

 


和歌には多くの意味が含まれる事が当たり前ですが、特に「我が君」から「君」に変わることでより一層多くの意味を持たせることができるようになりました。

君=天皇
君=天皇=日本
君=天皇=日本=日本人
君=男(き)と女(み)
君=男女=夫婦
君=男女=夫婦=家族
君=その場にいる人達
君=歌われた人
君=歌を聴いた人

 

つまり、「君が代」の「君」とは、尊敬する人、敬愛する人はもちろん、その状況に応じ、その対象を変えて意味しました。

 

「千代に八千代に」とは、八が大きいもの長いものを意味しますから、長い代、長い時間です。

 

「さざれ石」とは、長い時間をかけて小さな石が一つの石になったものです。

 

「巖となりて」とは、そのさざれ石が巌になるまでの長い時間。

 

「苔のむすまで」とは、はその巖が苔むすまでの時間です。


二重に三重に四重に長寿を願う歌が「君が代」だからこそ、祝の席で必ず歌われたのです。だから江戸時代後半、君が代を知らない日本人はいなかったとまで言われるほど人気がありました。

 

こうした多くの意味を併せ持つ「君」が代のいつまでも続く繁栄と永続を願う歌であり、千百年以上歌われてきたということは千百年以上の祈りがこもった歌であるということです。

 

そもそも和歌とは、祈り、言霊、また予祝として始まったものであり、今も皇室では大切に歌を詠まれています。

 

こうした言霊の力がこもっためでたい歌である「君が代」は江戸時代になると、婚礼や長寿のお祝いなど、なにかといえば歌われる歌となり、日本人なら誰でも知っている歌となったわけですが、既にこの時何百年も経っています。

 

明治時代になり、西洋に国歌があると知ったとき、江戸時代に続き誰もが知っていた「君が代」を国歌にしよう、となったのは自然な流れだったのです。

 

千年以上流行していた歌が、国歌になったのが我が国ということです。このような歴史のある歌を持つ国はほかにありません。これは我が国が誇りにできることの一つです。また、こうした先人達の願い、祈りの積み重ねを共有できる歌である我が国の国歌を否定することは、すなわち私達自身の存在をも否定することになり、国としての自己認識の喪失に繋がってしまいます。私たちのアイデンティティの一つともなりうる歌が「君が代」ですから、過去だけでなく、今現在の私達国民間全員で共有していくことで、未来の日本人との共有も約束されています。なんといっても、この歌には世界で一番長く続く国となった我が国が今も続いているという言霊の実績があるのです。

 

和歌にあらわされているのは、人々の心だといいます。そして社会や風俗が年月を経ても人の心とは今も昔も大きくは変わらない。だからこそ千百年以上の年月を経てもその心を現代の私たちも読み取って共感することができるわけです。また和歌は手作りの贈り物だともいいます。贈り物は特に心を込めて作っていきますが、それを紐解く楽しみが和歌の醍醐味であり、その心に感動するからこそ、千百年以上の心の共有もできるのです。長い年月の中で、多くの人がその感動を共有してきた歌の代表として「君が代」はあります。

 

歴史が古く、こうした共有するものがたくさんある我が国は幸せな国だと思います。なぜなら歴史が古く多いほど私たちを強く応援してくれるからです。

 

昨年は、ワールドベースボールクラシックで、君が代が海外でも注目されました。私たちがこの言霊であり予祝の歌である我が国の歌「君が代」を全世界に響かせることができたなら、世界中の人々への祝福となるのではないか、そしてそれはそのまま安寧な世の中への予祝となるのではないかと考えています。つまり、長く続いていくということはそれだけ世の中が安寧であることの証ともなるからです。機会があるたびに、君が代が日本だけでなく世界中に流れていったら、世界はもっともっとよくなるのではないか、と期待しています。意味が分からなくても、音霊ということもあるからです。

 

 

 

 

竹田恒泰さんが配信している学び動画の竹田学校での「君が代」をはじめとする国歌動画。古来どのように「君が代」が詠まれていたのか、歌会の例から竹田さんが実践します。また外国の国歌を知ることで我が国の国歌の特徴を知ることができます。

 

 

 

 

 

「オリンピックでよく見るよく聴く国旗と国歌」

 

ラグビーワールドカップ開催時に勝利の女神ともいわれた平原綾香さんの神々しい「君が代」。平原さんは、「君が代」の歌い方を研究して神々しい「君が代」を歌うようになりました。歌の上手いといわれる歌手やクラシックの方でも多くの人が失敗する「君が代」。「君が代」の独唱をされる方は下手に引き受けず、歌うことになったらきちんと勉強してから挑まれたほうがいいでしょう。一方で、「君が代」は斉唱がより感動的な歌となります。私は「君が代」を歌う機会には必ず歌っています。これほど一体感を味わえる言霊の歌はないからです。このような素晴らしい歌を歌わなかったり、貶めることほど愚かなことはありません。なんといっても千百年以上人気を誇ってきた歌なのですから。

 

↓以下で平原綾香さんの君が代を辿ったことがあります。

昨年の平原綾香さんの君が代

 

伝説となった野々村彩乃さんが甲子園で歌う夢を叶えた瞬間の感動的な「君が代」。とても美しく感動的です。私は野々村さんの「君が代」を三回生で聞いたことがありますが、いつ聞いても素晴らしく、何回でも聞きたいと思います。

今では野々村彩乃さんYouTubeのチャンネルもあって色んな歌をアップしています。もちろん「君が代」も。

 

令和への御代替わりに関連する映像で作られた4番まである「君が代」

 

私は君が代が大好きなので、『古今和歌集』というと君が代のことばかり考えてしまうのですが、歌集として『万葉集』と『古今和歌集』は基本といわれています。古今東西、人間の考えることは変わらないといいますが、そうした古の心の共有が和歌を知ることでできる私たちは幸せです。日本最古の歌集と二番目に古い歌集から、古の人達との心の共有ができるなんて凄いことです。過去を知ることは現在の私たちを強くするといいますが、千年を超える古の人達との心の共有は、最強ではないでしょうか。そうした日本人ならではのツールとなりうる歌集を知らないのはもったいないです。

 

 

歌会始の来年のお題は「和」。締め切りは九月末。

 

熱田神宮では9月に行われる献詠祭にて一般からも歌を募集します。たぶん6月になればお題の案内が出るのではないかと思います。

 

宮崎神宮では献詠短歌会の募集が毎月あり、締め切りは5日。お題は以下を確認ください↓

 

住吉大社では、献詠祭(締め切り11月15日)、観月祭(締め切り7月末)に献詠の募集があり、お題は自由です。

 

 

和の色を扱った時代小説『江戸彩り見立て帖 朱に交われば』には、「紫」が「ゆかり」と読まれる理由について、古今和歌集の歌からであるという下りがあります。そんないわれがあったのか、と検索しましたら三省堂の『全訳読解古語辞典』にも記載されているそうで、この歌は『源氏物語』における「紫のゆかりの物語」の源泉となった有名な歌だそうです。

 

紫のひともとゆゑに武蔵野の

草はみながらあはれとぞみる

 

たった1本の紫草があるというだけで、武蔵野すべてが愛しく思える⇒1つゆかりのものがあれば、そのすべてが愛しい、ということから、紫が「ゆかり」と読まれるようになったという、なんとも日本的な読み方のいわれです。古今和歌集の一首から、源氏物語、そして今も使われる言葉にまでつながり、令和の時代の小説のエピソードにまでいきつくのですから、日本の文化は奥深いではないですか。

 

凄くわかりやすい和歌の入門書。私のような知識のない者はこうしたガイドブックを片手に一歩一歩紐解いていくしかありません・・・。

和歌に親しめば、きっと歴代天皇の御製(天皇の詠んだ和歌)も知りたくなるはず。

 

 

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